2019年7月8日月曜日

穂村 弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】歌人 東 直子

穂村 弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】歌人 東 直子
(ちょっとまとめずらい内容でした。流れが見えにくいかと思います。)
(短歌の文字、漢字は違っているかもしれません)
「回転ドアは順番に」 穂村、東 共著 
東:1990年代の後半ぐらいに穂村さんとのメールでの短歌やり取りを始めました。
穂村:メールでの短歌のやり取りを編集したり、作り直したり足したりしました。
短歌のやり取りの中で物語が見えてくるようにつくりました。
穂村:「月をみながら迷子になったメリーさんの羊を歌う女を連れて」
東:「笑っちゃうくらい天気が良くて笑ちゃうくらい不味いカレーを食べて」
  「笑っちゃうくらい行く当てがなくて笑っちゃうくらい初めての道」
  「ねえどこにつながっているのこの夜は」
  「永遠の迷子でいたいあかねさす月見バーガー二つください」
穂村:書いたときに恋が盛り上がっていく時は割とすんなり書けたのですが、一番最後まで書けなかったのは出会いのシーンで、初々しい出会いを書きたいがそれが結構難しかったような記憶がある。
東:プロポーズのシーンの歌を作るって言われて苦労しました。
穂村:今読んだところは恋に落ちてゆくところ。
東:読むのは恥ずかしいようなところがありますが、作っているときには別人物、自分ではない人ですよね。
穂村:短歌は恥ずかしいという人は一定数常にいて短歌ウエットなジャルンらしい。
そうなったときにノリノリになってゆくような体質の人が短歌をやるイメージ。

穂村:「回転ドアは順番に」という本にタイトルを決めようとしたときに、「二匹」という案を出したら東さんにそれは絶対いやといわれて、順番に歌をやり取りをするという事で、結局いいタイトルにはなったと思いますが。
互選句
東:「自転車のサドルを高く上げるのが夏を迎える準備のすてべ」(穂村さんの句)
 サドルを上げると強く踏むことができて、夏を楽しむぞ、気分を盛り上げて、サドルを上げるという事だけで表現しているのと、文体のリズムの良さ、疾走感があります。
穂村:人工物と季節の組み合わせには自分にはあるのかなあと思うところがあります。
前回の「錆びて行く廃車の山のミラーたち一斉に空映せ十月」での
廃車の山のミラーと空のように。
互選句
穂村:「好きだった世界をみんな連れてゆくあなたのカヌー燃える湖」(東さんの句)
心の中の景色だと思います。
別れの歌だと思いますが、その人が去るだけではなくて、その人が持っていた世界根こそぎ自分の近くから消えてしまう。
それをカヌーによって表現されている。
夕映えみたいなイメージ、その鮮やかさ、燃える湖。
東:心の深いところにある何らかな心象風景を言葉で置き換えてゆく作業もあってこれはその一種ですね。

互選句
穂村:「そうですか綺麗でしたかわたくしは小鳥を売って暮らしています」(東さんの句)
不思議な後味の歌ですが、何が綺麗でしたかはこの短歌だけではわからない。
東:郷ひろみさんと松田聖子さんは昔恋人同士でしたが、聖子さんが先に結婚してひろみさんのところにインタビュアーが行って「聖子ちゃん綺麗でしたよ」と言ったら、郷ひろみがちょっと躊躇して「そうですか綺麗でしたか」というところをTVで見て、「そうかそう言うしかないか」と同情もありました。
穂村:魂が抜けたような感じで、そこが良くて、「わたくしは小鳥を売って暮らしています」とよくこんな風につけるなあと東さんらしい才能だと思います、失恋があまりにも重くてちょっと浮世離れしてしまった。
東さん好みのシチュエーションですかね。
互選句
東:「まだ好きと不意に尋ねる滑り台に積もった雪の色を見つめて」(穂村さんの句)
「まだ好き」とたった4文字のセリフですが、悲しさがあります。
好きか確認せずにはいられないような、関係が冷えてきたような気持が言わせたんじゃないかと思いますが、その時に見たのが滑り台に積もった雪の感じがなんとも言えない。
細部の設定が妙にリアリティーがあって迫ってきて、すぐに溶けてしまいそうな雪で、先の風景も見せてくれて、変わってゆく関係性を投影されていて好きです。
穂村:実体験ではないですね。
雪の積もった滑り台は本来の機能はできなくなっている。
短歌を作るときの癖になっているのかも。
東:切なさがエネルギーになるという事はありますよね。

