2020年12月11日金曜日

岩川洋一郎(国立療養施設 会長)    ・【人権インタビュー】いま訴えたい、ハンセン病差別の経験から

 岩川洋一郎(国立療養施設 星塚敬愛園入所者自治会会長)    ・【人権インタビュー】いま訴えたい、ハンセン病差別の経験から

岩川さんは83歳、11歳でハンセン病と言われ、以来人生のほとんどの時間を星塚敬愛園で過ごしてきました。   ハンセン病や元患者への差別や偏見をなくそうと語り部活動にも取り組んでいます。   そして今、新型コロナウイルスによって新たな偏見や差別が生まれていることに危機感を抱いています。 

今では早く発見して正しく治療をすれば治る病気という事ですが、治療がない時代は手が悪くなる人は顔は普通で、顔が変形する人、目が見えなくなる人、口が下がる人などが多かったために、一般の国民から差別を受けました。  

終戦後まもなく23年ぐらいから治療薬が入ってきて3年ぐらいで98%ぐらいの人が完治しました。   今は衛生的にいいことと栄養が良ければハンセン病にはかかりません。

終戦後まもなく治療薬が入ってきて1996年にライ予防法が廃止されるまで、ずーっと隔離政策が続けられた。

昭和37年WHOは日本を除く全世界で隔離政策を全面的に廃止しました。 

なぜ日本が廃止しなかったのかわからない。 

1967年に屋久島で生まれて、親父は屋久島で役場に勤めていましたが、鹿児島へ転勤になり、家族で引っ越してきました。  ある日、顔に黒い斑点のようなものができたんですね。   そこで親父と一緒にあちこちの病院に行ったんですが、何が原因かさっぱりわからない。   親父が「ちょっと旅行にでも行こうか」と言い出したんです。    おにぎりを作りながらお袋が涙を流しているんです。   永野田(旧大隅線)という駅で汽車を降りて、そこから敬愛園までやってきました。  私は20分くらい診察を受けました。   園長か「君はまだ小さいから、3ヵ月したら帰れるよ」と言われました。

1週間して4つぐらいの部屋があり、1つの部屋には6,7名の子供たちがいました。  私はなんでここにいるのか判りませんと言ったら、「お前さんね、ライ病を知っているか」と言われまた。   「ライ病って知りません」と言ったら、「君はライ病だよ」と言われれました。   図書館に行ってライ病について調べました。

星塚敬愛園は1935年に設立、全国に13か所ある国立ハンセン病療養所の一つです。

本人の意思に関係なく特別列車で強制収容された。

部屋は12畳で6,7名が暮らしていました。   施設は有刺鉄線で囲まれていました。

27歳の時に好きな人ができて、この人と結婚しようかなと思った。  ハンセン病療養所では1948年に施行された旧優生保護法を根拠にハンセン病患者は子孫を残すことができないように男女ともに生殖能力を失わせる断種手術が行われた。   もし妊娠した場合は人工妊娠中絶が行われた。  判っているだけで断種手術は1551件、人工妊娠中絶が7696件。

或る日決心をして断種の手術をしました。  2年後に妊娠をして妻と相談して、これは天から授かったものだからいっしょに社会に出て子供を産んで育てようといったんですが、妻は泣きながら偏見差別があるからどうしてもだめだといいました。  断種の手術、人工妊娠中絶しました。

生まれることができなかった子供たちの慰霊碑が星塚敬愛園内にあり、1週間に4回ぐらい行っています。

今はいい形での生活はできます。  平均年齢は87.7歳です。  今年は20名の方が亡くなりました。   昭和18年には1347名で一番多く、今は92名です。  星塚敬愛園では85年の間に2150名が亡くなっています。  納骨堂に納骨された人は1604名、故郷に帰られたのは506名、1604名の人は故郷があっても帰れない。

生活するには国からお金が出るが、自分で生活できることが第一で、人の目を隠れながら生活しなければいけない。  偏見差別についてなくならない。 なくならないのは国のやり方の厳しさがあったと思います。

コロナに対する偏見差別は本当はあってはいけないが、怖さがあるためそれはあると思う。

コロナでの労災申請に対しても感染した人に対する社会的な差別のようなものがあり、声を挙げずらい現状があるといわれるが、これは本当に悲しいことです。

罹ってしまってかわいそうだねと思いながら寄り添う事だと思います。

今後も差別は断ち切れないと思います。  人間の人としてすごくいい人、何も言わない人、ああだこうだという人がいるが、ああだこうだという人の中に偏見差別があればこれはいけない、黙っている人の中に偏見差別が案外多い。

一般の人たちにはハンセン病の事実を知らない、本当はこういう形でハンセン療養所で暮らしてきた、今までどのような戦いをしたんですよという事をみんなに知ってもらう、これが大事です。










