2011年9月8日木曜日

大塚笑子(朝の読書・理事長)    ・朝の読書で心を育む

大塚笑子(大塚笑子(朝の読書・理事長)     朝の読書で心を育む   
朝の読書 始めて23年   
授業が始まる前の10分間を使って、生徒も教師も自分の好きな本を読む 
毎日 感想を求めない 漫画、週刊誌は読ませない
自分で選んで来る 最後まで読み切れるような本を選択する
林公先生が最初提案 心がすさんでいるのを何とかしたいと考える 
米国でベストセラーになった「読み聞かせの本」が有った
職員会議にかけたが、不賛成の先生が多数あった( 国語との関係) 
朝の読書を実施する 8:25から10分間  
当初時間には来ない人がいたが、静かに本を読むように指導する

読後の伝達は落ち着いた中で出来るようになった
突っ張る子がいるが漢字が読めないと云われひらがなを振ってある本を選択して読ませる
突っ張っている子、勉強が出来ない子等は成績が良くなりたい、先生に認められたいと思っている
高校生ぐらいだとなかなか読む習慣がないが漢字を読めなかった生徒も初めて最後まで読めたと感動する
朝の読書は和やかで楽しい状態 雰囲気が出てくる 
家庭のいろいろなことをみんな引きずってくる それを癒してくれる
「あこがれ」学級通信 毎日出すようにした  
月に3回同じテーマで書かせる 友達の考え方も判るし、学校の考えも判る 保護者が読む 
 
いじめはまったくない 文章に書いて物の考え方を共有すると変な思惑はない 
「あこがれ」学級通信は手書きで行う
こういった学級運営の上に朝の読書を加える
兎に角好きな本を読む 楽しい本を読みたいと思うようになる 
本を読む人は暗いタイプが多いと思われていて廻りとなじまない事があるが、読書をするようになって本の好きな人に何かいい本があるかどうかを聞くようになる 
本を媒介に互いに交流するようになる  
教育というのは生徒の可能性をどんどん広げてやること 
生徒の力を目いっぱい伸ばしてやること

私は若いころオリンピックを目指したが、挫折する  
中学3年の時に先生にちょっと教わって3種競技で全国4位になった (オリンピック5位の人も出た) スカウトが一杯来た 進学校を落ちた 
高校2年の時に吐血 十二指腸潰瘍で入院 手術で走れなくなる 死にたいなあと思う   
退院した時は走れない 頑張って元の記録まで戻した 
吉岡隆徳(暁の超特急)がスカウト 教師になりたい 
オリンピックをめざすが、怪我等に会い、悩まされる  
遂にオリンピックには出場できなくなる
支えてあげる言葉添え 本人にさせる 
コツコツと継続的に毎日少しずつ力を付けて行かなければいけない 
突然パッと強くなると云う事はあり得ない

2011年9月7日水曜日

齋藤孝 (明治大学文学部教授)    ・伝統に学び今に活かす 2

齋藤孝 (明治大学文学部教授) 伝統に学び今に活かす 2
身体文化 小さいころから相撲に親しんできた  足腰が重要だと思った 
今は相撲を子供が取らない
しこを踏むと支えられてる足が鍛えられて足腰が強くなる 股関節も柔らかくなる   
 しこを踏むことをずっと続けていると気力が充実してくる・・・「腰腹文化」と名づける
日本の伝統文化で足腰を重要視しないものはない 身体文化が薄らいできてしまった 
身体からの教育を改めて根付かせたかった
日本人は腰と腹 特に臍の下の鍛練と云うところを自分たちの心の中心、身体の中心だと思って
大事にしてきたんですね

其の臍下鍛練という言葉すら使われ無くなってしまった 
日本の身体文化が押し流されてしまった 
不安感を感じて身体からの教育というものを日本にもう一度根付かせたい
呼吸法を研究した 20年~30年研究した 鼻から吸って緩く長く吐く 
(臍の下に手を当てて 口をすぼめて口から吐いてゆく)・・・落ち着く呼吸法(集中とリラックス)
弾む呼吸・・・ 軽く膝の屈伸を使って上下にゆすって息がはっ、はっとなる 息がはずんでくる 
淀んでいた胸の空気が吐き出され入れ替わる 身体全体がほぐれる
小学校の3年生の身体が良いと思っている  
弾む身体を多少取入れると心も体も柔らかくなってゆく

笑える身体 身体がほぐれている 弾む呼吸で大事なのは肩甲骨の周り 肩甲骨をまわして
やって廻りの筋肉をかたまっちゃうのを防ぐ→機嫌が良くなる
上機嫌の作法 (出版した) 上機嫌は気分ではなく日本では一つの作法になっていた 
例えば日本人は意味もなく微笑む 明治時代には外国人には異様に映ったらしい
身内の者が亡くなった時に人に話す時に微笑みながら話す人がいるとそれには感情に問題がある
のではないかと欧米人は見たんですね
小泉八雲はそれはむしろ気使いなんだと 自分の悲しみで相手が嫌な気持ちにさせないように
ちょっと微笑みながら話す(悲しみを伝染させないように)
40,50代以降の男性は普通にしていても不機嫌に見える
 
