2012年2月2日木曜日

町田宗鳳(広島大学大学院教授)   ・愚かさの再発見2

町田宗鳳(広島大学大学院総合科学研究科教授)    愚かさの再発見
感謝のテーマ 一つ決める 「ありがとう」(感謝念仏)  一心に深呼吸してありがとうを念仏する 
できるだけ長く発声する
効果 何となく目から涙が出てくる事が有る 外国でやっても効果がある  
法然上人からヒントを得た  
法然のことば 「声はこれ念なり 念はすなわちこれ声なり」  信仰するなら声に出しなさい
 
「心の底より真実にうらうらと一念も疑念無くして精進に念仏せらるるなり」
現代人が宗派にこだわらず 現代世界で念仏するのにはどうしたらよいか 考えていたら
 「ありがとう」に出会った 絶食をした状態でやると更に効果がある
健康管理には気を付けている 人間の幸せ は何より健康であることが大切   
大きな声を出すことが健康にも良い 現代人は声を出す機会がなかなかない
法然自身が「愚」を推奨している  「知者の振る舞いをせずしてただ一向に念仏すべし」 
「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」「ありがとう」・・・・何でもよいが唱える
声を出すことによって知らず知らず、自分の心の奥底の内に溜まっている否定的記憶(トラウマ)
が消えてゆく働きがある

誰もが生れてからずっといろいろな体験をしている 悲しい 寂しい 苦しい 否定的記憶が
無意識に深く蓄積されている これを癒すことがなかなかできない
それを掃除することはどうしたらいいか 昔は座禅 お題目 念仏しなさいと云うように有ったが
 現代人が宗教的世界に入ってゆくには中々できない  
「ありがとう」は宗教色はないし、大きな声でありがとうを言って 感謝の念が浮かび上がって来る
現代人は便利で快適な生活をしている 一方で運動しなくなった 
心と体がバラバラになってしまっている 生きていると云う実感を感じないライフスタイルになってしまっている
折角おいしいものを頂いてもあーおいしいとか 嬉しいとか 感情としてはねかえってくるものが
ばらばらになった心と体を引き寄せるのにはどうしたらよいかと言うとない

昔なら座禅等 私は「ありがとう」を10分20分と一心に発声する事によってばらばらになった心と体
が引き寄せられて重なり合ってくる
それを体験しています 嬉しい、たのしい、ありがとうという感情が湧いてくる 何でもいい 
スポーツ 音楽等 一心不乱に同じ事を繰り返す
心と体の融合 心と体を重ね合わすと云う事は大変大きな意味を持っている 
近代文明は分裂の文明でもある 人間と自然 科学と宗教 個人と共同体が分裂している
これから 新しい文明は心と体を融合してゆく こういう方向に変わると思うんです  
地球文明も分裂から融合に変わりつつあるのですが 個人の肉体に於いても 
分裂から融合への動き出してゆく そういう時代に来たのではないか
 
日常空間にずっと閉じ込めていると元気が無くなる 時々日常空間から非日常空間に自分を解放
してあげる わくわく楽しむ時間 愚かさの時間でもある
日常空間(会社 学校 家事 等々生活に欠かせない空間) 非日常空間
(スポーツ、音楽、いろいろな趣味等)
非日常空間に自分を遊ばせてあげる 責任感の強い人は日常空間に閉じ込めすぎる 
おりこうさんを止めておバカさんになる 
日本の伝統には素晴らしいものがある  お祭り→年に2度3度 村の人が酒を飲んで楽しんでいた 
現在はおまつりが形骸化してしまっている 
安全管理の面から管理されたものになてしまっている 自分のものになっていない 
以前は村が用意してくれた  今は村が祭りを作れなくなってきた
自分で自分のお祭りを作ってあげる事が必要  
子供に一度も勉強しろと言ったことはない 身体を動かせと云って来た 

長男は初めは医者になると云っていたが 大太鼓をたたく演者になっている
日本文化の発信力に和太鼓もあると思う  それぞれの立場で自分自身に自信を持って世界に
発信してゆく必要がある
日本の文化の素晴らしさをますます強く感じている(海外を回って)  
発酵力を日本の文化は持っている 良いものも 悪いものも 東洋も 西洋も 混ぜて 
そこから生み出すと云う日本の文化には 発酵力を持っている  
発酵力を生かして日本は発酵の酵母菌を世界にばらまいてゆくべきだと考えている
妙好人 下駄職人の浅原才市さん  この人は念仏を繰り返し繰り返し唱えているうちに深い
教界に入られて阿弥陀と一体となって生きておられる
 
下駄を作る時にかんなで削ったかんな屑に書きとめている  
「このあさましや 南無阿弥陀仏を 着せてもらって 南無阿弥陀仏 うれしい 南無阿弥陀仏」  
「私は悪いばかり 貴方は良いばかり 南無は慙愧で 貴方は歓気 慙愧 歓気で 南無阿弥陀仏」  
慙愧(罪の意識)と 歓気(救われたと云う喜び)が
ごちゃまぜになっている  神と人を分けるのではなし 善と悪を分けるのではなしに 
彼の気持ちの中ではごちゃまぜになって凄いいいものに発酵している 
「貧乏すりゃ また貧乏が宝  わしが宝は 南無阿弥陀仏」 貧乏を苦にしていない 
凄いのは出家して修行を積んだわけではなく 学問を積んだわけではなく
凡人の一妙好人がこんな深い境地に入るのは日本仏教の底力を感じるわけです

日本仏教 というのも 日本文化の発酵力の一つ現れだと思うんですよ 
科学も芸術も文学 の面でも日本の発酵力は表れていると思う
ちゃんと理解して認識して世界に発信するそんな時期に来たのではないかと思う 
日本人は宗派別に分けて考えがちであるが  バトンタッチ 一列につながっているものと考えて
いる(優劣とかは考えずに)  日本仏教には一貫した流れが有る
その流れの一つが「愚かさ」と言う事ですよ   それを西洋的な論理で世界の人にも理解して
もらえるように表現してゆきたいと考えている 

日本文化、日本仏教を積極的に評価して世界に発信してゆきたい これからの抱負
ハワイにフラダンスの研究に行く  今、 京大の先生と一緒に身体技法について研究している   
身体を使う事と宗教体験が如何に密接に繋がっているかと言う事を科学的に究明して行こうと思っている
ハワイ、フランス、ヨルダンに行くがこの感謝念仏を行う予定です
実は愚かさの正体は何かと云えば「愛」です「無分別な愛」 普通分別しながら誰それが好きだ
とか嫌いと言っているが 愚かさは無分別の愛 キリスト教的に言えば「博愛」 
愚かさは誰が来ても なにが起きても それを受け入れる 懐の深さが有るわけです
 
宗教的にも非常に深い物をかんじますし これから新しい文明の形を作って行くうえで
特定の信者であるとか 貴方は異教徒であるとか そういう区別をしていては争いは止まない 
どんな宗教に入っていようが どんな文化に育っておろうが
同じ人間としてすべてを無分別に愛してゆく それができるのは愚かさだけですよ  
だからその辺に日本人が持っている 大きな役割が有るんじゃないかと思っている