2026年2月28日土曜日

千田嘉博(城郭考古学者)          ・「『豊臣兄弟』ゆかりの清須の歴史と城郭研究の魅力」

千田嘉博(城郭考古学者) ・「『豊臣兄弟』ゆかりの清須の歴史と城郭研究の魅力」

 『豊臣兄弟』主人公の豊臣秀長と、秀吉は、今の愛知県名古屋市の出身です。  千田さんは、名古屋市見晴台考古学資料館の学芸員や国立歴史民俗博物館の助手などを経て、2005年からは奈良大学で教鞭を取り、2014年から16年には学長を務めました。  2016年にはNHK大河ドラマ「真田丸」の真田丸城郭考証を務めました。 そして、総合テレビ放送中の「歴史探偵」や名古屋放送局の夕方のニュース情報番組「まるっと!」では城博士千田嘉博の「面白いぜ城歩き」と言うコーナーに出演し、城郭の魅力を伝えています。  現在は名古屋市立大学高等教育院教授、奈良大学特別教授として研究を続けています。

ラジオ深夜便には15年前にレギュラー出演してました。 「大人の旅ガイド」ということで、日本各地のお城の魅力を伝えてました。 真田幸村が築いた真田丸と言う出城のセットをつくりましたが、その城郭考証をしました。

戦国までの清洲は、尾張一の大都市でした。 清洲城を豊臣秀次が城主となって、その城を中心に町全体が堀で防衛されてました。 その外側には、市場町があって店の件数は3700件あったそうです。  清洲には、五条川と言う川が流れていますが、それが伊勢湾につながっています。 川を通じて運搬されたものが売り買いできるわけです。  清洲城は五条川のそばに建てられました。  川が掘の役割もします。 

家康の時代になって、城を名古屋に移そうかどうか、家康も悩んだそうです。  家康は、駿府城に住んでいました。  家康が清洲城を点検にすると言うことで、天守閣の点検をしたところ、戸が開かない部屋があって、無理矢理開けたら、男が忍び込んで家康を暗殺しようとしていたようです。  家康は難を逃れることができました。信長の後、どうするかと言う清洲会議もここでありました。   その後、秀吉と家康が戦うことになる。  小牧長久手の戦いでも、清洲城は家康側の要の城になりました。 関ヶ原の戦いでも関ヶ原の戦いの前に、どちらが清洲城握るか重要なお城でした。当時は、山城が主体でした。 けれども清洲城は平地にある川に接した交通の良いところに大きな街とセットになって城下町の先進的なお城でした。

「豊臣兄弟」は、戦国時代のサクセスストーリーになってます。 主人公は秀長になっています。 戦国時代と言うのは、いろいろな国や社会の地域のルールがうまくいかなくて壊れていた時代で、それを改めてどういう風に立て直していくかと言う変革期であったので、天下人になれた時代でした。 この時代の状況と言うのは、今につながるところがあるでないかと思ってます。 昭和の高度成長時代ではうまくいかないと言うことになってくることが多いです。 新しい発想でこの時代をどう切り抜けていくか、地域と地域をどう盛り上げていくかと言うのは、秀吉、秀長時代の発想、努力が今につながるところがあると思います。

城郭に興味を持ったのは中学1年生の時でした。  友達と旅行に行った時に姫路城を見て感動しました。  城郭考古学者と言い始めたのは私が初めてです。    大学時代、当時の考古学は中世、戦国時代などは古文書など文字で調べる時代でした。  城跡を発掘したらいろんなことがわかるのにとお城の考古学をやってました。  いろんな資料を総合しないとお城のことはわからない。 お城を中心に、いろんな資料を統合して、当時の様子をわかるように研究しようと言うのが城郭考古学です。  最近はお城を復元したり、整備しようと言うときには、発掘調査を必ずするようになりましてよかったです。

お城については2000カ所ぐらい調べていると思います。  全国には3万カ所以上お城の跡があります。  愛知県だけで1000カ所を超えています。  海外のお城も研究するようになりました。  日本のお城と海外の城を比較研究することも面白いです。 ヨーロッパのお城と日本のお城では全然違うものと言うふうにイメージされてますが、実はお城の発達の方向性だったり、どういう守りの工夫をするかと言う事は非常に共通性が高いです。  お城は共通性のものはありながらも、実は1個1個は個性的です。 お城見学は、天守閣だけではなく、堀、石垣、櫓、門などもあります。  そういったところに注目していただけるとグッと楽しくなると思います。


2026年2月27日金曜日

瀧靖之(医師・脳科学者)          ・「脳医学者パパが語る“親子のコミュニケーションを育む”コツ」

 瀧靖之(医師・脳科学者) ・ことばの贈りもの「脳医学者パパが語る“親子のコミュニケーションを育む”コツ」

 さんは1970年北海道旭川市生まれ、高校卒業までは旭川で暮らします。    東北大学の医学部を卒業後は脳の研究の道へ進みました。 現在は脳の発達や加齢のメカニズムを明らかにするための研究などを行う、東北大学加齢医学研究所で教授を務め、臨床、教育に力を注ぎながら、脳の研究の第一線で活躍し続けています。  これまでに見てきた脳のMRI画像は16万枚を上回り、そこから導き出された脳の健康法や子供の脳の発育に関する数々の本を出版し、講演会などを通して多くの人に伝えています。  そんな さんの研究と人生をより豊かなものにしたのは長男の誕生を機に、子育てを経験したことだといいます。  一児の父として脳医学者として一筋縄ではいかない子育てを楽しむ さんにお話を伺いました。

私たちは、脳のMRIの画像を多くの方から集めて、画像だけではなく、生活習慣とか遺伝子とか記憶する認知機能など、いろんなものを集めてそれをデータベース化しています。  私たちの脳はどうやって発達していくのかどうやって加齢をしていくのか、何をすると将来認知リスクを下げるのか、天寿を全うするまで、脳を健康に保って、自分らしく賢く楽しく有意義に生活するかと言うことを研究テーマにしています。 脳を健康に保つためには大きく6つあります。 1つ目、できるだけ多くの品目をバランスよく食べる食事。  2つ目は、十分な睡眠を取る。  3つ目可能な限り運動を習慣化する。 4つ目、対面で会話をする。 5つ目、他にささやかながら日々楽しむ。主観的幸福感。 6つ目、知的好奇心を持っていろんな趣味とか活動する。

脳には可塑性があります。 歳をとっても何か楽しいと思うことを始めると、半年とか1年後には確実に伸びています。 気軽に何か始めると言う事は素晴らしいことです。 楽しいと言うことが大事です。  私は音楽が邦楽とか洋楽とかにかかわらずクラシックとか好きだし楽器を演奏する。  例えばピアノとドラムをやってます。本も好きです。 スポーツではスキーは物心ついた頃からやってます。 筋トレスケートなどもやってます。 生き物が好きで昆虫を見に行くとか、いろいろ好奇心を持ってやってます。 子供の頃は、釣りが好きで、スキーをしたり、図鑑を見たりして、または星が綺麗なので、望遠鏡で天体を見たりしてました。母は、絵画が好きで、一緒に連れて行ってもらったりしました。  色の配置の美しさにとかに興味を持ちました。  美しいと言うものに心を惹かれるようになりました。  

生物を学びたくて、東北大学の理学部に進学しました。 卒業後、再受験して医学部に入学しました。  祖母が認知症になり、なんでこういうことが起きるんだろう、どうやったらこの病気にならなくて済むのだろう、どうやったら治療できるんだろうと言うことに興味を持ちました。  他の病気についても興味を持ちました。 それで医学部で勉強したいと言う思いに至りました。  臨床も長くやりましたが、研究は、知的好奇心を満たして、それが何か世の中に役に立ちうるかなぁと言う思いがあって、研究のほうのにシフトをしていきました。  悩みますけど動きます。

2016年に出版した「16万人の脳画像を見てきた脳医学者が教える『賢い子』に育てる究極のコツ」が10万部を超えるベストセラーになりました。  脳の研究をしてきて、生活習慣が重要だなという事がありました。 ひょっとしたら、子供のうちに運動習慣を作ったり、会話の習慣をつけたり、いろんな趣味をやったら子供ってすごく幸せな人生を送れるないかと思って、子供たちの研究を始めました。

子供もしっかり寝ることで、脳の海馬と呼ばれる記憶を司る脳の発達がすごく良いと言うこともわかりました。  41歳の時に長男が誕生しました。  子供を常に見ながら問題意識を感じながらやれてすごく良かったです。 子供から学ぶことが非常に多いなと思いました。  2025年に「本当はすごい早生まれ」と言う早生まれの子供の脳に着目した本を出版しました。 息子が3月生まれなのでその影響もありました。 

早生まれの凄いところは大きく分けて2つあります。 1つ、私たちの脳には可塑性というものがあります。 何かを一生懸命やると脳も一緒に発達していく。    脳を早いうちから刺激していくと可塑性を高めやすい。 それによっていろんな能力を獲得するための土台をより早いうちから作ることができるんではないかと思いました。 2つ目、甘える力、早生まれだと体が小さいので可愛がられる、可愛がられると言う事はすごく大事なことです。  援助を求める力と言うのはすごく大事です。  早生まれだと言うことで自己肯定感を下げないようにしてやることが大事です。 いいことを褒めてあげる。 

子供にやりなさいではなくて、自分でやってその楽しさを見せてあげると言うことが大事です。  子供にピアノをさせたかったので、私がピアノを弾いてそれを見て子供を3歳からピアノをやるようになりました。  親が楽しめば子供も楽しむ。 理論と実践では違うので、色々と悩みますが、でも知識がちょっとではあると、そこで立ち止まれるわけです。 子育てをする上で大切にしている事は2つあります。1つ、とにかく愛情をかけてます。 あなたの素晴らしいところはここですと息子によく言います。  2つ目は、とにかく何でも一緒にやります。 そうすると怒るとはできなくなります。 一緒にやってると子供の凄さがわかります。 それがコミュニケーションツールにもなります。

私は両親からあるいは周りの人たちから愛情をかけられて、育ったと思います。 困難はあったかもしれませんが、思い出せないです。 常に前を向いていましたし、今もそうです。 人生を切り開くときにはいつも前向きです。 それは過去が幸せだったからです。 これからの人生の目標はひたすら美の追求です。      私たちが考えている以上に、脳は柔軟です。  自分ができないと思い込んだら壁を作って何もできないですが、ひょっとしたらできるんだと思うと案外できるものです。 楽しくやるのが一番です。





2026年2月26日木曜日

友永詔三(造形作家)            ・私のアート交遊録「人形と遊ぶ夢の世界」

友永詔三(造形作家)       ・私のアート交遊録「人形と遊ぶ夢の世界」 

友永詔三さん81歳、1944年高知県のお生まれです。四万十川の自然豊かな中で暮らし、父親の手作りの遊具作りを見たことで造形への興味が芽生えたといいます。 インテリアデザインを学んだ後、オーストラリアの民謡劇団で人形デザインや製作に専念、帰国後パフェットデザイナーとしてデビューします。 1979年から放送されたNHKの人形劇シリーズ「プリンプリン物語」では総計500台のパフェットを全て考案し制作しました。 友永さんが目指すのは、劣化したら自然界に戻る素材だけを使って作品を創造することです。 今年81歳の造形作家友永詔三さんに人形創作にかける思いを伺いました。

「プリンプリン物語」は、去年再放送されました。  44年以上前に作ったものです。  脚本は医者の先生ですが、ラーマーヤナと言うインドの物語が下地になっていると言うことです。  インドに1週間ぐらい行って、インドの踊りとか衣装とか生地などを仕入れてきました。 それを参考にしながら作りました。     当時、公害問題が流行ってる時期で、ある人物にはヘドロという名前をつけたりして、社会風刺的な問題も取り入れています。 戦争の問題とか原発の問題も入ってきました。 ミュージカル風の人形劇でした。

デザイン学校を卒業して、舞台装置をやりたくて、舞台装置を作る会社に就職しました。  オーストラリアの人形劇団のオーディションに受かったのがきっかけです。  1968年にオーストラリアに行って、イゴール・ヒチカ、のもとで人形を作り始めました。  1970年の大阪万博で、オーストラリアのコーナーで初めて人形をつくりました。(23歳)オーストラリアではピーター・スクリベン、イゴール・ヒチカに色々と教わりました。 ピーター・スクリベンからは「ものを作る人間は型にはまってはいけない。」と言われました。  

