2021年1月7日木曜日

武田鉄矢(歌手・俳優)         ・終活よりも学びを

 武田鉄矢(歌手・俳優)         ・終活よりも学びを

72歳、60代半ばから合気道を始める。  気力の衰えを感じていました。  長い間言葉の商売をしてきていましたが、哲学の先生であり合気道の達人で、その人の言葉に惹かれていたが、合気道をやらないと判らないと思いました。   先生役を長くやってきて、教える側のことが身についてしまって、もう一度教わる方に回ると、世界が広々と見えて来て、いろんなことを教わろうと思いました。  絵、俳句、又英語で日記を書くとか始めました。

合気道の先生は内田樹(たつる)さんで、学びの本質は知っていることを応用したという事ではなく、まったく知らないんだけれど何故か知ってしまっている、どうしていいのか判らないのにどうかするために身体が動いている、それが学ぶ為の実は目指すところではないですかと言われると、魅了されて、頭の中が走るんです。

内田先生は司馬遼太郎を批判していましたが、坂本龍馬や勝海舟はかっこいいと思うが、彼らに比べて東条英機、板垣征四郎、石原莞爾など昭和維新の軍人たちはかっこ悪いと思うが、知識量を比べてみると、昭和の軍人たちのほうがはるかに優れている、世界の情報を握っていたわけだから。   「両者の違いは学びの姿勢」とおっしゃっています。

「日本人は学びの姿勢にある時、最強である」、この言葉はショックでした。  「教えてやろうとする時、日本人ぐらいずさんな教え方をする国民はいないんじゃないか」そうすると物凄く胸に迫ります。

学ぶ側の人間でありたいという思いが60代から急激にこみ上げてきました。  若い人でも先生と呼ぶとその人の何気ない言葉が自分の中に立ち起こるというか、皆さんに薦めたい。

合気道は言葉使いが変です。 その変さがたまらなく武道なんです。  技の極意の説明が不思議な言葉で説明します。  相手の腕をねじり上げて持ち上げる動きの時に、自分の腕時計を見るように手を挙げてゆくとか、ほかに他の技の説明で、花咲じじいが木の上から桜の花をのぞむように持っていきなさいとか、違う物語の形容を持ってくる、のどかな言葉をあえて使う。  相手が引くのなら相手に引かれてあげなさいよという、反抗しない武道は初めてでした。  相手がプラスならマイナスになってあげなさいよ、という感じです。 頭を下げることを習慣にすると、トラブルは起きませんね、頭を下げることが護身術のうちに入っているんですね。

奥さんから何かいわれたら、直ぐにやり直す、軽快な腰さばきは合気道のたまものだと思います。

「老いと学びの極意 団塊世代の人生ノート」 昨年末出版。

「幸福の黄色いハンカチ」で高倉健さんとご一緒して、監督は山田洋次さんで、下痢で草むらに座るシーンがありますが、現場で一番しごかれたシーンで、自分としては面白くやろうみたいに考えていましたが、下痢をすることは君にとっては悲劇なんだと、悲しさが出ないと駄目なんだといわれました。  ちゃんと心理を作らないといけないといわれました。 しごかれてしょげかえっていると、健さんが肩を叩いてくれて「お前 あの監督さんの評判知らないだろ、 あの人は伸びない奴しごかないらしいよ」と言って励ましてくれて、涙が出ました。  試写会のセレモニーに妻を呼んだが遅くきて、妻を高倉健さんに紹介したら、深々と頭を下げて「今度の撮影では武田君に色々お世話になりました高倉健と言います。  どうもありがとうございました。」と言ってお辞儀されて、妻はいまだに言いますが「人生で一番幸せだった」というんです。

先生役をやるようになりましたが、どこかで「幸福の黄色いハンカチ」でのことの影響がありました。  

教えるためには学ばねばという事があることはありましたね。

細やかなことでも感動して生きていきましょう、あんまり遠くを見ては駄目です。

不幸の時には遠いいところを見ないで、例えば地震で壊れた建物の瓦礫のレンガを、今日このレンガを何個片付けようと細やかな目的が、やがて大きな夢が実現することになると思います。

