2024年6月5日水曜日

小森美巳(元NHKディレクター・演出家) ・子どもに最高のものを届ける

 小森美巳(元NHKディレクター・演出家) ・子どもに最高のものを届ける

小森さんは1933年東京生まれ。 父親の関係で現在の韓国に行きましたが、終戦後命からがら帰国、2年後ようやく東京に戻って日本女子大付属中学校に編入しました。 大学卒業後NHKに入局、当時の婦人課に配属され、その後プロデューサーとして1959年にスタートした「お母さんといっしょ」に携わりました。 3人目のお子さんの出産を機に1970年に退職しましたが、友人だった俳優の岸田今日子さんの誘いで、子供向け演劇の演出家となりました。 詩人の谷川俊太郎さんが脚本を書いた「おばけりんご」や劇作家の別役 実さんの「不思議の国のアリス」の「帽子屋さんのお茶の会」など、子供だけではなく大人も楽しめる舞台を数多く作り続けてきました。 

91歳になりました。 演劇集団「円」と言うところに属していますが、若い演出家を何とか育てていかないと、子供ステージと言うプログラムが長続きがしないので、岸田今日子さんと始めて40年も続けてやってしまったもので、コロナでちょっと途絶えた後、若い演出家がなかなか出てこないんです。  子供についての考え方がまず違います。  私は小学、中学、一番感受性の強い時代に、本当に何もなかったですからね。(戦争)  終戦の2年前に韓国に行って、終戦になって引き揚げ者となって、それが大変でした。 

父は男の子の名前しか考えていなくて、母の名前(美佐?)と父の名前(巳之助?)を一字づつとればいいということで「美巳」と言う名前になりました。 母が芝居が好きでいろいろ話をしてもらいました。  4人姉妹で全部女です。 私が長女で4人で芝居ごっこをしたりしていました。 3歳で「エノケン」の芝居を見たことがあります。 韓国に行く時には大きな船で4時間で行きましたが、引き上げの時には小さな船で7日7晩漂うわけです。 3日目には気持ち悪くてなにも食べられなくなりました。  博多に着いた時にはアメリカ兵が自動小銃を構えてずらっといました。 東京は焼け野原だったので、淡路島に1年ちょっといて、2年生で東京の編入試験を受けて、元に戻れました。

東京は敷石と雑草が生えていて、バラックがすこし建っていたりしましたが、むなしさを感じました。 学校は自由で楽しかったです。 演劇部でシェークスピアに入れあげてしまいました。  1年先輩に平岩弓枝(小説家)さんがいて、その一つ上に高野悦子(岩波ホールの支配人)さんがいて、演劇のことに関していろいろ楽しかったです。 大学では国文学を専攻しました。 古典よりも現代演劇に興味がありました。  高校2年生の時に新しいラジオ番組のオーディションがあり受けました。 番組のプロデューサーだった小谷節子さん(「おかあさといっしょ」を立ち上げる方)から一番元気が良かったから選んだという事だったらしいです。 その後NHKの婦人課に入りました。(江上フジさんが課長) 吃驚するような方ばっかりでした。  筒井啓介さん、飯沢匡(ただす)さんなどからは色々なことを教わりました  テレビの実験放送が行われるようになって、どういったものか夢中になって観ていました。 

ブーフーウー』は、『おかあさんといっしょ』の初代ぬいぐるみ人形劇として、1960(昭和35)年9月から1967(昭和42)年3月まで放送。 黒柳徹子さん、大山のぶ代さん等の声で、音楽を担当したのが小森(後の主人)でした。 同期でも結婚、出産などを機に辞めてゆく人が多かったです。 長く続けている方はおひとりが多かったです。 私は子供が生まれても続けていました。 『おかあさんといっしょ』をやっていながら、子育てとの矛盾を感じるようになりました。 3人目の出産を機に1970年にNHKを退職しました。   

