2012年6月16日土曜日

金子洋三(青年海外協力協会会長) ・世界の為に日本の為に出来ること

 金子洋三(青年海外協力協会会長)     世界の為に日本の為に出来ること     
(1947年 - )  広島県広島市出身の福祉活動家
両親は被爆者 京都大学農学部農林生物学科 青年会が気協力隊に応募  
エチオピアに赴く  エチオピアでは天然痘の撲滅のための推進に活躍
帰国後 ジャイカ職員として後方支援して ガーナにも駐在しました 
平成12年に協力隊はえぬきで初めて事務局長に就任しました
平成16年に退団 現在  青年海外協力協会会長として帰国隊員 OB,OG隊員の 力を様々な分野で生かそうと活躍されています
今力を入れているのが国内支援です  
震災の被災地での支援活動が注目されています

協力隊への参加→先輩がエチオピアで人類学をやっていた  
その方に今度エチオピアで青年海外協力隊を始めるらしい 面白そうなフィールドワークが
出来そうな仕事なので行ってみないかと誘われる  
其れがきっかけになりました
天然痘の撲滅活動  エチオピアで天然痘の病気が残っていた  
世界中で席巻して多くの人が死んできた  
60年代に天然痘を撲滅しようという運動が WHOで動きが出てきた  
非常にいいワクチンが開発されてしゅとうをすれば感染しないということで 其れを使って世界中から病気をなくそうという動きがでてその中心になたのが日本人のドクターで有田勲さんと言う方ずっと世界中の国を廻って最後にのこったのがエチオピア 急峻な地形 山岳地帯には道路もない どうしたらしゅとうできるか 

経験した医者が集まってWHO本部を作って ドクターだけではできなくて人海戦術でなければ駄目なので若いひとが大量にいると言うので日本、アメリカ、オーストラリアが手を挙げて 協力隊の派遣が始まりました  
実際には 天然痘の感染率は非常に高いが 其の人に種痘しておけば感染しない  
先ず患者を探す  4人で四国ぐらいの広さを受け持つ
市の立つ場所にいき 写真を張ってあばたの人がいないか聞いて探した(症状の新しいものを探す)
リュックを背負って野宿または農家に泊ったりして探し回った
見も知らぬ人に種痘するのも中々出来ないので徐々に親しくなってから 種痘する様になった
見付けた患者を地図にプロットしてゆく  段々と狭まってくる 
サーベランス コンテーメント 大変だったが仕事に一助 達成感があった    
ガーナにも行く  事務局で後方支援  その後現地に改めて出掛ける   
隊員が危険にさらされるのを防がなくてはいけないので 神経の休まる間が無い
政府も不安定であったので 家から出ないようにとか いろいろ策を講じたりした
パプアニューギニア 一人で赴任した人  現地の先生と2軒で一つの掘立小屋に住んで寝泊りする日本の人は物持ちなので無くなることを心配
隣の内から火事が発生して何も無くなり 茫然としていたら 近くの人達が森に行って木を切ってきて家を建ててくれた 食事の道具だとか暮らしてゆける

道具類は調達してくれた  最初はびくびくして暮らしていたが それが馬鹿見たいだった  
裸一貫になって返って交流することができて良かったと言っていた
現地の人との垣根の取り壊しができた    
現地の人と一緒に働くんだという心構えが大事  教えてやるんだという上から目線は駄目
現地の人が何故この様にしているのかを理解しなければいけない   
日本文化の柔らかさ ゆったりと受け入れてきている 多少変化をさせながら日本の人達に対して 現地の人は嬉しい 
現地のいいところを日本人は受け入れてゆく そこに現地の人は共感してくれる   
日本は国際協力に非常にむいている文化を持っていると思う

日本の大変さと世界の中で大変な国とは数、量ともに違う    
今回の東日本大震災については世界の国から支援があって温かい手が差し伸べられた  
日本が早く元気に成ってほしいとの想い
日本が世界の為になる国だ、なる人達だという事を理解していると思って心強かった
青年海外協力協会は協力隊として活躍して帰ってきて作った団体  青年海外協力隊は国が支援して国際協力するボランティア団体、経験を社会に還元する事を目的にする  
大震災を機に大きなステップを踏むことができた   
少子高齢化によって活力が落ちてきている 

恵まれた自然と環境を若い人の手で日本を元気にする 
そうすることで又海外に支援の手が差し伸べられる
地域の活性化を含めて 故郷新生プロジェクト  田んぼを再生 そこから採れる米をアフリカの持ってゆく
震災復興支援  最初は緊急支援  支援物資の仕分け 看護師派遣 被災地の後かたずけ 等をしてきたが段々と落ち着いてきて 今は 長く滞在してくれるような被災地の自治体の支援  教育、医療、仮設住宅で孤立してしまわないようにサポートセンターを作ってコミュニティー作りをしている  
1年間で300人ぐらい 2週間は泊まり込みでおこなっており被災地の方々から喜ばれる
指示が無くても自分で探してやれる  
よそから来たボランティアの人達ともすっと入ってやれる
それは異なった文化の中で苦労しながら身に付けたコミュニケーション能力があるし 大変な環境の中でも工夫しながらやってきたので1,2週間被災者と一緒に泊りこんだりしている   
誰に言われなくても探してやる  
これは日本のボランティアの凄いいいところじゃないかなと思います
 自分で自分で律しながらやってゆく
      
今後やっていきたいこと3つある  
(1)国内で国内協力隊  国内の社会の活性化に若い人達が貢献する場を作りたい
(2)その中で育って行った人達が又海外で協力できるような大きな循環を作りたい
  是非アジア、アフリカの若い人達にも同じような経験をさしてあげたい 
  ゆくゆくは双方向にボランティア活動をすると言う 双う時代を作るべきじゃないかと思う
(3)もっともっと若い人達にこういった経験をしてもらいたい  

2012年6月15日金曜日

大村智(北里研究所76歳)     ・2億人を熱帯病から守った科学者 2



大村智(北里研究所76歳)・2億人を熱帯病から守った科学者(産学連携が社会貢献をもたらした)
発見した沢山の微生物をアメリカの製薬会社が実用化を図るという産学連携を日本の医学界で初めて行ったのが大村さんです。
大村さんはロイヤリティー収入で、絵の有る病院やコンサートホールの有る病院を作り 地元山梨には山梨科学アカデミーを設立して人材育成や科学技術振興の為に力を注いでいます    