侍が最も軽蔑したのが驚くことで、驚きすぎると身体が動かなくなってしまう、驚かない静かな心をキープするためには、毎日小さく驚くことと内田さんは言っています。  大変な事態が起こってもさして驚かない習慣がついてくるんです。

母親から言われた言葉で「人間死んでゆくとき、死んでゆくという元気がないと駄目だ」と言われました。  最後人間を支えるのは好奇心ではないかと思います。   生涯「判った」といわない「判らない」と言っているうちが人生いい時ではないかと思います。









2021年1月6日水曜日

小林ひかり(看護学生)         ・"敏感すぎる"私だから、寄り添える

小林ひかり(看護学生)         ・"敏感すぎる"私だから、寄り添える 

ハイリー・センシティブ・パーソン(HSP Highly Sensitive Person)、街中にあふれる明るい光、強い匂い、周りの小さな変化にも過敏に反応してしまうような敏感過ぎる人のことを指します。 1990年代にアメリカの研究者によって提唱されました。  それによりますと15~20%の人がHSPの特徴を持つといいます。  そのHSPの人に寄り添いたいと活動を始めた大学生がいます。  山形県の大学で看護学を学ぶ小林ひかりさん(22歳)です。活動の原点にあるのが、小林さん自身もHSPだという事、周りの光や音の強さに悩まされたり、突然涙が止まらなくなったりと苦労が続いているといいます。  自分も敏感すぎることからこそ、同じ悩みを持つ人々とともに解決策を模索していきたいと、活動を始めた小林さんに伺いました。

HSPは日本語で言うと感覚処理感受性の高い人のことを指します。  一つの性質として定義付けられています。 

私自身は人と会ったり用事がたて続けいあると、休日には家から一歩も出れなくなってしまって、回復ができるような事をして又来週から頑張るようにしています。  1年前にHSPの本を見かけて、自分もこれかもしれないと思って楽になった記憶があります。   自分の一つの要素が見つかったという感じで自分に優しくなりました。   

子供の頃、一人で遊ぶことを好んでいました。  小学校の時にも会話の中で相手の気持ちとかが何となく判ってしまうので、もう少しで怒りそうだとか、泣いてしまいそうだと思うと、自分が気遣って会話をストップしたり、これ以上踏み込んでしまうのはいけないと思い、会話することにもエネルギーを使って、疲れてしまう事がありました。  周囲と違う違和感を感じていました。

発達障害の方もHSPの強い人もいるかと思いますが、子供時代は境目が判らないと思います。  相談はしなかったです。  それは家庭環境が影響していると思います。     親がアルコール依存症だったりうつ病も持っていて、シングルマザーで子供3人で厳しい生活をしていました。  母親には必要以上のことは自分のことを話すのは避けようと思っていました。  家庭は一番自分を隠している場所だったかもしれないです。

人の心に寄り添う事をしていきたいと思って、看護師はその一つの手段だと高校生の時に思って、看護師になる道を選択をしました。   母の担当医が診療内科医で診察の後の母は笑顔で帰ってきていました。   「生まれ変わるのは生きているうちに」という言葉が書かれた短冊を持っていました。  生きているからこそ出来る励まし、寄り添いの意味だと思って、その医療者は稀有な存在だと思いました。  会話、言葉が母にとって一番の治療薬になったと思います。  私もこんな人になりたいと思っていました。

看護学科にいって、初めて病院実習をしたときに、そこで出会った患者さんが私は忘れられない人で、足の手術をしてその後歩けない状態で、寝ていることが多くて私は話を聞くばかりでした。  患者さんが抱えている寂しさとかを変えることが出来ないのかなという事を実習で感じました。  

