2020年4月14日火曜日

荻野アンナ(作家・慶應義塾大学教授)   ・「ユーモアと笑いを糧に 人生七十九転び八十起き」

荻野アンナ(作家・慶應義塾大学教授)   ・「ユーモアと笑いを糧に 人生七十九転び八十起き」
荻野さんは落語家の11代目金原亭馬生に弟子入りした落語家でもあります。
画家である母と日本語を解さないフランス系アメリカ人の船乗りの父との間の一人っ子として生まれました。
大事なことは言葉では表現できないという母に対して、大事なことは言葉でしか伝わらないと信じ、文学表現の道を選んで歩んで来ました。
16年前の2004年にともに暮らすパートナーに食道がんが見つかります。
荻野さんはパートナーとともに闘病の過程を書くことで、状況を動かしていけるのではないかと克明に闘病奮闘記を書き続けました。
その本は『蟹と彼と私』として単行本になり2008年に伊藤整文学賞を受賞しました。
掛け替えのないパートナーをがんでみおくり、悲しむ間もなく今度は90代の両親の看護が始まります。
そんな中荻野さんが55歳の時に自身に大腸がんが見つかります。
荻野さんは介護が必要な母を一人で置いておけないと、自分のがん手術の病院に母連れで入院しました。
身の上に起きることをすべて受け散れ、「人生79転び80起き」だという荻野さんの今の思いを伺います。

大腸がんに8年前なりました。
気が付いたら3人私の大事な人を看送って、あと残るのは自分を看送ることだけですね。
パートナーとは結婚して子どもを産んでと思っていましたが、母が反対してずるずると来てしまいました。
私が40歳ぐらいまでには子どもをと思っていましたが恵まれず、父が病気になったり母が怪我をしたりして、介護の適齢期になってしまって子どもどころではなくなってしまいました。
彼は優しい人だがゲイバーに行ったりしていましたが、母に隠さなかったんです。
大反対にあいました。
画家の母の世界観に私はすごく影響を受けていました。
母は言葉とあんまり仲が良くなくて、いいとか悪いことは言うが説明はしなくて、『背負い水』で第105回芥川賞を受賞した時には、この作品は不潔だと、お前がこの人と付き合っているとどんどん不潔な、人が好まないようなものを書くだろうと言われて、作中の彼が不潔だと言いたかったようだが、作品が不潔だと言ってしまったので、大ショックを受けてしまいました。
それまでだったら言われると彼とは別れるはずでしたが、いうことを聞かなかったということが本当に意味で大人になれた、親離れしたと思います。

母自身明石の田舎の倫理観を持っていて、私も中身は明石の昔の気風です。
修羅場を書くことによって乗り越えるということがあるので、書くというのは客観的に自分を見る行為なので、書くと乗り越えてゆくことができました。
正月におみくじを引いたら凶で、父のことかと思っていたらパートナーに食道がんが見つかりました。
淡々と彼は受け止めていました。
私がいろいろと調べました。
状況を『蟹と彼と私』の本の中に克明に書いています。
メモ帳とペンを持って手術着を着せてもらって手術の時には実際に見ました。
がんが進行していたので心臓に転移していたので、背中から切って一つ取るのに1時間かかりました。
そのあと喉とお腹と同時進行で胃を切って残りを首とつなげるということで一日がかりでした。
判ったことは人間って殺すのは簡単だけれども助けるのは本当に難しいと思いました。
書き終わるころには治っているといいねということで書き始めました。
書いている途中で彼は旅立ってしまいましたが。

母は彼ががんになったときに「好きなだけ看ておあげ」と言ってくれまして、その後は母と父とも高齢でして、父は腸の悪性リンパ腫をやって一命を助かって翌年腸閉塞をしました。
助からないかもしれないと救急士は言っていたが、父は指さして一言言ったんです。
最後の言葉かなあと思って聞いたら、看護師さんを指さして「ビューティフル」といったんです。
こういう人は助かるんですね。
天寿を全うする95歳まで看ましたが、今は反省していて、父に手間をかけすぎました。
母にもっと手間を掛けてあげればと思っています。
母は晩年は身体がボロボロで腰椎すべり症で腰が二つに折れているし、たばこをやっていたので肺が悪くなり肺気腫になってゆくということでした。
母をそのまま置いておけないので、私が手術する段になって、母も入院することを考えて、部屋は違いましたが母も同病院に入院することになりました。
母は煙草を吸うのが本当に楽しみで、見舞客が来た時には車椅子を押してもらって、外へ出て吸っていましたが、いないときには私が片手で車椅子を押してもう一歩の手には点滴棒を持って連れてゆきました。
私は1週間で退院できました。

母は幼い私をあやしながらラジオで古今亭志ん生の落語を聞いていました。
父は若いころは遊びまわっていて家を返り見ることがないことがありましたが、介護を通じて父と初めて親子になったという実感がありました。
父に手間をかけた分をもう少し母にかけてあげればよかったと思いました。
母が亡くなってみて違う風に見えてくるところはあります。
家族というのは与えられているのではなくて、みんなして時間をかけて家族になってゆくものだと思います。
別離は人間に取って必然ですから、その事も受け入れないと本当の意味での家族は完結しないと思います。
看送るのに後悔しないためには全力投球しかないと思って、できる事はやりました。
送った後はほとんど倒れてしまったが後悔はなかったです。
ですから父の時も同じようにしようと思いました。

父の死も後悔なく受け入れることができましたが、母に対してはしてほしいと思っていたであろうほどはできなかったので後悔は残っています。
後悔という形で縁が残っているんだろうと思います。
孤独は贅沢だと思っています、リリアン・ギッシュという女優さんが「孤独って何。」と聞かれて「贅沢よ。」と答えたといいます。
ただ周りに人がいないというのではなくて、人間関係のしがらみがほどけて行って、ようやく自分のことを自分が考えてればいいという段階に達したという事だと思うんです。
ラブレーの作品の中にある「たまたま起こるような事柄には影響を受けない精神のゆるぎない快活さ・・・」、精神のゆるぎない快活さを目指したいと思います。
前向きな精神が孤独を楽しむ精神にも通じるし、妙に流されないで行くというのが快活という精神のあり方だと思います。