2022年11月7日月曜日

穂村弘(歌人)             ・〔ほむほむのふむふむ〕

 穂村弘(歌人)             ・〔ほむほむのふむふむ〕

「ほむほむと短歌を楽しもう その4」、応募いただいた作品のなかから、今年のほむほむ賞に選ばれたのはみそぴーさんの作品。  テーマ「動物」

「折り紙で動物園を作ってる涼しい午後の保健室にて」 

動物園は命の激しさなどが集まっているが、涼しい午後の保健室って、その逆でとても命が静かな状態にある。  命を持たない紙で動物園を作る、ある欲望というのか、願いというのか、その在り方に魅力を感じます。  

*「猿の目を見るなと町内放送が片目の猿を思い浮かべる」   こうきせい

猿の目を見ると襲ってくるんでしょうかね。  動物園と違って人とのすみわけが出来ていない不穏な感じがします。

*「燕たちお帰りなさいと会える日を願い旅路の無事を祈ります」  坂本文

凄く素直な歌です。  燕たちに心を込めて言っている、そこに胸を打たれました。

*「親子猫十三歳と十二歳時にじゃれ合い我に噛みつく」      浅野久基 

高齢なんだけど「じゃれ合い」「我に噛みつく」というところが面白いですね。

*「コウモリの不意に飛びきて急転回首すくめ行く夕闇の道」    中村優子

コウモリの動きは鳥とは違う。 時間帯の違いもあります。   事実も無数にあり、その中のどこを書くかというのも一つのセンスだと思います。  

*「認知症真夜中吼える愛犬を打ちし悲しみ今も残りぬ」     もくぼう

これは凄く悲しい歌で、犬も高齢化するとそうなるんですかね。   真夜中で吼えて何とかしないといけないと、ついぶってしまった。  誰も悪くないのにそんな悲しいことはない。  後悔している。

*「夏祭り誘う人なくただ歩きただ金魚の泡をみていた」     としちゃん

みんなが楽しそうにしているとよりさみしい。  「金魚の泡をみていた」とクローズアップすることでより虚しさが表現されている。

*「動物と言えば俺も動物だ植物に生まれたが方がよかったなあ」    西山洋一

しみじみした感じが面白いですね。  森では動物とは違った濃密なコミュニケーションがあるような気がします。  

*「子守歌歌えば肩の愛鳥が頬にそうとくちばしで触れる」      まるこん

可愛いですね。  子守歌も鳥が判るんですかね。  優しさが惹かれます。

*「雷を怖がる犬は雷を何と思っているのだろうか」        白井義彦

犬は判らないからもっと怖い。  

「ペッタンペッタン白鳥が来る」という絵本、15年前に動物をテーマにした短歌を集めた絵本があり、それを穂村さんが解説しています。  

*「水を出で大きく黒きみずかきにペッタンペッタン白鳥が来る」    渡辺松雄      

この短歌からタイトルをつけました。

「金色のちひさき鳥のかたちして銀杏ちるなり夕日の岡に」       与謝野晶子

なるほどな、と言う感じです。  凄くゴージャススな風景、与謝野晶子の内面のエネルギーのようなものを感じます。

「寂しさに海を覗けばあはれあはれ章魚(たこ逃げてゆく真昼の光」  北原白秋

一瞬で蛸が搔き消えた感じ。  「寂しさに海を覗けば」というのが面白い、俺の友達は海にしかいないと思って、覗いた章魚(たこさえも逃げてしまった。   

*印の短歌および人名は、漢字、かな等、違っている可能性があります。


2022年11月6日日曜日

坂本千夏(声優)            ・〔時代を創った声〕

 坂本千夏(声優)            ・〔時代を創った声〕

アニメ「フクちゃん」のフクちゃん、「キャツアイ」の三女来生愛、「となりのトトロ」では妹の草壁メイ、「それゆけアンパンマン」のてんどんまんなどで活躍中です。   「それゆけアンパンマン」は35年目を迎えています。  ちびぞうくん、うめぼしばあやなどのキャラクターも演じてきました。  「それゆけアンパンマン」は赤ちゃんなども目に触れる作品なので楽しくて、てんどんまんも人気があるよと言われると嬉しいです。  子供のころ観た子が親になっています。  

