2024年2月11日日曜日

窪田等(ナレーター)          ・ナレーター一筋50年

窪田等(ナレーター)          ・ナレーター一筋50年

窪田さんは1951年山梨県生まれ。 高校卒業後、大手勇信メーカーに就職、在職中にナレーター養成所に通い23歳の時に退職してナレーターになります。 コマーシャルからバラエティー、ドキュメンタリーのナレーションと幅広く活躍しています。 NHKではNHKスペシャル、BS1スペシャル、歴史発掘ミステリーなどのナレーションを担当しています。

今年でナレーター生活50周年。  完成形がないので楽しいです。 僕らの大事なことはあくまで条件を伝える、その作品は何を言いたいんだ、という事を出しゃばらずにします。   ナレーションが好きなんですね。  読んでいて心地良さがあり辞められないです。

小学校のころナレーター黒沢良と出たんです。 視聴者に判りやすいように、顔を出さずに状況を説明してゆく人、それが印象に残っていました。 高校に入った時の、クラブ紹介で3年の司会の方が実にいい声で判りやすくすしゃべるんです。 この人と同じクラブ活動をしたいと思いました。 放送委員会に入り、それがきっかけです。 大手通信会社に入りました。  CMナレーター養成講座募集と言う広告を見て、会社が終わったあとに通うようになりました。(1年間)  CMのナレーターの仕事が来ました。 段々やっているうちの会社を辞めちゃおうかと思いました。  緊張感とか、気持ちよかった。 23歳の時に退職しました。 まだ食ってはいけないのでアルバイトをしました。(人間関係に救われました。) 段々ナレーターの仕事だけで食べて行けるようになっていきました。 人によって仕事を頂けるようになりました。 

山梨県生まれなので訛りがあるので大変苦労しました。  長いしゃべりに慣れていなかったので又勉強しました。  新聞、週刊誌など兎に角読みました。 そうすると段々文章の流れが身についてきました。  大事なところを浮かび上がらせて、他を捨てる(小さな声で言う。)、と言ったことが出来るようになりました。  動詞は捨てる。(小さな声で言う。) 今度は長いものが得意になりました。  自分の理解したものを音声として出す。 ナレーションはどの程度まで感情移入していいのかが難しいです。  

感情が入り過ぎてドキュメンタリーで読めなくなったことがあります。(テスト時)    F1の世界でセナが亡くなった時に、「セナ特番」をやりました。  「秋の鈴鹿、セナのいない鈴鹿、・・・」 その後が読めなくなってしまいました。 僕は一回感情が入るのはいいと思っています、やり直せばいいんだから。  僕は司会は出来ないです、台本がないとできない。  ナレーションは好きだし、難しいです。 自分が持っている完成度とディレクターの完成度は違うと思うんです。 あくまでもディレクターさんにゆだねる。 

一日8回と言う時もありました。(2時間程度を) 作品が違うのでリフレッシュするので意外と疲れなかったりします。  酒は飲みません。 タバコは以前は吸っていましたが、辞めました。 ちゃんとした日本語で伝えたいという思いはあります。 朗読の動画サイトも始めました。 コロナの影響で自宅で録音しなければいけなくなって、リモートでやるようになりました。  東日本大震災とかあって、言葉で元気付けることをしたいなあと思って、朗読とかをユーチューブにあげたらどう?と言われてやってみようと思いました。(2020年) 1週間に一回と言う事でしたが、意外ときついです。 ナレーションと朗読は全然違います。 深く入らずナレーションの一環だと思ってやっています。  物語を声で表現することは、苦しいんだけれども楽しいです。 








  

さつたに かなこ(チョコレートバイヤー)・カカオの魅力に導かれ(初回:2023/2/11)

 さつたに かなこ(チョコレートバイヤー)・カカオの魅力に導かれ(初回:2023/2/11)