プライド、自尊心というものが出来すぎるとか、年年反応するのがめんどくさくなるとか 
軽々しく反応出来なくなってくる
そこをほぐした方がうまく行く いま不機嫌なお父さんというのはプラスに働かない
(男が威厳を持つと言うような時代ではない) 軽やかさ、にこやかさをむしろ獲得してゆくことが大切
自分の人生も軽やかに明るくなる そのきっかけというのが身体から入るのが一番いい 
スキップする70代以上の人はいないのでは 子供時代はした
スキップしながら不機嫌を続けえることは難しい 
温泉に行って温まって不機嫌でいることは難しい 

自分で気付かないが、自分の気分とか心の多くが身体の影響を受けている→ 
ちょっと弾む呼吸をするといい
心と体と精神の3つが合わさって人間を作っているのではないかと思っている  
精神と身体の部分の両方が弱くなって来てしまっているのが日本人の心を弱くして仕舞っている
鍛錬呼吸法 ドイツのディルクハイム哲学者が戦前の日本を見て日本人は腹というものを大事にしている 
昔は精神の整え方をうまくつかんでいたのではないか 
日本にはいろいろな体操がある 野口体操 とか10種類以上ある 
身体の事が大好きでこれからの日本を見た時に心が崩れていくだろうとそのために身体から
立て直そうとそういう教育を何としても根付かせたいと思って身体を基盤
にした教育の研究をすると言う事で大学院から教育の方に行った 

10年以上いろいろな分野の先生に師事したりしてシンプルな方法を編み出して行った
肩甲骨を回すのがいいとか、声に出して読むと言うやり方で日本人の身体と精神と云うのを
建てなおすのがいいかなとかアレンジしたのが自分の仕事かなと思った
宮澤賢治はアイデアが生まれると手帖を持っていて首からペンシルを吊り下げておいて書きつけた 
詩を外で作る場合が多く歩いていて身体の運動と詩を作ることを一体化していた
いい着想アイディアが生まれた時にホホーッと云って飛び上がり一回転したと云われている 
喜びが充ち溢れると身体が自然と動いたのではなかろうか・・・子供のような身体
身体を反応出来る様な身体にする コミュニケーションも身体から考えてゆく 
目を軽く見る 微笑む 頷く 相槌を打つ 4つ一遍に出来るようにする・・・動ける身体 
昔はTVを見ながら相槌を打っていたのを見かけるが、今は人と話していても相槌を打たない、
微笑まない、頷かない、目を見ない事が多くなってきている

江戸、幕末、明治時代を訪れた外国人はなんでこんなに機嫌が良いんだろうと不思議に思っている 
情緒が安定している 礼儀正しいけれどもほぐれている
昭和30から40年代は人と人との距離感が近かったような気がする 
全体があったかいと云うか 最近は職場でも会話も減って来ている
雑談で笑いが起きる職場は巧く行っていたらしい 
効率が良い様でいながら実はメールでしか会話しないと云うのは人間関係上効率は良くない
信頼関係というのは何気なく雑談し笑い合うと云うところから生まれる 
あったまった会話、身体が必要・・・「対人体温」という言葉を考えた
昭和30年代に比べて対人体温が低くなった 係わりたくないと云う人が多くなっている 
距離の近さが煩わしいと思うようになってきているようだ 
身体でコミュニケーションするのが苦手になって来ている
 
アジアを旅行した時にあっ昔の日本だと思う時がある 家族が大人数で皆が一緒にいるとか 
アジアの空気と云うものがある 個人の弱さでもある 個が強くなくて
みんなで何となく空気を感じ取って体がふれあうような感じで仕事をしたり、生活をしたりしている  
精神の安定には良いんじゃないかと ばらばらになると
人間て、結構心がつらいと思う  
ナデシコジャパンの戦い方を見ているとチームとしての一体感が他の国よりも物凄く強かった為に
あのような優勝が出来たと思う
心の要素でいくと自分がレギュラーから降ろされてもちゃんと応援する 
途中交代しても一生懸命に応援する  
日本人では当たり前だが、ドイツのフランクフルトの地元紙はそれを褒めている  
なんでかと云うとドイツのキャプテンのエースは途中で降ろされた後にキャプテンマークを
たたきつけちゃったらしい 

監督とそのキャプテンが不仲になって日本戦前から精神的に疲れていたらしい 
それではなかなか戦えない
日本人は体格的に小さいので素早くパスを回して接触を避けるという戦法しかなかった 
システムを身体で身に着けていた  
日本の良さを生かして企業も戦い教育にしてもチームで戦うと云うのもおもしろいと思う 
個人としては乗りの悪い学生もチームになると面白さが判ってくれる 
チームでやることに慣れている国民 それが昭和に比べ段々にが手になってきちゃっている
日本人の和の精神をアクティブにしてやる(拍手、ハイタッチ 笑い)→会議でのアイディアが多く出るよう
になった 温かみが出てくる
 
心以上に日本人の身体は変わったと思う 
表で遊ぶ子供が減って来て運動能力自体が落ちてきた 
1970年代が頂点腰、腹がしっかりした身体では無くなった
 腰、腹を中心にした身体感覚が消えたと云う事なのでこれは歴史的に見ると大変なこと
心のあり方にも影響があるかも知れない 帯をしなくなったのは影響が大きいと思う 
きゅっと帯を締める事によって腰と腹の一体感が感じられる
腰を一つのものとして安定させるものとして帯にはあるので 帯感覚というのは簡略に復活
できないものかと思った・・・現在考え中
臍の下で帯を締める  日本人の精神性というものは腰とか腹とセットでずっと維持されてきたので
、この財産を何となく失ってしまうのは勿体ないと思う 
能でも歌舞伎でも狂言でもやっている事は様々ですけれども腰という事に関しては全部共通のもの
がある

