2014年9月29日月曜日

パックンマックン(お笑いタレント)     ・萩本欽一の人間塾 

パックンマックン(お笑いタレント)        萩本欽一の人間塾 
最近感動したこと。
(パックンマックン)2年前子供と一緒にウオーキングをしていたら、お爺さんが一人でラジオを持って、一人でラジオ体操をしていたが、久しぶりに行ったら、いつの間にか100人になっていた。
お爺さんは使命感を感じて、休めなくなった。
(萩本)お地蔵さんが綺麗に掃除されていて、おばあさんが30年掃除しているとのことで、「父ちゃんが戦争にいって、あのお地蔵さんに父ちゃん帰してくれ、父ちゃん帰してくれ」と言っていて、お願いだけだと悪いと思って、掃除をしたんだって、そうしたら父ちゃんが帰ってきたとの事で、本当は止めたかったんだけど、そうもいかないし、止まらなくなって、今もやっているそうですが、でも不思議なもんで、あんなに待っていた父ちゃんは直ぐに死んでしまったとの事。
でも今もやっているとの事。

(萩本) 子供にギャグを言うものではない。 小学校の1年の子供に通信簿が酷かったので「勉強しないと間抜けな顔になっちゃうよ」と言ったら、ある時お客さんが来て、他の二人は「いらっしゃい」といって迎えたが、その子だけが行かないので、どうしていかないのか聞いたら「俺、人様に見せる顔ではないからな」と言って気にしている。

アメリカの好きなところ。
(パックンマックン)ハグするのが羨ましい。
アメリカでは親孝行は義務付けられているというか、お母さんが一番大事。神様の次に偉い。
一番酷い言葉はおかあさんをけなすこと。
母親を大事にする文化。

欽ちゃんに聞きたいこと
座右の銘  大好きな言葉
(お客さん) 「一生懸命」 「プラス思考」
(萩本)  「自然」 悩むは自然ではない 時の流れに、のような  悩まない
足を踏まれて「痛い」とは言わずに「踏んじゃいましたね」といって、我慢したから小さい運が来るだろうと、そうして小さい運が積み重なるのではと思う。
悩むと素敵な人が誰も出てこない、悩まないと素敵な人が出てくる。

アドリブのきく人
(パックンマックン)酒を飲んだ帰り、カレー店にいって、叔母さんにご飯半分にしてくださいと言って、半分にしてもらったが、友だちがその半分のご飯を下さいと言って、皿に半分盛ってもらい、友だちが「カレーうまそうだな」と言ったら、叔母さんがその皿にカレーを盛ってくれた。  粋なおばさんだった。

(萩本)相棒とネタを打ち合わせる、夢を語ると、喧嘩をするので夢を語らない、二郎さんとは話をしない、付き合わない、だからずーっと仲良し。

(萩本)コントで台本は無い。 書いたら出来ない。 二郎さんにマラソンと言って、私はコーチ、あんたは選手、じゃあと言ったら終わっている。 そうじゃないとできない。
本を書くと活字が頭に浮かんできて、活字を追っかけているだけで中味がおかしくならない。
活字が無いと、お客さんを何とか可笑しくしようと、そのことだけ考えてやれば、おかしくなる。
55号は同じネタを二度やらないと言っていたんだけれど、同じコントを二度やれない。
二郎さんは30年付き合ってどういう人間だか分らなかったが、亡くなる寸前、最高だなと思ったとき、気が付いた時にもういなかった。

(マックン) パックンのいいところは、ネタを全然覚えない。
アドリブが物凄い、お客さんに受ける。 
(萩本)お客さんをどうやって楽しくさせるのかが一番で、その次ネタを思いだすこと。
(パックン) 相い方がアメリカ人というこの危険な状態に挑戦したマックンは素晴らしい、凄いと思う。
いつ帰国してもおかしくない、しかもハーバード卒業だし、日本の芸能界で長くやるはずがないじゃないですか、そんな危ない怪しい僕と組んだマックンが素晴らしい、マックンが僕を愛してくれていると思う。

(萩本)夫婦で素敵だなあと思ったのは、お父さんが亡くなってしまって、葬式であーら欽ちゃんて笑っているので、坊さんが何かあったんですか、といったら、なんも不安もない人で100%幸せで此の人から泣くという事が私にはないんですといったら、失礼な質問をしましたとお坊さんが言ったとの事。
亡くなる時に、お母さんがお父さんのおでこに、「お父さん 凄い幸せだったわよ」と言ってパンと叩いたという事だった。 最高に幸せを頂くと、泣くのではなくて、有難うと、そういうのはいいなあと思った。


2014年9月28日日曜日

五木寛之            ・歌の旅人(奈良県)

五木寛之                歌の旅人(奈良県)
「風の王国」著書 で奈良県にはよく通った。
学者の方とかお付き合いがあり、古墳、お寺とか、普通のぞけないような所を見ることができた。
二上山 (にじょうさん、ふたかみやまともいう。)
当麻寺、法隆寺 東大寺 室生寺・・・など沢山。
日本の歴史の発祥の地であり、心のふるさとの様な感じ。
国宝の木彫の半数以上が奈良県にある。
正倉院 シルクロードから渡来した楽器などいろんなものがある。
1年通っても見切れないほど、いろんなものがある、宝物の山みたいなのが奈良。
薬師寺 東塔(奈良時代のもの、国宝)、西塔 再建された棟ははではでしいが、1000年経てば味が出てくる。
奈良は華やかな都だった。

「燃える秋」 作詞 五木寛之  歌 山本純子 ハイファイセット

アジアに開かれた国際的な都市だった。
仏教伝来して、奈良に大きなお寺ができた。
光明皇后が蒸し風呂(サウナ)を作って、病んだ人を介護された、というところがそのまま残っている。
修二会 お水とり。
教えとしての仏教だけでなく、音楽、ページェントと一体の時代が連想される。
和辻哲郎 古寺巡礼  
戦争以前は さびさびとして、荒廃していたが、戦後政府が力を入れたりして立派に再建された。
奈良を舞台に様々な作品が生まれている。
唐招提寺 鑑真 

堂本剛、田中政治、青山テルマ 俳優新珠三千代、尾野真千子 、 松下奈緒、吹石一恵、
城島 茂、明石家さんま・・・。

「ガラスの少年」 歌 堂本剛

万葉集。
万葉賞、国際的に日本研究を続けている研究者たちの中で、注目すべき仕事をした方たちに奈良県から送る賞。 中西進、ドナルド・キーン・・・。
奈良の自然 飛鳥、一木一草にまで古代の物語とか、エピソードが沁みついている土地だから、人々が集まるんだんなあと思います。
仏教の文化と神道の文化が混在して、一つの独特の自然観、宗教観を形作ってきたというところがある。
源信 「往生要集」 極楽浄土、地獄のあり様を如実に描き出して、平安時代から日本人の中での地獄極楽の観念が定着してゆく。
日本人の精神史の上で、万葉の時代から奈良は非常に大きな土台を作り上げたところだと思います。

「平城山(ならやま)」  歌 立川 清登

産物 書道の墨、 割り箸(国産の割りばしの70%)
高田 好胤 一緒に食事をした時に、ふところからマイ割り箸を取り出して、もったいないからと言って食事をしたのを思い出す。

水平社運動が最初に始まった土地 西光万吉 水平宣言を書いて、西光寺にお参りにいった。
基本的人権が奈良から光が日本全国に広まっていったことは忘れてはならない大事なことだと思います。
ノーベル化学賞 福井 謙一  考古学者 網干 善教  樋口 清之
ソゴウ創設者、十合伊兵衛 武田薬品創業者、武田長兵衛 陶芸家富本 憲吉 画家 上村 松園
作家住井すゑ  漫画家楳図かずお  映画監督 井筒 和幸  河瀬 直美
スポーツ サッカーの楢崎正剛 野球 江夏豊  柔道 野村忠宏  ボクシング村田 諒太

正光寺 住職が若いころNHKの放送記者をやっていて、高松塚古墳の時は大活躍をした。
奈良は裏に回ると民家が沢山あるが、路地などは、ふぜいがある。

作曲家 松村 又一 中村 泰士 
「愛は傷つきやすく」 作曲 中村 泰士  歌 ヒデとロザンナ

奈良漬け  
平城京の跡地から、かす漬けうりと印された木簡が発掘された、奈良漬けの様なものが古くから食されていた。
シルクロード経由でいろんなものが一杯もたらされた。 
学問だけでなく、植物、食物、衣服、建築など外国の文物が入ってきて、国際都市として、豪華絢爛たる風景が広がっていたのが奈良。

高野山が女人禁制で途中までしか入れなかった時期に、室生寺だけが女性を受け入れた「女人高野」という別名がついた話に感動して、女人高野を書きました。

「女人高野」 作詞 五木寛之  歌 田川 寿美

2014年9月27日土曜日

神居文彰(平等院住職)     ・修理は何をあらわしたのか

神居文彰(平等院住職)    修理は何をあらわしたのか
56年ぶりの大規模な修復作業を経て、よみがえったばかりの平等院鳳凰堂についての話です。

日本の古代建築は約150年に一度修理をしてゆく事が出来れば、継続する事が出来ると言われています。
平等院鳳凰堂はデザイン、美しさを追求したため、その半分、60~70年に一度中規模修理が必要で、130~140年に一度大規模修理が必要だといわれる。
昭和26~31年にかけて行った昭和修理、大規模修理。
今回は中規模修理。折り返し点。
日本は木の文化なので痛みが早い。 必ずメンテナンスが必要。
今回の修理は  
①鳳凰堂の外装の色、塗装(枯れている色が無くなった元の鳳凰堂の方が美しいのではないかとの議論があったが、新しくする) 
鳳凰堂が赤く塗られたら落ちついた色で、議論が無かったかのようだった。
②瓦 平安時代の瓦が現代まで使われていることが判った。 
 5万点のうち1500点が平安時代の瓦
 一番状態が良くなかったのが昭和の時代のもの、割れている瓦は非常に成分、粒度が均一。
 平安時代のは石ころ、大きい粒、小さい粒があり不均一、その方が丈夫だった事が判った。
③金工品等

常見 永久にそのままだという事
断見  全てが断絶する、無くなってしまうと考える。
様々な結びつきによって、現れたもの、両方に偏ることなく、連綿と続いてゆく事。
顔には約6兆個細胞が有るが、細胞は分裂を繰り返してゆくが、一つの細胞が50回分裂を繰り返すと、その細胞の命が終わる。
20時間ぐらい細胞分裂が繰り返され、50回、60兆(身体全体で60兆)  60兆の細胞が入れ換わるのに約1月。
一月前と今の顔は違うのか? 変わっていかない。

世界遺産 2つの考え方 
①オーセンティシティー(authenticity 真正性) 間違いなく正しくそのものが伝わり続けているか? 
②インティグリティー (integrity 真実性)  本当のものなのか?
古代建築を見た役員が1400年前と言うけど、或るところは江戸時代、明治、 どこが1400年前なのか?

例え、部材が変わっても、調達法、削り方、技法、理念それは変わることなく今まで続いている。
非常に豊かな真正性の考え方だという事で日本でも世界遺産の登録が進んできた。
修理の時 鳳凰堂の周りに丸太と番線だけで、鳳凰堂を覆った。(1000年の歴史で初めて)
修理の場所だけ足場などを作っていた。
鳳凰堂は4つ 中堂、翼廊(左右)、尾廊 で出来ている。
丸太の数 鳳凰堂を覆うのに、5000本、 1本300kg  建物を覆い修理をする。
鳳凰堂は東を向いている。 夕方には真背中に太陽が沈んで行く。
鳳凰堂の背後にはかつて、おおきな小倉池があったが、水蒸気が上がるので、空気中に沢山の水分が入り、青い光を吸収するので真っ赤な夕日を見ることができる。
日想観 3~4世紀 中央アジアで此の考え方が非常に強く思想化されてゆく。 当時仏を見たい。
見るための方法を模索されてゆく。
沈んでゆく夕日、その姿をいつまでも見ることができる、そんなメディテーション(Meditation、瞑想
これが仏の極楽浄土(?よく聞き取れず)を見るための最初にすることだといわれる。

必ず迎えなくてはいけない、誰も避けることのできない、いつ来るかわからない、その時間。
日想観  日本では日が沈んでゆく時、眠る時、眠っている時も、私を守ってくださいという、一息、一息が救済を願う声だという思想が出てきたり、眠っている時も必ず守ってくださっているという時間の表れだとされる。
眠る時「お休みなさい」・・・これは安らかに、安のんで、穏やかな時間を、という  声を出して確認しあう。
鳳凰堂は真東を向いている、沈む夕日、真っ赤に燃えてゆくそこに映える鳳凰。
鳳凰のつま先まで金色をしていることが判った。
鳳凰は青銅で出来ている。 屋根の上に、鳳凰が降り立つと云う事を思ってこの鳳凰を据えた。

鳳凰堂は大切な命の先の命が生きる場所の御堂を再現したものであるという事を、改めて感じていただけるのではないかと思います。
来光図が描いてある。  お迎えの瞬間。 男の人が横たわって、周りに祈る人ケアをする人、泣いている人が描かれている。 別の部屋には普通に談笑している姿も描かれている。
古文書に書いてあるが、病んでいる時、唇が渇くから綺麗な水でうるおしてあげなさい、亡くなった後の儀礼ではなく、病んでいる時の繊細な配慮。
看取ってあげなさい、だから私たちかけつけようとするでしょう、間に合わなくても、最も近しい人がその時間を共有出来るように、そばにいこうとする。
鳳凰堂の中にはそのような絵が書いてあります。
西側の扉の絵が日想観の絵。 左側がほとんど水(海)、そこに沈む夕日。
平等院の庭は浄土庭園の完成でもある。(日本の原風景を落とし込んでいる)

沢山のハスが描かれているが、銀箔で描かれていることが判った。
白蓮華 写実的に描かれているものだった。
螺でんで 蝶が描かれている。
昔は古い塗装の上に塗っていたので、古い塗装が内部に残っていて、酸化鉄系、鉄を焼いて鉄が混じった土を焼いて赤くしたもの。
焼き方によっていろんな赤が出る。
鉄系の顔料は非常に持ちがいいので色がなかなか変わらない。

扉には四季の絵が表現されている。
変化してゆくものを受け止めて、その時その時、そしてこの生きざまに振り向けてゆく、四季の捉え方、それを鳳凰堂が表現してあった。
鳳凰堂の表現は、自然の中に在り、自然を表現し、命のありようを考える。
自然と一体化している、自然に解放された空間ではないかと思っている。
鳳凰、社会が幸せになると降り立つ鳥です、喜びの鳥。

(わたし自身あまり内容を理解できず、散漫な表現になってしまいました事をお詫びします。)

2014年9月24日水曜日

柿沼康二(書家)         ・書も生き方も俺流で

柿沼康二(書家)     書も生き方も俺流で
44歳 金髪でひげと言う書家らしからぬ姿で、迫力ある文字を書く事で知られる柿沼さんは、お父様の書家、柿沼翠流さんの指導で5歳から筆を持ち、若い時から毎日書道展や独立書展などで多くの賞を受賞しています。
東京学芸大学教育学部芸術科を卒業、2007年にはNHK大河ドラマ「風林火山」の題字を書くほか、2012年にはNHKの趣味道楽で講師として出演しました。
王 羲之や空海などの古典を模写する事を臨書と言いますが、この臨書がとても大事だと言います。
柿沼さんは吸って吐いて自由な書をモットーとしています。
これは自分の眼と心で古典から書の美を吸収し、純粋な気持ちで自分の書を吐き出すという事です。
いつも新しい表現をして、独自のスタイルを築きあげている柿沼さん、書を現代アート迄昇華させたと国内外で高い評価を得ています。

生活全般が書と言う表現に結びついているので、筆を持っていなくても、作品や作品の一部だと思っているので、自分の字を自分の表現を良くするために、筆を持つ以外の仕事もやっているというところがあります。
金髪姿、最も誤解される書家かもしれない。
海外でパフォーマンスをやってほしいと言われた時に、日本ブームがはやり始めたときで、和服に髪型も金髪にしたが、受けた。
固定概念を崩すヒントになった。
「風林火山」 うまく料理出来たら伝説になると思ったが、出来なかったら笑い物になると思った。
36歳の時だった。

映画の題字も多かったが、NHKの趣味道楽、今までの書道講座とは雰囲気が違うものだった。
最初は字を書く行為、字を書く行為の中から、自分の心を入れてゆく。
書の世界に絶対不可欠なのは、臨書、弘法大師、王 羲之等の書き残した歴史的に残されてきたものをテキストとして模写する作業が凄く大切で、わたしは1日で5時間から10時間やったりする。
臨書をやって、そこで勉強したものがもろに、作品に出てきてしまう。
臨書をやったことの無い人の書いた字は型なしの字になってしまう。
書は型がある。  型なしと型破りは違う。
字は怖い、アルファベットと違って、漢字一つ一つに魂がある、神様がいるんですよ。
「風林火山」題字は何百枚も書いた。 
風林火山の概念とは何ぞやと考えながら、筆を紙に叩きこんでいった。

昭和45年生まれ、44歳 栃木県矢板市生まれ 父が書家。
3兄弟の末っ子 上二人の方が全然巧かったが、辞めてしまった。
中学校3年で新聞社の県内での特賞(No1)を取った。 (小学校から高校生が対象だった。)
父親が「生きる」と言う字をほうき見たいな30cmの毛の長さで、汗だくで書いていて、なんで字を書くのに父はこんなに叫びながら書いているんだろうと、思っていた。
字、書 は一般の方は形ありきになっていると思うが、父親譲りだとは思うんですが、動きが形を作りだすという事に私はおもしろさを感じた。
ダンスのような動きで、書いていって、軌跡が残っている、残った軌跡が作品。
父親譲りでアートとしての書をやっていた。
形を追うと動きが甘くなる、動きを追うと形が甘くなるが、ほとんどの方が形でしょうね、結果を見ちゃう、私は動きなんです。

こうやるんだと気持ちがピュアであるほど、やりがいがある。
結果が違うところに辿りついてしまっても、美しいと思う。(心を打ってくる)
形を主にした字は私の中では失敗作です。 自分の思いが入りきれていない。
それは何かに左右されている、自分以外のもの、お金、人目、評価なのか。
東京学芸大学教育学部芸術科に入学 書道の専門家を育ててゆく所、皆さん上手でした。
16歳の時に手島右卿 昭和の3筆の一人で、半年間だけ師事する事が出来た。(亡くなってしまう)   ずっと弟子を取っていなくて最後の弟子だった。
父が手紙を書いて、会ってもらえうように段取りをして、会う事が出来た。
1時間の稽古の間に、ずーっと冷や汗が止まらないぐらい、緊張した。
次から何か書いて持って来いと言われて、弟子入りが許されたようだった。
そのころもぐれていて、心配した父が動いてくれたようだった。
本物に合わせた瞬間に私は驚いたし、見えない「気」見たいものが出ていて、それが私にとっては事件でした。
やばい、適当に書道はできないと、そこからスイッチが入った。
父は男が仕事をやるなら、日本一になれるような仕事をしなさいと、言っていたので、書ならばいけるのではないかなあと思って、大学もそっちを狙おうと行きました。
父親には感謝です。
上松一條先生 臨書の虫と言われたたぐらいに、手島先生よりも上松先生の方がやっていたのではないかと思う。
手島先生は天才、上松先生は努力の人、上松先生に16年間徹底的に臨書の勉強法を叩きこまれた。
創作を持って行ったら怒られた。  古典の勉強していないのは書家ではないと。

大学4年間も上松先生の稽古に行くのが主で学校はさぼっていた。(学校に行く時間が無かった)
1日15時間ぐらい書いていた。
20歳で独立書展で特選、毎日展でも入選、毎日賞を25歳で取る。
受賞したころには、表現したい作品ではないと気付いた、賞を頂く様な作品は本当のアートではないと思いました。 賞取りレースに合わせた作品。
25人いる審査員に出来るだけ手を挙げてもらわないと賞は取れないので、自分の表現したい物を100%やったら絶対手が上がらない。
60~70%での方向を見いだしたら、ぴったりあった。
自分がやっているのは芸術ではないと思った。 
このままやっていれば書道界では出世するとは思ったが、芸術は置き去りになるので、このままではいけないと思って海外に行った。