小さいころは歌う事、本を読むことが好きでした。  漫画の主題歌の歌も歌える人になれればいいなあと思っていました。   声優になるにはお芝居の勉強をしなくては駄目ですと言われました。  高校時代は横浜の横浜フォーク村のサークルに参加していました。  ヤマハでもレッスンを受けていました。  友人と組んでいたバンドでヤマハポピュラーソングコンテストに出場し、優秀歌唱賞を受賞しました。  高校卒業後は歌って芝居がしたいと役者を目指し養成所に入りました。  2年目に出て、そこから頑張りました。  演技の基礎を学びました。  もがいたりすることは大事だと思いました。  それを解決するのは時間とか、自分で解決するしかないですね。  より声優色の強い東京俳優生活協同組合(俳協)へと移って、1981年にデビュー。  

1982年に「フクちゃん」で主役。(23歳)   横山隆一氏の「フクちゃん」のテレビアニメ版。  原作は1936年に新聞に連載された4コマ漫画。   それまでの4年ぐらいはほとんど仕事が来ませんでした。  その間は友達が出ている作品を観るとか、映画を観るとか、お客さん側にいて、こっち側にいては駄目と思って、駄目なら外国に行こうかなと思っていたところに、「フクちゃん」のオーディションが決まって嬉しかったです。   主題歌も歌わせてもらう事になり夢がかなったと思いました。  周りの人たちも喜んでくれました。   

1983年「キャッツアイ」 1984年「らんぽう」など毎年大きな作品に携わるようになる。  1988年「となりのトトロ」、「それゆけアンパンマン」のてんどんまん。    一気に忙しく成りました。  食事もおにぎりやサンドイッチの時代になってしまって、みるみる元気がなくなり、これでは駄目だと思いました。   工夫しながらやって行きました。  リハーサルなど手の抜き方が判らず、本番の雰囲気でいつもやっていました。   「となりのトトロ」では妹の草壁メイでは元気な雰囲気がやり易かったです。  

子供と関わる仕事をやりたいという事は小さい時からありました。  読み聞かせの活動とか、今も月2回ボランティアでやっています。  これからも続けていきたいと思っています。  絵本を選ぶのも楽しみです。  

声のコンディションつくりには苦労をしてきました。  声が出なくなってしまったり。 コロナ禍になって、収録が止まったり、舞台活動が止まったりして、やっぱり私たちは表現することを止めては生きていけないんだなと言う事を、みんなが気付いたと思います。   工夫をして皆さんにお届けできる方法を捜して続けてきたと思います。   打ち入り、打ち上げが出来ない、若い人達とのコンタクトもできないなど寂しい部分があります。    アイコンタクト、マイクワークなどそれぞれ利点欠点はあります。(利点は自分に集中できる)  

今の若い人は選ばれて、選ばれてきているので上手ですね。   声優を目指している人には約束、時間は守る。   自分が何で止まっちゃているということは、誰かに伝えた方がいいんじゃないかと思います。  ハイハイと前にしゃしゃり出て行かなくてもいいのかなと思います。  スーッと出られるときに出ればいいと思っていて、この人良いなと思ってくれている人が絶対いるからね、とは言いたいです。   声優にとって大事なことは、書かれていることをちゃんと伝えられるという事ですね。  歯は大事で、歯は食いしばれなくなるとパワーがなくなると思います。  身体のメンテナンスは大事です。  私は周りに迷惑を掛けないように、いつも一生懸命やろうと思っています。  取っておかない、次はないかもしれないので、今やる、本気でやる。  

2022年11月5日土曜日

大塚善章(ジャズピアニスト)      ・僕は大阪・天王寺育ちのジャズメン 前編

大塚善章(ジャズピアニスト・関西ジャズ協会会長)      ・僕は大阪・天王寺育ちのジャズメン 前編 

大塚さんは昭和30年代にデビュー、全国的に知られるジャズピアニストとして第一線で活躍してきました。  70歳を過ぎてもヴィブラフォンの鍋島直さん、ベースの宮本直介さんと共にゴールデンシニアトリオを結成し、2015年には平均年齢83歳の世界最高齢バンドとしてギネス世界記録に登録されました。   