2020年12月10日木曜日

山崎菊乃(NPO法人代表理事)     ・【人権インタビュー】あなたは悪くない

 山崎菊乃(NPO法人代表理事)     ・【人権インタビュー】あなたは悪くない

コロナウイルスの感染拡大が続く中、DVの増加が懸念されています。   現在DV被害女性の支援を行う一方、内閣府のVD対策の委員も務めている山崎さんですが、自身もかつて夫の暴力から逃れ避難した一人でした。   暴力を受けていた山崎さんが声を挙げるその力の源は「あなたは悪くない、あなたなら出来る」と励まし続けてくれる人たちの存在でした。

今は主にDV被害者とその同伴の子供さんの相談の一時保護と自立支援、暴力防止のための啓発事由という事で、女性に対する暴力を根絶させるための活動をしているところです。

夫の仕事が在宅勤務になってモラハラ、妻に対する暴力、子供に対する暴力という事での相談があります。   性行為の強要といった相談もあります。

支配する側と支配される側の関係があると、支配する側がイライラがあると、弱い側に向かうという現象も起きていると思います。

1997年 DVの法律もない時に、子供を連れて逃げてきた経験があります。  長女が生まれたときに、里帰りお産をしたときに、米を10kg持ち帰ったら「俺を馬鹿にしているのか」と言って、お米を実家に送り返して、その晩に新生児の横で寝ている私の顔を何も言わずいきなり殴って鼻血で布団が真っ赤の状態でした。  あからさまの暴力はその時が初めてでした。

実家の親に言ったらどれだけ心配するかもしれないので言えませんでした。   「こんな事をするんだったら離婚する」と言ったら土下座して謝りました。   しかし、びくびくしながら暮らすことになりました。    北海道にUターンして新しい家を建てようというような時期から身体的暴力がまた始まりました。   初めての暴力から13年後でしたが、その間精神的暴力がひどかったです。 ちょっとしたことですぐ不機嫌になりました。常に私が非難されていました。  彼に理解してもらえない私が悪いと思っていました。

又身体的暴力がまた始まりました。  2年ぐらい続きました。  暴力を受けた時にはどうでもいい早く終わらないかなあという感覚でした。  一回暴力のタガが外れてしまうと身体的暴力のハードルが低くなって、ちょっとしたことで暴力を振るうようになりました。彼が帰ってくると動悸がしました。   娘が中3と中1で、大学卒業したら離婚しようと思って我慢をしていました。   

或る日、暴力に対して子供が傷ついているという事が判って、子供たちがいろんな症状が出てきたので、子供たちに対して我慢してきたのに、返って子供たちを傷つけているという事が判り、それが逃げるきっかけになりました。    学校の先生に相談して、先生の協力もあり子供たちと一緒に支援スタッフの協力の元、シェルターに入りました。

ホッとしてゆっくり眠ることができました。   「あなたは悪くない 暴力は犯罪ですよ」と言われて、目からうろこで、私が悪いのではなくて、暴力を振るう側の問題なんだと初めてわかりました。   「あなたは悪くない」という言葉は力強い言葉でした。

1997年にシェルターができてその年に私が入りました。  生活保護とか今までやったことのないことばっかりで、心強い思いをしました。   アパートで暮らす事になりましたが、高額でしたがまずNTTと契約しました。  追跡が怖くて何かあったらすぐ警察に連絡するためにです。   警察には夫に住所を知らせないで欲しいという事は言ってあったが、警察が夫に連絡してしまったが、たまたま留守で私の実家に連絡があり、母から私に電話がありました。   吃驚して警察に駆け込んで事情を話したら、これは制度だから仕方ないといわれました。   北海道警察から所轄に連絡して事なきを得ましたが、彼がいたらどうなっていたんだろうかと思いました。  法律がないとこういうことになるわけです。

私と同じ人は沢山いるので、社会の問題という視点で考えないといけないと声を挙げました。   怖くてDV防止法ができる直前までは身を潜めていました。     夫の支配下にはないという気持ちになれたので、そこが大きかったと思います。

暴力によって閉じ込められていた自分の感性が自由になり、人生を楽しめられるようになりました。  

DV被害者の相談を受けていますが、能力の素晴らしい人がいっぱいいるんですが、暴力下にあると自分を卑下したり、気持ちがつぶれ身体が動かなってしまって、暴力から解放されればこの人どんなに輝くだろうという人が凄くたくさんいるんです。

DV防止法ができて、「やった」と思いました。  警察も行政も対応が素晴らしく違いました。   システムが全然違いました。

相談件数も増えてきました。  DVに気づいてきたんだろうと思います。

女性の人権保護団体、NPO法人・女のスペース・おんの代表理事を務めています。  当事者としての経験と、その経験に基づく現場支援と法律ができたという事を自分で見てきた経験から、制度の改革と現場支援の両輪でやっていきたいと感じました。

代表になって10年になりますが、被害者が逃げ隠れしなくてはいけないという、被害者に不利益なことをしなければいけない、それで命を守るという法律なので、欠けているのは加害者への対応であるという事は確かだと思います。  被害者が逃げ隠れするのではなくて加害者が処罰されて被害者に近づかないように加害者を規制することが大切だと思います。