ニューヨークにはアートに関する秘密が何かあるだろうと思って、ニューヨークに行った。
失敗か成功かと言われたら失敗でしょうね。
なにか個展をやって帰りたかった。
個展をやろうとしていろいろトラブルがあり、個展も開催できず、お金でも苦労したし、言葉でも苦労してアパートに引きこもりになってしまった。
最後になんとか展示会をやって帰ってきた。(当時はもうぼろぼろになって帰ってきたという感じ)
それがあっていまだに続く海外の展開にもつながっている。

地元の母校で先生をする。
書道=古臭い を払しょくしたかった。
NHKが,ユニークな先生がいるという事で、45分のドキュメント番組をする。
学校に朝から晩まで電話がかかってきて、迷惑になると思って学校をやめた。
アートではどんな事をやってもつかまらないから、紙の中で暴れろ(頭を使って、想像して字をモチーフにして自分らしいものを表現する)と言った。
1時間目は臨書をやらせる。(吸収する) 2時間目はお手本が無くて、1時間目に勉強したことを言葉、漢字に書く。 (吐き出す)
日常生活から色々なものを吸収して、見たり、栄養を取って、それを使って話したり、動いているので、バランスが崩れると良くない、病気になっちゃう。
楽しんで吸いこまないといけない、栄養にならない。
弘法大師の「はね」の部分を一つの画として書いてるんだ、弘法大師ははねないと、はねない表現をする。  子供達にそういった書道の面白さを伝える。

弘法大師は筆使いは360度使って書くが、筆の一面しか使わない。
弘法大師は自由自在に手首を動かして書いていたよ、と言う風にいうと子供達は楽しんでやる。
筆を一番理想的に動かせるのは、右45度に傾けるところから、ひらがなができてきたので、360度使って書くという事は衝撃的だったかもしれない。
アートとして成立する書を極めてゆくしかないと思う、
管理の行き届いた美術館に作品を預かってもらって、自分の作品が何百年後まで残せるのか、きっと忘れられたくない、そういった作品を作っていきたい。

2014年9月23日火曜日

村田裕之(東北大学特任教授) ・支えたい、豊かな老後

村田裕之(東北大学特任教授)    支えたい、豊かな老後
総務省が敬老の日に合わせて発表した今年の9月15日現在の高齢者の人口推計によりますと、日本の65歳以上の高齢者人口は、3296万人で総人口に占める割合は 、25.9% 人口、割合ともに過去最高になりました。
4人に一人が65歳以上と言うこの時代、村田さんは団塊の世代、シニアビジネス、高齢者などをキーワードに、新しい事業の企画、立ち上げなどを行う一方、東北大学で特任教授を務めています。
村田さんは新潟県出身の52歳、東北大学大学院終了後、大手石油会社などいくつかの民間企業を経て、2002年に自分の会社を設立しました。
企業と大学の産学連携などを通じて、様々な提言を行っています。
村田さんがこうした事業にかかわる様になったいきさつや、豊かな老後のために何が必要か、等について伺いました。

昔、国連が定義  高齢化率=65歳以上の人口割る事の全人口 7%を越えると高齢化社会と言います。
14%を越えると高齢社会、21%を越えると超高齢社会という。
日本は25%を越えている。  世界一です。  今後も続くので世界も注目している。
政府がどういう政策を執っているのか、民間企業がどのような商品サービスを売っているのか、そこらへんに興味を持つ割合が増えている。
1950年ごろ、高齢者の定義が55歳だった。
お年寄りと言う時は社会的弱者 アクティブシニアは活動的でお金時間もあってみたいな感じ。
豊かな老後を迎える必要なキーワード、一番重要なのが生き甲斐(purpose of life)
生きる目的(purpose)を明確に持っている方は、豊かに暮らしている。
それが無いと、何のために私は生きているんだと、生きていてもしょうがないと。
私の90歳近い母がまさにそうで、脳梗塞で右の足が麻痺しています。(平和で無く色々ある)
生きていく事の意味、目的が明確に自覚している方は、生きいきとされている。

高齢社会にかかわりを持つ様になったいきさつは?
会社で、新規事業を企画して立ち上げる仕事をしていました。
マルチメディア、インターネットなどをやっていたが、1999年 介護保険が半年後に迫るころに、調べていたら、全部介護保険一色だった。 介護に必要な人は2割しかいなかった。
残りの8割は元気な人達、その人向けの商品サービスが、実は本命ではないかと考えた。
異業種の企業と企業連合を作って事業を立ち上げることを提案して、注目されてそこからがスタートです。
しかし、人数は多いが求めているものが違う、価値観も違うと言う事が判ってきて、アメリカに視察に行ったらいろんなことに気が付いた。
皆自分の国のことしか知らなくて、お互い何にも知らないという事に気が付いた。
もっとグローバルにやってゆくとビジネスチャンスにもなるし、勉強にもなるとおもった。(日本が一番高齢化が進んでいるから)
先駆けて解決すれば、世界にイニシアティブをとれる、と思った。

カレッジリンク型シニア住宅を今から10年前に提案した。
老人ホームと大学をリンクさせて、老人ホームに若い学生が来て一緒に勉強したり、入居者が大学に行って若い学生と一緒に勉強するとか、こういった物を事業化できないかと、神戸で行ったが、リーマンショックで全然売れなかった。(今は形を変えて残ってはいるが)
7,8年かかわったので、相当へこんだ。
新規事業は上手く行かないほうが多いが、思い入れがあったのでがっかりした。
昔は老人ホームは姥捨て山と言われていたが、そうではなくて若い学生達と一緒になって、勉強すれば生きる目的がはっきりして元気になる。
アメリカ 平均年齢83歳なのに要介護率が5%未満だった。(若い連中と一緒に学んでいるから)
日本に作ればと思ってやったが駄目だった。

海外のいろんな方が私のところに問い合わせをするようになった。
日本だけではないと実感した。
リーマンショックの後ぐらいから、シンガポール、韓国、いろんな国から来て、いってみると日本の介護保険はどうなのかとか、日本のビジネスはどういうものがあるのかと、興味があるのだと知った。
日本は先頭に今のうちに行くべきだと感じた。
いいことでも悪いことでも経験を積むことは、絶対に後で武器になるので、理屈ではないものがある。
人間、或る程度生活水準が似てくると、ある年齢になると、国、言葉の違いにかかわらず、求めるものは共通点が多い。
スマートエージング 川島 隆太先生と一緒にやっているが、 歳を重ねるごとに賢くなってゆきましょう、成長しましょう、歳をとってもいつまでも我々は努力すれば、成長を続けられるという意味が込められている。
世の中、高齢化にかかわる大変な問題があるが、より賢い解決策を考えていきましょうと、この二つの意味をかけています。

どうやったらスマートエージングを出来るか?
①身体が元気で無いと駄目なので、有酸素運動をしましょう。
 血圧下がる、中性脂肪が減る、コレステロールが減る。
②筋トレもやりましょう。 歩いているだけだと筋肉がつかないので、脚と体幹部を鍛える。
③脳のトレーニングをやりましょう。  大きな声で朗読する。 手で書く。 簡単な計算を素早く解く。
 自分史 自分の生きてきた歴史をキーボードではなく、手で書いた方がいい。
 手で書くという行為は見た目より、脳のいろんな場所を使うので活性化にはもってこい。
④年金以外の収入を得る為に、ちょっと仕事をする。  責任感が出る、気持ちに張りが出て、毎日 行くところがあると、生活にリズムが出来る。
⑤ボランティアでもいいので、誰かのために成ることをやりましょう。 誰かに「有難う」と言われるよう  なことをやる。
⑥小さくてもいいから具体的な目標を持つ。 いつまでに何を達成する。具体的に
 朝刊の論説を音読するとか。

自分があのとき失敗したのは、何か意味があるんだろうなと、後で意味付けをして、後で何年、何十年してから結びついてくる。
大手石油会社にはいったが、3年で辞めて、フランスの学校に自費留学した。(会社の費用で会社から行くようにとの話はあったが)
最初言葉が判らず、大変苦労する。 
エネルギー問題に関する目的があったが、今は全然違う仕事をしている。
最近フランスから講演依頼があって、フランスが去年、シルバーエコノミー、高齢者経済の国家プロジェクトを立ち上げて、世界中で情報収集を始めたが、それが私と結び付いた。
生きている間に起きることは皆何か意味があると、思います。
起こることを肯定的に捉える、そういう癖をつけておくと、一大事があっても動じないで済む。

寝たきりの老後に対する、前向きな生き方は?
①パソコン、タブレットなどインターネットを使って、仮に足が悪くなって外に出られなくなっても、い ろんな人とコミュニケーションを出来るスキルを持っていて損はない。
 今、75歳以上はうとい方が圧倒的に多いが、ツールがあれば、寝たきりになっても頭と指が使え れば、コミュニケーションができる。
②機器だけあっても話し相手がいないではだめで、コミュニケーションする相手、仲間作りを意識し た方がいい。
 会社にいるときはいっぱいいるが、地域縁、血縁、社縁が薄いと、「知縁」と呼んでいる、知的好  奇心が結ぶ縁で仲間を作っておくと、暇暇しません。
 
モットーは?
やらないで後悔するよりも、やって後悔した方がいい。
生まれは新潟の豪雪地帯、雪かきが重労働でやりたくなかった。
くたくたで学校から帰って、雪が凄い量ありとても無理だと思っていたら、父親から無理でもやるんだと、いって結局2人やってみて、無理そうだったが何とかできた。
例え無理そうに見えても、やれば何とかなる、と言う事を父親から教えてもらった。
シニアービジネスをやっている本当の理由は、シニアのためではなくて、次の世代、若者為です。
上の世代が元気よくやっていれば、次の世代は、いいねえ、粋だねえ、あんな風に生きたいね、と言う風に憧れ、モデルになるが、しょげていると必ず次の世代に伝わる。
最近の若者は内向き志向が強くて海外に行かないというが、その理由があるとすれば実はその親。
スマートエージングに実は7番目があってそれは
⑦自分の好きなことをやる。  と言う事です。
 これさえやれる人は生き生きしている。
自分がやってきたことを、次の世代に伝えて行きたいが、まだ発展途上で、若い人とも一緒に学ぶという事をやっていけたらと思います。
 











2014年9月22日月曜日

相原恭子(作家・写真家)     ・私の心をとらえたドイツの魅力、京都の魅力(2)

相原恭子(作家・写真家)  私の心をとらえたドイツの魅力、京都の魅力(2)
京都の花街、を取材する事になる。
ヨーロッパで知り合った人から、英語のメールが転送されてきて、日本で住んでいる日本人で、写真も付けて、文章は英語で、と言う事で、芸者、舞妓など花街の話を書く人を探している、との事だった。
その2週間前に先斗町で加茂川踊りを見る機会があって、それに感動した。
是非やってみたいと思った。
一元さんお断りの世界だから写真なんか撮れるわけないと言われた。
或るとき知り合いの知り合いに、元先斗町の芸妓さんだったひとがいたので、電話をしてみなさいよ、と言われて電話をしたのが始まりです。
あさって浴衣会があるので、来ませんかと言われて出掛けた。

その後、つてがあって先斗町の一番のお茶屋さんで写真を撮らせていただく事になる。
美しい着物、美しい姿、美しいしぐさなんだと、吃驚した。
快い挨拶があり、それがその人を何倍も美しく見せているというのが第一印象でした。
2011年エストニアで写真展、講演会をやった時に、日本のイベントをするのでどうですかと言う事で、カタログを作ろうという事で写真集を作った。
舞妓、芸妓の着物が、帯が綺麗。 西陣の帯、京友禅、下駄とか、京都の伝統工芸品を身に着けている。
かんざしなども季節ごとに変わる、3月が菜の花になる、ヘアスタイルも最初は割れしのぶ、お姉さんになるとおふく髷になる。
季節によって、年齢によって、変わってくる。

京都の人は一度でき上った人間関係を、大事にしてくださることに感激した。
毎月の様に京都に行くようになった。
芸者は海外向け、日本向けに「京都、舞妓と芸妓の奥座敷」 心象を書く。(その翌年)
京都では花街(かがい)、東京では(はなまち)と言うが、と言うが当事者は言わない。
おかあさん 置き屋さんでも、お茶屋さんでも内輪ではおかみさんのことを、おかあさんと言う。
置き屋さんは暮らす場所 お茶屋さんはお座敷があって宴会をする所。
一番上がお姉さん、姉妹、見習い姉妹、いとこ見たいに血縁が無くてもファミリーの様に繋がってゆく女性社会。

祖母がおけいこ事が好きな人で、三味線、詩吟、お琴だとかそういうものを見ながら育った。
1歳のころに、父が図案の本を買ってきてくれて、それを毎日のように見ていた。
着物の図柄などもあり、そういった関係で、小さいころの思い出がよみがえってくる。
小学校のころからデザイナーになりたかったので、自分で帯、着物の生地で作ったドレスなどを展示したことがある。
魂が入ったもの、心が入ったものは美しくて感じることができる。
美を見出す気持ちって言うのが生活を豊かにするし、人生を豊かにすると思います。
花街の人達と知りあって、室内を見たり、着物を見たり、一流の料理屋さんに連れて行ってもらったりして、そういったものが手伝って、美意識を感じた。

おかみさんたち、舞妓と芸妓の打ち明け話、インタビュー 出来るようになったのは?
一緒にお茶を飲みに行ったときとか、雑談の中から聞いた事とか、もうちょっときちっと書こうと思った。
「京都の花街のおもてなしの技術」 2005年
一元さんの御断りの理由とかもありますけど、夕方入口に水を打って、床の間のお花、お客さんの30分前にはお香をたいてとか、そうした心配りは美しいと思う。
マニュアルの無いおもてなし、おもてなしができるように、中学をでた人が座り方お話の仕方とか、学び、仕込まれて、そうこうしているうちに、どうしたいか察するように、暗黙のうちに事が運んでゆくのは、とってもエレガントなことですね。
「あうんの呼吸」 仕込みさんに入った時から、一緒に生活している事が大きいと思う。
見て学べと言われる。
一元さんの御断りの理由 女所帯でどんな人だかわからない人を呼んで、いきなり宴会をされるのは、心配なので気心知れた人でないと困るという事と、人と人のつながりで長いおつきあいを大事にする、いきなり来てわーっと遊んでこないのは、どうしたんかいなと言う気持ちもあるという事、支払いはつけなので身元が判らないと困る、と言う事です。(秩序のある社会)

今はけじめ、礼儀作法を軽視するような雰囲気がある様に思う。
そういったものをきちんとするのはいいことだと思う。
ふすまを開ける、障子を開ける事、日常的に和の暮らしが無いのでピンとこないので、そういう事に慣れることが日本人として重要なことかもしれない。
仕込さんに入ると、中学生だった人が数カ月で着物をドンドン着れるようになる。
町の人、着付け教室に何年も通って着れる様に成らないようなこともあるので、私は自分でも着れる様に練習するようになった。
面接で受け入れるが、成績がいいとか、誉められて育った子は教育が難しい、間違えても、間違いましたというのは優等生は格好が悪いので隠そうとする、そういう子は延ばすのがなかなか難しい。
「聞くは一ときの恥」 一回一回クリアーして行ってデビューする。

お茶屋さんはお金持ちだけを相手にするのではなくて、長いお付き合いを凄く大切に思っているので、年に一回でもいいから、踊りの時にきて、楽屋見舞いをくれるとか、細い長いお付き合いが好まれる。
京都では、会社の何周年記念、法事、結婚式などに呼んで、華を添える。
海外にはないもので、日本伝統文化の詰まったもの、全てが日本の伝統文化。
街並みを大切にしてもらいたい。
モルガンお雪 京都の売れっ子芸妓で、大富豪に見染められてアメリカに渡り、フランスの社交界でもデビューして、そこで人気者になった。
英語、フランス語を勉強したが、言葉だけの問題ではなく、その人の雰囲気、付き合いの仕方、そういう事で華のある人だったのでしょう。
それがやはり日本のおもてなし、日本のお付き合いの作法とか、どこでも通じるんでしょうね。
自分と言うものがはっきりしていれば、受け入れてもらえるのではないかと思う。

京都と出会ってよかったことは着物を着る、三味線を習い始めた、日本を知った事、日本なりの教育等が良かった。
日本には昔からあったもので、続けてきただけだと、おかみさんたちは言っている。
作法、家庭教育なども、今残っていることに驚きを感じる。 自分の中にも取り込みたいと思う。
1000年以上続いた都には蓄積があると思う。 啓発されるものが多い。
ヨーロッパなども新しい目で見ることができる。(京都とヨーロッパは似ているところがある)
東京は横並びっぽいが、京都の人は色々意見を自由に述べるところがある。
ノーベル賞は京大が多い。 独創的。
伝統を大事にして、古いものと新しいものが共存している。
比較的、物事の本質を突く傾向がある。






2014年9月21日日曜日

相原恭子(作家・写真家)     ・私の心をとらえたドイツの魅力、京都の魅力(1)

相原恭子(作家・写真家)  私の心をとらえたドイツの魅力、京都の魅力(1)
横浜育ち 幼きころから本、絵画、音楽が好きで、アルプスの少女ハイジーや、ベートーヴェン、バッハの音楽に接し、ドイツに興味を持ちました。
慶応大学で、美学、美術史を専攻、その後ドイツでドイツ語を学び、ドイツ政府観光局に7年半勤務しながら、ドイツは勿論、ヨーロッパ、アジアへも旅して各国の歴史や文化、風土にも関心を高めてゆきました。
写真は登山とカメラを好んだ父を見て育ち、観光局時代から一眼レフカメラを手に、各地の印象をメモしながら旅をしたと言います。
やがて文章と写真で旅の感動を伝えたいと思う様になり、仕事で知り合ったジャーナリストからの進めもあって作家として 20年前に独立、紀行のエッセーやビール、お菓子などの食文化や美術工芸品等をテーマに多くの著作を発表してきました。
近年は国際交流基金や企業の女性、ヨーロッパの友人等の支援などを得て、ヨーロッパ各地で講演会や写真展を開いています。

ドイツ語は幼稚園ぐらいからアルプスの少女ハイジーを読んでそこが根っこになっているかもしれません。
そのあとベートーヴェンの悲愴、月光、熱情とかを聞いてすごく感動して、その後、バッハの音楽、写真集などを見て ライン川の風景等を見ているうちに魅かれていった。
学生時代、ホーフマンスタール ヘルマン・ヘッセ、とかいろいろ読んでドイツに行ってみたいと思う様になった。
慶応大学では美学、美術史を専攻して、遊戯論 遊びと芸術創造をテーマにした。
ロジェ・カイヨワ 『遊びと人間』 ヨハン・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』とかテーマにした。
第一外国語でドイツ語を選んだ。 第二外国語が英語だった。
就職は真珠を扱っている会社だった。 アクセサリーが好きだったので。
大学4年の時に卒業旅行でヨーロッパにいって、大変インパクトを得て、忘れられなくて、もう一回ヨーロッパに来たくて会社を辞めて1年ちょっと行った。

2カ月したら突然ドイツ語が聞こえるようになった。
聞こえてきたらいくらでもしゃべれるようになった。
ドイツ政府観光局に7年半勤務することになる。(ドイツ商工会議所の友人から勧められた)
秘書の様な仕事をしていたが、日本でも色々イベントがあり、司会、通訳などをしたりした。
当時の所長が手紙などをたくさん書く人で、殴り書きなので大変だったが、慣れてくるうちに、ドイツ語の表現の勉強になった。
作家、写真家になるきっかけは?
ドイツ以外の広い世界へ仕事の領域を広めたかった。
日本のジャーナリストとドイツ各地を一緒に回ったりしているうちに、取材とはこういうものかと自分でもして見たいと思った。
相原さん一生懸命説明するんだったら、自分で書いた方が早いんじゃないと言われて、書くのは大変と思っていたら、あるところからいきなり電話がかかってきて、その人と会った。