互選句
穂村:「花子さんがミカンを三つ買いましたおつりは全部砂に埋めます」(東さんの句)
不思議な短歌です。
お金を砂に埋めてしまうというのは、この世界ではない。
花子さんがいる場所はこの世界とは違う価値軸の体験の世界だという感じがして、そこに変な安らぎみたいなものを感じます。
東:この歌は作ったときに明確に覚えています。
おつりなんてそんなめんどくさいことは考えずに砂に埋めとけばいいと、応援歌のつもりで書きました。
互選句
東:「終バスに二人は眠るむらさきの降りますランプに取り囲まれて」
今にも楽しい時間が終わりを告げようとしている瞬間で、もう降りますという紫色に光るイメージがとてもきれいではかなくて、甘美さとはかなさの両面があると思います。
ポイントは紫色を選んでいるという事だと思います、暖色と寒色の両方はいっている、色の感覚が素晴らしい。
穂村:止まりますと書いてあるが止まりますでは短歌にはならない、降りますランプじゃないと。

東:「水中翼船炎上中」は穂村さんが11年ぶりに本を出されて、長い時間のなかで起こったエピソードを恋愛ではない切り口から時間をテーマにまとめられた歌集でテーマ、世界観が変わってきたのかなと思います。
穂村:東さんの作品が変わってきたという以上に東さんの作り出す世界の受け入れられ方のほうが変わったという印象は僕は持っています。
昔、今日読んだような歌を見た先輩たちはふわふわした童話的な世界だというよう言葉を言っていた記憶があるが、童話っぽいところはあるかもしれないが、別のリアリティーを示しているという事が東さんの作品で浸透してきたような気がします。














2019年7月7日日曜日

小宮和枝(俳優・声優)          ・【時代を創った声】

小宮和枝(俳優・声優)          ・【時代を創った声】
劇団テアトルエコーで50年近く活動を続けています。
声優にとってやはり芝居が基本だという小宮さんに伺いました。

ハーイあっこです』のあっこ、『うる星やつら』のラン(2代目)、『ER緊急救命室』のケリー・ウィーバー役、『24 -TWENTY FOUR-』の大統領夫人役などを演じる。
小学2年生のころアナウンサーになりたかった。
小学校2年生の時にNHKの東京放送児童劇団に入りました。
正義感が強かった感じです。
中学3年まで児童劇団にいて、高校生の時に週3日集まって勉強しました。
新劇の雑誌に劇団テアトルエコーを見て試験を受けに行きまして通ることができました。
お茶を出したりすべてが手作りで、アットホームな感じのところでした。
当時は声優学校などはなかった時代だったので、劇団に声がかかると実地で、スタジオで勉強するという感じでした。
先輩を見てこうやるんだと見よう見まねでやりました。
声だけの役に対して違和感はなかったです。
若い劇団の人がいますが、夢は声優ですといいますが、顔から上だけと思ったら大間違いですよとは言っていますが。
基本は舞台だと思います。

昔は大先輩がいてテスト、ラストテスト、本番と三回ありますが、その都度アドリブが違う人がいました。
それに対応しなければ行けなくて本当に鍛えられました。
それに見合う返し方も、それを越えてはいけないと思っていました。
1979年にアニメ「金髪のジェニー」で主役をやることになりました。
南北戦争時代のアメリカを舞台にした大農園の娘の話。
見直してみたら透き通ったきれいな声でした。
初めての主役に対しては頑張らなければいけないと思い緊張はしました。
1988年には「いきなりダゴン」、宇宙人のダゴンが昆虫たちと冒険をする物語。
同年ハーイあっこです』のあっこ役をやる事になりました。
アニメと映画の吹き替えと同じぐらいの割合で仕事をしていました。
映画の吹き替えの時にはまず演技に沿うことを念頭に行うために、映画を凄く細かく見ます。
ガヤ撮り(周りのガヤガヤした声)がありますが、ボキャブラリーの乏しい人は大変です。
ボキャブラリーの乏しい人はがやでも紡いでいけない。
いろんな引き出しを用意していないと、ガヤ一発で分かります。