加害者は加害者意識がないです。

あなたは暴力から逃れられれば、あなたらしく生きていける、才能も発揮出来る、自由になれるという事を言いたいです。  あなたを守る制度も法律もあるし、一緒に考えて行く支援者もいるから、という事を伝えたいです。

子供たちには対等な関係にあれば暴力は生まれないよという話をしています。  どんなことがあっても相談することが大事だという事は伝えたい。  暴力ではない解決方法を探すということが良い人間関係を作って行く道だという事も伝えています。

あなたは悪くない、機関がいろいろあるので、とにかくどこかに相談してくださいと言いたいです。





2020年12月9日水曜日

齋藤眞人(立花高等学校校長)      ・【人権インタビュー】不登校でもよかよか

齋藤眞人(立花高等学校校長)      ・【人権インタビュー】不登校でもよかよか~ありのままの君が認められる社会へ~

去年の不登校の小中学生、およそ18万人とこれまで最も多くなったことが文部科学省の調査でわかりました。   コロナウイルスの災害の中でそうした状況がさらに悪化するとも言われています。    そうした中で不登校の生徒に対する取り組みを20年以上に渡り続け、今では不登校の経験がある子供たちからの入学希望が殺到して定員を超えているという高校があります。   福岡市の立花高等学校です。   昭和32年創立の普通科の高校で定員は450人という事です。  実は昭和40年ごろには学校が荒廃して、いわゆるヤンキー高校と言われた時期もあったそうです。   今の校長斎藤眞人さんは16年前に立花高等学校に赴任して不登校の生徒がより生きやすい環境作りという事で積極的にその活動を続けています。 赴任当初は教育への価値観の違いに戸惑いを覚えたという斎藤眞人校長に伺いました。

定員の8割が不登校を経験している。  他の高校との違いは一言でいうと雰囲気、おおらかさがずば抜けていると思います。  抑圧感などは無縁の自由闊達な学校の雰囲気だと思います。   うちが目指しているのは違いを知る、一人一人は違うんだという事をここで体感して社会に出てほしいと思っています。

遅刻という概念、遅刻してもその生徒のベストの努力の結果かもしれない。

以前は公立の中学校の音楽の教員をしていました。  怒鳴り、命令形ばっかりでした。

不登校児に対しては、切り捨てるような考え方があったのかもしれません。  家に迎えに行って来てくれたら自分の成果みたいに考えていました。

再チャレンジしたいと思って立花高等学校に赴任しました。   

登校2日目、メイクしている子に対してはほかの先生は、この子にとってはメイクしないと外に出られないんだという事で視点が全然違っていて、そういったことがいろいろ積み重なって自分の価値観が一気に変わっていきました。

うちの学校は不登校を克服する学校ではなくて、不登校の子供たちが安心して不登校のままでいられる学校でありたいとさえ思います。

気付いていただきたいのは学校に行かなくても幸せになる道はあるし、就職がうまくいかなくてもそこで再チャレンジする寛容さがあればいいだけの話であって、学校に行っている子たちも就職している方々も歯を食いしばって頑張っておられるんだという事をもっと認め合っていいと思います。   不登校の子たちもがんばっていないわけではなくて、子供たちなりの葛藤の中で頑張っていて、ちゃんと学校に行けて、就職している子は普通ではなくて頑張った結果なんだという事が究極のメッセージだと思うんです。

生まれた瞬間に我々は人権をもって生まれてきているので、公共の福祉に反しない限り誰からも邪魔されるものであってはならない。

あなたはあなたなんだ、あなたが一番大事、あなたはあなたのまんまでいいんだよというメッセージがあるわけで、うちの子供たちはちゃんと感じているんじゃないんでしょうか。

不登校の生徒に関しては、ちゃんとあなたの存在を我々は思っていますよというのがまず第一歩だと思います。  〇とか×とかにものをわけて考えない、大事なのは彼らの意思だと思います。    自己有用感は大事だと思います。

出来ないことを嘆くのではなくて、出来ていることを認めてあげる、出来る手段を準備する。

学校外教室を20年近く公民館に教員が出向いて、そこまで来れる生徒にはそこで授業をしています。  (5時半から7時まで)

次のステップというようなものの考え方はないです。  美術館に行ったりミュージカルを見に行ったり数限りなく手段があります。

サポート教室は何らかの事情で、1年何組とかクラスに入れない子たちを別室に集めて、異なる学年が一つの空間で学べるような居場所を作りました。

授業をするための出来る手段を準備してあげる。(教室には入れなくても廊下で授業を受けられるならばそれも良しとするとか)

立花高校は全日制、単位制です。  3年での卒業にはこだわっていない、その子のペースで行う。  

その子にあった選択肢が社会側にもっと増えることが大事であって、もっと価値観が広がればいいと思います。

多様性、個性の大切さは社会も大分気付き始めています。

心根の凄く優しい生徒がいたが、中学生の頃優しいだけでは社会に出たら通用しないといわれたという事で、このことが心に刺さって、優しさが通用する社会に変わってゆく責務があるのではないかと思いました。

