2013年8月13日火曜日

伊勢真一(ドキュメンタリ映画監督)    ・映像は戦争を忘れない

伊勢真一(ドキュメンタリ映画監督)       映像は戦争を忘れない
伊勢さんは自分と同じ映画監督だった父が、戦時中インドネシアで製作し、現地で上映されたという映画について長年取材しています
今は亡き父が製作した映画を見たり、インドネシアで聞き取り調査をした結果、映画は日本の国策として作られ、自分の父親は様々な思いや、メッセージを込めて製作したと考えています
そうした父親の生涯について描こうと伊勢さんはドキュメンタリー映画の製作にも当たっています
父の思いに迫る伊勢さんに伺います

ドキュメンタリー映画 30年かかって、もうすこしなんですが、実際に取材を始めたりしたのが30年前
父は60歳で亡くなる (40年前)  父はいったいどうしていたんだろうと言う事が元になっている
父親は報道班でジャワにいった  ジャワの国内で、インドネシアの人たちを日本人の考えになってもらい、というか 一体化政策、プロパガンダの役割り、それを映画で伝えようと、映画で日本の言葉、文化、考え方が優れていることをインドネシアに伝えて、そのことでアジアで戦っている日本の戦争が、とってもインドネシアにとっても必要なんだと、納得するような役割の映画を主に作り続けた

3年ぐらいいた 昭和17年から20年まで 凄い数を作った  
残されたフィルムがオランダに接収されてあるが、解っているだけでもかなりの数のフィルムがある
日本にもあるが、あんまりいい保管状態ではなく、数もない
インドネシアはオランダの植民地だったが、解放すると、日本軍は占領下に収めて、インドネシアを統治した
文化戦線 今でいうジャーナリスト、音楽家、絵描き、小説家、ペンで戦うんだと言うようなこと
父もこれの一翼を担った
インドネシアでは日本は解放軍だと言われたが、実際には軍隊が駐留して、日本の植民地になった
理不尽なことをされたかと言うとほかのアジアの国にくらべれば、そうではなかったが

作った映画の内容
宮城礼拝(皇居に向かって毎朝お辞儀をするという)映画とか、 隣り組を作ってちゃんと守りましょうとか、防衛義勇軍を皆で作ろうとか、貯金しましょうとか 映画を作って皆に教え込んでいた
一番強いのは日本語競技会 日本語を競わせて、日本語を学ばせる教育映画
労務者募集 いまでいうリクルート映画  国策のために戦争に駆り立てる役割を担った
オランダにいってフィルムを見たり、一部日本でも見る機会があり、段々父が何をやっていたかを段々知るようになった
研究者の方に聞いて、オランダにフィルムがあることを知った
父親のそういう事から、特に記録映画の映画人が、どんなふうにして、戦争中、戦後を生きたかをドキュメンタリーを作っている一人として、今残していく必要があると思った

直接聞ける映画人はもうすべて居なくなってしまった
もう手遅れかもしれないし、30年の歳月がやっぱり必要だったのかなあと、両方の気持ちがある
息子も私の父親の事、インドネシアのことを知りたいと言う風になって、手伝ってくれるようになった
戦争と言う時代を今の若い人はそのことを自分なりに、記憶をまさぐるようにして、知りたいと言う気持ちを強く持っていると思うんですよ
知りたいと言う、とっかかりが、たまたま息子の場合には、祖父であり、父親である私が知りたいと思って探っていると言う事につながる
忘れないと言う事のとっかかりになればいいと思っている
人間は忘れっぽくて忘れてしまうかもしれないが、映像は覚えているんだと言う事を、父親がインドネシアで作ったフィルムをオランダで見てそう思った

震災も作って見てもらっているが、映像は覚えていると言う事を、物凄く強くあると言う事は、上映の会場で見ている人達の反応で良く分かる
映像をしっかり残すと言う事は、すぐに力を発揮しないかもしれないが、きっと何かを語り始めることを信じている
自分で考えて間違っているかもしれないけれど、自分で考えて、そのことを事実として、こういう事があったという事を皆に知ってもらう事と、自分が父親の仕事をしっかり見直すことで、父親の存在も世の中に知られていると言う事が無かった職人の映画人であった存在も、思ってもらえればいいと思う
見る人が自分で考えて、自分で思いを巡らして、映っているものの中から、見る人の物語を紡いでいくと言うのが、映画の面白さだと思う

極東軍事裁判の特報(父親が作った) 昭和24年製作 20分ぐらいの短編(臨時ニュース的なもの)  やっぱり平和でなければいやだと言う心情があふれている特報映画
父親の定点 どこにあるのかと言うとやっぱり平和でなければいやだというところにあるのではないかと思う