色々聞かれるうちに自分は何をしたいのかを考える機会になって、人に近づきたい、人に感動を伝えたいという事が判って、そういう事だったら、一人でやった方がいいですよと言われた。
好きなことをやろうと、旅の感動を伝えるという仕事をする、旅の感動を伝える事を書いたり、写真を撮って人に読んでもらいたいと思って一大決心をした。
知り合いのサンケイスポーツの方にうちで書いてみると言われて、書いてみたら、それでいいんじゃないの、と言っていただいた。(ドイツビールの事についての記事だった)
雑誌でも、ヨーロッパの見どころガイドの記事を書いた。
父がカメラが好きで、登山をしては写真を撮って、暗室で現像してパネルにはるという事を、子供のころから見ていた。
子供のころに写真を撮ったこともあった。
ヨーロッパに旅行したときには、コンパクトカメラだったが、7年半いたときには一眼レフを購入した。
写真と言うのはアングルを決めてシャッターを切るたびに頭に情景が全てプリントされるような感じがするので、書くときにも役立つと思う。

「ドイツ地ビール夢の旅」 初めての著作
ドイツのイベントでお会いした時の編集長さんが、いつかうちでも本をと言ってくださって、いくつか企画を描いたが、それはビールですよと言われて、「ドイツ地ビール夢の旅」と成りました。
初めのころは、書店に行って自分の本はどうだろうと、のぞきました。
カルチャーセンター、市町村文化会館、ロータリークラブ、医師会、美術館とか色々なところで講演をしてくださいとの要望があり、本当に有難いお話だった。
人との出会いがあることが又たのしみだった。
人脈として仕事につながるだろうとの気持ちよりも、お友達感覚、大事な人というか、そういう気持ちで思っている。

ベルギーのグルメの本 
編集長さんと話をしていたら、若い編集者を連れて来て話すことになり、ベルギーについては、と言う事になり私も何度も旅行したので、食べものと言うのもいいんじゃないかと言う事で、ベルギーグルメ物語となったわけです。
フランス語、ドイツ語、フラマン語 が話されている。
英語よりもドイツ語の方が親しく感じて色々なことをしゃべってくれるので、よかった。
ヨーロッパに菓子紀行  40回あまり連載した。
お菓子を背景にいろんなことが見えてくる。
ポルトガル 日本にも来て、長崎には非常に似た鶏卵そーめんとか、卵を使った菓子があるが不思議です。
お菓子を通してEUの繋がりみたいなものが、見えてくることがある。
そういう事を視点に書きました。
忘れられない出会い。  ピット・シューベルト 登山家 国際安全委員長 たまたま通訳を頼まれた。
山の事は判らないので通訳はできないと言っていたが、他に人がいなくてやることになり、ミュンヘンでお会いして、いい方だったのでお受けして、日本に来て講演をした時に通訳をして、色々非常に興味深かった。
登山は勉強することではない、山は登るものだから、一緒に山に行きましょうという事になった。
訪ねて行って、近所の山に登る、それからアルプスに登りましょうという事になり、アルプスに登ることになる。
一眼レフをしょって、4泊5日で いきなり登った。 忘れられない経験だった。
ロッククライミングをしようと、今言われている。

人に判ってもらえるように、書こうと思っている。
私は女性であることにあまり意識しないでいるし、それなりに受け入れられている。
(取材の対象が、広がって陶磁器とかにも本にされているが、共通のものがあるのか?)
美しいものと美味しいものが好きです。
陶芸品には興味がある。
歴史みたいなものが陶磁器からも見えてくる。
いろんなものに興味を持っていると本当に話が繋がってゆく。
現場と机上の学問が往復できるという事は非常にメリットがあると思う。
ヨーロッパにの文化と日本の文化 別の事に通じる事が自分の足元を深く認識する土台となる。
自分を第三者的に見ることができるような気がする。 






2014年9月20日土曜日

下稲葉康之(ホスピス医・牧師)  ・人生最後のもてなしを

下稲葉康之(ホスピス医・牧師)     人生最後のもてなしを
75歳 日本で最大規模のホスピス病棟を持つ福岡県の病院の名誉ホスピス長です。
ホスピス病棟とは末期癌の患者に苦痛を和らげる手立てを施す専門の病棟です。
下稲葉さんは30年以上に渡ってホスピスに取り組み患者自身の体痛みはもちろんのこと、病気がもたらす家族の精神的な苦痛にまで心を配ってきました。
下稲葉さんが働くホスピス病棟では、患者さんが入院している平均日数40日、誰もが避けては通れない死が目前に迫った時、人はどのようになるのでしょうか。
キリスト信仰を土台に死に直面している患者や、家族と向き合ってきた下稲葉さんに、ホスピスでの日々を伺います。

私は一人の人間で聖書の言葉に従うと、罪人で、少しでもお役に立つとか輝くとかができるとすれば、私を心にとめて愛してくださっている神様の愛によって生かされるという事が、突き詰めていくと私の支えになっていると思います。
ホスピスと言う概念、場所をあらわさない、ホスピスはケアの内容、その実質を著わす言葉、建物が無くても施設が無くてもホスピスを提供できる。
ラテン語のHospitiumHospiceHospitalHospitality  「温かいもてなし」と言う意味がある。
人を温かく持てなす。 病気を持って人生最後の日々を過ごすその人自身をお世話をするという事が物凄く大事なことになるし、身体とこころとその人が持つあらゆる痛みにかかわるのがホスピスケアだと思います。

4つの痛み 
①癌性疼痛(身体の身体的苦痛)  
②迫りくる死をしょいこんでいるので、不安、恐怖 (精神的苦痛)
③患者さんが亡くなる時、最も親しい人間関係(夫婦、親子) 激しくゆすぶられて壊れよいうとする
 (親しい人間関係が脅かされるという苦痛  社会的苦痛)
④自分の死に向き合う魂の苦痛(スピリチュアルペイン)
「まさか」と言う言葉 まさか自分が。 人間が経験する最大の最後の極限状態だろうと思います
30年以上の経験から、スピリチュアル ケアに宗教的な援助、これが必要だと思っています。
患者さんの質問、ある日突然出てくる。(内部で葛藤し、苦しみ、それを私たちから見ると突然)
聞いてさしあげるという、心の状態、心のそなえが無いと、死ぬのが怖いという風な訴えに対して、医療従事者は受け止められないばかりか、逃げるとか、まかすとか、かかわりを深めて心と心の通いあいを持ちながらサポートする、一緒に痛みとか苦しみを共有する事は不可能ですので、質の高い、患者さん家族が満足してもらえるようなケアはちょっと難しくなるのかなあと思います。
私がクリスチャンであるという事は、一つの確かな土台になっているという事は事実だと思います。

(下稲葉さんがホスピス医として世話をした患者は30年余りで7000人を越えます。
医師としてだけでなく信仰に生きる一人の人間として、人の命と向き合い続けてきました。
中でも印象に残るのが、高校生の若い女性のことだと言います)

えりこさん、8歳の時に癌がおなかに出来て、2年間にわたって、腫瘍手術を受けて、かなり強い抗がん剤の治療を受ける。
小学校、中学校を通学するが、16歳になった時に腰の痛みを訴える。検査の結果再発。
腰の痛みも強くなって、両親が相談に来られて、私たちのホスピス病棟に入院することになる。
入院して早々に課題がクローズアップした。
当人は厳しい2年間の治療で病気は治ったと思っていた。
腰の痛みが治ると退院できると思っていたが、私たちの判断によると余命数カ月と思った。
ここにおおきなギャップ、ずれがある。
彼女が自分の病状を正確に認識しないまま、彼女と関わってゆく、段々病状は進行する、治るはずの腰の痛みが治らない、そういう風なことではとても信頼関係は結べないし、時間を過ごせない。
両親に今の事情を説明して、ある程度の事を言葉で本人に説明する必要があると言った。
お任せしますと言われた。
告知についてはある程度慣れてはいましたが、しかし相手が16歳という年齢を考えた時には緊張しました。
自分の部屋で手を合わせて神様にお祈りしました。
神様、私が落ちついて彼女の話を聞きながら、説明ができるように、まず私を整えてくださいと、そして彼女の心に働いて慰めと支えを上げてくださいと、祈って彼女の部屋に行きました。
神経芽細胞腫と言う事で治療をを受けたんだけど、話が腫瘍が、 と来た時に彼女はぴーんときた。
途端に身体がガタガタとして、「再発したの、私は死ぬの、怖い怖い」  ですね。
告知を何十回何百回とやってきた私ですが、説明しなければいけない、背中をさすりながら暫く落ちつくまで待ちました。
「3年だけど再発した」と言いました。
表現を考えながら説明してゆくんですが、彼女の場合1時間ちょっと掛かりました。
治療方法は残念ながらないと説明したが、「治るの治らないの、死ぬの死なないの、復学できるの、出来ないの」 の質問です。
死ぬという事は言いにくい、死なないという事は嘘をつく事になるので、答えになっていない訳です。

「誰も死なないと言ってくれない、嘘でもいいから死なないと言って」と言われ 本当に切なかった。
彼女と会うたびに私たちが追い詰められてゆく様な、そのような時期が3~4週間ありました。
毎日のように彼女のことで、どういう風に対応すべきか、ミーティングを行いました。
二つの原則を確認しました。 絶対に嘘をつかない、出来るだけ真実に接する。
結論を持って彼女の所に行きました。
「えりちゃん 残念だけど死なないとは言えないと言いました。」 担当医としては辛い事です。
「えりちゃん あなたに死んでほしくない」 と言いました。
それから2~3週間経ったときに、話の間ができた時に
彼女は「死ぬんだったら、その場合に一つしたいことがある」(死ぬんだったらと本人が使ったのは、初めてだった。)
「死の前に一度ウエディングドレスを着たい」 と それを聞いて御両親と相談しました。

(えりこさんの願いだったウエディングドレス姿の写真  えりこさんの叔母が営む美容室に出向いて撮影されました。)

自分の病室に数枚張ってありましたが、見るたびに思ったことですが、この写真を撮ったからと言って死ぬという事ではない、死にたくはない、その気持ちは強い物がありました。
ひょっとして死ぬのかもしれない、そうしたら、言う事ででき上った写真。
私にとって彼女とは色々かかわりがあったて話をするんですが、えりちゃんの死を前提にした会話、そういう風な死を一人称の死としてえりちゃんと会話を交わすという事に大きな躊躇がありました。
或る日、お母さんが本人を前に私に「先生 えりこは小学校1,2年生のころに聖書を読んだことがある」と言って、天井を突き抜けて天から一条の光明が私に注いだような思いになった事を思い出します。
それから「えりちゃん 讃美歌、歌っていいかなあ」と歌った。(「忘れないで」という讃美歌)
「忘れないで いつもイエス様は 君のことを見つめている だからいつも絶やさないで
胸のなかの ほほえみを」

「先生 素敵 もう一回歌って」言われてもう一度歌いました。
それから一緒に歌う様になりました。
こっちからイエス様は見えないけれど、イエス様はいつもえりちゃんを見つめている、だから怖かったり、不安だったりしたらイエス様恐い、でいいんだよ。
イエス様におすがりすれば必ずイエス様はあなたが死んでも天国に迎えてくださる、そんな話を出来るようになった。
えりちゃんが死んでも、という言葉を使った表現が出来るようになった。(壁だったが壁が無くなった)
17歳の誕生日を金曜日に迎えて、月曜日に天に召されました。

信仰30数年間 死という事に対して正直に言ってやりたいと、患者さんも向き合う事ができる、家族も向き合う事が出来るお手伝いを出来ればと、想いを持って関わってきました。
(下稲葉さんは1938年昭和13年鹿児島県生まれ 
小さい時から音楽の好きな少年だったといいます。
医師を志す様になったのは高校3年生の時 10歳年上の姉がリュウマチの痛みに苦しむ姿がきっかけでした。
1957年昭和32年九州大学医学部に進学した下稲葉さんにキリスト教との出会いが訪れます。
ドイツ語の講師を務めていたヨハネス・ルスコーさん キリスト教の伝道のため日本にやってきていた宣教師でした。
最初、授業中に聖書、キリストの事などを話す事に憤りや、反発を感じたと言います。
ルスコーさんの姿に自分にはない何かを感じるようになりました)

何が彼を動かしているのだろう、私たちが何かをするときには動機がありますが、動機は何だろうとおもいました。
それが知りたいと思うようになって、「先生が持っておられるものが欲しいのですけれども」と
私がクリスチャンになりたいという告白のスタートでした。 (大学2年の終わりの頃)

(大学を卒業した下稲葉さんは医師の道を歩み始めます。
1965年昭和40年にドイツ、ボン大学に留学しました。 帰国後病院の勤務医をしながら福岡市内でキリスト教の伝道にも取り組みます。
1980年昭和55年下稲葉さんの人生を決める出来事が起きます。
当時、経営難に陥っていた病院の再建が下稲葉さんを含む3人のクリスチャンの医師に託されたのです。 下稲葉さんは病院再建のひとつの柱に、重い病のために死と向き合っている人達との身体と心をケアするホスピスを据える事にしました。)

今から34年前なので、ホスピスは一般的には無いです。
患者さんは私の先輩(癌になった経験が無い、末期状態を経験したこともない)だなと思います。
後輩が先輩を理解するのは困難だし、援助するのはもっと困難。 
1年半でこの問題にぶつかる。
今でも背負っている。
「先生 もうあきらめの心境ですよ」と言われて、人間そんなに簡単に死の問題を諦めるという事をできないとおもうが、諦めるに至るまでの経験、時間が色々あるでしょう、と言うとぽつりぽつり話始める。 それを聞いてあげる。
①傾聴 本当にお聞きする、心を寄せるという事が、患者さんに接する第一のポイント
②どうにか患者さんのお気持ちを共有したい、という私たちの姿勢。
そうすると患者さんの気持ちが判る、共有出来る、それに答えられなくてもそれでいい。

すこしでも患者さんの痛み、苦しみを共有させてほしいという、私たちの姿勢と言いますか、それがその次から後は、そう思いますね。
患者さんが亡くなると、その家族との関係も無くなるのが普通ですが、ボランティアに加わっていただいたり、感動するのは亡くなった患者さんの身内の方が同じ病気になる場合があります。
主人が亡くなって奥さんが入院してくる。 
普通同じ病院には来たくは無いはずだと思いますが、「お世話になります」と言ってくれるのは私たちに対する一番の褒め言葉だと思います。
私の人生にとってかけがえの無い日々でした。
クリスチャンホスピス病棟で働かしていただいて、患者さん、家族と関わりを持たせて頂いたという事は
私の宝物、大きな財産だと思います。
単なる職場ではなかった。
患者さん、家族の方々に、こちらこそ有難うございます、とそういう風な気持ちです。



2014年9月19日金曜日

大西清右衛門(鋳金家・釜師)  ・鉄は錆びゆく、美は深みゆく

大西清右衛門(鋳金家・釜師)   ・鉄は錆びゆく、美は深みゆく
大西家は京都で400年続く釜師と言われる鋳物を作る家系です。
代々清右衛門をなのり、茶の湯の千家流の道具、千家十職、十の職種のうちの一つを受け持つ家でもあります。
大西さんは昭和36年生まれ、30代に入って16代目として家業を引き継ぎました。
家に伝わる技を極める中で、大西さんはいずれは錆びて朽ち果てる鉄に美は宿る、窯はそれを見せ、日本人の美意識を育んできた貴重な存在だと確信し、意欲的に製作に取り組んできました。
今大西さんは新しい素材に押されて、存在感が薄れてきた鋳物の魅力を再認識してもらおうと人物像などにも製作の幅を広げています。
こうした活動と伝統工芸への深い思いが評価され、今年京都府の文化功労賞を受けました。

釜座 古い地名 嵯峨天皇が京都に移られた時に三条 釜の里 と古文書には有ります。
809年~823年ごろ 
既得権を与えられて鋳物を作ることが許された。
武器にもなるので管理されていた。(江戸末期まで)
寛文年間 座員が80名だった。  今は1,2軒になってしまった。
釜は茶会の主役の道具ではあると言われるが、茶室は釜、掛け軸、花入れ、茶碗など全ての道具がそろって一つの空間ができ上る。
釜の中には音を鳴らす仕掛けがある。(湯が沸いてゆく音)
空間の変化を感じることが出来る。(空間の演出に寄与)
梵鐘も作って、品川区の品川寺(ほんせんじ)にあるが、一度江戸時代の晩年に流出するが、大正時代にジュネーブのアリアナ美術館で見つかり、返還されて、ジュネーブと品川区とが友好関係を結ぶ。

工程  60工程がある。
図面を描く→木型を作る→板を回転させて鋳型を作る(素材は土と砂と粘土を混ぜ合わせた泥)
→土の鋳型を何度も炭で素焼きにしては、粒子の細かい土の泥を繰り返して層にしてゆく→その内面に彫刻を施す→まず鋳型の上下ができる→そのなかに又土を込めて、炭火で乾燥させる→
込めた土を引きだす→先ほど鋳型で作った形のくぼみに入った釜の形をした土の塊ができる→
その部分は釜の厚み分削って、もう一度外型に収めると、釜自体の厚みになる→その隙間に鉄を流し込む→釜本体になる
耳の部分 「かんつき」 を付ける。  
最初に原器を作って、それを型どりして、鋳型の中に組みこむ、でき上ると蓋を作る。
蓋も図面と、木型、鋳物(鉄もしくは銅合金)で蓋を作る。
その上に「つまみ」 彫金の様な技法 ついき 叩いて物を作る。
素材も何種類も使う、紙、木、金属、化粧(着色は漆を使う)
いろんな技術が複合されて、釜が出来上がる。
60工程でも細かい工程が10あれば、600工程になるわけです。

鋳型は同じものがいくつも作れる技法に思われがちですが、弥生時代と変わらないような鋳型作りをしているので、一つの鋳型から一つの釜しかできないんです。
釜作りの面白さは、いろんな素材と向き合えるのが面白い。
500年前から作られているので、その釜は一つ一つ違う技法で作られているので、それがある意味教えてもらった技術と違った技法を編み出していかないと作れないというところが、そう簡単には出来ないのが面白い。
その時代の環境で手に入る道具でどういう風に作ったのかと、想像して仕事をしてみると、先ずは失敗する。
そうすると糸口が見つかる。 
糸口をつないでいって失敗を繰り返しながら、同じ物ができれば昔の技術を発見する事が出来る。それぞれの代が新しいものを作っている。 

鉄自体の魅力は「錆びる」という事
錆はドンドン水を与えてやると進むが、水を付けた処を安定させれば、それ以上進まない。
錆びながらにして、錆びるのを防いでいる。
400年前の物を割っても、まだ銀色の部分があることは、私にとっては不思議、生きているんだと思う。 でも段々痩せて行っている。
400年前は錆ると言う特質を逆に面白さとして捉えている。
千利休が三条 釜座に住んでいる辻与次郎に阿弥陀堂釜を作らせるが、肌をかっかと荒せと指導している。
鉄は磨けば銀色でつるつるのものができるが、鉄が最初全うにあるものが雨風を受けて錆びて勝手に肌合いが出来てくる、時代が経つと表面が剥離して肌が自然と出来てくる。
そこに面白さを感じて、新しいものに肌を入れよと、作り手に要望があるわけです。

壁画の修復があるが、時代のたった壁画の魅力もある。
物が朽ちていって、そこで初めて本質が見えてくる、過程なんでしょうね、其れがやがて無くなってしまうが、いいなあもう見れないかもしれないと思える、そういうところが美の深さなのかもしれない。
昔の釜は硬くて金槌で割って、その割れた形状に魅力を感じて、新たに一周り二周り小さい
底を作って漆でくっつける、そうすると完壁だった形から朽ちた表現を取り入れた、もう一度再生した釜に面白さがあると、400年前にある。
五綴鉢(ごてつのはち) 法隆寺につたわっていた鉄鉢 鉄の鉢が5回まで壊れても繕って直す、物を大事にしてゆく、考え方がある。

