齋藤幸子(旧満州国開拓移民2世) ・わが子を滝に投げた母 ~地獄の記憶を紡ぐ~
山形県鶴岡市に住む斎藤幸子さんは満州で生まれました。 太平洋戦争の終わり、旧ソ連軍による侵攻から逃れて、日本に帰国しています。 その後自分が引き揚げ者であることを人に話すことはありませんでした。 戦後間もない食糧不足の時代、身寄りを頼って生きる引き揚げ者は肩身の狭い思いをしてきたためです。 しかし戦争体験を語る人が少なくなる中、後世に伝えたい思いが芽生えてきました。 7歳の時に経験したソビエト軍からの命がけの逃避行、それは軍に気付かれないように、母親が泣き叫ぶ生まれて間もない弟を、犠牲にするほど過酷なものでした。 戦後80年の今、斎藤さんが過去の記憶とどう向き合い振り返ったのかを伺いました。
仏前に毎日ご飯とお水をあげるたびに、毎朝思い出します。 名前を呼び掛けますが、私だけが生きてきてごめんなさいという事です。 平和なところに住まさせていただいていることが申しわけないと思っています。 私は長女で二人の妹、弟がいました。 昭和14年4月8日満州で生まれました。 昭和13年に渡って中国人と共に生活はしていました。 昭和19年3月父が兵隊として取られました。 昭和19年9月29日に戦死して、その間に4番目の子供を身ごもっていました。 父は優しくて手が器用で遊び道具を全部作ってくれました。
昭和20年8月9日、ほとんど着の身着のままで2台の馬車に分かれて乗りました。 母と私と弟でした。 日中に歩く時には身のまわりに草を刺して山の中を移動しました。 日中は隠れていてなるべく夜に歩きます。 或る時に寒いので焚火をしたら発砲が始まりました。 翌朝日本兵がふたりの女の子を連れてきて、どこの子かと言うんで見たらうちの妹たちでした。 血だらけで虫の息でした。 (6歳と4歳) 母が二人をおんぶしたと思います。 私は弟をおんぶしました。 2,3日後に山の中で二人は亡くなりました。 弔って直ぐあとにしました。 逃げるのに精いっぱいで妹たちのことはよく覚えていません。 それを今でも悔やんでいます。
母についてゆくのが精一杯でした。 四方八方から撃って来るので皆さん亡くなります。 山の中での逃避行になると、食べ物が何にもなくなりました。 ブドウの蔓を食べたり葉っぱを食べたりして生き延びていました。 山の中では首をつって死んでいる人もいたし、小さな水溜まりに皆が駆け寄って飲んだりしました。 毎日毎日亡くなった兵隊の姿を観かけていました。 母はお乳がでなくなって弟がギャーギャーと泣くわけです。 泣き声を聞くと発砲してくるので、誰かの命令で始末するようにという事になりました。 山の中の滝のところに4,5人が立って「一、二の三」でそれぞれ子供を投げたんです。 沈んだり浮かび上がったり数回見かけて「洋一」と叫んだら、母から大きな声を出さないようにとたしなめられました。 みんなの犠牲になって落とされてしまって、今でも毎日涙しないといられないとことです。 (弟は1歳)
生き延びるのには犠牲になってもらうほかないと思って、私も母に対して反対した覚えはありません。 母と二人になり、私も今日か明日かもという気持ちでした。 母には捨てられるのではないかという事は何回かありました。 用を足している間に母は歩いて行ってしまっていて、それに追いつく場面という事は何回もありました。 周りには子供がいなくなって身軽になっている様子を見て、自分にも子供がいなければ、と思ったのかもしれません。 流れの激しい川を渡ることがありましたが、私は母に肩車されて、数人で手を繋いで渡っていました。 その隊列に向かって「お母さん」と呼ぶ声があり振り返ってみると、ひろしちゃんが叫んでいました。 ひろしちゃんは生きていたんだと思っていたら、川の急流に流されて行ってしまいました。 助かっているのかもしれないので、 残留孤児が来るたびにひろしちゃんを捜しますが、見かけていません。 ひろしちゃんの母親がいましたが、一切見向きもしませんでした。(その時には皆自分のことで精一杯でした。)
川を渡り終わったらソ連兵が発砲してきました。 そこでほとんどの人が亡くなりました。 (何十人、何百人) たまたま生き残った私は銃を突き付けられました。 ここで死ぬのかなと思いました。 降参だと言いながら手をあげました。 母が「この子だけは助けてください。」と言っていました。 (「日本語) 母は私を日本に連れ帰ってくれました。 母には感謝しかないです。 弟のことに関しては戦中だったので仕方のない事だったと思うしかないと思っています。
日本に着いたのは昭和21年9月8日のことでした。 母の実家には9年間暮らしました。 (中学3年まで) 引き揚げ者に対しては周りは冷たい眼で見ていました。(差別) 友達は作りませんでした。 戦争はあらゆる人を不幸にします。 弱いものを犠牲にする。 40年も戦争のことはしゃべらない様にしていました。 「救われた人は救う人になりなさい。」と母から言われました。 話を聞きたいという人たちが出てきました。 最初は思い出したくないので勇気が要りました。 亡くなった家族に対しては感謝しかないです。