*「アウトオブ・ザ・パスト」  

大塚さんは昭和8年生まれの現在88歳、今も大阪を拠点に活躍する現役のジャズピアニストです。  大阪生まれ、大阪育ち、四天王寺のすぐ近く、街なかの歯科医院の末っ子として育った大塚さん、小学校2年生で太平洋戦争に突入します。  小学校5年生の時、クラスメートと奈良県吉野の旅館に集団疎開しました。  1945年3月の大阪大空襲の夜は、その旅館の2階から炎上する大阪の街がはるか遠くに見えたと言います。  

当時家の前にアスファルトが敷いてありました。  市役所の向かいに歯科医院があり、学校、病院などの施設がありました。  兄がローラースケートをその道路でやっていました。 小学校2年の12月8日に戦争がはじまり、学校に行くとみんなが「やったー」と言っていました。  「鬼畜米英」「欲しがりません 勝つまでは」という言葉などが沢山ありました。   疎開する事になり、集団疎開と縁故疎開がありましたが、うちの小学校は吉野に疎開しました。  ほかの学校では鳥取県まで疎開したところがありました。  桜の名所、名所旧跡もありで近くてラッキーでした。  食べ物は甘いものはなくて野イチゴを採ったり、干し芋、干し柿を捕ったりする子もいたりして叱られたりしました。 

大阪をB29が攻撃するときには紀伊水道から吉野山を通って行きました。  9機編隊で小さく飛んでゆくのが見えました。  1945年3月4日の大坂大空襲がありました。 その時には旅館の2階から大阪の燃えている様子が見えました。   視界には縦2cm、10cm幅の炎が見えるんです。  ショックでした。  劣勢となり、本土決戦という事で竹槍で対抗するというようなことを言っていました。  8月15日は、7月末に祖父が亡くなったので戻ってくるように言われて、父親が迎えに来て吉野から大阪に帰っていました。 玉音放送を隣組が全部集まって聞きました。  しかし何を言っているのか判らなかった。 兄貴が「負けた。」と言いました。  親父が泣いていました。   灯火管制がなくなりその夜は窓を開けて家の電気を全部点けました。  家は焼けずに済みました。

7人兄弟で男は4人、女は3人で、私は末っ子でした。  長男はビルマに行って無事帰って来ましたが、次男は引き上げる途中で病死しました。   進駐軍が来て病院と高校を接収して良く見に行きました。  運が良ければチョコレートをもらえました。  祖母がクリスチャンで賛美歌を歌うので父がオルガンを買って、祖母が亡くなりオルガンだけが残りました。   次女が音楽が好きで弾いてみんなで歌った覚えがあります。  次女は大阪のNHKの合唱団に入っていました。  兄も弾くようになり、小学校に上がって音楽の先生が休んだ時に「誰かピアノを弾ける人がいないか」と級長が言うので、手をあげました。「若葉」という曲を両手で弾いたのでびっくりしていました。(両手で弾くのは当たり前ですが)   末っ子だったので家ではなかなかオルガンを弾かせてもらえなかった。   小学校に上がる前は独占できたので一生懸命弾いて、上手くできたら母が褒めてくれて励みになりました。  親父は尺八をやっていて師範代の免許を持っていました。   尺八をやったの失敗したと言っていました。(同時には歌えない。)  

学制改革があり、中学は高校に昇格しました。  大阪府立高津高等学校となりました。  昭和24年高校1年の時に高校野球で大阪大会で優勝して甲子園に行くことになりました。 高校の校歌がなくて、先生に相談したら君たちが作るのが一番いいのではないかと言われて、自分で作曲して、最終3曲に選ばれ、その投票があり僕の曲が1位になりました。   