物が朽ちてゆく金属の性分、ある意味元に戻る、自然に戻る。(土壌に戻ってしまう)
昔の鉄は素朴で、木炭を燃料に製鉄が行われていて、溶解も木炭で行われると、硬い急激に冷え固まった鉄が出来上がる。
現代の鉄と比べると、水が沁み込みにくい。
表面と釜の内側からサンドイッチ状に外側から層になって、されてゆく。
だから500年前、400年前の釜も今、金槌で割ったら、錆の層と真中には銀色に輝く生きた鉄が姿を残している。
現代の鉄はいろんな鉄が作れる、用途によって作れる。
釜として時代が経っていった時に、人間と同じように年老いた表情を出せるような鉄であるという事ですね。

昔から「和銑わずく)」と言う鉄に魅力があるが、明治時代までは日本のいろんなところで作られていた。
たたら鉄と言うもので砂鉄を原料に和銑が作られている。
鉄鉱石も木炭で精錬されれば同じような成分になります。
砂鉄の良さと現代にある素材を天秤に掛けながら、いいとこ取りをすれば現代の釜に向いた鉄が出来てゆくという風に考えるわけです。
錆びなければいけないけれど、錆びにくい鉄、耐熱性も上げてゆきたい。
技術もヒントになるし、専門家の知恵も借りて、それを自分の作っているものに組みあわせる様な事もするわけです。
成分も0.00の世界で変化してしまうので、やるだけ種類は増えてしまうわけです。
耐熱性のあるもの、耐蝕性のあるものを目標にすこしずつ作り上げてゆくという事をしています。
昔の鉄とは何なんだろうと、厳密に知りたいと思って調べて、明治以前の鉄は皆近いところの組織をしていて、成分もよく似ている、水が沁み込みにくいという事が判った。

物作りが現代の社会で見えにくくなっているだけの事。
鉄瓶 箱火鉢が無くなって、日常では使えなくなっているが、中国では鉄瓶が流行になっている。
物作りに興味を抱いているか、いないか、で眼につかないかだと思います。
お茶をするにしても手間暇をかける、趣味としても簡単に出来てしまっては面白くない、手間暇かけて何かをすることに面白さがあるということですかね。
釜の六音 その中にみみず鳴きがある。 最初水からお湯に変わるときに 釜の内面の水の底から泡粒が浮いていってはじける音 「ち ち ち」 と音がする。(草むらの虫の音の様な)
それがやがて「じ じ じ」と成り 「こー、こー」と言う様になり 複合されて松風の様な音になる。
あわ粒がらせん状に上がってゆくのがミミズの様な形になるので、みみず鳴き。

自分の好きな音が何なのか、ゆっくり熟視して五感を生かす。
見るのもゆっくり見、音もゆっくり聞く。
忙しくしてしまうのが現代人の特徴ですかね。
茶室で、時間がゆったりしていると、最初暗い部屋で眼が段々慣れてきて見えるようになり、湯も段々音が聞こえ出して、物を見ようとする気持ちになる、その前にある本質が見えてくる。
シルエットだった釜 肌あい、彫金、など細かく見えるようになり、周りの物にも眼がゆき、面白さに眼が行く様になる。
釜に限らず培ってきた技術で、新しい物を表現できるものがあれば、挑戦してゆきたい。



2014年9月18日木曜日

上岡陽江(ダルク女性ハウス代表) ・依存症を乗り越えて支える(2)

上岡陽江(ダルク女性ハウス代表)  依存症を乗り越えて支える(2)
ダルク女性ハウスの主なプログラムには自分自身の体験を語り合うミーティングや薬に頼らない生き方を学ぶグループセラピー等があります。

何故そういう施設を作ろうとしたのか?
女性の仲間たちが治療に来るのだけれど、立て続けに3人亡くなってしまった。
一人は道で心臓発作で倒れ、2人は自ら命を断っちゃうようなことが起きて、どうしたらいいのか判らなくなってしまった。
女性たちが昼間安心して暮らせるところを作れないかと思って、男性のそばにアパートを貸してくれる人がいて、そこを利用する事にした。
薬物依存で入る女性で入る施設は無かった。
アルコール依存症(平均年齢 50歳) にくらべて薬物依存症の人は若い年齢の人が多かった。
薬物依存症の女性は85%ぐらいが暴力の被害者で帰る家のない人が多い。
身体の痛みを止めるために薬物を使うために、売薬、簡単に手に入る物にするから、不法薬物が近くに有るという様な事があって、その結果、女性の薬物依存症の人達と出会って行った。

女性の家族の中で、暴力、DV、レイプの被害等があり、全国に、警察、支援団体が関わった形はセットアップしているわけではないので、そういう問題が起きた時に一人で抱えていることが凄く多い。
全員が不法薬物に行くわけでは無くて、自分で静かにクリニックに行ったり、売薬で痛みどめを買ったりしているが、家族の居場所が無かった人だと、不法薬物のほうが簡単に手に入るという事情がある。
暴力と出会ったりすると、そのあといろんな男の人と付き合って、自分で自分を確認してみたいという様な行動をする時がある。
セックスが怖くない、と思うために沢山セックスするとか、そして横ではお母さんは吃驚する。
どうしたらいいのか判らなくなって孤立してしまう。
水商売の中に入って行って、その中で又騙されたり、暴力と出会ったり、悪循環が起きる。
人生ないじゃないと思うんだけれど、でもその中で皆生き抜いてゆく。
早い時期で相談してほしいし、早い時期で専門の所に行った方がいい。

治療には時間がかかる、それは皆さん知っておいてほしい、10年ぐらいは掛かる。
DV法が成立する前は、近親間の暴力は病院が見なかった事があって、例えば頭を殴られたのだけれど、病院にいっても、うちは近親間の暴力は見ませんと言われた。
1時間説明されて帰された事がある。
暴力の後遺症は思っているよりも時間が掛かる、3年ぐらいは身動きが取れなくなる。
この世界に自分の安全な場所が無いという様な感じ。
暴力が原因でハウスに来る人は、直ぐに飛び出ちゃったりする。
安全と思われるところでも、心配で安全な場所を求めたがる。
ダルクをやって10年目に、毎日そんな話を聞くのは、あまりにも大変で燃え尽きてしまった。
その後あるときに、高野さんが普通の生活の話をしていて、10年経つと普通の生活のことをみんな覚えているんだという事を知って、それで10年経った時からもう一度やる気になった。
治療も必要だが、普通に皆とご飯を食べたり、楽しんだりすることが、すごい大切だと思う様になった。

子供を施設に預けたあとに通所、入寮とかしていたが、あまりに子供を持つお母さんたちが増えて、子供の命が危ないなと言う様な瞬間もあって、それまで母子分離だったが、子供も一緒にと言う様な形になった。
フェミニストカウンセリングセンターの平川和子さんから母子支援という形で、ケアをして安全を計ったらどうかと言われて、説明して行った。
今は夏にキャンプをやったりしている。
10年前の子供たちも大人になってきて、お母さんと自分の命を助けてくれて有難うと、言ってくれた。
3年ぐらい、お母さんの治療につながると、子供の問題が起きてくる。
どうしてこうなるとおろおろしている。
非行とか不登校を解決しようと思って付き合うと、付き合う事にはならない。(安易な解決、 母親の変化もともなっていないので付け焼刃的なもの)
3年ぐらい、お母さんを含めて皆でおろおろしていると、子供は「よく付き合ってくれたよね」と言ってくれて、私も初めて解決を目的にしてはいけなかったんだと、子供に教わった。
私たちは不登校、非行を止めさせたかったが、子供達はいろんな人が自分に付き合ってるという事がちゃんと判って、「陽江さん 大人を信じられないという子供がいるんだけど、困っちゃうよね」と子供が言ってくれた。
人を信頼できる大人になるんだなと、言う感じはして、そうすると相談できる。

今までハウスをやってきて、暴力の中を生き延びるという事は本当に過酷だと思う。
だから暴力は大嫌い。
ダルクの男性の利用者でもっと凄い暴力的だったメンバーが「なんであーだったんだろう」と言う事がある。
自分に居場所と信頼できる人と役割が出来てきたら、自分がなんでああだったのかというのが考えられない、自分は凄い弱い人間だった、と言っている。
自分の親が母親を殴るのを見ると、本当に腰の力が抜けちゃう、そう思ってるが、自分に恋人が出来た時に、やってしまう、判らないけど似たようなことが起きてしまう。
自分が居場所、信頼、自分の仕事が出来てきたときに、初めて「あれはなんだったんだ」と思う。

DVの問題はきちんと話し合う、専門家のところに行く必要はあると思う。
ダルクをやっていて、初め翻弄されたのは、入寮している女性がもう死にます、と言う事で話を聞いて、へろへろになって家に帰り、朝電話が来て、生理になりました、と言う様な事が何度もあった。
女性の生理前後の不安定さを感じた。
疲れと寂しさの違いが判らない事があり、前はもっと遊びに行ってしまう。
わくわく(楽しくてわくわく)とどきどき(危なくて)の違いが判らない、という。
暴力にあったことのない人は、危ないなと思ったら、そこに行かないか去るが、区別がつかない。
反対に家でもっと酷い暴力受けたりすると、このぐらい私は平気、もっと酷い暴力を受けたことがあるから、と人の感覚とか気持ちを麻痺させてしまうもの。
人の感覚とか気持ちを麻痺させてしまうから、本当にドラックが必要になってしまう、それでやっと生活するみたいになってしまう。

いつ頃介入してもらいたかったかと聞くが、それぞれその歳は違うが、皆話かけられたいと思っている。  皆小さいころから思っている。
継続的に声をかけてほしい、見てほしい、学校の先生には褒めてもらいたいと思っている。
罰する事も大切だが、再犯を防止するためにはどうしたらいいかが大切。
暴力に出会ってしまった人に対する教育と出会わずに済んだ人の教育は別にしなければいけないかなあと思います、暴力とか、暴力に対してどう逃げるかとか。
暴力に出会って、死にたいと思っている子供に危険ドラックの名前などを教えてしまうと、危険なら死ねると思って、この子たちは止める気にはならない。
障害を持っている子供たちも、すごくストレスをかかえていて、騙されたりしていろんなことと出会ったりしてしまう。
「皆のお願い」
「病院の敷居は高いけど、早く治療機関につなげてほしい」
「自分より人を優先して生きてきた、常に周囲を気にしてて、罪悪感を持っていて、生きてちゃいけないと思って世の中が怖かったりしている、と言う様なことを知ってほしい」と言っている。
「人はもう一度生き直すというチャンスを欲しい。 チャンスを下さい」と言っています。

私は乗り越えているという感じではない、自分の弱さを認めているというか、症状を受け入れて、他の人と症状を分かち合ったりして、智慧でお互いがどうやったら乗り越えられるか、智慧を共有している。
自分の不得意なことを、話し合って、話すこと、字を読むこと、判らないことを判らないと言えるような関係が初めに無いとプログラムは出来ないかなと思っているが、そこまで信頼関係を持つのは大変、学校で一番痛めつけられて生きてきているから。
私は、痛みとどう付き合うかが不安。 
痛みを抑えるために使い始めた痛み止めで再症してしまったりするので。
ダルクの運営費が足りないことも不安。



2014年9月17日水曜日

上岡陽江(ダルク女性ハウス代表) ・依存症を乗り越えて支える(1)

上岡陽江(ダルク女性ハウス代表)  依存症を乗り越えて支える(1)
57歳 10代から20代にかけて経験した薬物依存、摂食障害、アルコール依存を克服して1991年に薬物やアルコール依存の女性を支える、ダルク女性ハウスを設立しました。
ダルクは英語で薬物依存者のリハビリ施設を意味するDrug Addiction Rehbilitation Centerの略ですす。  現在、全国でおよそ50か所あり、薬物依存者が社会復帰を目指しています。

入寮は7人が定員で、通所は20人が定員で、23年もやっているので、周り住んで子育てしている人もいるので30人程度出入りしています。
私がアルコールと薬物をやめたのが27歳の時です。
26歳の時にアルコールをやめて、1年間の入寮をした。
依存症の症状が凄い時は、問題が複合的になっているので、見えずらいし、別な意識になっているので判りずらい。
振り返ると、小さいころからぜんそくがひどくて、小学校6年~中学3年まで病院に入院していた。
なんでも一人でやろうと決心していて、当時オイルショックの前でした。
小児病棟は40人ぐらいいて、通う養護学校があり、私は入院しながら学校に通っていた。
同室の友だちは、ネフローゼ症候群、リュウマチ熱、慢性耳炎、 男の友達は筋ジストロフィー、心臓病とか生まれた時から内臓器系疾患がある様な長く生きられないような友だちが一緒に育っていた。

友だちを亡くす事は大変で、葬式は無くて風のうわさで聞いて、誰も説明をしてくれない。
如何に誰かの死を迎えるときに、どう云う風に周りと接するか、が大切なのかが判ってくる。
喘息の発作を起こすのが怖くて、今は発作を起こさせない様に早く薬を飲むようにしているが、当時は薬を飲まない様なやり方があり、そのため子供達は薬を飲まない様な競争をしていたが、実は薬を盗んで溜めて薬を飲んでいた。(そこから振り返ると始まっていた)
摂食障害でもあったので、中学3年の時に過食になっていて、問題があったら自分で乗り越えて、親に言わないことが子供の掟だった。
我慢が競争の様になっていた。
美味しいという感覚はなくて、安心するだけの為にだけ、食べていた。
その後自分で子供を生んだので、子供ってこんなにのんびりしているんだと、子供には教わった。
絶えず駆り立てられるように、いろんなことをしていたし、さびしかったし、だれにも相談しないと決めてしまっていたので、辛かった。

退院して高校に通う様になって、だれにも相談しないこと、自分で乗り越えることが一番いいことだと思っていた。
生徒会長もした。
高校2年の時に、ずーっと一緒に座っていた子が突然亡くなってしまって、私も死ぬなと思った。
そこから現実感が無くなってしまった。(特に夜になると)
思いっきり泣いたりすればよかったのに、どうしていいかわからなかった。
手当たりしだいに、アルコールを飲む、処方薬を飲む、男の人と付き合うという事を3年ぐらいから始まってゆく。
高校では拒食に成っていた。 食べては吐く様になっていた。(親には気付かれない様にしていた)
色々重なり過ぎていて、今日を乗り越えるのに精一杯だった。
大学受験に失敗して、予備校に行っているが、アルコールを飲むようになった(特に土、日)
気を失うぐらい飲み、飲み始めて直ぐにアルコール依存になるなと思った。
道で倒れたり、自分が何をやったか覚えていないようなことが、19歳で飲み始めて直ぐに起きた。

依存症になるタイプの人は少し融通がきかない、柔軟性に欠けると思う。
26歳でアルコールをやめるまで3年間は、連続飲酒で、兎に角朝起きた時から飲み始める。
3時間飲んで、4時間倒れちゃうみたいな、そんな感じだった。
アルコールが入ると体が反応してしまってアルコールが出ちゃって、吐きながら飲んでいた。
アルコールが抜けてゆくと、体中震えて、寒くて、末梢神経がやられて足の裏の感覚が無く立てない。
女性の方が依存症になりやすい。 
身体が小さいから同じ量を飲むと身体の血中濃度が上がる、肝臓の大きさが違う。
「妻たちの思秋期」と言う本がでて、キッチンドリンカーという言葉があって、そういった事ががあるらしいと言われていたが、摂食障害は無かった。
自分では隠す様にするが、問題が段々雪だるまのようになってしまう。

結婚しようと思っていたときに、アルコールを辞めて結婚しようとしたが、どうにもならなくなり、恋人、友だちに電話して私は死ぬと言った。(その前に歩道橋から飛び降りようと2回ぐらいした)
友だちが横浜の寿町にアルコール依存症の活動をしている人を知っていた。
連れて行ってもらって、アルコール依存の自助グループの人たちと出会って、やめられるかもしれないと思ったが、自信は無かった。(辞めている人のそばにはいたかった)
今でも自信は無い。
私は31年前、入寮と通所をしました。
あと10日待ったら入寮の施設ができるという事で、10日間は友だちの家で過ごして、入寮する事になる。
両親には言えずにいて、両親にアルコール依存で施設にいた事を説明できたのは、1年経ってからだった。(施設をでる頃)

一日3回テーマを決めてミーティングをする。
どんな時に飲んでいたか、自分の希望はなにか、どんな失敗をしたかなどを話す。
禁断症状は辛かったが、同じような経験を話すので、自分だけではないと安心はした。
アルコール依存、薬物でどれだけ家族にいかに迷惑をかけたとか、自分をいかに傷付けたとか、客観的に自分を見つめることができる。
施設から出た時に、自助グループに通う様になる。
26歳から7年間ぐらい行っていた。
止めて16年ぐらいは、飲酒要求、薬物使いたいという思いはあった。
同じようなことも仲間のうちに起きているから、仲間内でいろいろな話をするので、家族との関係改善しようとプレゼントしたりして、家族に受け入れてもらえなくて、飲んでしまったりする仲間の話とか、迷惑をかけた人に対して返してゆく事はそんなに簡単ではないと仲間の話から教えてもらったりする。
自分の失敗は仲間の宝と言う感覚がある。
失敗が大きければ大きいほど示唆的になる。

今の自分から当時の自分に声をかけるとしたら、なんて声をかけるか?
大丈夫、治療につながれば何とかなる、友人が世界中に出来るから楽しみにしたほうがいいよ。
男を一杯追いかけなくていいよ、男よりももっと信頼できる女友だちが一杯出来るよ、と言ってあげたい。
依存症になって良かったと思う、施設と出会い、世界中に友達ができたし、自分が恐怖だった友人の死を友人たちと分かち合う事が出来た。
乗り越えるというよりも、生き延びると思っている。
家族が協力的だったので、仕事、自助努力活動も出来た。
良い時も悪い時も含めて、越えてゆくと言う感じを、施設と出会った、生き延びている仲間たちと出会ったときに、仲間たちが温かく迎えてくれたという事は私の記憶の中に残っていて、出来れば私もそういう風にしたいと今でも思っています。
1991年にダルク女性ハウスを設立 23年になる。







2014年9月16日火曜日

丹波 明(作曲家)       ・フランス仕込みの日本オペラ完成

丹波 明(作曲家)  フランス仕込みの日本オペラ完成
横浜市出身 8年がかりで作り上げたオペラが完成し、今月下旬に名古屋と東京で世界初上演される運びになりました。
作曲家の丹波さんは東京芸術大学作曲家を卒業した後、フランス政府の給費留学生として1960年パリ国立高等音楽院に入学、世界的な現代音楽作曲家のオリヴィエ・メシアンに師事しました。
その後現代音楽についての様々な研究や、作曲に取り組みフランス在住50年になります。
今回新作オペラとして完成したのは、楽劇「白峯」と言う作品です。
これは江戸時代の作者上田秋成が書いた雨月物語の中の一つの物語、崇徳上皇等を中心とした物語をオペラ化したものです。
戦いに敗れた崇徳上皇の魂を鎮める鎮魂歌レクイエムにもなっています。

楽劇「白峯」の練習をやっていますが、皆さん、戸惑いではないですかね。
皆さんヨーロッパ音楽の専門家なんです、そうすると譜面に書いてあると、それを歌っちゃうんですが、私は歌わないでくれと言うんです。
会話的なニュアンスを入れてくれと頼むので、戸惑ってしまうんです。
平安時代の崇徳上皇にスポットを当てた物語。
オペラの題材はいろんな要素から決められてくるが、半分以上は偶然みたいなもの。
日本から教えに来ていた日本文学の専門家がいたが、オペラをやってみないかと誘われた。
雨月物語などはどうなのかと言われて、12編の一番初めを読んだら、面白いと思ってとりあげた。
平安時代末期、第72代白河法皇から第77代の後白河天皇迄のいろんな天皇、貴族達のいろんな葛藤。

文化的な華やかな時代の裏には、誰を自分の後継ぎにしようかと言う後継の問題がいつもある。
白峰でも鳥羽天皇の第一婦人藤原璋子待賢門院(子供 崇徳)、第二婦人藤原得子美福門院(子供 近衛) どちらを立てようかと言う事で、争ったわけです。
自分の夫や、取り巻きの関白家、関白家自身にも、相続の問題があったわけです。
今でも続いているのだと思います。(政治の世界、産業の世界でも同じ)
仏教の輪廻の問題とも結びついてくる。 

