2020年4月27日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】「安部公房」

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】「安部公房
芥川賞、読売文学賞、フランス最優秀外国文学賞などを受賞し、ノーベル文学賞に最も近い作家と言われた安部公房の絶望名言。
「弱者への愛には何時だって殺意が込められている。」  安部公房
頭木:13年間難病のため病院に入院しているか自宅にひきこももっていた時期がありました。
免疫力は今も落ちていて、コロナウイルスに対しては怖いです。
安部公房の代表作には「砂の女」、「箱男」、「密会」などがあります。
以前から安部公房は大好きでした。
安部公房は1924年生まれ。

「弱者への愛には何時だって殺意が込められている。」という言葉はいろいろな作品の中で何回も使っています。
「弱者を憐れみながらもそれを殺したいという願望、つまり弱者を排除したい、強者だけが残るという事なんだね。」と安部公房は説明している。
これだけだと弱肉強食ということのように感じる。
ウサギとライオンに例えるとウサギが圧倒的に多いとウサギが強者となりライオンは弱者となる。
個としての強者と社会的な強者は違って、社会的な強者とは多数派のことです。
「現実の社会関係の中では必ず多数派が強者なんだ。
平均化され体制の中に組み込まれやすいものがむしろ強者であって、はみ出し者がむしろ弱者とみなされる。」  安部公房
「共同体に復帰したい、共同体の中に逆らわずに引き返して、決められた場所の穴の形に自分を合わせたいと、強者願望とは意外に似通っているんだね。」  安部公房
社会に適応したいという気持ちはだれにもある。
一生懸命適応したい強者になろうとしているときに、適応しようとしていないもの、できない者に対して苛立たしい存在になる。
多数派にみんなでなろうというときに、その輪を乱すものに対して排除したくなる。

「例えば発明発見などについて考えても弱者が自分の弱い欠落を埋めるための衝動じゃないか。
いい服を例にとってみようか。
非常に体が強健で寒くても平気な奴にはいい服はいらない。
すぐにブルブルっと来る奴が寒さしのぎに衣服を発明する。
そういう弱者の組織力というものが社会を展開し、構築してゆくわけだ。
強者の論理に対しての弱者の復権、人間の歴史というものは根本的にはそうなんだね。
逆に言えば弱者の或る部分が強者に転化していく歴史でもあったわけだ。
よくよく見るとそこに踏まえている一つの殺意みたいなものが、我々の未来に対する希望みたいなものに水を差している部分が非常に多いわけだ。」  安部公房
弱者がその生きずらさ故に何とかしなければと社会を改革してゆくわけですが、弱者を切り捨ててしまったら、社会の進歩もとまってしまうわけです。
少数の弱いものは切り捨てても仕方がないという、そういう言葉の背後には安部公房のいうような殺意が少し込められているんではないかと思います。
でもそういう殺意は未来への希望に水を差すことになる。

「人類の歴史は弱者の生存権の拡張だった。
社会の能力が増大すればするほど、より多くの弱者を社会の中に取り込んできた。
弱者を如何に多く取り込むかが文明の尺度だったとも言える。」 安部公房

「ふと未来が今までのように単なる青写真ではなく、現在から独立した意志を持つ凶暴な生き物のように思われた。」    SF長編小説の「第四間氷期」の一節 安部公房
未来は日常の連続の先にあるのではなくて、もっと断絶したものではないか、というテーマです。
未来を生きてきた延長線上に描いてきたが、未来は延長線上ではなくて、ある時突然見なれない受け入れがたい未来が不意に現れるんじゃないかと、そういうことを言っている。
今の私たちには納得いくことではないでしょうか。
いま世界中であわてています。

「未来は個人の願望から類推のできないほど断絶したものであり、しかもその断絶の向こうに現実の我々を否定するものとして現れ、しかもそれに対する責任を負う断絶した未来に責任を負う形以外には、未来に関わり合いを持てないということなのです。」安部公房
理解できないほうが幸せで、断絶した未来ということを理解できるようになってしまった今の私たちのほうがちょっと悲しいです。

「未来は日常的連続間で有罪の宣告をする。」     安部公房
まあまあこのまま何とかやっていけるだろうとたかをくくっていた私たちも、今は有罪を宣告されてしまっている。

