笠井賢一(劇作家) 能の可能性に挑む
学生時代から歌舞伎の研究を進め、歌舞伎俳優・八世坂東三津五郎の秘書を務めました
1983年からは、観世流「銕仙(てっせん)会」に所属し、先代観世銕之丞(かんぜ てつのじょう)について、能・狂言を研究するかたわら、プロデューサーとしても活動
多田富雄「花供養」」(白洲正子を題材にした能) 駐日ポーランド大使新作能 「調律師 ショパンの能」 等新しい能に挑戦
能の基礎知識 世阿弥 1363年生まれ 来年生誕650年 観阿彌1333年生れ 鎌倉幕府が消滅した年
中国から散楽 が日本化して平安末期 から鎌倉に 猿楽となり 滑稽な要素を含んでいる
その後 能狂言になって来る
現在の能は中国伝来の舞、日本古来の田楽、延年などといった様々な芸能や行事の影響を受けて成立したものであると考えられている
鎌倉時代に翁という芸能が有った 五穀豊穣 国家太平 国家安全を祈る 民族にとって一番基本的な祈り これが能の根本芸として非常に大切にされる
今でも年の初めには翁をやる (どの流派でも)
能と狂言はいったいのもの 能役者が白い能面を付ける(翁)
国家安全と天下太平を祈る 三番叟の方は鈴を鳴らしながら 五穀豊穣を祈る
黒い面を付ける 太陽の元で日々 汗をして農耕にいそしむ 働いている証徴 実際に農耕をしている様な仕草が有る
能は理念 天下泰平とかを祈り 狂言は具体的 五穀豊穣 日常的な事を祈る
観阿彌、世阿弥の時代なって来ても分化して 能は人間の精神性 死者の思いの深さとか
永遠に満たされない恋への思いとか 魂の領域を表現する
謡と舞いで表現する世界 狂言は日常の世界を表現 愚かしい雑多の事 おおらかな笑い
人間皆同じなんだよ 気取っているけれども 愚かし事をする等を表現
私は日本の古典をみる事により興味を抱く 歌舞伎の坂東三津五郎(8代目)に対して本を
書くお手伝いをした 歌舞伎の楽屋に出入りすることができた
義太夫 文楽を知り得た 歌舞伎の親みたいなもの 坂東三津五郎さんは能にも詳しかった 世界が広がりそんな関係で古典の仕事をするようになった
観世栄夫 、観世久雄 観世銕之丞(分家) 3兄弟 非常に活躍した 新しい時代の風潮
流派の枠内で能をやるのではなく、流派を超えて 現代的な事をやる
三島由紀夫作品 知恵子抄 等をやる ギリシャ劇をやったり泉鏡花を上演したり 能、狂言からはるかに超えたものを上演した それをみる事によって
能、狂言の役者はこんなに能力が有るんだと感じて 現代の役者たちが一体どんなことができるのか 考えざるを得ない状態になった
歌舞伎から能の仕事に入って行った 演出家としての観世栄夫さんの教えを受け、
「近松門左衛門」でお手伝いをし 言葉だけで演出し始めて 語りの力を教えてもらった
私自らも開拓していった それが演出家としての出発になった
観世栄夫さん 能の世界から飛び出て 大河ドラマにも沢山出演した
俳優としての仕事も確固たる地位を占めた
伝統芸能の世界では極めてまれなこと 狂言では野村満斎さんがいるが 狂言は会話体で
やっているので 入りやすいと思うが能は会話がないので入りにくさはあると思う
30年演出してきた 思いで深い作品は→ 新作能 「幻」演出、上演した
多田富雄さん 自ら鼓を打ち 新作能を沢山創作 何本か演出させてもらった
「花供養」(白い椿に例えて能にしている) も担当させてもらう 密度の高い仕事をさせてもらった
古典の世界から現代の深刻な問題まで能で表現できる事を多田さんが表わしてくれた
「一石仙人」は アインシュタインに関するもの 原子力の危険性 「無明の井」心臓移植のもの
国立能楽堂で上演 「長崎の聖母」 「沖縄の戦争の悲劇」等
西洋音楽と融合 ポーランド大使 弟子として勉強していた 知日派 日本に駐在 ショパンイヤー 「調律師 ショパン能」を書いた
観世銕之丞さんがシテで私が演出をする ショパンの「ノクターン」(ピアノ演奏)で舞いを舞う
ワキは ドラクロワ ドラクロワの夢の中に表れて芸術論をかわしたり、故郷を喪失してパリで亡くる 思いを物語で語った後にピアノに合わせて舞う
ノクターンは精神性のあるピアノ演奏であり 能の精神性に通じる 馴染む ポーランド公演ではショパンの音楽性を芸術的に能が表現してくれたと評価された
芸術の本質を共有すれば感動は共有できるんだなと感じました
シテが(中将の能面でよく似合っていた)ショパンの霊 繊細で苦悩する 教会で舞う鎮魂の世界
無形文化遺産となっている 最初に登録された 能は基本的には一回しかやらない 500人しか見れない
クラコフ アウシュビッツの能をやりたい ポーランドとは長い交流が有る
今回の大震災でも夏にワルシャワの子供達を招待した
20世紀の負の遺産(アウシュビッツ、大震災、原爆)を本に書かれていて
これを上演したいと思っている
人間がどう生きてゆくべきか、生と死は何なのかを問いかけるものであり そういう風な問いかけとしての能が作られるべきであり
20世紀から21世紀にかけて 今の問題 古典の世界だけではなくて 鎮魂の芸能 魂を鎮める芸能としてずっと培ってきた技法を今の課題をやるべきだと思う
「鎮魂」 副題として「アウシュビッツの能」としてクラコフ(アウシュビッツ)と福島でやたりたいと思っている