大阪府立高津高等学校校歌  作曲:大塚善章  校歌は今でも歌い継がれている。




2022年11月4日金曜日

賀来千香子(俳優)           ・いつも等身大の魅力を

 賀来千香子(俳優)           ・いつも等身大の魅力を

女子美術大学短期大学在学中に女性誌のモデルでデビューして、若い女性の憧れの存在として人気になりました。   その後俳優に、1980年代から90年代トレンディードラマに数多く出演しています。  又舞台にも活躍の場を広げています。  現在、Eテレで毎週金曜日午後8時から放送されている「明日も晴れ 人生レシピ」の司会を担当しています。  

高校3年生で女子美術大学短期大学への推薦入学が決まって、アルバイトが解禁になり近所のファーストフードに履歴書を持ってゆくか、スカウトをされていた事務所に行くべきか、親に大反対されながら短大に入ったぐらいに、雑誌のモデルとしてデビューしました。  アルバイト感覚だったので将来どうしようか、父が銀行員だったのでそちらの方か、美術系とか、まだ漠然としていました。  NHKの連続テレビ小説に応募しましたが落ちてしまって 、TBSさんを受けたら受かって、1982年TBSドラマ『白き牡丹に』にて女優デビューしました。   基礎が出来ていなかったので、その後はちょっと仕事がない経験もして、ジョギングなどをしていたら、又仕事を頂きました。  

面白いのと難しいのとあり、今一番本当に大変な仕事だと思っています。  一人の人生、人格を表現することは本当に大変な事だと思っています。   その役の人生から学んだことが多いです。   切れ目なくやってこられて、その方が安心と感じました。  男女7人夏物語』など思い出深い作品です。    「細雪」の舞台を10年近くやってきました。  大舞台劇場でやるのも経験させていただきました。   船場の言葉遣いが難しいんですが、谷崎先生の独特な世界に引き込まれるようで楽しかったです。  

日本の美しさを伝えたいという思いがあり、着物の美しさ、日本の伝統美を感じます。   桜、船場言葉とか品のいい美しさが大事だなあと思って、「細雪」に関してはそのようにさせていただきました。   所作も大事ですね。  幸子役(次女)は私にとって大事になりました。  潤滑油のような役で、家族思いのとても優しい人だなあという風に思います。   今度は夏目漱石の奥様役で、「吾輩は漱石である」 井上ひさしさんがやって39年振りという事です。  漱石が修善寺で吐血するというところから始まります。   稽古が始まって難解なところは有りますが、小気味いいセリフは気持ちいいというか、なんて言ったらいいか・・・、はっきり言ってレベルが高いです。   凝縮されていて気が抜けないです。  井上先生のものはどのセリフも行間も計算されてるというか、凄いですね。  休憩を入れて2時間半ぐらいです。  

漱石が修善寺で吐血して生死をさまよって、30分間の合間に漱石の頭に浮かんだ断片的に浮かんだものが、浮かんでは消え、浮かんでは消え、といったものが芝居になっている。  細かな動きにも漱石の考えが反映されていないといけないというようなところがあります。事前に漱石の本を20冊ぐらい取り寄せて、漱石の漫画も何冊か買って読んだり、検索して調べたりして、漱石の妻の鏡子は悪妻と言われたりしているが漱石を愛していて、流産した後ナーバスになって自殺未遂という様なこともありました。  その時漱石はどこかに行かないように赤い糸を結わいていたとか、いろいろなエピソードがあります。    鏡子が書いた『漱石の思い出』は読まないほうがいいかと思ったが、途中から読んで結果的に読んでよかったと思います。   役づくりのための勉強がとても楽しかったです。  昔読んだ「心」と今読むのとでは全然違います。   年代によって発見があります。 

Eテレの「明日も晴れ 人生レシピ」の司会を担当しています。   とても勉強になり、あきないです。  楽しみながらいろんな役をさせていただきたいです。  

2022年11月3日木曜日

長野安恒(声楽家)           ・日本文化の華・唱歌を伝えたい

長野安恒(声楽家)           ・日本文化の華・唱歌を伝えたい 

長野さんは6年間のオーストリア、ウイーンのオペラ生活から日本に戻り、日本の唱歌の文化的価値の高さに惹きつけられます。  きっかけの一つは旧制高校の寮歌の指導に関わったことです。  寮歌を辿るとそのもとは唱歌にあるのではないかと思ったのです。 