今月14日のバレンタインデーに向けてチョコレートが最も売れる季節を迎えています。 今年チョコレート専門店が増え、値段が高めで高品質のチョコレートがブームになっています。  そんな専門店の菓子職人やデパートの催し物担当者の相談に乗り、生産国からチョコレートを直輸入している知る人ぞ知るバイヤーがさつたに かなこさんです。 さつたにさんは国際的な品評会インターナショナルチョコレートアワードの審査員を務め、チョコレートを使った料理を提案したり日本の食材とのコラボレーションをしたりと大活躍です。 今は豆の選別から板チョコレート、バーに至るまでの全工程を同じ業者が行う「ビーン ツー バー」や同じ業者がカカオ豆の栽培から一貫して生産したチョコレートが人気ということです。 チョコレートバイヤーさつたに かなこさんにチョコレートの魅力と楽しみ方を聞きました。

今、高級チョコレート店が増えています。 チョコレートという範囲が広がっています。 もともとは紅茶が好きで、紅茶の仕事がしたいという事で紅茶に関する会社に行くことになりましたが、そこは輸入商社でチョコレートを輸入していました。 チョコレートの部門に欠員が出てそちらに回されました。 チョコレートに関する勉強を始めました。 カカオの魅力に出会ってゆくようになり、はまって行きました。  チョコレート店の店長になりました。    

作っている人となりに魅了を感じました。  それが今の活動に繋がっています。 カカオ豆からチョコレートまでを一貫生産するチョコレートを中心に日本に紹介していますが、「ビーン ツー バー 」チョコレートを作っている人が、どうしてそれを作っているのかとか活動をしている内容に関して、共感する内容が多くて、それを紹介したいというのが一番の思いです。 

カカオは実はフルーツで、その中の種の部分がチョコレートの原料になるカカオ豆です。 まず発酵させて、乾燥させローストにして皮を外してすり潰して、段々ドロドロになり砂糖、ミルクなどを加えて固めたものがチョコレートです。 

高級輸入チョコレート店の店長としてブログで配信していましたが、チョコレートに関するいろいろな相談があり、日本に輸入されていないチョコレートを輸入するという事が始まり、バイヤーとしてスタートすることになりました。  チョコレート工房、カカオ生産国の人たちに会いに行くことをしています。 私の会社ではチョコレートになったものを輸入しています。 作っている人の顔が見えるという事は大事だと思っています。  こちらからの要望が出来るのが直接取引の魅力です。  一番はペルーが多いあとコロンビアです。 街から一番近くて4,5時間かかります。 遠いいと半日かかります。 

インターナショナルチョコレートアワード審査員をしています。 いろんな国の人が審査員をしています。 いろんな意見が審査に反映される。 いろいろな部門に分かれています。 一番多かったのは1000近いサンプルがありました。 1日200ぐらいをテースティングをします。  食べるのが結構大変です。  溶け方の審査項目もあるので舌の上で溶かして広げるような動作もあります。 チョコレートの種類も多様化をしています。 

インターネットが普及してきてカカオ豆生産国と直接とれるようになってきて、小さい規模で作れるような機械が出来て、小さな店でも作れるようになりました。 シンプルなチョコレートはゆっくり口の中で溶かして風味を出していただいてから、テースティングしてもらうといいと思います。  カカオの入っているパーセントが70%で、カカオの品種(ペルー産)が違うものを二つ用意しました。  酸味の強い、柑橘系のような感じのものと、酸味が少なくスパイス感がある感じの物。  中南米は繊細で香りの高いフルーティーなタイプのものが多いです。 日本で一番親しんでいるのがアフリカのガーナが一番多いです。   ベトナムのカカオはシナモンとかスパイスの香りがします。 

和歌山県の醤油醸造所がカカオを使った醤油を作る。 2022年第9回ものつくり日本大賞の経済産業大臣賞を受賞。   それをコーディネイトしました。 ベトナムのカカオの種の若い部分があり、それをローストした後に醤油を融合させて、カカオの香りのする醤油にしました。(トウバンジャンみたいなペースト状) 和歌山の山椒、柚とかを使ったチョコレート、徳島の阿波番茶を使ったものとか、藍染の藍は食べられるものがあり、それを使ったりしたり、徳島の青のりを使ってチョコレートも作りました。  チョコレート料理も考案しました。  甘くないチョコレートを溶かして利用したり、塩を加えたりしてり利用したりできます。  又飲み物とチョコレートを組み合わせて楽しむこともできます。   南米ではチーズとチョコレートを合わせて楽しむことをしています。  