子供時代には、いろんな遊び道具を木や竹で作ってました。  オーストラリアから帰国後デザイナー学院の講師をやりながら、展覧会をする会場を紹介してもらって、やるようになったのがきっかけです。 それを見てNHKの人から「プリンプリン物語」の話が来ました。  最初のころの人形は、関節部に球体をいれた球体関節人形を作ってました。  それが革新的だったようです。  そのやり方を「プリンプリン物語」でも採用して人形を作りました。  その人形はいろんなポーズを作れるようになります。 操る演技の難度は、高いものの操作の重度が高くて、幅広い表現が可能になりました。  

すべてオリジナルで、台本が届いてから人形を作ると言うことをやってきました。 下から棒を使った操り人形は初めてでした。 マリオネットは上からなのでまったく逆でした。 目を動かすときに、頭が動かないようにどうやってするとか苦労はしました。 木肌を生かした人形を作ってみたいと思いました。 役柄によって材質を変えました。 年輪による面白さもあります。 土に帰る材料を使いたかった。(自然に帰る材料)  映らない見えないような部分まで気を遣って制作しました。

僕は子供はライバルだと思って作っていました。 子供って鋭いと思うんです。  40年ぶりに再放送を見ましたが、自分の思いは間違ってなかったと言う思いはあります。  木彫の最初の頃は、女性の体の形を借りて自分を表現していました。  少女の持っている曲線の美しさを、なるべく省略していった感じで1つの形を作ろうとしてやってました。  少女の像は今も作ってまして、何百体も今まで作ってると思います。 品のあるものに、と言う思いで作ってます。  作る時も自分で楽しみながら作っています。  人形だけでなく仏像とかほかのものでも、少し色っぽいものの方が美しいと思います。

現在はあきる野市にある深沢小さな美術館を経営しながら、非常勤講師を務めています。  チェーンソーを使ったりするので、音で迷惑がかからないように山のところで、かつ故郷の四万十川に似たようなところに移りました。  古民家を改造したかったので、廃墟を手に入れて自分で全部改造しています。  家を作ってるっていうのは自分で1番楽しいです。 ものを作ると言う事は遊んでるって言う事と同じ感覚でやってます。  

3月には2人展を東京の画廊でやらせていただきます。 来年は個展を7月にやらしてもらいます。  お勧めの1点としては、サルバドール・ダリの引き出しがついたビーナスと言う、自由な発想で作れると言う思いが、いまだに頭に浮かんできます。

自分1人ではできるものではないので、出会った周りの人に助けられて何とか続けられていることにありがたいと思ってます。


2026年2月25日水曜日

高野孝子(早稲田大学教授)         ・「大事なものは何か、考えてほしい」

高野孝子(野外・環境教育活動家 早稲田大学教授) ・心に花を咲かせて「大事なものは何か、考えてほしい」 

高野さんは、若い頃は冒険家として知られ、その後自然環境の中で学ぶ環境教育活動家として活動しています。  ケンブリッジ大学やエジンバラ大学で学位を取り、サスティナビリティや教育分野の博士でもあります。 その高野さんが30年以上にわたって実施しているのが、ミクロネシアの島に若い方を連れて行くヤップ島キャンプです。 引率のスタッフは指示をせず自分たちで考えさせるキャンプだそうです。  なぜそのようなキャンプを始めたのか、どんな狙いがあるのでしょうか高野さんにその思いをお聞きします。

高野さんは20代、30代の頃、アマゾンン川を1500キロカヌーで下ったり、北極点をパラシュートで降りたり、マダガスカル島での命がけのレースに参加したりだとか、冒険家のやることでしたね。

私にとっては、アマゾン川を下るるのも、北極点にパラシュートで降りたりするのも、北極海を犬ぞりで横断したのも冒険をしに行ったのではなくて、旅の延長だったです。  自然環境の中で生きてる人に会ってみたいと言うのと、山とか川とか自然の中で体を動かすことの気持ちさは好きです。  自分が面白いなと思ったこととか大事だなぁと思ったことがあると人に伝えたくなる性分なんです。    旅をしながら同時に一緒に人に伝えたいということで、教育に見えてしまいますが、大学院生の時に海外の街がないと言うようなところで、海外のいろんな人と一緒に調査が暮らすと言う3ヶ月がありました。 そこで初めて人がどうやって生きていけるのか、シェルターを作ろう、飲み水を探そう、トイレをどうしようと言うところから、暮らしを作り始めました。

持ち込んだ食料もなくなったりします。 自然が壊れてさえいなければ、人は生きていけるんだなぁと言うことをまず実感しました。  もっと大事なのは仲間だったんです。  必要なものを分担してできるし、生きる力みたいなものが湧いてきます。  自然に暮らしている人たちの所へ旅をするようになると、今度はそこに知恵とか技術と言うものの大切さが入ってくるです。  そうするともっと豊かな暮らしができると言うことが旅先で出会ってわかります。  特に若い人たちがそういうことを見つけて欲しいと思ってます。 インフラがなくても自分は生きていけると言う自信にもなります。 仲間の大切さ自然の大切さわかります。  豊かに生きてゆくためには知恵と技術が必要です。  

ミクロネシアのヤップ島のイフルクと言う島ですが、そこでは電気とかモーターとか、近代技術的なものが禁止されてます。  風を使ってカヌーを送る?、漁に行く、この暮らしが1番便利だといいます。 モーターを使うとガソリンが必要で買ってこなくてはいけないし、壊れてしまったら直し方はわからない、そういうことに依存した暮らしは大変不便である、と言いました。  現代社会の便利さは、大変さを取り除こうとしてるんだと思います。

ヤップ島に子供たちを連れて行って、食べ物調達から自分でやらせるキャンプをしています。  自然が健全であれば、人は生きていけると言うことをどうしたら他の人に経験してもらえるんだろうと思って、場所を探しヤップ島に至りました。  そこでは石のお金を使ってます。 石のお金は資産なんです。  1番大事な使われ方は、その人が徹底的に悪いことをしてしまったときに、大事な石のお金を渡すので、勘弁してくださいと言う時に使われるものです。 その石を取るためには、パラオまでカヌーで行って、大変な苦労をして持ち帰って、気の遠くなるような時間をかけて加工してものです。  

個人が持つものではなくて、大抵はコミュニティー全体のものになったり、チーフが管理するものです。  ヤップ島には現在7000人ぐらいが住んでいます。   3000年前から人が住んでると言われてます。 ヤップ島は色々な国から統治されてきた歴史があります。 日本からも統治されました。 今は独立しています。   最初に行った時は懐かしい感じがしました。 穏やかな空気が流れていて、伺った家の長老は日本語を話します。  

古い掟がきちんとあって、うるさくてはしてはいけないと言うのもあります。   リスペクトにまつわる掟がいろいろあります。  かつては部族同士の戦いがあったので、片手に何かを持っていると言う事は戦意がないと言うことを証明するんで、必ず何か片手に葉っぱでもバッグでもいいんですが、持っていくような掟があります。 木とか落ちている実でも所有者がいます。 一言言えば「どうぞ」と言うふうに言って言ってくれますが、勝手にとってはいけない。 海です漁をして良いかどうかの区画が決まっています。 

そこへ子供たちを連れて行くキャンプを30年以上やってます。 自然の中で暮らし秩序だって暮らしている彼らの知恵に触れることで、きっとそこから得られるものがあると思います。 大事な事の1つは、人はどうやって生きていくのかと言う事とお金があること=豊か、ではない。  お金では買えないものを見つけてくれるんではないかと思います。  最初は小学生、中学生、高校生が多かったんですが、今は大学生位が多いです。 問題意識と、自分を試してみたいと言う気持ちで来る人が多いです。 子供たちはMax 10人ぐらいです。 日々を暮らすという事は大事な時間です。 

ヤップ島は目的別に家を作るんです。 食べる家、寝る家、憩う家、少年たちの家 、別に母屋があって子供が小さい頃はそこで暮らします。 子供の頃から家の建て方は大人と一緒に作って学びます。 トイレは以前は海で処理していましたが(魚が食べちゃう)、最近は変わってきて穴を掘ったりと言うような方法をやったりしてます。  材料を取ってきて作るところから発想を変えていきます。    トイレを作ったり、台所を作ったりします。  島の人たちからいろいろ教えてもらいながら、初日は暮らしの準備をします。

ヤシの葉っぱでマットも編みます。 その上でその日から寝ます。 マット編みは難しいので、最終的には島の人たちに手伝ってもらってやってもらえます。  食べ物はこちらの趣旨を説明して分けてもらうようにしてます。主食はタロ芋です。果物がたくさんあります。魚は取るのが難しいので、差し入れがあります。ココナッツの実を裂くのにも、村の人ですと30秒ででできるのが、私たちがやると15分ぐらいかかります。根気強く教えてくれます。

地元の人たちから生きるスキルを学ぶキャンプです。  11日から12日のキャンプです。  最初の三日間は慣れる期間、次の三日間ぐらいはホームステイーに行きます。 そこでいろんなことを吸収します。 最後に活動する期間があって、教えてもらったり、覚えたことをを生かして、何かお世話になった地域のためにできることを自分たちで考えてやる時期です。 

最近は外からいろんなものが入ってくるので、環境汚染が1番の懸念点です。   ゴミの処理は課題です。 キャンプをしたことによって価値観の変化はあるんだと思います。 お金ではない物差しがあるんだなと言うことに気づくと思います。  自然の力で生かされてるって言うことを実感すると思います。 スタッフは一切指示はないです。 不安定な時代を迎えていますから、自分で考えて自分で道を作っていくつもりでないと、誰かのせいにして生きちゃうんじゃないかと思います。 堂々と自分で責任とって自分で決めるほうがいいかなと思います。


2026年2月24日火曜日

筧利夫(俳優)               ・「俳優という仕事をふり返る」

筧利夫(俳優)               ・「俳優という仕事をふり返る」 

筧さんは1962年静岡県生まれ、大阪芸術大学芸術学部舞台芸術学科卒業、大学時代は当時学生劇団だった「劇団新幹線」に所属し、卒業後鴻上尚史さんが主宰る「劇団第三舞台」に参加。 2011年の同劇団の解散までのほとんどの作品に出演します。1997年民放の刑事ドラマに出演して、クールな演技が話題となり、一方では、熱血感の青年を演じるなど、変幻自在の演技が人気となります。舞台では、井上秀典さん、つかこうへいさんなどの作品を始め、「ミスサイゴン」などのミュージカルにも出演しています。

NHKでは、ラジオドラマ青春アドベンチャー『 羽州ぼろ鳶組』の主人公の松永源吾役で6年ぐらいやりました。  熱海に住むようになって4年になります。    海までは歩いて10分位のところです。(山の中腹)

高校までは浜松にいました。 商業高校でバスケットボールに入ってました。   バスケットボールばっかりやっていて、進級できるような成績ではなかったですね。  役者になりたくて第一希望は日大芸術学部でしたが、こちらは国語と英語の試験があり、二次試験が実技の試験でした。  大阪芸術大学は実技と面接と小論文だけでした。  

「広島に原爆を落とす日」と言うつかこうへいさんの作品に出ました。  「新幹線」ではつかこうへいさんの芝居を中心にやっていまいた。   大学4年の時に、「さらばミスターつかこうへい」と言う3本立をやり爆発しました。 劇団を解体するという話がありました。 東京で「劇団第三舞台」と言う鴻上尚史さん主催の劇団があって、そこのオーディションをやると言うことでオーディションを受けて来いと言われて行きました。 2000人の応募者がいました。3人二次試験に行って、最終的に僕が受かりました。