アメリカの大学に研究留学 マックス・ティシュラー先生は新たな学科を設立する スタッフも余り充実はしていなかったが、アメリカのトップクラスの研究をやっているのを見ること出来た 。 
イベルメクチンが出来るずっと前 1971年にアメリカに留学 1973年に日本に帰ってくる。  
日本と文化が違った。 当時日本は発展途上の国だった。 
客員教授の待遇で良かった。(自分の好きなことができた)
コンラート・ブロッホと言って 1964年にノーベル賞を貰った人がハーバードにいて 其の先生にお目にかかることができたのが良かった。
私が持って行った薬の価値が其の先生ならば判るだろうと思って 友達 ウォルター・セルマーという人がいて コンラート・ブロッホ先生が今度内の会社に来るので一緒に来いと 引き合わしてくれた。 
それが本当に良かった、今まで化学、微生物をやってきて 今度生化学(バイオケミストリー)を勉強できた。
これが私のその後の研究の基盤に成ってゆくんですね。  
1年そこそこで7つぐらいの論文を書いた。  
何年いてもいいよと言ってくれたが2年も居なかった。
日本は研究費が少ない。  
アメリカの大手の製薬会社を6つぐらい訪ねて契約をする(3年間8万ドル資金を調達してくれる) 
その後20年続けてくれる、その研究の中にエバーメクチンが入っている。 
私の様な考えで研究費の導入する、特許をどうのこうのと言う様な先まで契約してやったのは無い。(大村方式と言われた) ・・・産学連携 独特の方式 だった。
お金を頂くが、いいものが見つかると特許を取る。  
ライセンスは世界のすべての国のライセンスをお宅に上げますよと、利益が上がればそのうちの何%かは私に返して下さいと ・・・そういった契約を結び、大村方式と言われた。
これは信用です、マックス・ティシュラー先生の元に付いて研究したのが信用を得た。
  
産学連携では覚書の中で、優れた微生物を分離する、分離したものを培養して、この微生物はどういう風なものを出しているかなど、試験管培養まではこちらでやる、施設が無いので動物実験は向こうでやる。(製薬会社) 
エバーメクチン他 10数種類を発見したが、実用化はエバーメクチンだけだけれども研究用に使われる薬はいくつも見付けた。  
身体の中のメカニズムを調べる時に、メカニズムに特定な場所に作用する様なものがあると、其のメカニズムを説明する これがこういう理由でこうなるよという説明できる薬が必要なんですよ。  実際身体の中でどう反応しているのかと言うことが それが眼に見えないから、判らない。  
処が其の薬を使って有る物質が増えてくるとか 減ってくるということで見当を付けてくる。  
科学の実験に使う、これは沢山見付けた。

うちで見付けたスタウロスポリ これは最も世界で使われる薬の一つです・・・研究用薬  
世界で過去20年を調べてみると1年に500の学術論文にこの薬が使われている。
エバーメクチンは農業用  イベルメクチンは人用  トータルすると大変な額になった。  
円高にならなければ年間数十億円の特許料が入った。  円高で1/3ぐらいになってしまった 。
其れを①研究費に使う。  
②北里研究所を通して社会還元しよう、
③人材育成しようとした。   
一つのプロジェクトに10億円かけたものもある。  
エバーメクチンの生産菌のゲノムが如何なっているのか、ゲノムが物質を作る遺伝子をどのくらい持っているのか、そういったものを 片っ端から調べると 30何種類の物質を作っているとか驚きですね。  
今まで一つの微生物が何種類も薬を作るなんて考えても無かった、遺伝子を調べるとによって判った。
その後いい研究であるという事で通産省の支援も有り半額で済む。(でも数億円かかった)
研究所を何とかしたい、北里研究所の経営が難しくなり経営の立て直しをした。
抗生物質は病院で使われている、私の作った抗生物質は病院を作ったと、こういう話をする。

私と契約した会社はもっと儲けている。 
私は発想は良かったが、次の段階でまだくちばしが黄色かった。(当時  相手は専門の弁護士を立てて私が相手をして契約をしていた)
人材育成、 シンポジュームを開く、若手の研究者を海外に送るなど、特許料があったから出来た。  
私のグループで110何名は博士になっている。 27名は大学の教授になっている。 
人材育成ができたのは、産学連携での資金があったから有効にできた。
日本にいたらこのような考え方は出来なかったと思う。
20世紀は科学が最も進んだが、人の気持ちがすさんだように思った。  
出来ることは何か考えたところ病院を作った。 
病院を美術館のようにして、絵を鑑賞しながら診察を受けてもらったら、心も直せる(殺風景)と思った。 
病院の本来の機能については医者に任せて、プラスアルファは私が考えるという事でを考える、先駆けて絵を飾ったり、コンサートをやるフィーリングアートを展開する。 
癒しの空間をつくる。  私は「初めて」が好きなんです、人が考えないことをやる。   
北里に3大奇人がいるか、知っているかと言われるが、どうも其の一人がどうも私の様だ。
昔から絵が好きだった、外国に行くと最初に探すのが美術館と日本食店です。
  
病院の絵の効果として、ある脳外科の患者で重い病気が判っている人が、最後であるこの時期にこんなに絵を見ながら過ごせたのは幸せだったと 言う事が耳に入ってきました。
或る女性が絵を見て、自分は離婚して生活苦で子供と一緒に死のうかと考えていたが、その絵を見てこれではいけない自分も頑張ろうと思った、というような話も聞いた。
「芸術は人の魂を救い 生きる力を与えてくれる」  
アウシュビッツから奇跡的に生還した 医者ヴィクトール・フランクルの言葉 。
まさに私はその体験をしました。
1600点の絵が収蔵されている(北里研究所)、病院に掛け替えている。    
コンサートホールは初期に設計を取り入れてエントランスホール広めに取り、天井は音響効果を考え多形にして、椅子は可動式を用意して、300人ぐらいは入れるホールを作って楽しんでもらっています。

人材育成  子供を育てている、若いうちに(小学校、中学校)育成する必要がある。  
17年前に山梨科学アカデミーを発足させた。
未来科学者訪問セミナー(一流の教授等を派遣) といって訪問する会を作って、育成をする。
大学に行ってしまうと、もう個性化してしまっていてそこに鞭を打っても駄目だと思っています。 
「教育で人を作って 人が日本を作る」その教育するところが おかしければ日本を作る人間が生まれないと思います。 
東京一極はいけない、政治、文化にしても東京だけが肥大化して、そこで育てる子供だけではいけない、地方に多彩な人間が育って来るという風土を作っていかなくはいけないと思う。   
山梨科学アカデミーを作ったのが一番の狙いです。
人材育成はただ授けるだけではだめで、一番大事なことは自分が勉強しなければ駄目。  
子供を育てるには親が、先生がそれ以上に勉強しなくてはいけない。

「正師を得ざれば 学ばざるにしかず」・・・ 道元禅師の言葉   
正師になるためには自分がしっかりしなければ駄目、そうしないと学んだことにならないと言っている。
教わった方は幾つになっても勉強しなくてはいけない。  
年を取ったからもういいよと言う事にはならない。  
北里先生の実学の精神  北里研究所の精神    
産学連携も実学から来ている。  
産学連携はお互いに補完し合う(お互いの弱いところを補う)   
私は研究を経営するといっている。(資金を用意する、 人材育成する、 アイデアを出す)
資金、人材、アイデアを合わせて行かなければいけない、そして社会還元出来るようになって初めて研究を経営したことになるわけです。 
どれ一つ欠けても研究を経営したことにはならない、というのが私の考え です。

