比企能樹(北里大学名誉教授) オリンピックのチームワー クを外科治療に 2
「一艇有りて、一人なし」 エイト 8人の漕ぎ手 舵を取るコックス コーチ 監督 で一つのチーム
一人ではないと言う事
旧制第二高等学校 と東北大学が合同で冬場に練習をしていた
荒海で練習中に遭難してしまった
葬儀の席上で、当時の旧制第二高校の校長 阿刀田令造校長が弔辞を述べたが、痛恨を込めて若い死を悼んで、彼らの結束の良さをたたえた
その言葉の中に「一艇有りて、一人なし」と言う言葉がありました
しっかりと船のそばで離れずに、オールを持ったままで、事切れていたという様子だったと記載されている
ボートの場合は4人で漕いでも、8人で漕いでも、勝ったか、負けたかの結果でしかない
1956年 メルボルンオリンピックに出場 大学単位の出場 実業団は当時は強くなかった
学校の合宿所から朝、練習に行って、それから学校に行って、又帰ってから練習をした
当時は総合大学が強かった 国立大学が強かった 東大、京都大学、東北大学、一橋大学等
父が東京大学のエイトで全国優勝して、子供のころからみていて、刺激をうけた
各大学が40名ぐらいいた
東京大学医学部と慶応義塾大学医学部で毎年秋に対抗戦をやっていた
ずーっと負けていたが、勝つことができた
その後マネージャーをやらされて、食事の用意などをやった
第二エイトに選ばれ、選手としてデビューできた
1955年全日本大会があり、1位東大、2位一橋大学、3位京都大学だった
この3チームが第一次オリンピック候補となる
1956年 優勝校がオリンピックの候補に加わる
東京大学がダントツだった 淡青会22歳以上も参加(OB) 京都大学 一橋大学が有望 慶応大学が4番目
リーグ戦で戦う事になるが、最初東大と戦う事になる
オールに問題があることに気がついたが、遅くてなんとかオールがしならないように、いろいろ工夫したが、いまいちだった
京都大学のスタートは抜群で、京都大学のオールを貸してもらえないかと交渉した
決勝で一緒に当たるときに、オールは借りることができなかった(断られるだろうとは思っていた)
会社で作ったオールを3つの大学で使っていた 北海道大学 東京経済大学
東京経済大学が形状的に慶応に合っていたので、予選で負けてしまっていた東京経済大学に交渉して、監督さんに許可を取って貸してもらった
オールの先の色が黄色だったので、慶応用の色に修正して、行った
硬くて、いいが腰に負担が来る
東京大学と対戦 1000mまでは負けていたが、じりじりと追い上げて、あと200mぐらいのところで一本だけ水しぶきが上がり、タイミングが遅れて、ちゃんとオールが入らなかった
コックスがそれをみて、スパートの号令がでて、それで追いついて強敵東大に勝った
最終が無敗同士の京都大学と慶応だった
出だしは京都大学先行 残り150m~200mのところで、スパートをかけるかコックスが制調(一番前の人)に問いかけたら、まだという指示を出した
その後スパートをかけた 6分3秒 30cm差で勝利した 日本新記録だった
オリンピック代表用の船 檜1枚作り 早稲田OBの社長さんの会社で作って、一緒に付き添って船を運んでくれた
私たちは羽田空港からDC4 プロペラ機で24時間かけて、3回給油をしながら行きました
団長は田畑政治 万雷の拍手を受けて第一陣がオーストラリアの地を踏んだ
準決勝まで進んだ 1000mまではリードしていたが、チェコが出てきて、風が吹き出した
日本の船は軽く、チェコの船は重く、日本の船は風に流されて、ジグザグのような走行になってしまった
その時はアメリカが優勝(敗者復活から上がってきて勝った) 2位がカナダ 3位がオーストラリア
準決勝の翌日は静かな、鏡のような湖面だったので、残念な思いはある
私は4番クルーで、オーストラリアの4番クルーとは家族ぐるみで付き合ってきた
彼はジム・ハウデンと言う名前で、日本に来て会った時に、足をみてくれと言われて、観たが癌であった(癌研にも依頼して確認したが) 惜しい男だった(最高裁の判事になっていた)
以後も家族とのお付き合いはしている
2002年に世界マスターズオリンピックで仲間がそろったが、コックスがいなかった
1956年のメンバーで漕いだ コックスのお骨の一部を散骨した
小泉信三の言葉 「運動、練習は不可能を可能にすると同時に、良き友を得る」
来年も行く計画がある 心はメルボルンのウェンドリー湖(ボート競技した場所)です