大学1年の時に、医療職を目指す人たちが学校では学ぶことが出来ないことを学ぶ、イベントとかを開催したりする学生主体の団体を紹介されました。  そこで2年間活動しました。   医療というのはいろんな分野と絡み合いながら、人を支えてゆくことだという事をこの2年で学びました。  休学を1年間しました。  依存症の回復施設と在宅医療のアウトソーシングの会社で仕事をさせていただいて学ぶ事が多かったです。  普通に過ごしていた人が酒を飲んだり、薬に手を出してしまって、依存症になってしまうという事を知って、これは個人の問題ではなくて、社会の問題ではないかと思って、セーフティーネットが救い切れていないのではないかと思いました。  患者さんの吐露した気持ちが、母親に対してもこういった感情を持っているのかとか、患者さんの孤独を抱いているという理解ができて、掛ける言葉も変わってきて、この体験はスパイスになるのではないか、見えない苦しみに寄り添っていきたいと思いました。   周りの方が知るというだけでも、言いにくかった人が助けを求めるかもしれない。    

HSPの人が多くいるという事を知ってびっくりしました。   50人ぐらいの人にヒアリングして、外枠ではしっかりした人のように見えても、内側では抱えている葛藤があるはずなので、そこをサポートできるようなものを作りたいと思っていました。   まずはコミュニティーを作ろうと思って人を集めて運営しました。   色々なことが聞けて、例えば視覚過敏の人が利用できる耳栓を詩作をしています。  デザイン性なども重視しました。

HSPの気質の概念が広がって理解につながって優しい社会になるのではないかと思っています。  自分は看護学生の立場でHSPの論文とかを学ぶことが出来て、冷静な俯瞰的な視点も持てるし、看護学生として学んだ、人の心に寄り添う重要性も知ってるので、生の声を聴き続けることも大事にしていきたいと、この二つの視点を持ちながら付き合っていけるのが私の強みかもしれないと思っています。

HSPじゃない、HSPだというよりも、自分を理解する方法としてHSPのことが広がって行ければと思います。

大学での看護実習と並行して、HSPの人向けの製品開発を行っていて、資金はクラウドファンディングで1/31に開始します。




     









2021年1月5日火曜日

田中優子(法政大学総長)        ・新しい日常に寄せて

 田中優子(法政大学総長)        ・新しい日常に寄せて

江戸学者としても知られています。   鎖国をしていた近世、江戸時代を世界史的な観点から読みとき、グローバリゼーションの荒波のなかで自ら判断し独自の立ち場をとることの意義を説いています。  2020年は新型コロナウイルスの世界的感染拡大で学校、企業をはじめ社会生活のすべての面で、人との近い接触を避けるという新たな行動様式を余儀なくされました。   2021年の幕開けにあたり、新しい1年を私たちはどのような働き方、学び方、そして新しいコミュニケーションの 取り方を 作って行くのでしょうか 。  地球規模で広がる新型コロナウイルスによって、分断されがちな人と人との対面、コミュニケーション、人々の移動、交流によってもたらされる豊かで安定した社会生活を私たちはどう取り戻していけるのでしょうか。  

1月5日は旧暦では11月22日です。  旧暦の元日は2月12日になります。  毎年変わるわけです。  江戸時代の人たちが迎えていた元日は2月初旬から中旬ぐらいまで、春の雪が降ったり、暖かい日が来たりの繰り返しが始まります。  いかにも新春なんです。

俳句の季語は旧暦で出来ていますので、そこのずれが気になることがありますね。 江戸時代はカレンダーは一年に一枚だけです。  週という考え方が無い。  月はあるが、短い月は29日、大の月は30日で31日は存在しません。  大の月と小の月はいつになるかはその年によって違います。   だから一枚で済んでしまう。

江戸時代には信用買い、信用貸しがあり、現金を払わないので、すべてが大みそかに集中するので大変な騒ぎになる。  お金の清算が全部終わってようやく新年になるので、本当にほっとして新しい年がやってくるので、我々よりずっとその気持ちは強いと思います。

新年の休みは三が日です。  二日になると初荷になるので問屋さんが忙しい、出版業は元日からやります。  

祭り日、遊び日があるが、本当の意味での休みは盆と正月しかありません。 休んでいるのと仕事をしているのは、今ほどはっきりはしていない。    仕事で外に出掛けると遊びに行ったりもする。  朝早くから農作業して午前中でおしまいにするとか、夜なべするとか臨機応変ですね。