練られた腰腹文化が感じられる 腰腹文化が出来てないと役者としてしまりが無くなる 
能になるとますます静かであるから腰というものが存在感に繋がってくる
磨り足を学生とやったことが有って磨り足をやるとスーット意識が遠くに放たれるような感じがする 
気持ちが落ち着いてくるし地平線の彼方を見ている様な感じになる
こういうのが悟りに近いのかなという風にも感じられる 
大震災があって日本人の方向性が変わったと思う  
大量の物を消費してゆくより江戸時代のようなリサイクル文化
江戸時代のような落ち着いた循環した暮らしというよなものが一部入って来て、もう一つは
ハイテクの進んだ日本との同居ですね そのバランスで生きてゆくんじゃないか
江戸時代の良さが見なおされてあの省エネぶりは凄い 

落語の世界にあるようなああいう情愛もいいのではないか 
江戸時代の良さを明治時代以降、国家が継承しようとしてこなかった 
今だからこそ落ち着いて取り出せる 
帯感覚を復活させる 下駄を履く 下駄というのは親指と他の4本で挟むようにする 
これは身体が締まる  下駄をはく事が身体のトレーニングになっていた
健康というものが一つのおおきなテーマになって来ている 
良く歩くようにするとか足腰を鍛えるとか しこを踏むとかすることが健康に直結してくる
江戸時代の身体は凄い身体 間宮林蔵 江戸から青森まで4日?で歩いたと言われる
 ※実際は青森三厩まで20日らしい(30から50km/日歩いたようです)
 伊勢参りでもみんな歩いて行っている 
身体を柔らかくすることはいつも意識して行い 呼吸法も合わせて行いと良い

2011年9月6日火曜日

齋藤孝 (明治大学文学部教授)    ・伝統に学び今に活かす

齋藤孝 (明治大学文学部教授)         伝統に学び今に活かす
<概要>
齋藤 孝(さいとう たかし、1960年10月31日 - )は、静岡県静岡市出身の教育学者。
明治大学文学部教授
教育スタイル論の提唱者として知られ『声に出して読みたい日本語』(2001年、草思社)
が150万部を超えるベストセラーとなる
スタンダールゲーテドストエフスキーニーチェなどの世界文学やソクラテス
アリストテレス、『徒然草』や『奥の細道』といった古典などを大人は読むべきだという
教養主義が持論
専門は教育学・身体論。教育というものを広くとらえるために、日本語の言語能力や
コミュニケーション能力、健康法など扱うテーマは多岐にわたり、身体を基盤とした
心技体を持論としている
日本人の暗誦能力が落ちてきたんではないか テキストになるようなものが欲しかった 
声に出して読む事・運動の重要性を説く
江戸末期寺子屋 素読 明治時代に落ちてくる 戦後暗誦文化は衰えてしまう 
音読しない(なんども何度も音読することによって身体の中にしみ込んで一生の宝となると言う
プロセスの方が大事だと思う  
武道とかスポーツとか身体系の物をやってきたと云う影響もあるかもしれない
スポーツでは知ってると云うより出来るようになるのが必要 
自転車は乗れるか乗れない 理屈を知っていても出来なければ何の価値もない
本も声を出して読むことによって身に付いて来る 

 はっきりと身体に残る 大事な本等は音読する 刻まれる
音読をする事によって日本語らしさが身についてゆく 音読は徒歩の遠足のようなもの 
バスで行っちゃうと道端の景色は判らない 6時間で坊ちゃんを音読
すこぶる面白かった 感想の答え 子供たちが覚えてしまう 「すこぶる」 「はなはだ」等
の言葉
音読している時が一番頭が働く 考え事をしている時が意外と頭は働いていない 
 実際に身体を働かせる事で頭が働く  (川島隆太 脳の研究者 )   
日本語を大切にしようとする流れがあって本が250万部も売れたのではないだろうか
 背景には学校教育の日本語がお粗末にされていた

リズムが日本語にとって大変重要  口上(ガマ等) 、歌舞伎の台詞 宮澤賢治の詩、
風の又三郎 国定忠治の口上 等々 真似して云う文化があった
大学で学生に教えているが、学力は有るが覚えているものがない 
漱石、鴎外の時代は莫大な量の暗誦をしている 
素読世代(夏目漱石、森鴎外時代) 教養世代(白樺派時代) 漱石の世代は身体に
刻みつける様な読書をしていた 
精神の有り方の違いに出て来るんじゃないかと思う
幕末の頃の人は漢文を何度も何度も読んで覚えちゃったと言うんですね(福沢諭吉) 
漢字を読み解く力があるので難しい思考が出来やすい
寺子屋の教科書を復刊したことがある 