井上秀典さんから振り付け等の指導を受けました。振り付けは、井上さんからのストックだと言うことに気が付きました。  新幹線時代の振り付けをやると全部ダメだと言われてしまいました。  「劇団第三舞台」へはエースピッチャーのつもりで入りましたが、裏方になってしまいました。  ダンスを習いに行って、その動きを振り付けに当て込んでいきました。 鴻上さんのセリフは、「劇団第三舞台」の人でさんざんしごかれた人でないとできない。  そこで何年かやったので、僕はそこでセリフの覚え方を完成しちゃいました。  芝居ってラジオドラマと同じなんですよ。想像するのはやっぱり音なんです。  1990年「飛龍伝」に出演、違和感がなかったのは、「新幹線」に出ていたからかと思います。

つかこうへいさんの芝居は、セリフは基本長いです。 セリフを足していって一向に減らないんです。(台本がない。)

ミュージカルの「ミスサイゴン」ではオーディションを受けませんかと言う話が来ました。  ミュージカルは全く初めてです。  一生懸命やったつもりでいましたが、半音符が上がっていました。  周りの顔は曇ってました。  以後1時間自分の曲をピアノでさらって、チェックしてやるようになりました。  苦労しました。

来月3月から始まるのが、井上ひさしさんの出演初作品になる、1982年初演で小沢昭一さんの「シャボン玉座」と言う小沢昭一さんの劇団のために書かれた作品です。 「国語事件殺人辞典」という40年以上前にあった作品を改めて上演します。 その主演をやることになりました。(日本語学者の役)台本は読みやすかったです。

「国語事件殺人辞典」の日本語学者の花見万太郎と言う人は、正しい日本語を自分たちの都合で勝手に変えていってはいけないと言うことを人々に伝えるために旅をする人なんです。   日本語が時代と共に変わっていくところがあって、先生の方が教えられてしまいます。  だんだん自信がなくなってきます。  最後の最後には、新しい時代の人に撲殺されるようなイメージになってます。  井上ひさしさんは台本をたくさん書いていますので、言葉に対してはかなり厳しい方だったと思います。 花見万太郎さんと言う存在は自分自身の象徴みたいな立場も入っているんじゃないかと思います。    

今年64歳になります。 仮面ライダーに変身するのをやりたいと思います。(変身もの)    体は絞っておきたいので、炭水化物はできるだけ食べないようにしています。 昔はジムに週3回ぐらい行ってましたが、今は軽い運動を毎日やってます。




2026年2月22日日曜日

花山周子(歌人)・柳田邦男       ・「寄り添う心を介護短歌に託して~2025」

花山周子(歌人)・柳田邦男   ・「寄り添う心を介護短歌に託して~2025」

介護にまつわる体験や思いを詠んだ短歌を広く募集するNHK財団などが主催する新介護百人一首、今年も12,000通を超える作品が寄せられました。  9歳から103歳までの幅広い応募があって、先ごろ入選作品100首が選ばれました。 この時間は航空機事故や震災、原発事故等命をテーマにした調査報道や執筆活動を続けてこられたノンフィクション作家の柳田邦夫さんと選者を務められた歌人の花山周子さんのお二人に、作品に込められた思いや背景などを語り合っていただきました

柳田 父と兄(19歳)が結核で在宅療養していて、病人が家に寝ているのは日常当たり前でした。  私が朝6時に出て農家に行って牛乳をもらってきて、父や兄に与えて学校に行くと言う少年時代でした。 80年代90年代癌の闘病記がたくさん描かれるようになった頃、数百冊読みました。短歌の場合には命の泉というか、命が湧き出る泉のところから何かが湧き出てくるような、そういう響きが短歌で詠む闘病記の特質だと思ってます。

花山 毎年、幅広い世代の方から多くの歌をいただいています。それを読むことが私にとっても大切な体験になってると言うことを感じています。 介護100人首と言うのは短歌と言う形で作品化することで、孤独、苦悩を打ち明け合い、共有できるような場所になっているのではないかと思います。 介護の現場の問題と言うのはそのまま人間社会の問題であるんだと言うことを痛感しています。  人と人とのつながり、人と人との思い、そういったものが透けて伝わってきます。

「皿を洗う水音に紛れ深呼吸心を整えまた寄り添わん」

本人解説 介護の合間にふっと訪れる小さな疲れ、水音に身をゆだね、深呼吸することで自分を立て直し、再び優しさをもって向き合う姿を描きました。 東京都青山将司さん42歳

柳田 介護する側、ケアをする側は絶えず葛藤の中にあると思うんです。    愛する人が命の危機にさらされたり、あるいはその人の人生が挫折したり、仕事もできなくなったりとか、そういう中で介護する側もすごい挫折感があるだろうと思うんですね。  挫折感が水音に紛れて深呼吸をすると言う。  この表現で深いところの心理状態がよく表現されてるなと言うことを思います。  複雑な葛藤をこの短い文言の中で表現してるなと感動を受けます。

花山 作者はまだ42歳で仕事をされてる年齢だと思います。 もしかしたら仕事を辞めて介護されているかもしれません。  介護は時間の切れ目のない仕事というかやらなければいけないことで、1日中ずっとやっていることだと思います。   その中で1人の時間を確保すると言うのはとても難しくて、お皿を洗っている時間だけがおそらく1人になれる時間じゃないかなぁと思います。  また寄り添わんとそこで意志がもう一度立ち上がってくると言うのは良い作品だなと思いました。

「面会でタブレット越し耳寄せて何度も聞き返し過ぎ行く時間」

本人解説 おばあちゃんの入居する施設の面会はタブレットを使用するのですが、回線不良で声が途切れたり、耳が悪いおばあちゃんには声が届かず、時間ばかりが過ぎていた場面です。 長崎県磯田夏帆さん18歳

柳田 18歳の女の子らしく、情景を非常に情感深く捉えて感じてるなぁと感じてます。

花山 こういう場面を体験されてる方はすごく多いと思います。 限られた時間内で聞き取りにくいもどかしさや焦りと言うのは非常に臨場感を持って歌われていてとても良い作品だなと思いました

「火葬場で曽祖父の骨見てみると手術とリハビリ頑張ったあかし」

本人解説 曾祖父の火葬が終わり骨を見てみると、大腿骨に大きなボルトが入っていて、リハビリを頑張って歩いてたんだなと少し悲しかったことを表しました  長崎県島川颯輝さん17歳

柳田 骨、これは強烈な情景描写のモチーフになると思いますけど、骨を通じて曾祖父の人生を感じ取っている。 鋭く読み取っていると感じました。

花山 生きていた頃には見えなかったボルトが、お骨になったときに初めて姿を表して、その時に生前の曾祖父の大変さを時間差で判る感じるというのが、とても切なくて良いところを見て作ってらっしゃると思いました。

柳田 つれ合い親子兄弟でも元気なときには、相手に対する思いやりとか、推測とか、相手の心を察するとか、割と薄くなってるんですね。 骨になって初めていろんな人生が振り返って見えてきたりする。 それあたりの人間心理の微妙なところがよく詠まれているなと感じました。

「老々の介護疲れで隣り合う声にてウグイスが鳴く」

本人解説 義父(軽度認知症)の面倒を見ている義母が、義父の対応に日々イライラして毎日怒鳴り合って喧嘩しています。 そのような喧騒の中、庭から場違いのウグイスの鳴き声が聞こえました。 なんとも不思議な感覚を表現しました。 神奈川県進藤友海さん54歳

柳田 歌を読んだ人の感性が開かれて、鋭敏になっているという感じがします。

花山 大変な中ウグイスの鳴き声によって、緊張が解けたような感じがします。  ちょっとユーモラスなところもあります。

「施設行く朝父が言う微笑んでお前の介護嫌じゃなかった」

本人解説 介護疲れから喧嘩が絶えず、ついに父親の入所施設に踏み切りました。入所日の朝になり、父が穏やかな笑顔で私に言った言葉でした。 いやだと言ってくれないと行かせられないじゃない、泣く泣く別れました。 大阪府高橋直子さん61歳

柳田 男と言うものは、妻にしろ娘にしろわがままだと思います。  介護を受けている立場であっても、どっちかと言うと文句の方が多くなる。 でも、心のどこかではありがたい、家族っていいもんだと思っているわけなんですね。 微妙な男の心理状態、それを嫌じゃなかったと言う平凡な表現だけれども、それが表しているなと思いました。

花山 私はこの歌を娘の側から読んでいて、昨年父が亡くなって、生前大喧嘩をしていたと娘だったので、この感じはとてもわかるなぁと思います。 お父さんが言った「嫌じゃなかった」と言う言葉は、喧嘩しながらも愛情が伝わっていた。 その救われる感じというのを同時にあって、その「嫌じゃなかった」と言う言葉が娘さんの心に残るんじゃないかと思います。

「幸せになろうと語る夫(つま)の文字妻を忘れたあなたの手紙」

本人解説 部屋の片付けをしていた時に、結婚前に夫からもらった手紙が出てきました。手紙には夫の綺麗な文字で夫らしい文章が書かれていました。今はもう自分の名前さえ書くのが難しい夫。  そういえばこんなに綺麗な文字を書く人だったといろいろな思いが溢れてきました。大阪府ペンネーム上さん62歳

柳田 人生を共有した密接な家族関係の間でも、感情的にはいろんなものがごちゃごちゃとあるわけで、何かがあるとふっと気づかされる。そういう不思議な人間の記憶のよみがえりというのが、この歌の中でにじみ出てるなぁと、感慨深く受け止めました。

花山 夫婦の歴史というものがあって、幸せになろうと、という事は、夫婦の歴史の1番最初に奥さんかおくられた言葉だと思うんですね。 今は奥さんのことも忘れて、手紙を書いたことも忘れていると思います。 けれども、奥様の心の中には残っている。  片側だけに残ってしまっている、まだ生きてらっしゃるけれども、その切なさというのがとても感じられました。

「口癖のできるできるができなくてできないことの言い訳を聞く」

本人解説 母自身も認知症とわかっていても、自分の事は自分でやると言い張った。 もの忘れも多く得意だった料理も危険になり、何度も鍋を焦がした。    母は怒られると思ったのか、あれこれと言い訳を並べた。  私(娘)はただただその言い訳を聞くばかりだった。千葉県大野康子さん65歳

花山 出来ていたことができなくなると言うのは、すごく不安ですし、心細い気持ちになると思います。 口癖のできるできると言う言い張ってしまう。 でもできなくて、できないことの言い訳を娘さんに言っていくわけですけれども、リフレインがすごく切ないですし、人間の葛藤みたいなものが出ていていい歌だなと思います。

「頬打たれこんなに力あったのか呆けし妻との別れを決めた日」

本人解説 夫に対してかわいそうと言う思いがあり、いろんな方に忠告されていましたが、決めかねていた夫の入院を決めました。 すごく大きな手で打たれた強さで、逃げた日でした。神奈川県県宮川美代子さん88歳

花山 認知症の方は力の制御ができなくなってしまうので、本当に強い力でぶたれたりとかされたんだと思います。  無理だと思った瞬間のその記憶が歌われていて、言葉書きで逃げた日と書かれているんです。  ここにすごく後悔とかもきっとあったと思うんです。 その悲しさと言うものがすごく伝わってきます。

柳田 終生連れそう覚悟があっただろうと思いますが、でもやっぱり暴力と言う場合に、このままでは本当に破綻が来るかしれない。  そういう土壇場の心境がよく表現されているなと感じます。

花山 デーサービスの事業所で2年間アルバイトをしたことがあります。 人って不安の中にあるときは、他人に対して攻撃的になったり、閉じこもってしまったりするかなぁと言うことをすごく思いました。 不安を少しでも和らげるためには、相手に対する尊敬であったり、親しみの気持ちというのを、まず最初に感じていただくことがとても大切なんだなぁと学ばせていただきました。

「どこまでを手伝えばいいかわからなくてその人のできること奪ってしまう」

本人解説 介護実習で、どこまでを手伝えばいいのかわからず、利用者のできる言までやってしまうことがありました。岐阜県小寺さくらさん18歳

柳田 介護に携わる看護師が患者さんの気持ちを汲み取って先に言ってしまう。 それを患者さんの気持ちを汲み取るんだと勝手に思ってしまうところが違うんです。 出しゃばり過ぎだと思うんです。

