2020年12月18日金曜日

深作健太(映画監督・演出家)      ・父と息子のバトル・ロワイアル

深作健太(映画監督・演出家)      ・父と息子のバトル・ロワイアル 

1972年東京生まれ、父の映画監督深作欣二の影響で、学生時代から映画や舞台ににめり込みフリーの助監督を経て2000年に父が監督を務めた「バトル・ロワイヤル」の脚本プロデュースを担当、その後「バトル・ロワイアル2」の制作中に父が亡くなり、後を引く注いで映画を完成させました。   最近はオペラや演劇の演出に活躍の場を広げ、この秋にはヴェートーベンの唯一のオペラ「フィデリオ」の演出を手掛けて話題になりました。   どんな時代でも常に平和や自由に対するメッセージを伝えるのが父から託されたことという深作さんに伺います。

一人っ子です。  父が43歳の時に生まれたので随分可愛がられました。  怒られたことなく育ちました。   東京の大泉と、京都の撮影所があって、1972年の「仁義なき戦い」、僕が生まれた年からずーっと京都の撮影所にいたので、東京の家にはほとんどいませんでした。   

撮影現場に行くと元気な父親がいました。 周りから父は監督と呼ばれていて、父は監督という人なんだと思いました。  あまりに楽しく働いていたので、5歳の時には映画監督になりたいと思って、おやじの背中を追いかけることになりました。  可能な限り撮影現場に呼んで遊ばせながら学ばせてくれました。

父親からは難しい理論などは学んではいませんでしたが、いろいろ聞いているうちに映画とは何かを学んで行けたと思います。

撮影は夜から明け方までやったりしていて、その後酒を飲んで、一休みしてまた始めるとかやっていまして、俳優の菅原文太さん、松方弘樹さん、渡瀬恒彦さんなども目の下にクマを作って、そのクマがやくざを演じるにはちょうどいいんですね。

この人達にも遊んでもらいながら、映画作りとはなにか、俳優の芝居とは何か、などを学ばせていただきました。   健太という名前は高倉健さんが名付けてくれたようです。(高倉健の「健」と菅原文太さんの「太」と言われていますが。)

母は中原早苗です、母親は最後まで映画の世界、監督になるのは辞めなさいと、監督になっても言っていました。

成城学園は個性を尊重するところで、映像の授業では8mmフィルムを回して体験ができました。   本格的に撮り始めたのは中学3年生の頃からです。  いい友達に恵まれて学校を飛び出して映画を撮るというような事をやって楽しかったです。   

自由とは何だろうと、学校からもおやじの背中からも絶えず考えさせられてきました。  おやじは不器用で家庭というものを大切にはできなかったし、僕がおかしくなるかというとそんなことはありませんでした。  

世の中のシステムがなんかおかしいなと思って、嫌になってぐれそうになった時に、父親の「仁義なき戦い」の映画を見たんですが、やくざ社会を描いているとはいえ、親分たちが社会の強いシステム側の人間たちが、弱者チンピラたちを切り捨てて行く話で、どこか今の資本主義を選択した日本のシステムには相通じることがあると思ってみて、おやじは僕たち側の人間だと思いました。  自由とは何か、平和とは何かを訴えかけるという根本は、1945年の敗戦まで父はバリバリの軍国少年として育ったのではないかと思います。  大人たちのいう事が急に民主主義のために生きろと、いうことで、どう生きていいのかわからない。

外国映画を観て、すべて嘘ではないかと、自分の価値観だけを大切に生きなさい、という思いの元に映画製作して、おやじの映画は全部それがにじみ出ているんですね。  60本ある映画がほとんど若者の側に立って描かれている。

最後の映画「バトル・ロワイヤル」は中学3年生が殺しあう映画ですが、かつて国が俺たちを戦争に仕向けようとしたんだと、戦争とはそういうものなんだと、42人の死んでゆく姿にかつての自分たちを重ねて、戦争とはよろしくない、しかし暴力は絶対否定できなくて、ある日普通の人間が平気で人を殺さなくてはいけない、殺せるようになってしまう世の中が危険であって、それを訴えるために、おやじにはやくざ映画、「バトル・ロワイヤル」があって、20代になってからようやく意味合いが判るんです。

映画に行くことは決めてはいたが、アルバイトを6年ぐらい清掃業をやり、その後子供番組の現場に飛び込みました。  父親から助監督の話があり一緒に仕事をすることになりました。   

本屋から買ってきた本の最初の「バトル・ロワイヤル」の作品の帯が「中学生42人皆殺し」という帯で父親が面白がって、自分が中学3年生だった時に1945年の8月の敗戦だったという記憶がよみがえってきたわけです。  SF小説だったが父が大東亜戦争を重ね合わせたんですね。

ビートタケシさんが先生役で出ることになり、資金集めも楽になり作っていきました。

酒鬼薔薇事件』とかがあり、世相が最近の子供がおかしいといわれていた90年代でした。

父は一緒に理解しようと思ってくれる。

父が長年がんを患っていてもうあと数年の命ということが判って、「バトル・ロワイヤル2」を作ろうとします。  かつて生き残った少年がテロリストと呼ばれて、世界中の大人から攻撃される話なんだと後組だけ決まっていた時に父が亡くなってしまいました。  後を僕が監督になるという事でそれがデビュー作になったわけです。  大好きだった父の深作欣二、深作健太と並記してデビューさせていただき幸せでした。  父と一緒に作ったような感覚がありました。