舞台の仕事に興味を抱いていたところに、岸田今日子さんが子供に見せるいいお芝居をやりたいので一緒にやらないかと声がかかりました。  谷川俊太郎さんが書いて、私が演出して岸田今日子さんが製作をするという事が始まり、夢中になるわけです。  生身の人がその舞台で演じる事の感動は、ちょっと違うものがあると思います。  身体の中に残っていくと思います。  生活の中に、心に残ったことをひょっと、時間が経ってから話すという心地よさは、吃驚するようなものがあって、そういったことは絶対あった方がいいと思います。 勧善懲悪である必要はなく、何か疑問を残す、問題を残す、そういったものがいい形で残ってゆくものにしたらどうだろうという事になりました。 私にとって最高のものが子供にとって最高かはわかりませんが、一生懸命作ってこれを観てもらいたいというものを作りたいです。 












 

2024年6月4日火曜日

JILL(ロックバンド「PERSONZ」ボーカリスト)・女性ロッカーのカリスマとして40年

JILL(ロックバンド「PERSONZ」ボーカリスト)・女性ロッカーのカリスマとして40年 

JILLさんは1960年東京都生まれ。 高校時代にエアロスミスの公演を見て感激し、ロックに目覚めアマチュアのバンド活動を始めます。 1984年ギターの本田毅、ベースの渡邉貢、ドラムの藤田勉の4人でPERSONZを結成、インディーズで人気を博します。 1987年メジャーデビューを果たし、4枚目のシングルDEAR FRIENDSが大ヒット、1989年アルバム「DREAMERS ONLY」がチャートで1位を取るなど80年代を代表するロックバンドとなりました。 今年結成40年を迎え現役のロックバンドとしてコンサートなど精力的に活動しています。 

DEAR FRIENDS」 演奏:PERSONZ

今64歳です。 結成40年になります。  盛り上がっている時だったのでスタートは良かったです。(バブル期) 窮地に追い込まれた時もあります。 女性ボーカルでこんなに続くのも珍しいです。  子供時代は内向的で、中学では学校には行かなくなっちゃいました。  当時は登校拒否は多かったですね。 高校に行っても続いてしまいました。  出席日数が足りなくて2年にあがれなくて、幼馴染が音楽が好きでロックコンサートに誘ってくれました。 それがエアロスミスでした。 音楽は嫌いでしたが、その盛り上がりを見て吃驚しました。 それから音楽に傾倒してしまいました。  バンドを組んで私はベースを始めました。  通信高校には3年間通いました。 一旦辞めようかなと言う時期がありましたが、本田さんに会って、ギターの本田毅、ベースの渡邉貢、ドラムの藤田勉の4人でPERSONZを結成しました。  バンドをやるには厳しい時代でもありました。 

プロデューサーを付けずに4人で試行錯誤でやっていました。 私、女性がいたので、男性4人とは違ってぶつかり方が違ったと思います。 私は最初の頃はマネージャー業もやっていました。  ツアーの仕方、レコーディングなども知らなかったが、経験をしてきたお陰で続けてこられたのかも知れないです。 母親役をやって来ましたが娘が結婚して独身に戻ったような感じがします。 衣装も買ってきたものを直したり、作ったりします。 コロナがあったので時間を割くことが出来ました。  幼稚園などでも私はどうもはみ出る子で親がいつも心配していました。 登校拒否の時代でも何とかなるかなと言いう風に、楽観的なところはありました。  詩も曲も作るし、300曲以上あります。 

阪神淡路大地震があり、東日本大震災があり、その時に歌ってやってていいんですかみたいな、感じがありましたが。  コロナもあり、自分が何のために音楽をやるのかという事を考えられる時間でもありました。  バンドもお客さんがいるからできるんだと改めて思いました。 6月終わりから40周年のツアーが始まります。 自分達の位置を広げてみようという気持ちが凄くあります。  今後もしバンドのひとりが居なくなったら、私はPERSONZはやれなくなると思っています。 2017年の時に自分のソロをやろうと思って始めました。 もしPERSONZがなくなっても、私は歌をやっていくという気持ちでやり始めました。 2017年の時には大冒険でした。  100歳までプランをと思っています。 アンテナを張って、これはいいという事が自分の中にいくつかあって、 そこにひっかかたものは楽しく思える。 それが生き甲斐になってくると思います。 






 