台本も書いた。 
紹介した文学者が書いてくれる事になっていたが、上がりたい節の時に言葉が下がっていて、作曲しずらくて、頼むと直してくれたがそのうち注文が多ぎて、怒ってしまって自分でやる様になる。
自分で台本を書かなければ駄目、音楽を作りながら文章を書かないと駄目だと、世阿弥が言っている。
芸術的な環境には有った、父は浮世絵、版画を集めたりしていたし、母はバイオリンを弾いていた。
幼稚園のころから、曲を作った。(譜面は読めないが、遊びでピアノを弾いたりして)
東京芸術大学の作曲科、池内 友次郎さんのクラスにいました。
1960年フランスのパリに船で行く。(本当に良かった)
パリ国立高等音楽院に入学、作曲はトニー・オーバン、音楽分析をオリヴィエ・・メシアンに学ぶ。
作品 「万葉集による5つの歌」から2つ 
吾が面の 忘れむ時は 国はふり 峰に立つ雲を 見つつ偲はせ」 に曲を付ける。
沖べより 滿ち來る潮の いやましに あが思ふ君が 御船かもかれ」 大伴 家持
この曲で初めて、掛け声を使った。(ヨーロッパ音楽では絶対に使わないような掛け方)

ヨーロッパ音楽は全然違うが、ヨーロッパ音楽を取り入れて160年ぐらいになる。
雅楽はヨーロッパ音楽に非常に近い、ヨーロッパ音楽と本質的に同じ。
決定音楽(音差によって音の高さの基準を決める) 観念的な音の決め方
日本の音楽は非決定音楽、基準はない。出だしは決まっていない。 
その人の音域によって上音、中音、下音がある。  相対的に決める。
「白峯」 非決定性を使っている。  
どういう風に決定音楽のなかに非決定音楽を入れこむか。
フランス パリの1968年学生掻動「五月革命」 文化の破壊激動の時代、占領されたし、伝統的なものばかり強調する先生が数人追い出されてしまった。

1968年に作られた「弦楽四重奏とポテンションメーターのための「タタター(真如)」」
タタター」はサンスクリット語 真如
人間の観念を取り除いてしまった、と言う意味で「タタター」と言う名前を付けた。
人間の観念というのは何かと言うと、今までの伝統の音楽理論を完全に否定した、それを解体して新たに立ち上げる。
ヨーロッパ音楽では絶対にやってはいけないと言われた事だけで、作曲した。
それでも曲が出来るんだぞと言う事を試してみました。
ポイントの一番大きなものは、掛け声ではないかと思う。
当時伝統音楽がある種の行きずまりになっていたので、どうしたらいいかと探していた時代だった。(それが掛け声だった)
掛け声は心理的素材。 掛け声は語意を通さないで表現できる音なんです。(感情を表現する)
ヨーロッパ音楽で教育を受けた今の歌い手はなかなか出来ませんね。
音楽と言うのは変遷するものだという事を理解して、心を広く持って聞いてほしい。







2014年9月15日月曜日

高橋淳(日本飛行連盟名誉会長) ・今日も飛ぶ、91歳現役パイロット(2)

高橋淳(日本飛行連盟名誉会長)   今日も飛ぶ、91歳現役パイロット(2)
今日は戦後の話。  戦後7年間、昭和27年までは日本では空を飛べなかった。 
いずれは空を飛べるのではないかと、希望は持っていた。
昭和27年 グライダーを教えてもらっていた教官と偶然に新橋で出会って、グライダークラブを作ることになり、好きな人を集めた。
誰かがグライダーの図面を持っていて、自分たちでグライダーを手作りで作った。
当時藤沢に藤沢飛行場(ゼロ戦の基地だった)で、そこでグライダーを飛ばした。(大きなパチンコみたいなものでやろうとしたが、)自動車で飛ばそうと始めた。
日本航空が定期便を始める。  3機チャーターして始まった。
応募したら合格したが、まだパイロットとして乗れない、操縦はアメリカ人との事で、パーサーとして乗ることが前提だったが、それは嫌だったので、蹴飛ばして帰ってきてしまった。
3機のうち1機は羽田を飛び立って、大島の三原山にぶつかって全員死んでいる。(もく星号墜落事故
若し日本航空に入っていたら1/3の確率で亡くなっていたかもしれない。

昭和28年に社団法人で日本飛行連盟と言う組織を作った。
飛行機をセスナ1機寄付していただいて、その飛行機で教官としてパイロットを再訓練して、民間の免除をとらせて、日本航空、全日空、の前身が色々あったので、そういう会社にパイロットを養成する仕事をやっていた。
その仕事は安いので、ビラまきなどをしたり、宣伝アナウンス等をして稼いで、何とか維持していた。
戦時中は敵がいて弾が飛んでくるが、戦後は敵は天気、天候は大変な敵でこれに逆らったらいけない、巧く付き合わなくてはいけない。
言葉は英語で50~100覚えていればいいので、大丈夫だった。
戦争中から敵機を見つけるのは非常に重要な事だったので、今でも若いものよりも視界に入る機体を見つけるのは早い。
横に首を振る様に見るのではなく、或る程度視界を20~30度に区切ってみると、見落としが無い、区切って縦に上下に見る。

戦争中はコンパス1個で何時間も飛んで、中には帰ってこない飛行機がありますが、今はGPS等があり、今どこにいて、後何分で着くとか非常に楽ですが、器材が故障して使えなくなっても、私は戦争中何もなくても帰ってこられたので、それが役に立ちます。(2段構えのカバーを自分で持っている)
飛行機の教官は難しいと言えば難しいが、軍隊、自衛隊の教官だったら全部マニュアルがあるので、飛行適性が無いと落とされる。
民間のクラブであると、お金を払ってくるので、器用不器用はあるが、なんとか免除を取ってもらうかが大変。  
戦争中、戦闘機乗りは操縦が荒いが、私などが操縦する大型機は荒くはない。
訓練では結構疲れるので、1時間以上は教えない。  
ほんの2つ、3つ勘所を教えるが、褒めてやることが大事、空を楽しんでもらう事が大事。

難しいのは着陸、滑走路が短いところを機体に荷物、燃料一杯積んで離陸するのも難しい。
飛行機は正面から風を受けるのが一番楽で、右から風が吹くと風に流されない様に修正しながら滑走路に降りないといけない。
今は風の方向はコントロールタワーから指示があるが、昔は吹き流しをみて、方向を確認して後は勘でやってた。
赤十字飛行隊長  飛行連盟の名誉会長をやっている。
営利団体じゃないので、何か役に立つ事をしようではないかと言う事で、当時警察も消防隊もヘリコプターを持っていない時代だったので、日本赤十字本社と話をして、災害が有った時に飛行連盟の飛行機で災害地に無償でボランティアで医療品、医者、看護師などをとどける組織を作ろうと思った。
昭和38年に作った。  
パイロットは10数人で組織して、初代隊長が昔のゼロ戦の司令官だった源田実さんだった。
昭和39年新潟で大地震があり、それが第1回の出動だった。
石油タンクの燃えるのが見えた。  飛行場の上に行ったら滑走路がまっすぐなはずが液状化現象を起こして蛇の様になっていたが、真中にちょっとまっすぐなところがありそこに降りた。
毎日のように必要品の運搬をやっていた。

東北水害、秋田沖地震、大島の元町だとか、色々あったので活躍の場があった。
全国各地の飛行場に自家用飛行機を持っている方がいるので、組織に入ってもらって、災害発生時にボランティアで参加してもらう様に動いて、今は全国で38有ります。
この頃は自衛隊のヘリ、防災ヘリなどが出来たので、なかなか表だった出番が少なくなった。
臓器移植などで活躍したことがある。
災害時には滑走路が無くても、着陸できるヘリコプターが一番役に立つ。
プロパイロットは、仕事をしてお客さんからお金を頂きます、頂いた上にあーいい仕事ができたとか、今日はいいフライトができて有難うとお礼を言われるようでないとプロではないと思っている。

先頭を切って私はやらない様にしている。  人を育てないといけないので、今は他の教官にやってもらって、休憩している間にやる様にしている。
若い人たちとは先の読みが違うと思う。  それは経験、天気予報はあるが、その土地その土地の天気があるので、もうじき風が強くなりそうだなと感じて止めた方がいいなと、早く判断します。
教本にはスタンダードなことは書いてあるが、その時の状況は多少違うので、修正の仕方が経験を積んでいると、早め早めに安全に出来る。
おとなしく操縦する事が一番いい。(乗り心地をいつも考えています)
聞いてこないような教官は伸びが無い。(日常の雑談の中から聞いてくることが大事)

自衛隊に講演に行くが、自衛隊の教官も戦争経験者はいないので、戦争中どんな精神状態だったとか、昔は叩かれて精神教育したかとか、そうした事は自衛隊の教官はそのようなことは言えないので、私の方で話をする。
何百回と飛んでいるが、満足したフライトは年に1回か2回でしょう。
名人、ベテラン等はない、ただ時間を余計に乗っているだけです。
今レジャーで飛んでますが、レジャーで命を落とすのは最低だと思います。
レジャーで天気が悪そうになると、今日はもうこれで止めようと、私が早めに止めようと言えば止めます。
海を沖の方を見ていて、沖に白波が立ってくると、風が段々こっちに来ると判るので、早めに辞めさせる。

鳥をまねるが鳥には成れない、鳥は墜落しないから。
日々向上を目指す、自分が向上していると思えば、それでいいと思う。
周りに心配をかけない様にいろいろ考え、やっている。
このベテランがなんでこんな事故を起こすのだろうと、思う様な事があるが、人身事故になっているが、過信している、慣れでなく狎れになっている。
何でも慣れてきた時が、ミスを起こすと思う。







2014年9月13日土曜日

高橋淳(日本飛行連盟名誉会長) ・今日も飛ぶ、91歳現役パイロット(1)

高橋淳(日本飛行連盟名誉会長)   今日も飛ぶ、91歳現役パイロット(1)
91歳になります。 大正11年 生まれ 戦時中は海軍の大型攻撃機の操縦士として、長く厳しい戦いを生き抜いてこられました。
戦後は、操縦技術の教官として数多くの後輩を育て、赤十字飛行隊の隊長として、災害時の薬品や血液の輸送、医師や看護師の搬送などボランティアで活動されて来ました。
今も毎週日曜日には教官として操縦桿を握るという高橋さん、その言葉の端端には長い操縦士としての経験から得られた、数多くの人生のヒントが込められています。

私の場合は、大型の旅客ジェット機以外は、小型の飛行機はほとんど乗っています。
今のっているのは、セスナ、特殊なパイパーカブとかに乗っていることが多いです。
教官をやっていることと、グライダーを引っ張る事、グライダーの教官もやります。
日曜日は静岡の富士川に滑空場があるので、静岡県航空協会のグライダー、飛行機があるので、そこで飛んでいます。
普段は調布の飛行場から、頼まれた仕事で飛びます。
視力は今、メガネをかけているが、下が老眼鏡がはいっているだけで、視力は1.0あります。

飛行機との出会いは?
子供の時は飛行機に憧れていたので、おもちゃは飛行機だった。
模型飛行機屋に入り浸りで、模型飛行機を作って飛ばしていた。
4人兄弟だが直ぐ上の姉とは9歳違っていて、一番上の兄が大学を出て新聞社に勤めていて、羽田から乗せてもらったのが最初のフライトです。(小学校5年)
上から見た景色が凄く素晴らしかったので、パイロットになろうとそこで決めた。
父は医者だった。赤坂見附に高橋病院があった。 
大正12年の関東大震災で、震災にあって、大森に移って医院をやる様になる。
家から自転車で羽田飛行場に飛行機をよく見に行っていた。
C5の羽根が一枚の飛行機がありそれに魅かれた。(朝日新聞社の飛行機)

小学校2年に父親が亡くなり、一人っ子見たいに母から育てられて、何事も中庸であれと言われて育てられた。
中学に行って、3年の頃からグライダーの講習会が新聞社などで催されて、好きで参加してグライダーに乗っていた。
当時徴兵検査があり、軍隊に取られるなら、どうせなら飛行機をやってやろうと思った。
予科練で試験を受けて海軍パイロットになり、4~5年で民間に移ればいいかなと甘い考えでそう思った。
倍率は凄かったが、一生懸命勉強して予科練に受かって海軍に入ったわけです。
同期生は840人ぐらい入った。  土浦航空隊に行く。
「お前たちは国に身体を捧げてるんだから、戦争が始まれば戦わなければならない、戦死をして靖国神社に祭られることが一番名誉なことだ」、と言う様な教えの精神訓話が年中ありました。
一人へまをすれば全員が殴られるというような状況だったが、誰も辞めなかった。

予科練に入ってすぐに、大東亜戦争が始まった。
海軍だから海の上ばかり飛ぶ、ナビゲーター、無線通信者、が必要なので840人いても全部パイロットになれるわけではない。
適性検査をして、操縦はグライダーに乗っていたので問題はなかった。
しかし何故か占い師がいて、一人一人判断した。
840人の中から約200人が操縦士のコースに行った。
全員が必要なのが無線、その訓練が一番大変だった。
暗号無線が来るので、1分間に90~100文字ぐらい送信、受信をしたりする。(カンニングには便利だった)
百里が原海軍航空隊 練習用の基地だった。 
飛行場が、1000mの四角があり草っぱらで滑走路は無い。
他に筑波航空隊、矢田部航空隊 3か所あった。(操縦士の訓練の飛行場)

「赤とんぼ」(オレンジ色の複葉機)に乗り出したのが、丁度真冬の1月、2月だったので、むき出しだったので非常に寒かった。
後ろに教官がいて、30cmぐらいの棒を持っていて、頭を殴られた。
教官は戦地から帰ってきたりしている人達で、常に入れ替わって又戦地に行く様な状況で統一した教育などは無かった。
乗りにくい、着陸のしにくい飛行機、尾輪式で前が見えないので自分が色々考えながら訓練を受けたので、本当にいい教官に習った覚えが無い。
着陸するときにほんのちょっと頭を挙げるので前が見えない、そんな飛行機だった。

当時はゼロ戦が憧れだった。
艦上攻撃機、急降下爆撃機、大型機に分けられるが、当時から背が大きかったので(180cm)軍艦に2週間乗せられて、頭をぶつけ通しだったので、船の生活をしたくなかったので、大型機なら船には乗らないので、大型機を希望した。
大型機が一番撃墜される率が一番多かった。(後に判る)
攻撃機(爆撃機とは言わなかった) 魚雷を積んで、敵の船を沈めるのが目的だった。
燃料を積んだら15時間ぐらい飛べる機体だった。
魚雷攻撃がそう当たるものではない。
魚雷攻撃で巧く当たったのは、戦争初期だけの、イギリスの「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」だけが当たったでしょう。  それ以後は大型機で魚雷攻撃に行けば、何機か必ずやられた。

まっすぐ飛んできて、魚雷を落とすので、守る方からすると守りやすいこともあるが、日本の飛行機は防弾設備が無い。(それを犠牲にして性能を良くしている  終戦までそうです)
一式陸上攻撃機は羽根の中がほとんど燃料タンクですから、燃料が漏れると直ぐに排気ガスから火がついて「ワンショット ライター」と言われる様に、直ぐ火が付く。
敵の船の1000m前で魚雷を落とせと言われているが、もう船のすぐ前。
弾をよける方法はマニュアルには書いてなくて、先輩から甲板よりも下を飛べと言われて、それが一番よけられる方法だった。(大砲は下の方向には向けられないので)
高度計は気圧計なんです。  
基地から何時間も飛んでゆくと気圧が違うので、高度計がまともに指していない。
戦場につく20分前に海面すれすれにして、しぶきがあがったところまで降りて、そこで高度計をゼロにする、そういったことまでしていた。

魚雷攻撃に行くと、半分は帰ってこなかった。
当たっても1割か2割しかあったっていなかったと思う。
火だるまになったら、敵艦に突っ込もうとの想いがあったが、私が他の乗務員の命を預かってるようなものなので、どうしても乗っている連中を殺したくないと思っていた。
攻撃の時点で「やばい」と思う様な人は精神的に負けている人、遺書を書く様な人、身の回りを綺麗にする人は大概帰ってこない場合が多い。
運は付いてくるものではない。
戦争が終わって、これで命が助かったなと思ったのが本音だった。
暫くしてから飛べなくなったなと、寂しかった。
家は神奈川県の鵠沼に疎開していた。
終戦は北海道の女満別の近くにいた。
大型機だったので、20~30人は乗れるので、8月24日に復員する兵隊を乗せて松島まで飛んで、そこから帰ってきた。(飛行機は8月24日までしか飛ぶことができなかった)







山口巌(帽子職人)        ・神戸で帽子を作り続けて60年(再放送)

山口巌(帽子職人)      神戸で帽子を作り続けて60年(再放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/07/60.htmlをご覧ください。

2014年9月12日金曜日

森村泰昌(美術家)        ・語り継ぐことの大切さ、美しいとは何か

森村泰昌(美術家)  語り継ぐことの大切さ、美しいとは何か
セルフポートレート、自らが映画女優や名画の登場人物などに扮して、生身の自分を通して過去を蘇らせ、現代社会を痛烈に、えぐり取ってきました。
内外で美術館で個展を開き、「なにものかへのクレイエム(鎮魂)シリーズ」では、語り継ぐことの大切さ、美しいとは何かを問いかけてきました。
そして今年横浜で開かれている、現代アートの祭典第5回横浜トリエンナーレ2014ではアーティスティックディレクターとして指揮をを取っています。
今回のテーマは「華氏451の芸術、世界の中心には忘却の海がある」というものです。
大きな災害や原発事故について、沢山の人が語っているが、語る人よりも取材拒否をしたり、沈黙を保っている人の方が圧倒的に多いはず、沈黙には多様な沈黙がある。
それらの沈黙の重みは記録化されないし、黙っているから無かったことになる。
芸術の眼と言うのはそういった気がつかないところをきちんと眼を向けることだという、森村さんに未来に語り継ぐ美術の役割、明日を見据えたアートのあり方について聞きました。

横浜トリエンナーレ2014が始まって1カ月、子供が非常にたくさん来てくれて驚きました。
テンポラリーファンデーション 立体作品 大人にとって一番難解な作品と思われたものが子供に一番人気があった。
子供は反応を素直に表現する。
判らなくても全然かまわないと思う、特に美術などは、いろんな思いを託して一枚の絵をまとめ上げるので、それが判ったなどと言うのは芸術家に対して失礼だと思う。
第一印象、新鮮な感受性があるとそういったものを感じる。
身体、心に残っていて、色々体験を経て5年、10年経ってふっと判ったりする。
或る展覧会をやった時に、家族と小学生の子供がいたが、その子は怖くて入れなかった。
20年後に、同じ作品で同じ場所で行ったが、1通の手紙が来て、(入れなかった子供だった子から)
感動したので思わず手紙を書きましたとの事だった。

今回のテーマは「華氏451の芸術、世界の中心には忘却の海がある」というものです。
レイ・ブラッドベリというSF小説作家の本の中に書かれている。 華氏451度
本なんて読む必要がないので燃やしちゃえ、と言う話。
本を読むとは何なんだろう、と考えて、それぞれいろんな考え方があるんだなあと知る事になるんだんなあと、そんなことをしていると世の中統一出来なくなるので、本を無くしてしまうのだが、何も考えないで遊んでいると、その間に世界戦争が起きて社会が滅びてゆく。
私たちにとって大事なもの、大切なものを忘れてしまうと、とっても怖い事になるよと言うのが、このレイ・ブラッドベリの未来の私たちに向けた警告の書だと思って、今回は「忘却」をテーマにした。