コロナ禍の先には、今後働き方は変わると思います。   

天然痘、はしかとか平安時代から始まって江戸時代にもあるわけで、急に爆発的に広がるという事はなかった。   病気と共に生きて行く、やむをえないことでそうなっているが、種痘で幕末には無くなってくる。  

外国船が欧米からはいるようになった時に、コレラが入ってきてこれは急激でした。

ペスト、スペイン風邪、今回のコロナというのは人の行動が変わったという事だと思います。   特に都市が、又旅をする人が多くなったり、世界での行き来がはげしくなったという事で、急激なパンデミックになったわけで、江戸時代はこういうことはないわけです。

大航海時代以降は地球全体ではないけれど、ポイント、ポイントではそういうことはありました。

ワクチンができてもまた別の新しいものが生まれる。   食料を求めるため森林開発は止まらない。  動物から影響を受けるようになるので、新しいウイルスが入ってくる。  だからこれが始まりなんだと私は思います。  ウイズ、コロナで生きてゆくしかないんじゃないですかね。

大学での対応は1月の末に留学生を戻すことから始まりました。 危機対策本部を開いて毎週の様にやっています。  卒業式、入学式を中止にして、集まる機会を絶とういうような事をしてきましたが、授業も無理だという決断もしなければならなくなって、授業はインターネットを使うしかない。  大学は人と人とが触れ合う場でもあるわけで、大学は授業をする場所だけではないという事を痛感しました。  課題がありました。  対面授業を開けましたが、7月に又感染拡大がありやめざるを得なかった。

呼びかけるホームページなどを立ち上げたり、オンラインでの双方向授業をやって欲しいと教員側にも呼びかけました。

コミュニケーションを求めているという事は凄く伝わってきました。 対面では何をしていたのか振り返ってみると、表情とかとてもよく見えていました。  言葉では伝わらない、いろんな情報をやり取りをしていたのだという事に気が付きました。

秋に、感染予防を徹底的にして対面の大学祭を4日間やり、6000人ぐらい集まりました。 

文化の在り方も今後これから変わって行くものと思います。  偶然の出会いが文化を作ってゆくという事がよくあったわけです。  インターネットを上手に使いこなさないといけないし、言葉をもっと充実させなければならないだろうと思います。

大教室を1/2~1/3に制限してぎっしり入れることはもうできない。  研究室ゼミはできます。   フィールドワークもやり方によってはできる感触はあります。

感染対策を取りながらの日常というのは、一人一人の日常の行動になる。  それとインターネットをうまく使う。   学生の80%はこれからもオンラインを続けてほしいと答えています。   対面授業、オンライン、オンデマンドとか学生によっては選択できるのが一番いいと言っています。  世界中でも使えるという面もあります。

食料自給率を高めてゆくという事は非常に重要なことで、ほとんど外に頼っていて危険な状況です。   都市と地方の問題も、地域で暮らすこととか、地方の大学の重要性も見直されてくると思います。  都会に出ていけばいいという話にはならないと思います。

貨幣経済中心の価値観の転換を、見直すという事が出てくると思います。

色々なことを併存させてハイブリットな、様々な形の試みをしてゆきますので、大学に期待をしてください。

















 










2021年1月4日月曜日

穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】

 穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】

連載していたものを1月に本を出版することにしています。  NHK短歌で連載している「穂村弘 対して談じる」をまとめた「あの人と短歌」が出版されました。   好評で出してすぐ重版になりました。   

