田中恭子(青森県六戸町) ・最後にもう一度 父の眠る島 ペリリュー島へ
太平洋戦争で日本人が1万人以上の命を落としたパラオ諸島のペリリュー島、この島に今も眠る父親の遺骨を求め手がかりを捜し続けてきたものの、その活動に一区切りをつけた女性がいます。 青森県六戸町に住む田中恭子さん(84歳)です。 戦後80年経った今、父親にどんな思いを抱いているのか聞きました。
父親がどんな人だったのかはわかりません。 父親がいつ動員されたのかも知りません。 満洲に行ったことは手紙で知りました。 昭和19年3月に軍服が送られてきて、母親は新聞などから南方に行くんだろうとさとったようです。 昭和19年5月にペリリュー島へ着きました。 この島には旧日本軍の大規模な飛行場があり、アメリカ軍はフィリピン攻略のために、重要な拠点と考えていました。 4通の手紙が私の手元にあります。 蟻の巣みたいに島の中全体に洞窟を作るために忙しかったようです。 2枚目当たりまでは余裕があって様々なことを書いています。 30数名の部下の家族のも父は手紙を書いていました。4通目は文書も少なくなっていて、 私のこと(・・・明るさと素直さを生かす如く恭子の訓育を望む。)、母親のこと(不幸であった俺の分まで母上様に孝養を願う。健康第一なり。病める家があるものは暗いものである。・・・)短めに書かれています。 遺書の様なものなので母が私に渡してくれたものと思います。
艦砲射撃があり、日本軍が1万名に対してアメリカ軍は5万名でした。 兎に角長引かせて本土に来るのを遅くさせるという事だったようです。 昭和20年4歳で父の死を知ることになります。 父がいないという事に引け目を感じていました。 父親の最後を知りたいと願う様になりました。 きっかけは満洲の戦友から「戦死した人のことを風化させてはいけない。」と電話を受けた事でした。 夫が中心となりペリリュー島戦車隊の会を結成、夫と共に情報を集めてきました。 生き残った人のうち4名の方の話が貴重でした。 父親の戦車に「陸奥」と書かれていたことを知りました。(アメリカの資料)
平成7年に初めてペリリュー島に行くことになりました。 父に全部関連して景色などを考えました。 10日間泣いて帰ってきました。 全国から20数人行きました。 初めて会った人たちでしたが、兄弟みたいな感じがしました。 平成27年にペリリュー島を訪れました。 長年の活動が実り、戦車の掘り起こしと、遺骨の収集が本格的に行われました。 これまでに掘り起こされた戦車には「陸奥」の文字の戦車は発見されませんでした。 去年12月国が新たに戦車の掘り起こしをするといういことで、これが最後かと思ってペリリュー島へ向かいました。 しかし発見する事は出来ませんでした。 もうお骨はないと思って諦めました。(土にかえったものと思います。) 万一、父親のお骨が判っても、部下30数目にのお骨が見つからないままだったらどうしようと思いましたが、父だけのお骨を持ち帰ることは出来ないと思います。