洋画ではウーピー・ゴールドバーグナンシー・アレンベット・ミドラーキャシー・ベイツなどを担当しています。
洋画の場合はその役者さんの役にエールを送るというか、生き方に同調する、エールを送る。
どういう役でも品が必要だと思うんです、悪役でも下町のおばちゃん風でも品は必要だと思います。
エールを送ると同時にその役者さんと品をさやい?です。(一体となるというのは違う)
距離を保ったうえでのリスペクト(respect)だと思います。
ER緊急救命室』のケリー・ウィーバー役、いじわるをいう性格のきつい役ですが、照れたりするところがかわいい。
アニメでも癖の強いばあさんをやらせていただきますが、語尾でせりふは変わります、ちょっとの溜めでキャラクターを出せます。
普段いろんな方を見て、その人のことをいろいろ想像するので電車の中は楽しくて飽きないです。
20代の後半は急性盲腸になったり、声帯炎になり声が出なくなったりして苦しかったが、代わりの方がいくらでもいるんだと感じました。
そういったことに対して自問自答して苦しかった。
健康でないと何も生まれません。
三味線、長唄、マラソン、ジャズダンスなどやっていて、肺活量は3600ccぐらいあります。
三味線は名取をいただきました。
三味線は勘で引かなければいけないところが面白いです。
歳をとると音域が下がってきますが、長唄をやっていて上の音が下がらずにいてよかったです。
若い人は自分のセリフばかりに神経が行ってしまって、その前後関係とか、人間関係がおろそかになっている方もいます。
心を動かすこと、気持ちをブロックしては駄目だと思います。



2019年7月6日土曜日

近藤雄生(ライター)           ・吃音もどかしさの中で

近藤雄生(ライター)           ・吃音もどかしさの中で
近藤さんは42歳、同じ言葉をくりかえすなどスムーズに話すことができない吃音、近藤さん自身もかつて吃音があり東京大学工学部から大学院に進んだものの、就職を諦めアジア各地で取材をするフリーのライターになりました。
そんな近藤さんの吃音があるきっかけでほとんど解消しました、
日本に帰国した後は吃音をテーマに当事者およそ50人とその家族言語聴覚士などあわせて80人以上に5年をかけて取材、もどかしさの中で生きる吃音の当事者の声と現状を著「吃音 伝えられないもどかしさ」にまとめました。
吃音のある人達の悩みと現状を伺いました。

真剣に悩みだしたのが高校に入った時でしたが、小学校時代からちょっと話しずらいことがありましたが、全く気にはしていませんでした。
駅でお金を両替しようと思った時に急にうまく言えなくてお金を引っ込めたことがあり、そのことがショックで話せないという事を自覚したことがあります。
部活、受験などがあり高校3年生の時にいろんな場面であり、深刻に悩むようになりました。
ファーストフードでの注文時などグループを代表して注文しなくてはいけないときがあるが、しなくても済むような位置に座るとか、いろいろ工夫して隠すために細かいことにすごくエネルギーを使いました。
大学受験の時には面接があるところはやめようと思いました。
名前と受験番号が言えないと思ったので、自分の名前のように言い換えのできない言葉って一番きつかったです。
浪人して精神的にもかなり落ち込んで、心療内科のカウンセリングにも通った時期がありました。
東京大学工学部に入って4年間で直さないといけないと思いました。

原因も判らない、治療法があるわけでもなし、神経質だからなのかと思って、一人旅をしたりして、心境が変わるのではないかと思ったが変わりませんでした。
大学院に行くことになり、自分の席が電話の一番近いところで、電話が鳴ったらどうしようと、集中出来ない時期もありました。
就職はできないだろうし、文章を書きたいという気持ちが出てきていて、理系の道からずれていきました。
旅をすること自体に興味を持って、沢木耕太郎さんなんかの本が好きでノンフィクションを書きたいという気持ちが出てきました。
100万円もっていれば2,3年何とか東南アジアなら物価が安いので何とかなるのではないかと思って、その間にライターとして自立できるかできないかやってみようと思いました。
オーストラリアで知り合って付き合っていた彼女がいて、彼女も旅が好きで、結婚してその3か月後に一緒に旅に出ました。

最初はオーストラリアに行きました。
英語で話す時には言いずらい言葉があると会話が続かないという事もありましたが、英語でしゃべれなくても、英語は判らないんだと思ってもらえる気持ちの楽さがありました。
そういったことは海外では気楽で居心地がよかったです。
オーストラリアではボランティアしたり、車を買って7000km旅をして半年いて、そこから東ティモールに行きました。
そこからインドネシア,シンガポール、マレーシア、ブルネイと東南アジアを北上し中国まで行って中国に1年間いて、中国の大学に二人で行き中国語を勉強しました。
日常会話はできるようになりました。
ある日を境に吃音が出なくなりました。
そこから何かがかわって話しやすくなりました。
いろんな国を旅をしている中で複合的な内面的な変化によって、自分の中で抱えたプレッシャー、緊張感みたいなものが薄まったのかもしれません。(推測)
吃音のある人は100人に一人と言われています。
2~5歳で20人に一人発症するといわれていますが、成長の過程で8割ぐらいが治ってゆくといわれます。
100万人がいるといわれます。
吃音には3種類があり①連発、②難発(冒頭の言葉が出ない)、③深発(意図せずに伸びてしまう)。
連発から始まって重くなると難発になりしゃべれなくなってくる。
脳の研究が進んできて脳のどこかに原因となるものがあるのではとか、遺伝的な要因があって、それに環境が合わさった結果起きるといわれるが、詳しいことは判らないといわれます。

