2024年9月14日土曜日

中野珠実(大阪大学大学院教授)      ・人はなぜ自分の顔が気になるのか ~顔の科学で分かること~

 中野珠実(大阪大学大学院教授)      ・人はなぜ自分の顔が気になるのか ~顔の科学で分かること~

 中野珠実さんはひとが顔を認識する仕組みや心の発達について研究している認知神経科学者です。 人が自分の顔を特別だと思う脳の働きを発見したと言うと、身近に感じられるのではないでしょうか。 スマホやSNSが登場し、人がより自分の顔にとらわれる様になったと中野さんは言います。 自分の顔は何故特別なのかをお聞きした。 

人間がどういう仕組みでものを見たり考えたりするのかという事を、脳の活動を測ったり、行動を調べたりして研究しています。 それを認知神経科学と言ったりします。 顔は非常にたくさんの情報を含んでいます。 社会的な情報も含んでいます。 意図、感情、人間関係にも関係するところでもあります。 最初は瞬きから研究を始めました。 3秒に一回瞬きする。  起きて居る時間の約1割の時間は真っ暗な状態になっています。 それを脳の中で補填して、真っ暗になっていることを気付かないようになっている。 視覚情報を1割失っている状態になっているんです。 何かの情報の切れ目に人々の瞬きのタイミングが揃って起きているという事を発見しました。(映画を観ていて、主人公の動作が終わった瞬間とか)  瞬きは認知処理、情報処理を円滑化するためにしているのではなかという事が、研究してきた一つです。 

視覚情報は常に目を通して目の中に入って来る。 私たちはそれを分割して記憶してゆくわけです。 瞬きを使って句読点をつけることによって、脳のなかで整理しているのではないかと、言う事です。 起、承、転、結が明確な映画ほど同期しやすい。 瞬きはコミュニケーションとも関係していて、話し手の瞬きに聞き手が揃ってくるんです。(興味がある時だけ) 瞬きが表しているのが「間」です。  犬や猫も飼い主の瞬きに合わせて、引き込まれてしています。(逆もあり)  

SNSで加工した顔が出ていて不思議だなと思いました。  アプリを使って、それを自分でもやってみました。 若返った顔を送ったら、反応はなく喜んでいるのは自分だけだと思いました。 自己を捉えて言うというのも面白いと思って研究を始めました。  今は自分で自分の顔を見るようになってきた時に、自分の意識に自己像が入り込んできてしまっていると思います。 社会的な自己がこうあるんだという意識が高まってきてしまっているのかなと思います。  人間は目が特別に進化していると思います。 木の上で生活している猿は目が真ん丸です。 地上に降りて来た類人猿、猿は目が横長になって行きます。 人間は特に横長になっている。  地上に降りって来ると水平方向を広く見渡す必要がある。 人間は横に大きく動かせるようになってきている。 白目を持つのは人間だけで、どこを見てるのかが判りやすくなった。 意図が判ってしまうので危険な面があるが、サルなどの動物は茶色い色素がありどこを見てるのかわかりにくくなっている。 人間は他者と理解して、意図、注意を共有して一緒に共同作業をする方向に変わって行った。  他人の目を見ることによって、他人が何を考えているのかが判る様になり、コミュニケーションするように顔が変って行きました。 

眉毛も変わったと言われる。 原始人は眉毛を動かせられなかったと言われている。 おでこが引っ込んで眉毛が動かせるようになった。 自分の感情状態を伝えるようになっている。 ドラマでも9割方登場人物の顔を見ていて、目を6割、口を2割観ていると言われる。 自己の顔認識は今迄とは別段階に進化してきている感じです。 

卒業アルバムなどでも、自分の顔は素早く見つけることができる。 自分の顔、名前、自分に関連した情報は素早く見つけて素早く記憶すると言われている。(自己優先バイアス)   自己優先バイアスが脳の中でどういう仕組みで起きているのかという事を調べてきました。 自己優先バイアスは無意識の中でも起きている。  潜在レベルでの脳の働きを調べました。  サブリミナミル刺激といって、派手な刺激の間に自分の顔などを25m秒とかにパッと差し込む。 提示されている事には気付かない。 ただ脳の中には確実に刺激が入っていて、顔の情報として処理されている。  自分の顔に対してはドーパミン報酬系と呼ばれる、ドーパミンが関連する腹側被蓋野(ふくそくひがいや)と呼ばれる部署が活動していることが判りました。 自分の顔が提示されると、腹側被蓋野でドーパミンが生成されていて、脳のいろんな領域に分泌されます。 特に前頭葉などでは重要な情報だと思って、より注意を向けなさいとか、情報処理を促進させるような働きます。 自分の情報を積極的に集めているからだと思います。 自分の情報は多いに越したことはない。(自分の生存のため)  自分が今どういう状態だから、どういう選択、行動が必要だとか、基盤となるものです。 