「言葉と表現力を育む会」 私がウイーンから戻って来て驚いたのは,街の若いひとたちの言葉が乱暴で乱暴で心が荒れているんですね。  小学生が老人に当たって「邪魔なんだよ。」と言ったんです。   これは放っておいてはいけないと思いました。   切れる人たちを観ていると言葉を覚えたてで、伝えたいことを大人に伝えられなくて、地団駄踏んでいる子供の様子によく似てたんですね。  言葉の乱れは文化の乱れである、もっと行儀のいい言葉を使わないとまずいのではないかと思いました。  すこしでも日本語の美しさを伝えていきたいと思ってこの活動を始めました。  ウイーンから戻ったのは32年前のことでした。 

唱歌を歌って心身の健康、美しい日本語を身に付ける、礼儀正しさを身に付けるという事で出来たのが明治という事です。   文部省が礼儀正しさ、言葉を身に付けさせるために、また大きな声で歌う事で心身を健康にしようという事で教育のために作ったのが唱歌です。 志田英泉子さんがウイーンにいた頃調べて、(トーマス・アイグナー? 音楽学の博士らと)世界中の教科書のなかで、当時言葉関係の一流の人たちが集まって、子供の為に作った歌集は日本にしかないんです。  そこが唱歌の一番の特徴です。

「言葉と表現力を育む会」のメンバーでもある志田英泉子さんは聖心女子大学卒業。上智大学大学院(西欧中世文化史)、ウィーン国立音楽大学宗教音楽研究およびオペラ研究科他修了した方です。  最初に唱歌を作った時に外国のメロディーを貰ってきて、そこに日本語の歌詞を付けて行ったんです。  元の詩の内容を崩さずに日本語に変えているところが凄いです。  「埴生の宿」「庭の千草」など文化的に良く考えて作られています。   

明治14~17年に出来たのが小学唱歌。  明治43年以降に尋常小学読本唱歌が出来ています。   明治22年ぐらいに中等唱歌が出来「埴生の宿」があります。  明治35年に中学唱歌が出来「荒城の月」があります。  「旅愁」などが出ているのが明治41年中等教育唱歌。  尋常小学読本唱歌になると作詞、作曲が全部日本人なんです。  

小学唱歌には「君が代」も入っていてメロディーは外国のもので、いろんなメロディーの「君が代」があります。  「君が代」を最初に舞台で歌ったのは宝塚ではないかと言われています。(宝塚少女歌劇団)  「我は海の子」は一般公募で生まれた曲です。  7番まであって7番は軍国調になっている。  現在は3番までしかない。          「埴生の宿」はメロディーは外国のものです。    1854年4月4日(安政元年3月7日)ペリー艦隊のサラトガ号艦長アダムズが横浜を出港するときに、ミシシッピーの楽隊が日本初演の演奏したと言われている。  

「荒城の月」は瀧廉太郎の作曲になっているが、西欧、スペインでテンポは速いが同様のメロディーがあると言われる。  採譜だったのかもしれない。  当時ウイーンで新しワルツが発表されると1週間後には日本で演奏されていたと言われる。  日本音楽教育のために当時の政府がヨハンシュトラウスを先生として呼ぼうとしたが出来なくて、代わりにルドルフ・ディットリヒが来て、楽器、作曲など音楽を何でも教えた。  ウイーンに戻って宮廷付き音楽家になって、日本から持ってきたメロディーを楽譜にして出版、巡り巡ってプッチーニのところにいって「蝶々夫人」の中に5曲ぐらい日本のメロディーが入っています。  

最初にこちらから寮歌を習いに行きました。  寮歌を調べてみると、一番最初に寮歌が出来たのは明治34年です。  一校です。  明治35年に「嗚呼玉杯に花うけて」  寮歌に至るにはまず唱歌で音楽を勉強したわけです。   尋常小学読本唱歌を見ると西洋音楽の技法を学んで、日本独自の文化を作りたいという事で、プロの音楽家とプロの国語学者、言語学者で作り上げました。  