進学率、就職率をあわせると7割というところです。   卒業後挫折してしまった卒業生がNPOで何かを学んで羽ばたくという事も一つの手段です。  「ホットスペース」、ここは卒業生の居場所のために作った空間です。   地域とのかかわりもここで行っています。

卒業しても残りがまだうちとつながって、実現できるという空間って大事だと思います。

卒業生の保護者もカウンセリングの対象として、常にオープンにしています。  常にカウンセラーが常駐しています。  子供が悩んでいる家庭は母親、保護者も悩んでいるので一緒に寄り添ってゆくというのが凄くナチュラルな発想だと思います。

職場体験実習先として250社以上が今本校協力企業として名乗りを上げてくださっています。

不登校でもよかです。












2020年12月8日火曜日

三保浩一郎(日本ALS協会広島県支部) ・【人権インタビュー】"安楽死議論"の前に 多様な生き方を知ってほしい

三保浩一郎(日本ALS協会広島県支部) ・【人権インタビュー】"安楽死議論"の前に 多様な生き方を知ってほしい 

今年7月京都で難病のALSを患う女性から依頼を受けた医師二人が、女性を殺害した疑いで逮捕されるという事件がありました。   全身の筋力が徐々に劣えるALS(筋萎縮性側索硬化症)この病気を患った女性の苦しみが明らかになりました。   広島市に住む歯科医師の三保さんは9年前ALSと診断されました。   歯科医院で診療することはできなくなりましたが、三保さんは病気が進行するなかでも目の動きで文字を入力する視線入力のパソコンを駆使して仕事をし、趣味を楽しんでいます。   10年近く夫の介護にあたってきた妻の文子さんと浩一郎さんにALS患者が多様な生き方のできる社会を作るためにはどうしたらよいのか伺いました。

視線入力のパソコンで話を伺っています。

浩一郎:歴史、特に古代史が好きです。 古地図も好きです。  人工呼吸器を装着して自宅で暮らしています。  食事は胃ろうから摂取しています。

文子:液体の注入食を入れることをしています。 味覚はちゃんとあります。  介護は発症して3年ぐらいは一人で介護していましたが手探り状態で、今はヘルパーさんと一緒に在宅をやっています。  主人の声を一番聞ける人が介護しないと問題点が判らないと思います。

海水浴に行ったときに体が思うように動かないという風に主人言っていて、歳だからではないかなどという事で気にはしていませんでしたが、そのうち自転車でこけて上腕骨骨折をして、整形外科を受診して、どうもおかしいという事で神経内科を紹介されてALSと診断されました。

浩一郎:(自覚症状としては)足がつって、よく躓いていました。  自己診断でALSかもしれないと思っていたので、やっぱりか、これからどうしよう、でした。 怖さもありました。  真っ先に浮かんだのは仕事のこと診療所のことでした。   死ぬことや人工呼吸器のことは頭に浮かびませんでした。

文子:主人なりに色々調べてALSになったら最悪だと言っていたので、そうじゃなければいいなあと思いながら大変なことになる、色々変わってゆくんだろうなあという覚悟はできていました。

浩一郎:どうやって家族を養おうか、収入手段を確保しなければという事で頭がいっぱいになりました。

文子:人によって進行も色々です。 症状が出るのに1年間で一気に出る方もいれば20年かけてゆっくり進む人がいるので幅が広いと思います。  呼吸筋が動かなくなるので人工呼吸器を装着するか、しないで死にますかという選択を自分でしなくてはいけないという事になります。   7~8割が装着しないほうを選択すると聞いています。  一番は家族の負担を皆さん考えられていると思います。  24時間介護が必要になるという事が大変ですし、家族が負担をするようになるわけです。  自宅で一人の人ではヘルパーが対応するわけですが、体調が悪くて替わりのヘルパーがいないと全く一人になってしまうので、24時間介護の負担が大変だと思います。

浩一郎:途中で外すことができないのも一因だと思います。

文子:法律上人工呼吸器を付けたら亡くなるまで外せないので恐怖はぬぐえないですね。

浩一郎:妻の「人工呼吸器を付ければALSが原因で死ぬことはないんだ」という一言が大きかったです。

文子:それしかない、付けないという事は死ぬという事なので。

浩一郎:(人工呼吸器を付ける迷いは)勿論ありました。  同期の内科医から人工呼吸器を装着すると地獄のような苦しみだと忠告されたのも一因です。  (介護が24時間必要になって家族に負担をかけてしまうという事に対しては)勿論ありました。  想像ついていなかったというのが本音です。

文子:私もどれだけの介護が必要なのかわかっていなかったから、反対によかったのかもしれません。

浩一郎:(人工呼吸器を付けて)想像以上に快適な暮らしでしたね。

文子:人工呼吸器を付ける前のほうが大変でした。  呼吸が不安定で、日によって全然違うので、街中で急に苦しむという事が多々ありました。   外出も控えるようになりました。