私の本の中に高橋さんという方が出てきます。
高橋さんは吃音がひどくて高校時代にはいじめにあい、高校を中退して自殺未遂をされるということがあった方です。
10年ぐらい引きこもりで、話さない仕事をしながら、娘さんと二人で暮らしている。
高橋さんとはNHKのある番組で6年前に知り合いました。
訓練をされて、話しやすい話し方をする手法を身に付けることができました。
基本的にはゆっくり話すことを軸にして、訓練をして身に付ける。
言語聴覚士が指導しましたが、その方も吃音があった方でした。
その方は自分で考えて直した方法で、その方法で訓練をしました。
彼は警察官で吃音が原因で殉職しようという思いまで至った方で、結局吃音がもとで警察官をやめてしまいました。
いろいろ職業を変えてきたが、結局言語聴覚士の学校に通って、自分で治す方法を考えていったそうです。
特別な方法ではないが、効果があったのは彼の熱意があったからだった、と高橋さんは言っています。

北海道で看護師をしていたかたはお会いしたことはないのですが、自死されてしまったという方がいました。
ご家族、友達とお会いして彼のことも書いています。
警察官になりたくて7年間挑戦したが駄目で、34歳で看護師になり4か月後に自死してしまいます。
彼の友達からするととても明るいという事でしたが、周りからとのギャップがあることをこの本から伝えたかった。
吃音の人と話をする時には急かせないという事はありますが、こういったマニュアルというようなものはないと思います。
相手が何をしてほしいんだろうと真剣に考えて、吃音のあるなしにかかわらず、相手と向き合う時に人と人が思いやってコミュニケーションをするという事が大事だと思います。
信頼関係が大事だと思います。








2019年7月5日金曜日

吉澤久子(保育園元園長)         ・全力人生~母、園長、そして画家として

吉澤久子(保育園元園長)         ・全力人生~母、園長、そして画家として
30歳の時に自ら保育園を立ち上げ園長として勤めてきましたが、60歳の時に突如足が動かなくなり、そのころ絵を描き始めました。
身の回りにある画材を使って自由に描かれる吉澤さんの作品はフランスの著名な画家の目に留まり、2016年モナコ日本芸術祭で芸術創造賞を受賞 、その後ヨーロッパを中心に高い評価を得ています。
二人の息子の母として園長先生として遅咲きの画家として、何事も全力で取り組んできたという吉澤さんにこれまでの歩みを伺いました。

はがき大ぐらいから全部合わせると4000枚を描いています。
人に差し上げたりしています。
保育園の合間にインテリアコーディネーターをしていました。
40歳代前半でした。
「孤高の豹」実際の豹の目などはグリーンではありませんが、豹の絵で目と耳と鼻の部分は色をアレンジしています。
学校を出たら銀行に行って結婚を機に引っ越してきて、まったくの田舎で何にもなくて食べてゆくのにどうしたらいいかわからなかったが、小さな菓子問屋ではたらいていました。
無認可の保育園に1歳の子どもを預けるのに3万円掛かり、給料が5万円で貧乏な生活をしていました。
コンピューターの操作ができたのでやっていたが、仕事の内容に比べて短大で入ってきた人のほうが給料が高くて談判をしましたが駄目でした。
一生懸命勉強して保育士の国家試験を受けることにしました。
一回で全科目合格しました。
保育園を作るにあたっては行政との交渉から銀行との資金繰りなどを何とか行って立ち上げることができました。
新卒者を6人雇いましたが、こちらが変わらないといけないと思って、講習に行ったり、研修を受けたり学んでいきました。
夜に新幹線を使っての大学に行きました。(38歳で入学)
2年間で全科目とって4年の時に卒論を出して卒業式に出ることができました。
若いころは島を含めて日本中いろいろ旅をして歩きました。
子どもに対しては小学校の時には参観日にはいかないし運動会もいかなくてほったらかしでした。
私が仕事ができなくなると食べていけないからという事は子供たちは知っていましたから。
60歳になったら軟骨がすり減って突然歩けなくなりました。
手術をして人工関節の受けをはめ込みましたが、血流が悪くてむくんでしまって歩けないのでしばらく車いす生活をしました。
リハビリを3年間行って、やっと立てるようになり両方に杖をついて歩くようになりました。
ようやく杖なしでも歩けるようになりました。
気分的に解放されて、書道もやっていたが大きな書はかけないし、絵を描こうと思いました。
国内の作品展に出展して落選はありませんでした。
「モナコジャパン」という雑誌の表紙を飾ってるのが私の写真です。
グレー・スケリーの生誕90周年のお祝いの席で配ったものです。
実際に描いたのは2009年で、ボール紙に白いワンピースを着た女性が青いソファーに腰かけて微笑みながらこちらを見ている、という感じです。
フランスの一番大きな古い美術団体の会長(アラン・バザール)から高い評価をしていただきました。
そんなことがあるのかなあと不思議な気持ちでした。
「孤高の豹」が受賞後、海外の作品展に入選しています。
動物、花の作品が多いです。
カバの作品も色使いがカラフルになっています。(スペインでの受賞作品)
保育園にいる時が自分らしく居られるところだと思います。
財産に執着していてもいい人生は送れないと思います、内面が充実しないと思います。
心がめらめらと動く時があるかもしれないが、その時にはちょっと大き目なものに挑戦
してみたいと思います。
今までで一番大きいのが30号ですから。
エンディングノートを書いていて、お墓はいらないと書いています、創設者なのでその石碑があるので、その石碑に私の名前が書いてあるので墓代わりになるので。
葬式もしなくてもいいが、最後に送り出すときには大好きな「真珠採りタンゴ」の曲でもかけてくれれば最高だと書いています。