2012年6月14日木曜日

大村智(北里研究所76歳)     ・2億人を熱帯病から守った科学者



大村智(北里研究所76歳)  2億人を熱帯病から守った科学者(イベルメクチンとの出会いについて)
(おおむら さとし、1935年7月12日 - )は、日本の天然物有機化学者。北里大学名誉教授。
薬学博士(東京大学、1968年)。
微生物の生産する有用な天然有機化合物の探索研究を続け、これまでに類のない450種を超える新規化合物を発見した 。
夜間高校から研究者に 転じた1974年(昭和49年) 伊豆半島の土壌から採取した土壌の中から牛や馬の中から寄生虫をほぼ100%駆除する物質を発見した。
イベルメクチンと名付けた。  
この薬は犬の病気でおなじみの フィラリア症を退治しただけではなく、人間の熱帯寄生虫病で進行すると盲目になるオンコセルカ症に劇的にきくことも判りました。  
アフリカでは2つの熱帯病を撲滅寸前にまで追いやっています。

オンコセルカ症とは→アフリカとか中南米で蔓延しているフェラリアの病気。  
ぶよが媒介する フィラリアが大きく育ってきますと 幼虫を一杯産む 其れが皮膚に入ったり
眼に入ったりすると 目が見えなくなったりしてしまう。  
80万人ぐらいはかつてはいた 殆ど最近は無くなった。  
1988年から本格的にイベルメクチンを使ってこの病気を撲滅しようという運動がWHOの指導のもとに始まる。     
ぶよがオンコセルカ症を感染している人の血を吸う時 血と一緒にぶよの身体の中に入ってくる 
それが別の人を刺すと其れが20cm、30cmぐらいに大きくなる。
人の身体の中で15~16年生きている訳ですよ。  
雌が何百万という小さなミクロフェラリアというんですが、産むわけです、其れが悪さするわけです。
ミクロフェラリアが皮膚に来たり、目に入ったりして 凄く痒くなる 眼は見えなくなる。 
イベルメクチンを使用するようになってから1988年から 2020年ごろまでには撲滅できるのではないかと予想できるようになった。  
イベルメクチンをはミクロフェラリアを殺してしまう、ミクロフェラリアが人の身体の中に居なくなる状態を作り出すことができるのがイベルメクチンです。  
予防と治療に使える。 
失明した人は救済はできないが 或る地域ではほぼ100%無くなっている。  
現在投与された人の数は8500万人、年に1回飲むだけでいい。 

これがこの薬の驚くべき効果です。   
其の人がフェラリアに掛かっていても他に移すことが無くなる、移す人がいなくなれば患者は段々減ってくるので撲滅出来るだろうと思われている。    
凄い薬です。 
発見場所→伊東市河奈のゴルフ場近辺の土壌から採取して北里研究所で分離している訳です(それまでも世界中の土を調査した) メルクと共同研究した。  
アベルメクチンという天然のものを さらに有効に成る様に化学的に処理をする。  
水素を2つ付けるだけで効果が上がる、其れをイベルメクチンという。
元々は動物用に開発した薬で1981年に動物用に売りだされて 犬、羊、牛、馬等に瞬く間に使われる様になった。  
  
2年で動物薬 売上NO1に躍り出る。  
途中でひとにも使えることが判ってきた。  
WHOとかが拘わってきて1988年に本格的に使用するようになる 医者の関与が無くてもいい薬
一つの部落に700~800名いるがそこの長に伝えて展開するだけで良い。   
ガーナに私は行ったが、子供を学校に連れていくために大きな木の処に人が集まっていたが、そこに集まっていた大人の人達は眼の見えない人だった。
働き盛りで眼の見えない人は働く事ができないので、農業ができないが、今日使われている薬で目が見えなくなる人がいなくなってきて、今では経済的にも良くなってきている。
患者と話をしたときに、薬を飲んでかゆみは無くなった。 
そして自分は眼は見えないが、子供に移すことが無く、子供の目が悪くなることが無いのは非常に嬉しいと語った。
1800万人が虫を持っているが この薬を使って、眼の見えなくなる人はいなくなる。
神様が授けてくれたような発見だった、有効な薬を作る微生物は一つしかない、静岡県伊東市内のゴルフ場近くで採取した土壌から発見された新種の放線菌「ストレプトマイセス・アベルメクチニウス」というこの菌しか作れない。 

世界中でまだ他では発見できていない。
この菌は分けて、菌核を持っています。
2~3gの土の中から発見した。
微生物を上手に分離する方法が伝統的に力があり、それと発生系統を組んだから出来たんです。
1年間に50億~60億円かけて開発してきたわけです。
1975年に菌を発見して 学会で発表したのが1979年 1981年に動物薬として発売した。   
私がいなかったら菌の発見はなかったが、多くの人々の係わりがあり、できたもの。
「求めていなければ 授からない」 勅使河原蒼風のことば  
見付けよう見つけようと思っているから偶然にも見つかる、総合的な人間力ですよ。  
1億人の人に無償で薬を提供しているが、人類の歴史の中で最大のプレゼンテーションです。
或るニューヨークタイムスマガジンの新聞記者が書いているが、数多くの専門家たちがこの薬を人が使える様に持って行って、成功したというのは20世紀最大の発見だと書いている。
皆の力が総合されてこの薬になって行ったが、オリジンは私どもです。
      
土の中に微生物は1億個いる。   
一つずつ菌を抽出して菌を培養して活性が有るかどうか調べてゆく根気のいる仕事です。
動物のお腹の中には虫が一杯いて、餌を与えても太らない、飼料効率が悪い。 
それを解消しようと最初考えて取り組んだ。  
お腹の中の虫がいなくなり、競争馬等の艶が良くなる。
副作用が少量なので無い、疥癬(かいせん)→ダニによって身体に発疹が出る病気だが 
イベルメクチンで一回飲むだけで治ってしまう、皮膚科領域の医療革命だと言われる。
西アフリカ、中央アフリカトータルで20数カ国で使われ、西アフリカではほぼ撲滅状態です。
抜群の効果があり、ほかの19カ国で行われ、其れが最終段階に来ています。
中南米は元もとはなかったが、運ばれてきて、かつては感染していたが、現在は薬の為に無くなってきた。
リンパ系フェラリア症は 83カ国 1億2000万人が感染している。  蚊によって感染。 
リンパ液の流れをストップしてしまうので足が腫れて皮膚が感染しやすくなる。
足が膨らんで履くものが履けない。(3倍ぐらいに膨らむ )
この病気にも効く、アルベンダゾールと一緒に飲むことによって治り、この病気の方が先に撲滅できるかもしれないと言われている。 
2億5000万人の人が使用している。
昔は熱帯地方、砂漠から持ってくるとか出来ましたが、今はできなくなって、日本のいろんなところから土を持ってきて研究しています。
分類でいうと族で言うと13族見付けている(種でいえば50種) 25種類が農薬 動物薬 人の薬
研究用薬として使われている。
 