「失明宣告を受けた人間が最後に見る目で街を描写すること。」   安部公房
山田太一の「川の向こうで人が呼ぶ」という戯曲で、もう死ぬかもと思ってマンションの屋上から夕暮れの街を眺めるシーンで
「どうってことのない街並みの灯りなのに、文字通り胸がふるえるぐらい感動した。
どこかで子どもの泣く声がする。
遠くで誰かを呼ぶ声がする。
車の発進音、見降ろすと小さく人が歩いている。
みんななんだか少し急ぎ足だ。
あーその何もかもが懐かしくて悲しくて綺麗だった。
その興奮は翌日も続いた。
何を見てもよかった。
歩道の石の間から草が生えているのに物凄く感動したり、車の排気ガスの臭いまでもうじき別れると思えば懐かしいんだ。」
もう見られないかもと思って見るということは、こういうことだと思います。

萩原朔太郎の「病床生活からの一発見」という随筆の一節。
「子規の歌は長い間私に取っての謎であった。
何のために何の意味であんな無味平坦なただ事の詩を作るのか。
作者に取ってそれが何の詩情に値するのかということがいくら考えても疑問であった。
ところがこの病気の間初めてようやくそれがわかった。
私は天井に止まる蠅を一時間も面白く眺めていた。
床に差した山吹の花を終日飽きずに眺めていた。
実につまらない事、平凡無味なくだらないことが、すべて興味や詩情を誘惑する。
あの一室に閉じこもって長い病床生活をしていた子規が、こうした平坦無味な歌を作ったことが、はじめて私に了解された。」   萩原朔太郎
ずーっと寝ていることでものの見方が変わるわけですね。

今は世のみんながある程度命の危険を感じて家にこもっていたりしますが、安部公房、山田太一、が書いているように、世の中が美しく見えたり、正岡子規、萩原朔太郎のように部屋の中を見つめているだけで感動したり、そういう境地になったりすることはだれでもできる事かもしれません。
今までと違う見方で周囲を見てみるのもいいんじゃないかと思います。
安部公房はバッハが大好きで「バッハにはなによりも精神の塗り薬になってくれる優しさがある。」と言っています。
*バッハ 「ブランデンブルク協奏曲第五番ニ長調」

「選ぶ道がなければ迷うこともない。
私は嫌になるほど自由だった。」  「鞄」という短編小説の最後の文章 安部公房
ある青年が大きな鞄を持って雇ってほしいと言ってくる。
「この鞄のせいでしょうねえ。 
ただ歩いているだけなら楽に運べるのですが、一寸でも階段のある坂に来るともう駄目なんです。
お陰で運ぶことのできる道がおのずから制約されていしまうわけですね。
鞄の重さが僕の行き先を決めてしまうのです。」    安部公房
私の場合はこの鞄が病気だと思いました。
難病という鞄を持ったことで、恐ろしいほど限られました。
自分で道を選ぶのではなくて、病気という鞄を抱えてても進める道しかなかった。

「ユープケッチャの説明をしておきますと、これは甲虫の一種で足が退化し、自由に移動することができない。
代わりに自分の排便を餌にして、グルグル小さな円を描いて生きているわけです。
一日一回回るので時計虫とも言われている。  安部公房
ユープケッチャは安部公房「方舟さくら丸」という小説に出てくる安部公房が考えた架空の虫です。
自給自足のできる虫。
部屋の中にいて動かずに食べていける、これは一つの理想で、煩わしい人間関係もなく好きでもない仕事をするとか、そういったことから一切解放される。
「これは実際にはありえないんだけれど、僕らの中にはこういうものに対するあこがれというか、そう言う生き方をできればしたいと思うんだよね。
一方で同時に今度は外に拡張してゆく自己拡張の願望が自動的に対立物として出てくるんだ。」    安部公房

今はみんなが引きこもっているが、外に出たくなる。
今後は人に触れ合うという渇望が高まって来ると思います。
だんだん気晴らしとか癒しとかではやっていけなくなる時が来ます。
そういう時に重い文学が必要になってきます。
耐えきれなくなった時には重いものを読むと逆にそういうものがいいんです。
ドストエフスキーなどいざ読んでみるとはまります。
もやもやしていたものが本を通してくっきり見えてくる事もあります。