小学校1~2年生用 「子に教えざるは父の過ち 学の成らざるは子の罪」 
「仁者は憂えず、知者は惑わず」(論語) 
「仁者不憂、知者不惑」(論語巻第七 憲問第十四)
論語 幼いころから身につけさせたいと寺子屋の教科書は編纂されている 
論語と云うのはいろんな人生の文脈の中でふっと思い出される 
あっこれを言っていたんだと思い当たることが多い
「予(われ)は一を以ってこれを貫く」自分は一つの事を持って貫いているものなんだ 
「予一以貫之」(論語巻第八 衞霊公第十五)
の言葉を知っていると人生を生きていく上に於いて心が
ぶれそうになった時に「一つの事もって貫こう」と云うような気持ちが湧いてくる 
その引用力 なにか事があった時にさっと湧いてくるそういう言葉を子供たちに
幼いころから身につけさせたいと言う思いでこの寺小屋のテキストと云うのは編纂されている

手加減していない教育 大人も子供も基本テキストは同じ 
国として強さだったんじゃないか  
金言童子教』(きんげんどうじきょう) 寺子屋の先生が自分がこれを教えるのがいいと
いうことで人生訓となるようなものを451個選んで教科書にしていた
18世紀~19世紀に寺子屋が物凄く広まる 
日本中が教育熱で盛り上がるような状態になる
識字率、向学心の高さがその後の明治維新以降を支えた  
勝田祐義 1716年 に編纂したもの 柱になっているものは論語ですね

日本人の向学心の強さ、そしてそれを支える読み書き能力 
それが決定的に国際格で云うと高かったわけですね 
何故明治維新以降がうまく行ったのかと云うとシステムを導入できた 
言語能力が高い、言葉の能力が高いので理解力がある 
渋沢栄一がヨーロッパに行き金融システムを導入する 
銀行という建物、お札に吃驚するんじゃなくて金融システムを学んで銀行を作り金融システム
を導入する
日本は組織、システムを導入できたのは言語能力が高かったのでそれを理解した  
議会制民主主義 憲法もさっと導入してやれてしまう
明治維新を失敗していたら、半植民地になっていたかも知れない

江戸時代の人が明治維新を起こしている 戦後復興を支えた人は戦前に生まれた人 
とりわけ大正末年までの人達が主力となって復興、高度成長を成し遂げている
戦前は軍国主義でだめだったといわれるが、現実にはその方たちは軍国主義を
捨てたところでは凄く力は有った
以前の教育を振り返ってみるとかなり子供にも大人が読むようなものをどんどん与えてレベルの高い教育をしていた とりわけ江戸末期ははっきりしている
吉田松陰等は教育のされ方が凄い 小さい頃殿様に向かって講義をした 
幼いころ論語を中心とした技を身につけると精神の柱が出来ると思う
今現在の教育も決してレベルの低いばかりではないんですけれども精神の柱を作るような
教育になっているかというと必ずしもそうはいえない

精神といっても軍国主義とかと言っているのではなく トルストイの精神とかゲーテの精神
とかスポーツマン精神とかでもいいのですが 
言葉として何度も言って身につけるとその精神が自分の身体の中に根ついて来る 
それが日本のかつての強さだったんじゃないかと思う
幼児番組という先入観を取って やろうとした  子供たちはさっと受け入れた 
言葉を文化として捉える
野村萬斎に宮澤賢治の話を朗読してもらったら独特の世界が展開された 
狂言で鍛え上げられた姿勢、声、と文学的な名文との出会いが交流して新しいものが
出来た  
どういう声を聞かせたら赤ちゃんが泣きやむか実験したことがある 

狂言師が話し始めると 赤ちゃんがなきやむ
幼いこどもは素直に古典文化(能、歌舞伎、謡曲とか)受け入れる 
小さい頃から古典文化に触れると自然に日本に対する愛情が湧きあがってくる
愛国心みたいなものを言われるが矢張り基本は日本の文化という者を自分の身体の
内側で感じて「ああ日本人に生まれてよかったな」と思うのが、自然だと思う
幼いころから慣れ親しんでいないと血となり、肉とならない 日本人の感性が身に着く
何歳になっても音読することによって良さが判る 
谷崎潤一郎の春琴抄を1ページでも音読するとあーとんでもなくいい日本語だなと思う
 谷崎は天才なんだと思う

音読していいかどうかという事になると 谷崎、島崎藤村 三島由紀夫 (金閣寺を音読)
 彼らは天才だと思う  音読した時に違いがはっきりする
古文が嫌いだと云う人はそれの良さが判っていない 
ほんの短いものでいいから暗誦してみるとその良さがはっきり判る
高齢になった方も古典を音読してみる事が必要 本当にいいものを完全に身につける
 究極が南無阿弥陀仏 精神を整え直している(阿弥陀仏にお任せします)
名文には精神が流れている それを音読することで自分の精神を整えなおして生気を
与えると云うか命を復活させると云うか  出来ると思う

「学問のすすめ」 一心独立して一国独立す 独立気力なきものは必ず人に依頼する  
自由と我儘との堺は他人の妨げを為すと為さざるとの間にあり
宮澤賢治 「ただ一番の幸いに至る為に、いろいろの悲しみもみんな思し召しです」 
(銀河鉄道の夜にかかれている) 妹のとし子の死により触発
「僕はもうあのさそりのように本当にみんなのさいわいの為ならば僕の身体なんか
百辺焼いても構わない」 
「世界の全体が幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」 
宮澤賢治の言葉というのは普遍性を持っている 
時代を越えて心に直接訴えかけてくる 
「僕はきっと出来ると思う なぜなら僕らがそれを考えているのだから」