おやじにもらった一本の刃のような感じがして、心の刃は大切にして、物つくりを続けてゆくというのを30歳の「バトル・ロワイヤル2」のデビュー作の時に思ってしまいました。

小劇場にも行っていましたが、いつか演劇を演出したいと思っていました。  演劇でも38歳ぐらいの時に演出家としての夢を果たすことができました。  オペラ、ワーグナーに出会ってびっくりしました。  オペラもいつかやりたいと思っていて、2015年にデビューさせていただきました。 

オペラ「フィデリオ」 ヴェートーベンが唯一一本だけ書いたオペラで、フランス革命の影響を凄く受けていた作品です。  バスティーユ牢獄襲撃事件 というフランス革命のきっかけとなった、民衆が政治犯を救い出した。   物語のほうも裏側にあるのは古い体制を打破していこうという革命の精神で、今だったらどう表現するのか、1980年代後半、ベルリンの壁の崩壊、ぺレストロイカで冷戦が終わって世界が自由になるのではないかという夢を見れた時代でした。  ヴェートーベンの描きたかった人類愛をもう一度コロナ禍の日本に呼び起こすことが出来ないかと、使命感に燃えて作りまた。

若い方にこそ見てもらいたい、若い人を応援していきたいと思っています。















2020年12月17日木曜日

宇田川清江(元「ラジオ深夜便」アンカー)・「ラジオ深夜便」放送開始30周年 第一回

 宇田川清江(元「ラジオ深夜便」アンカー)・「ラジオ深夜便」放送開始30周年アンカートークショー 第一回

最初「特集 ラジオ深夜便」としてスタートしました。   民放さんは早くから深夜放送をしていたので、民放とは反対のことをしましょうと言うことになりました。   担当者、アナウンサーがゆっくり話すことでした。   音楽は全曲流す。  情報は素早く流す   この3つでした。

当時ニュースは女性は読めませんでしたが、深夜便では読むことが、OKとなりました。  しかし、途中からアナウンサーが来て隣のニューススタジオから読むようになってしまいました。

平成2年にスタートとなっていますが、「ラジオいきいきラリー」というお試し期間がありました。   それが平成元年11月 「ラジオいきいきラリー」という名前で1週間始まりました。  担当ディレクターも決まっていませんでした。   平成2年4月28日に開始して、私は5月4日に担当しました。  午前0時から始まっていました。   

お便り、音楽のリクエストはしないことでした。   最初の挨拶と最後の挨拶に対しては同じような事、他の人がする挨拶とは違う挨拶をしようと思って、本当に考えました。    新宿の空に満月が輝いていたので、地上の動と、空の静、これを話そうと思って、「新宿の空のど真ん中に・・・」と放送したら、「ど真ん中とは何だ・・・どという言葉はいい言葉ではない・・・」とおしかりの手紙がきました。   広辞苑を調べたら接頭語として使わる、例えばと書いて、ど真ん中と書いてありました。 翌週そのことを言いました。  そのあとに又「あんな言い訳をするんだったら、まず謝りなさい。」という手紙が来ました。   ほかに四角い封筒が来て「視聴者との言葉のやり取りが非常に面白かった。  自分はNHKの川柳の審査をしていて、優秀賞になったのが「一級の孤独 五万のど真ん中」だったので、あなたは気にすることはない、というお便りでした。 名前を見たら坂本朝一(ともかず) と書いてあり、NHKの会長でした、びっくりしました。

ラジオ深夜便を始める前に、ブラジル、ペルー、アルゼンチンなど向けに国際放送「お便りありがとう」を30年近く担当していました。   よくあなたの声は母の声のような気がするとお便りをいただきました。  来てくださいという事で自費で行くことになりました。 当時50代でしたが、会場にたくさん集まった人の中から80代の方が立ち上がって一言「おかあさん」とおっしゃいました。  本当にうれしかったです。  深夜便の時にも同様なことを言われました。  

穏やかに過ごしたいという思いがあり「今日一日どうぞ穏やかな日でありますように」という言葉を私のきめ文句にして、さようならではなく「ご機嫌よろしゅう」という言葉を申し上げました。

冬至と立冬を間違えたことがありました。  直ぐ謝りました。 そうしたら新聞の投書欄に謝り方がよかったと投書がありました。

お便りが自然に届くようになり、お便りも発表するようになりました。  どうしても忘れられないお便りがあります。  

私はがんを患っている。  昼間はお客さんが見えたり、いろんな音があるから痛みは忘れているけれども夜は痛みが大変つらい。 ラジオ深夜便を聴いているとその痛みをちょっとの間でも忘れることが出来る、というお便りでした。  その方は勤労動員で横浜の田奈の森というところで手榴弾を兵隊さんと共に作っていたそうです。  自分は戦争の被害者だと思っていたが、ある日洗礼を受けて、教会で説教を聞いていたら、「自分は被害者だと思ってても、もしかすると加害者であるという事もありうる」という事を聞いて、自分が作った手榴弾で亡くなったかもしれない、という事でその人は一冊の本にしました。  「田奈の森」という本で私に送ってくださって、番組に出ていただくことになりました。  募金もして田奈の森に「平和を祈る」と書かれた石碑を建てました。   昭和36年日本に返還されて上皇のご成婚のお祝いに昭和40年に「こどもの国」としてオープンしました。