私は農家の生まれ 長男  後を継ぐのが当たり前の世界だった。  
勉強しないでスポーツ 等やっていた。  
親が大学に行かせてくれると言うので、急に猛烈に勉強して、山梨大学に受かった。  
どうせ中学、高校の先生になるぐらいだからと思って、大学に入ってもスキーだとかに没頭する。  
不景気の時代で就職口が無いので、都立高校の夜間の先生になる。  
昼間仕事をして、生徒が手に油を付けた状態で勉強に来る姿(手を洗う時間も無く)を見て感動する。
一体俺はなにしてきたんだろうかと反省する、もう一度勉強しなおそうと決意しました。  
研究の方が面白くなって、東京教育大学、東京理科大学に行って、山梨に帰って発酵生産学科(葡萄酒の研究)に入った。
微生物の勉強もできたために良かった、科学と微生物の研究をしたいと思った。 
北里研究所に入る(大学出てから7年経った)

最初北里研究所の歴史から勉強した。   
学者と言うのは研究して自己満足しているようでは駄目だと、なるべく実地に応用して世の中の役に立つべきだと 北里先生の考えだった。
北里先生は世の中に貢献しようと考えた、破傷菌の純粋培養と破傷風の予防を考えた。
血清療法を開発する。  
歴史を勉強すると明日が読めてくる、歴史は明日を語る。    
歴史を勉強して研究所の存在意義が判る。
人に役に立つというものを見付ける、工業的に使う薬を6つは見付けた。 
7つを見付けてやろうと思ったのが部屋を構えた1,973年 アメリカから帰った年でした。

八木澤 守正先生から 少し世の中を見てきた方がいいとサジェスションを貰ってアメリカに出掛けて 廻って留学を決意する。
手紙をだしたがマックス・ティシュラー先生から真っ先に返事の手紙が来るが、他からも5通来る。他にくらべて年俸が半分も無いが、安いところには何かあると思って行った。 
其の先生はあっという間に、アメリカの化学会の会長になってしまう 。
忙しいので先生がやってきた仕事を任され、学生の面倒を見てくれ、金はどんどん使ってもいいと言われて、1年間アメリカに居るが、日本から帰って来いと言われる。



2012年6月13日水曜日

三木卓(詩人、作家77歳)     ・我が人生の出合いと別れ 2



三木卓(詩人、作家77歳)   我が人生の出合いと別れ
アーノルド・ローベルの作品 翻訳 40年になる  小さい子供向けだけでなく広い層に読まれる  
文章自体は短い 
今学校の先生が子供のころ読んだとか言われることがある  児童文学とは大事だと思う
小説 「震える舌」 映画にもなる  娘が破傷風になる(実際に有ったこと) 
 爪を噛み指をかむ癖がある そこから感染してしまったらしい
映画を実際に見て 映画は実際に派手になる  映像は強いですからね  
子供の頃から良く病気になっているので病気に対しては過敏に成っている

父親の仕事の関係で大連に行った 大連でじゃんじゃん病気をしたんですよ  
腸チフス 4歳でポリオ (左足にまひが残る) 当時満州ではポリオがはやっていた
両足ともに麻痺して全然歩けなかった リハビリをやってようやく歩くことはできた  
体操の時間が辛かった その後ジフテリア 中耳炎 敗血症 はしか
敗血症は凄かった 高熱で意識を失いましてね 母親の血を輸血して貰って助かったのですが 体中の皮膚が剥けたんです(熱の為に上の皮膚が死んでしまった) 
意識がほとんどなかった 小学校に入る前だった    
日本が戦争に負けて 其の時にしんきょうに居たが、其の時に父親が死んでしまう
母親と兄と祖父母で帰ってくる予定でしたが、今は全員いなくなってしまいました  
厳しい処を脱出してくる

夕焼け色の風景 木のざわめき 目に浮かぶような世界がある 
小説を読んでいると書いていると当人は判らないのでその様に読んでもらえると嬉しい 
心筋梗塞で大変な手術をする 1994年1月 58歳の時に渋谷で起こってしまった  
身体が曲がってしまう 心臓あたりが押されて 重苦しく物凄い力がかかってしまい
動けない感じ ただ事ではない 救急車は入ってこられない タクシー乗り場に行ってタクシーに乗って一番大きな病院を指定 病院の当直の医師が循環器系の医師であった  
直ぐに調べて皆を呼び寄せて 心臓を開けて詰まっている処を直してくれた 
こんな晩は無かった
 
いろいろな判断がすべて旨く行った状況だった  心筋梗塞は急に起こる  手術は意識がある状態だった 中途で意識が無くなり蘇生処置をしてもらい意識回復した
冠動脈3本有るが3本共に駄目だった  
自分の静脈を使って動脈手術もする(拒絶反応が無いので) 今は心臓を止めて手術をする 当時は心臓を止めないで手術するが、手術自体が難しい  
生きられるかどうか判らない中、自身を納得させていた
 
小説にも詳しく書かれているが 人間の幸せとは 不幸は 人間が生きている意味とは  急にシャッターが急に降りてダーンと落ちて明日があると思ったら  目の前に起きた  
そうすると生きていることに対する考え方が相当替わってくる 
後一年余計に生きることがそんなに意味があるのかとか  
5年生きることが意味があるのかとか そんなことが思いだします
入院生活 自分が裸になってさらされることなんです   
日赤に行った時に すっぽんぽんになり 俺はいったい誰なんだと 思う

病院は閉鎖社会  無事に生還した其れが3月 お彼岸が来る おはぎを食べるが、これがお供えるのとは大違いな事
手術をしたのは自分の静脈なので動脈よりも弱い 
5年持つかどうか判らず、仕事を早くこなさなくてはいけないと思った
少しでも時間があれば人間とはあさましいもので一生懸命作品を書いた 
中国から引き揚げてきた時からの自分の自伝を2本書いた
昭和20年代の事を子供の目で見たらどうなっていたのかを書いておきたい 
高校卒業までを書きたいと思った

静岡での暮らし  余りに水道の水が綺麗なのには驚いた
(引き上げて来てから  日本の水は素晴らしい)  感動を書いておきたかった
親等を厳しく見る目が有った  ソ連から追いかけられて大変だった 42歳で父は亡くなった  無名であったが父は詩人だった 草野心平さんの仲間だった
詩を書いて生活は出来ないので友達に呼ばれて大連に行った  
あの頃の日本人は良いものを食べることができなかった
父親が宮澤賢治が好きで話してくれた