今日は「あの人と短歌」から紹介します。  

酒井順子(エッセイスト)さんがこんな短歌が好きと言っていたもの2句。

*「百万ドルの夜景というが米ドルか香港ドルかいるのレートか」   松木秀さん

短歌らしくない、松木さんは」ぶっちゃけてきます。  そこが酒井さんの琴線に触れたものかもしれません。

「自爆テロの 死者を数える 自爆せし当人は含まれるや否や」    松木秀さん

普通はこんなふうには思わないが。

三浦しをん(作家)さんが選んだもの2句。 

「わが残生 それはさておきスーパーに賞味期限をたしかめおりぬ」   潮田清

90代の方で自分はいつまで生きるかはわからない、そこは棚に置いて我々はちょっとでも賞味期限の長いものを買ったりしている。  人間の心理はこんなものだといった感じ。  短歌は「で」とか「が」とか濁音を嫌う。  「スーパーに」となっているがこれは「スーパーで」という事だと思いますが、思いがけない読みが普段短歌を詠まない人の素直な目で読むと発生する。  スーパーに電話して聞くという風に。

*「ラー油が無い餃子を醤油だけで食うオリンピックなんぞしったこっちゃない」    森本たいら

俺は世間のルールなんて知らない、餃子は醤油だけで食うし、周りはオリンピックに盛り上がっているかもしれないが、俺は関係ないTVドラマなどみるか、みたいな歌だと私たちは思い込んで読んでいたが、三浦さんは「餃子を醤油だけで食うオリンピック」なんざ知ったこっちゃないという風に思いこんだ。 

知花くらら(モデル・女優)さんの短歌。

知花くららさんは海外でボランティア的な国連の仕事をされていますが、アフリカに視察に行ったときの体験を短歌にされているが。 

「「たからもの見せてあげるね」と小さき手にのせた楊枝のやうな鉛筆」   知花くらら

アフリカに視察に行った貧しい村に行ったときに、子供たちと触れ合って、おねちゃん特別に宝物を見せてが得ると言って、ボロボロになった鉛筆だった。  かつては日本でもそうだった。

*「三菱の鉛筆一ダース後ろ手に渡せずにいるバオバブの木の下」 知花くらら

先に小さな鉛筆を見せられたら、普通に考えたら喜ばれるはずだが、ためらってしまった。上から下へ渡すような感じを、そんな感じはないんだけれど、感じてしまう感受性を持っていたのでためらっているという歌です。

ザンビアに行ったときのエッセー、おばあさんと現地で仲良くなって別れ際、別れがたく「又ね」と知花くららさんは言ったが、おばあさんは「あなたはこんな小さな村には二度と戻ってこないわ」といって、彼女はショックを受けてしまった。 別れがたいので「又ね」とつい言ってしまいます。 それを短歌やエッセーに書いているので大事かなあと思います。 写真などではの残せない、自分の内面は言葉で残すことが出来るわけだから残している、というのが印象的でした。

吉澤嘉代子(シンガーソングライター)さんの作品

*「銀皿にあんたおまえで添い遂げる純情天下甘エビ夫婦」    吉澤嘉代子

リズムがいいです。  回転すしの銀皿に甘エビが並んでいて夫婦に見立てている。

鳥居(歌人)さん

小学校に通えなくて拾った新聞で字を覚えたという苛酷な人生を歩まれた方。

「大根は切断されて売られており上78円した68円」   鳥居

八百屋さんで圧バイトをしたときに作った作品。 資本主義の厳密さ、苛酷さ、非情さを感じる。

保坂正康(ノンフィクション作家)さん  斎藤ふみの歌人のある歌について話になりました。

「暴力のかく美しき世に住みてひねもす歌うわが子守唄」」     斎藤史

2・26事件に巻き込まれる。 幼馴染の男の子がそれに連座して心に傷を負う。

女性としての誇り、矜持を歌った歌だと思っていたが、しっくりこないという事を保坂さんに言いました。   斎藤史の幼馴染の栗原安秀中尉もいた。 彼女は彼らの行動に中にある種の文学的な美を見たのかもしれないと保坂さんは言いました。   