2019年7月4日木曜日

竹本勝紀(銚子電鉄社長)         ・ローカル線の社長は運転士

竹本勝紀(銚子電鉄社長)         ・ローカル線の社長は運転士
57歳、もともと税理士で2012年に銚子電鉄の社長に就任しました。
銚子電鉄はこれまでも厳しい経営状態が続き、会社のホームページにぬれせんべいを買ってください、というメッセージを掲げ舞い込んだ注文で危機を乗り切ったこともありました。
竹本さんは社長就任後、こうした状況を乗り切る方策の一つとして、自ら電車の運転免許証を取得することを考え3回目の挑戦で運転免許を取得しました。

銚子電鉄は全長が6、4kmと短いが緑のトンネルといわれるように清々しくて景色が楽しめる路線です。
週末は観光のお客さんが多くて全体の売り上げの7割以上が観光のお客様の収入となっています。
父が税理士を50年やっていて、兄もやっていて私も税理士になりました。
15年ほど前に私の知り合いの弁護士の先生が、銚子電鉄の顧問弁護士を務めていて経営が厳しい鉄道会社があり、会計を見る人がいないので助けてほしいといわれました。
自己破産の申し立てをしたいが裁判所に納める用納金もないとのことでした。
そこからのスタートでした。
銚子市から補助金も受けていましたが、打ち切られてしまいました。
労働組合から借金をしてそこから給料を払うということまでになりました。
社員と一緒にぬれせんべいを売るところから始めました。
以前は京成電鉄のグループにいたが経営悪化で離脱せざるを得なくなり、次に引き受けてくれた会社もバブル崩壊で平成10年につぶれてしまいました。
自助努力でということでぬれせんべいを始めたのが24年前でした。

当時の駅長がぬれせんべいの社長になったことが有名になり一時期ぬれせんべいが凄く売れたこともありましたが、下火になってしまいました。
私はネットで売るしかないと思いました。
オンラインショップを家族全員で対応しました。
一日1万円程度得ましたが、どうにもならない額でした。
悲痛なお願い文、「ぬれせんべい買ってください、電車修理代を稼がなければいけないんです」、と書き込んでそれで大きなブームが生まれました。
当時2億円強から4億2000万円に増えました。(約2倍)
注文がさばききれなくなりました。(バックオーダーを中止しました)
最後の発送が半年後になってしまいました。
預金残高1億円になりましたが、全額債務の充当に充てざるを得なかった。
何とか生き残っていけるとは思いました。
車両が老朽化していたので伊予鉄道から4両の中古車両を買い付けました。
車両1両が12万円でした。
運搬費が3000万円、ワンマン運転の工事とかで全部含めて、4両で1億6000万円
になりました。
銀行からお金を借りました。

