2020年4月11日土曜日

山口文章(金剛峯寺 僧侶)         ・「奇跡の森と真言密教」

山口文章(金剛峯寺 僧侶)         ・「奇跡の森と真言密教」
1200年前に弘法大師空海が開いた真言密教の聖地高野山、高野山は標高800mの盆地でそれを取り囲む広大な森林は、人の手で守られてきた日本最古の人工林とも言われます。
もっとも古いものでは樹齢700年にもなる杉の大木が立ち並ぶ、全国でも類を見ない森です。
金剛峯寺 の僧侶山口さんは山林部という部署に所属し、この貴重な森を守っています。
高野山の森と真言密教の教えには深い繋がりがあると考える山口さん、大自然と共に歩んできた人生と真言密教の精神性について伺います。

金剛峯寺は昔から高野山を管理している山林が2000ヘクタールあります。
森林政策としては日本最古クラスの仕事をしていたと思います。
高野山は真言密教の根本道場ですから。
根本道場にふさわしい環境が大事です。
大学では農学部林学科で勉強していました。
日本全国の森林を勉強したり仕事をしに行ったりしましたが、どこにも該当しない様な森林です。
高野山の森林は奇跡の森で、物凄く高密度に植えられています。
本来ならあのようには育ちえないと言われています。
代々の山林部の人々、沢山の信者さんの力で集約的なお世話をしてきた結果と思います。
ほぼ毎日間伐作業が行われます。

高野山に117ある塔頭寺院の一つ報恩院の長男として生まれました。
子どもの頃大自然に囲まれて育ったことが自分の人生に影響していると思います。
遊び場は山の中しかなかった。
季節季節の山の香りを感じていた少年時代でした。
父からはお寺を継がなければ駄目だとは一回も言われませんでした。
12歳で仏門に入りました。
祖父から得度を受けました。
祖父は高野山の学問修行の師匠として多くの僧侶を育てました。
私は祖父の最後の弟子でした。
或る時に壇の上で祖父がポロポロ涙を流していて、どういう感覚なんだろうかという思いと、お寺に生まれたんだなあという感覚と、私もお寺をするんだなあという感覚があの時ありました。

県立高校で進路を決めかねずにいたときに、四手井綱英先生が書いた本に出合いました。
『進路の助言農学部 : ナチュラリストを志す若人へ』という農学部への案内の本でした。
四手井綱英先生は京都大学農学部教授で森林研究の第一人者として活躍しました。
本を見た瞬間に進路を決め、昭和55年京都府立大学農学部林学科に進学しました。
昭和55年の秋に四手井綱英先生が京都府立大学の学長としてこられることになり、運命的な出会いだと思って歓喜しました。
四手井綱英先生は「里山」という言葉の生みの親としても知られています。
直接の指導はありませんでしたが、見つけたら走って行っていろいろ聞きに行きました。
先生は現場主義者でした。
とちの実にはアルカロイド系の劇薬の成分が入っていて、食べると痺れます。
炭酸とか水にさらして毒を抜いてとち餅にして食べますが、同じ形をしているのに栗と違ってどうしてめんどくさいことをしてたべるのかと先生に聞きましたが、「これはな、神様が人間が食べるものと動物が食べるものをちゃんと分けてくれているものだ。」と言われました。
もっと大自然を考えなさい、人間も生きているが動物も生きているんだ、森もあって、空気もあって、太陽もあってみんな一緒なんだと、そういう事だと思います。

大学院まで進み林学の勉強をして平成元年大坂の材木の商社に就職しました。
全国の森林を回って観ることができました。
岩手県の湯田での山頂付近がはげ山になっていてどんなに植えても育たないところでした。
普通は苗木を植えると雪が積もって風から守ってくれるが、そこは風が強くて雪が積もらない。
物凄く冷たい風が吹くの木の中の水が凍ってしまって木の幹が割れてしまう。
しかし大きな切り株があり昔の人は育てる方法を知っていたということだった。
大自然の力を基本にしないとだめなんだという事だと思います、全部切ってしまうと駄目なんだという事だと思います。
会社に勤めて5年後に金剛峯寺から仕事の誘いが来ました。(32歳)
入って9年後に山林部の仕事を任されることになりました。

50年後、100年後、1000年後を見据えて山林部は管理すべきだと思っています。
1200年続いてきたことには訳があり、真言密教の神髄でもありますが、森林が持っている信仰の環境は絶対あると思います。
弘法大師が密教の大伽藍をここに建てようと思ったのは、大自然の力を受けやすいという事がここで確信できたからなんだと思います。
大日如来自体を宇宙の仏という事で、大宇宙の真理であり、大宇宙の不思議な力であるということで、いろんな力があり全部を含めて大日如来の現れだと考えるのが真言密教の考えです。
人間は動物としての本能的な大宇宙の力を感じ取れる力があるはずだが、あまり価値のないものだという風に評価されていると私は思っています。
本当の幸せを感じる力は、そういうものを感じる事が出来ないと、物質的なものだけでは幸せを感じる事は絶対できないと思います。
迷い、心配ごと、不安など、無明がすべての悪いものを生み出すという事を仏教ではあります。

「真言は不思議なり、甘受すれば無明を除く」
無明を除く為には甘受するための心を磨くという事、感覚(センサー)を綺麗にすることが必要な事かと思います。
「因縁」という言葉がありますが、本が私を森林に導いてくれましたし、高野山にもお世話になることができました。
振り返ったときにこうなるべきだったんだなあという感覚があります。
「因縁」がそうさせているんだと思います。
人との縁「仏縁」としては一般的に考えないが、一生人間が生きているのが幸せを感じるためだとすれば、幸せを感じるために生きているんだとすれば、すべての縁は絶対悪縁ではなくて良縁で等しく結び合うと考えていいんだと思います。
有難いという心を持つことが大事だと思います。
言葉では表しにくいが、気持ちいいという感覚をどれだけ気付けるか、どこにいても感じられるような瞬間を持てる状態を、自分で意識するという事が大事だと思います。