子供のころから歌が好きでいつも歌っていました。  母は63歳の時に子宮がんになり入院しました。 何もしてやれなくてギターを抱えて母のところで歌っていました。  隣の部屋からなどからも声が掛かって2時間以上も歌っていました。  歌う事で人が喜んでくれることを知って、高校2年で別の学校に行って音楽を学びました。   ウイーンに行かないかと声を掛けられ行くことになりました。   音楽の世界の楽しさを知って吃驚しました。   当時の子供はそれぞれの国の曲しか知らなかった。  日本の唱歌のレベルの高さを知りました。  

唱歌を歌っていると礼儀正しい日本語が身に付くんです。  ちょっと立ち止まって自分の心を見直す時間が必要だと思います。    一時期唱歌がバッシングに会い、教科書から減らされた時期もありました。 (唱歌がキリスト教Jの伝道の道具という事はない。)  高齢者施設に行って「荒城の月」を歌いました。  寝たきりで「あーあー」と言っているだけの人が一番を歌うと「あーあー」がピタッとやんで、二番を歌うとベッドから起き上がって、三番、四番を一緒に聞いて歌い終わった途端に「私の好きな歌を歌ってくれて、ありがとう。」て言ったんです。  音楽にこんなに力があるのかと医師が吃驚していました。唱歌は日本の宝だと思います。

2022年11月2日水曜日

今陽子(歌手)             ・母の介護と私の大病を乗り越えて!

 今陽子(歌手)             ・母の介護と私の大病を乗り越えて!

71歳、ライブやミュージカルで活躍しています。   1967年15歳で「甘ったれたいの」でデビュー、その翌年ピンキーとキラーズを結成恋の季節」が大ヒットして「ピンキラ」ブームを起こしました。  その後ソロシンガーに転向、結婚、離婚を経て28歳でアメリカ、ニューヨークに留学、歌と踊りなどを勉強して2年後日本に戻りました。   2017年いつも元気で何でもこなす母が90歳の誕生日を迎えた直後、突然認知症の症状が出て何も出来なくなってしまいました。  その母の介護が続き自分の身体にも不調がきて2019年67歳の時狭心症に襲われました。    幸いなことに手術は無事成功、手術から2日後には船の上でのライブも成功させました。  認知症の93歳の母はデーサービスに通い、母がやってくれていた家事は今さんがすベて自分でしていて、食事を作るのが大変な時はデリバリーを頼むなど無理なくをモットーにやっていると言います。  ライブやミュージカルで活躍中の今さんに伺いました。

恋の季節」が大ヒット 大人向けだったんですが、子供から大人まで歌うようになりました。  

恋の季節」  歌:ピンキーとキラーズ

今の方が声がよく出ていますね。  LPのアルバムも出て当時12万枚は大変な数字だと言われました。  シングルも270万枚。    女性1名と男性4名の編成のピンキーとキラーズは当時としては珍しかったです。  NHKの紅白でもどっちにするかで揉めましたが私がリードボーカルという事で赤になりました。  その後ドリカムとか男女混合は赤で歌うようになりました。   1972年にソロに転向(20歳)、22歳で結婚して翌日は23歳でした。  26歳で離婚しました。  いがみ合って別れたわけではなく、仕事と結婚生活は中々むずかしいです。   結婚がすべてだとは思っていなくて、常に素晴らしいパートナーがいてくれました。   

28歳でアメリカ、ニューヨークに留学、人間として中途半端なところがあったので、もう少し大人になりたいという事で、ダンス、歌、英会話等の勉強をしました。  青春をアメリカで取り戻しました。   アメリカに行くと覚悟した時にはプロダクション、レコード会社などすべて関わっているものは契約を全部白紙にしていきました。   そこから人生が大きく変わったので行ってよかったと思います。  

「認知症の母が劇的回復を遂げるまで」という本を出版。   90歳になった時に認知症になりました。   母は私設マネージャーと言った感じで全部やってくれていました。  突然に変わったのでこの5年は大変でした。   椅子に座ってただぼーっとしていて、最初は老人性鬱と診断されました。   オレオレ詐欺にもあって大分お金も取られてしまいました。   知り合いの医師に問い合わせたら軽い認知症かもしれないと言われました。 火は危ないのでオール電化にしなさいとかアドバイスしてもらいました。   色々なところに行ってケアマネージャーさんを見つけるまでが大変でした。   以前、父は透析を受けながら85歳で亡くなりました。   母の世話もしながら、母がやってくれていた自分のことを全部自分でやりながら芸能活動をやっていました。  くたくたになって3年前に狭心症になってしまいました。   

