友永詔三(造形作家) ・私のアート交遊録「人形と遊ぶ夢の世界」
友永詔三さん81歳、1944年高知県のお生まれです。四万十川の自然豊かな中で暮らし、父親の手作りの遊具作りを見たことで造形への興味が芽生えたといいます。 インテリアデザインを学んだ後、オーストラリアの民謡劇団で人形デザインや製作に専念、帰国後パフェットデザイナーとしてデビューします。 1979年から放送されたNHKの人形劇シリーズ「プリンプリン物語」では総計500台のパフェットを全て考案し制作しました。 友永さんが目指すのは、劣化したら自然界に戻る素材だけを使って作品を創造することです。 今年81歳の造形作家友永詔三さんに人形創作にかける思いを伺いました。
「プリンプリン物語」は、去年再放送されました。 44年以上前に作ったものです。 脚本は医者の先生ですが、ラーマーヤナと言うインドの物語が下地になっていると言うことです。 インドに1週間ぐらい行って、インドの踊りとか衣装とか生地などを仕入れてきました。 それを参考にしながら作りました。 当時、公害問題が流行ってる時期で、ある人物にはヘドロという名前をつけたりして、社会風刺的な問題も取り入れています。 戦争の問題とか原発の問題も入ってきました。 ミュージカル風の人形劇でした。
デザイン学校を卒業して、舞台装置をやりたくて、舞台装置を作る会社に就職しました。 オーストラリアの人形劇団のオーディションに受かったのがきっかけです。 1968年にオーストラリアに行って、イゴール・ヒチカ、のもとで人形を作り始めました。 1970年の大阪万博で、オーストラリアのコーナーで初めて人形をつくりました。(23歳)オーストラリアではピーター・スクリベン、イゴール・ヒチカに色々と教わりました。 ピーター・スクリベンからは「ものを作る人間は型にはまってはいけない。」と言われました。
子供時代には、いろんな遊び道具を木や竹で作ってました。 オーストラリアから帰国後デザイナー学院の講師をやりながら、展覧会をする会場を紹介してもらって、やるようになったのがきっかけです。 それを見てNHKの人から「プリンプリン物語」の話が来ました。 最初のころの人形は、関節部に球体をいれた球体関節人形を作ってました。 それが革新的だったようです。 そのやり方を「プリンプリン物語」でも採用して人形を作りました。 その人形はいろんなポーズを作れるようになります。 操る演技の難度は、高いものの操作の重度が高くて、幅広い表現が可能になりました。
すべてオリジナルで、台本が届いてから人形を作ると言うことをやってきました。 下から棒を使った操り人形は初めてでした。 マリオネットは上からなのでまったく逆でした。 目を動かすときに、頭が動かないようにどうやってするとか苦労はしました。 木肌を生かした人形を作ってみたいと思いました。 役柄によって材質を変えました。 年輪による面白さもあります。 土に帰る材料を使いたかった。(自然に帰る材料) 映らない見えないような部分まで気を遣って制作しました。
僕は子供はライバルだと思って作っていました。 子供って鋭いと思うんです。 40年ぶりに再放送を見ましたが、自分の思いは間違ってなかったと言う思いはあります。 木彫の最初の頃は、女性の体の形を借りて自分を表現していました。 少女の持っている曲線の美しさを、なるべく省略していった感じで1つの形を作ろうとしてやってました。 少女の像は今も作ってまして、何百体も今まで作ってると思います。 品のあるものに、と言う思いで作ってます。 作る時も自分で楽しみながら作っています。 人形だけでなく仏像とかほかのものでも、少し色っぽいものの方が美しいと思います。
現在はあきる野市にある深沢小さな美術館を経営しながら、非常勤講師を務めています。 チェーンソーを使ったりするので、音で迷惑がかからないように山のところで、かつ故郷の四万十川に似たようなところに移りました。 古民家を改造したかったので、廃墟を手に入れて自分で全部改造しています。 家を作ってるっていうのは自分で1番楽しいです。 ものを作ると言う事は遊んでるって言う事と同じ感覚でやってます。
3月には2人展を東京の画廊でやらせていただきます。 来年は個展を7月にやらしてもらいます。 お勧めの1点としては、サルバドール・ダリの引き出しがついたビーナスと言う、自由な発想で作れると言う思いが、いまだに頭に浮かんできます。
自分1人ではできるものではないので、出会った周りの人に助けられて何とか続けられていることにありがたいと思ってます。