2011年9月5日月曜日

草刈正雄(俳優)         ・二枚目と言われるのが嫌だった 2

草刈正雄(俳優)  二枚目と言われるのが嫌だった 2  
最初の化粧品のコマーシャルがちょっとコミカルな感じだったのでこれからコミカルな演技に対して興味が有ったような気がする
バチッと決まった2枚目はどうも基本的に苦手ですね 
そこからちょっとずらすようなのが好きですね
兎に角自分が持っている物を全部だしたい 肩っ苦しいのが嫌い
年を重ねてゆくと難しいものがある 
沢村貞子から言われた 「あんたハンサムだから人の3倍巧くならないと残らないよ」と言われた 変えて行かないといけないと思うようになる (30代半ばから)  
舞台は怖かった( 3時間ワンカット NGなし )  舞台もやるようになった 
「若尾文子から舞台をやりなさい」と言われてやるようになる
舞台の方でも仕事が入るようになる ターニングポイントのところで誰かが押してくれる・・・有りがたい
ミュージカルで歌があるが元々歌は好きだった 
ミュージカルは大変 歌って踊ってお芝居でしょう やっている人は大変なんです 「歌うヒットマン」 コメディー映画 歌ったり踊ったりしないと死んでしまう役  自分で感じる自分の変化は→矢張り年相応の役がある 白髪初老 本多正信役   役になりきれているのか居ないのか 考える  
草刈麻有 娘も女優の道に 最初の映画は監督には言われる、私には言われる 
娘は不機嫌になる 最近は何とかやっている
私は母一人、子一人なので家族に対する思い入れはある 
(父は戦争で亡くなる 思い出は何もない) 
子供は多いほどいいと思っていた(娘2人、息子1人)

こういう家庭を作りたい、楽しい家族を思い描く  
父親として子にどう接すればいいか判らなかった 
今は理想の家族に近づいている(家庭が一番)
古里は→嫌いだった 寂しい ちび時代だった 
あそこには帰りたくないと云う思いはあった 
今はあの土地があるから今の自分が有るのかなあとは思うようになった
最近は仕事で小倉にも行くようになり、結構頻繁に帰っている  
親友がすし屋をやっておりその店で昔の友達と会話するようになる    50代の10年は→この世界に入って40年になるがひたすら走ってきたと云う感じ 
ここ2~3年がむしゃらに走ってきたのは疲れたなあと思うようになる 自然体に近づいてきたのかなあと思う 力が抜けてきたのかなあって言う風に思います 
見え方も違いますし、芝居をやっててもそうなんですが 自分自身いい歳の取り方をさせてもらったかなと思います   
60歳 →ドキドキわくわくする 縛りから解放されると云う感じがする 
追いかけられるものが無くなるような感じ もっと自然体でいける様な気がする 

2011年9月4日日曜日

草刈正雄(俳優)         ・二枚目と言われるのが嫌だった

草刈正雄(俳優) 二枚目と言われるのが嫌だった  
大河ドラマは1年やっていて家族のような付き合いになる
俳優同士は中々アドバイスはできない
昭和27年生まれ 福岡県北九州市出身 59歳 
デビューは昭和45年 化粧品会社のコマーシャルで注目される
昭和49年卑弥呼 で俳優としてデビュー   
コメディー基本的に大好き (こういう面もあるよと見てほしかった)
モデルとしてはあまり動く事が出来ずに余り好きになれなかった 
化粧品のコマーシャルで芝居がかった内容でこれにはマッチングした
大きな交通事故を起こして仕事を停止していて見舞いに通った→仕事は駄目になるだろうなと思った
帰るつもりで(母親もこちらに来ていた)居たら、新聞に美談として掲載され、その記事を篠田正浩監督が見て、使ってもらえる事になる
篠田監督は卑弥呼の義理の弟役を探していた 
CMからいきなり大抜擢され、台詞が難しくよく怒られた 
ここで頑張らないといけないと必死に対応した
時代劇 沖田総司役をやる 
時代劇風の顔ではないので当人としては不安だった でも違和感がなかった 身長が高いのが結構大変だった (所作、撮り方)  
演技に関しては本当に不安だった(ポッと出だったから)

高校は定時制に行っていた 昼間働いていた 
4時間授業が終わってから野球の練習をする 
当時16歳で 練習後にスナックにバイトをしていた
終わるのが5時 そういう生活をしていた 
ある時にマスターがルックス、見てくれがいいから、モデルの方が稼げるんじゃないかと言われる
東京に送り出してくれたのがそのマスターのお陰
最初博多のモデル 女は食っていけるけれども、男はちょっと大変だよと言われる 
→東京の事務所を紹介してもらう事になる
当時昼の仕事が1万9000円だった モデルになったら5万円くれると云う これは凄かった
角川映画にも多数出演 「復活の日」 1年近い撮影 
南極に一部いて後は細菌で人類が死んでしまうという話
半分以上がロケーション  主役が外人顔が欲しかった 角川氏の弁 
国際的な映画にしたかったとのことだが、映画を見てみると完全な日本人顔だった 外国の人は気が入って来てから「スタート」となるが 日本は「スタート」の声が掛り よしやろうと気を引き締める 出来上がった映画を見ると外人の方が自然・・・ショックだった  
オリビア・ハッセー とのラブシーンは50回ぐらいやって何とかOKとなる 
(あこがれの人だった  上がってしまって駄目))
アンデスで私が乗っていたヘリが墜落してしまった 
3機で行く 景色を見てあっちに行こうと搭乗者が指示、しぶしぶパイロットが従うが天候が急変し落下する
たまたま山の近くであったので大事には至らなかった 