読みに正解はないが、時代によってこうじゃないかという見方があって、戦前と戦後でも違うし、昭和と平成、令和でも違うだろうなという事は痛感しました。

俵万智(歌人)さん 

「まっさきに 気がついている 君からの 手紙 いちばん最後にあける」      俵万智

大事に自分の部屋に行ったりして最後に大事に開ける、この時間の逆転が凄く、われわれの心理だと思います。

「「勝ち負けの問題じゃない」と諭されぬ問題じゃない なら勝たせてほしい」  俵万智

面白さがあって、とてもリアルですね。

「ただ君の部屋に音をたてたくてダイヤル回す木曜の午後」      俵万智

君はもう部屋にいないだろうと知りながらかけると言うことがせつないわけです。  昭和の記念品というような、そんな世界です。  エキゾティックな情感が発生します。

リスナーの作品

*「こんなんじゃ駄目なんだってわかってる炬燵の中はなんだか泣ける」  西島まどみ

*「見し夢は覚めて消えしと謡いつつ余生を生きる一人で生きる」    銀杏の木

注:*印の短歌は漢字、文字が正しくないかもしれません。


2021年1月3日日曜日

堀内賢雄(声優)            ・【時代を創った声】

堀内賢雄(声優)            ・【時代を創った声】 

63歳、アニメやゲームの出演はもちろん、主にブラッド・ピットチャーリー・シーンなどといった俳優たちの吹き替えで知られています。  声優人生はDJからスタートしたという堀内さんに伺いました。

印象に残っている俳優としては、コリン・ファースの「英国王のスピーチ」という映画でアカデミー主演男優賞を受賞していますが、吃音であがり症でスピーチが苦手な人が国王になって、演説をうまくするため日々努力するが物凄く苦労するわけです。  これは僕にとっては相当練習して、これが分岐点になった作品です。

ブラッド・ピットは「マリアンヌ」という作品でモロッコを舞台にした映画です。 もしかして敵国のスパイと結婚してしまったのではないかという、常にそれを持ちながら衝撃のラストに行きますが、寡黙で渋みもあってとってもいい演技をしていて、それが僕にとっても印象的でした。

吹き替えって、家でTVを見ないでいて、吹き替え映画をやっていると思われたら駄目で、もっとリアルにやれと言われました。  なりきるんだといわれました。

人間としてもいろんなことを磨いてゆくものなのかなと思います。 それと作品に愛情持つことなのかもしれません。  

どうやったら自分の台詞にできるのということは、40年やっていると意外にできてきますが、はじめのうちは飲み込まれてしまいます。

中学は野球をやっていて、ピッチャー、4番、キャプテンで、野球推薦で日本大学三島高等学校に入学して、高校2年で身体を壊して、逗子開成高等学校に転校しました。

小学生時代に朗読を褒められたことから高校卒業後にはDJになることを目指しました。 DJやったり司会をしてたりしていました。  

或るプロデューサーから芝居をやってみるのはどうかと言われて、運命の人のたてかべ和也さんに出会うことになります。   オーディションをやらしていただいて、劇団に入れていただいて芝居の勉強をしました。   デビュー作が1983年の特撮番組『アンドロメロス』のアンドロウルフ役でした。  何をしゃべってもうまくいかず毎回居残り練習の連続でした。  何作も居残りをして、委縮してしまいましたが、とにかく役者さんたちの仲間に入りたいという思いはありました。  

洋画で主役に抜擢されるようになって、当時吹き替えは大変なブームになりました。   新劇の人たちと飲む機会があり、励ましてもらいました。  たてかべさんに認められたのはうれしかったです。

3作目に悪役を担当しましたが、笑う場面でなかなか出来ませんでした。  笑いの特訓をしました。  次の本番の時には出来まして、周りから拍手が起きましたが、ある役者さんから「金貰っていて拍手を受けるなんて恥ずかしいと思え」と言われて、まったくその通りだと思いました。 悔しかったです。    本当に自分の中から笑いがこみあげてこないと駄目と言う事です。