「もう充分長く生きたと言う人と次の季節の約束する日」

本人解説 80歳、90歳を越えて、もう十分生きたから、ころっと早くいきたいと言う利用者に、7月になったらスイカ割りはしましょう、秋には紅葉狩り行きましょうと言うのは残酷なことだろうかと考えて、その心情を読みました。愛知県安井そまかさん25歳

柳田 思いやりのつもりで良いことをしてあげていることが、果たして患者さんなり、ケアを受ける人にとって良いのかどうかと言うのは、本当に難しい問題なんですね

花山 今の高齢化社会の中で長生きすることもなかなか大変もあると思うんです。ころっと死にたいと言うのはよく聞きますけれども、そこら辺の複雑さと言うものがとても出ているなと思ってます

「七年の介護終えれば我は古稀ケアセンターの手続きをする」

本人解説 3年前母が亡くなり、私の介護は終わりましたが、介護中に脳梗塞になってしまい、私は要支援1の認定を受けました。 今度は子供と妻から私が介護を受けることだろう。 その日を1日でも遅らせるためケアセンターでリハビリをする決意をしました。山形県柏屋敏秋さん75歳

柳田 自分の行き先をどうするかという事をちゃんとケアする身内のもの立場から考えるなんて言うのは、配慮の深い方だなと思います。

花山 高齢化、社会の中でご自身も歳を取りながら母の面倒を見てられたんだと思います。その辺の苦しさもすごく出ていて、現実的なところも出ていてとても良い歌だと思います。

「年金の手取りで決まる入居先やっぱり最後も格差の社会」

本人解説 入居先選びも本人の年金+家族の負担が必要。人生の最後も格差社会を感じる。千葉県高澤真さん63歳

柳田 格差社会は、老後の大問題でもあります。切実だなと言う印象を受けました。

花山 今の時代は、最後まで格差社会の世界から出られない、非常に厳しいことを物語っています。 身につまされる歌になりました

「妻の手を取りて夜中にトイレへとこんな抱き合い思いもよらず」

本人解説 夜中にトイレ行くときに付き添って行く時には、しっかり夫の体を抱いて支えていきました。岐阜県志津宏子さん91歳

柳田 明日は我が身となるのかなあ。 このリアルな印象圧倒されました。

花山 老いているとは言え、男性の体を支える事はとても大変なことだと思います。 必死に連れてってあげるいると言う時間の中で、こんな抱き思いもよらずと言う言い方が大変さだけじゃなくて、何かユーモラスでもあるし、愛情も感じさせる言葉で、力強い歌になってるなと思います。


 

2026年2月21日土曜日

菅田利佳(ピアニスト)           ・夢に向かって一歩ずつ

菅田利佳(ピアニスト)           ・夢に向かって一歩ずつ 

菅田利佳さん25歳です。菅田さんは幼い頃に難病で両眼の視力を失いましたが、大好きなピアノの練習を続けて、現在は関東を中心に演奏活動をしています。    若い世代にも向けた公演にも取り組む菅田さん、来月にはそのリサイタルも控えています。  まずは昨年末和歌山市で出演した室内楽の演奏会の模様を聞いてただきましょう。  ピアノ菅田里香さんバイオリン澤亜樹さんビオラ澤和樹さんチェロ鳥羽咲音(さくら)さん フォーレ作曲、ピアノ四重奏曲第1番ハ短調4楽章より。 故郷でのはじめての公演だったので、皆さんに暖かく迎えられて幸せな舞台でした。

ピアノと出会ったのは5歳の時です。 視覚障害がわかったのも同じ頃でした。     当時楽譜を見ることができませんでした。  先生が録音したものを頼りに勉強してました。  小学校1年生から中学校までは盲学校に通ってました。 そんな中でもっと上手になりたいと思うようになっていきました。 ピアノは私にとって親友のようなものであります。 いろんな人たちと心を通わせる1つのツールとして私を支えてくれてきました。 その後点字楽譜に出会いました。  ベートーベンの「悲愴」の楽譜を持ってますが、オリジナルの方は厚さは5ミリ程度、点字楽譜は2センチ位あります。 右手部分と左手部分を4小節とか切って頭の中で合体させて1曲完成するようなやり方です。  

作曲したタイトルは「一歩ずつ」  小学校5年生の頃、音楽教室で作詞、作曲をしてみようと言う課題があって作った曲です。   2012年ピアノの弾き語りで臨んだ第37回わたぼうし音楽祭で大賞したときの演奏「一歩ずつ」でした。  高校は県立星林高校国際交流科です。 英語や国際交流に関心を持ちました。   盲学校は小学校中学校1人でしたが、集団のクラスになることになりました。   挑戦することに対してやりたいことを何度も挑戦してみなさいと背中を押していただいたことが今につながっていると感じています。 大学は東京大学に進みました。 在学中は、ピアノ以外にも国際交流の代表として参加しました。 大学卒業時には総長大賞、全盲の学生としてはじめての受賞でした。  自分の節目となるようなタイミングできっかけとなったり、背中を押してくれる人と出会ってきたことが私にとって特別なことかなと思います。       

現在は外資系の金融機関に勤めながら音楽活動をしています。  自分の音楽を通して、今度は自分が誰かの光になれたりとか、そういったことができたらいいなぁと思うようになりました。 10代の人たちへ自分の経験を伝えていくことで、これから大きな世界に踏み出していく高校生、大学生、若い皆さんのきっかけになればと言う思いがあります。  私はもっと成長しなければと言うフレッシュな気持ちを抱かせていただいたりもしています。 視覚障害を別にそんなに不便なこととして感じなくてもいいように育ててもらってきたと言うところがあって、今考えてみますと、それ以上にいろんな人たちに支えてもらって、今自分がやりたいことを一生懸命やりながら、笑顔で生きていられると言うこと、人との関わりというのを、私は大切にして伝えていきたいなぁと言う思いがあります。   

私の好きな言葉は「夢思うは招く」と言う言葉です。   この言葉は北海道で宇宙開発している植松努さんと言う方の言葉です。 周りからは無理と言われるような夢も屈するのではなくて、どうしたらできるかと言うことを考えて、一歩一歩進んでいったら夢を叶えることができる、と言うメッセージが込められた話でした。(星林高校時代に出会った言葉)   来月にはソロリサイタルが控えてます。主催は母校東大の近くの商店街です。八百屋さんのご夫妻とすごく仲良くなりました。  それがご縁で地域のイベントの1つとしてコンサートホールでリサイタルを行うことになりました

2026年2月19日木曜日

工藤公康(元プロ野球選手・野球評論家)   ・「勝利を導くメモ~常勝チームの育成の秘密~」

工藤公康(元プロ野球選手・野球評論家) ・「勝利を導くメモ~常勝チームの育成の秘密~」 

去年秋に「工藤メモ」と言う本を出しました。工藤さんは1982年に名古屋電気高校現在の愛工大名電高校からドラフト6位で西武ライオンズに入団しました。現役代は黄金時代の西武、その後ダイエー、巨人、横浜で活躍してプロ通算29年間で224勝を挙げました。選手としてリーグ優勝は14回。日本一は11回その輝かしい実績から優勝請負人とも言われました。2011年に現役引退後は2015年から7年間、福岡ソフトバンクホークスの監督を務め5回日本一に輝きました。その強さの秘密には常日頃から選手を細かく観察して練習や試合を見て気がついたことを常に持ち歩いている、スケッチブックやノート、メモ帳に書き記し、どのタイミングでどういうアドバイスの仕方の選び方をすることが最も効果的かを考え続けることができました。メモを習慣化してアドバイスすることが思考や行動を見て、次の準備につながっていくそう考え、ホークスを常勝チームに育てあげました。メモを効果的に活用した組織作りについて工藤さんに伺います。

タイトルも最優秀選手MVP 2回が最優秀防御率4回、最優秀勝率4回など様々なタイトルを獲得しました。2011年に現役引退後は2015年から7年間、ソフトバンクホークスの監督を務め、7年間で5回日本一に輝きました。評論家以外は会社から呼んでもらって、講演をしたり、農業をしたり、野球教室をしてます。  野球教室は30位からやってる活動です。子供たちへの農業体験もしてもらってます。  1番大事なのはやっていて思ったのは、グラウンド上で不安な表情とか不安にならないためにできるものはしっかり準備してゲームに臨むと言うところではないかなと思います。 僕自身の基本はしっかり準備すると言うことになりました。  

プロに行くつもりでいましたが、両親がお前などプロで通用するわけがないと言われて社会人に行かざるを得なかった。 その後父と根本さんが話をして変わりました。 入ったときには、こんなところに来るのではないと言うほどプロの壁は高かったです。  プロ3年目で広岡さんからアメリカへ行って来いと言われました。    そこで成績が出なかったクビになると言うような状況でした。  3人のクビになった人から話を聞くと、3人とも自分には能力がある。  だから、そのうち必ずメジャーに上がってアメリカンドリームを手に入れるんだと、俺にはその能力があると3人とも言いました。  そこからは周りを見ないで、これは自分のために必要なんだと練習して、3ヶ月後にはボールの速さも速くなりました。  僕が変われるきっかけになりました。  結婚して食事にも気をつけるようになりました。     

プロ29年間で4チームでプレイしました。  複数の球団でプレイしたことがうまく活躍できた要因だと思います。  成績を残すためには、自分には何ができるんだ何が足りないんだというのを考えながら、1年1年を過ごせたと言うのが大きいんだと思います。  他の球団に行って、初めて強いとは何かとか弱いとはどういうことなのかということが少しずつわかってくるようになりました。  ダイエーは練習しないチームなんだと思いました。  人は失敗をしないと学ばないので、失敗をさせてそこから学んで繰り返して行かないと、城島と言うキャッチャーは自分でサインを出せるようになっていかないとチームは強くはならない。

2015年から福岡ソフトバンクの監督に就任しますが、これは王貞治会長からの要請でした。 コーチの経験はなく、いきなり監督になりました。 足りないなぁと思ったのはユーティリティプレイヤーでしたので育てていこうと思いました。   就任した年に優勝することができました。  僕が監督になった時は2014年が日本一だったので、ほとんどメンバーが変わらない状態でした。  ちゃんとコンディショニングを作っていけばある程度のところまではいけるのではないかと思いました。  

2016年は優勝を奪われたので、監督としてのあり方を見つめ直すことにしました。  思っていることがうまく伝わらなかったり、思ってもいないようなこともその場の雰囲気で言ってしまったりして、少しずつ間違いが始まって、選手たちの信頼をなくしていったと言うのが2016年でした。  メモにエラーした状況とか、サインを出してうまくいったかいかなかったとか、試合の状況をいろいろ書いておきました。  年々詳細になっていき映像と比較してコーチと相談して今後どうしようか考えて実施してきました。  自分から選手のところに行くようになりました。  選手と話をするのはコーチを優先させるようにしました。  感情論で言っても解決はしません。  エラーをしたならば、その翌日色々と伝わりやすい言葉、相手が理解しやすい言葉に変換して伝えます。  選手が実際どんな行動をしてどういう思いを持ってやってるかっていうのをちゃんと知ると、多分僕らがどう動いていいかも、必然的に見えるんではないかと思います。

山梨県内の畑で野菜作りもやってます。始めたきっかけは息子です。野菜を育てる事は人を育てることと一緒だと思います。  手間ひまかけるほど良い野菜ができる。  愛情が1番大事です。 買ってきたものとそこでできたものとで料理して食べるのでは味が全然違います。

2026年2月18日水曜日

吉澤昌(副理事長 サッカー・コーチ)    ・スポーツ明日への伝言「みんなでやりたくなるサッカーを!」

吉澤昌(認定NPO法人副理事長 サッカー・コーチ)    ・スポーツ明日への伝言「みんなでやりたくなるサッカーを!」 

ヨシと呼んでもらってます。トラストスと言うのはポルトガル語で足跡と言う意味になります。思い出を足跡と捉えてトラストスにしました。2003年から任意団体として活動を開始しました。自分が活動している団体は少なくとも月に18回でしたが障害の団体では月一回でした。雨になってしまうと2ヶ月3ヶ月に1回になってしまいます。トラストスを立ち上げるときにはできるだけ回数を多くしようと考えました。年齢制限もありませんし、運動能力の差とかは考えずに一緒にやろうとしました。場所は東京、神奈川中心です。