2024年6月3日月曜日

穂村弘(歌人)            ・〔ほむほむのふむふむ〕伊舎堂仁

穂村弘(歌人)            ・〔ほむほむのふむふむ〕伊舎堂仁 

1988年沖縄石垣島の生まれ。 大阪芸術大学文芸学科卒業後現在は東京在住。  これまでに歌集を2冊2014年に第一歌集「トントングラム」、2022年「感電しかけた話」を出版。

伊舎堂さんの選んだ作品

*「インターネットに悪口書くの止めて下さいかばも迷惑しています」名古屋・・?の作品

伊舎堂:この歌大好きです。 「かばも迷惑しています」で平和解決と言うか、こうありたいと思いました。 

*「何回かはらんでしまう戦争を全部一人でやろうとしたら」   熊木しし?

いろんな戦争って厭だなという言い方はあるかもしれなけれど、ここに新たに足したなと言う一首。 戦争は怖いなに、味を加えている一首だと思います。 

穂村:「ぼくたちを徴兵しても意味ないよ豆乳鍋とか食べてるからね」と言う歌と共通の色が少しあるような気がします。 強烈な抵抗、批判ではないんだけれど批評性がそこにあるという。 でも怖さもある。

穂村さんの選んだ作品

*「同居人とその恋人が眠っている横で静かに履歴書を書く」  岡?

ルームシェアしているんでしょうね。 独特の優しさに美しいものを感じます。

伊舎堂さんの選んだ作品

*「ロ―ソンは何の略なのローソンは心ゆくまで正式名称」   谷川由里子

伊舎堂:「心ゆくまで正式名称」と言うのがパンチライン、読み下すことでスピードが付くフレーズで、言い終えた後で明るい気持ちになる、自分がローソンになったような気持になるというか、奇妙な体感が訪れる。

*「親指は蜜柑に埋もれてるだけどこれから大逆転が起こるよ」  足立?

これから大逆転が起こるよ」と言うフレーズに目頭が熱くなったほどではないが、これに対して・・・気持ちが起きないというのを伝えくて引きました。(内容を理解できない。)

穂村:批評する歌人だった塚本邦雄は繰り返し、日本に革命が無いことを嘆いていた、短歌のなかでも。 水原紫苑も日本に戦争はあっても革命が無いという事を凄く言っていました。 それが変形しているけれども伊舎堂さんと伊舎堂さんが選ぶ歌には、その嘆きの流れを感じます。 「大逆転」は革命の夢みたいな。

穂村さんの選んだ作品

*「壊れないものは作っちゃいけないの壊れないものは他を壊すの」  飯田有子

穂村:初めて見た時には衝撃を受けた歌で、価値観が真っ向うから否定されている。    壊れないものがいいものだと何となく思い込んでいた。 ここでは世界観が反転している。

伊舎堂さんの選んだ作品

*「サンタさんスケートリンクにある広告を全部が(蛾)?の写真にしたいの」  中井みよ?

伊舎堂:仕事中であるサンタさんとスケートリンクで回っているフィギュアスケートの人仕事中の二人をが(蛾?)と私のいたずら心で台無しにしてやろうみたいな気持ちが、このあと何が起こるかと思うと愉快になるという意味の仕事中の二人を暇な私が邪魔をするというイメージがぐっとくる。 「がの写真にしたいの」の「の」で短歌会の解釈が割れている。 サンタさんに期待していない「の」と僕はサンタさんになった気持ちになって「の」にグッときました。 消費してきた側と奉仕してきた側の違いがあるのかなあと思います。(内容が?)

穂村:僕は純粋な希望の様に思えた。

*「ポリシーを貫くシールドを貫くポリシーでシールドを貫く」  森慎太郎

伊舎堂:この歌の可愛げのなさがかっこいいと思いました。 「ポリシーでシールドを貫く」ともっとかっこいい言葉になって、1,2秒でやったみたいなかっこよさがある。 

穂村さんの選んだ作品

*「今までに見た幽霊を教え合うソファーに夜の風は当たって」   郡司和斗

穂村:「幽霊を教え合う」と言うのは無駄と言えば無駄だけど、二人にとっては特別な時間で、幽霊で居たいとか、半透明で居たいとか、幽霊の仲間になってゆくような、ちゃんとした人間になりたくないような。

伊舎堂さんの選んだ作品

*「これまでとなるべく別の生活を女に学び損ね続ける」   斎藤斉藤?