5年が限界かと思っていたら18年になってしまった  
しかしもう冬になると具合が悪く 糖尿になってしまっておりその治療をしている
今は本を読む時間と音楽を聞く時間が多い 書く時間は3時間ぐらいが多い方で 1時間30分ぐらいやると今は良くやったなあと思う
今書かなくてはいけないテーマは→今は余りない これから生きて行く時間の中で生れてくるもの 生成してくることとかそういうものに対して自分が何かをつむぎだすか
という事になるかと思います   
だから鍾乳洞でポタンポタンとおちて来るのを待っているという 其れが一番いい作品になるのかと思います
一杯になるまで生きていれば又何か書けると思います
小説『馭者の秋』平林たい子文学賞 小説『小噺集』芸術選奨文部大臣賞 小説『路地』で谷崎潤一郎賞 小説『裸足と貝殻』で読売文学賞
『北原白秋』で毎日芸術賞、藤村記念歴程賞、蓮如賞

2012年6月12日火曜日

三木卓(詩人、作家)       ・我が人生の出合いと別れ



三木卓(詩人、作家)   我が人生の出合いと別れ
新聞記者だった父に連れられて一家で大連に移住  
敗戦で引き揚げを余儀なくされ、帰国途中で父、祖母らを亡くす
帰国後は静岡県に育ち、母子家庭の貧困と左足の障害に苦しみながら、静岡県立静岡高等学校を経て、早稲田大学文学部露文科卒業
出版社に勤務しながら詩を書き始める  詩集『東京午前三時』でH氏賞  
詩集『わがキディ・ランド』で高見順賞  「鶸」で芥川賞
平成17年妻で 詩人の福井桂子さんを亡くしました   「K」を発表  出合いから別れまで 
価値観の違いの男女が家庭を作る難しさや 年を取って伴侶の病気や死とどう向き合ううか
という内容について伺う  

亡くなって、最初の1,2年は帰ってくるんじゃないかと思っていた  
原稿のかきかけのものをどうしたらいいか判らなかった
「K」と言う小説を書く  ある程度書けるようになって来るまでに2年半掛かった  
夫と妻の関係であり 詩人であるので そうするとこの小説の一番近くに居た人間の
証明にもなるので 後で福井桂子の詩を読む人は必ずこの小説を読むに違いない 
そう思うと 少しかっこ悪いことでも特徴的なことを書いておかなければならないと思った     
福井桂子の評伝にもなっていなければならないし、夫のボヤキにもなっていなければならない  
題名が「K」余りない題名  自分の奥さんと言うだけでなく 詩人であるので 自分と切り離して客観的なものとしてみなければいけない
彼女がKと名乗っていたので24歳の時に 1959年に出合った   
私は引揚者の母子家庭であった  相手は幸せな家庭生活を営んでいた様に見えた  
2度目に会う時に中野のプラットホームで待ち合わせたが、かなり遅れてきた  
国立に私はあばら家に一人でに住んでいた(押し入れにタケノコが生えて来た)

そこに今夜泊めてくれと言われた  驚いた おたおたした  其の晩に来てくれた 
(持ってきた風呂敷堤には洗面器と歯ブラシが入っていた)  覚悟があった様だ
掃き溜めに鶴と言った感じだった 一生恩に着るという借りが出来たようなもの  
それまでは女性には常に振られていた
最初に月給を貰って渡した  
月末になってこずかいが無くなったので欲しいと言ったら「ないよ」と言われてしまった
あれ くれたんでしょう 私 洋服買っちゃったわと言われる  愕然とする 
彼女も出版社に勤めていたので給料を知っているはずなのに やりくりするという
気持ちは無かったようだ  
彼女の故郷の家は立派な商家なんです いつも金庫から必要なお金は自由に使える環境だった
夫婦は全然違う育ち方をしているから、たいていは思い描いた夢は現実ではなくてお互いにどう歩み寄るかと言う話になりますよね  普通はなるんです
どうもなかなかそうは成っていない   会社を辞めたくて、辞めたくてしょうがなかったようだ   自分を全体的に支えてくれる 
物心両面含めて そういう存在に見えたのではないかと思うが 物の方は貧弱だった  
お金に関しては彼女は非常に楽観的に思っていた (いつも何とかなるんじゃないかと) 

二人ともに詩人  詩を書くというのは非現実的な人間がやることなので其れが二人いるという事は二人とも非現実的な人間がいるという事になる
最初の頃は彼女は詩を書かなかったが段々と書くようになった 
私も小説を書くようになったが、当時は4畳と6畳の団地なんです
音は抜けるし その中で書くのは相当なプレッシャーがかかる  
サラリーマンから文筆活動一辺倒になる  彼女も詩を書くようになった  
詩について批評をしたら激怒する  私は散文的な詩  彼女は内容が飛躍する詩  
軽い気持ちで指摘したつもりであったが 以後 指摘しなくなった

小説を書くように部屋を用意してくれた   
そばに居られたら厳しいとの思い(小説を書いている人間は加害者)
それぞれの暮らしをする様になる  
妻は自分の考えを変えるような人ではなかった(或る意味純粋 一面我を張る)
生れた子と一緒に生活するようになる  病気をしたのを知る(娘から電話が掛って来た)   
夫婦をやっていけるか疑問を持っていた頃のこと発見が遅くて手術しても再発する状況だった 私自身が先に行くものと思っていた(女性は長生きするし 彼女の母親も長生きだし 
私は病弱であったし、心筋梗塞 を58歳でやっていたし)  逆に成ってしまった 

妻は癌だった    先生がそれとなく言ってるが絶対に受け止めなかった 黙っていた  
大事なことは人には言わない人だった   
彼女の兄が亡くなった時も全然おろおろしなかった  
3年ぐらいしてから 兄を思い出して寂しかったと言った
いうという事は或る程度解放された事  或る意味水臭い人ではあった  
私癌なの? と言ったのは再発した時だった(2年数カ月たった後)
判っていたはずなのに云わなかった   声の掛けようがなかった 困った   
そういう気持ちの有り方が彼女の詩を書く時の詩に向かっては表現出来た気持ち
というものはあったと思いますね   
立ち向かう姿勢は詩を書く時もそうだし、日々の暮らしの中でもそういう信念を貫いた 
145cmと身体は小さい

2度目に手術をした時には25kgぐらいしかない 如何に身長が小さいとはいえもう限界ですよ 恐ろしい  頭の判断力も限界に来ていたものと思われる
脳へ転移して お腹 脳 と手術をする (2週間で)   治療とは難しいと思った  
抗がん剤も厳しい  流石に其の時は参った  
手術を終わって何とか大丈夫だと9時ごろ判って 子供と二人で街に出て夕食を食べたが 
ビール飲んでて凄い感じに成ってきてワーワー泣いてしまった
一種の錯乱状態 です 自分でも不思議だった (こんなに成っちゃっている俺)