私は昭和50年生まれです 東京出身です。サッカーは中学校に入って部活動を開始しました。きっかけは兄がサッカーをしていました。目の見えない子供たちのサッカーをしている番組がありました。今で言うブラインドサッカーです。  目が見えなくても、できるんだと言うことに衝撃を受けました。そして、指導者の道に進んでいきました。指導者としては、Jリーグのトップチームの下部組織の指導も行いました。(4年ほど) 介助員と言うアルバイトがあり、その時に知的障害、自閉症を知ることになりました。今で言う特別支援学級です。

当時中学3年生で自閉症で登校拒否の生徒がいました。その子がサッカーが好きって言うことを聞いていました。サッカーで何とか学校に出てくるようにできないかなと考えました。それを見に来るようになって、そのうちに学校に来るようになりました。その時の彼らと一緒にあるサッカーがものすごく楽しかったです。

中学校の体育のサッカーは僕も一緒になってサッカーして一緒になって喜んだり残念がったりしてましたが、夕方以降は自分自身が笑って指導しないと言うことに気づきました。夕方以降はJリーグのトップチームの下部組織でコーチをしていました。どっちが自分のやりたいサッカーなんだろうとすごく迷いました。知的障害のある子供たちとやっていく機会を作っていこうと思いました ミツコーチと話し合って、サッカークラブを作っていこうと話し合いました。

それから20年以上経ちました。

*高橋優さんの「福笑い」 作詞:高橋優,作曲:高橋優

「あなたが笑ってたら、僕も笑いたくなる」 と言うのは、まさにに僕の中学校の時の思いです。自分たちが主役なって動いてもらえるような形のものを提供していきたいと言うところから、「やりたくなるサッカー」と言うことをモットーにして活動しています。お手本があるわけではなかったので、いろいろ考えて試行錯誤して活動してきました。

ルールから入ってしまうとつまらなくなると思いまして、ルールは後からと言うふうにしました。本人の居場所と言うことを大事にしている部分です。サッカーを通して日常が豊かになっていくようにしていくのが僕らの役目だと思っています。僕らは一緒になりたいと思っている。遠ざけることだけはしたくないと強く思っています。  彼らがどうしたらやりたくなるのか、やってくれるのかなあとそういったところを探ります。  やっていて、よくも悪くも裏切られる瞬間がありまして、そっちかぁと思ってました。 そういった経験が続くと、僕たちも当然引き出しが増えていきます。現場で子供たちと駆け引きする瞬間が結構楽しみなところがあります。 本人だけではなくて、彼らはお家の方が連れてきてくれるので、お家の方々が本人の様子を見ている。 お家の方々に喜んでもらえるということがすごく大事なことです。

トラストスの活動の中にFC東京との連携でJリーグの試合を見に行ったりと言うこともあります。光とか音が苦手なお子さんもいます。 苦手な音も多種多様です。(聴覚過敏)      最近は、FC東京のホームゲームの運営の所のスポーツボランティアの人たちが入っていますが、そこにトラストスのメンバーも一緒に参加してもらったりもしています。ボランティアとして支える側にも回っています。「ありがとう」と声をかけてもらえると、彼らもにこっとするんです。  彼らと共感できる楽しさも味わえることができました。

トラストスが、彼らの居場所になってくれればいいと思ってましてその中でサッカーが好きと言うものでいいと思ってます。 活動拠点を増やしていきたいと言うことと、もっと身近に楽しいスポーツを感じてもらうと言うことを広げていきたいと思います。

2026年2月16日月曜日

常磐津文字兵衛(常磐津節三味線方)     ・にっぽんの音 能楽師狂言方 大藏基誠

 常磐津文字兵衛(常磐津節三味線方)     ・にっぽんの音 能楽師狂言方 大藏基誠

常磐津文字兵衛さんは東京都出身64歳。 四代目常磐津文字兵衛の長男として生まれ、1996年に5世 常磐津文字兵衛を襲名。 150年以上続く名跡の継承者として、演奏会、歌舞伎の舞台に立つほか、作曲家としても多くの曲を手がけ、西洋楽器とのコラボレーヨンなども積極的に行っています。  長年母校の東京芸術大学で後進の指導にもあたっています。 

今月は「積恋雪関扉」(つもるこいゆきのせきのと)という歌舞伎の演目に出演しています。    「国宝」でも最初の部分に取り上げられました。  1時間半あります。 短いと6分ぐらいのものもあります。  舞踊劇としては一番長い分類です。

ストーリー的には説明が非常に難しい。 一日がかりで上演した長い歌舞伎の最後の一幕です。  長い部分はいつの間にか上演されなくなってしまった。  最後の部分だけが頻繁に上演されるようになった。  関守:中村勘九郎  小町姫、傾城墨染 実は 小町桜の精:中村七之助 良峯少将宗貞:八代目尾上菊五郎 初演は1784年  関兵衛実は大伴黒主…初代中村仲蔵

立て三味線、バンドマスターのような地位。(コンサートマスターを兼ねるようなもの)   常磐津の編成は三味線3人、大夫が4人で舞台の下手又は上手で演奏する。  舞台上に斜めに座っている。  1時間半ぐらいをずっと座っていて演奏する。 

10歳で三味線始めました。  常磐津と言うのは浄瑠璃を語る、セリフのある音楽。 長唄は唄ものの音楽、竹本は義太夫節の歌舞伎版、関西発祥。  常磐津節は江戸です。 清元も常磐津節から70年後にできますがこれも江戸のものです。 設立は1747年 その前に豊後節が一世を風靡した。 宮古路豊後掾と言う人が一代で大スターになった。  豊後節は心中もの、駆け落ちものが多かったために、心中事件、駆け落ち事件が増え幕府から目を付けられ潰されてしまう。  宮古路豊後掾の弟子たちから常磐津が出来て来る。  その後富本節が出来、そこから清元節が出来る。 常磐津節で使っている三味線は中竿三味線です。 長唄は細竿、竹本、義太夫は太竿。

*「乗合船恵方万歳」 常磐津節の代表的演目   

舞台は初春の隅田川。この演目には、女船頭、白酒売り、太夫、才造、通人、大工、芸者の7人の登場人物。 <七福神>の見立てになる。

鳥の鳴き声、動物の鳴き声、楽器(鼓)などを三味線で表現します。 隅田川の情景なども表現します。 

作曲もしてきました。(200曲近く)  父は400曲ぐらい作っていました。 

2019年からはピアノ、フルート、三味線でトリオを結成、海外でデビューしました。(パリ)  年に1度ぐらいは国内外で演奏しています。  洋楽器と比べて三味線は雑音成分が多い。  

日本の音とは、拍子木の音。 








2026年2月13日金曜日

落合恵子(作家・子どもの本の専門店主宰)  ・「“わたし”を生ききる覚悟~前編」

落合恵子(作家・子どもの本の専門店主宰)  ・人生のみちしるべ「“わたし”を生ききる覚悟~前編」 

落合さんは1945年栃木県宇都宮市出身。(81歳)  明治大学文学部英文学科卒業後、昭和41年に文化放送アナウンサーとして入社、人気アナウンサーとして活躍します。   29歳の時に文化放送を退職し、作家として本格的に執筆するようになります。  現在は子供の本の専門店のほかオーガニックレストランなどを東京と大阪で主宰、小説、エッセイ、絵本の翻訳のほか、フェミニズム、人権、平和、環境など社会的なテーマにも取り組んでいます。 落合さんは去年12月「がんと生き切る 悲観にも楽観にも傾かず」と言う本を出版しました。この本は落合さんが2023年にステージ3Aの肺がんと診断されてからの日々、心境や闘病の記録を綴ったものです。 

昔は夜更かししてお日様が登るころに寝ようかなと言う様な状態でしたが、今は朝5時には起きます。  種を蒔いて芽が出て来るのを何十年とワクワクしています。  「がんと生き切る 悲観にも楽観にも傾かず」を出版。  肺がんを公表しました。  ゲラ刷りを病院のベッドでチェックをしていました。 (旅先でチェックをしているように見せかけるためにメールでやっていました。) 周りに告げなかった最大の理由は一人で考えたかった。 自分で答えを出さないと、結果についても責任を持てないと思いました。 選択するか、選択しないか。 自分の渦に誰も巻き込みたくないという思いもありました。  自身の経過、患者と医師との関係などいろいろ悩みました。  医師になかなか全部相談できない自分、あるいは他の患者さんの様子を眼にしてきました。  

最初のページには23年と25年の2枚の写真があり、23年の方には髪の毛が全くありません。(自撮り)  必ず生えてくるからねという事を知って欲しかった。  元気でありたいけれど元気ではない人もいます。  自分も受け入れ、社会も受け入れる柔らかさを持ちたいと思います。  「辛いよ。」と言えるような人間関係と場所とスペースを作りたい。  夢を持つことは人間を元気にしてくれる。  自分の声をちゃんと聞いてあげるという事は他者の声も聞く事になる。 

「病はすべて身体的にも精神的にも個人差があり、あらゆる人に万能な治療法はないのではないかと考えて来たし、今もそう考えている。 ・・・可能な限りこのかけがえのない体験を重ねようと自分と約束した。 それが自分に対する責任の取り方だと思うから。・・・どんなに抵抗しても私は私から逃げることは出来ないのだから。 だから自分が選ぶ!」 ここから話が始まります。 (「がんと生き切る 悲観にも楽観にも傾かず」の冒頭部分。)

一番最初の一番大きな迷いは、治療を受けるか、受けないか。  がんであることはほんの私の一部でしかない。  自分の気持ちを書いておきたいという思いがあって、文章をスケッチブックに書いていました。 10代になって女性週刊誌に載って原稿料を貰って、こんなに入るんだと嬉しくなりました。  母は結婚しないで大好きな人の子(落合恵子)を出産した。  母を介護するようになって、病院の母のベッドの隣に寝ていたある夜、こっちをすっと見て急にニコッと笑って、「あのね、私あなたのお父さんが大好きだったの。 お休み。」と言って、ちょっと泣けちゃいました。  「貴方の人生だからあなたが決めていきなさい、何してもあなたが責任を取ればいい。」と言われました。 病気になった時に独りで考えたいと思ったのも、母からどこかで受け継いできたものかも知れないですね。  

「言葉って何だと思う。  言葉にならない思いがここにあると指さすのが言葉だ。」    長田弘さんの詩の一節。

昨日書いた言葉が、今日は消す場合もある。 人生はやり直しが出来ないと言いますが、言葉はやり直せる部分もあるし、自分がその言葉を内側に受け入れた時は、それを大事に握って行こうと思います。 「闇の中で座っている人は、自分の夢に灯をともしている。」というドイツの女性の詩人の詩があります。 闇の中に座っていても、明るい光を自分の側から生み出すこともできる。   そんな仕事が出来たらどんなにうれしいか。  言葉に出会う人がもっと増えたら、もっと人は人に優しくなれるかなと思いました。  本の活字が誰の気持ちをノックするのか、それも考えたいという気持ちが凄く強かったです。 

レイプ、セクハラ、など言葉にならないと、その事実はないと同じような扱われ方をする。  セクシャリティーに対する差別、年齢に対する差別、いろんな差別があるという事を見直さなければならない。  時代よりも早く作品が生まれて来ています。  嬉しいのは、当時出会った人たちが今でも元気にしていてくれて、いろんなところで出会います。 

2022年に出版した「わたしたち」 女子校で出会った4人の少女の友情とそれぞれの自立した人生が長きにわたって描かれる。 「大事なのは何になるのかではなくて、私が私になってゆく事。」  人は自分として生まれてきている。  自分はこうでありたい、私はこういう道を生きたいと思っている自分に向かって自分を作って行く、その作ってゆく側の一人が自分なんだ。  人生の岐路に立った時に大事にしているものとは、「私が考え、私が感じ、私が決める事。」  「がんと生き切る。 悲観にも楽観にも傾かず。」 

