平成4年4月から11時10分からの放送になりました。  夜間中学の卒業作文集「夜光虫」を送っていただきて紹介しました。  運転手さんからお便りをいただき「あれは危険です。 私は涙があふれて車を停めて放送を聴きました。」という内容でした。  それを次に紹介しましたら、新聞に載って、運転手が感動したと紹介しているが、あれは自画自賛である、というお便りがありました。   それ以来どんなに良かったとか、褒めてくださったお便りをいただいても放送しないことに決めました。

淡谷のり子さんの「別れのブルース」を放送しましたら、或る方からお便りをいただきました。  戦争中恋人ができて戦地の赴くときに「待っていてほしい」と言って、淡谷のり子さんの「別れのブルース」のレコードを私にくれて戦地に向かいました。  「待っていてほしい、というので私は今でも待っています。」と言うお便りでした。  吃驚しました。

手紙の紹介があります。  「・・・私は淡谷のり子さんの歌が大好き、なかでも「別れのブルース」は一生涯忘れようとしても忘れられることが出来ない思い出深い今日なんです。・・・今は79歳です。  ・・・海軍の軍人さんと知り合いました。 私が20歳、彼が22歳でした。  ・・・戦地に向かう時にもらったのが、一枚のレコード「別れのブルース」でした。  きっと待っていてくれという優しい言葉を胸に抱いてずーっと待っています。  いまだに待ってます」というお便りでした。

他の方から「もしかしたら、それは私の従兄弟かもしれない」というお便りをいただきました。  是非お会いしたいという事で、それぞれの住所を連絡したら、ずーっと彼女を待っている方は存命でした。  実は彼も独身で、すでに亡くなっていました。

夜中に聞いていたから、胸に秘めていた初恋の思い出をふっと私に漏らしてしまったのかなと思いました。  夜中の放送は胸に沁み込むことがあるのかなあと思いました。

ラジオ深夜便はほとんどアドリブで、ご自由にどうぞという事でした。   列島今日の動きだけは原稿がありました。   「列島」のアクセントが違うという匿名のお便りがありました。 私が間違っていました。

私と皆さんとは同じ時間帯を共有していて、それが連帯感です。  ラジオの力は大きいなあと思います。








 


2020年12月16日水曜日

金 哲彦(プロランニングコーチ)    ・【スポーツ明日への伝言】いまこそ、走る意味を知ろう 

 金 哲彦(プロランニングコーチ)    ・【スポーツ明日への伝言】いまこそ、走る意味を知ろう 

日本には週に一回以上のペースでジョギングやランニングをする人が500万人以上いるといわれますが、コロナウイルスによってこれまでとは違った走り方が求められています。  それでもランナーたちは走る場所を求めて、新たにランニングを始める人たちも少なくありません。  今人々が感じ始めている走る意味とは何か、プロランニングコーチでありマラソンや駅伝中継の解説者としても活躍する 金 哲彦さんに伺いました。

大会が中止、延期になり合同練習もできない。   どうしていいかわからない状況が続きました。   ホームページを作ってランニングに役立つ情報を発信したりしていました。  ランニングウエアの袖の生地を使って息苦しくないマスクを作って、発信したりしました。

競技ランナーはどんなに懸命にトーレーニングをしても自分の発表できる舞台がないという事で、存在価値そのものまで揺らぐような出来事だと思います。

マイクロレース クラブの中で自分たちが走ることもあればボランティアをやる時もあります。  レースの最低限の形を作って5km、10kmの2種目と親子で走る1kmがあります。   計測は自分たちで、出来るように手作りの計測システムを作り上げました。 もう6回ぐらいやっています。   感染予防には気を付けて行いました。  TVでジョギングはいいですよとの話があった以降は、走りたい人が増えたようです。

2006年の夏にステージ3の大腸がんが見つかり、開腹手術をしました。   発症から手術、仕事への復帰、11か月後のフルマラソンに挑戦、3年後にはフルマラソンを3時間を切ることが出来ました。  2010年に「走る意味」という本を書きました。 「明日への言葉」に出て10年が経ちました。

42歳で実業団の監督から引退して、自分でチームを作って市民ランナーの指導を始めて数年経った時のことでした。  ガンはまるで頭の中にはありませんでしたが、検査をして、青天の霹靂でした。  死への恐怖、自分の人生をどういう風に締めくくっていくのか、もやもや毎日考えていました。  悲観的になる気持ちが多かった。   10分から15分ぐらい走って見ました。  走っている間はもやもや考えていることが頭から消えました。  生きているんだなという事が身体で実感しました。   