或るとき忘れてしまう、新しい一歩を踏み出すこともあるが、情報化社会、情報化する事にあくせくする。
本当は情報化されていない領域は、海の様にひろくて深くて重いものが、世の中に一杯あることをついつい忘れてしまう。
世界認識がとっても狭くなる。
表現は、一般的にドンドン色々なことを饒舌にアピールする事。
物凄く美しいもの、物凄く悲し出来事、物凄く腹立たしい時に出会ったとき、言葉が出ない、絶句する。
その時情報量としてはゼロ、でも沈黙の中に含まれている重いもの、深いものは有るはずで、そこに眼差しを向けることは、とっても大事なのではないかと思う。
忘れることは一種の智慧、忘れる事とどう付き合うか。
大切な人が亡くなったと、ずーっと引きずっていると生きていられないので、宗教的な儀式とかで徐々に距離を作ってゆく事で、懐かしいことなどに置き換えてゆく智慧を日本人は持っていると思う。
一気に何かが忘れられて、一気に何かが変わって、周りの事がなかったような事になってしまった様な忘却があって、新しい情報が上に積み上げられる、それがどんどんスピードアップしている。
今の時代はそうではないか。
人間の生きるサイクルとは、どうも違うのではないか。
忘却のあり方が、危険だと思う。 (世の中がドンドン変わってゆく)

1985年 最初私がゴッホに扮して写真にした。 自分の作品は過去形。
過去を新しい器に移し替える事によって、何か今のものに響く様にしてゆく手法だった。
前回20世紀という時代をテーマにした。
ちょっと前の時代は大切にしないで、うっかり忘れる。
写真のフィルム、デジタル化されてきて、あまり製造されていない。
ちょっと20世紀を振り返ってみようと思った。

世の中がドンドン新しく、スピードが速くなってゆく中で、大事なものまで捨てていってしまうというところに対する危機感。
歴史は上書きされてゆく世界ではあるが、過去のものがジワーッとその上に滲み出て来て、にじみは感じるのが普通だったが、沢山上書きされてしまうと、下の層は滲みきれない、そうすると新しいものしか知らない様な感じになってしまうのでは。
こういう時代にしてしまっているのは大人なので、大人の責任なので、若い人に謝ってから、ではどうしたらいいのかと考える、と言うのが本来ではないかと思う。
私の作品作りは間違っていなかったのではないかと思う。
昔のものを引っ張りだして、それを今どんなふうに受け継いでいったらいいのだろうかと、次世代に作品として伝えると言う事をやってた様な気がする。

展覧会ででちょっとした手がかりがあると世界が見えてくる、と言う事があるので私の音声ガイドで語りかける、「子供に語る芸術の心」のカタログ、 この二つを手掛かりに作品を理解してもらう様にしている。
これをやることによって優しい言葉、文字で説明するので、自分に取って勉強になり判ってくる。
今回の展覧会の一番おいしいところ、エッセンスを凝縮した、「忘れ物」と言う本一冊が一つの展覧会になっている。
私は、次世代に学べですね、質問されると一生懸命考えなければならない。
お互いに学び合うという関係だと思う、世代は関係ないと思う。






2014年9月11日木曜日

日下 潔(医師)         ・被災地に新しい在宅医療を

日下 潔(医師)       被災地に新しい在宅医療を
宮城県の出身 67歳 東北大学医学部を卒業した後、石巻赤十字病院等で緩和医療の専門医として、治療の第一線に立って、来ました。
3年半前の大震災の際、日下さんは石巻赤十字病院で運び込まれる人達の、死と向き合いました。
その日下さんが石巻の在宅医療のクリニックの院長になって、半年になります。
被災地で日下さんたちが繰り広げている新しい在宅医療とは、どのようなものなのか、その目指すものはなにか、日下さんが医師として辿ってきた道を交えながら伺います。

石巻赤十字病院は主に癌の方を見ていましたが、今はクリニックに勤務するようになって、癌以外の方も多く見るようになっています。
ほぼ毎日の様に仮設住宅の患者さんを見ると言うのがこれまでと違う点です。
石巻は広い市なので、色々なところに仮設住宅があり、不便なところにも仮設住宅があり、交通手段がないし、車を運転できないと云う人もいて、在宅医療は欠かせない医療サービスになってるかと思います。

医者になろうとした訳
私の家は代々、医師の家系で、父の姿を見て育ったので、大学進学の時に選択しなくてはいけなくて、迷ったが医師の道を選んだ。
医学の講義を受けている時に、ペインクリニックの講義を受けて、これは素晴らしい分野かなと、ペインクリニックを志す様になった。
ペインクリニックは麻酔科の分野にあるが、麻酔は手術の時に痛みを感じさせなくするというのが麻酔の仕事で、全身麻酔、局所麻酔がある。
麻酔科に入ることにした。
大学病院に務めているころは麻酔とペインクリニックをやっていました。

2006年から石巻赤十字病院に行く。
平成18年に石巻赤十字病院が新しくなって、緩和医療分野もたちあげるという話を聞いて、私が行ってお手伝いできるかなと言う事で、平成18年に移ることになる。
主治医になって癌で苦しむ患者さんをいれて症状を和らげるという事を目指したが、国の方針も一般病院でも緩和チームを作って、癌の患者さんを見ていく様な方向性の変換があった。
癌対策基本法も作られた時だったので、自分が主治医になるよりは、他の科の患者さんを他職種で一緒に見てゆくように方向転換して、チームの仕事を多くという様にしていった。
緩和ケアーチームそのものがまだどこの病院でも新しい時代だった。
宮城県では東北大学病院、県立ガンセンター、仙台医療センターで緩和ケアーチームが見るよりも、もっとも多い患者さんを石巻赤十字病医が見ていたという実績は、早い時期から専従できたことが、大きいと思います。
本当の緩和ケアーの専従医としては、宮城県では私が初めてという事になります。

3月11日 揺れた瞬間は最後の患者さんを見ている最中だった。
自家発電で直ぐには電気は点いたが、6階に行って様子を見ていたら、特別医療体制のアナウンスがあって、プロエリアに行って準備をすることにした。
津波はTVで名取市に押し寄せていることを知る。 石巻市にも津波が来ることを実感する。
直ぐに怪我人が運び込まれると思っていたが、全然人が来なくて、どうしたものかと思ったが、後で考えると津波で来る手段がなかった。
夜から翌朝にかけておおくの患者さんが運び込まれて、病院は一変した。
停電でうちの病院だけが明るかった。
全国から医療チームが来てくれた。
運ばれてくる人の状況に応じて色分けをして、判断するという体制を取った。(マニュアルにもあるし、前年大がかりな訓練があってそういう作業をした。)

①直ぐに治療しなくてはいけない患者は赤 
②少しは待ってもらえるのかなと言う患者は黄色
③軽傷で歩ける人は緑
④すでに亡くなっているか、まだかすかに息をしているが、その人を全力で治療すると、治療すれ  ば助かるだろうと思われる他の人を10人見殺しにするという重症の患者さんは黒 
 黒で私のところに来た人は全員亡くなっていた。
病院は生きている患者さんを治療するところですが、亡くなった方がドンドン連れてこられた。
町全体が水につかっているので、遺体安置所にたどり着けないので、病院に連れてきたと言うのが答えだった。
黒エリアで担当したのは約220名、震災だけでなく病気で亡くなった方もいる。
普段の医療の延長として捉えて動いていた様に思う。
住民の方も配属されて手伝ってくれていたが、精神的動揺があったようだ。

その後じわじわと考えて、普段から亡くなってゆく人に接しているのと、災害時の仕事と言うのは違うんだなと言う事は大分経ってから、少しずつ感じるようになって、事務的に扱っていたので反省している。
そのことが段々深くのしかかる様になる。
今年4月在宅医療のクリニックの院長に就任する。
癌の患者さんは最後は自宅で過ごせるという強い考えがありました。
石巻の医療事情に関しては、震災前の患者さんが石巻赤十字病院に集中するという事は有りましたが、石巻市立病院が壊滅的ダメージを受けて患者さんが受けられなくなって、さらに石巻赤十字病院の仕事が増えた。
癌の患者さんも出来るだけ病院外で見ていかなくてはいけない事になり、震災に関係なく在宅で患者さんを見ていかないと、癌難民が増えるのではないかと、自分としては出来るだけ病院以外で見るという仕事をする、それが将来的の自分のためにもなるかと思って、模索を始めた。

祐ホームクリニックの武藤理事長から誘いをうけたが、自分で在宅開業をする気持ちはなかったので、即答はできなかった。
後からお世話になろうと、決断した。
うちのクリニックでは役目の分担がはっきりしていて、どこをどう周るかを担当の事務の人が決める。
採血なども含め、同様に分担して、効率よく行う様にする。
廻る時も、看護師、アシスタント 3名で一緒に廻る体制。
1日に12~20名近くまで廻る。
仮設住宅にも行くだろうとは想像していたが、診療のある日は毎日のように行きます。
お年寄りが仮設に残っていて、若い人は仕事を見つけて仕事の関係で仮設住宅を離れる。
厳しさは更に強くなってゆくと思う。
出口は見えないが、どのような状況になるか、高齢、経済的に恵まれない方は、どういう事で仮設住宅から移っていけるのか、そこがよく見えない。
医療だけでなく介護との連携が必要になってくると思います。

在宅医療は益々ニーズは多くなると思います。
地域の医療・介護の連携は益々重要になってゆくと思います。
市にも連携の委員会があり、医師会、行政の方たちとの話し合いがでてくると思います。
いろんな面での連携が、今後出来てゆくのではないかと思います
電子カルテの連携、他のクリニック、他の介護施設、ほかの業種とも一緒に情報を共有できるシステムを作っているので、それを大いに利用できればいいのかなと考えています。
これまでの医師人生を振り返ってみると、流され流され、と言う風な生き方をして来たように思います。













2014年9月10日水曜日

徳川恒孝(徳川記念財団理事長) ・海外で知る江戸の遺産

徳川恒孝(徳川記念財団理事長)   海外で知る江戸の遺産
徳川さんは江戸幕府、徳川家康公から続く徳川宗家の18代当主です。
昭和15年東京生まれ、74歳 会津の松平容保家の分家の生まれで、母方の祖父、17代宗家 徳川家正さんの養子となり、23歳で徳川家の宗家を引き継ぎました。
学習院大学政経学部を卒業された徳川さんは海運会社日本郵船に入社し、2002年副社長を退任されました。
その翌年、徳川記念財団を設立し、徳川宗家の歴史的資料の保存や研究、徳川賞を創設して、江戸時代の研究者を支援しています。
徳川さんはビジネスマンとして、世界の多くの国々を廻りながら、各国の文化や歴史に触れ、様々な民族の人達と接して日本への高い評価を再認識したと言います。
特にアメリカに駐在したとき、アメリカの歴史学者から、260年余り続いた江戸時代の平和は世界史的に見ても希有な例であると言われたことは印象に残っていると言います。
徳川さんは著書、「江戸に遺伝子」で江戸時代の歴史や文化を見直してはと語っています。

退任後直ぐに、徳川記念財団を設立しました。
戦災で盛大に焼けてしまったのですが、それでもいくつかあり、財団を作って、10年になります。
WWF、自然保護団体の日本の会長をしたり、他にいくつか財団の会長、理事長をやっているので結構忙しいです。
私の先代は祖父 家正 その長女が私の母です。
中学生に入ったころ、おじいさんから家に来るかいと言われて、来ました。
その前は会津の容保家の分家(松平恒雄)の生まれです。

23歳の時に徳川家の宗家を引き継ぎました。 
日光、久能山のお祭りには会社を休ましてもらって、行きました。
例大祭の時には衣装を付けて行いますが、式が終わった後に御所に参拝に行くが、階段をずーっと登るので、はかまを踏んでしまったり、降りるときに木靴が外れて、階段を転げ落ちてしまった事がある。
翌年からは毛まり用の皮靴になりました。
中学生の初めころか、お爺さんに徳川家康を知っているかいと問われて、当時真田十勇士がヒーローでその話をした、家康はとっても悪いやつで、正義の味方の真田家をいじめるものだから、猿飛佐助等、真田十勇士がそろって家康と闘うが、天海僧上という魔法使いの様なものがいて、いつも難を逃れちゃう、お爺さんそんなことも知らないの、と言ったがげらげら笑われて、これからいろんな本を読むんだよと言われた。

日本郵船に入って、先祖が鎖国したので、何とかしなくてはいけないとは、全く思わなかった。
徳川を意識したのはアメリカに勤務したとき、ジャパンソサエティー会場であるお爺さんが話しかけてきて、将軍の徳川だと言ったら、手をつかんで離さない。
あなたは大変な家を継いでいる、260年完全な平和な国を治めて、巧みに国を豊かにして、文化を育てた、こんな国は世界中に日本しかない、後を継ぐ子孫の一人なら是非勉強しなさい、と言われた。 ハーバード大学の大先生だった。
外国から見た日本と言うものの中で、江戸時代がそんなに高い評価を受けていたことを知らなかった。
徳川幕府が鎖国をしたために、日本が非常に遅れて、封建主義、暗黒の時代が230年ぐらい続いた、と当時は学校で教えていた。
アメリカでの先生の話を聞いて、そんな見方もあると思った。
戦争をしないで、国を守ると言う体制が、家康公の時代に確立したんだと思います。

「江戸の遺伝子」 著作
同じ時期のヨーロッパの文明と比較しながら行くと、
参勤交代 どこからも評判が良くない。
ヨーロッパでは二つの国家の型がある。
フランス型として、国中の小さな大名などが全部ベルサイユに住んでいる。(集中型国家)
そこに大変な数がベルサイユに住んでいた。 8000人
自分の領地の天災などに対して、無頓着で、これだけの金をもってこいと言う様な感じだった。
もう一つが全く逆なドイツ風、ドイツが日本に開国を求めてきた江戸の末期、27ぐらい国家があった。 27カ国と交渉をせねばならず、結局交渉は成立しなかった
ドイツではベルサイユ、江戸みたいなところがなかった。(分散型国家)
日本のやり方は分散した国家の殿様が毎年、一年おきに江戸に来る。
二つのシステムの両方を取ったのが、参勤交代。

ある意味、日本中を視察しながら、行ったり来たりした、産物、豊かさを眼に見ながら行ったり来たりする。
若者が都会に出てきて勉強して、後に大変な人になる。 侍に限らず、下働きの人を含め。
青森の人も薩摩の人も、いろんな藩の人が江戸で交わる事になる。
それを260年続いたので、文化全体が広がってゆく。
明治になって、日本が一遍に新しい国に代わる下地は参勤交代にあると思う。
そういう中から、地方名産品が出てくる。
江戸で売れる名産品を作る、共通テーマ。(今と変わらない)
近代国家に入るための地ならしはほとんど江戸時代に完成していた。

武士の教育
藩校があるが、寺子屋教育は盛んだった。
文字が書けないと、商売はできないし、地方でも行政は村役人に投げられているので、村役人になるためにはきっちり字が書けないといけないので、地方でも教育が盛んです。
1800年代のはじめとしたら、世界で日本が一番識字率が高い。
職業に合う様な勉強をしてゆく。  寺子屋が使っていた本は3000冊ある。
授業料お金で収められない人は、掃除をしたり、いろんな方法でお礼を返そうとする。
人間関係は濃密であった。

日本は、江戸時代は世界で最も清潔な国、国民で有ったと思われる。
風呂屋、必ず一日一回は風呂に入る。
下水道処理は流すことを考えるが、貴重な肥料と成る。
江戸城のトイレは一番栄養価が高い、貧乏長屋のトイレは薄くて肥料の価値が下がる。
江戸城のトイレを取る権益を持っている家が一つ有って、260年間ずーっと汲まれる。
次が各大名の屋敷、豪商など。
台所の最後のごみは捨てられて、そこが埋め立てに使われる。
再利用、再利用されて、ゴミにはならない。

ベルサイユ宮殿には当時トイレは一つもなかった。
木の箱に、上に丸い穴があいていて、下に便器を入れて蓋が閉まる、西洋式トイレの原型。
毎朝それを庭の茂みに捨てる、だからベルサイユ宮殿は驚くほど臭いと言われ、事実そうだったんでしょうね。
今は家業を継ぐ、と言う事が無くなってきて、小さな単位になってきて、西洋の方がはるかに家を守るとかと言う事に力が入っている。
日本の方が社会の基礎と成る単位、家をばらばらにしてしまった、のではないかと思っている。
イギリス、フランス、アメリカなどはもっと、家の関係を大切にしている様に感じている。
日本では無くなし過ぎたと感じる、家が中心で家族が集まってくるように、家族を大切にして行かないと、家族が持っている社会の基礎、道徳、と言う様な部分が無くなってきているので、馬鹿げた事件が有ったりするが、それを止めてゆく力が本来家族の持つものだと思うが、そういったところが心配です。

グローバリゼーション 日本にいい影響を与えていないと思う。
グローバリゼーションが悪いとは思わないが、日本がせっかく持っていたいい部分を捨ててしまう事は良くないと思う。
社会としてのモラール、震災後の日本は、綺麗な列を作るが、他の国では人を突き飛ばして、物を取って行ったりするので、日本人が古来持っている道徳、社会はまだ大丈夫だと思うが。
日本が一生懸命輸入するのは、西洋の都会文明の部分に眼が行くが、そうではなくて自然を守ろうとするルールの厳しさは日本よりはるかにきつい。
自然と共に生きている様なものを早く取り返さないと、逆にこっちの方が機械文明にだけ一生懸命になっている変な奴だと思われるかもしれない。
日本的感覚はほとんどその間に築かれたと思うが、急速に失われつつあり、家の考え方、家族とかいろんなことがあるので、ちょっと心配です。

平和が第一、日本はいい国としての基礎を持っている。
言語、学力も同じ、この良さをもっと大切にした方がいいと思う。
徳川を倒して150年、最初の75年は戦争ばっかり、そのあとの75年は違う。
平和を何とか守りたい。
国の持っている良さをもっときっちり守った方がいいと思う。












2014年9月9日火曜日

大木晴子(元フォーク広場歌姫) ・あの歌声から45年、新宿西口広場の歌姫

大木晴子(元フォーク広場歌姫)  あの歌声から45年、新宿西口広場の歌姫
昭和44年2月の土曜日の夕方の事です。、
新宿駅の西口の地下広場に数人の若者がギターを片手に反戦歌を歌い始めました。
やがて、1000人、2000人と人が増え続け、最後となった7月には7000人が集まったという、新宿西口地下広場、しかし機動隊が出てフォークゲリラと呼ばれた反戦の歌声は消えてゆきました。
ベトナム戦争反対を訴え歌を歌い、道行く人と議論を交わした5か月間、参加した若者もニュースでそれを見ていた若い人達にも、大きな影響を与えました。
その中心にいたのが歌姫と言われた山本晴子さん、今は家庭の主婦大木晴子さん。

過ごした時間をとても幸せに思っているので、あまり歳を取ったと言う風には思っていない。
昭和44年、1969年2月28日 夕刻からおよそ5か月間、中味がとても濃かったので凄く人生の中の濃い時間の様な気がする。
西口広場で最初に歌った歌は「友よ」だったと思います。
仲間たちは10人はいなかったと思います。
ベトナム戦争が大変で、フォークソングを歌いながら戦争反対の意思表示をしようと言うのが趣旨だったので、自分たちの心のメッセージを話しながら集ったのが1969年の地下広場でのフォークイヤーの始まりです。
女性は何人かいたが、主に歌っていたのが私だけだった。

きっかけは?
前年の12月に、新宿で花束デモをベ平連がしたんですが、それに関西からフォークソングを歌って反戦の意思表示をしている人達がいて、その人たちが来て、一緒にデモをしたんですが、それがきっかけになったと思います。
私はクリスチャンで教会でもベトナム戦争にかかわって、子供達にいろんなものを送ろうと運動をし
ていたが、生ぬるく感じて、ベ平連デモに行ってみようという事になり、月に1回参加するようになる。
ベ平連は小田 実開高 健等の呼びかけで始まった。
大学紛争、東大の攻防戦、成田空港の運動もあり、さまざまな運動が展開された時代。
負傷した米兵の人達が、王子の野戦病院があって、そこにデモがあって、そこにも、成田にも行きました。