自分の顔に加工を加えると魅力的だと思っている。 綺麗になった他人を見ている時にはドーパミンは出ていないです。 自分の顔に強い加工を加えるたいときにはドーパミン報酬系が働いています。  ドーパミンが脳の特異な一部に働くと、もっともっと加工を加えたくなる。 MRIで脳の形を取っておいて、顔写真を見ながらfMRIで脳血流を計測する。 合わせ込むと脳のどこが活動しているのか判る。 若い人の間では、他人の加工された綺麗な顔ばっかり見ていると、自分との差を感じて、外に出たくないとか、引きこもりになるとか、そういった現象にも繋がってきているのではないかと言われている。

不気味に加工された写真を見ると不気味に思ったりするが偏桃体に働き、偏桃体は不安、恐怖と言ったネガティブな感情と直結している場所で、やり過ぎると他者にいい印象を持たれない。 リアルと仮想空間で、私たちの顔の存在、意義が大きく変わってきてしまうと思います。 その人の素顔が見たいというのが、人間の本音の部分ではないかと思います。

















2024年9月12日木曜日

本間生夫(医師・呼吸生理学者)     ・わが人生は、呼吸の研究

 本間生夫(医師・呼吸生理学者)     ・わが人生は、呼吸の研究

本間生夫さんは長く呼吸の研究に取り組んできました。 人間の呼吸は呼吸筋という筋肉で行われ、脳と同様に生きている限り睡眠中も休まずに働き続けます。 一日におよそ2万回、50年で36億回と寿命が延びればとて血もない回数をこなします。 呼吸筋という印肉はどのような筋肉なのか、無意識に行っている呼吸から現在どのような事が判っているのか、「わが人生は、呼吸の研究」、本間生夫さんにお話を伺いました。 

呼吸の研究を始めてから50年以上になります。 当時日本ではあまりいませんでした。 スウェーデンに留学して、帰ってきて日本で研究を続けました。 専門的には呼吸神経生理学と言います。 呼吸の目的は酸素を取り入れるという事になります。 肺は自分で膨らむことが出来ない。 肺を膨らませたり縮めたりするのは胸郭についている筋肉の収縮で、胸郭が広がったり縮んだりします。 それに伴って肺が膨らんだり縮んだりします。 筋肉は20種類ぐらいあり、すべて総称して呼吸筋と呼んでいます。 一日に2万回ぐらい行っています。

高齢者になるとどうしても機能が落ちてきます。  酸素を取り入れて二酸化炭素を出すのが呼吸という事になっていますが、他にも役割があります。  心にはポジティブな感情、ネガティブな感情がありますが、心の中核をなしています。 感情にいろんな動きが伴ってきますが、それを情動と言います。 情動は脳のなかのある部分で作られています。 それの一番重要な中枢が大脳辺縁系?の中の偏桃体?です。 情動の活動は呼吸のリズムで動いています。 呼吸のリズムを作っているのが延髄というところです。 付随的にそれが呼吸筋に行ってリズミカルに収縮しています。 リズムを作り出しているのが、感情を作り出しているところにもあります。 情動を作り出しているところにも呼吸リズムは作り出されている。 だから感情が変化すると呼吸のリズムも変わって来ます。 ですから呼吸が変ると感情も変わって来る。 呼吸は意識して変えられる。  呼吸がゆっくりになるとネガティブな感情が薄らいでくる。  不安が長く続くと不安障害になる。  

不安は20%ぐらいの人が抱えていて、コロナになってさらに増えました。 不安を和らげるのには呼吸を整えるという事が重要です。 1日のうちで何回かは意識して行う事が重要です。 呼吸筋のストレッチ体操を考案しました。 呼吸筋を柔らかくする。 以前公害でぜんそくが流行りました。 その当時に考えました。 息苦しさが和らぎました。 吸っている筋肉をストレッチさせる。 息を吐く時の筋肉をストレッチさせる。 NPO法人安らぎ呼吸プロジェクトのホームページを見れば、いろいろ案内が出てきます。 呼吸指導士も養成しています。 