未来が見えるようになって、社会に復帰するにはマラソンランナーに戻ることが一番だと思って勝手に考えて、術後11か月後にマラソンを走って、30kmは走りましたが、残りは歩きました。  膝が痛くて5時間41分でした。  3年後にはフルマラソンを3時間を切ることが出来ました。

ガンのことは周りには黙っていました。 周りに心配をかけたくないという事と、周りからがんだからもう長くはないよと思われるのが悔しいと思ったので、サブスリーを目指しました。

「癒しのランニング」という本を出して、そこで「走ることを心の栄養」という風に表現しました。  精神科の医者と話をしたら、ジャンプ運動をすると脳内ホルモンが出る効果があるという事で、うつ病の患者さんたちの運動処方に携わっていたので、走る方向に導いてゆくことでどんどん回復してゆくのを見て、無表情だったのが感情が出てくるのを毎回見ました。  それで走ることは心の栄養になるんだなという事を実感しました。      農作業、土をいじる、育てることも効果があるという事でした。

がんという病気は細胞の突然変異なので誰にでも体の中で起きている。  免疫が働いて突然変異の細胞をやっつけてくれる。  免疫が下がることによってがん細胞が大きくなり、抗がん剤や放射線などで退治するしかない。   しかし小さいうちならば、自分が持っている免疫力で攻撃してくれる。   走ることで基礎体力が上がるだけではなく、ストレス解消、体温も上がり、免疫が上がる。

以前は山登りをやっていたという高齢の女性で80代で4時間代で走る中野さんはマラソンを始めたのは70歳近くという事でした。  まったく運動していない人はまずは歩くことからスタートして基礎的な足腰を作って行き、ゆっくり走ることを繰り返してゆくことだと思います。

自分に合ったランニングシューズを買い求める。  いきなり走らないで早歩きをして身体が温まってくると早歩きと同じ速度で5分ぐらい走ってみる。 又早歩きを10分ぐらい行う。  無理をしない。 全体の運動時間をしっかりとっておくとどんどん体力が上がる。   不思議と前向きな言葉がどんどん出てくる。  走ることを辞める人の理由の多くが怪我、故障です。   それはどこかで無理をしている。   ゆっくりでいいから5分でも走ることが出来たら新しい世界が開けてくる。  食べた直後だけは避けたほうがいいです。  身体を動かして自然と触れることはいいことだと思います。

競技スポーツの存在意義、在り方、ただの勝ち負けではなく、スポーツは感動を与えるので、競技スポーツの意味を改めて考える機会だと思えば、応援してくれる人たちにもっと感動を与えてくれるものと思います。






2020年12月15日火曜日

結城 恵(群馬大学教授)        ・新時代の多文化共生社会の在り方

結城 恵(群馬大学教授)        ・新型コロナウイルスと共生する  新時代の多文化共生社会の在り方

結城さんの専門は教育社会学で取り組んでいるテーマは「多文化共生」です。  国籍や文化などが異なる人同士が違いを認め合い共に生きて行くことです。  大阪の出身で大学時代に幼児教育を学ぶためアメリカのイリノイ大学に入学されて、外国と日本の違いについて研究をされ、東京大学大学院で博士課程を取得後、平成8年から群馬大学教育学部で教鞭をとっています。  その傍ら外国人が多く暮らす群馬県大泉町などに通い、ご自身が外国人と日本人の懸け橋になろうと、多文化共生の道を歩み始めました。   結城さんがこれまで何に取り組み多文化共生を通して何を得ていったのかお話を伺います。

群馬大学に着任して来年で25年となります。   外国人住民と日本人住民がともに生き甲斐を持って生きるための模索の取り組み、多文化共生の取り組みでした。

群馬大学には教育学部、社会情報学部、医学部、理工学部があります。  これらの学部に共通する教養教育で多文化共生の理論と実勢を教えています。  社会情報学部では生まれ育った文化や社会が異なる人達とのコミュニケーションのあり方を探る講義を担当しています。

地域活動としては「グローカル・ハタラクラスぐんま プロジェクト」というプロジェクトを立ち上げ、企画運営を担当しています。   44のいろいろな機関の皆さんにご協力いただきその取り組みを進めています。  ハタラクラスとは卒業後も群馬で働き暮らすという願いを込めて付けました。   グローカルという言葉はグローバル+ローカルで、群馬にいながら全国、世界に発信できる、経済、産業、地域活動を展開するという意味です。

子供の学習支援、キャリア教育支援、外国人留学生を含めた大学生の就職促進、外国人の住民が高齢期に備えるための日本語教室、多文化共生推進をはじめとする地域の人材育成などを展開しています。

労働力不足が深刻化する日本社会において外国人住民は不足する労働力を補う存在であることが浮き彫りになっています。  今年は前年度より30万5000人減少していて11年間連続で減少してきました。   外国人住民の人口は6年連続で増加していて、増減率は7,48%増と高い伸びをしています。   全人口の生産人口の割合は日本人住民は約60%を占めています。  外国人住民では約85%、その人たちが労働力の即戦力となって働いている状況です。  生まれ育った文化や社会が異なる人たちと生き甲斐をもって暮らすための方策や働き甲斐のある職場環境作りを進めておかなければならない。   幼児期から老年期までの多様な場面を想定して必要な理念、具体的な方策を積み上げていかなければならないと考えています。