2026年2月10日火曜日

長南宰司(元海上保安庁特殊救難隊隊員)   ・「海難救助“最後の砦”~海上保安庁特殊救難隊にかけた人生」

 長南宰司(元海上保安庁特殊救難隊隊員)   ・「海難救助“最後の砦”~海上保安庁特殊救難隊にかけた人生」

海上保安庁特殊救難隊、海難事故が発生すると現場に向かい、時には命がけで救助を行うエキスパート集団です。 「海猿」と言うタイトルで漫画やテレビドラマ、映画のモデルにもなりました。 結成から数々の困難な海難事故で、救助活動を行って来た初代隊員長南宰司さんに、半世紀に及ぶ特殊救難隊の歩みと長南さんの波乱万丈の人生を伺います。

今では年齢70歳を越えて俊敏さは少しなくなってきていますが、身長180cmの大柄で背筋もしっかり伸びていて、色黒の鋭いまなざしは変わっていない印象です。

海上保安庁特殊救難隊は通称「特救隊」とも呼ばれています。  現在隊員は41人、およそ1万5000人いる全国の海上保安官のうち、僅か0,3%という極めて狭き門です。   日々厳しい訓練を行い、卓越した身体能力と潜水技術に加えて、高い精神力と判断力を兼ね備えています。 活動エリアは全国の海です。  活動拠点である東京羽田の特殊救難基地から全国に緊急派遣されて、船が沈没した海に潜ったり、ヘリコプターから難破船に降下したりして、人命救助に当たります。  活動する現場は荒れ狂う海や沈没船の船内など、普通なら近づくことも難しい非常に厳しい環境ばかりです。  危険と隣り合わせながら50年間で殉職者がゼロという驚きの記録もあります。

殉職者がゼロというのは、訓練の賜物と思っています。  訓練も厳しく、素潜りでもブラックアウト(気絶するまで)になるまでやっています。 自分の限界を知るという事です。    1975年に発足、そのきっかけは 前年に東京湾で起きた大型ケミカルタンカー「第十雄洋丸」と貨物船「パシフィック・アレス号」の衝突炎上事故です。 (第十雄洋丸事件) 33人が死亡する大災害でしたが、炎上しながら漂流するタンカーを前に当時の海上保安庁はなすすべがなく、最後は自衛隊の砲撃と爆撃で海に沈めるしかありませんでした。 

私も対応に当たっていました。 「第十雄洋丸」は燃え盛っていて、凄い熱さを感じました。  300m離れても熱さを感じました。  貨物船「パシフィック・アレス号」は衝突した時にナフサを被って、全体が一瞬にして燃えました。  一人だけがコントロールルームの中にいて助かった。 その人以外は焼死です。  どんな手段で助けられるのだろうかと考えました。これをきっかけに特殊救難隊が発足しました。  最初に潜水技術に優れた5人が選ばれました。(事故を体験したのは私だけでした。)   隊長は北岡洋志さんでした。 潜水の教官でした。 「愛を持って仕事をしろ。」と言っていました。

最初は建物の壁、屋上を利用して訓練をしました。  ヘリコプターで行って、海岸に降下するやり方は、特殊救難隊が初めて実現させた手法です。  転覆して逆様になった船に生存している人の救助。(一昨年の11月神戸港沖合での転覆事故の生存者の救出の活動の様子 成功例)  成功した時の喜びはあります。  他の国では転覆するとその時点で諦めて、そういった救助隊は無いです。  北岡さんの「愛」が神戸港沖合での転覆事故での隊長にも引き継がれています。 

伊豆半島の石廊崎沖の漁船の転覆事故、乗組員がゴムボートで脱出、漂流する。 ヘリコプターで救助せよとの連絡が入る。  救助対象は4人で、ヘリコプターの乗せる定員は3人でした。  夕暮れで時間もないなか、決断をしたのは、私がゴムボートに残ることを決断しました。  シュノーケル、フィン、ウエットスーツ等泳げる道具は持参しました。  断崖絶壁に向かう様であれば脱出しようと思っていました。  長距離水泳訓練とか、滝つぼの中に漁網を設置してその中から脱出する訓練とか夜間での訓練とか過酷な条件下で訓練をしています。実際にゴムボートに向かって行ったら3人でした。  一人の人が「助かった。」と泣きついてきました。 (感動しました。)  

私は宮城県塩釜市の寒風沢島の出身で、子供のころは海が遊び場でした。 遊んでいて、大人の人たちに何度も助けてもらいました。  転覆船が沈むとか沈みそうにないという事を直感的に判ります。(子供の頃の経験)  

40年間の保安官の最後の任務地が故郷の宮城県の巡視船「蔵王」の船長でした。  退職を間近に控えて3月11日の東日本大震災が起きました。  いかりを入れてあったので「蔵王」は助かりました。  いかりを入れていなかった船は津波で流されたり座礁したりしました。 「蔵王」に乗り込み捜索をするんですが、悲惨な光景ですが、登って来る全く変わらず太陽は綺麗に輝いているんです。  遺体の捜索が毎日続きました。 「遺体を見つけて、そのご遺族の心も救うんだ。」と、隊員に言いました。  「判りました。」と言って出てゆきました。

当時の隊員は私の退官後も遺体の捜索を続け、心が折れそうになった時に、言葉を思い起こしたそうです。  幹部になった人もいて、その言葉を後輩に伝えているそうです。 

特殊救難隊の創設から半世紀が経ち、第三管区保安本部赤松本部長からのメッセージ、特殊救難隊を指揮する羽田特殊救難隊基地の岡基地長からのメッセージがあります。

「救える命は必ず救う。  どのような状況であっても我々は最後まであきらめないことを誓い、皆さま方からの激励と特殊救難隊の使命と誇りを胸に国民の期待に応えられるよう、これからも前進してまいります。」

「出動記録」 教訓のような資料になっている。 成功例よりも失敗例への向き合い方。

「夢と感動と情熱」という事を隊員には言ってきました。










2026年2月8日日曜日

村上佳菜子(プロフィギュアスケーター)   ・師匠「山田満知子を語る」

村上佳菜子(プロフィギュアスケーター)   ・師匠「山田満知子を語る」 

グランプリファイナルや四大陸選手権、オリンピックでの華麗な演技で多くのファンを魅了した村上さんは数多くの名選手を育てた山田満知子コーチの教え子です。  どんな師弟関係だったんでしょうか。 

2017年4月に引退。 

山田満知子さんは1943年名古屋市生まれ。 父の勧めでスケートを始めたのは小学1年生(7歳)の時、めきめきと頭角を表し、全日本女子ジュニア、インタハイで優勝を重ねます。  地元の金城学院大学家政学部進学後、現役を退きますが愛知県スケート連盟の要請で、コーチとしてリンクに復活、子供たちを指導しました。 世界ではじめてトリプルアクセルに成功した伊藤みどりさんと出会ったのは1974年、当時まだ5歳だった伊藤みどりさんの才能を見抜いた山田コーチは、伊藤みどりさんを自宅に引き取り、二人三脚で練習を重ねた結果、1992年のアルベールビルオリンピックで伊藤選手は銀メダルを獲得、名コーチの山田満知子さんの名前も世界で知られるようになりました。 その後も中野友加里さん、浅田真央さん、宇野昌磨さん、村上佳菜子さんと名だたるスケーターを世に送り出した山田コーチ、およそ65年に及ぶ指導歴で教え子が数百人にのぼります。

私は3歳からスケートを習い始めて、山田コーチから教わったのは自分でも記憶がないです。山田門下生は母親と一緒に育てて行ったと言って過言ではないと思います。  山田コーチはその人を見極めて指導の仕方がそれぞれ違っていました。  リンク以外でも、人としてどうあるべきかと言ったことを教えてもらいました。  先生の家に行くという事はかなり頻繁にありました。 旅行にも一緒にいくこともありました。 ジュニア時代は先生の家から練習に行くことも多かったです。

小学校6年生の頃には3回転アクセルを習得、13歳で競技に本格参戦、2009年15歳の時にジュニアグランプリファイナルで優勝、シニアに転向した2010年から2011年でグランプリシリーズのアメリカ杯で優勝し、グランプリファイナルでは銅メダルを獲得しました。  試合直前に自信が無くて不安だったんですが、「なんで不安なの。 私は自信があるよ。」と言ってくれたんです。  先生が自信があるなら大丈夫だと思って、緊張と不安が飛んでいき、凄くいい演技が出来ました。  

2013年全日本選手権で2位、2014年の年四大陸選手権では金メダル、ソチでオリンピック初出場、12位だった。  オリンピックでは1日30分程度の練習時間しかなくて、1日6時間練習するタイプだったので、身体がうまく作っていけなかった。 でもいい経験でした。  もうそろそろ引退したほうがいいかもしれないと言われましたが、まだやれそうな気がしたので先生に頭を下げて続けることにしました。

シニアでは音楽の選び方は、アメリカにも行っていたので、アメリカの先生が何曲か出してくれたなかから、満知子先生と一緒に選びました。  ソチオリンピックの時には、曲選びは悩みました。  1年間選んだ曲で練習するので大事な事です。  ソチオリンピックの前の全日本選手権で2週間前にショートプログラムの曲を合わなくて変え、振り付けも変えて、2週間で3か月分練習するぐらい練習して、オリンピック参加を勝ち取ることが出来ました。

2018年のピョンチャン(平昌)オリンピックへ出場するモチベ―ションはなかったです。2017年4月に引退発表しました。  第85回全日本フィギュアスケート選手権において8位となって、「スケート人生の全てを出せました」として引退を示唆。 引退の時には先生は「よく頑張った。」と言ってくれました。

今迄生演奏を聞いててこなかったので、なんで聞いてこなかったんだろうと思うぐらい、後悔しました。  音楽会が始まってスケートのファンの方も来てくれます。 相乗効果でクラシック界とフィギュアスケート界が盛り上がって行ってくれればいいと思います。 先生からは「愛されるスケーターになりなさい。」と言われたことが今も心にしまっています。

山田満知子先生への手紙

「・・・本当にたっぷり愛を与えてくれてありがとうございます。 ・・・先生の愛を当たり前のようにとらえていたのかもしれません。・・・少しづつ大人になって時の経過によって、心も体も変化して行く中でどの瞬間を切り取って思い返しても、私のすべてに先生がいてくれています。 ・・・一緒にいてくれたから沢山のことを乗り越えられたと思います。 そんな先生がいてくれたから今の私があると思います。・・・本当に感謝しています、先生。・・・」










2026年2月6日金曜日

岩室純子(DJ)              ・「91歳 DJスミロックの挑戦」

岩室純子(DJ)              ・「91歳 DJスミロックの挑戦」

岩室さんは1935年東京都生まれ。(91歳)  5年前に脳出血を乗り越えて、今なお現役で活躍しています。 DJはラジオなどで音楽を選曲操作する人のことを指しますが、岩室さんは若者が集う音楽イベントで、クラブDJとして活躍しています。  2つの曲を同時に聞き分けて、曲の切れ目がわからないよう専用の機器を使って、早さやリズムを調整して音楽を繋げるスペシャリストです。 DJとしての活動名は「スミロック」、本名純子さんのスミと岩室の岩(ロック)をかけて「スミロック」と名付けています。 77歳から始めたDJ活動の経緯とはどんなことだったのでしょうか。 国際豊かな友人関係、大病を乗り越えた現在の夢などを伺いました。 

食事などで一番若い友達は私の年齢の1/4ぐらいです。 ファンの方です。 最初はイベントの手伝いをしていました。  手伝いもなくなり、イベントを観るようになり、新しい音楽を聴く様になりました。  或る日居候だったアドリアンさん(フランス人 21歳)からDJをやってみないかと誘われました。(60何歳)  フランス人の人とは英語でやり取りしています。  DJの学校に入ることになりました。(77歳)  同時に2曲を聞き分けて、違和感なくつなげることはハードルが高そうですが、 いろいろ簡単になってきているのがあります。  自宅に機械があります。  

DJの面白さは私がかけた曲で踊って頂けることです。  戦争中に蓄音機に座布団をかけて音が漏れないようにしてジャズを聴いて居たりしました。(父と二人で)  父はジャズドラマーでした。  戦争が終わってプロダクションをやっていました。  子供のころはおとなしくていう事を聞くいい子でした。 弟が2人いるので面倒を見ました。  父が1954年に高田馬場で飲食店を始めたことで、働くことになりました。  英語を習ったり他にもいろいろ習ったりして好奇心はありました。  外国の友達もできました。  飲食店の方を66年6か月やりました  DJは終わってからやって来ました。  DJの出番も2時とか、2時半とかで、ラジオ深夜便では店でうろうろしています。  

