2024年11月23日土曜日

高橋順子(詩人)             ・〔わたしの人生手帖〕

高橋順子(詩人)             ・〔わたしの人生手帖〕 

高橋さんは1944年千葉県生まれ。 出版社勤務を経て作家活動に入りました。 40代の終わりに直木賞作家車谷長吉さんと結婚、ほどなく神経症を発病した車谷さんと向き合う日々を描いた詩集で1997年読売文学賞を受賞しました。 車谷さんは異色の私小説作家として知られ、苦労が多かったものの穏やかな時間も過ごすなかで、2015年車谷さんは急逝、9年が経ちました。 最新作の「この世の道づれ」には、夫婦で過ごした時間を改めて振り返る随筆と共に、高橋さんの詩作のモチーフの一つとなってきた、海や水についてのエッセーが収録されています。 作家同士の結婚の日々はどのようなものだったのでしょうか。 テーマとしてきた海や水の詩の背景には、想像を絶する過酷な体験や心の動きがありました。 その作品世界の原点についてもお話を伺いました。

車谷長吉は2015年、69歳で急死しました。  ショックで私は何を聞かれても、「申し上げることは何もありません。」と答えていました。  遺稿集を出したりしているうちに、言いたいことが沢山溜まってきて、「夫・車谷長吉」という書き下ろしの本をだしました。   そこに書ききれなかったことや、日常の暮らしぶりを描いたのが最新作の「この世の道づれ」です。 車谷の変人ぶりを面白がってもらえる本になったのではないかと思います。 彼の私小説は事実だけではなくて。嘘の部分も取り入れて作品を仕上げていました。 実名で出したりして、名誉棄損で訴えられたりしたこともあります。

夫は結婚後2年で脅迫神経症になりました。 幻覚幻聴に悩まされ、生活がめちゃめちゃになりました。  最初の5年はきつかったんですが、後の10年ぐらいは穏やかで、大きい旅行などした日々がありました。  私は幼いころから世間的にいい人であるように躾けられてきました。  余り嫌ですと言えなかった。 でも最近は厭な人のお別れ会などには欠席してしまいます。 毎朝慰霊に向かってお経をあげてお線香を上げています。 そしてお喋りします。 まだ二人で暮らしている気持ちなんです。 この人の文学を検証するという事が、今私の生きる励みになっています。 来年4月に姫路文学館で車谷長吉没後10年で、展覧会あがあります。  全集も後一巻で完結します。 その日までに出してあげたいと思っています。 夫のことは運命だったとしか言いようがないですね。 

テーマの一つが海や水です。 私の実家は海から100mぐらいのところにあります。(九十九里浜の海辺の町)  海辺で「どうろくじんさま」と歌いながら泥の船を作っていました。  或る時大人になって道祖神様という事と判りました。 海と陸の境目に出現するんです。 「どうろくじんさま」って素敵だと思いました。 海から悪いものが入ってこないようにというもののようですが。  泥の船を海に向かって舳先を作るんです。 波が来た時に船が海に向かって走ってゆくように見えるんです。 泥の船を作るのが好きでした。  作文は苦手でした。 

九十九里浜には津波は来ないと言っていましたが、津波が来て私の実家は半壊しました。 津波を見に行った人が犠牲になりました。(16人)  一階の柱の上の方に黒いシミが付きましたが、そのことを詩に書いています。

「海へ」という詩集の中から「海の言葉」

「壁の上のほうに真っ直ぐな
黒い線が残っていて それは
波が来た跡だと弟が言う
部屋の中に黒い吃水線を
海は引いていった
弟の家族は黒い線の下のほうに布団を敷いて寝る
彼らが寝ている間
海は寝ないで海の音楽を
くり返している
くり返している
あ 風が出てきた
あ 楽器が壊れた すると
弟たちは寝汗をかく
海は魚や昆布をふとらせ
貝がらを舌でなめ
月のように光らせる やさしいこともするが
時折陸地をのぞきに行く
やさしいこと
やさしくないことは
海にはとっては同じこと
おやすみ おやすみ
ずっとおやすみと
海は陸のいきものに言いふらし 言いふらし
もんどり打って帰ってくる
海の引く線は
透明であるべきだと
海は考える
しかし海は黒い線を引く」

海は好きだとか、良いなとか言いますが、海は人間とは別な言葉をしゃべるわけで、海の非情さ、を私たちは津波でもって知らされたわけです。 牙をむく時もあるという事です。   

「日常」

「おはようございます こんにちわ  頂きます  ごちそうさま  ありがとう     おやすみなさい  これらは日常の言葉である   この国に大地震と大津波が来て        放射能が降って  日常が揺らいできたから  日常をはっきり声にすることで              揺らぎを抑えようとする  抑えられる」

日常を回復していかなけらばならない、そう思って書いた詩です。 何もかも揺らいでどこに掴まればいいかという時、言葉に捕まればいいと思いました。 挨拶をすると落ち着く。 日常が引き寄せられると思いました。  命を救おうと文学賞を作りました。 全国から詩、短歌、俳句、エッセーなどを公募しました。 弟は防災士になりました。 文集も作りました。(5冊) 

私は大学ではフランス文学を専攻しましたが、友人が萩原朔太郎の「月に吠える」を読みなさいと薦めてくれました。 日本語の美しさを感じました。 卒業後出版社に就職しました。  会社が倒産して、怖いものがなくなったような、開き直った感じがしました。   次の出版社に行きました。(青土社)  詩集の編集なをし、詩を学んでいきました。 非現実を入れなければいけないんだなという事を学びました。 非現実を入れた方が強い詩になる。 詩集を自費出版で出しました。 会社を41歳で辞めました。 自費出版の詩集をつくる会社を興しました。 口コミで次々仕事が来るようになりました。 

詩は何となく降って来ます。(他力)  言葉が好きなのでなんか書いています。 生きる励みになっています。  俳句を作り始めて、俳句をやる様になると詩は駄目になるのではないかと思いましたが、俳句を作っていても詩が書きたくなってきます。 海を自分と同一化している時期がありました。  「私は海の一部だから」という詩も書いたことがあります。  80歳になりますが、目標が出来て、88歳までに四国お遍路88か所の札所を全部廻ろうと決意しました。 夫と廻ったのが2007年です。