伊舎堂:動詞をあまり入れない方がいいという事がありますが、「学び損ね続ける」と重ね続けると、読んだ時にぐるぐる回っているような感じがします。 

穂村さんの選んだ作品

*「狸めに食われしのこりと送り越し桃はめば狸のような幸せ」  時実勝子?

穂村:桃を作っていて桃を送ってくれたが、良いものは狸に食べられちゃって残りでごめんと言うような手紙が添えられていたと思うが、桃を貰って食べてみると自分まで狸の仲間になったような幸せさえあったという。 器の大きさを感じます。

伊舎堂さんの選んだ作品

*「そりゃ男は偉いよ三百メートルも高さがあるし赤く光って」  平岡直子

伊舎堂:これを読んだ時に男として最終警告を受けたような気がしました。 反論が出来ないような、滑稽だね貴方たちはという、平岡さんにこれの次言わせては駄目と言うのをいやおうなく感じさせられました。  

穂村さんの選んだ作品

*「愛があるから大丈夫なのと歌うから若いと誰もが心配をする」  住友秀

穂村:元歌は短歌ではなくて、「瀬戸の花嫁」の歌詞をそのまま使っているが、それをひっくり返している。 高齢者からの忠告。  第19回NHK全国短歌大会 特選

*「あげは蝶が休みに来たよお昼寝のお兄ちゃん静かに起きて静かに起きて」 小学生

穂村:たまらなくかわいいですね。  全国短歌フォーラム 小学生の部 最優秀賞

リスナーの作品

*「先輩が寮の枕は硬いって教えてくれておやすみなさい」   栗川?

*「恐るべしポテトチップス食べる音絶対に聞き逃さない母」  石井卓也?

*印は漢字、かな、人名の漢字が違っている可能性があります。 


































 

2024年6月2日日曜日

山口由里子(声優)            ・〔時代を創った声〕

山口由里子(声優)            ・〔時代を創った声〕 

アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」の赤木リツコ役、「ワンピース」のニコ・ロビン役など多くの吹き替えやナレーションなどを担当しています。 「新世紀エヴァンゲリオン」がデビュー作です。 1995年に初めてテレビで放送されました。 声優としても今年で30年目になります。 演劇をしていて両立していた時期が長かったです。 子供も授かり子育て中心の時期もありました。 本当に声優として向き合ったのは15年ぐらいではないかと思います。

大阪出身で小さいころは内弁慶でした。  小学校の4年生ぐらいから解放して行きました。  親が離婚し父に引き取られました。 父が放任主義でいい子にしていたがはじけてしまいました。  家でやっていたことを学校でもやるようになってにぎやかになりました。  週に一回、校庭に来てくれる紙芝居のおじさんがいて、「黄金バット」の話を講談師の様に表情を変え、声色も変えて上手にするんです。 その方にはまっていました。 中学2年の時にがバレーボール部に入っていて、ちょっと事情があってほかの部活に替えようと思いました。 演劇部から誘いがあり出演した時に、芝居をやっているのにお客さんを見ていると、こっちの世界の中に入って観てるんだなと思いました。 何て面白んだろうと、衝撃を受けました。 以後演劇部に入りました。 高校も演劇部を続けました。  高校3年生の時に、大阪府の高校演劇大会があり、130校参加して私たちは二人芝居をして優勝をして、毎日新聞に大きく取り上げられました。 反響も大きくて、私はやらなければいけないのかなあと思いました。 

私が東京に行くと言ったら父が猛反対しました。  普段無口の兄が父に対して反論してくれ了解してくれました。  岸田今日子さんが大好きでした。 芥川比呂志さんらと中谷昇さんも文学座を離脱していましたが、そこも中谷昇さんが離脱してが新しく「円」という演劇集団を作ってそこのトップにいまして、そこに入団しました。 養成所で3年間の養成期間がありました。 そこでは自分の幼さを感じました。 高木均さんという演劇界の最後の大重鎮と言われた名俳優さんから声を掛けられて、まるで父親の様に役者の心構え、 演劇の学び方など凄く一杯教えていただきました。 その後高木さんが他界されるまで20年間マンツーマンでずっと私を見てくださいました。 