他に肺機能を高めます。(高齢者は機能が低下しているので)  ストレッチ体操をすると呼吸がゆっくりになります。 呼吸筋の方から脳に情報がフィードバックされます。 その情報が感情の方にも行って、整えてくれる。 不安を和らげてくれる。 東日本大震災の時PTSD(Post Traumatic Stress Disorderとは、命を脅かすような強烈な心的外傷(トラウマ)体験をきっかけに、実際の体験から時間が経過した後になってもフラッシュバックや悪夢による侵入的再体験)になってしまう人もいる。 アメリカでもベトナム戦争でPTSDになっている人が沢山いた。 東北の小学校で呼吸筋のストレッチ体操の指導をしました。 「らったった呼吸体操」という歌も作って行いました。  

呼吸機能が落ちるといろいろな障害も出てくるので、呼吸筋のストレッチ体操は有効です。 呼吸筋、特に肋間筋?は非常に持続性の強い繊維が多いです。 だから疲れずに一生を収縮している。 筋肉のなかに繊維として、白筋?と赤筋?という2種類があります。  白筋?は短時間に強く収縮させる。 赤筋?は強くはないが持続性がある。 赤筋?は酸素を供給して溜まったエネルギーに使う。 一般的には割合は1:1ぐらいですが、肋間筋?は白筋?がほとんどないんです。 高齢者になってもなるべく動くという事が重要です。  歩くことはいい事です。 足の具合が悪い人は呼吸筋のストレッチ体操を何回かやってもらう。 ゆっくりとした深い呼吸がいい呼吸です。 悪い情動はいじめ、虐待にも繋がって来る。 戦争まで起こしてしまう事がある、という風に論文にも書きました。

座禅とか、昔から呼吸が心を落ち着かせることが経験上判っていた。 それが文化に繋がって来る。 日本文化は呼吸から生まれていると、言ったことがあります。 呼吸で心が穏やかになって来る。 これは文化の基本だと思います。 僕は能をやっていますが、能も呼吸です。 お能の曲も作っています。 お能の曲は7、5調なんです。 桶狭間の戦いの前に信長は「敦盛」のお能を舞っているが、不安を取り除くために舞っていたのではないかと思います。  剣道、柔道、合気道、武道、茶道など呼吸と関わっています。 日本の文化は呼吸と密接に関わっています。 



















2024年9月11日水曜日

室積光(作家・俳優)           ・知ってほしいから書き続け、演じ続ける

室積光(作家・俳優)           ・知ってほしいから書き続け、演じ続ける

室積光さんは勝弥さんから聞いた戦争体験などを元に、舞台作品などを執筆し、時には自ら演じながら当時生きた人々の足跡を伝えようとしています。 俳優としては本名の福田勝洋の名前でNHKの連続テレビ小説「まーねえちゃん」や大河ドラマ「山河燃ゆ」などのテレビドラマで活躍、特に「3年B組金八先生」の体育の伊東先生役で広く知られる存在になりました。 46歳の時に作家としてデビュー、出身地の山口県光市に拠点を移し、テレビドラマ化された代表作「都立水商!」など話題作を多数執筆する傍ら、主宰する劇団「東京地下劇場」でご自身が執筆した舞台作品の上演を中心に活躍しています。 室積さんの父勝弥さんは太平洋戦争でパプアニューギニアのブーゲンビル島に赴きました。 多く成仲間が命を落とす激しい戦いを潜り抜け、帰還を果たします。 しかしブーゲンビル島で戦っていた室積さんの叔父は帰らぬ人となりました。  父から聞いた過酷な体験を次の世代に伝えなくては俳優として、作家として作品に命を吹き込み続ける室積光さんにお話を伺いました。 

父から戦争の話を聞いて面白い人が出てくるので、その後どうなったと聞いたら死んだという事で、その連発でした。 後になって父の戦場が過酷なものだったという事が判って来ました。 沖縄糸満出身の人が素潜りが得意で魚や貝を取ってきて、その人たちのお陰で父などは命が助かっているんです。 ブーゲンビル島に行ったのが59人で帰ってきたのは6人でした。 沖縄出身のその人は帰ってこなかった確率が高い。 その人は私にとっても命の恩人です。 その人はどうなっているのか一生懸命調べてはいるんですが。 