顧問税理士になったのが平成17年で、3年後に取締役に就任しました。(ボランティア役員)
東日本大震災によって隣の旭市で津波で亡くなったり、原発事故で風評被害で銚子市では観光客が激減してしまいました。
平成23年度からはまた大赤字になってしまいました。
資金繰りが厳しくなり、運転資金が厳しくなり、どこかの傘下に入るべきとの話もありました。
何度も取締役会を開いて、最終的には私が一時期社長になるということになりました。
傘下に入るためのハンコを押す係が私でした。
しかしその話がたち切れになり、経営改善計画書を出してくれれば新しい資金も出せなくもないということで、千葉県の中小企業再生支援協議会に飛び込んで、支援を受けながらむこう10年の経営改善計画をまとめました。
銚子電鉄の必要性についても議論をしていただきました。
必要だということで市でも支援をしてもらえる結論にいたり、支援が復活しました。
観光資源としても重要だということで県知事にも陳情に行き、県の支援もいただけるようになりました。
国、県、市の協調補助が始まりました。

一旦私の使命も終わったのでやめようと思いましたが、周りから止められて、1年半かけて運賃改定をすることになりました。(平成27年)
端的に言うと運転手が足りなかったし、私が運転手であるという事は経費が掛からない。
同じハンドルを握ることで社員との気持ちの共有ができるのではないか、線路の状況が把握でする、という事もありました。
筆記試験は一回で受かったが、技能試験は3回かかりました。
一回目は完全な準備不足でした。
二回目は出来が良かったが、一か所だけスピードオーバーでした。
スピードメーターは隠されていて見ることができない、15kmで徐行するところを3kmオーバーしてしまっていた。
事故対応などいろいろな試験もあります。

三回目で受かって感慨深いものがあります。
台湾、香港からのお客さんも多く来るようになりました。
顧客第一主義でやっています。
銚子はさばの漁獲量が日本一なのでさばのヘッドマークとして「3843」と書いてサバの絵をあしらって「さばよみ号」として、「この電車内で歳を聞かれたらさばを読んでください」と書いています。
経営はまだ足元が怪しい状況ではいます。
設備投資、修繕など当初補助は全体で2/3でしたが、だんだん減ってきています。
車両の検査費用1両1500万円が全額カット、県も同様で市だけは1/6を堅持してくれています。
ローカル線の使命は地域貢献だと思っています。
























2019年7月3日水曜日

安倍寧(音楽評論家)           ・ショービジネスの魅力を語る(2)

安倍寧(音楽評論家)           ・ショービジネスの魅力を語る(2)
クラシック以外の音楽、ポピュラー音楽と言われているもの、ジャズ、シャンソン、中南米の音楽など様々あるが、この50年はロックが重要な役割を果たしてきました。
ポピュラーミュージックというものが日本人のエンターテーメントの主流を占めるようになった。
ラジオ、レコード(CDなども含め)も大きな音楽を伝える媒体として無視できない、この二つは音楽を伝える重要な媒体だと思います。
特に1945年以降は音楽が国民のエンターテーメントの大きな流れ、映画と並行してポピュラーミュージックがエンターテーメントの主流という時代があった。
舞台でも全然音楽が入っていないものがあったが段々なじめなくなりました。
大衆音楽が国民的なエンターテーメントの主流になってきて、舞台にも影響を及ぼした。
もともと西洋にはオペラというものがある。
帝劇でオペラを根ざそうとしてローシーがきてやったが、根付かなかった。
浅草にローシーとその一派が流れて行って、浅草オペラができる訳です。
アメリカ映画を通して音楽はシンクロナイズしていた。
チャップリンが有名でした。
マイフェアレディーのピッカリング大佐(軍人で言語学者)を益田喜頓がやったがすごかった。
「益田喜頓」というのはアメリカの喜劇役者のバスターキートンからきている。
映画、舞台の影響を受けて来た。
ミュージカルには浅草出身の人たちが大いに活躍しました。
古川ろっぱ、榎本健一などは浅草出身の喜劇俳優です、こういう人たちが初期のミュージカルを支えていました。
益田喜頓は自然に西洋人になっていたが、無声映画トーキー初期からの時からアメリカの喜劇を学んだ成果なんです。
八波むと志が江利チエミのイライザのお父さん役をやったが抜群でした。
浅草出身でその流れを今辛うじて踏んでいるのが、ビートたけしです。
その前は渥美清です。

