2020年4月2日木曜日

田原総一朗(ジャーナリスト)       ・「ニッポンへの遺言(1)」

田原総一朗(ジャーナリスト)       ・「ニッポンへの遺言(1)」
滋賀県彦根市の出身、85歳。
昭和、平成、令和になった今もTVと活字の世界で現役を貫いています。
一回目は日常、生い立ち、TVディレクター時代を振り返っていただきます。

新型コロナウイルスは中国から始まって、アジア、ヨーロッパ、アメリカで今後南米などとなって行くでしょうね。
ツイッターは10年前からやっています。(フォロワー数は108万人)
反応がすぐあるので面白いです。
人に会うのが好きで一日に4組ぐらい会いますが、それ以外はほとんど原稿を書いています。
寝るのは夜中の一時前後で、起きるのは9時です。
朝食後2,30分散歩します。
朝食は自分で作ります、妻が生きているころからそうしています。
今日も生きているよと伝えるために朝と夜に娘たちに電話をします。
去年から今年にかけての本、日中問題、「伏魔殿」(総理官邸について)、「人は120歳まで生きられるか」(生命科学の最前線について)、「脱属国論」(対米従属を続けていいのか)など多彩なテーマ。

戦争を知っている最後の世代です。
小学校の5年生の夏休みに天皇の玉音放送がありました、これが大きいです。
小学校5年生の時の一学期に先生が「諸外国が植民地化しているアジアの国を独立解放させるための戦争である。君たちも早く大人になって戦争に参加して天皇陛下のために名誉の戦死をするように。」といわれてその通りだと思っていました。
戦争が終わったらしい、負けたらしいという事で2学期になり占領軍がやってきた。
先生のいう事、ラジオ、新聞のいう事が180度変わった。
一学期まで日本の英雄としてラジオ、新聞が褒めたたえていた人々が、二学期になると占領軍に逮捕された。
戦争中は東条英機は総理大臣でいかに素晴らしいかとか言われていたが、二学期になると逮捕されて、ラジオ、新聞も逮捕されて当然であると、いかに彼が悪いことをしたかと、価値観が180度変わって、これが私の原点で、先生、マスコミも信用できない、国も国民を騙すという事が原点です。
ジャーナリストになったきっかけでしょうね。
情報をきちん取材して自分で確かめないといけないと思っています。
新型コロナウイルスにしても韓国に比べて検査数が少ないので、本当は検査すべきなのにしていないのではないか、検査を多くすると感染者の数が多くなるのでそうしないために検査していないのではないかと、そういう疑いもあります。

滋賀県立彦根東高等学校に入学しました。
高校の時には作家になろうかと思いました。
作家を志して上京し日本交通公社(現JTB)で働きながら早稲田大学第二文学部日本文学科(夜学)に行きました。
家には必ず仕送りをするという事で親を説得して東京に行き来ました。
同人雑誌に投稿しましたが、駄目でした。
石原慎太郎さんの「太陽の季節」、大江健三郎の作品を読み、リアリティーがあり「二人の文章を読んでこれはダメだ、全く敵わない」と作家を目指すことを断念しました。
ジャーナリストになることを目指して、昼間の早稲田大学第一文学部史学科に再入学しました。
卒論は森鴎外にしました。(タイトルは「ドロップイン」)
軍医でありながら当時の政府を平気で批判することを書いていて、これはいいなあと思いました。
いろいろな放送局、新聞社を受けましたが、全部落ちてしまって、岩波映画製作所に入社しました。
カメラ助手で不器用で困りまして、降ろされてしまいました。

1960年安保反対のデモに参加していました。
「楽しい科学」という番組の助手をやらなかという事でやっていたら、TVなので毎週なので台本を書くことになりました。
小児麻痺が流行っていて、小児麻痺のウイルスのフィルムがあることが判って、小児麻痺の脚本を書いて現場を担当して、演出家に見せたらだめだと取り直してこい言われました。
一緒に入った清水邦夫さんから自分で編集したらどうかといわれて、ヌーヴェルヴァーグの手法を取り入れて初めて編集しました。
放送したら賞をとることになってしまいました。
TVのいい加減さに興味を抱き、TV東京が開局しようとしていて、何とか行けました。
製作費は他局と比べて1/3程度なので、対抗するにはどうしたらいいか考えて、危ない番組、スポンサーに直接売り込むしかないと思ってスポンサーがOKしてくれれば手前勝手な番組ができるので。
自由に番組が作れて有難いことでした。
『ドキュメンタリー青春』で寺山修司さんがが主宰していた劇団「天井桟敷」の舞台『青ひげ』に感銘を受け劇団に入団したカルメン・マキさんの取材をしました。
カルメン・マキさんが歌を歌いたいという事で、寺山修司さんが作ってやろうという事で「時には母のない子のように」(作詞:寺山修司、作曲:田中未知)ができました。
売れていろんなTV番組に出るようになった。

ジャズピアニスト・山下洋輔さんを撮ろうと思った時に山下洋輔さんが「ピアノを弾きながら死ねるといい」といったため、、バリケード封鎖されていた大隈講堂からピアノを持ち出して山下さんに弾かせることを考え、中核派から分裂した組織「反戦連合」のメンバーたちが運びだし、そのピアノを山下さんが演奏した、いろんな組織、先生も聞きに来ていたが、内ゲバは起きず静かに聞いていた。
私の音楽とは全く外れたが、山下さんは最高の演奏だったと言う事で、彼はその後レコードにしました。
例えば大隈講堂からピアノを持ち出す、これはやらせで、やらせ的な演出をして、その結果としてどうなるか、そういう手法を取りました。
対象と深くかかわっており、下手をすると相手を壊す可能性があり、これがドキュメンタリーの一番の問題だと思います。