大学で世界史の中の自分の立ち位置を考えていて、空間と座標の中の一部分にすぎないと思って、恵まれた空間の中で、何かやってみようと思い劇団に入りました。 小中高の学校の生徒にいいものを提供したいと思って、劇団を立ち上げました。 「遠い約束」という芝居を書いて、戦争にまつわる少年たちの友情の話ですが、その後に「はだしのカッちゃん」というのに叔父を登場させました。 取材をしなければいけないという話になって、ソロモン会という会に参加して、3回目に現地に叔父の慰霊を立てました。 会ったこともない叔父を身近に感じるようになりました。 アルバム、日記を観て、叔父はサラリーマンでありながら兵隊として死んでいった。 同行した人たちが手紙を読んで、初めて「おとうさん」といって泣いていました。  

叔父の日記で父と同じ歳の従兄弟が居まして、昭和14年に中国に出征します。 叔父が東京駅まで見送りに行っています。(叔父は19歳) 大学に入れれば兵隊にならなくてもいいので、「頑張れ」と言われていたそうですが、受験を失敗して言い出すことが出来なかった。駄目だったという事をはがきに書いて出す訳です。 行き違いに従兄弟の戦死の連絡があり、叔父はしばらく手紙を出さなかったから薄情奴だと思っていたのではないかといった記述がありました。 叔父自身もその6年後に戦地で飢えて死ぬわけです。 

さらに取材を重ねて肉付けし2017年には小説として発表。  そのあらすじは、昭和8年戦友だった5人の同級生が「私の将来」と題した作文を校庭に埋め、50年後に開封することを約束する。 しかし太平洋戦争で予想もしなかった方向に動き出す。 唯一生き残った林健一は記録係として友がどう生き、どういう夢を見ていかに死んだのか、事実を語り継いでゆく。 叔父の生きて来たことがどんどん鮮明になっていきました。 日記も読んだので人格が鮮明になって行きました。 

お芝居を観て、小中学生が私に伝えてくれるのは、如何に自分が恵まれているかわかったという、それこそ伝えたかったという事です。 今学べる幸せ、不登校とかあるが、立ち上がって欲しいです。 「はだしのカッちゃん 」を書き上げます。 夢を持つことができる今の平和のありがたみを感じて欲しい、そんな室積さんの思いを込めて、児童書として出版されました。 カッちゃんは叔父さんがモデルです。 日本は新幹線、東京オリンピックがあり凄く発展しているのに、かつての戦場だったブーゲンビル島などの島はほとんど変わっていない。 戦闘機が見えるところに沈んでいて、ロッキードの機関砲の薬きょうが落ちていて簡単に拾える。 これはショックでした。 発展とか変化に伴って痛みを忘れるのはいかがなものかと思います。 

パプアニューギニア本島の方では、日本の兵隊が行き倒れたまま、骸骨が軍服を着ている。そのまま何十年も。 ブーゲンビル島だけでも3万人ぐらいが亡くなっている。 主人公に語らせているあの気持ちだけでも意味があると思っています。 (「カッちゃんの骨は今もブーゲンビル島の倶利伽羅峠にあって」という描写がある。) 慰霊祭では手紙を読んで、皆で「故郷」を歌うんです。 当時兵隊たちが歌っていたそうです。 切なくなるのは「夕焼け小焼けで日が暮れて」と歌い出して、「お手てつないで皆帰ろう」というところです。   ブーゲンビル島に向かった最後の補充兵は860人で、すでに若い人はいなくて子持ちの年代層で、彼らは半年ぐらいで栄養失調で亡くなっている。 そのなかで生きて帰ったのは8人です。 何で出したのか、理不尽な話です。 現地の子供に歌を教えて亡くなって行った優しいお父さんたちでした。

叔父は砲兵隊の観測兵でした。 叔父が亡くなったのは昭和20年5月7日でした。   父に伝わったのが5月11日でした。  5月末に最後の決戦になるが、延期になるんです。 最後に8月末という事になるが8月15日に終戦になります。 父も自分はもうすぐ死ぬなと思っていたそうです。  生きて帰れると言う事になってから、悲しさと弟を含めた死んだ戦友への後ろめたさみたいなものがを抱えたようです。 親が戦地に行った我々世代は聞き出さなければいけなかったんじゃないかという悔恨はあります。 

この作品の支援会があり、客席からの波動が凄かったです。 それにつられて泣いてしまいました。 感情のキャッチボールみたいなものが、客席と舞台であり、それが一番の手応えでした。 