23歳の時に声の事務所に所属しながら、舞台だけをやっていました。  同期も大学を出た人だけで大学は行けばよかったと思いました。  「円」は日舞、パントマイム、リラックス体操、有川博さんのシェークスピアの授業、詩の授業など高度の授業を教えてもらいました。 「円」の3年間は、徹夜で稽古をしたり、濃密な時間をみんなで乗り越えたと言った感じです。 稽古に間に合わなくてバイトする時間もなく、食べる事にも厳しくてリンゴ一個を二人で分け合って一日を過ごしたこともあります。 

23歳から7年間は声の仕事をしなかったのですが、自分でリセットしようと思って辞めることを高木さんに話をしたら、最後に一回だけでいいからオーディションを受けてから辞めませんかと言われて、資料を頂いたら「新世紀エヴァンゲリオン」でした。 受かることが出来て、声の事務所のところから始まりました。  絵の口に合わせてセリフを言うという事が物凄く難しくて、赤木リツコをリアルな人として作り上げて、赤木リツコの人生を演じるという事は出来ると思って、この人の心情とか、存在を考えながら演じました。 マイクの性能がいいので絹ずれの音なども拾ってしまって、そういったことも知りませんでした。 

「新世紀エヴァンゲリオン」の最後の頃は仕事が増えてきてしまって、舞台の方には戻れないようになってきて、舞台と声優との葛藤が10年間ぐらいはありました。  2001年から「ワンピース」のニコ・ロビン役を担当しました。 グループのみんなが演劇出身者が多くて、ファミリーとして常に楽しみながらやっていました。 他の作品とは違う一体感がありました。 自分の悩みも出せるようになり、それで楽になっていきました。  

「ワンピース」の前にたまたま2か月間舞台をやって、アジア各地を回りました。 帰国して声の仕事が来ないかもしれないので一から始めようと思っていたら、「ワンピース」が決まっていました。 声の仕事をやるべきなんだと思い声の仕事に徹しようと思いました。 声の仕事の方がとっても繊細に演じていると思います。 声の仕事は声だけで心を伝えないといけないので、生き方全てが声に乗るような気がします。 

若い人へのアドバイスという事ですが、綺麗にしゃべる事、活舌も大事ですが、心を伝えるという事の方が、大事にしてほしいと思います。 聞いている方は、心を聞いているんだと思います。 舞台をもう一度やってみたいという思いもあります。 映画も興味が湧いてきました。 夜寝る前に大の字になって身体全体を引っ張るようにして、その後手足を上の方に向けてブラブラ揺らしているとリラックスしてきて、眠くなってきます。 そうすると安眠できると思います。













2024年6月1日土曜日

井上頌一(放送作家)           ・放送作家はオモシロイ

井上頌一(放送作家)           ・放送作家はオモシロイ 

井上頌一さんは1943年大阪府出身。 早稲田大学在学中に永六輔さんの門下となり、「クイズ面白ゼミナール」「クイズ百点満点」「クイズの五本人の質問」と言った数々のクイズ番組や、「コメディーお江戸でござる」「爆笑オンエアバトル」などの演芸バラエティー番組、大晦日の紅白歌合戦の構成にも関わって来ました。 現在もNHK朝総合テレビで放送されている「演芸図鑑」の構成を手掛けています。 

「演芸図鑑」の構成を10何年間行っています。 放送作家は1970年から始めました。(54年間)  1966年大学は荒れていました。   放送に関する求人広告がありました。(永六輔) 当時永六輔さんはヒットメーカーでした。  応募したのがこの世界とのつながりでした。  マイクロバスの運転手をしていろいろな人を乗せて行っていました。  桂米朝師匠なども乗せていました。(プライベートで寄席もやっていた。)              大学は学校へは行かずに在籍していただけでした。  沢たまきさんのラジオジョッキーの原稿を書く仕事があり、私が採用されました。 放送作家としての一番最初の仕事でした。   NHKの音楽番組「ステージ101」でも採用されました。  