今度出した本についている地下広場と言う映画があるが、その映像を見て頂けると判ると思うが、
本当に好奇心があったし、自分で考える努力をしていると思うし、顔つきが今の人達とははっきり違うと思う。
ものは恵まれていない時代ですが、心は凄く豊かだった様な気がします。
人の事まで思いやることのできる時代だったように思います。
毎週土曜日夕方、新宿駅の西口地下広場で歌う様になる。
歌い終わった後も色々小さな輪ができて、議論が行われた。
電車で帰るときでも会話があったり、おじさんから気を付けて帰れよ、言ってくれたりした。
後姿を見て、家庭の様子が判る様な気がした。(小津監督の映画の様な) 
本当に情がそこにある時代、どこでそれを忘れてきちゃったのかと、いつも思うのですが。

西口地下広場は秩序は保たれていて、警察が入ってこなければそれなりに人は人で立場を作り上げていたと思うが、権力が入ってこなければあの広場はもうちょっと違う形になっていたかもしれない。
人数が増えてきても、恐いと言うイメージはなかった。
個が生きてると言うか、暴動になる様な恐さはなかった。
混雑しているところに私たち数人がギターを持ってゆくと、さーっと道が出来て、私たちは柱のところに向かうが、凄く感動的だった。
ギターをセットしたころは「友よ」を歌いだせるような状況になっていた。(皆が一つになっていた)
フォーク ジョーン・バエズ 高石ともや 等ドンドン出てきた時代。(戦争を知らない子供達、野に咲く花)

機動隊が入ってくる。  催涙弾を打ち込まれた、すごい状況でした。
5か月間の一番最後の頃は歌は歌えない様になった。 7000人が埋まる。
2月ごろは地下広場だったが、7月ごろには通路になって道路交通法違反で逮捕される。
悪いことをしたとは思っていなかったので、平気でした。(今思うと良い体験をしたと思う)
3泊4日で戻ってこられた。  太陽はまぶしいと思った。
フォークゲリラと呼ばれたが、あまり抵抗はなかった。
友人の2人は起訴されて、裁判闘争があったり大変だったが。
その手記 「あの仲間たちはどこへ行ったんだろう」 ずーっと引きずりながら生きてきて、なかなかそこから抜けきることができなくて苦しんできたと思う。
私たちも支えきれなくて、その重みを抱えながら、この本を出すことによって区切りが付けられたと言う事は凄く良かったと思います。

私は教育の原点に戻らなければ、いけないんだと思って、幼稚園の教師になる。
仲間も重さを抱えながら、それぞれ歩んできたんだと思います。
本当に個が強くなる事が大事な事かもしれません。
イラク戦争が始まる1ヶ月前から、土曜日に戦争反対の気持ちを表わすために地下広場に立ち続けていますが、12年目になる。
自分と向き合う事で気持ちが強くなる。
1969年のあのときは、個が、本当に沢山の人と向き合った。 それは本当に宝物ですね。
それぞれ自分なりに、いい時間を持ったと確信できる時が来ると思います。

イスラエルの攻撃を受けて、沢山の子供達が亡くなった写真を見て、今でもこの歌は歌えると言う歌がある。 「歌」中川五郎 当時は良く広場では歌っていた。
ガザで父親が亡くなった子供を抱えながら、傷ついた子供を抱き寄せてる写真があって泣きました。
それを見てイスラエル大使館前でスタンディングをしなければいけないと思って立ち始めました。
プラカードを持って立っていて何になるのと思うかもしれないが、誰かがどこかで頑張っていると言う事はきっと誰かの力になると思うんです。
自分でホームページを作ったり、フェースブック、ツイッターで繋がってゆくと、手に取る様に判る。
私はいつも自分に出来ることをしたいと思っているので、やっぱり子供達に残していけるものは、平和な世界を残していきたい。
一人一人が出来ることをしなければいけないと凄く思う。
お互いのそれぞれ一人一人は違うから、それぞれのいいところを見つめ合う努力をしてほしい。
垣根を作らないで、平和は育くまないとやってこないので、一人の努力が、繋がって繋がって出来るものだと思う。
右側、左側の人もそれぞれ意思表示をしてちゃんとものを伝えて、誰だって人を殺すのも殺されるのも嫌なはずなんだからその原点に立って、平和が育くむ事ができたらなあと思います。
よく話せばきっと判りあえると、私は馬鹿みたいにどっかでずーっと信じています。













2014年9月8日月曜日

白石征(劇作家)         ・地方に演劇の水脈を求めて

白石征(劇作家)    地方に演劇の水脈を求めて
白石さんは大学1年の時に、シナリオ教室に講師としてやってきた、新進作家の寺山修司と知り合いまして、卒業後、寺山が47歳で亡くなる迄の18年間、出版社で100冊を越える寺山作品を世に送り出しました。
寺山の死後、50歳で劇作家、演出家として東京でスタートした白石さんは、東京での公演に疑問を持つようになり、53歳の時に、東京から神奈川県の藤沢市に転居、藤沢市で地方文化の原点の一つと言われる、時宗の開祖一遍上人踊り念仏と出会いまして、更に乱に敗れ逃げる途中、毒を盛られた小栗判官照手姫に助けられると言う語り芸のルーツとされる説経節と出会います。
この20年間一遍上人が開いた遊行寺の本堂で遊行歌舞伎として、公演してきました。
劇作家74歳の白石さんにお聞きしました。

遊行歌舞伎を立ち上げたきっかけは?
1990年ころ、藤沢に住むようになって、新しい現場に立ちたいと思って、若い人達、主婦達と藤沢演劇クラブを立ち上げて、探索中に湯行寺に行きまして、そのお寺で小栗判官の墓を見つけまして、偶然小栗判官の物語と出会って、そこから構想が湧いてきたわけです。
小栗判官の事を調べてみると小栗判官の作った元のお話が、中世の説経節の物語だった。
説経節は、当時劇場がなかったので、旅をする人達が語って行った、語りの物語なんです。
その中に小栗判官のものがあった。
演劇にできないかと考えていった。

映画の監督志望で有ったが、寺山修司と知り合いまして、出版社に入って編集者だった。
寺山さんが亡くなってから、ものを作る現場にいたいとの思いがあってやってきて、50歳で区切りをつけて出版社を辞めて、藤沢に来たわけです。
基本的には戦前の時代劇、歌舞伎が好きだったものですから、そういうものを何とか現代によみがえらせたいと思っていた。
雪之丞変化」(仇打ちもの)を作りなおして、現代のドラマにしようと最初にやってみた。
「暗殺オペラ」を連想しながら作った。
死んだお父さんが仇討の瞬間に蘇る。
死者は必ずしも形としては現世では眼に見えないが、心の中には残っていて、記憶の中に残っていて、交流し合うというか、共有し合うと言う事が現世の生きている私たちの生活を豊かにする、力付けると言う風に思っているので、死者を別世界のものと言うか、死んだらおしまいというのではなく、演劇と言うものは死者と言うものを、共有する世界を作りたいと言う事です。

寺山修司 恐山を舞台にした芝居 
恐山にイタコと言う人がいて、死者を呼び起こして、イタコが介在して生きている人たちと交流する。
当時若者文化で、お金が無くても作りたいことを作るんだと言う事で、その為には役者だけやっているわけではなくて裏方から全部やっていた。
寺山修司からの影響は大きかった。
寺山修司は、演劇はそこで立ち現れてくるものだと、劇場があるから芝居があるのではなくて、芝居があるところだと、どこでも劇場になると言うのが寺山修司の考え方だった。
既成秩序の権力に対して、とっても批判的だった。
当時の主流の考え方に対しても批判的だった。
呪術的、土着的なものの中にこそ、人間の生きるいろんな神秘もあるし、死者の再生もあるのではないか、と言う事です。

「地方でこそ独自の文化を育てられる」 寺山修司の言葉
「それぞれの根を掘れ」と言う事だと思います。
自分の立っている足の下の土を掘れというか、そこに何か文化の大事なものがあるので、それぞれの生きてきたルーツを掘れと言う事だと思います。
一遍上人 生まれた処が今治、私が子供時代に遊んだ桜井海浜があるが、一遍上人が旅に出る貴重な場所だった。
一遍上人を研究して、一遍聖絵(国宝的な絵巻)があるが、それも遊行歌舞伎として脚本を書いてやった。
一遍をやってゆくと、寺山修司がとっても近づいてきた。

地方の文化を再創造してゆくためには、地域の持っている文化の根っこ、核になる様なものを掘りだしていかないといけない。
鎌倉は武士の都で、義経が鎌倉に入ろうとして、腰越で足止めされて入れてもらえなくなった。
義経が平泉で殺されて、首実験で鎌倉、腰越に戻ってくるが、それを祭ったのが藤沢の白旗神社。
義経は鎌倉に入れなかった。 一遍上人も巨福呂坂でとめられて鎌倉に入れなかった。
弱者、敗者、はみ出された人たちをとっても優しく、地域の人たちが支えて、食べものを与えたり、弔いをしたりしたんだと思います。
一遍上人ゆかりの遊行寺ができて時宗と言う文化が流れ込んできて、藤沢の地域の文化が混じり合って出来たものが、一番誇れる文化ではなかと云う気がした。

一遍上人は踊り念仏を唱えながら、全国を廻った。
踊り念仏は一種の先駆的な行事だったと思う。
布教のために演じてもいたのだと思うが、一遍上人は集団の旅暮らしで、お寺を持たない人で、女性もいたので、自分達も宗教的な気持ちで踊っていたと言う事もあるが、半分は芸能的な形にもなっている。
藤沢の片瀬で舞台を作って踊り念仏を踊って見せたのが、初めての試みだった。
盆踊りも全国に波及した。
説経節 書物ではない、語りの物語。  
戦国末期から江戸時代に本になるがそれまでは語り継がれてきたもの。
坊さんが話を持って全国を廻ったので、説経節。
宗教的なもの、民俗的な物語、歴史的な物語が混じり合っているんですが、単に話すのではなく聞いている人たちと語る人がやりながら、作りだしていった、ドンドン変わっていった。
日本人の喜怒哀楽、エッセンスが入っている。

小栗判官  一度殺されるが閻魔大王のはからいによって、しゃばに戻ってくる。
妻である照手姫が熊野の温泉に浸けると再生する、と言う話
それを元に、妻の介護にポイントに於いて、夫はもう死んでしまっているので、困っている病人がいたら、手助けする事が、死んでしまった夫への供養になると思って、尽くすが実はそれは夫そのものだったと言う事ですが、愛情と言うものは諦めない愛で尽くす事によって報われる。
遊行歌舞伎 遊行は一遍上人の旅のことをいうが、寺山修司 旅の詩集とか人生は旅だとか言って、共通項がある。
旅は家を持たない、財産を持たない。
出家を、字を逆にしたら家出になると寺山修司は対談で言っていた。

歌舞伎は「かぶく」から出ているらしい。 
「かぶく」は半身に構えると言うか、気をてらいながらひっくり返してゆく。 
遊行歌舞伎は小屋を持たない人の旅の芝居。
出し物 「山椒大夫」 説経節のエッセンス ほとんど不可能な再会ですが、再会と言うものがどれだけ人間の幸せな至福の時間で有るかと言う事を描いていると思うが、説経節的世界だと思う。
人間の幸福と言うものは、家族を中心にした幸福の考え方があって、家族がなくても他人同士でも信頼のもちかたが大事だと思う。
そういう愛情のあり方を説経節から今に、取り入れてみたいと思っている。
死んでしまったらおしまいだと言う、現世だけの幸福だと思っている物質的幸福感とは違って、或いは科学文明があまりにも進み過ぎていると言うか、そうではない人間の民衆の中にある安心感とか、そういうものをもう一回見直してゆくと言うか。
眼に見えるものだけが世界ではない、眼に見えないもの、死者、創造力、見えないものも自分たちの文化なんだという、そういったものと共生して生きてゆく事が大事。

一遍上人 白木の念仏、真っ白な、純真な気持ちで一心にと言うのが理想だ、というが、 芝居でも手なれた役者でなくて、素人でもいいんだと言う事で一緒にやる。
役者、作り手だけの芝居ではなく、見る人も一緒になって、作ってゆく世界、環境。
演劇というよりも一種のお祭りの形態、市民と一緒に作る人間が巻き起こす渦の様なものを連想している。
遊行寺の境内で1年も休むこと無く続けられた。
演目 5大説経節 中世の太平記三部作 等全部で7本ぐらい。
説経節、踊り念仏 古いイメージはあるが、文化と言うもんはそんなに古い新しいと言う事はないと思う、普遍的なものを掘り起こして、若い人達にも、もっと日本の文化に再遭遇するときに、もっと注目してもらいたい。
常に出発点に立ってものを作っていかなくてはいけないと思う。




2014年9月7日日曜日

保坂正康(作家)         ・昭和史を味わう(第6回)

保坂正康(作家)  昭和史を味わう(第6回) 満州事変の頃 軍事主導体制への移行
83年前 昭和6年9月におこった満州事変から、昭和11年2月 2・26事件 が対象。
満州 黒竜江省、遼寧省、吉林省 の3省からなる。
きっかけになるのが昭和6年9月におこった満州事変。
明治37~38年の日ロ戦争でロシアが3省に持っていた権益を日本がとった。
鉄道網を日本が取ることになる。(戦勝の代償)
面として押さえているわけではなかったので、面として押さえたいと言うのが日本の軍の中に一貫してあった。
不況で日本の生存権を広げようと、云う考え方で、軍人がこの地域を一つの日本の生存権として、確保しようとした。

生活圏として軍事的、政治的に支配して国民が移住して、と言う空間にしたいと言うのがあってそれを生命線とした。
駐留していたのが関東軍
昭和6年9月18日満州事変が起こる。
関東軍の中に、板垣征四郎石原莞爾 参謀が赴任する事になるが、、石原は独自の考え方を持っていた。
満州と言うものを日本の国益と、押さえる事によって、世界的には単なる侵略と成ると言うので、いろんな民族が混じりあった一つの理想国家を作ろうと言うのが、石原の考えでした。
関東軍は日本の陸軍省や参謀本部の云う事をきかない、独自に計画を持つ。
計画に基づいて、謀略と言う形で現実を作ってゆく、それを陸軍省や参謀本部に認めさせると言う手法を取った。

柳条湖事件
石原莞爾を中心とした、関東軍の参謀たちが、中国人が鉄道を破壊したと、謀略をするわけです。
それを関東軍が破壊した中国人に対して排除する、そこのところに軍を駐留させる。
中国軍との間で交戦状態になってゆく。
抗日中国人は日本が雇った。
日本の謀略として満州事変は起こされた。(当時は隠されていたが国際社会の中では徐々に知られていった)
謀略と判ったのは戦後、東京裁判などで全部明らかになってゆく。

犬養 毅首相演説 この演説の3カ月後に5・15事件で殺されてしまう。
①中国との関係を将来にわたってどういう風にしてゆくか、根本の問題。
②今、満州事変以後の軍事的な衝突をどう解決するか。
孫文とも親しくて、辛亥革命にも協力的だったので、中国に古い人脈を持っていたので、日中関係を正常に戻したい想いがあったが、軍人たちは生ぬるいという反感を持っていた。
5・15事件の背景には犬養の中国観に対して軍人側の不満があったと思います。
昭和7年3月に満州国が成立する。
この素早いプログラムは石原莞爾らが古くから考えていたプログラムが下敷きになっている。
満州は当時中国は開拓されていないと言うところもあったので、石原達はそれを日本が介在する事によって国家を作ろうとしたのだと思う。
石原の考え方等も日本の当時のインテリなどにも或る程度受け入れられていた。

王道楽土」、「五族協和」をスローガン  満州族、漢族、蒙古族、朝鮮族、日本族が融和した状態で、一つの理想郷を作ろうじゃないかと、云う事ですが、結局日本が上に立ったような国になるが、面白いのは板垣、石原等が溥儀(辛亥革命で追放されて天津で蟄居生活だった清朝最後の帝政)を帝政の地位に据える。
日本でも不況で、農地が限られているから、満州に行って、耕作農民になろうと、武装移民といった形で開拓に入る。
日本が勝手に来て国を作ったり、土地を奪って、農業を始める訳ですから、面白くないことは当然です。
日本の知識人の中にも、他人の土地に行ってそんなことをしていいのか、と言う様な考えが確かにあったが、でもそれを打ち消す声、耕作地が日本では16%しかない様なところで日本国民はどうして生きてゆくのか、やはり新しい土地を求めて生きてゆく、生存してゆく権利、生存権を広めてゆくという形の考え方が当時あったので、説得力を持った。

満州国ができ上ってゆく。
昭和7年9月15日 満州国承認演説 斎藤 実首相
国際社会の中で必ずしも私たちの考え方は受け入れられている訳ではないことを、正直に語っている。
中国は国際連盟に提訴する。  調査団(リットン調査団)を派遣する。
9・18事変 国恥日(中国)
2010年9月 海上保安庁に中国漁船がぶつかってきた。
2012年9月 尖閣諸島国有化
相互の歴史の理解と言うのが、今の挑発行為の中で異様に興奮を生むと言うのは得策ではないと思う。
石原莞爾も戦後、軍事主導で有ったことに対する自責の念を漏らしている。

リットン調査団
日本が侵略している。
今後の解決策 中国の自治的な政府は認めるが、欧米列強、日本が顧問役、相談役の様な国の関係と、中国が持つ自主的な権利との間の調整をするような形の融和的な案が提示される。
日本は反対する。(軍事で獲得した権益がぼけてゆくので)  42:1 
松岡 洋右  満洲国に対するかなり熱心な人、「生命線」と言う言葉を松岡が作ったと言われる。
国際連盟脱退の方向に向かう。  脱退の演説を英語で行うが最後に脱退するときに、「さよなら」と日本語で言って出てゆく。
昭和8年2月に国際連盟から脱退する。

昭和11年2・26事件が起きる。
軍事色が強まってゆく中で、ピークに達する事件。
日本の社会は軍事色が濃厚になってゆく。
2月27日 戒厳令
2月29日 戒厳司令部から 「兵に告ぐ」 放送が出された。
「兵に告ぐ  勅令が発せられたのである。 すでに天皇陛下のご命令が発せられたのである。
お前たちは上官の命令を正しいものと信じて、絶対服従をして誠心誠意活動をして来たのであろうが、このうえお前たちがあくまでも抵抗したならば、これは勅命に反抗する事になり、逆賊と成らなければならぬ。  
正しいことをしたと信じていたのに、それを間違っていたと知ったならば、いたずらに今までのいきがかりや、義理上からいつまでも反抗的態度を取って、天皇陛下に背きたてまつり逆賊としての汚名を永久に受ける様なことがあってはならぬ。
今からでも決して遅くないから、ただちに抵抗を止めて軍旗のもとに復帰するようにせよ」

将校の人達の命令で参加したわけで 参加したらクーデターを起こしたんだと言う事を知ったわけで、お前たちには責任はない、唯このままずーっといるとこれからは責任を問われるぞ、と言っている訳です。
憲兵隊の元に帰順してゆく事になる。
庶民は現実の苦しさを変えてゆくのに、軍を新しい変えてゆく勢力として受け入れてしまった。
新しく受け入れた軍が、やはり生活は良くなった。
満州国ができ上ると日本の商品が入ってゆく。 労働力を受け入れる先ができるので、景気が良くなって行くので、それが軍事色を肯定してゆく理由だったのかなあと思います。

軍事で入って行っていいのかと、常識的におかしいと云う人は随分いた。
生 悠々 信濃毎日新聞の論説委員 軍のやり方は常に日本の温厚な政治を大事にする政治の仕組みとは逆な形で、それを壊してゆくのではないかという立場から軍を批判すると言う論説を書く。
鶴彬 川柳作家 弾圧されるが。
「銃剣で 奪った美田の 移民村」
「こうりゃんの 実りへ 戦車と靴の鋲」

昭和歌謡 
「急げよ 幌馬車」(歌:松平晃)、「国境の街」(歌:東海林太郎)、「緑の地平線」 (歌:楠木繁夫)








2014年9月6日土曜日

オール巨人(漫才師)       ・漫才も闘病も全力投球

オール巨人(漫才師)         漫才も闘病も全力投球
昭和50年のデビュー以来、不動の人気を誇ります。 背が高い方がオール巨人さん、大坂生まれ62歳
常に第一線で活躍し、順風満帆の漫才人生に見えましたが、影を落としたのがC型肝炎。
しかし、仕事を続けながらC型肝炎ウイルスを無くす治療にチャレンジしました。
更に何度もあったと言うコンビ解消の危機、オール巨人さんは常に全力投球で乗り越えてきました。

来年40周年、考えたこともなかった。  短い感じがする。
昭和26年生まれ、良く笑わしていたようです。(物マネを良くやっていたようです)
高校卒業後、実家の卵問屋を手伝いながら、素人の演芸番組を次々に出演していた。
TVに出たりするようになると、商売がうまく行く様になる。
私は一人で漫談、物マネをやっていて、山田さんがアマチュア軍団を作って、慰問に行こうと動いて、それでオール阪神さんと出会った。
2人大きいのと、小さいのと、面白いから漫才をやってほしいとあるプロデューサーから言われて、やったところ面白くて受けた。
吉本に入ったらどうかと言う事で、吉本に入ることになる。

弟子にならないと、吉本に入れないとの事で、岡八郎さんが弟子に逃げられたばっかりで、困っていたために岡八郎の弟子になる事になる。
きつい師匠で、一月持たないと周りから言われた。
師匠とは相性が良かった、兎に角失敗しないように気を付けた。
卵の商売をやっていたので非常に細かいところまで気を付けていた、それが役に立ったと思う。
師匠を送るために、事前に50ccのバイクで走って、一番いいルートを考えたりした。
飲み物の事についても、色々事前に調べて、師匠から喜ばれる様にした。
酒を飲みに行くときに、師匠は財布を預けれくれるが、悪い人もいて、財布を無くしたと嘘を言ってお金を誤魔化す人もいた。(師匠も判っていたのではないか?)