群馬県は町民の約20%を占める大泉町、伊勢崎市、太田市など日本有数の外国人集中地域があります。  国籍も多様になりました。    群馬県は多文化共生を考えるうえで最前線、最先端でもあります。   

私が多文化共生を考えるきっかけになったのは、大学院修士時代にフィールド調査に入った幼稚園でのある光景でした。  園児の中に二人日本語がほとんど分からないフランス人の子供が在籍していました。   大声で話したり、行動が違ったりしていたので「言葉が通じないので、お客様していただきましょう、許してあげましょう」と先生は声をかけました。   表現に違和感を私は覚えました。   疎外感、上から目線で許してもらったというような感じで、親切であるようで親切ではない微妙な表現だと思います。  当たり前が当たり前ではないとか、微妙なニュアンス、それに対して配慮できるように日常生活の中で積み重ねてゆくことが大切なんだという事が気付かされました。

15年前、外国人の両親の赤ちゃんが突然死してしまいました。  通訳の方が約束の時間になっても来ないし、1時間経っても来ませんでしたし、何の連絡もありませんでした。 研究室で仕事をしていると夜になってしまっていました。  ようやく電話が入りました。

役所から連絡があり病院で通訳をするようにとのことで、そこにいたのは集中治療室で亡くなった赤ちゃんを抱えて呆然とする保育園の園長と園長とコミュニケーションが取れずに困り果てていた医師と看護師でした。   そこに両親がいないことに気が付きました。  名前も連絡先を伝えようとしない。   そのうち両親が来て泣き叫びました。   赤ちゃんは朝は元気だった、子供の年齢を証明する書類がなかった、両親はつたない日本語、両親は不法就労者だった。  そんな関係で就労先にも連絡ができなかった。

通訳さんの話を聞いていたたまれなくなりました。  病院で言葉が通じないことに対してどうしたらいいのかわからなかった。   ATMのような機械が病院にあり、患者さんの症状や病歴を患者さんの母国語で聞いてくれたら、細かいニュアンスまで母国語で与えられて、瞬時に日本語に変換されたら病院側も助かるに違いないと思って、2005年に完成したのが群馬大学にある外来の自動受付システムです。

問診表をタッチパネル式に、問題個所を絵で示して、そこを叩けばおかしい箇所が判り、症状も細かく選択してできる。  名前も難しいものもあるので当人が入力する。  この装置は大変好評でした。  英語、ポルトガル語、スペイン語、日本語で対応していました。

多文化共生の取り組みは外国人の為だけに役に立つという事ではなくて、一人一人の違いに対応しその違いが持つ共通する不便さを解決することで、日本人も含めユニバーサルな暮らし易さを追求することになることに気が付きました。

外国人住民、外国人留学生の視点を生かせば、小さな3000人ぐらいの村からでも堂々と世界に発信し、世界と村との間に人と物の流れが集まるという経験も積み重ねています。

2018年には「グローカル・ハタラクラスぐんま プロジェクト」というプロジェクトでは観光日本語という取り組みをしました。  外国人住民が主役になって進めていただく。  外国人の観光客の気持ちになって企画を考えていただく。

外国人住民と一緒に酒蔵見学をしましたが、私は専門的な言葉で理解できなくて、通訳の人も外国人住民にたいしては上手く通訳できないとのことでした。  頭に浮かんだのが外来受付機の絵のことでした。  お酒も絵で示せないかなあと思いました。  漢字は象形文字から来ているので、うまく漢字で表現できないものかと思いました。  酒造会社、行政、観光関係、外国人留学生、日本人学生など70名に集まっていただき、漢字を象形文字化して、貼ってもらうデザインを考えてもらいました。

対話をすることにより、どういう気持ちで、どういう感情をもって、なぜそのように感じるんだろうとか、そういった対話ができる事によってお互いが認め合い、お互いが尊重しあい、お互いが補い合い、お互いが高めあっていける、と思います。  












2020年12月14日月曜日

三井洋子(三井梨紗子選手の母)     ・【アスリート誕生物語】リオ五輪アーティスティックスイミング 銅メダリスト

三井洋子(三井梨紗子選手の母)     ・【アスリート誕生物語】リオ五輪アーティスティックスイミング 銅メダリスト 

リオデジャネイロで銅メダルを取ったのが22歳、リオの後引退を表明しました。    母親としては是非東京でも見たいという思いはありました。   小さいころからシンクロをやっていて、学校の行事にも出れないことも多くて、高校の卒業式も出れなくて、本人としてはもっと違う視野を広げたいという事が凄く大きかったみたいでした。   大学院に入っていたので次のステージを彼女は見ていたみたいです。   自分で決めたことは絶対に通すところがあったので、辞めることになりました。

今年の春に結婚しました。  相手は水球をやっている選手です。  紹介されましたが、明るくていい青年でした。   結婚のために辞めたという事ではありませんでした。

2歳半から水泳を始めて、ピアノ、習字、ジャズダンスなどもやっていました。   やりたいことはやらせようと思って育ててきました。   競泳をやっていて、早かったので競泳用のクラブへの要望もあったが、リズム感とかも良かったのでアーティスティックスイミング にいいのではないかと思いました。