紅白歌合戦の構成にも34年間も携わることになりました。   当時バードウオッチングなんてなかったが「クイズ面白ゼミナール」で取り上げていたので、紅白の審査員採点を赤と白を上げてもらって、双眼鏡で数えて貰ったらどうだろうと思いました。 そういったアイディアをだしました。 通常はボタンを押せば一瞬で出てくるのですが、それでは面白くないと思いました。 数はピタッと合っていました。 

20年以上NHKのクイズ番組の構成をやって来ました。  雑学が好きで雑学を何とか市民権を与えられないだろうかと思いました。  当時雑学は軽くみられていました。    子供時代はラジオぐらいしかなく、何でも見てやろうというような知識欲は有ったと思います。  古本屋では戦前の本があってすべての漢字にかながふってあるんです。  古い本を買って読むのが趣味でした。  仁徳天皇陵のそばだったので、これは何だと思いました。 そういったものが点在していて、知りたいなあと思いました。 

横山やすし師匠とは中学校が同じで彼は一つ下でした。 後に番組で一緒に仕事をしたことがあり、これも縁ですかね。  「爆笑オンエアバトル」1999年から11年間やりました。 何か新しい審査の方法が何かないかと考えてボールを使う方法を考えました。  ボールの数え方も目方を測る方法でやりました。  81歳になりました。 放送作家は私に一番向いている職業だったと思います。 永六輔さんは怖い人でした。 内容のことで番組のスタッフと喧嘩するんです。 意見が合わず、台本を全部撤収して帰ったこともあります。 














2024年5月31日金曜日

遠藤良子(くにたち夢ファームJikka理事)  ・「DV」で苦しむ女性の居場所を作る

遠藤良子(NPO法人くにたち夢ファームJikka理事)  ・「DV」で苦しむ女性の居場所を作る 

遠藤さんは新潟市出身で、東京都国立市在住の75歳。 2006年から埼玉県越谷市の男女共同参画センターの女性相談員を務め、その後いくつかの自治体で相談員を続け、現在でも埼玉県の相談員をしています。 遠藤さんは夫や家族からの暴力や、貧困に悩む多くの女性たちの相談に乗って来ましたが、更に具体的な助けの手を差し伸べようとNPO法人くにたち夢ファームJikkaを仲間たちと共に2015年に設立しました。 曜日ごとに様々な女性たちの相談に乗るほか、仕事やアパートの紹介、サークル活動などを実施しています。 2022年にはこれまでの活動が認められ、東京都女性活躍推進大賞を受賞しました。 遠藤さんにNPO法人設立の狙いや活動の成果、今後の課題などお話を伺います。 

最初は勉強にと思って相談員を週に一回ぐらいのペースでやっていました。  はまってしまって18年ぐらい続けています。 その後掛け持ちのいつかの自治体の相談員をやっていました。 

新潟から高校を卒業して出て来た後、19歳で結婚しました。 相手も19歳でお酒を飲むと暴れたり、切れたりすると物を投げたり怖いんです。 このまま続けるのは出来ないと思って逃げ出しました。 日々生きてゆくことが大変で、体験を生かそうなんて思ったことはなかったです。 子供が3人いて、長女が学校に行かなくなってこれは大変だと、ジレンマに陥って自分だけでは解決できないなと思って、不登校親の会があって、そういう所に行って学んだり、そのつながりの中からそういった子供の居場所を作ったりしました。 それが居場所つくりのきっかけです。 

NPO法人を2015年に設立しました。 活動を続けるにはお金が必要で、公的な支援を受けるには任意団体では貰えないんです。  仲間たち数人と一緒になって、立ち上げました。 「くにたち夢ファームJikka」と言う名前を付けました。 突然逃げるのには実家がある人はそこにすぐに逃げるので、ちょっとだけでも助けてくれる実家があれば救われるので、そういう思いを込めて「Jikka」と言う名前にしました。 9年になります。 DVから隠れて逃げるという事は違うのではないかと思いました。 加害者を罰することも必要かもしれないが、被害者が安心して堂々と生きてゆくという事をしていかなければ駄目で、皆で守ればいいのではないかと思いました。 そのためには地域の人にDVとは何なのか、本質的にどういう問題なのかとか、世の中全体の問題ではないのかと、理不尽な暴力に女の人は絶えなくてはいけないのか、皆で考える問題だと思いました。  個人情報との絡みもあるが、もっと知ってもらわなくてはいけない。 そのなかで被害者の人たちを守ってゆけると思ってやってきました。 加害者が来たことは一度もありません。 