岡八郎 全部がアドリブの様な感じでやっていた。(舞台人)
漫才でも同じだが、台本の通りやっていると思われると、芸人の負けです。
師匠は凄い読書家だった。 台本を覚えるのは師匠は早かった。
師匠の白い衣装にジュースを掛けてしまったことはあるが、周りではこれは殴られると思っていたようだが、「洗濯屋へ出しておけ」と言っただけで、何にもなかった。
周りでは、どうしてやと、きょとんとしていた。
二人が組んで始めたが、面白くないと、お客さんから、中味が入った缶ジュースを投げられたこともあるが、直ぐにお客さんから喜ばれる様になった。
稽古は3時間を毎日8年間やっていた。(阪神君がおかしくなるぐらい)
殴り合いのケンカは無かったが、1週間に1回は大きな喧嘩はやっていた。
先ずは3年間は別れない様に、目標を決めてやって、3年間が過ぎるころは人気が出ていた。
上方漫才大賞を3回貰っている。(あとは「やすし、きよし」だけだった)

阪神君が別の仕事で、出番に大変遅れてしまって、なんとか先輩、師匠らにお願いして、穴を埋めてもらっていたが、帰って来た時にあまり反省の色が見られない様な、雰囲気があり、大喧嘩になり、これでコンビは解消だ、というはめになったが、仕事がその後も入っており、やっているうちに、仕事が入ってきて、現在に至る。(解散問題は解決していない)
今は仲がいい。
漫才のライバルは沢山いたので、ある意味でラッキーだった。
42歳の時に、仕事に行って、お腹が痛いと言う事で、調べたら盲腸だった。
手術をするときに、血液検査をやって、C型肝炎で有る事が判った。
自覚症状がないまま進行する事がある。
輸血、血液製剤の投与、適切な消毒をしない器具を使っての医療行為など、血液を介して感染する、半分は感染源が不明、日本の感染者は150万~200万人と言われる。

妻がC型肝炎だった。  私は60歳前までは放っておいた。(18年間) 自覚症状がなかった。
2010年2月から治療を開始した。 週に1回抗がん剤の注射を打つ。
レベトールと言う薬、体重に合わせて飲む。 注射と薬の副作用が辛い。
立ちくらみ ヘモグロビンは酸素を送る仕事だが、人の空気の半分で生きている。(高山で仕事をしているようなもの) 味覚障害、耳鳴り、寝れない、爪が柔らかくなる、・・・・・。

兎に角最後まで治療をやろうと決めていた。
私が仕事を休んだら、お客さんに申し訳がないと、一日も休んだことはない。
舞台に上がる5段の階段がしんどい。 
荒い息が止まらなくて、途中で倒れそうになった時が何回か有った。
体重は8kg痩せ、顔もげっそりし、顔色も悪くてほほ紅をしたりした。
TVでやったネタは舞台では絶対やらない様にしている。
72週治療して、半年再発の確認をして、よくなった事が確認された。
飲酒も再開できたが、止めていたいたので最初はなかなか誘ってもらえなかった。
妻は私が治ってから、半年後に治療をして、半年後に治った。
(それまでに2回治療したが駄目だった。)
若い方からお年寄りまで、判る様な漫才をやらなければいけないのかなあと思う。
「いとし・こいし」先生の様な漫才師になりたい、と思っている。






























2014年9月5日金曜日

清水義範(作家)         ・海外旅行で磨く人間観察力

清水義範(作家)   海外旅行で磨く人間観察力
昭和22年名古屋市生まれ 愛知教育大学を卒業後、上京し、会社務めを経て作家活動に入りました。
1981年「昭和御前試合」でデビュー、1988年「国語入試問題必勝法」で第9回吉川英治文学新人賞を受賞しました。
その後もユニークな発想、ユーモア溢れる作品を数多く発表しています。
清水さんは40歳の時、旅行好きな奥さんに誘われる様にして、初めての海外旅行をインドで体験しました。
以来、海外旅行が何よりの趣味となり、夫婦でイスラムの国々バルカン半島の国々などを廻りました。
清水さんは小説家として日々人間観察をしていますが、日常から離れた海外旅行のなかでもその国をとことん知る為に、人間や風物の観察を続けています。
又帰国してから旅行記を書き上げる事で、清水さんの旅は完結すると言います。

最近は東南アジアを廻っています。(現在半分ぐらい)
ベトナム、カンボジア、マレーシア、シンガポールを今後廻ろうと思います。
中途にイギリス旅行が入っている。 タイで食べものが口に合わなくて、お楽しみでヨーロッパの方に行こうかと思っていたが、ウイーンを予約したがキャンセルが多くていけなくなり、イギリスに行く事になる。
シェークスピアの生れた家とか、嵐が丘の作者のエミリー・ブロンテの家に行こうとか文学的でした。
基本的にはパッケージツアーの枠内で旅行する。 見るものを効率よく旅行出来るようになっている。
30分、1時間の自由時間を貰うと、路上にテントを出している店を探して、ビールを飲んでます。
旅行に行くときは白紙状態(妻は予習している)でいって、見るもの、初の出会いを楽しんでいる。

海外旅行のきっかけは?
結婚したら旅行の好きな妻だった。
一度妻に旅行に行こうと誘われて40歳の時に、インドに出かけた。
慣れないとビビる様な所、道を歩いているだけで、物売りが10人ぐらいついて廻って通してくれないところを搔き分けてゆく様な感じ。
権利の主張を大声でまくし立てるし、この激しさにショックを受けて、なじめないなあと思った。
最初3日間はおびえていた。 観光しないで、バスの中にいたこともある。
段々インドにはまる事になってゆく。
インド人のずうずうしさ、身勝手を考えていたら、もし自分がインドに生まれて、インドで育ったら、あの人たちと同じようなことをするだろうと理解するようになった。
必死に生きているインド人はなかなか魅力的だという気がしてきて、旅の後半は慣れてきて、面白い国だと思う様になった。(その後2回インドに出かけた)

インドはヒンズー教徒、イスラム教徒が多い、イスラム社会の存在に眼を向けさせられた。
イスラム諸国を廻るようになり、イタリア、バルカン諸国、東南アジア、イギリスと廻るようになる。
トルコのモスクのドーム建築が大変魅力的で、イスラムを全然知らないことに気がついて、50代の10年間イスラムの国を廻る。 10カ国廻ることになる。
地中海の周りが多くて、行った先々で古代ローマ遺跡ばっかり見物させられる。
その前は古代ローマの地域だったと言う事で、それではちょっとイタリアに行きたくなって、イタリアに2回行った。
次はどこへ行こうかと考えて、面白そうなのでバルカン半島に行こうと思った。
南から北へ、オスマントルコが侵略の手を伸ばしていって、北の方ではウイーンのハプスブルグ家がハンガリーと組んでハンガリー・オーストリア二重帝国で、バルカン半島を北から来て、そのぶつかってせめぎ合いなんです。 国情が複雑になりやすいところ。
国の中にいろんな民族が住んでいて、戦争になりやすい。
行った時は落ちついた時期になっていたが、戦争の爪痕は建物などにも残っており、人々の表情も暗い表情が感じ取られた。

トルコ人 親日的 男性は一日一回は怒る。
トルコ人の男性は怒りっぽいというか、直ぐ大声を出して喧嘩越しになる。
誇りを持っていて、父親が一家の主で父親が何でも決めて、それをちょっと傷つけられたりすると、激怒する。   両方が大声でまくし立てる。
アヤソフィア寺院(現在は博物館になっている)で撮影禁止になっている所で、壁のモザイク画の写真を取ろうとしたら、注意されたが、案内していたトルコの観光局の役人が接待中に言われた事に対してメンツが立たないと言う事で抗議する、そういったことで喧嘩を始めていた。

エジプトは古代エジプトの遺跡ばっかり見て廻るので、イスラムの国としてのエジプトを見たいなあと思っているのは変人だが、カイロなどに行くとイスラムのモスクに行ったりするが、エジプトは流石に歴史の古さからくる、基本的な生活文化がしっかりしているなと感じた。
エジプト人は何かをしてあげたりすると、必ずお礼を言う。 感謝を顔で、態度で表す。
同じ北アフリカのチュニジアあたりでは、買っても無愛想に売ってくれるだけ。
現地のガイド 一番良いケースは一つの国を同じガイドが全部説明する方がいい。
街ごとにガイドが変わって、案内してくれるところもある。(ヨーロッパ方式)
ルーマニア 日本の大学で学んだと言う35歳の青年ガイドへの質問 「ルーマニアでは生活の中の文化、伝統は守られていますか?」と言う質問に対して、青年ガイドがとても皮肉な答えをしたのが忘れられない。
「お役人などが物資を途中でくすめるという生活文化は守られています。」と答えた。
元共産主義の国なので中間搾取が今でも行われている、と言う事を云いたかった。

レバノン、サラエボ (ボスニア・ヘルツェゴビナ)  かつての内戦地域 等も現地のガイドさんがいる。
空港までの地下トンネルがあって、レールが敷いてある。
10歳の時にこののトンネルでドイツに逃げて、20歳の時にこのトンネルで戻ってきたという若いガイドさんがいて、まだ間もない事だったことを実感した。
雇用促進でガイドを設けることがある。 ほとんど歩いてると言う様なガイドさんもいる。

世界遺産 インドのタージ・マハル イランのペルセポリス ヨルダンのペトラ(渓谷の中の古代の街)などはとっても美しい、当然だなあとは思う。
ハンガリーのホルトバージは、唯の草原で牛や馬が飼われているだけ、なんで世界遺産なのかと思う。
のどかさだけで世界遺産になっている。
滅びの美 ペルシャのペルセポリス 神殿の跡に円柱がただ建っているだけ。
木製の屋根などがその上にあったが、焼き払われてしまっていて、焼き払ったのはアレキサンダー大王だったりして、その古さに魅力がある。
アルバニアは現在民主主義の国 かつて共産主義の国で、ソ連、中国とも仲たがいして、国交断絶して、鎖国状態でやってきた国で、国中にコンクリートの塊のようなトーチカが60万個あるが、戦争に使われたのは一度もなかった。 国民の3人に一つ作ってしまった。
元共産国はなにかが国営だったり、学校教育の在り方に名残があり、融通のきかなさがある。

イスラムの国々に行って、私たちは羊肉は大丈夫だったが、嫌いだと言う人はイスラムの国に行くのは辛いと思う、ほとんど毎回羊肉の焼いたのを食べさせられる。
スペイン、イタリアは美味しい。
ほとんどのイスラムの国々では、外国人旅行者はホテルの中で酒は飲めるが、イランでは絶対駄目、酒を持ちこんでホテルの中で飲むのも禁止。
1週間は酒なしで過ごした。
トルコ料理は大変おいしい、トルコの料理でイスラムの料理にはまった。

パッケージツアーではあるが、目を凝らして見るようにしている。
旅行記を後で書かなければいけないので、最低限その国の歴史、どういう王朝が有ったのか、勉強して判ってから旅行記を書く。
旅行記を書き終わって私の旅行は終了となる。
イタリアのシチリア島のタオルミーナに案内されて4月9日広場に案内された。
何故そこが4月9日広場なのか? 調べたら19世紀後半にイタリアが一つの国に独立する運動がおこるが、その時に青年イタリア党のジュゼッペ・ガリバルディ という英雄がシチリア島にやってきて運動をはじめるがそれが4月9日だった。
旅行記は読む人に、行って来たかのように判る様に、歴史、地理、建物などを最低限書く様にしている。











2014年9月4日木曜日

熊谷 榧(画家)         ・我が人生 山と絵と、父、モリカズ

熊谷 榧 (熊谷守一美術館長・画家) 我が人生 山と絵と、父、モリカズ
1929年昭和4年 東京生まれ 日本女子大学在学中 北アルプス穂高岳の残雪に魅了されて、絵をかき始めて、父熊谷守一と同じ画家への道を進むことになります。
画壇の仙人と言われた熊谷守一は、晩年はほとんど外出する事もなく、庭で蟻やあぶ、カタツムリなどを観察し、絵をかいてきました。
父とは反対に娘の榧(かや)さんは、山スキーが大好きで海外の山にも登り、登山中の岩場では可憐な花に我を忘れてスケッチする程の、行動的な画家です。
85歳の今も山に魅かれ絵をかき、陶芸や石の彫刻にも取り組んでこられました。

熊谷守一美術館 この建物も作ったのも岡秀世さんと言って、コンクリートの塊みたいで面白い建物です。
子供の時から、父が二科会の会員だったためそこの絵描きさんの人を教えていたので、いつも家には絵描きがあふれていて、人間はみんな絵をかくものと誤解するほどだった。
絵が好きで4歳ぐらいの頃から絵をかいていたら長谷川 利行さんが面白い絵だと言って絵を交換したりした事がある。
食糧難の時代だったので、絵の学校には行かずに、食料を何とかならないかと理科系の大学に進む。    高校の物理、数学の先生の免許は持っている。
著作物 山のこと、と滑ることが多い。 
クラスメートに長野県松本出身の方がいて、その人が上高地に連れて行ってくれた、それがきっかけで山にいくようになった。
穂高岳が好き。 

熊谷守一  画壇の仙人と言われたが、極普通の人だと思う。
私は父が50歳の時の子供です。父が生まれたのも祖父が50歳の時の子供だった。
小学生の頃、アトリエで石炭ストーブに石炭を運んでいる時に、「生きるってどういうこと」と聞いたら、「燃えてるストーブも生きていると言えば、生きている」と言って えーっと思った。
[人の本を読まない、本は人の滓だ]と言っていて、自分で考えると言う人だった。
絵描きなのでよーく見て観察している。
最晩年は太陽をかいた、じっくりと自然物を見て、自分で考える、それが特色です。
守一は岐阜県中津川市生まれ 父は岐阜市長、子供の頃は何不自由なく過ごす。
絵をやりたかったが、父は大反対だったが、慶応大学に行けば絵をやってもいいと口を滑らしたため、しめたと慶応大学に行って、慶応大学を直ぐに止めて結局共立美術学館(東京芸大の前身)に入る。
父は成績が良くて首席で卒業する。

東北旅行は歩いて回る。 その留守中に父が亡くなって破産するが、樺太に2年ほど(カメラマンのかわりとして)絵描きが連れられて行ったが、その時のスケッチは残っていない。
故郷に戻って、6年間引っ込んでいる間に馬に乗っていたらしいが、最後の2年間は川で材木流しをやった。  ほとんど絵をかいていなかった。
クラスメートに斎藤豊作と言う人がいて、フランスから帰って来た時に、守一がいないので、故郷にきて引っ張りだした。
その人は埼玉の大金持ちで、月40円 守一にやっていたが、何年かしてフランスに永住して、音楽家などと付き合うようになり、経済的に援助してもらう様になる。
無欲の人と言われるが、ただお金がなかっただけ。(ただただ友情によるもの)

陽(次男)が死んでから私が生まれた。
「歴史」  出展して拒否された作品 真っ黒で何も見えないが、赤外線で取って一部再現出来て岐阜県美術館で展示される。 「陽の死んだ日」「ヤキバノカエリ」「土饅頭」「猫」
死と言う事が守一にとって一番の関心事だった。 死人の絵が多い。
「仏前」 黒いお盆の中に白い卵が3つ 3つ上の姉が肺結核で亡くなって、亡くなってからおそなえした。
女の人が列車に轢かれて、ばらばらになる事件、それを目撃して非常にショックを受けて、生きると言う事より死ぬ事に非常に関心があったようだ。
「母子像」 私が結婚して8年目に上の息子が生まれて、赤ん坊を抱いて来たら(ちっとも母性愛のない人だと言われていて、違和感を感じて)スケッチして油絵をかいたもの。

人に勝つ事が嫌いな人で、学生時代剣道をやっていたが、剣道の先生には強いが、勝つ気がないので試合をすると負ける、だから文化勲章なんて大嫌いだった。
晩年は庭にしゃがりこんで、猫、鳥、生き物に執着した。
視線が低く成ると、犬や猫の気持ちが判ると言っていた。
何でもじっくり見て、蟻の左の2番目から出すと言っていたが、アメリカの昆虫学者に聞いたらそうとも言えないと言っていた。
詩人のアーサー・ビナードさんは守一の何周年か何かに講演してもらったことがある。

「そこの壺に花が挿してあるとする、ただそれを書いただけで、地球の傾きかげんが判る様でないといけない」  守一の言葉
存在感のある絵でないといけない、筆が走った様な絵はいけないと言う事だと思います。
私は絵の学校には行かなかったけれど、父 守一の絵を見てて、やっぱり守一の絵に影響された。
守一の絵は線と面の張り絵みたいで、1954年 25歳の時に初めて個展をして、その時は張り絵だった。
当時山に行っていたので、山の絵を描く様になった。
段々守一の絵から離れて、山の絵を描く様になった。
最近は歳なので山にも登れなくなって、散歩にも行けなくなった。
今年パリで9月個展をやることになった。
スケッチブックを持たないで山に行ったことはない。
富良野で地元のガイドが案内してくれて、安心していたところ雪崩にあってしまったが、全員助け出された。

1977年に父が亡くなって、1978年から陶芸と彫刻をやる様になった。
2001年からは石の彫刻をやる様になった。 
のみで彫るのではなく電気カッターがあるので、でも電気カッターも危ないと言われる。
私立での美術館ではやっていけないと言われて、公共に寄付した方が続けられると言われて、2007年豊島区立になった。

守一はお金がなかったけれど、皆から好かれた。
クラスメートの青木繁さんは気があっていて、長文の手紙が10通ぐらい残っていたが、田舎に引っ込んでいたころに青木繁が死んだと言う事を聞いて、世の中が真っ暗になると言うか生きているのが嫌になる様にショックだったらしい。(満28歳8か月で亡くなる)
青木繁は誇り高い人だから人からお金を貰ったりしない。
守一はお金持ちで育った子だったから、割と平気で友だちからお金を貰う。
100畳敷きの部屋にいたそうなので、立派な家に住みたいとは思わなかった。
信時 潔さんが「もう一回人生を繰り返すことができたら、僕はこりごり、君はどう?」と聞いたところ、「僕は何度でも生きるよ」と言ったそうですが、生きることが好きだったんですね。
「石ころ一つあれば、一生(数日かもしれないが)は楽しめる」、と言っていた。
晩年 書をたくさん書いて、書は人がらそのものが出るので、それでみんなに守一の人柄が喜ばれるのかなあと最近思います。
「無一物」 「五風十雨」 など好きで書いている。