越路吹雪は高校の時に見て吃驚したが、宝塚時代から宝塚をちょっとはみ出している(大人っぽかった)といわれていた。
越路吹雪はカルメンをやったが、不良少女のカルメンと書かれたぐらい、宝塚の枠をはみ出していたというのはその新聞批評からも判ります。
越路吹雪は「王様と私」、「南太平洋」などをやっているがもう一つ全体的にしっくりこなかった。
大阪でも「メイム」とかもやっているがスケールがもともと大きい人だったので相手役に恵まれなかった。
ミュージカルをできる俳優が存在しなかったので、喜劇的な俳優を起用することが多かった。
越路吹雪はシャンソンを勉強していた。
シャンソンを輸入したのは宝塚でした。
宝塚ではフランス系のエンターテイメントを輸入していた。
戦後になり、アメリカの兵隊たちが見に来るようになり、越路吹雪はミュージカルナンバーを歌わせたほうがいいんじゃないかというようになる。
進駐軍の兵隊たちが日本ではなかなか手に入らない譜面もあるしレコードもあるので、越路吹雪に届けて勉強しなさいということになる。
ジャズやアメリカのポピュラーソングと越路吹雪の出会いとなる訳です。
越路吹雪には宝塚で培ったシャンソンとアメリカの音楽との二つがあるわけです。
浅利慶太と越路吹雪を紹介して、新しい何かができるのではないかと思いました。
越路のシャンソンリサイタルとミュージカルと二つの花が開きました。
ドイツ、ロシアの演劇を日本に輸入する傾向が強かった。
浅利慶太はそれに抵抗するようにフランス演劇をやろうということで、劇作家のジャン・ジロドゥ、ジャン・アヌイとかそういう人たちのものを紹介した。
私は企画、演目選定、そういう役割をしました。
アメリカではポピュラーミュージックとミュージカルは兄弟のようなものでした。
ヒット曲のもとは実は全部ブロードウエーのショーなんです。
例えばサウンドオブミュージックの「ドレミの歌」ウエストサイドストーリーは「トウ ナイト トウ ナイト」などなど。
劇団四季が転機となったのは「ジーザス・クライスト・スーパースター」
(聖書を題材にイエス・キリストの最後の7日間を描いたロックミュージカル アンドリュー・ロイド・ウェバーが作曲
ミュージカルの流れからすると異端であった。
作曲家の村井邦彦が「ジーザス・クライスト・スーパースター」のことを教えてくれました。
プロデューサーの一人とあってそこから話が始まりました。
ニューヨークで「ジーザス・クライスト・スーパースター」を見て、一言でいうと腰が抜けました。
甘美な作品が多かった中で、ジーザスとユダの関係が凄くおもしろかった。
今までのミュージカルでは題材になるような人間関係ではなかった厳しい人間関係が描かれていて、そこにガンガンなるようなロック音楽が寄り添っている。
音楽もロック的な要素とオペラ的な要素が一緒になっている、すべてが新しい。
日本に紹介するということになりました。(1973年)
アメリカでは正当な芸術は何かというと舞台芸術であるというこ
とです。
ブロードウエー=リジッド(Rigid 厳格、正当などの意味)とよばれている。
ディズニーはブロードウエーに参入したいと思った。
自分たちの作ったアニメーションには全部音楽がついている。
「美女と野獣」の音楽は高く評価され、社長のマイケル・アイズナーが先頭に立って、ミュージカルに参入することになる。
「ライオンキング」(ディズニー作品)の大ヒットがでた。(エンターテーメントの王者と女性の前衛演出家ジュリー・テイモアが手を組む)
新しい要素を入れてゆくことが、エンターテーメントの発展してゆくことの重要な要素だと思います。
話題になっている「ハミルトン」 初代財務長官とラップを組み合わせている。








2019年7月2日火曜日

安倍寧(音楽評論家)           ・ショービジネスの魅力を語る(1)

安倍寧(音楽評論家)           ・ショービジネスの魅力を語る(1)
静岡県出身86歳.高校生の頃、進駐軍向けラジオ放送と当時東京有楽町にあった日劇のショーに接したことで、ショービジネスとの世界に憧れました。
大学在学中から主に内外のポピュラー音楽やミュージカルについての記事や批評の執筆をつづけてきました。
江利チエミ越路吹雪フランク・シナトラなど伝説となったアーティストたちをリアルタイムで見聞きし論じています。
また日本レコード大賞実行委員、審査員を務めたり劇団四季の取締役としてミュージカル公演の企画交渉を担当されました。
現在に至るまで幅広く音楽界で活躍されています。
 
「王様と私」というのは、ブロードウエーミュージカルの歴史の中で古典的な作品になってしまっている。
王様を演じたのがユル・ブリンナー、迫力のある俳優で。
タイ国の国王、時代は1860年代ぐらいの話、ヨーロッパの列強から圧力を受けて開国しなくてはいけない状況だった。
イギリス人アンナが家庭教師としてもろもろのことを教える。
西洋を代表するアンア、東洋を代表するシャム王の対立と和解の物語、リチャード・ロジャースがミュージカルに仕立てた傑作中の傑作、ブロードウエーで上演されたのが1951年(昭和26年)。
「シャル ウイー ダンス」などは特に有名です。
文化の対立と個人の気持ちが引き合うというロマンスと両方が重なり合うその象徴が「シャル ウイー ダンス」。

