小暮聡子(ジャーナリスト) ・戦犯となった祖父の思いを伝えたい
高校2年の夏、祖父が書き残した手記を読み、祖父が、戦犯 戦争犯罪人とされたことを初めて知って大きな衝撃を受けます。 岩手県の釜石捕虜収容所の所長だった祖父、稲木誠さんは連合国の軍事裁判で有罪となり巣鴨刑務所に5年半拘禁されます。 祖父の手記には捕虜にひどい扱いをしたことは覚えもなく、戦犯の烙印を押され悩み苦しみ、戦争程愚かで残酷な愚かなものはないと綴られていました。 私の知らない戦争の記憶、祖父の思いを残さなければならないと、小暮さんはジャーナリストの道を選びます。 戦犯となった祖父の思いを伝えたい、小暮聡子さんに話を伺いました。
今から24年前、高校2年の夏(1997年)、母がちょっと読んでみてと持ってきたのが、亡くなった祖父が書いた戦争体験記で「フックさんからの手紙」というタイトルでした。 週刊時事という時事通信社が出していた週刊誌に、昭和59年9月15日から連載されていたもので、それを母が持ってきました。 フックさんはオランダの元捕虜だった人です。 1975年にフックさんが釜石市長に手紙を書いて、「戦争中に捕虜として釜石にいたものですが、釜石の取り扱いはよく、市民にも親切にしてもらいました。」というようなことが書いてありました。 30年たって捕虜の方からの手紙で、フックさんと祖父の手紙のやり取りが始まって、12年間文通を続けていました。 それについて書かれたのが「フックさんからの手紙」の連載だったんです。 祖父は戦後、連合国の軍事裁判で有罪となり巣鴨刑務所に5年半拘禁されます。
祖父は私が7歳になる直前に亡くなっています。 「昭和19年俘虜収容所所長に任命され、俘虜は博愛の精神で取り扱うようジュネーブ条約で定められていた。 ・・・三陸海岸に敵艦隊が出現し、攻撃を加えるに至った。 俘虜は防空壕などに退避したが32人が死亡し、収容所も焼き払われた。 ・・・俘虜に対し努力していたことは事実だが日本軍の体制の中でのことだったから彼らを満足させる事は難しいことだったと思われるのだ。 怒りの心ではなくより深い心で釜石のことを思い出している、というフックさんの言葉が私の胸を打った。」
昭和19年クリスマスツリーを囲んで捕虜たちの集合写真がオランダにありました。 赤十字を通じて捕虜の家族に渡っていました。
1950年代、祖父は時事通信のホノルル支局に勤務していた時があって、アメリカのいいところを一杯見てきて戻ってきて、日本人は体力がないので日本人は週に一回はビフテキを食べないといけないといっていました。 コーヒーなども飲んでいまして、アメリカに対するマイナスの感情は持っていませんでした。
味方の軍艦に砲撃されて捕虜の人たちも亡くなっているわけです。 そういったこととか帰国の状況などを捕虜の人たちは克明に記録しています。
祖父の体験を知ってから、祖父の体験を調べるようになって、気が付いたら今の職業になっていたという感じです。 手記上での祖父と私の知っているおじいちゃんとではかけ離れていたので、そのギャップにショックを受けました。 なぜ戦犯にならなければいけなくなったのかを知りたくなりました。 大学に入って国会図書館に行って、祖父の裁判資料とかを捜しました。 その後アメリカに留学することになり、元捕虜という人を探し始めました。 釜石にいた元捕虜の人には会えませんでしたが、ほかの地で捕虜になった人たちの体験を聞き始めました。 捕虜側の歴史が見えてきて、過酷な状況で働かされて、たくさんの方が亡くなったりもしています。 アメリカの戦友会に参加していろいろ話を聞いたりしましたが、私が捕虜収容所の孫であることを言うと、激しい口調で私に怒りをぶつけてくる人もいました。 話をしてゆく中で最後は関係性を築くことができた方も何人かいました。 日本に帰ったらこの話を多くの人に伝えてほしいといわれました。
8/15から9/15までの期間でいろいいろ苦慮したことなどもを祖父は書いています。 「・・・ 味方の攻撃にさらされてやけどを負い、勝利を知らされながら、帰国を目前にして息絶えてしまった、なんと悲しいことだろう。 炎に包まれた棺の主は戦争の悲惨を訴え、抗議の声をあげているようだった。」 祖父が68歳の時に書いた原稿。
昭和20年9月15日 彼らの出発の日だった。 私の任務はすべて終わった。 ・・・引き上げ艦に向かって呆然と立っていた。 艦上からフックさんが私の姿を認め悲しんでいたというのだ。 私はその手紙を何度も読み返した。「・・・私は偽物的なアメリカの裁判を欲しませんでした。 ・・・誰もあなたのことを悪く言う人はいませんでした。」という手紙が祖父のところにきました。
戦後、フックさんとの関係を築いていったという事は祖父にとってもよかったと思います。
自分の戦争体験を書くという事は地獄の苦しみだったと書いていて、それでも若者たちへの遺書にするという事を著書インタビューなどで語っています。 私も伝えていかなければならないが、祖父の視点の歴史だけではなくて、捕虜側の歴史もちゃんと聞いて、一緒に伝えて行かないといけないと考えています。 2013年8月に釜石捕虜収容所にいた人に会う事ができました。 オクラホマへ行ってご家族と4,5時間話したりして新しい関係を築くことができました。 あなたのおじいさんは暴力的な所長ではなかったといってくれましたが、結局過去に何があったのか、白黒つけてこれがたった一つの事実であるという事を語ることはもう難しいなあと思いました。
フックさんの息子さんとオランダに母と共に行って、息子さんとのお付き合いをするようになったし、ほかの捕虜の方のご家族ともお付き合いをするようになりました。 理解しようとすることが大切なんだと思います。