月曜から金曜日まで11時から4時まで開けていて、スタッフは毎日変わります。 スタッフの得意なことをやります。 相談日、図書館の日などいろいろやっています。 NPOと言うと私たちの趣旨を理解してくれます。 国立市の福祉協議会、UR都市再生機構などと協力して、アパートとかの居場所つくりを進めています。  コロナの真っ最中に困窮者の生活支援があって、国立市の社会福祉協議会とのつながりがあるので、話を持ってこられてURさんと一緒に動いて困った家庭を救済したことがありました。 今は8室ぐらいあります。 女性支援新法、困難な問題を抱える女性への支援に関する法律。  福祉六法があって女性への福祉はないんです。 唯一有ったのが60年前ぐらいの売春防止法です。 

売春防止法に基づいて婦人施設、婦人相談所が作られた。 最近はそこを使いたがらない人が凄く増えています。 女性全般の支援が出来ない。 女性支援新法が昨年成立しました。 女性はいままでいつも世話をする立場で、自分が困った時には誰も助けてくれる人が居ない。  女性にとって過酷な世界であるわけです。 性暴力も問題になっている。 画期的な法律なので、是非生かしていけたらなあと思います。 NPOは仲間が作る法人なので、堅苦しくもないし、皆が対等に意見を出しあったりして共同でやってゆく団体です。   公的な機関と共にやっていけたら女性支援新法も生かしていけるかなと思います。 

2022年にはこれまでの活動が認められ、東京都女性活躍推進大賞を受賞しました。 世に知られていない女性の存在がちゃんと認められて嬉しかったです。 女性の独り暮らしの困窮者が増えています。 50、80問題 70,80代の母親とその娘さんとの暮らしでも娘さんがイライラして暴力をふるってしまう事もあります。 娘さんから逃げてくるが高齢で一人で暮らすしかない。  18歳ぐらいの子が逃げることもあり18歳は成人なので養護施設にも入れない。 児童相談所も相談に乗ってくれない。 それでうちに頼ってくることがあります。  色々な年代層から来ます。 

新潟で祖父が母子家庭、日雇いなどいろいろな人をお世話する姿を見てきました。 それが原体験として有ったように思います。 理屈抜きにして、人が困った時に肩寄せあっていっしょに生きてゆくんだという事を刷り込まれているという気がしています。      テレビなどで報道してもらえたお陰で、寄付を沢山いただけるようになりました。 助けて欲しい人が「助けて。」と言った時「ハイ」と言って動かないと、助けられないことが沢山あります。 出来る限り夜中であろうが電話を取ります。






















岡田美里(タレント)           ・想定外のことを楽しむ          

 岡田美里(タレント)           ・想定外のことを楽しむ 

岡田さんは1961年東京都生まれ。 父はタレントで司会者のE・Hエリックさん。  おじさまは俳優の岡田真澄さん、次女は俳優の堺小春さんです。 幼いころからモデルとして活動、1984年聖心女子大学文学部教育学科卒業し、ロサンゼルスのオリンピックのキャスターになって、その後F1のリポーターやキャスターなどで活躍しています。 1989年に結婚、2女の母となり、当時カリスマ主婦として話題になりました。 その後離婚、再婚を経て現在はタレントとして歌番組の司会や、移住した山梨県の果物を使用したジャムを開発してジャム作家としても活躍しています。 今年の3月7年介護した母親を見送りました。