2011年9月3日土曜日

中村哲(医師64歳)        ・ ヒンズースクに魅せられて

中村哲(医師64歳)  ヒンズースクに魅せられて
<概略>
PMS 平和医療団院長 医療NGOぺシャワール会現地代表
中村 哲(なかむら てつ、1946年9月15日 - )は、福岡県福岡市出身の日本の医師
1984年、パキスタン北西辺境州の州都ペシャワールに赴任。以来、20年以上にわたって
ハンセン病を中心とする医療活動に従事
パキスタン・アフガニスタン地域で長く活動   少しでも清潔な水、食べ物を与えられる
ように用水路を拓き 畑を作る
アフガニスタン 緯度は日本と同じなので今は真夏 熱いところでは50度を超える 
1978年 32歳の時にヒンズースク山脈最高峰ピルチミール山岳(7700m)遠征隊に参加 
パキスタンとアフガニスタンにまたがっている山 (ヒマラヤ山脈の西側)
虫の観察、採集が目的 医者を連れていくと云う規定があり 私も参加する 
 日本の隊員は8名 私は第二キャンプまでしか行って無い(6000m)
1984年 38歳のときにパキスタン北西辺境ペシャワールに赴任する  
以来今日まで27年間になる

(ペシャワール:パキスタンのカイバル・パクトゥンクワ州の州都である。また、連邦直轄部族地域
(トライバルエリア、FATA)の行政上の中心地である。人口122万人(2007年現在)。
ハンセン病のコントロールに従事 我々が問題にすると問題になり、我々が問題にしないと
問題にならない 
金が投入されると一旦マーケットが成立するが、補給が途絶え、話題が途絶えてくると 
又元に戻ってしまう (普通現地で起きてしまう事)
2000年からアフガニスタンを大旱魃が襲う 

農地が砂漠化して多くの難民が生まれる これを機に医療活動が変わる
いろいろな問題を抱えながらも、それまでは医療活動を続けてきた 
そのスタイルでの医療活動が出来なくなった
旱魃になる、飲み水がない、汚い水を飲む、村中が飢える→栄養失調、病気が起こり
易いのは当然のこと
我々が出来ることは、キズを縫ったり、診断をして薬をやったりする ・・・
悪いとは言わないが如何にも空しい 直しても又病気になるような環境に戻る
それよりも清潔な水を与え、食べ物を十分与える様にしてやれば、病気の殆どとは云わない
までも9割以上は医者は不要だと思いました

「100か所の診療所よりも1本の用水路を」というスローガンを掲げやってきた
パキスタンもひどいがアフガニスタンに比べればまだましな方である
旱魃は降ってわいたようなものでなくて、何十年も前からすこしずつ悪くなってきていた
 2000年になって今まで見えなかったものが突然見えてきた
何かというと地球の温暖化 これによって今までアフガニスタンを潤おしていた農業用水、
すなわち川の水 川の大元というのはヒンズークス山脈の白い山の雪だった
それが夏に溶けてきて川沿いに豊かな実りを約束してくれていた
 「アフガニスタンでは金が無くても喰ってゆけるが、雪が無いと喰ってゆけない」 諺がある

雪の絶対量も減ってきたがそれ以上に大きかったのは雪の溶け方が変わってきた→
今まで夏まで残っていた雪が気温が高くなってくるために突然春先に洪水を起こす
一気に溶ける 洪水と干ばつが同居する様な環境が出来てしまった  
おそらくヒマラヤ山系全体に起きてしまっている事だと思う
35年前に雪線が3300mであったが、今は4200mに行っても雪がない状態→
30数年の間に自然に大きな変動が生じてしまった 
2001年9月11日 同時多発テロの報復としてアフガニスタンに対して攻撃を始める 
診療所がなくなってしまう それまでは平和な土地であったのが戦場と化してしまった
本拠地のペシャワールが市街戦となる 引き上げざるを得なくなる
 診療所は11か所あった カブールに5か所あったが空爆で半年で無医療地区になって
しまった

今は1か所だけ細々とやっているが、米軍が入って来てきな臭い状態になって来てる
2003年から始めた用水路、マルワリード用水路25.5kmが去年完成した 
水を送れる面積は3600ヘクタール (畑が蘇れば最低15万人が生活できる)
元は600ヘクタールがかろうじて有ったが、それ以外は荒れ地であった 
マルワリード用水路建設に当たって気にしていたのはメンテナンスです 
私が決意を堅くしていくら長くいたと云っても外国人なのでいつかは帰らざるを得ない
日がくるかも知れない
用水路は延々と引き継いでいかねばならない 
何らかの形で維持、補修をしなくてはいけない (この先何十年地元の人による手に
よって維持、補修をせざるを得ない)
手作業で現地の人でもできる用水路の構造を目指した 
 