東京シンクロナイズスイミングのクラブを紹介してもらいました。   すぐに頭角を現してきて、競技を始めて2年目の小学校5年生でクラブのエリート教育メンバーに選抜されました。 

クラブでは毎日練習があり、週に一回バレエの練習もしました。  中学受験は塾へも行けず上の息子が教えて入ることができました。   他にも習い事をやっていましたが、エリートに入った時からシンクロ一本になりました。

ジュニアの選考会があり、受かって高校2年の時に世界ジュニア大会があり、ソロとデュエットに出られて、ソロは4位、デュエットは5位でした。   メダルを落としたことに対して残念に思ったのか、日本の代表を背負うという事を意識し始めたことと思います。

その時にはしょぼんとしていました。   それから責任感が強くなったように思いました。   

ロンドン大会予選に行って、微差でウクライナに勝てて、本戦に行くことが出来ました。 チームの補欠争いみたいなポジションにあって、テクニカルのほうはでるとは判っていましたが、フリーのほうは出れるのか心配でしたが出れてよかったです。  チームで5位入賞で、本人はメダルを逃したのが強かったようです。

井村雅代さんが復帰して、井村先生の元で練習をしました。   井村先生は親の顔を見ただけでどの子の親か判ると言っていました、それまでの育ち方とか。  まずは人としてちゃんとしていなければいけないと言っていました。  自分で決める限界はない、限界は私が決める、というような感じでした。

躾の部分、親がちゃんとしていなくてはいけない、親が浮かれれてはいけない、平常心でいつも、という事は言われました。  メダルに届くために練習はここまでしなければいけないんだという事で、今までとは全く違ったと思います。  体に沁み込ませなければいけないという事は教わったようです。   先生は若い選手の考えが判らないところもあったようで、先生と若い選手とのつなぎ役として先生とはいろいろと話はしていたようです。

2016年リオデジャネイロオリンピックのデユエットでは先輩の乾友紀子さんとのデユエットでした。   乾さんは足がすらっとして綺麗でしたが、娘はO脚っぽかったので足をまっすぐに見せるやり方などを教わりました。  その努力を先生が見ていてくれました。  朝練の前の特別練習も先生と二人でやりました。

当日は井村先生の誕生日でもあり、デユエットもチームも銅メダルを取れてよかったです。 初めて本戦の応援に行くことになり、どきどきしました。

試合後は会う事も出来なくて、声を掛けてやることは出来ませんでした。  後で銅メダルを首にかけてもらえました。

覚悟、責任感そういったものが強くなったんだなと思いました。

娘を変えたという事はいろいろな人との出会いだと思います、特に井村先生には大きな勉強になったと思います。

娘に望む親孝行とは、一日一日丁寧に元気に暮らしてくれればと思う事と、ちょっとそのお手伝いが出来ればと思います。



















2020年12月13日日曜日

須田誠舟(薩摩琵琶奏者)        ・人々の琴線に触れる琵琶の音を

 須田誠舟(薩摩琵琶奏者)        ・人々の琴線に触れる琵琶の音を

須田さんは1947年東京の生まれ、詩吟が大好きな父親の影響で幼少のころから琵琶の音に親しみました。   大学進学後の1968年薩摩琵琶の第一人者であった辻 靖剛さんと出会い琵琶の指導を受けました。   1970年23歳の時に琵琶楽コンクールで優勝、文部大臣奨励賞を受賞しています。   大学卒業後は銀行に就職し仕事と琵琶を両立させながら銀行員生活を送りました。  しかし38歳の時に師匠が亡くなって一門を継ぐことになり、これを機に銀行を辞めました。   以後今日まで琵琶の道で活躍してきました。    来年の4月には新型コロナウイルスで延期になった元宝塚花組娘役トップで筑前琵琶の奏者の上原まりさんを偲ぶ琵琶の公演「平家物語を語る」が予定されています。

3月1日を最後にお稽古を中止しています。  コロナが落ち着くまで待つしかないです。

筑前琵琶の奏者の上原まりさんを偲ぶ琵琶の公演「平家物語を語る」を予定していましたが、来年に延期しました。   弟子は20人ぐらいで、週一回の稽古をしていました。   若い方は20代、医者、坊さん、学校の先生など様々な職業の方がやっています。

大河ドラマの「北条時宗」(神田うの)、「武蔵」(小泉今日子)、「篤姫」(永山 瑛太)のシーンで琵琶の指導をしました。

琵琶が日本に渡ったのは奈良時代だといわれています。  薩摩琵琶、平家琵琶、筑前琵琶の3種類でしたが、奈良朝時代に伝わったのは楽琵琶、4本弦と5本弦があります。

薩摩琵琶は戦国時代に島津家中興の祖と言われた島津忠良によって始まったといわれています。  薩摩盲僧琵琶を改良してバチも大きくして武士らしい力のこもった演奏を可能とするように改良して若い侍に奨励したといわれています。  明治まで伝えられてきました。