結婚はしたくなかったが、付き合っている人と後に結婚することになりました。 子供がいなかったので自由に出来ました。 ノリのいい踊りたくなるような曲を主に選曲します。 2021年に病気になって1か月半入院しました。 脳溢血が見つかってすぐ入院して治療して(点滴)、写真では大きな血の塊もありましたが、手足も大丈夫だし脳の働きも弱っていないので、1か月半リハビリして退院出来ました。 (買い物に行って小銭を掴むのにちょっとおかしいので、病院に行きました。)

いくら考えてもなる様にしかならない。  DJの復帰をしました。  病気後、週に2回程度ジャズ喫茶で音楽を聴くのが、私の脳味噌を綺麗にしてくれて良かったです。  オファーが有ったらそつなくやりたいです。  






 

2026年2月5日木曜日

大野裕(国立精神神経医療研究センター顧問) ・「悩みとうまくつき合うヒントとは」

大野裕(精神科医・国立精神神経医療研究センター顧問) ・「悩みとうまくつき合うヒントとは」 

大野さんは1950年生まれ。(76歳) 慶応大学教授、国立精神・神経医療研究センター認知行動療法センター所長などを務め、専門の認知行動についての研究と臨床を続けて、長年取り組んできました。 大野さんはこれまで一貫して、人の心と真摯に向き合い続けてきた精神科医です。 そうした歩みの中で、人間にとって悩むことはとても大切な事、実は私自身もずっと悩み続けてきましたと語っています。  今日は大野さんの半生をたどりながら、悩みとどう向き合えばよいのか、そのヒントを伺います。

或る程度悩みと言うのはブレーキだと思います。 悩んでちょっとブレーキをかけて、周りを見ながら進んで行くというのが必要です。  ブレーキをかけすぎると進めなくなってしまうし、ブレーキを掛けないと突き進んでしまう。  「病気」と言う言葉を使う事が良くないと思います。  うつ病に原因がはっきりしているかと言うとわかってはいない。  生まれてからずーっとその人の人生を追跡してゆくという研究がようやく最近発表されました。 1970年代にニュージーランドのダミーデンで1000人余りの人をずーっと追跡していきました。 45歳までに86%の人が精神疾患と言う状態になった。  20歳ぐらいまでの若い人が多い。 医療機関に行った人はそんなに多くなかった。  

認知行動療法、悩みを解決するように手助けする事です。  悩みを解決するのは自分です。 ぬかるみから抜け出すためにどんな手立てがあるのかと考えれば、抜け出せる手立てが見えてくる。  やれば先に進める。  落ち込むという事は何か大事なものをなくしたとか、失敗したという時に落ち込むわけです。  これはちょっと立ち止まれと言うメッセージです。 さあどうしようかなという考える時間が必要なんです。  ネガティブは次の行動に繋がるきっかけになってくるわけです。 

私は愛媛県の山奥の出身です。 学校に行くのに、松山に出て下宿生活を始めました。  夜になると真っ暗になり涙が出て来て、なんでこういう辛いことをさせるのかと、親にも酷いことを言いました。 勉強もできなくなり、勉強しようとしなくなり、本当に勉強が出来なくりました。(中学)  高校1年の時に落第しました。  二度目なので少し授業がわかるんです。(意外と馬鹿ではないかもしれないと思う。)  そうすると勉強するようになってくる。   親がやる気があるのかといってきた時に、「有る。」と言ったんです、そうしたら親が何も言わなくなってきました。 (それまでは何で勉強しないのかとうるさかった。)  

優しくするとか、支えるという事は、手を出すという事もあるが、遠くから見守る優しさとかいろいろなものがあるんだなと思います。  父親は歯医者をしていて、不器用だったので医者になろうと思いました。  いろいろな大学を受けましたが、全部落ち続けました。 親は何も言わないので自分でやるしかない。  浪人して、予備校に行って仕送りがなくなったら2,3日食べなかったこともあります。  4回目の挑戦で慶應義塾大学医学部に入りました。 

小学校から高等学校までいろいろな人とのつながりの中で生きてきました。  その間周りから助けてもらいました。  人の気持ちを助けることも、人が出来る事なんだと、それが精神医学なんだという事を感じていました。 卒業後5,6年経った時に、コーネル大学の人たちが来て、来ないかと言う話があり行くことにしました。 しかし、言葉が判らない。 いろいろ交流の仕方があるんだという事は学びました。  アーロン・ベックと言う認知行動療法を作った人で、その先生からも学びました。  学会でしゃべっても人気が無く出て行ってしまう人もいて、帰ってから娘の前でも同じようにしゃべって、娘から「お父さん、いい発表ね。」と言われていて、アーロン・ベックさんからはその話を何回も聞かされました。 (繋がり)

アレン・フランシス先生からは、その人に合った治療をした方がいいという事を学びました。精神科鑑別治療学、治療があってその人がいるのではなくて、その人に合わせて治療を考えてゆくという事です。  その為にいろんな治療法を勉強しろという事が、私が習った事です。  非常に臨床的なことを学びました。  受け止める優しさ、自分でやれと言う優しさと、これが必要なんだと思います。  会話で大事なことは共感をして、一緒に現実をみて、それを自分が自分で出来なくさせている、一人の自分がもう一人の自分にどんな声掛けをしているにかと言う事を考える、これを自動思考と言われる認知行動療法の肝心なところで、自分に対する声掛けが極端になってしまうと、辛くなってくる。 

悩みに気付いてデジタルの力を借りながら整理してゆく。  疲れている時には自分の力だけでは難しいので、それをサポートするような仕組みがひとつだと思います。 相槌だけ打ってくれるフローを作って見ました。  東京都のホームページのものを解析してみると、4割近くの人が相槌を使っています。  寄り添って、聞いてもらえることが大事なんです。      自動的に出来る部分と人が介在する部分との組み合わせが上手くできればいいなあと思います。  死にたいと思って考えた人は1~2割はいます。  相談相手がいないというような時に、「宛名のない手紙」と言うものを作りました。  好きなものを好きなように投稿する。  辛い、死にたいという事を投稿する。  投稿することで居場所が出来たという感覚を持つ方が結構います。  そういったことでころで孤立を防げればいいんじゃないかと思います。

一方的に吐き出しているというよりは、書いている人の心の中に、これを読んで欲しいという気持ちがあると思います。  そこに双方向の背景があるのではないかと思います。 私は繋がりに支えられて頑張ってきました。  「遠回りだって僕の道」と書いてあったのを眼にしまた。  写真に撮ってスライドにして使っています。











2026年2月3日火曜日

渡辺俊幸(作曲家・音楽プロデューサー)   ・「新たな音楽の道、オペラに託して」

渡辺俊幸(作曲家・音楽プロデューサー)   ・「新たな音楽の道、オペラに託して」

 渡辺俊幸さん(70歳)は大河ドラマ「利家とまつ」「毛利元就」など多くのドラマ音楽や映画音楽、アニメ音楽などを手掛けてこられましたが、4年前からオペラの作曲に挑戦し始めました。その3回目となるオペラの公演が来月に控えています。  学生の頃にバンドのドラム、キーボード担当してデビューした渡辺さんが、作曲の道に入り今新たな音楽への探求として、オペラに挑戦しようと思ったのは何故か、シンガーソングライターのさだまさしさんとの出会い、そして作曲家である父渡辺宙明さんとの関係などについて伺いました。

今回のオペラは三浦環さんを題材にした作品です。  三浦さんは明治17年生まれで、ヨーロッパ、アメリカ、日本を含めて延べ2000回以上ジャコモ・プッチーニの作曲した「蝶々夫人」の主役を務めて、偉大なる歌手、偉大なるオペラシンガーです。 明治時代に世界で活躍できた超天才だったんだろうなあと思います。  東京音楽大学で助教授迄なって、その後にヨーロッパに渡って、プリマドンナとして活躍した人です。 

渡邊さんは大学に入学と同時にフォークグループ「赤い鳥」のドラマー、キーボード担当としてプロ活動を開始します。 その後さだまさしさんの「グレープ」をサポートしつつ、ソロになったさだまさしさんの専属音楽プロデューサー、編曲家を務めてきました。 1979年にはアメリカに留学し、バークリー音楽大学でクラシック、ジャズの最新の作曲、編曲技法を学びます。 帰国してから様々な音楽の作曲を手掛けるようになります。 

小学校4年生ぐらいからドラマーになりたくてドラムの練習を始めました。  高校生ぐらいから作品の編曲にも興味が出て来ました。  「赤い鳥」に入った時に活動しながら、キーボードを弾きながら編曲したほうが自分にふさわしいのではないかと考えが変わって来ました。演奏の部分は転換していきました。  自分のやりたい音楽はハードなロックよりもおしゃれなハーモニーを使ったポップスをやりたいと言う指向になっていきました。 自然にドラムには興味を持たなくなった。 

「赤い鳥」が解散して、サポートミュージシャンをやろうと思って、バンドを作ってサポートをしていました。 「グレープ」の解散コンサートでご一緒することになりました。 さだまさしさんから解散後に一緒にやらないかと声がかかりました。  彼の才能を考えると、絶対に一人でやった方がいいと薦めました。  ツアーなど4年間彼と一緒にやって来ました。   彼のトークは本当に人を喜ばせたいという思いから来ているんですね。 人を幸せにするという事は何よりも音楽の大切さなんだという事を私自身も考えて生きてきて、実践しているつもりです。 

アメリカで「未知との遭遇」と言う映画を見て、音楽担当のジョン・ウイリアムスに魅了されて、管弦楽のスタイルの音楽を書けるようになりたいと思いました。  これをやるのには独学では難しいと思って、アメリカ留学を決意しました。(24歳) さだまさしさんとの出会いがあって今があると思っています。 バークリー音楽大学に留学しました。

そこにはボストン交響楽団があり、その時の音楽担当が小澤征爾さんでした。  ホテルに着いた日にテレビをつけたら小澤征爾さんが指揮をしていて、イブニングシンフォニーと言う番組でした。 翌日デパートに行ったらある女性が、見知らぬ僕にイブニングシンフォニーを見たかと問い合わせて来て、「昨日の小澤征爾は素晴らしかったですね。」と言うんです。   小澤征爾さんはこちらでも愛されている人なんだと、驚かされました。  クラシック音楽を聴いてみようという思いになりました。 その後小澤征爾さんの指揮によるボストン交響楽団の演奏を生で聞くという体験し、凄く感動をしました。  3年間、ジャズを含めてクラシック、映画のための作曲技法も勉強しました。   

日本に戻って来て、1983年にロボットアニメ「銀河漂流バイファム」をやりました。   初めての体験なので、父に相談しました。  (2022年に92歳で亡くなる。)      父の仕事の内容には余り以前は興味を持っていませんでした。  父のやっていた劇中伴奏音楽をいざやってみると難しいので相談しました。  2018年に公開された劇場版「マジンガーZ / INFINITY」 父が作曲したものを私が編曲しました。  スピード感あふれるものにしたいと思いました。 

*「マジンガーz」 作曲:渡辺宙明

*「マジンガーZ / INFINITY」」  作曲:渡辺宙明 編曲:渡辺俊幸

子供向けの映画の音楽を父が最初に手がけた時には、なんだ子供向けかと思ったそうですが、心血注いで作って偉大さを感じます。  父がやってきた音楽人生は素晴らしかったし、私とは全く違った音楽の世界観でしたが、人の心を打つ作品はどういったものか、考えてきちっと実を結ばせたと思います。 

オペラの作品を書き上げるのには、物凄く重労働で、時間が掛かります。 台本のセリフ全部にメロディーをつけなければいけない。  セリフがおかしくない様なイントネーションになりながら旋律を考えないといけない。  劇中伴奏音楽は監督の要求あって、それに答えようとするものですが、オペラは作曲家のもので、自由に作曲できる。  それが大きい魅力です。