戦争の動機はなんだかんだと言って全て経済だと思います。 サザエさんは昭和21年4月から連載が始まって、昭和21年2月から日本人の幅員が始まっています。 あの時代は数多くの父を失い、夫を失い、弟、子供を失っていた女性がいたわけです。 サザエさんはそのすべての人に囲まれた幸せな人なんです。 長谷川町子さんがどう意識していたのか判らないが、いまだにサザエさんは放送されています。 サザエさんの幸せを日本人が手放さない限り、日本人は戦争を起こさないと思っています。 子供も残せずに戦争で亡くなった人は忘れられてゆく。(墓すらもない人がいる。) 












 




2024年9月7日土曜日

Ono Aki(ヴォーカリスト)       ・平和の願いを込めて ウクライナ民謡を歌う(初回:2023/4/8)

 Ono Aki(ヴォーカリスト)       ・[人ありてまちは生き]平和の願いを込めて ウクライナ民謡を歌う(初回:2023/4/8)

ロシアのウクライナ軍事侵攻が始まったのが、2022年2月24日2年半余りたった今も戦争が続いていて、ウクライナ国内の激しい状況が伝えられています。 そのウクライナに音楽で力になろうと活動している方がいます。 大坂を拠点に活動するヴォーカリストOno Akiさんです。 Onoさんはウクライナを紹介するコンサートを開催したり、CDにして日本でも 広く知ってもらおうと様々な取り組みをしています。 歌を通じてウクライナの人々を支えたいいという思いを去年の4月8日に放送しました。 

ウクライナとのお付き合いは2012年からになります。 日本の文化交流会の皆さんと旅行に参加することがきっかけです。 最初は首都のキーウとリビウ(世界遺産の街)、クリミア半島に行きました。 街並みが美しいです。 ボルシチなど様々な美味しい料理を沢山いただきました。 ウクライナの人は日本人と似ていて、どこかシャイでおとなしい、控えめな方が多かったです。 勤勉です。 ユーモアにあふれています。 我慢強くて独立心が強くあります。 女性も男性も勇敢です。 

ウクライナは世界で一番民謡が多いと言われています。 ウクライナは歌と踊りと共に戦い生きてきたというぐらい音楽とのかかわりは深く来たと感じます。 祖国を愛する気持ちが強く含まれています。  民謡のコンサートを2月24日に行い、「ウクライナに栄光あれ」というものに納めました。 数十曲の中から厳選しました。 

*「プリーネカーチャ」 ウクライナ民謡 歌:Ono Aki

100年前に作られた民謡で、戦死したウクライナ兵を見送る歌として、直訳すると「子鴨が浮かんでいる」というタイトルです。  小鴨を沢山引き連れて泳いでいるのですが、その1匹が行方不明になってしまって、お母さんの言う事を聞かなかったからどこかでで亡くなってしまって、どこで亡くなったか知らない。 だから僕は知らない人を埋葬るんだという歌詞ですが、深い意味があります。  

「おい小鴨がテシーナ?川で泳いでいる。 テシーナ?川に沿って小鴨が泳いでいる。 母さん怒らないで 母さん怒らないで  ねえママはいつも悪い出来事の時に、私に必ず呼び掛けてくれる。 貴方は悪い出来事の時に私に必ず呼びかけてくれる。 どこで死ぬかわからない。 どこで死ぬかわからない。 ねえ私は異国の地で死にます。 私は異国の地で死にます。 誰が私を埋葬してくれるのか、私は誰に埋葬されるのか、ねえ見知らぬ人が私を埋葬します。 見知らぬ人が私を埋葬します。 ごめんね、母さん。 ごめんね、母さん。 ねえ息子よ、とても悲しいです。 とても悲しいです。 貴方は心の中にいつもいます。 貴方は私の心の中にいつもいます。 おい小鴨がテシーナ?川で泳いでいる。 テシーナ?川に沿って小鴨が泳いでいる。」  歌詞を紹介。

今もまた良く歌われています。 ウクライナでは今でも両親に対して丁寧な言葉使いです。侵攻があった2月24日にはメールなどで友人たちと連絡をとしました。 その後インフラ攻撃で大変な状況ですが、最後はユーモアをもって笑わせてくれます。  逆に元気を貰ったりします。 昨日も長電話をしました。 

*「オーユールージチェルボナカリーナ」?  歌:Ono Aki

曲名はのタイトルは「草原の赤いガマズミ」という意味です。  赤い実が沢山房になっています。 その実が下がっているのでこうべを垂れてている。 ウクライナの歴史に値するようなイメージを皆さんが持っています。  勇気づけようとする歌詞ですが、ウクライナを元気付けよう、育もうという応援ソングです。 