アニメの場合は過剰に表現していかなくては行けなくて、こんなにやっちゃっていいのかなと思う時があります。   ゲームは洋画に近いような気もします。

最近の若い人は骨太の声の人が凄く少なくてみんな柔らかいですね。  「七人の侍」とか昔の人はみんな骨太です。

2002年に養成所を立ち上げる。  たてかべさんから「恩の順送り」という事は言われていて、ワークショップを作って、若い人達を見て養成所を立ち上げようと思いました。 20年目になります。

若い人たちへのアドバイスとしては、タレント性が重要とされてきているが、芝居好きで声優を目指してくださいと言いたいです。 運はなかなか来ないのでいろんなものを磨いて欲しいです。







 

2021年1月2日土曜日

延原武春(日本テレマン協会音楽監督)  ・【特集 バロック音楽でおめでとう】

延原武春(日本テレマン協会音楽監督)    ・【特集 バロック音楽でおめでとう】 

*ヴィヴァルディ作曲 ヴァイオリン協奏曲集「四季」より第一番ホ短調「春」から一楽章

第1楽章 アレグロ
春がやってきた、小鳥は喜び囀りながら祝っている。小川のせせらぎ、風が優しく撫でる。春を告げる雷が轟音を立て黒い雲が空を覆う、そして嵐は去り小鳥は素晴らしい声で歌う。鳥の声をソロヴァイオリンが高らかにそして華やかにうたいあげる。

ヴィヴァルディが小さい詩を見つけて、その詩が春夏秋冬を描いた詩で、それに基づいて作られました。

バイオリニスト 浅井咲乃さんにもお越しいただいています。

鳥の鳴いているところがあり、ヴァイオリンならではの高音を入れて小鳥っぽくしています。3羽の小鳥が出てきます。 鳥が春を楽しんでいるようにしています。  春以外でも夏、秋、冬 その時代の景色が見えてきます。

*バッハ作曲 ブランデンブルグ協奏曲から3番ト短調 第3楽章

大阪の中之島中央公会堂が我々の本拠地になっています。  重要文化財となっていて、そこで演奏できるわけです。   大正7年に完成したレンガ作りの洋館で歌舞伎座を設計した岡田信一郎の設計案を、東京駅を設計した辰野金吾らが設計したもの。

浅井:天井が高いとすごく響きがよくて、演奏者だけで演奏していると響きすぎますが、お客様が入ると凄くよくなります。  フロアーが演奏者と同じ目線になっています。

*「愛の挨拶」  エルガー作曲  エルガーが婚約をしたときに婚約者に送った曲  

浅井:愛の喜びがあふれているような曲なのでうっとりしながら聞いてもらえたらと思って弾いています。

延原:食事をしながら聞いていただくという企画もしました。 楽しく明るくが我々の思いです。

*テレマンの「食卓の音楽」から テレマン作曲 第2集 管弦楽組曲ニ長調 第一曲




2021年1月1日金曜日

河崎啓一                ・90歳 愛する妻への"感謝離"

河崎啓一                ・90歳 愛する妻への"感謝離" 

一昨年の5月朝日新聞のエッセー投稿欄に乗った卒寿を目の前にした男性の文章が大きな反響を呼びました。  タイトルは感謝して話すという意味の「感謝離ずっと夫婦」、投稿者は元銀行員の川崎啓一さんです。   川崎さんは62年連れ添った最愛の奥さんをなくされ、悲しみの淵の中で遺品整理も手につかなたっか辛さを、感謝して手離す、「感謝離」、又天国で一緒に新しいものを買いに行く新陳代謝と考える、「代謝離」という発想の転換で乗り切った体験を文章にされました。  文章が掲載されると全国の高齢者をはじめ若者たちからも共感するはがきが寄せられました。  いつかは来る大切な人との別れをどう受け止め、愛する人との別れを乗り越えどう遺品を整理して前に進むのか、「感謝離」、「代謝離」の言葉の生みの親、現在91歳の河崎さんに伺いました。