浩一郎:あの時期が一番つらかったね。

文子:飲み込めないものがどんどん喉にたまってゆくので、苦しいんです、もっと早く人工呼吸器をつけていればもっと楽だったのにと思います。  体調が安定するんです。

浩一郎:(仕事、講演活動で負担を感じることは)いまは体調が安定しているので負担には感じませんね。  広島市歯科医師会では広報部に配属されており、会報誌の構成、編集、日常診療に役立つ広島弁講座の執筆、広報用動画の編集、ユーチューブチャンネルの管理、臨床に入用な情報収集を担当しています。  全力で取り組んでいます。

文子:6年前にALS協会の広島県支部の部長になりました。  主に患者交流会がメインですが、介護、モチベーション、不安や悩みなどを打ち明けられる場所という事でALSの患者さんの生活全般を支えるという活動をしています。  

浩一郎:ALSによって失ったものを10とすると、得たものは6ぐらいと感じます。  これからの生き方次第で6をもっと増やせるはずです。

文子:この10年一体何をしてきたのかなあと思った時に、介護しかなかったとは思いたくない。   介護して私も成長してきたし、知らない方とも会うことができましたし、講演にもついてゆくことができます。

浩一郎:(ALSの方と生活してゆくなかでどんなことが大事かという事に対しては)身体が動かないだけで中身は普通のおっさんですから、普通に接することが大切と思います。

文子:体が動かないだけでバリバリ働いていたころと何一つ変らないです。   

浩一郎:(京都の事件については)残念なことですが、女性の気持ちは理解できます。   女性を責めないで欲しいです。  私も人工呼吸器を装着する前には不安でしたから。

文子:わかるけど、それでも生きていてほしかったという方もみんなそれは思う事だと思うんですよね。  人生を変わってしょってあげることはできないので。 

浩一郎:閉じ込め症候群になることを想像すると怖いはずです。

文子:閉じ込め症候群は眼も動かせなくなり、進行すると何一つ動かせなくなる。    心臓、内臓、頭も動いていて、生き埋めにされてじっと過ごすような事になるわけです。

意志を伝える手段がなくなってしまう。

浩一郎:(閉じ込め症候群になる恐怖は)もちろんあります。   閉じ込め症候群になったら死にたいと思いながら日々生きています。

文子:脳波でハイ、イイエが判るようになるような事も研究されているみたいですが。

浩一郎:それはいろいろばれるので困る。(笑い)  安楽死を認めると人工呼吸器を装着する人が増えるのではないかな。

文子:病気の進行の中に閉じ込め症候群がどうしても最後に行きついてしまう場所なので、そうなったら楽にしてほしいと思うのを認めてもらえるならば、それまで一生懸命生きれると思うんです。  

浩一郎:そう思う。

文子:意思疎通できないままずーっと寝かされて生きて行くことがどれほどしんどいのかという事を考えると、本人が選択できればそれが一番いいと思うんですが。   眼も閉じて意志相通できなくなってしまったら、人工呼吸器を止めてくれと言われたら止めるかもしれない。  安楽死が認められていなければ私は殺人者になってしまう、そこが難しい。

浩一郎:もっともっと仕事をして社会貢献したいです。  僕は現在公的介護支援の下で暮らしていますが、就労すると公的介護支援が受けられなくなります。   僕は介護支援さえあれば就労して納税することも可能です。   判りやすく言うとTVを見て過ごす分には介護が受けられるが、仕事をすると介護が受けられなくなるのです。  これでは労働意欲がわきませんよね。

文子:講演などの最中はヘルパーさんを自費で雇っています。 プラスナイナス、ゼロになるわけ。

浩一郎:国民だから納税したい。

文子:経済活動とみなされるからヘルパーは付けないといわれたときに、経済活動して何がいけないのと思います。

浩一郎:(現行制度に対して問題をどう思うかという事に対しては)介護が必要なほどの障害者が働けるわけがないじゃん、という固定概念が邪魔をしているような感じがします。 社会に出て行って皆さんに周知してもらうのが大切と考えます。

(ALSが生きたいと思える社会にするために大切なことは) 仕事があること、社会の中で自分のポジションがあること、生き甲斐あることが大切と考えます。

文子:ALSに限らず、今元気で生きている方がいつなんどき障害を負うようになるか判らないので、障害を負ってしまっても社会復帰できて自分らしく生きれるんだという社会があれば幸せなんじゃないかと思います。  社会復帰出来て社会が受け入れてくれる、それが理想です。