沢山のお金をかけるのでは無く 手、しゃべる、つるはし この程度の道具でできるもの
地元、筑豊川を見て工事の状況が多いに参考になった(江戸時代の工事)
じゃかご・・・鉄線に負けない竹のかご これに石を詰めて並べて行って堤にする 
日本の治水工事は当時おそらく世界最高水準に有った
クナール川から水をひく クナール川はヒンズースク山脈に水源がある 
村の人たちの協力が有って、政治的な事、労働力、等 工事を進めることが出来た 
こちらとしては半分教育の場であると考えていた 若い人を鍛える 
日本人のワーカーが協力してくれる つるはしを持った事がなくても何とか溶け込もうと努力した

資金面の援助が福岡に本部を置くペシャワール会 
治安が悪くなるが動かずに生活している その人達が飢えているのに 日本側の都合で
以って
事業を停止することはできない
これが普通の事業体のあり方であると思う 
2008年にカマという処の2つの取水堰の工事にも着工する 
ここも砂漠化の一歩手前だった 前述のように年年川の水が取り込みにくくなっている
洪水が起きてくると同時に水が減って来て取り込みにくい 
最も人口の多いところで30万人 半分以上が難民化してパキスタンに行っている

農業が減って来て廃村が広がりつつある 一時的な工事をする→本格的な工事を
進めつつある
7000ヘクタール 30万人の人が生活できる 難民が帰って来ている状態 
ベスードも工事を開始している モスク、 学校を建てたりしている 
ガンベリ沙漠に試験農場を作り始める  自立定着村を新しく作ろうとしている
医者だからかもしれないが、こっちで助ける方法があるのに目の前で困っている人を
ほったらかすと云うのはできないじゃないですか
地元の人たちとの信頼関係 人は信じられると嬉しいもので自分もその気になる
 
ソ連の時代から居て戦闘の場面を何べんも遭遇したけれど、その時に危ないと自分が
弾よけになって庇ってくれるような人が今、日本にいるかとそのことと深い関係がある
自分の気持ちが快適な間はいいよ、自分の気持ちが満足すれば協力しようと云う人は
沢山居るでしょうけれども、この人を守るためには信義を尽くす 
そういう気持ちが日本人の間に薄くなってきたんじゃないんですかね   
信じないと他に頼るものが何にもないんです お金に信頼を置く事は出来ない
利害関係でよってきた人は利害関係で去ってゆく 

損得を抜きにして自分の為この仲間という人間の為に尽くしてくれる 
日本人の中にはあれほどの人はいないと思う
30年ぐらい日本を離れ、あたりを見回すと随分昔の日本と変わっているというのは
そのあたりなのではないでしょうか
実体のない言葉が増えすぎている感じがする 
アフガニスタンにソ連が侵攻して、撤退した 内戦が終わってタリバン政権の時代があった 
アメリカ軍の攻撃が始まる パキスタンでも政変があったり、テロがあったりした

今年5月アメリカ軍によるウサーマ・ビン・ラディン殺害 
一連の30年間のパキスタン、アフガニスタンの経験を肌で感じてきた
国際社会に本当の事というのは伝わりにくいものだなと思う
 現地が本当に困っている時に救いの手が来ない
 もう来ないでくれという時にわざわざ居る
結局もたらされたのは破壊だけだった という実態を見てみると 結局自分たちの
後始末は自分たちでしなくてはいけないと云う事情はすこしも変わっていない 
私達は世界情勢を話したり、政治情勢を話したりしましけれども、基になるニュースのネタが
そのものに問題が有ったんじゃないか

もしそのように温かい関心を他の地域に向けてくれるならば、そのことが尊いならば
本当にその地域の人に立った言葉なり、行動なりがほしかったなあという気がする
日本人も終戦の度には思いだすでしょうけれども、いつの間にか爆弾を落とす方の立場
でしかものを見なくなったという感じがする
農民の願いとは→ご飯が三度三度食べられること 古里で住める事 
我々が10年の、20年の、30年のというが自然に比べればほんの一瞬 
人類そのものが何万年か前に出てきて何万年か後には居なくなる
そんな短い期間でそんな狭いところでごちゃごちゃ争う事も無かろうがと思う

2011年9月1日木曜日

野口勲(野口種苗研究所)     ・伝統野菜を守りたい

野口勲(野口種苗研究所)        伝統野菜を守りたい
虫プロダクション・出版部で雑誌の編集をしていた    
火の鳥の初代編集する 
仕事が忙しくて手塚先生が寝るまで一緒に起きている、 
一カ月に20日は手塚先生の家で寝泊まりしていた
手塚治虫は複眼的な思考 人間の立場から見たり、国の立場から、生物全般の立場から、宇宙的なスケールでものを見たり 同時並行して見ている人だった
種屋は何時頃から始まったのか→日本種苗協会の記録の中に元禄時代、江戸に2軒種屋があると云うのが、書いてある
フランスでも種屋ができたのが、同じ時代だった 
江戸時代幕藩体制 自分の処の産物を一生懸命振興しようと、街おこしコンクールをするような時代だったのではないでしょうか
特産物を全国に広めたり、そういう時代だったようだ
中山道に滝野川という地域があり、種屋が3軒でき(後の種屋通り)、種を旅行者、大名行列の人間が購入して地元に持ち帰った