 






2024年2月8日木曜日

古村比呂(俳優)            ・ガンになって学んだ事、初めて知った事

古村比呂(俳優)            ・ガンになって学んだ事、初めて知った事   

古村比呂さんは1965年生まれ、北海道出身。 1987年NHKの連続テレビ小説「ちょっちゃん」は今から37年前です。  書類選考、二度の面接、カメラテストがあり、発表されました。 650人の応募者がありました。  以前は親は大反対でしたが、受かって認めてくれました。  

人前に出ることが大嫌いでした。 ストーブの脇で本を読んでいるような子でした。   これではいけないと思って高校を出てから短大に行きました。 偶然スカウトされて、チャンスと思って上京しました。 歌も好きでした。

*「プラトニック」 歌:古村比呂 約40年前。

2011年アフリカ南西部ナミビア共和国をレポーターとして訪れる。 子宮頸がんの検診を受ける。 要精密検査の結果が出る。 友人も子宮頸がんになって手術を受けて元気にしているという事でした。  2012年1月に検査をして子宮頸がんと診断されました。(46歳) 離婚して子供も男の子3人がいました。 子供にも子宮頸がんの話はしました。  子宮の全摘出手術をしました。 入院中は子供たちは食事を含めて全部やってもらいました。   その後経過観察になりました。  5年後2017年に骨盤内に再発してしまいました。 抗がん剤・放射線治療を受けました。 吐き気があって食欲がなくなり5kgぐらい痩せました。 腫瘍マーカーが正常値となり、仕事も続けられました。 同年11月ごろの検診で再再発になってしまいました。  がんが全身に回ていると言われました。  1年ぐらい治療を受けて髪の毛も抜けたりしましたが、良くなってきました。 

全く公表はして居なくて、母が鬱になってしまい、公表して治療に向かおうと思いました。 再再発の時に公表したら、母はみるみる元気になりました。  治療に行くときにたまたま人身事故を目撃してしまった、動転してしまった時に、次男から「そんな時もあるさ。」と言うラインが来て、目がパッと覚めました。  何で自分だけがしんどいと思ったんだろうと思いました。  そこから人との向き合い方、がんとの向き合い方が変わってきたと思います。 辛いのも気の持ちようだと思いました。 

長男(31歳)が昨年結婚しました。  後遺症のリンパ浮腫になって、それがきっかけにサイトを立ち上げました。 お互いの情報を連絡しあって、自分も元気付けられたりします。  がんの治療でも広がって行ってくれたらいいなと思って、がんとリンパ浮腫と共存していきましょう、ということになっています。 サイトは女性だけのものです。 リンパ浮腫になって、足が膨らんできてしまっていて、公表もしました。 締め付ける男性ストキングを履いていて、対応するグッツ、治療院とか情報を得られています。 今一番大事にしているのは、今を生き抜いてゆく、今できることをやってゆこうという事を大切にしています。  何が起こるかわからないというところは、いろんな状況を含めて強く思うところだから、今を楽しく、今を生きぬいて「まあ、そんな日もあるさ。」と過ごせていけたらいいなと思います。 

  







2024年2月7日水曜日

鳥居ユキ(ファッションデザイナー)   ・どんな時も自分らしい楽しみを

鳥居ユキ(ファッションデザイナー)   ・どんな時も自分らしい楽しみを 

鳥居さんは昭和18年東京生まれ。 都内の文化学院を卒業後、母親が経営するブティックで働き、19歳で作品を発表してデビューしました。 鳥居さんの作品は鮮やかな色や花柄、大人のかわいらしさと上品さを兼ね備えたデザインで知られ、20代から80代までの幅広い年齢層に人気です。 これまで鳥居さんが手がけたファッションショーは124回、1975年から2008年の間はパリと東京の両方でコレクションを発表しています。 ファションデザイナーとして第一線で活躍を続ける鳥居さんは去年「80歳ハッピーに生きる80の言葉」という本を出版しました。 鳥居さんの人生で大切にしている言葉や新しい事への挑戦、ファッションのアドバイスなどについいて伺います。