浩一郎:(ALSの患者へのメッセージとしては)身体は病に侵されても心まで病に侵されることのない様にしてほしいです。

文子:周りが兎に角普通に接してあげることが大事だと思います。  普通の会話が大事だと思います。

















































2020年12月7日月曜日

マンス・トンプソン(写真家)      ・【人権インタビュー】"理由なき黒人差別を生きる"ということ

 マンス・トンプソン(写真家)      ・【人権インタビュー】"理由なき黒人差別を生きる"ということ

アメリカ ミネソタ州ミネアポリスで黒人男性のジョージ・フロイドさんが白人警察官の膝で首を押さえつけられ亡くなるという映像が世界に衝撃を与えました。   この事件をきっかけにこれまでの警察官による黒人への暴力的な対応にアメリカだけでなく世界中に抗議デモが広がりました。   この現状に遠く離れた日本にも心を痛める人がいます。   黒人のマンス・トンプソンさん(47歳)です。   マンスさんはアメリカで大学を卒業し就職した後、日本の文化に憧れて来日しました。  日本に住んで今年で21年になります。   今は写真家として仕事をしながら暮らしています。   生まれたときから差別され抑圧されながら生きるとはどういうことか、マンスさんの生い立ちから振り返ってもらいました。

生まれはミシガン州のランシング市です。   両親は大学院生だった、父は経済の博士を取っていて、母は栄養師を取りました。    生まれて間もなくバージニア州で二人とも大学の教授をしていました。    父はビジネスを始めてその後ずーっと母と会社を経営していました。   生活を豊かなほうでした。

幼少期はシアトルで過ごしていました。  周りは白人が多かったです。  黒人の生徒は姉と私だけでした。    差別的な経験はなかったです。  一回だけあり温厚な母が怒りましたが、私自身は何があったのという感じでした。  8歳の時にセントルイシスに引っ越し父は車両を作る会社を経営していて13年間住んでいました。   黒人もシアトルよりも多く、道を挟んで白人と黒人が別れて住んだり仕事をしたりしていました。    一般的な家の価値は黒人が住んでいるところは7万3000ドルぐらいで白人が多く住んでいるところは33万5000ドルぐらいでした。   大学を出ているのは1割に対して、白人の多く住んでいるところは7割ぐらいが大学を出ています。  住んでいるところでほとんど一生が決まってしまう。

少年だったので深くは考えなかったが、高校生の時にサッカーの試合があり、私は試合中に黒人を侮辱する言葉を浴びて、私はショックを受けました。  怒りのあまり5分ぐらい何もできませんでした。  初めて白人からはっきり差別を受けました。   

車を友達が運転して同乗していたら、警察に止められて武器を持っているかドラック、麻薬持っているのかとか、犯罪歴があるかなど聞かれて何もしてないと言ったら、僕たちは勝手に犯罪歴など作れるといわれ、本当にショックでした。

警察との接触した場合危険があるので、警察との接触を安全にできるような仕方を親から学びました。   動作とかポケットから免許証などを取り出すときに、ポケットから取り出していいかどうか、確認するとか、不審な行動と受け止められないようにする。

大学の時にも車を停めて話をしていた時に、パトカーがUターンして後ろに停まったことがあります。  車を出たときに銃を背中の後ろに隠していました。  ただ話をしているだけだと言って、学生証を見せました。   そうしたらこの道は車を停めてはいけないから、帰るように言われまいた。(対応の仕方によっては怖いと感じました。)

街に買い物に行くだけでも緊張します。  日本では安心します。

大学を出てスポーツ、仕事などで頑張って成功する人は少ないです。

子供のころから日本に住みたかった。  7歳の時に三船敏郎が出演した「将軍SHOGUN」という連載ドラマがあり、徳川家康の話のなかで、お城に忍び込む忍者に憧れました。  大学でもアジア研究が専門で日本の歴史、経済、文化など勉強しました。  

日本での暮らしでも残念ながら差別があります。   命にかかわるようなことはないが、警察に止められてIDを見せてと言われたり、今年だけで2,3回あります。  止められるのは日本に来ている白人よりも断然多いです。

航空会社の宣伝でも白人のイメージが強いです。  役者でも社長、弁護士など白人がほとんどで、現在でも白人が有利な社会になっている。

今年渋谷と代々木で人種差別反対の行進をしました。  3600人ぐらい参加していて日本人も1000人ぐらいいました。   

普段は映画関係、記者会見、音楽、ファッション、花火など幅広く撮っています。

人種差別のことよりも人と人のふれあい、人間性を撮ろうとするほうです。   

黒人に生まれただけで苦しんでいる人が大勢いるという事を知ることが大切と思います。

9・11では3000人ぐらいのいろんな人種、いろんな宗教の人たちが亡くなり怒りが消えないと思いますが、黒人は一日何人かが殺され、ずーっと毎日続いています。 9・11の何百倍、何千倍となっていると思います。  誰にでもできる事はいろいろ知ることだと思います。

黒人の学者、教育者、歴史、小説とか、それを自分から興味を持って触れ合おうとするといいと思います。 

どんな人間でも命は大切、差別するのではなく平等で考えてほしい。











 



2020年12月6日日曜日

前川陽子(歌手)            ・【時代を創った声】

 前川陽子(歌手)            ・【時代を創った声】

12歳の時にNHK人形劇ひょっこりひょうたん島』の主題歌を歌って、歌手としてデビューしました。   アニメ「キューティーハニー」や 「魔法使いサリー」などの主題歌や数多くのCMソングを歌ってきましたが、その後20年間に渡り活動を休止します。   2001年にジャズシンガーとして活動を再開しました。   活動を再開してから20年目に入っている前川さんに伺いました。