2026年2月2日月曜日

鈴木俊貴(東京大学・動物言語学分野 准教授)・「動物たちも“言語”を使い話す!」

 鈴木俊貴(東京大学先端科学技術研究センター・動物言語学分野 准教授)・「動物たちも“言語”を使い話す!」

鈴木俊貴さん(42歳)は日本における動物言語学のパイオニアです。 高校生の時に野鳥の観察にはまって、大学時代に軽井沢の探鳥林でコガラが、ある特定な鳴き声で餌のあるところに集まっている姿と出会いました。 その後東大大学院に進み、林に巣箱を設置して行動と鳴き声を分析、シジュウカラの鳥もいくつか突き止めました。  さらに鈴木さんはシジュウカラが言葉を繋げて、いわば文章を伝えることも発見、鈴木さんはスウェーデンで開かれた国際行動生態学会で基調講演を行い世界から高い評価を得ました。  鈴木さんは研究の裏話をまとめた「僕には鳥の言葉がわかる」と題した本を執筆、全国の書店員が選ぶ2025年ノンフィクション大賞に選ばれました。  そして今、多くの動物たちが言語を持つ可能性を研究する動言語学を提唱しています。 鈴木さんに鳥の言葉発見の課程と、様々な工夫、そして動物言語学への夢などの話を伺いました。

「僕には鳥の言葉がわかる」の本の最初に企画を頂いたのは2018年5月でした。  実際に書き始めたのは2024年春でした。  2025年1月に出版しました。  小さいころから生き物の観察が大好きでした。  1歳5か月で公園で虫取りをしている写真がありました。  生まれは東京ですが、茨木に引っ越して自然豊かなところで育ったのが、僕にとって大きな経験になりました。  コガネグモ(大型の蜘蛛)の巣にカブトムシが引っかかって食べられてしまったことを観察しました。 図鑑にはカブトムシは森の王者と書いてあったが、喰われていて、図鑑に書き加えたらいいと母から言われました。 以後気付いたことを図鑑に書き込むようになりました。  

鳥の観察をしたくて、小遣いをコツコツ貯めてようやく双眼鏡を買えたのが高校生のころでした。  バードウオッチングにどんどんはまっていきました。  小学生の時には動物学者になりたいと思っていましたが、高校生3年になると大学に行って鳥の研究をやりたいと思いました。  長谷川博先生はアホウドリを絶滅の危機から救った人です。 その先生に憧れて東邦大学理学部生物学科入学しました。  大学3年生時の卒業論文のテーマを探しに軽井沢を訪れ、シジュウカラに出会いました。  どこにでもいる鳥ですが、鳴き声などは誰も研究してこなかった。  

シジュウカラの縄張りを主張する声(春)、餌を見つけた声(周りからシジュウカラが集まって来る)、警戒しろと言う声。 観察すると言葉になっているのではないかと思いました。  シジュウカラ、コガラの種を越えて会話しているのではないかと、観察してそう思いました。  それまでの研究者は人間だけが言葉を持っていると信じて来た。 動物行動学を立ち上げたコンラート・ローレンス『ソロモンの指環 動物行動学入門』の本のなかで、「鳥の鳴き声は遺伝的にプログラムされた感情を表す発声に過ぎない。」と書いている。

シジュウカラが敵を見つけた時に、鷹と蛇では鳴き声が違う。  周りのシジュウカラの行動も鷹の声の時には空を見て、蛇の場合は地面を見る。  感情の表れではなくて言葉になっている。 シジュウカラは言葉を組み合わせて文章迄作ることが出来る。  警戒しろと言う鳴き声と集まれと言う鳴き声の組み合わせた声がある。  シジュウカラに取っては危険な天敵のモズも集まって追い払う事が出来る。  組み合わせを逆にして、「集まれ」「警戒しろ」と聞かせてみると、集まってこない。  語順に従って理解していることが判る。 現在判っている動物の中では、人間以外で唯一、文法を操る力を持っている。  証明するのに時間が掛かりました。  

蛇と言う言葉に気付いたのが2008年でしたが、それがちゃんと蛇と言う概念に繋がる言葉であると結論付けることが出来たのが2018年でした。  鳴き声の組み合わせに気付いたのが2007年でしたが、文法であると結論付けたのが、2020年でした。

蛇、本土テン、カラスなどが天敵ですが、それのはく製とか生きているものを見せて、蛇の時の鳴き声とかを確かめていきます。 どのシジュウカラもそう鳴くのかを調べるためには、沢山のシジュウカラを対象にして鳴き声の解析をする。 蛇に対する警戒の声を聞いた時に、シジュウカラが頭にちゃんと蛇をイメージして、蛇を捜すような行動をしていたのかどうか、それを調べるのが相当大変でした。  

見間違いを使った実験を考えました。  シジュウカラが蛇という言葉をイメージしていれば、蛇に見間違えたりしないだろうか、という実験をしました。  「ジャージャー」と言う蛇の言葉の鳴き声を聞かせながら、木の枝に紐をつけて蛇に似せて動かすと、確認するために近づいてくる。 蛇の動きとは違って大きく動かしたりすると、近づいてこない。  蛇に対して見間違えが起きている。  人間以外で単語の証明が出来た初めてのものです。 今は動物言語学という事で世界に提唱しています。  

世界の方が注目して、2022年には国際行動生態学会で最新の研究成果を発表するんですが、そこでトリ(基調講演)を務めました。  言葉は人間だけという事を覆す研究発表に対して、みんなが声をかけてくれました。 世界中で動物言語学の認識が高まりました。  動物研究者の研究対象の動物についての言葉の研究を始めました。  チンパンジー、ボノボなどは鳴き声を組み合わせて言葉を文章にする力があるのではないかと発表した論文が出て来ています。 

昨年12月にイギリスで国際動物行動研究協会から表彰されました。(年に一人が表彰される。 世界的な大御所が表彰されている。)   日本でも東大でいろいろなテーマをもって進めています。 いま スペイン、スウェーデンに巣箱をかけて、鳴き声を調べていますが、シジュウカラの日本語とスペイン、スウェーデン語が違って、場所が違うと響きが違う。 ひょっとしたら語彙も違うかもしれないので今調べているところです。 天敵が違うので鳴き声も違うのかもしれない。  今興味を持っているのが、どうやって言葉を習得するのかという事です。  場所の違いによる比較もしていきたい。 














2026年2月1日日曜日

ビリー諸川(ロカビリー歌手)        ・ステージ4でも、ロックンロールでネバー・ギブアップ!

ビリー諸川(ロカビリー歌手)  ・ステージ4でも、ロックンロールでネバー・ギブアップ!

 ビリー諸川さんは1957年東京都出身。 高校生の時に出会ったエルヴィス・プレスリーの音楽やファッション、生き方などすべてに衝撃を受け、以来生涯ロカビリー&エルヴィスを座右の銘としています。 

25年毎月一回店に出て歌っています。 ステージ4のがんです。 抗がん剤を13回打っていて、副作用で指先がしびれたり痛くてギターを弾く時に、コードを押さえられなくて、唯一動くのが、左手の人差し指なんです。 

全日本ロカビリー普及委員会会長の肩書になっています。 座右の銘が「生涯ロカビリー&エルビス」  1972年中学3年生の時に、テレビで映画「フロリダ万歳」と言う映画を見て、エルヴィスにすっかりはまってしまいました。   将来エルヴィス・ピレスリーになろうと決めました。  53年間一心不乱にエルヴィス、ロカビリーを追い続けてきました。 

予備校に通っていて目標が定まらない日々を送っていたある日、呆れて見兼ねた兄(東大生だった)からビンタされ、毎年3000人も誕生する東大生と、100年に一人誕生するかしないかのプレスリーのような歌手、どちらに一度きりの人生を賭けるべきなのか、もう一度、その頭で良く考えてみろと問われたことにより目覚め、エルヴィスの道を選ぶこととなった。 翌日からエルヴィスの英語の歌をちゃんと歌うために、アテネ・フランセと言う英会話の学校に行きました。 シャネルズというドゥーワップ・グループのバンドリーダーの吉田憲右と知り合って、人前で歌うきっかけになりました。  カントリー歌手のジミー時田さんの元へ弟子入りに行きました。(1977年10月 エルヴィスは同年8月に亡くなる。)  

50年以上エルヴィスを研究してくると、彼の人間性と誠実さ、純粋さ、人間はこうあるべきだというお手本みたいな、人間性に最終的には惹かれています。  アメリカ南部の素朴な青年のまま、その心を持ったままスーパースターになって行ったところが魅力なんです。   ジミー時田さんのところへカセットテープを持っていったら全部聞き終わらずに、「帰りなさい、他の仕事を捜した方がいい。」と言われました。 反骨精神が湧いてきて、カセットボード、ギターをもってジミー時田さんが行く新宿のウィッシュボンの前で2時間半から3時間前にいってずっと立って待っていました。(毎週)   12月の或る日にカセットテープを聞くこともなく、「負けた。」と言われました。  外弟子として、ウィッシュボンで働けと言われました。 (カントリーの勉強)  1曲だけ歌わせてもらって嬉しかったです。(20歳)

1987年(12年)に音楽評論家の湯川れい子さんに同年制作した自費レコード(当時32万円かかる)をポストに入れておいたら、湯川さんから電話がかかって来て、センセーショナルなことをやりましょうと言われて、私がプロデュースするから、アメリカに行ってエルヴィスがレコーディングしたサンスタジオで、エルヴィスのメンバーと一緒にレコーディングしましょうと言われました。  ジェームス・バートンに自分のロカビリーを作りなさいと、言われました。 テレビ、ラジオなどにも出るようになりました。  

1994年にエルヴィスの夢を見て、その内容が面白くて書いているうちに原稿用が400枚近くになてしまいました。  ぼくはプレスリーが大好き」と言う本を書いた片岡義男と言う作家の家に原稿をポストに突っ込んでしまいました。  1週間後に出版社が決まってしまいました。  去年末に出した本が20冊目になります。 全日本ロカビリー普及委員会は6000人います。(会費などは取っていない)  この方たちが主に買ってくれます。  エルヴィスと長嶋さんに関する本も書きました。  

小学校のPTA会長を5年間務めたあと、2008年から16年まで、保護司を務めました。  2016年秋からは、「ロカビリーキッズツアー」と銘打って、ギター1本で子どもたちの施設を回る活動を始めました。  子供が絵を描いているがよくわからなかった。 爪とかから描き始めて、顔を描いていって褒めてあげる、終わるまで待ってあげる教育という事を学びました。 子供は身体を動かすのが好きで、ロカビリーが役立ったという事を実感しました。 

2025年の1月ぐらいから、大腸がんの前兆のような血便が出るようになりました。  2024年がエルヴィスがデビューして70年でした。  妻と2024年7月にエルヴィスの出身地 テネシー州メンフィスに行こうという事になりました。  結局12人に膨らんでツアーにいきました。  市長さんの前で歌う機会を得ました。  2025年の11月のジャパンフェスティバルで歌ってほしいと言われ、併せて3か所で歌う事になりました。  症状が重くなってきて、或る時に大腸ポリープの話になって、僕も軽い気持ちで血便が出てきたと言ったら、周りから直ぐ医者に行く様に言われました。  肝臓と骨盤に転移していました。  

2週間に一回の頻度で抗癌剤を打つんです。  一般的な副作用はありませんでしたが、しびれ、痛みがいろいろなところに出ました。  腫瘍マーカーの値が入院時は46でしたが、今は13回打ったせいか1.1しかないんです。 次週14回目を打ちます。  体重も落とさないようにしっかり食べています。   アメリカに行って帰ってきた後だったら手遅れだったと思います。 2025年の11月には行きました。  ジャパンフェスティバル、メンフィスのビール?ストリート、パーティー、総領事の前でも歌いました。  私の師は長嶋さんとエルヴィスです。  長嶋さんは脳梗塞で倒れた後、リハビリで皆に元気を与えました。 見習わなければいけないと思いました。

日本の文化の一つとしてロカビリーを残してほしいと、平尾昌晃さんから言われたので是非頑張っていきたいと思います。  ロカビリーは「優しさを持った反骨精神」だと思います。  私の生きざまになりました。