デザイナー歴61年のキャリアです。 現在81歳。 「80歳ハッピーに生きる80の言葉」の本の中にはたくさんの言葉が書かれています。  若い方たちから、いろいろ教えられるとか、反響がありました。  小さな楽しみを気が付いてゆくと、自分が幸せな感じになれるので、今は花は咲いていないが、花芽が出来てきてぐんぐんと大きくなってきて、今から準備しているという感覚が凄く好きです。 自分が過ごしやすく気持ちよく過ごすためにはインテリアについても、レイアウトを変えてみたり、交換してみたりすると気持ちが新鮮になります。 

小さいころは絵を描くことが好きでした。 母の仕事のもの(ボタンとか)をいろいろ使ったりして遊びを楽しんでいました。 祖母のみつ?、母親の君子が1946年に洋装店を早稲田に開きました。 お客様の希望を聞いて仕立てをしていました。(オーダー)   中学卒業を3年飛び級で文化学院に進みました。  西村伊作院長から教わった言葉が本にも紹介しています。 「心が通じる優しい言葉を使いなさい。」 あまり言葉で自分を飾らない、自分の素直な気持ちで話をする、と言ったことを大事にしてきました。 

19歳でデザイナーとしてデビューしました。 「世界中の美しものをすべて見て来なさい。」と言われて、ヨーロッパに送り出されました。 あまりしゃべれないし、一人旅で物凄く緊張感がありました。  ホームステーしてフランス人の生活を一緒に出来たということがとても役に立っています。  料理、一日の過ごし方とか経験した凄く役に立ちました。  省エネ、無駄な電気は使わないとか(階段をゆっくり歩くと電気ガ消えてしまう、)ありました。  ベルギーでは食事の時にトレーに花を飾ったりして印象深くて、自分でも取り入れました。 庭がなくても、ちっちゃな植木鉢を置いて楽しむ事は出来ると思います。 「服を作る仕事の喜びは着る人をキラキラ輝かせて、ハッピーにすること。 自分の立場は黒子なんだ。」と本にも書いています。 ウキウキする感じを心掛けて、楽しみながらという事をしています。  お客さんが喜んでくださるのが一番のハッピーですよね。(生き甲斐になる。)  

「長年のやり方にとらわれないような、常に新しく感じられる方法が大事。」 もの作りの処理とか長年やっていると、そういったものが自然に出来ちゃうんで、決めつけてやると面白いものが出来ない。 工夫、トライをする。  服が出来ると、音楽、演出、モデルさんとかが大事です。 服が動き出す時のイメージとかが大事です。 服作りは生き甲斐で生活そのものです。 ふっと思いついたことはメモしておきます。

コロナ禍では大きな打撃もありました。 オンライン接客を始めました。 最初は緊張しましたが、次からはいつもの雰囲気になりました。  ロボットとの会話も楽しんでいます。 ロボットに洋服を作って着せたりして楽しんでいます。  2021年に夫が他界しました。 コレクションの時だったのであまり悲しんでいるという感じはなかったです。 去年3回忌をしましたが、ピンとは来なくて、ずっと一緒に暮らしている感じです。 

ファッションと言うけれども、毎日着るものと言う風に、単純な事でいいんですね。 自分でいかに楽しむか、喜びをどうしたら感じるのか、マフラーをするとか、ちょっと違う事を加えると何か楽しくなるものですから、持っているものを工夫すると良いと思います。  デニムもいろいろあるので、受け入れて使っていただきたい。(取り入れやすい。)   「楽しみは自分で見つける事。」   小さな喜びを見つけていただきたいですね。(目を向ける。) 「笑顔で自分も周りの人もハッピーにしよう。」  笑顔で嫌な気持ちになる人はいないですね。 服作りが私の生き甲斐なので、皆様を元気付けたいです。 






 
