人形劇ひょっこりひょうたん島』は脚本:井上ひさしさんと山元護久さん 1964年から69年までNHKで放送されました。  前川さんがこの主題歌を歌いました。(12歳)

沢山オーディションをして、東映児童演劇研修所からは私を含めて20人ぐらいが受けに行きました。   宇野誠一郎さんが声を聞いた瞬間に決まっていたと言っていました。(つい最近聞きました。)   九州から東京へ出てきたのは小学校5年生の3学期で、そのあと母が勝手に東映児童演劇研修所の研修生募集へ応募しました。  ダンス、歌、芝居など全部やっていました。

ひょっこりひょうたん島』がスタートしてからはCMなんかが物凄くオファーが入ってきて、午前中は学校でそれからスタジオに入るとか、睡眠時間は4時間ぐらいでした。   明けがたでも録音がありました。   1歳8か月で歌は歌っていたと母は言っていました。  音楽は空気みたいなものでした。

その後、『魔法使いサリー』(1966年)、『リボンの騎士』(1967年)なども担当。    かっぱえびせんなどのCMソングを1000曲近く歌いました。

学校との両立は胸を張ってできていましたとは言えませんでした。  頭の中は音楽でいっぱいで食事をしている時にも何を食べたかとか頭の中にないような状態でした。

高校3年生の時から休業しました。  仕事では周りは全員男性でしたが、学校では女性であまりに周りの子と違うのに気付いて、ギャップが大きかったです。 その後普通の学生をしていました。

18歳の時にジャズシンガーのサラ・ヴォーンを生で聞いて、衝撃でした。(大学生)

そこから歌い手さんというものに意識し始めました。

その後「キューティーハニー」(1973年)が来るわけです。  渡辺岳夫先生の事務所に行って歌ったら決まりました。  渡辺岳夫先生が自分の癖をちゃんと取っといてねと言われて嬉しかったです。  好きな曲でした。 エンディングの「夜霧のハニー」もいい曲です。

渡辺岳夫先生がわざわざ私のために書かれた曲が『魔女っ子メグちゃん』でした。(1974年)

その後又休業、精神的に健全でありたかった部分があったのかもしれません。

2001年にジャズ歌手としてCDを出しました。   自分で歌いたいように歌いたいという制限なしにやりたかった。   父がジャズが好きで小さいころから聞いていました。

ジャズと日本舞踊を幼稚園からやっていて、長唄、小唄、端唄、清元などで踊っていたので、常時聞かされていました。

2011年制作アルバム 「ラブ・トランペッターズ」から

*「 The Good Life」  歌:前川陽子

これからは又ゼロに戻って、ジャズのCDとか、ジャズに限らず作ってみたいなあとは思っています。







2020年12月5日土曜日

加藤いつか(NPO法人 理事)      ・「あの日をわすれない『はるかのひまわり』」

加藤いつか(NPO法 阪神淡路大震災「1.17希望の灯り」理事)  ・「あの日をわすれない『はるかのひまわり』」 

絵本、「あの日をわすれない『はるかのひまわり』」は女の子が真ん丸の顔でほっぺを真っ赤にして笑っている顔と大きなヒマワリが描かれています。 女のこの名前は「はるか」、震災当時小学6年生で阪神淡路大震災の時のあの日亡くなりました。   この絵本では亡くなったはるかさんのお姉さんの震災後の苦しみや葛藤、心の変化や成長を実話をもとに描いています。

朗読を担当したのは神戸放送今日の北郷三穂子アナウンサーです。  今神戸だけでなく全国の被災地に広がり、「はるかのひまわり」と呼ばれるようになったこのひまわりの花に秘められたストーリーをお聞きいただきたいと思います。

あの日をわすれない『はるかのひまわり』を朗読(概略)

ある夏のこと、まだ瓦礫と埃の匂いがする頃、神戸の街の片隅に一輪の大きなひまわりが咲きました。  大空に向かって力いっぱい咲くひまわりに神戸の人達はある女の子の名前を付けえて呼ぶようになりました。 このひまわりは阪神淡路大震災で多くのものを失った神戸の人たちのどんなことがあっても生き抜く勇気と希望を与えてくれたのです。  「あの日をわすれない『はるかのひまわり』」

お姉ちゃん 留守番頼むでー。 ハイハイ気い付けていってらっしゃい。  1月16日のことです。  はるかの友達がもうすぐ中学受験をするので、はるかとおかあさんは京都の神社までお参りに行ったのです。 ・・・夜の10時過ぎに帰ってきました。