胸が痛くてこのままだと死んでしまうのではないかと思って、自分で救急車を呼んで病院に行ったら、入院で即手術と言われました。   母のことは弟夫婦に任せました。    手術の承諾書などはマネージャーにやってもらいました。   バルーンカテーテル手術で心臓の枝の血管が狭くなっているので処置をして、あくる日には仕事に行きました。    飛鳥という船に乗りこんで、船の上でのライブも成功させました。  今度のミュージカルでも激しいダンスもあります。(4回目の再演)   母も96歳になりますが、本当に丈夫でそのDNAを継いでいるので、多分大丈夫という思いはあります。  55年も一つのことをこれだけ楽しんでやってこれたのは本当にありがたいことです。  

ポップス、ジャズミュジシャンと楽しいライブを定期的にやって行きたいのと、ミュージカルは今後も若い人達ともやらせていただきたいと思っています。


2022年11月1日火曜日

藤原正彦(数学者・エッセイスト)    ・〔わが心の人〕 新田次郎・藤原てい

 藤原正彦(数学者・エッセイスト)    ・〔わが心の人〕  新田次郎藤原てい

新田次郎 さんは「剣岳 点の記」「八甲田山死の彷徨」といった山を舞台にした作品などでお馴染みです。   藤原ていさんは旧満州の引き上げの体験を綴った「流れる星は生きている」で良く知られています。   お二人の次男で数学者の藤原正彦さんはエッセイストとしても活躍していて、最近では「日本人の真価」を出版しました。  

1943年旧満州で生まれ、現在79歳。  1978年若き数学者のアメリカ』出版。 国家の品格』で話題になり、最近では「日本人の真価」を出版しました。   最後の第9章には父、新田次郎 母、藤原ていという章があります。

1980年に父が亡くなりました。  いきなり心筋梗塞で2月15日の朝亡くなりました。(67歳)     気の強い母でしたが、1年以上何もできませんでした。       母は2016年11月98歳で亡くなりました。  父が亡くなったあと、本当に父が亡くなったことを信じなかったですね。 そう思わないと生きていけなかったのかもしれません。   満洲から引き上げる時に、父はシベリアに連れていかれて、それでおしまいだと思ったら、1年後にひょっこり帰ってきたんです。  今回もふいに帰ってくるものと思って、背広などもとってあったし、建て替えの時の柿の木は目印だから絶対切らないように言っていました。  

新田次郎 さんは1912年6月生まれ、生誕110年。  私の腕の中で亡くなったので、なんか出来たんじゃないかという後悔がずーっとありました。  二人とも長野県出身でお見合い結婚でした。  気象庁に勤務する技術者。  藤原ていさんは一目見てなんて清潔で新鮮な人だろうと思って、この人を逃してはならないと決意した。  お見合いの後、手紙を書きますという事でしたが、「今日の天気は・・・・」というようなことしか書いてなかった。  結婚して1943年に旧満州に勤務、兄が3歳で3人で満洲の新京に移り住むことになる。  母は妊娠7,8か月で行きました。  満洲で生まれて、妹も生まれました。   満州は食べ物は腹いっぱい食べれたと言っていました。  1945年8月9日ソ連軍が満洲に侵攻。  不可侵条約を破っていきなり入ってきた。  ソ満国境周辺では虐殺されたりしました。  10日の午前1時半までに新京駅に集合という事で駅まで行きました。  7,8時ごろに列車に乗って帰ろうとするときに、父はこれから気象庁に行くと言いだして、部下を置いていくわけにはいかなという事で帰って行きました。  