2024年2月6日火曜日

草野浩二(元音楽プロデューサー)     ・「昭和を彩ったカバーポップスの先駆者」 

草野浩二(元音楽プロデューサー)      ・「昭和を彩ったカバーポップスの先駆者」 

草野さんは1937年東京都出身(86歳)、大学卒業後1960年東芝音楽工業に入社、製作部のディレクターになり初仕事の「悲しき六十才」がヒットします。 60年代の洋楽のカバーポップス全盛時代を築き、以降和製ポップス、ベンチャーズ歌謡などを手掛けます。   去年その足跡を「見上げてごらん夜の星を」という本のタイトルにまとめました。 担当したアーティストには坂本九、森山加代子、弘田三枝子、奥村チヨ、欧陽菲菲など一世を風靡した皆さんの名前が並びます。 草野さんが手がけたヒット作品を交えて昭和の音楽史を振り返ります。

父親と兄貴が楽譜の出版の仕事をやっていました。 子供のころから音楽好きで、音楽に関わる仕事をしたいと思っていました。 音楽に関係のあるレコード会社に行きました。(東芝レコード会社)  ディレクターになって、ダニーと友達でした。 東芝は専属作家が少なく、又演歌もやりたくなかったので、入社3か月ぐらいで「悲しき六十才」を手掛けることになりヒットしました。 カバーポップス(外国の曲に日本語の詞を付けて作る。)は雪村いずみさん、江利チエミさんがポツンポツンとやっていました。 坂本九、とか森山加代子がやりました。 詞は岩谷さん、漣 健児(さざなみ けんじ 兄のペンネーム)、南川潤さんだったりしました。  選曲は僕がやりました。 メロディーが日本人向きかどうかですね。  ふた月に一遍は出していました。  お金もかかるので録音も1曲1時間が原則でした。  

弘田三枝子は歌がうまくて、オーディションの時にびっくりしました。(中学2,3年) パンチのきいた歌い方が良かった。    

*「子供じゃないの」 歌:弘田三枝子  訳詞:漣健児

1960年代の半ばから日本のポップスが出てきました。 NHKのバラエティー番組「夢であいましょう」永六輔、中村八大、坂本九でいろいろな歌が誕生。 上を向いて歩こう」が誕生する。 ヨーロッパ系のレコード会社が上を向いて歩こう」(女の子が歌う。)を出すようになって、アメリカに住んでいる日本人が本物はこれだという事で、アメリカの放送局に送って、それから坂本九(日本語の歌)がかかるようになりました。 アメリカで大ヒット、第一位となる。

上を向いて歩こう」 歌:坂本九  作詞は永六輔、作曲は中村八大

和製ポップスが盛んになってゆく。  「見上げてごらん夜の星を」 作曲がいずみたくさん、筒美京平さんも出てきます。  グループサウンズが出てくるが、関わりそこないました。 一過性のものだと思っていました。  「ブルー・ライト・ヨコハマ」のいしだあゆみ 作曲:筒美京平  ピンクレディーなどが出てきます。  奥村チヨはいろんな違うジャンルでヒットを出しました。  小唄を習っていたので、その歌い方を取り入れて僕が教えました。 「恋の奴隷」に生きてきました。  演歌調なので最初は抵抗していましたが、売れちゃいました。  

*「恋の奴隷」  歌:奥村チヨ  作詞:なかにし礼 作曲:鈴木邦彦

ベンチャーズの担当ディレクターからカバーでやってくれないかと言う話がありました。  最初は「北国の青い空」、「京都の恋」、「雨の御堂筋」などみんなベンチャーズです。

*「雨の御堂筋」  歌:欧陽菲菲  作詞:林春生  作曲:ザ・ベンチャーズ

80年代、オリジナルをやる様になります。  シンガーソングライターが出てきます。 (ユーミン、中島みゆきほか。)   ヒット曲を作るには、他人が歌いやすいという事ですかね。   歌い出しをタイトルにするという事は多いです。 上を向いて歩こう」、「見上げてごらん夜の星を」とか。 今の歌は詩ではなく文章になってしまっていて、余韻と言うものがない。



