20年一緒に生きているそんな女性は他にいない  結局この人と一番深い関係を結んでこの世を生きてるんだなあと いいも悪いも無い この人しかないんだなと
元々は他人ではあるが だけどどっかで分かりあえている部分 とか互いに影響される部分があって そういう関係は一人としか結べない 良くも悪くも
思いやりがある人間とは思っていないが この人はここでどうしてこう存立しているのだろうか 
という事は知りたいと思った 
 
どうしてこの人はこういう形であってこれがこの人にとって掛け替えの無い存在の形であるという ことを知りたいと思ったんですね 
其れがこの小説の基本的なドライブしてゆく力になったんだと思います
妻の詩集を纏めた  これは義務だなと思った  
この小説を彼女が読んだら 怒るだろうと思う   
身体が悪くなってお互いどういう風に夫婦はいたわって助け合って暮らしてゆくのだろうかと難しいですね  
やっぱり病気とかシリアスな問題と言うのは 離れるようにはしない  
其れがむしろ一つの縁と言うものを強めると言うのか、そっちの方に必ず働くと思います
人生のシナリオを考えてみた時に こうなってゆくのは自然の終わり方だったのかなあと 
夫婦生活としてね 自然の終わり方だったのかなあとこの頃思います

2012年6月9日土曜日

カール・ベッカー(京都大学教授61歳)  ・理想の終焉を見つめて

カール・ベッカー(京都大学教授61歳)  理想の終焉を見つめて
(BECKER, Carl B 1951年 - )は米国の宗教学者。専攻はターミナルケア、医療倫理、死生学、
宗教倫理    『死の体験―臨死現象の研究』
宗教学 倫理学 が専攻   1974年に来日 40年近くに渡って日本人の死とのかかわりを
見つめてきました
日本はどこの国よりも人口密度が高く 資源の無い島国ですから 中国の倍ぐらい本来なら
日本人は努力しないとこの国の生活を支える事が出来ない
本来なら日本人が限界を痛感して頑張ってこれだけの文化を作ってきたのに 最近の日本人が
労働したいとか頑張りたいという人が少なくなりました

つい数十年前までは在宅で畳の上で看取った慣習がありました
処がバブルで裕福になった時点でどんどん皆が病院に送られて看取りすらしなくなって
 死は何であるか判らなくなります
そうすることで死を一番恐れ無い国から一番死を恐れる国に転じている  
死についても目の前の死は悲しいとか 大往生とかの感情はあっても怖いとは思わない
日本人は今死を恐れてたり怖がったりするのは死を看取れ無くなったからだと思います
以前は大家族で暮らしており 其の大家族が看護をして看取りをしていた 
子育てをするのは親じゃないんです 20~30台の世代は田んぼで労働したり
漁業で労働したり労働力となる 
 
誰が赤ちゃんの世話をするかと言うとご年配の祖父母なんです 世間社会のルール言葉の
使い方から伝説や文化まで身につけている
おまけにご年配の時間観 が若い子の時間観に妙に合っている 
処が10年もたたないうちに50~60代 その自分のおかゆを食べさせてくれた
おしめを取ってくれた方が逆に 死に向かうわけです  
其の時の伝統的な社会で介護するのは親ではない訳です 親は30代で元気に働らかなければ
いけないから 働いている親は介護をする時間が無い訳です  
10代の若い人達が今度お爺さんのおかゆを食べさせておむつを替えて 若い人達が
お爺さんを看取るわけです  目の前にさっきまでありがとうと言ったお爺さんがもう二度と
しゃべらなくなるとその死の深さを一生忘れないと思うんです
いなくなる深さを感じてしまうと嫌な相手でも死ねとはくちでは出せませんし  
処が今若い子たちが中学校 高校に行くころは何万回の鍵かっこの死を
漫画、ビデオ、ゲームを見ているにも拘らず それは嘘の死なんです 

痛くもかゆくもなく 悲しくも無い リセットボタンを押せば又生まれ変わるような嘘の死なんです 
本当の死はもっと深くて考えさせてくれるようなものなんです
日本には素晴らしい死の作法や伝統があったのに、ついバブル以降それを見失って
いるんじゃないかと思います
死は限界を感じることと同時に未来を考える事です 老病死を経験することが絶対に大事 
核家族、片親の家族では時間が無い為に其れを教えられない
其れを学校で教える時代になったのではないかと思う  どのように亡くなりたいかを考える 
自分で老病死を考えなくてはいけない時代になっているのにもかかわらず 何をどう決めていいか
判らない そうすると死は長引くなるだけでなく 国の大変な資源
財源などを食ってしまうわけですから場合によっては本人が欲しくはない形にもなりかねません
事前に其れについて考えて 其の心の準備、手続きの準備をしておけば絶対科学や英語を勉強
するよりも役に立つと思います

いずれは老病死は来るのでそれを意識することによって自分の生き方 限界に向かって如何に
生きてゆくか 懸命に生きなければならないという事に繋がって来ると思います
大きい力の強い恐竜が全滅してしまった  いつ人間も全滅してしまうか判らないと思うようになって
  一体どうやって生き残れるのか 別の次元で考えるようになった 
宗教や哲学は日本ではなになに宗なになに派と考えがちなんですが、私はむしろその根源にある
価値観 心のよりどころ 何を深い意味で信じるべきかどうか
という事に関心を持ち 広い意味で宗教に関心を持ち 哲学を勉強し出したのです
日本の仏教や生き方について判る様になりました(ハワイにて日系人と接して)
末期を看取った場面に接した(日系人の)  どうしてやるべきことを済まして他界出来るのかと
吃驚した  感銘を受けた 文化的側面等日本に興味を持った
理想的な伝統の死  潔く納得出来る様な人生を全うする様な 死に方だと思います  
やるべきことを残さず名残を惜しまず 廻りに迷惑を掛けない死に方でも有るわけです

一遍上人が亡くなる時にいろいろな書物や弟子たちの集めてる本を燃やさせる  
自分のものに束縛されたくない 人にそれ以上自分の名残を惜しんでほしくない
という思いもあったと思う  穏やかに亡くなる時に亡くなった   
心の中で準備ができているかどうかだと思う 
死が決してすべての終わりではないことが判っていたのではないかと思う  
物質だけを見ていると死がすべての終わりのように見えるかもしれないけれども
生きていることは精神 心 魂を中心にするものであると判っていれば 身体が亡くなったと
言っても精神 心 魂が亡くなるわけではない事を昔の人は知ってたんです
日本の死についての生活習慣は70年~80年代 死の観察をしている時に 一時馬鹿にしていたと
きがあった なんで食べ物までお墓に供えるのか
なんで儀式、法事などをなんども行うのかと 最近見直され始めた 
変化が生じたのは日本のお陰なんです

