日本昔話での絵で数多くの作品を残した 古里の熊本には「島原大変 肥後迷惑」という言葉で伝えられてきた大津波の歴史が有ります
東日本大震災のショックで一時創作意欲が落ちますが 画風を初期のメルヘンの作風に戻す事で自らを明るい夢の世界に置き、再び活動ができるようになりました
今創作活動に新たな意欲を燃やす 又野さんにメルヘン画、水墨画、仏教画 のそれぞれうちにある心と、又野さんの古里の原風景について話してもらいます
大震災時 全身の力が抜けてなにを書いていいか判らず 1カ月ぐらい精神的にショックをうけた
最初はメルヘン画がスタートだったが 子供達を描き 子供と遊ぶ良寛さんを描くうちに(和歌) 山頭火(俳句)へ、彼は全国を歩く 特に九州を放浪してあるく
昔書いたメルヘンの絵を引き出して見た
これも面白いかな 自分自身でも気分転換になると思い そういう感じになってきた
明るい絵を書けるようになり個展で感動したと評価された
私の生まれた時の又野家の墓が山の麓にある 亡くなった方が沢山埋葬されたと聞く
調べてみると長崎と 熊本の沿岸だけで15000人ぐらいが亡くなったと、言われている
吃驚する 高いところでは20m 最大50m 1792年の津波が襲った
少年時代 夕日がきれいな場所だった 何回もただ立って見ていた 三角線 SLが走っていた
生活の為に700mあるトンネルを行ったり来たりしなくてはならず 夜に其のトンネルを通るのに棒きれをレールに当てて真っ暗な中を歩いた(4年間)
身体に当たる水滴、物音等で凄く緊張して色んな事を想像したりした
暗いのは怖いが後々の創造力の源になった
私の日本昔話は怖いものが多い 中学、高校とノートには可愛い絵を書いていた
設計事務所に就職したが面白くなかった
スケッチブックを持って20歳の時に鎌倉の横山先生の家にいき 売り込んだ
3か月ぐらい通って採用してもらう 7000円ぐらいの給料でアパートに住み3500円が家賃 残りで生活した(生活自体はきびしかった)
手塚治虫先生のところで鉄腕アトムのシリーズをやると聞いて すぐ売り込みに行った
直々に面接有 働かしてもらう事になる 給料が3倍になる
その後フリーになる 下請けでいろいろな作品を手掛ける 発想を大事にしている
メルヘン画 若い人しか買わない 水墨画 幅が広い
描くと紙に滲む 和紙は何百種類とあり 和紙への絵は描けないと思っていたが 、段々と描くうちに面白くなってきた 墨は色はないが 描いていると色を感じる
色んな表現ができる事が段々判ってきた
(観る人もいろいろと絵の色を想像する) 山頭火は俳句をしながら旅をする
自由気ままに生きている
漫画日本昔話 特殊なアニメーション その都度主人公が変わる 自分一人で出来る
自分の個性が出せる
親と子供が見れる 学校で見せれば良いのになあと思う
農具は資料館に行けば分かるが使い方は判らない人が多い(石臼、脱穀、くるりん棒、とう箕等)、後世に道具はこの様にして使うのだと云う 働きを伝えるものが日本昔話にはある
天女の絵等は仏教画というよりはメルヘン画の世界
絵の学校には行った事がない しかしそれが良かったかもしれない 独学なので自由に描ける 制約がない 自分のスタイルはある
仏画はお寺に掲げるのではなく、玄関、居間等に掲げるような仏教画を書きたい 家に帰ってきてその絵を見てホッとするような仏画を書きたい