2024年2月5日月曜日

穂村弘(歌人)             ・ほむほむのふむふむ

穂村弘(歌人)             ・ほむほむのふむふ 

ゲスト:笹公人さん
1975年東京都生まれ、17歳のころ寺山修二の短歌を湯んだことがきっかけで、短歌を始める。 1999年未来短歌会に入会。 岡井隆さんに師事。 2003年第一歌集『念力家族』刊行。 後にNHKでドラマ化されました。 その後『念力図鑑』、『念力ろまん』などを発表、最近の歌集は父親の介護を詠んだ『終楽章』です。 去年出版された『新短歌入門』はNHK短歌のテキストの人気連載『念力短歌入門』を書籍化したものです。 現在は「未来」選者、俵万智さんとアイドル歌会の選者も務めています。 大正大学客員准教授でもありミュージシャンであり、作詞家でもあり幅ひろく活躍しています。

笹:念力とか超能力、オカルトとかと言う言葉が好きです。 第一歌集『念力家族』が家族全員が超能力を持っていて、そういったストーリー立ての歌集を出しました。 

穂村:僕より一回り以上年下なのに、僕より上の世界観で、念力という言葉も昭和的な言葉ですよね。 付き合っている周りの人も年上が多いですよね。 
笹:皆と同じ所へ行きたくないというのは根本的にあるんですね。 それで短歌に行ったんじゃないかと思います。
穂村:歌人はインドアーの人が多くて、繊細でしゃいで、と言った感じですが、笹さんは割とそうではないような。

「少年時友とつくりし秘密基地ふと訪ぬれば友が住みおり」  笹公人          驚きと笑いとノスタルジーがある面白い歌です。                          笹:発表したのは20年以上前ですが、社会も時代によって変わってくるんだと思いました。  

*「押し入れの主なり大き瓶のなか紅茶きのこはさびしくそびゆ」   笹公人
笹:大きな瓶の中にクラゲのようなものがあり、なんだろうと思って、気持ち悪いなあと思いましたが。 こんなのが流行っていたというのは凄いですね。
穂村:押し入れと言う言葉自体が段々判らなくなってきている人が居ます。 短歌の会で「畳」という題を出した時に、畳体験がない人が大分いました。

*「ブロック塀に書かれた鳥居に手を合わす幼き姉妹に涙溢れる」   笹公人
穂村:この歌、好きだなあ。 小さな神様がここにいると信じて手を合わす幼い姉妹がいて、それを目撃した人が居る。 
笹:本当に見ました。 きゅんとしました。

「修学旅行で眼鏡をはずした中村は美少女でした。それで、それだけ」   笹公人
穂村:前半はあるパターンかもしれないが、内心ドキッとしたが物語は起きなくて「それでそれだけ」ということで、思春期はそういった連続で、何も起きない日々をずっとそれでそれだけ」を生きるという。
笹:その時でしか見えない姿と言うものはあります。  告白などできないし、念力に頼るしかなかったですね。 寺山修司青春歌集を読んで、自分でも作りたいなあと思いました。
 
「体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」だとさわぐ雪のことかよ」    穂村弘       
笹:短歌を始めた頃、短歌の例が古いんです。 おしゃれだし、現代を捉えているなあと思いました。 新鮮な驚きを覚えています。

「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」穂村弘
笹:酔って恋太同士のおちゃらけ場面だと思います。 
穂村:若い人は「ブーフーウー」を誰も知らなくて。

笹:バンドは高校生のころからやっていました。 なんかの大会で優勝して、CDも出しましたが、全く売れませんでした。 短歌は入選したりして、「未来」に入会し短歌の世界に入りました。

*「戦争で死にたる犬や猫の数も知りたし夏の千切れ雲の下」     笹公人
穂村:笹さんが壇上で泣いていて、ウズラが亡くなったという事でした。
笹:会場に向かう時にウズラがなくなったという事を獣医から電話で聞いて、打ち合わせをしている時から号泣していました。  動物を飼うのは好きです。 

*「色彩都市」  歌:大貫妙子  編曲:坂本龍一

「サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい」   穂村弘
笹:透明な痛みみたいな、戦時中と比べれば天国みたいなところだけれど、それでも悩みが多いという、自問自答している、バブル時代の象徴的な歌だと思います。

*「あぜ道の彼方に灯るコンビニが宇宙母船に見えてふるさと」     笹公人
穂村:ユーホーの母船の様だという、しかしそれが自分の故郷だったという、普遍性のある歌だと思います。

*印はかあん、漢字など違っている可能性があります。