私は辻 靖剛先生にご指導いただきました。   明治以後薩摩琵琶は東京、大阪などに進出してきました。  永田 錦心という名人が出て、演奏形態を少し柔らかくした錦心流琵琶が一世を風靡しました。 鹿児島で伝えられてきた琵琶はいかにも武士らしい力強い演奏ですが、長唄、常磐津などの節調を加味しながら、東京人に受け入れられる琵琶に段々変化していきました。

上原まりさんのお母さんが柴田 旭堂と言って、筑前琵琶の名人でした。   上原まりさんもお母さんの指導で筑前琵琶を習得していました。   筑前琵琶は明治になって橘智定(たちばなちじょう)という方が出て、博多に伝わっていた筑前盲僧琵琶に薩摩琵琶の音楽性を取り入れて、全国的に普及していったといわれます。

琵琶の制作、修理は現在は石田琵琶店たった一軒しかないです。  素材も入手が困難になりました。  琵琶のいい楽器は桑の太い木を使いますが、三宅島、御蔵島などには樹齢80~100年という太い桑が生えていて、材料の確保からやらなければいけません。

1947年東京に生まれました。  父が詩吟が好きで、意味も解らず私は歌っていました。

大学に入ったときに琵琶を習ってみないかと伊藤先生の元で習いましたが、先生が病気になり辻 靖剛さんを紹介していただきました。(昭和44年 当時先生は78歳) 

大学卒業後銀行に入行、15年務めていたが転勤になり二足の草鞋を履くことができなくなった。  昭和56年に辻 靖剛先生が亡くなり、当時琵琶の活動も増えていました。    38歳の時で転勤を拒絶して会社を辞めてしまいました。 周りは心配しましたが。

*平家物語より連れ琵琶 清盛の四  薩摩琵琶:須田誠舟 筑前琵琶:上原まり 笛:西川浩平

金田一春彦先生には平成3年から平曲のご指導をいただきました。  歌人、俳人、茶人が平家琵琶をたしなむようになってきました。  楽譜が作られて荻野検校が編纂した『平家正節』(へいけまぶし)という譜本が有名で今に伝わっていて、その楽譜を主に研究し続けたのが金田一春彦先生です。  「平曲法」という分厚い本になっています。  平成3年、4年の夏に金田一春彦先生の別荘で3泊4日でご指導いただきました。

1998年 「能、狂言、平曲による平家物語の世界」というタイトルの企画に出演。

毎年 公演を続けています。 2010年代国外での公演、ポルトガルのジェロニモス修道院の石の壁の部屋で演奏した時には、音の反響も素晴らしかったです。

上原まりさんさんに替わって筑前琵琶の鶴山旭祥さんと、五弦薩摩琵琶の川嶋信子さんと3人で新たな連れ琵琶をスタートさせました。

「琵琶は単なる音楽ではなく道だ。」 辻先生が日ごろおっしゃっていました。  「人間の道と琵琶の道に隔たりがあってはいけない、正しい琵琶は人の道を正しく踏むところに生まれる」と言っていました。

演奏できるまでには時間もかかって難しいけれども、それだけにやりがいのある伝統芸能と言っていいと思います。






2020年12月12日土曜日

ウスビ・サコ(京都精華大学 学長)   ・「アフリカ出身の学長、日本の国際化を語る」

ウスビ・サコ(京都精華大学 学長)   ・「アフリカ出身の学長、日本の国際化を語る」 

サコさんは漫画学部などで知られる京都精華大学で教職員の投票によって学長に選ばれ、2018年4月に就任しました。   出身は西アフリカのマリ共和国で日本の大学で初めてのアフリカ出身の学長です。   来日して29年目、妻は日本人で日本国籍を取得しています。    京都精華大学はサコ学長の就任と同時に「ダイバーシティー(多様性)推進宣言2018」を発表、2年続けて留学生が新入生の30%を占め、留学生の総数がおよそ900人、全学生の24.3%と国内でも上位です。   サコさんはこれからのグローバル化が進む社会で活躍するには日本人も留学生も同じ土俵で学んで競争し、お互いの考え方を学びあうことが必要だといいます。    しかし、日本には国際化を阻む問題が残っていると指摘しています。    それは何でしょうか、サコさんに伺います。

マリに23ある民族言語うちの3つぐらいを話し理解出来ます。  マリのフランス語は公用語で、第一外国語が英語で、中国語も日本語も話せます。  29年前に来日、大阪の日本語学校で日本語を勉強して、京都に住んでいます。   リラックスしている時には関西弁が出てきます。

マリは内陸国で沢山の国に囲まれていて、中心的な役割のあった国だと思います。  気候的にも多様性がある国だと思っていて、人種も、民族も多くて非常に歴史もあって多様性のある国だと思っています。   23の民族があるなかのソニンケ系の家系で生まれました。家族間、コミュニティー間の非常に強い民族集団だと思います。  サコ家の長男です。