20年前にデニス・クラスというシカゴ大学出身の宗教心理学者が来られて 日本の家庭を廻って
 お仏壇とか祭壇とか先祖の写真等を見る
何に使うのかを聞くと 朝に行ってきますと言って 夜にただいまと言って 水やらご飯やらお酒を
捧げて 大事な事の時には仏壇に向かって相談する
静かに心の中でお父さんやお婆さんの態度や声が見えてくる  
仏壇 祭壇に向かって旨く行ったらありがとうと言う  これを見たクラス先生は眼から鱗だと言うんです
アメリカ人はまるで前の世代が無かったかのような振りをさせられて独自で 自分で
考えなければいけないと言われるんですが、折角 父母 祖父母の生きざま
知識 声なども知っているのだから 其れを心で聞いて其れに基づいて生きるのが文明ではないか 
(続く絆) 

心の中で祖父母 両親の生き方 アドバイス が聞けるということは 人類にとって貴重な資源で
あり知恵であってこれはむしろ我々が変えないと損だと
アメリカ人もヨーロッパ人も思っていたけれど口に出せなかった  日本人は羨ましい 
なぜなら 日本人はすでに其の慣習があって その場(仏壇等)
其の心の定め方を判っているから もっとわれわれは真似しなきゃ 
西洋 東洋を問わず大事な人に死なれてしまうと色んな不幸が襲ってきます
例えば事故、病気、精神異常(自殺等を含め)起こりやすいんです  
免疫力の低下だとか 精神統一不足で交通事故を起こしたりする
日本人はそれをたたりだと言っていた  たたりなどを信じてなくても 欧米では日本人の慣習を
マネしています

或る病院で患者自身が長くないと判った時点で毎月のようにパーティーを行います  
飲んだり食べたりして泣いたり笑ったり黙ったり握手したりして
そして本人がいなくなった後からも同じなかま家族を呼び寄せて 月数回ほどその儀式を続けます 
其れはどこからきているかと言うと日本の宗派でいろいろ違いますが
例えば初七日  49日 初盆  定期的に親戚 友人等を集めて一緒に笑ったり話あったり 
泣いたり 亡き故人を思いだすことによって
心の整理 精神統一が出来て其れによって 昔でいう たたり 今でいう免疫力低下 或は
鬱等を避けられて 旨く出来ていた
儀式は単なる儀式ではなくて 本当に機能的な意味があったわけでして お墓やお仏壇を通じて 
先祖様の知恵を借りることが日本人の知恵の一つであって
繰り返し集まって亡くなった人を納得するまで冥福を祈る事も日本の知恵だったと思います
日本への興味は→精密で正確で 一つの事を完成させるのにこだわりを持って誇りを持った
職人芸がいたるところで感じました

どれだけお金になるかを考える前に どれだけ綺麗な画像を作れるか どれだけ綺麗な音を
出せるか どれだけ完璧なものを作れるか という其の態度が
日本人が素晴らしいと思う一つは その金持ちになったからではなくて 根性 綺麗なもの 
素晴らしいもの 其の完成まで運びたいという其の精神が素晴らしい
自己宣伝をしないと誰も見向きをしないアメリカと(お茶が欲しいと表現しないとお茶は来ない)
お互いに気配りをする日本社会(急須を見ているとお茶を入れてくれる) 
を比べてみると日本の方がはるかに大人の社会です   
大学だけが理想であるアメリカでは中年から晩年までは自分が負け組になってしまう  
日本では体力ではなくて 芸 美 人格 精神力にウエイトを置いていた
芸 美 人格 精神力に価値を置いている限り いくら年をとっても自分を磨く可能性が残っている
例え体が丈夫でなくても人にどういう言葉で訴えたらいいのか、心で考えて次に会う時に
伝えればそれも一つの美的瞬間として相手の心に残ります

そこに日本の素晴らしい文化が表れているのではないでしょうか
今の日本人の死に方の理想は→現在日本人は畳での生活をしている人が少ないのにも拘わらず
 畳の上で或はベッドの上で死にたいというのが圧倒的に多い
多くの人が鳴き声を聞きたいという 虫の鳴き声 鳥の鳴き声などでありまして 見たいものと言うと
 青空 緑 或は川 山の自然光景がみたい
ではそういう最後をどこで過ごせるかと言うと病室ではありませんよね  
末期を在宅で過ごそうではないか  家族は我々がお世話できないという
実は全世界が日本の高齢化対策を注目しています  
日本がどこよりも早く超高齢化社会になってゆく
日本が旨くマネージメントし 運営できるようであればよし 日本型で行こうと思っている 
逆にお金をつぎ込んでも問題だらけであってしまえば
日本の失敗例をまねせずに独自で考えようという事になります

旨く行くために病院を増やすという選択肢はありません  財源的にも人材的にも資源がありません  
お互いが理解しあえる 助け合える 絆を今元気なうちから
作って行って、頼れる様な共同体、コミュニティーを考えて行かないと間に合わないと思います
日本人が持っている繋がりや絆やいたわりを意図的に繋げることによって超高齢化社会を
運営できるのではないかと思います
私の理想的な死は→周囲を視野に入れた死です  周囲に迷惑を掛けない死です  
物質的な準備と精神的な準備が必要に成ってきます
物質的な準備には事前要望書や 尊厳死宣言が必要です 
 一度でいいから其れを決めておきたい  自分の代理人決定をしておく
自分の財産についても ものについても 墓についても準備しておきたい
  
其れを済ましたひとでも生きているので毎日生きてゆく為に 潔く死ぬために 
可能な限り お世話になる人にお礼を言って 言えない時にはせめて心の中で其れを念じて 
許される限りお詫びを伝えて 望みを出来なかった場合は心のなかで
ごめんなさいと言う気持ちを思い出したい   あるがままを受け入れることが大事に成ってくる 
精神面になると如何に素直に与えられたものを受け入れるかという
側面になってくるかと思います   日本人は良く私に対してどの季節が一番好きかと聞いてくる
んですが 今日が一番好きと答えれば私が一番幸せなのです
暑い日でも学ぶことがある 寒い日を耐えても受け入れることがある  
有るがまま受け入れる心も日本人の宝の一つ 
突然亡くなる人  事故 病気 津浪 地震等で亡くなる人もいる  
 
一見 死や行方不明に見える出来事が 永遠の別れではなく あくまでもこの次元の
別れであって 別の次元で精神同士が再開できるという希望も日本人にはあったはずです  
其れを失っては震災や突然死は凄過ぎてむご過ぎて受け入れる余地が無い
何で10歳20歳で亡くならなければいけないのか 深い悩みが残ります 
人間だけでは説明がつきません
何日生きたかよりは其の生きた人生の中で何を分かち合えたのかと言う事と 
これが最後ではないんだ まだまだ別の次元にあるんだという其の知恵が
日本人を支えてくれたのではないか  
これからの生きかたをどうするかと考えると其の亡くなった方を忘れないことに学びとれる余地を
残せる訳です
日本に教わった知恵だと思います  