いろいろなひとがやったがユル・ブリンナーを越える人はいないが、2015年ニューヨークのリンカーンセンターで再演しようということになった。
シャム王を誰にするか考えたところ、東洋人ということで渡辺謙が起用された。
演出家の仕事はキャスティングで1/3~1/2ぐらいは決まってしまうといっていいぐらい。
こういう新しいシャム王像を作りたいという考えがあって渡辺謙を引っ張って、それなりのことが頭の中にあったと思う。
私が見たときには威風堂々としていました。
舞台がそのまま日本に来ることになりました。
オリジナルキャストを呼ぶ。
渡辺謙はその年のトニー賞のミュージカル男優賞の候補になった。
ノミネートされるということ自体が勲章だと思う。

私は昭和8年静岡県生まれです。(86歳)
東京都立日比谷高等学校を経て慶應義塾大学卒業。
高校時代はみんな好きなことをやっていました。
友人の江藤淳はそのころからエッセー、文芸評論、作曲などもしていました。
慶應義塾文学部に進んで劇団四季の創設者の浅利慶太と出会うことになる。
有楽町に日劇があり日劇ダンシングチームがありスターたちが出演していました。
そこに振付家で出演者でもある益田孝さんがいました。
1951年(昭和26年)「王様と私」が上演され他同じ年に帝劇でミュージカルが上演された。
「モルガンお雪」という作品で益田孝さんが振付家で出演もしていました。
モルガンはアメリカの大富豪の御曹司、お雪は祇園の芸者で実在の人物で、恋をして結婚するという話で実話です。
御曹司を古川ろっぱ、お雪お宝塚の越路吹雪が演じました。
僕の同級生たちの日劇ファンが面白そうだから見に行こうということになりました。
一回見たらもう一回行こうということになりました。
これが私の人生を決定付けたかもしれません。

当時アメリカの音楽が入ってきて、ラジオはNHK、FENでアメリカの音楽が鳴っていて聞いていました。
越路吹雪が「ビギン ザ ビギン」を歌っていました。(コール・ポーター作曲)
日劇、帝劇に行くと日本人が生で歌っていて、ラジオで聞いたアメリカの音楽とうたう日本の歌手との出会いがありました。
そういった歌手は進駐軍のキャンプのクラブで歌ったりしていましたが、日本人向けのコンサートをやっていてそういうものも聞きました。
大学在学中に音楽評論家として仕事をスタートしていました。
ジャーナリズムもまだあまり復活していないような時代でした。
段々新聞も復活してきてスポーツ紙が出始め、芸能関係も取り上げられ映画、歌謡曲なども取り上げられました。
ジャズコンサートなども行われたりして、そういった記事も書くようになりました。
新聞記者のかたから書いてみないかと誘われて、大学4年生のころから書き始めました。
美空ひばりは歌詞もすぐ覚えてしまうし、言葉をキャッチする能力があるので、英語でもずいぶん歌っています。

1963年日本で初めての日本語での「マイ・フェアー・レディー」に江利チエミが主演される。
言語学が専門のヒギンズ教授はひょんなことから、下町生まれの粗野で下品な言葉遣い(コックニー英語)の花売り娘イライザをレディに仕立て上げる。
その花売り娘を江利チエミ、ヒギンズ教授を高島忠夫がやった。
江利チエミは下町育ちなので下町娘をやるのにはぴったりだったが、レディーという雰囲気が身に付けられるか疑問視されたが、見事にこなすことができた。
涙涙のカーテンコールだった。

演出家の菊田一夫さんが初めて日本でやろうということになる。
当時ハリウッドで作られた音楽映画がたくさんあったが、音楽家を主人公にしたものが多く歌、音楽が存分に取り入られていた。
比べるとミュージカル運動の先兵だった菊田さんに批判が向かって、何とか日本のミュージカルをどうしたらいいか考えていて、アメリカで当たった作品を丸ごとやってみたらどうだろうということで、昭和38年9月に上演したのが「マイ・フェアー・レディー」ということです。
1965年から毎年ブロードウエーに行っています。(500本以上か?)
魅力は歌、踊り、芝居そういったものが混然一体となっていて、一つの人生模様を描き出す、その醍醐味ですね。