コマーシャルに父と家族とかで出ましたが、一番古いのは3歳ぐらいです。 祖母がデンマーク人で祖父は日本人で画家でした。  パリでデンマークから留学で来ていた祖母と出会い国際結婚をしました。 父はニースで育って、ヨットに興味を持って日本でもヨットの日曜大工のような作業に汗を流していたことを覚えています。 16歳で初めて雑誌のモデルをしました。  大学卒業後、父がロサンゼルスのオリンピックのキャスターのオーディションを受けないかという事で受かって、そこからテレビキャスターになって行きました。  日常会話程度は出来ましたが、通訳などは出来ませんでしたので、猛勉強をして語学を学びました。 F1のリポーターもしましたが、車のことは判らないので、判らない人の代表で出てくださいと言う事でした。 中嶋悟さんが活躍していた時代でした。 鈴鹿も何回も行きましたし、海外にも行きました。 

結婚をして2女の母となり、当時カリスマ主婦と言われました。 自分では知りませんでしたが、雑誌を見て知りました。 雑誌の表紙のモデルならばそれほど時間が拘束されないのでやりましたが、表紙以外にも仕事が舞い込み全部受けていました。  幼稚園の子供への対応を考えて、転職するつもりで料理教室を開くことにしました。  募集を掛けたら一日で4年後まで埋まってしまいました。 パンも一緒に教えていました。 モデルをやっている時よりも忙しかったです。 40歳の時に子供が小学校5年生と2年生で、離婚しました。(5年間悩みました。) 世の中の目と違って、変わらずに過ごしていました。 料理教室の人も沢山いましたが、一人も辞めませんでした。  身近な人々がフォローしてくれて有難さと、性同一性障害の人たちがいましたが、そういった人たちが凄く優しかったです。

子育てに関して彼と全部一緒にやってきました。 高校の謝恩会で私が司会をやって周りの要望で彼が歌を歌うという事もありました。 成人式とか折に触れて記念写真はありますし、その部分が濃く残っていればいいのかなあと思います。 

母は7年介護しました。 私が15歳の時に母は家を出ていってしまいました。 高校からは私は父子家庭でした。 母親をどうしても引きとらなくてはいけなくなりました。 葛藤がありましたが、凄く嫌でした。 東京の料理教室2つをたたんで、家をたたんで山梨に移住しました。(コロナのちょっと前)  離れている間は多少の付き合いはありましたが。 母はちょっと母性に欠ける人だったように思います。  

介護をする中で或る時に、母の魂と私の魂は別々なんだと思いました。 私は私の魂を磨いて、母は母の魂の最後の仕上げを私が手伝ってあげればいいんだと、思うようになりました。 そうしたら急に気持ちが楽になりました。 人間は4つの死に方しかないと思ってるのではないかと医師の友人から言われました。 自殺、事故、病気、他殺でももう一つあって、老衰と言う死に方がある。 人間は老衰で死ぬのが一番幸せなんだから、お母さんが老衰で死ねるように考えてみたらと言われました。  母にも老衰で亡くなるのが一番いいという事を話したら、母もいろいろなことを言わなくなりました。 母も可愛いおばあちゃんになって、「ありがとう、ありがとう。」と言うようになりました。 92歳でした。  肩の荷が降りて、自分の新しい人生が始まったという感じがしました。 

14年間お付き合いしていた方と結婚しました。(20代の頃の元彼) 47歳の時でしたが、マネージャーから昔の人で誰かいないのかと言われて、ずっと独身の人を突然思い出しました。 思い切って電話して、会う事になりました。 2年前に結婚しました。    私は事業でアクセサリーブランドを展開していました。  忙しくなってきた時に体調を崩してしまったら、彼が2週間あれば会社を辞めて、私の会社の社長になってフォローするからと言ってくれました。  それから二人でやって行きました。 人が幸せなることが自分の幸せなんだと思うようになりました。  お互いの時間を大事にしています。

二世帯住宅に死んでいて、義理の母が一階に住んでいて、義理の母が凄くいい人で、母の足りなかった部分を補ってもらっているような感じです。  「育てたように子は育つ。」という言葉が有りますが、自分自身にも「生きてたように人は生きる。」みたいな、そんな思いがあります。 人間にはアップダウンがありますが、落差の大きな人と小さな人が居るかもしれませんが、引っ張ると一本の糸になるという事は、子供たちに言ったことがあります。