父は国家公務員で母は専業主婦、3人兄弟で妹、弟がいます。 私はやんちゃでした。

親戚に6年間預けられました。(小学4年から中学3年まで)  学校まで数kmあり、40℃を越えるときもありました。  高校卒業後、数人が選ばれるマリの国費留学生として中華人民共和国北京語言学院に派遣され留学、その後南京市東南大学建築学を学ぶ。卒業後大学院で建築デザインを専攻。  1991年に来日、京都大学大学院工学研究科の修士課程を経て京都大学大学院建築学専攻博士課程修了、博士(工学)。  2001年に京都精華大学人文学部講師に就任。

中国は留学生に対して条件が良かったが、いろんな国の人との出会いがあり、日本人の友達ができて、何故か日本人だけが人工的に見えました。   冷凍食品とかお湯を入れればすぐ食べられる料理とか、小さいスピーカーでも音がいいとか、先進的なのかなあと思った。  建築をやっていたので日本に興味があり、たまたま夏休みに日本に来たが、中国で見た日本人とは全く違っていた。   庶民的で凄く人間らしさを感じて、マリに通じるような共同体を感じました。   中国では研究するときに自由度が無かった。

日本に来て国籍を取り、結婚をして子供が二人います。

国籍は日本人ですが、アイデンティティーはマリだと感じています。

京都精華大学はサコ学長の就任とともに「ダイバーシティー(多様性)推進宣言2018」を発表しました。  

グローバル展開する=うちの学生たちを外に出して経験してもらう、留学生を入れて学生としてどうやってそういうものが実現できるか、一致団結しないといけないという事で「ダイバーシティー(多様性)推進宣言2018」を行いました。  留学生が全体の24.3%を占めていておよそ900名。

日本では留学生に対していろんな制度が開かれていない状況にある。(留学生は区別されている。)

京都精華大学としては区別をなくしてゆく一つの動きとして、試験の制度の改革からスタートしました。   留学生は目的意識が高い、非常に競争性をもって日本の大学に入ってくるので、彼らがいることでうちの学生たちの姿勢も変わってくる。   留学生はお客さんではない、うちの学生という形です。

留学生のことを知るという事はある意味自分の見直しにもつながる。  日本人としては当たり前と思っていたことが通じないこともあるわけです。   それが見えてくる。 歩み寄る姿勢をとることで見えてくる。

日本人を均一化して、それをある意味で当たり前のように扱う。   日本の社会も同じことをやろうとするわけです。   あるものはすべてみんなに通じるだろうと思われていた。  外国人、留学生とかが増えてきているのに自分たちの姿勢を変えようとしない。   異文化に対する接し方に微妙なところがある。   空気を読むと言って、日本人同士が協調性があるという風に思っている。  

旅行のゼミで、同じ部屋になって喜んでいる子が、そのあとにいやだと言ってくるが、その場では言わない(その場の空気を読む)。

京都ではいいところか悪いところかわからないが、極端に人を避ける場所で、共存のカギかもしれないが、相手のことを重んじるのか、ストレートに言わないことが相手に余裕をあたえて決めてくれというような話ですが、普通に通じない。

日本人はなかなか言葉では言わない。 相手に伝わらなければ意味がないので、今後変わっていかなければいけないと思っていて、これは大きな課題だと思っています。   国際化してゆく多様化してゆく時代にどこまで通じるかが課題になると思っています。   中国人はストレートに伝えて喧嘩をします。  日本の場合は同じようなことを聞きたくても聞かない、言いたくても言わない、自分自身で我慢してゆく。  本当に国際化、グローバル化してゆく中で、自分自身で我慢してゆくというような事はやったらいけないことだと思います。

衝突すること自体がすべて悪いとは思っていなくて、衝突と思っているかもしれないが議論だったり、話し合ったり、調整だったりする。  話すことによって相手の気持ちも伝わってくるし、自分の気持ちを堂々と相手に伝えることになる。   コミュニケーションが重要だと思います。   どうやって異文化系の人たちとコミュニケーションをするかだと思います。

マリの挨拶は下手をすると5分かかります。  共同体のお互いの存在を確認する手段ではないかと思います。  お互いが元気かどうかをいって、職場、周りの人たちが元気かどうかを確認して、そこから話が発展して行ったりする。

マリでは遠慮しない。  遅くなってしまって電車で帰れないときには、友達の家に行って堂々と泊まる。

私の家ではお客さんが来て、一日用事があると言って来て、いつの間にか1年間いるんです。  当然ながら食費は求めない。  いつ帰るかは聞かない。  いつの間にか家の行事に入ってくる。   マリでは迷惑をかけるという事は相手との信頼関係の確認のプロセスの一つでもあるわけです。

迷惑をかけあう社会というのは本当に相互扶助が自然に生まれる社会だと思います。  お互いに気に掛け合う社会を作っていかないと本当に精神的にもどんどん孤独になってゆくという事があるのではないかと思います。  迷惑をかけあいましょう、本音でものが言えるようになりましょう、それを実現することで真の国際化が実現できるのではないかと思っています。    実現するためには、様々な教育制度の改革が必要だと思います。

日本に完全に染まると意味がなくて、まさに均一的な日本を維持することだけになるので、多様な人がいるという事は、自分の文化を持ったまま日本社会の一員になってゆく、これが日本にとって大切なんじゃないかと思います。