妹は1ケ月で私が2歳、兄が5歳の時でした。  父としては私と妹は駄目だろうと思ったらしいです。  母は子供3人を抱えて38度線を越えてなんとか日本にたどり着きました。1946年9月、博多にたどり着き、故郷長野に帰って来ました。  1年ちょっとかかったので3歳になっていました。  たどり着くと母は倒れてしまって寝込んでしまった。   1年2か月の間には周りの人が飢え死、凍死、ペスト赤痢などの病気でどんどん死んでゆくような状況で3人の子供を抱えて帰ってきたので大変だったと思います。  その1、2か月後に父が帰って来ました。  父が帰ってきたことに対して理解していなかったようです。  昭和24年ぐらいまでの4年間は体調がすぐれなかったですね。   遺書のつもりで引き上げの体験を綴った文章がベストセラーになる。  「流れる星は生きている」 映画にもなる。  父は満州では課長でしたが中央気象台では課長補佐で、母の来客者(新聞社の人など)に対してお茶を出したりしていました。  プライドが許さず、自身でも文章を書こうと思った。   

「強力伝」が懸賞小説の一等になる。  その時のペンネームが新田次郎でした。  その賞金で吉祥寺の土地と家を買いました。(150坪 30万円)   気象庁に勤めながら小説を書くようになりました。   母が評価していましたが、厳しかった。  その後小説は編集者が読んで、エッセーは私が読むようになりました。(中学時代)   父からは文章のリズムが大事で良くないと最後まで読まないからとか、そういったことを言ってくれました。 気象庁を辞めることに対して父は5,6年悩んでいました。  母が「子供の3人ぐらい私が何をしたって食べさせてあげる。」と言って、父は叱咤激励されてようやく辞めました。   

ベストセラー作家となりいろいろ話題を集める。  夫婦げんかもするが、最後には母は絶対勝つ文句があるんです。 「それなら誰が子供達3人を満洲から引き上げてきたの。 あなたは見捨てたじゃないか。」そういうと父は2階に逃げてゆきます。  

「我が家の柿の木は特別甘い、夫が貰ったケーキは柿の木の肥料にするんだから。」と言っていました。  50年前に父は編集者と一緒に銀座に行くと5万円使うんです。  母は「貴方は5万円使っていますけど、私は5円安い豆腐を買いに行くのに、1km先まで行っています。」というんです。  文壇バーがあり、銀座のマダムから父の誕生日には必ずそこから大きなデコレーションケーキを送ってくるんです。  母はそれを開いて柿の木の根元に投げつけるんです。  

母はスイスの山が好きだった夫のために、ユングフラウ鉄道のクライネ・シャデック駅から100m登った丘のところに墓碑を建てる。 分骨しようと思ったが、スイスからは断られてしまい万年筆などの遺品を入れました。  母は毎年行っていました。  

毎日新聞に連載していた『孤愁』は明治・大正期に活動した親日家のポルトガル外交官ヴェンセスラウ・デ・モラエスを扱ったものですが、心筋梗塞のため未完に終わってしまい、父の死に対する怒りみたいなものを感じて、編集者の人に「絶対完成させる」と言っちゃいました。 父の生誕100年に間に合うように、資料も読んでポルトガル(3回)、長崎、徳島(10回)などに取材に行き父と同じ体験をして30年ぐらいを掛けて完成しました。  文献を読むだけでも何千ページと読みました。  自分がゼロから書く作品よりも凄く大変でした。

母が80歳のころ、ちょっと認知症が始まったころ、今行かなければ駄目だと思って家族と一緒にかつての満洲新京(長春)に住んでいたところなどに行きました。  動物園が植物園になっていましたが、母が突然動物園には白樺があったと言うんです。  奥の方に白樺がありました。  白樺は長野の諏訪(父の故郷)にはいっぱいあり、母の女学校もずーっと白樺並木なんです。  満洲では郷愁にまみれていたんだなと思いました。   新京の駅にも行って息子たちに自分の原点はここなんだと説明しました。  

今は情報を得る(情報過多になっている)よりも、情報を選択する方が遥かに重要で、良い情報、悪い情報を見分けるのには歴史観、大局観、人間観、情緒観とかで、こういうものを育てるのには子供のころから大人になっても本を読んでいないといけない。  教養、美的感受性、弱い者への涙、こういったものを育てないといけない。  読書文化の復活が必要。  今は本屋は潰れるし、悲惨な状況です。