「感謝離 ずっと夫婦」の文章  

「3月に妻が亡くなった。  連れ添って62年、かけがえのないパートナーであった。   共に暮らした老人ホームの衣服の整理を始めた。 辛いなあ。  断捨離という言葉があるが、・・・何のかんのと言ってもそうは捨てられないからだろう。   寂しさを吹っ切らねばなるまい。    妻の肌を守り身を飾った衣装たちにありがとうと一つひとつ頭を下げながら袋にうつしていった。  感謝離という表現が頭をよぎった。 ・・・このパジャマなんか衿が擦り切れてるじゃないか、捨てるのは切ないが私が天獄に行ったら私が一緒に新しいものを買いに行こう、新陳代謝だ、これは代謝離だ。   気持ちが晴れた。 ・・・二人の間には終止符は存在しない。  これからもずーっと夫婦だ。  いずれ会える日が来る。  会えば出掛けようショッピングに。」

吃驚しました、多くの方から励ましが来ました。

銀行の同じ職場の久留米支店で妻とは知り合いました。  よく笑う人で明るくて、周りが穏やかになる人でした。  3年半後に本郷支店に行ったら急にその人が頭に浮かんで消えないんです。  いきなりプロポーズの手紙を書き結婚できました。  結婚して惚れ直しました。   或る時ピアノが欲しいといわれ、月賦でしたが購入して、狭い社宅に入れました。   そういったことなどで愛情が深まったと思います。  一男一女をもうけました。  仕事が毎日終電車というような時もありましたが、妻がお父さんは仕事が大変だから、ありがとうと言って私を立ててくれました。

突然転勤がよくありましたが、よくこなしてくれていました。  急に車が欲しいといわれ、一戸建てを購入するにしても遠いいだろうし、送迎するのは私だからと言われ、中古を月賦で購入しました。  靴下も感謝して捨てていました。  55歳で定年を迎えました。   退職金で何が欲しいか聞いてみたら、グランドピアノと言われ、楽しく弾いてる姿を見たら買ってやってよかったとつくづく思いました。

母が97歳でなくなりましたが看取ってくれました。  妻は海が好きで、70歳過ぎに湘南の海の近くにマンションを買い、二人に戻りました。

妻の様子がおかしく直ぐ病院に行ったら脳梗塞でした。  一命はとりとめましたが、右半身にマヒが残りリハビリすることになりました。  運転、ピアノを弾くという事は出来なくなってしまいました。  段々妻の精神状態がよくなくなって、自宅でリハビリをするようにしましたが、うまくいかなくて二人で入れる老人ホームを探して、入居しました。

マンションに戻ることが妻の願いでしたので、マンションは手放さずにいました。    車、グランドピアノは処分せざるを得ませんでした。   

知らない間に両足を骨折していて、手術をしましたが、骨が弱くてベッドから動かせなくなりました。  長期療養型の病院に移り食べられず点滴だけとなりました。   別れ際にいつも握手するが、その日は手を出さずにいて、帰りましたが、その日が最後でした。

妻は88歳でした。  葬儀などやる気がしませんでしたが、家族みんなで送りました。 いないと判ってっていても病院の周りをうろついたこともあります。  老人ホームを終の棲家にする決心をしました。

決心して衣類などを捨てることにしましたが、これは断捨離ではなくて、感謝離なんだなあと気持ちが湧いてきました。  よく着ていたものはなかなか捨てられず、衿の傷んでいるパジャマが出てきて、天国に行って会ったときに新しいものを買えばいいんだと思って、これは新陳代謝なんだと、代謝離だという言葉が湧いてきて手が動くようになりました。  古い写真は心の中にあるので全部捨てました。  

エッセー教室に通っていて、書いてみたらと周りに言われて、自分の気持ちも救われるようになり書き上げ投稿したら新聞に掲載されました。  大きな反響がありました。

出版社の方が見えて、それが単行本になり、全国の書店に並び、映画の話も飛び込んで来ました。   昨年秋に全国で封切されました。 「感謝離 ずーっと一緒」

100歳までをターゲットにして10年で1000人友達を作ろうと思いました。  3日に約一人という計算になりますが、一日が充実して楽しいです。  1000人帳を作っています。  私の人生で最大にラッキーだったのは妻に会えたことだと思います。