江戸時代名古屋の大根が一番い良いと云われていた 尾張の人間が江戸で自慢した 
吉宗の時代にその種を取り寄せたかして、それを練馬で作らした 名古屋の大根が関東ローム層の土壌に合って、長くなって来て練馬大根になったと云われている  今は面影もなく青首大根に変わってしまっている 江戸野菜として復活させようという動きが出ている   
野沢菜 信州の御坊さんが京都に修行に行って、天王寺かぶがおいしいと云って、その種を持ちかえって作っているうちに野沢菜に変わって行ったといわれる
天王寺かぶはカブのルーツ、葉っぱがおいしい(カブは扁平) 
天王寺カブから形状は変わった(交配したのか)
流通の野菜は同じようになって来てしまった 市場の方が大きさ 太さ、長さ等決まった箱に入れて出荷するようになる・・・まず最初に形ありき(規格重視)
F1(揃うために作られた野菜 一言でいえば雑種 できたものが全て出荷できる 短期間で出来る 細胞の密度が粗い プロに好まれる もう40年以上になる )  (タネを採っても親と同じ野菜はできず、姿形がメチャクチャな異品種ばかりになってしまいます) (世界最初のF1野菜はナスで、埼玉県農事試験場で、大正13年にできました) (アメリカでは「雄性不稔」利用技術が誕生  自然界なら生まれてもすぐ淘汰され消え去ってしまうはずの「花粉を作れない個体」だけが増やされ、その子孫だけが市場)  
(細菌は分裂して増殖するだけの微細な生き物ですが、やがて呼吸してエネルギーを出す細菌が生まれてきます)  
(するとこれするとこれを取り込んで共生する細菌が出てきました  これが、動植物はじめ、すべての多細胞生物の祖先になります)
(取り込んだほうの細菌は、取り込まれた細菌からエネルギーを受け取り、より複雑な生命に進化していきます)
(取り込まれた方の細菌は、細胞内のミトコンドリアという小器官になって、細胞の進化を助けます)
(最近の新聞報道によると、多細胞生物の細胞分裂は、ミトコンドリアが出す信号によって操られているのだそうです)
(エネルギー供給源であるミトコンドリアは、呼吸作用で酸素エネルギーを細胞に供給するとともに、傷ついたり老化したりすると活性酸素(フリーラジカル)を出して、細胞や遺伝子を傷つけます)
(ミトコンドリアの遺伝子は裸なので、自分の出す活性酸素によって傷つき、変化します) (このミトコンドリア遺伝子の変化が、植物の雄性不稔や動物の無精子症の原因であることが、最近の筑波大学の研究でわかってきました)  
(つまり、ミトコンドリアが健全に機能していれば雄性不稔とか無精子症という異常は起こらないのです)
固定種(伝統野菜 期間が長い 細胞の密度が細かい 味が良い 
大根:原産地 地中海当りの出来た ヨーロッパでは普及しなかった 大根は日本で大きく普及した(第二の原産地と言われるぐらい)
万葉集には「おおね」(大根)と言われて記載有)  
尾張で獲れた大根(ほうりょう大根)→練馬大根→身の早生大根、三浦大根(地域が変わるごとに変化、名が増える)
大根の種類 江戸時代は150種と言われる 
同じ大根が地域によって違う名前で呼ばれてしまっている場合がある  
現在200~300種と言われる
日本では漬物文化であった  飢饉対策
F1の登場(野菜の変化)及び、台所から漬物にする作業が無くなった事(家庭の変化)により、青首大根が大々的に広がる
地域で出荷する小さな市場が無くなってしまった →日本中おんなじ野菜が出荷される様になる
野菜の変化、日本の構造変化が起きたのが東京オリンピック以降 高度経済市場の一つの表れ 昭和4年に祖父が野口種苗園を立ち上げた 
最初雑貨屋を立ち上げたが、世界大恐慌のさなかで、物を買う事の出来ない時代になって、生活に困って、兄に相談したところ,かいこの種の販売をやったらいいのではと進められる(兄はかいこの種の販売をやっていた)  
ミヤマ小カブを作り上げた・・・3~5年かけて品種改良  昭和32年に農林大臣賞を貰う 
料理法は伝承されているが、野菜に合わせた料理法に変わって来てしまっている 固定種に対する見直し  京野菜、加賀野菜、愛知尾張野菜、大和野菜、等 来年は伝統野菜復活の兆しがある  
今は使い捨ての種になってしまった 種を取ってほしい  このまんまF1が進んだら、まともな生命が消えてしまう 理論上は種が1000年でも2000年でも持つことが出来るが、現実には育成が難しい  
農水省でやっているが30年保管した種を10数種購入した人がいるが撒いて見るとたった1種しか生えてこなかった(たかだか30年で死んでしまう種が多い わざわざ金かけて) 種というのは1粒撒いて1年後に1万粒、というように生命が続いてる限り、無限の命を持っているが、生命の代謝を止めて零下十何度で保存している 代謝を止められた種はそんなに長い間持つわけではない  
山崎記念農場賞 東大の山崎教授がやってきた事を検証するために教え子たちがお金を出し合って、マスコミでは知られていないが、地域で細々と地道な活動をしている人を 1年に一人検証しようと、いう賞 ありがたかった(2008年 33回目)