いつものようにはるかとお母さんは1階に、私とお父さんは2階に。  翌日の明け方、1月17日午前5時46分あの瞬間に神戸が壊れた。 ・・・足が動かない、箪笥が足の上に載っていて箪笥を何とかどけて2階の窓から外に這い出る。  なんもかもぐしゃぐしゃ。・・・何度呼んでも誰の声も聞こえません。・・・壊れた家からお父さんが助け出されたのは3時間後、おかあさんは5時間後でした。   ・・・はるかが見つかったのは一番最後地震から7時間が経っていました。  ・・・はるかがいない私の家族、私たちは近くの体育館に住むことになりました。   発砲スチロールの板で分けられた小さな四角い床が私たちの家族が住む場所です。 ・・・夜になると咳や赤ちゃんの泣き声も聞こえてきます、目を閉じてもなかなか眠れません。 長い夜が続きました。  2か月後私たちの家は体育館です。・・・高校受験は変わらずにやってきました。   大学のボランティアのお姉さんが渡してくれた包みは暖かくてほんのり海苔の匂いがするお弁当でした。   お弁当のお陰で試験はばっちりでした。  その年の夏のことです。  「ひまわりが咲いた」、お母さんがぽつりと言いました。  うどん屋のおっちゃんたちがはるかを助け出した場所に、はるかみたいに真ん丸な顔をした大きな大きなひまわりが咲いた。  「はるかの生まれ変わりや」、おっちゃんも周りの人も言いました。    ・・・その秋おっちゃんはひまわりの種を収穫しました。  そして次の年の春から種を蒔き始めたのです。  瓦礫が片づけられた後とか道の端っこに。   ・・・お父さんは前よりも話をしなくなり、声を掛けてもお母さんはいつも遠くを見ています。  ・・・もう地震もはるかの思い出もひまわりも嫌、なんもかも箱に入れて海の底に沈めてしまいたい。

・・・あれから何年かが経ちました。  神戸で大きなイベントが開かれることになりました。   ・・・今では家やビルが建て変えられて街はどんどん新しく生まれ変わってゆきます。   心が元気になるにはもっともっと時間がかかります。  コトリ、私の中で何か心が動いたのです。  あのお弁当のお姉さんが突然心に浮かびました。  私でもイベントで何かお手伝いできるやろか。    ・・・「神戸2001 人 街 未来」これが地震から6年目に神戸で開かれたイベントです。  ・・・きっときっとはるかちゃんも見てるで、この人達の中にもあの地震で家をなくしたり、家族を亡くした人が何人もいるんや。  コトリ、又私の中で又何かが動いたのです。  なにも話してもいいんや、はるかのことを話してもいいんや。 私の心の箱の蓋がゆっくり開いたのです。

9か月のイベントが終わっても、おっちゃんやおばちゃんたちはもっといろんな活動を始めました、もちろん私も一緒です。  ・・・震災モニュメント交流ウオークにはたくさんの人が参加します。   うどん屋のおっちゃんたちが何年も続けてきたヒマワリの種まきも私たちが引き継ぐことになりました。   

・・・家族など亡くしたりした、りなちゃんもゆうちゃんもみんなここに来て話がしたいのです。

次のウオークの打ち合わせの時のことです。  「おまえも震災の語り部として震災のことをみんなの前で話をしてみないか」とリーダーが言いました。  何を話したらいいんだろう・・・「みんなで種を蒔いたひまわりのことさ」と言われた。   力が湧いてきた、私もう大丈夫や、地震のこと、命のこと、そしてはるかのこと話せそうな気がする。

生きている私が今できる事は、はるかの名がついたひまわりのことをみんなに知ってもらう事です。  地震でなくした大切なもの、地震の後に知った優しい人の気持ちや仲間のことをこれからも ずーっと伝えてゆくことです。  「お姉ちゃんありがとう」、拍手のなかではるかの声が聞こえた。

1月17日今年もあの日がやってきます。 前の日の夜から多くの人が震災の記念碑に集まって静かに祈りを捧げます。  亡くなった家族のために、大好きな人のために、神戸のために。  灯りに照らされたひまわりの絵は全国から届いたもの。  「はるかのひまわり」は、あの震災にかかわる全ての人の心の花になったのです。

・・・この間はお母さんがこんなことをいうたんねん、「これからはいつか(姉の私名前)のためにはるかの分まで生きなあかんね」、って。  今度の春はお父さんとお母さんと三人でひまわりの種まきできそうや。 

「はるかのひまわり」はこの25年で、東北、九州、海外の地震の被災地でも咲いて希望の象徴になっています。   去年の歌会始では上皇様がこのひまわりのことを歌にされました。

「贈られしひまはりの種は生え揃ひ葉を広げゆく初夏の光に」

出来るなら妹と変わりたかった、という思いがありました。  親の悲しんでいる顔を見たくなかった。  親は泣いて暮らしていてこっちにも向いて欲しいという事は言えなかった。  なんであんなにしんどい思いをしていたのかなと思いますが、ふっと振り返ると必ず見てくれていた人がいたんです、「いつか(私の名前)大丈夫?」とか何気ない一言があって、振り返ってみると絶対どこかにいます。

いつかさんは結婚して、菊池いつかさんになって、2歳の女の子のママでもあります。  いつかさんは今度は娘さんとひまわりを育てたいと話していました。