理想的な死を見つめながらどう生きて行ったらいいのか→結論的には物より精神 量より質 
物体より心の方が大事だと宗教はそれぞれの言葉でしゃべっていると思う
そのためにはどのようなことを心がけていったらいいのか→我々がブータンを見ると一見物質的に
乏しい 貧しいかの様に見えるかもしれないが 輝いて見える
其の輝きは年配の日本人には懐かしいと言われます  子供の頃有った記憶です  
其の輝きはものに偏らない幸福の有り方だと思います
実は其の幸せ感が日本の末期患者が教えてくれるのと同じです 
長いこと寝たきりになって動けないことになると 自分の人生を振り返ってみて
なにが良かったのか悪かったのか どこに価値があったのかと 或る意味で哲学者になってくるんです  
末期患者が語るには肩書 名声 偉く認められたときが
一番人生で良かったという人が以外と少ないんです
  
むしろ一緒に何かの催し物に汗を流した仲間と一緒だったときとか 好きな人と一緒に夕焼けや
音楽を聞いたときとか 山登りをして山と空気と一体感を感じた時 
そういう聖なる特別な瞬間を最後まで評価されます
この一瞬を大事にする知恵を日本にはあるんです 
我々の幸福が右肩上がりがあるなんてありえない  資源の限界 財務の限界 人生の限界
様々な限界がある  
右肩上がりはあり得ず むしろ聖なる瞬間を如何に魂に刻めるかが課題だと思うんです
今日一日の内に 一つ二つ 願わくば三つぐらいの輝く瞬間を心に刻めたら本当に良かった日だと
思います

逆にしまったと思ったことがあれば、其れを布団に入った時に反省して 死まで待たずに今のうちに
直したいところでもあるんです
死を視野に入れて初めて今日一日大事に生きようではないかという気持ちと同時に最後までの
生き方を考えさせられて むしろ前向きに積極的に 一瞬たりとも
大事にして生きていたくなるのではないでしょうか  
死を考えることによって生きかたを考えさせられますし 死が全ての終わりではないにせよ  
この身体では2度とやれない今日一日ですから 其れを大切にするために限界を考えることが、
きっかけになるのではないのでしょうか

2012年6月8日金曜日

寺内 タケシ(ギターリスト 73歳)   ・生涯現役サウンドの秘密 2



寺内 タケシ(ギターリスト 73歳)   生涯現役サウンドの秘密
父龍太郎は土浦市議会議長   母初茂は鶴岡流小唄と草紙庵流三味線の家元  
5歳のときよりギターを手にした
73歳   昭和37年に寺内武とブルージーンズを結成して 国内外でのコンサートやレコードCDの収録など音楽シーンの最前線で活躍してきました
60歳以降での病気との闘いや70歳を過ぎても現役として活躍し続ける秘密をお聞きしました
教育委員会がエレキギターの禁止令を出してエレキギターがピンチに陥った  
其れを救ったのが寺内氏の母校の校長先生 何とかスクールコンサートを開催する事ができた
熱気があった(皆ががんばれ頑張れという感じだった) 民謡とクラッシクを演奏したのが良かった 
徐々に考え方が変わってきた  いこじになっていた   1974年から1500校を超える学校の演奏会をやった  バスとトラックで廻ったが地球7周分の距離になった
バンドにとっては赤字では有ったが(スクールコンサート) 一般コンサート 5000円~1万円 同じにやった 北海道の学校 男子はズボンを下げて尻だしルック 女性はマニュキュアしている学校で修学旅行はどこに行くのか聞いたところ 東京都の事そんな恰好で行ったら みっともない
 もてないぞと もてる方法を教えてやると 学らんはオリジナルが最もかっこいい  
女性もピシッと制服を着た方がもてる  
お前らはもてない いざ さらばといって帰ってきた(コンサートの最後に)  
40日経ってから校長先生から手紙が来た 巻紙であの3分間の寺内さんの話で今40日経ちました
一人もいなくなりました 頭の毛やおかめんこ見たいなのが全部黒に染め直して 驚きました 服装も全部 オリジナルに戻りました 一人もいない  子供達も言う事を聞くものですよ   
出来る科目を夢中でやれとかいろいろ話をしている  自分の子供だと思って話す  
(学生たちはちょっと上の先輩だと思っている)
子供の頃から空手をやっていた 大先生でも 先輩でも 試合になると兄弟のようになってしまう 長崎でサッカーの強いところがある  寺内の言う事を聞けばサッカーで絶対に優勝できるぞといって実際に優勝してしまった 
其の監督が校長先生になって    3年に一回ずつ家に呼ぶが大赤字  それでもいい    
全て収録 7500曲   津軽じょんがら節が重要な位置付けとなっている 
日本の民謡が危機に瀕していた時だった 民謡大百科というLPを出した 
一番面白かったのが この津軽ジョンガラ節だった  何にもない テーマが 全部アドリブ  
津軽に浅瀬石 ( あせんし ) 川があって そこの集落は幸せに暮らしていた  
そこにお殿様が蝦夷征伐ということで入ってきて 断罪になったり さらし首になったりしている
其れをしのんで 浅瀬石川の上の河原 じょうがわら(上河原)で上演供養が始まった  
言葉があったからみんなやられてしまう
そのうち言葉が消えてしまった三味線の曲弾きになってゆく これが供養の音楽だったんですねこれを「じょんから」「じょんがら」とも土地の名前で言っている
これは面白い曲 その都度引き方が違う  

大腸癌、肺気腫、心房細動 この三つをたて続けに60歳を超えてから病になる いい経験だった 15cmを大腸を切断する  
手術室に入って音楽をリクエストするようには成らないのだろうかと言った  
自分が絶対治るんだと思ったら 治る    手術で鼻にチューブをされてしまい呼吸がやりにくいのを呼吸法を考えて譜面にする 呼吸が楽になった    (ワルツとか)      
人生観の変化は→ あまり変化はなかった 60歳から70歳への月日はあっという間に来てしまう
150回/年 現在でもやっている   秘密は?→判らない  判らないから面白いのかなあ  
迷いに迷って導きだされた言葉は(寺内が寺内に対して)
「ギターを弾かなければ音は出ない」 これだけ判った  のうがきを言っても駄目  
「備えあれば憂いなし」と言う言葉があるが「備えあれば嬉しい」
機材からギターから全部備えあれば絶対嬉しく弾ける     健康もそうですね 
きちっと運動して 食事もいろんなことを考えながら適正な食事をして    備えあれば嬉しい   「ギターを弾かなければ音は出ない」  
 
最近は練習をしないそうですが→ギターに触って練習をするのか ギターに触らないで練習をするのかという問題ですね
触らない方が効率がいい 引きたくて弾きたくてしょうがない  弾いた時に瞬発力が出る 
我慢して頭の中で考えて  其れがいいと思う 70歳になってから
楽しくてしょうがない そのことが   サウンドが違ってくる   これで死んでもいいやと 思うくらい嬉しい
「青春へのメッセージ」 寺内 タケシ 作詩 作曲