歌詞の一部                                              「落ち込まないで。 赤いガマズミよ。 貴方は白い花を咲かせる。 悲しまないで、輝かしいウクライナよ。 貴方は自由な家族なんだ。 ねえ、その赤いガマズミの木を育もう。 そして私たちは栄光の祖国ウクライナの勝利の喜びを、さあ分かち合おう。」 

ウクライナの子供たちから絵が届きましたが、そこには赤いガマズミの絵が描かれていました。 

今年2月24日大阪八尾市で開催された「ウクライナ支援平和コンサート」では、追悼でしたので、ウクライナの戦況を映像にして、10曲お届けしました。 最初の映像から皆さん涙を流している方がいました。 何とも言えないコンサートになりました。  ウクライナの方も20,30名の方が来ていまして、ありがとうというメッセージをいた抱きました。 今すぐにでも終わって欲しいという思いを込めて歌いました。  音楽の力は重要だと感じ取りました。 日本の文化など、素晴らしい国だと思ってみてくださっています。

夫の小野元裕さんが「日本ウクライナ文化交流協会」の代表であり、Ono Akiさんはそのメンバーになっています。 ウクライナの避難者の受け入れの問題から、ウクライナへの避難所を作って、家を失った方、負傷している方などを受け入れるように建てている途中です。酷い地域のところにも足を運んで、現状を見てこようかなと、避難所にも行ってきたいと思っています。 本来持っているウクライナの魅力を皆さんに知ってほしいという事が彼らのメッセージでもあります。 ウクライナは文化、音楽、芸術が盛んな国ですので、音楽を通してウクライナの魅力を同時に伝えていきたいと思います。 














2024年9月5日木曜日

ケイ・グラント(タレント・DJ)    ・死に際で見つけた最高の生き方

ケイ・グラント(タレント・DJ・ナレーター・シンガー)・死に際で見つけた最高の生き方 

ケイ・グラントさんは1959年生まれ、東京都出身。 1979年プロの水泳コーチを目指してアメリカへ留学したケイ・グラントさんは1981年に帰国した後、水泳コーチやボディービルのトレーナーとして活動してきました。 1988年にディスクジョッキーとしてデビュー、その後ラジオDJのほかテレビ番組やCMのナレーションなどを担当、2000年からは格闘技イベントのリングアナとしても活躍しています。

生まれは東京都練馬区でグラントハイツが遊び場でした。  日本陸軍の成増飛行場があって、GHQに接収されて居住区になりました。 広大な芝生があり野球などをやるのには抜群でした。(基本的には進入禁止でした。 MPが見まわりに来る。)  或る人から声がいいという事で新しくラジオ局が始まるのでしゃべってみてはと言われました。(当時ボディービルのトレーナーをしていた。) それがきっかけでDJを始めました。 DJはやりながら学んでいきました。  形になってきたのは半年してからぐらいです。 FENを聞いてはいたので雰囲気は有りました。 1979年プロの水泳コーチを目指してアメリカへ留学しました。  

帰国後は自分のクラブのスイミングコーチになりました。  駆け落ち結婚という事で家を捨てることになり、先輩のスイミングクラブにお世話になりました。 駆け落ち結婚も1年ちょっとで破局を迎えました。 2年後位ぐらいに開局しました。 当時ジムでは144時間働いて9万円で残業代を含めると11万円した。 DJでいくらもらえるのかと思ったら、君は駆け出しだから5万円だと言われました。 居酒屋へも飲みに行けるような生活になりました。 2000年グランプリを東京ドームでやることになり、リングアナを引き受けることになりました。  ラスベガスのトーマスマックセンターでやった時に、「ここに来て光栄です。」と言った時に凄い賞賛があり感動、感涙しました。 翌年2回目の時にはガラッと対応が変っていました。

1993年に結婚しました。 DJをやっていましたが、寝る時間がなかなか取れませんでした。 結婚の1週間後に心筋梗塞になりました。(34歳 煙草も結構吸っていました。)   復帰に2か月かかりました。  その後タバコを止めたり生活にも気を使ってきましたが、38歳ごろに又煙草を吸うようになりました。 2000年(41歳)にプールで泳いでいたら2回目の心筋梗塞になりました。  救急車を至急呼びました。 その時の状態はまだ元気なので救急隊も信じてくれませんでした。 一回経験しているので、私はまずいと言う事を予感しました。 集中治療室に着いた時に心臓が止まってしまいました。 AEDでやってもらって生き返って来ました。  その時にはステントという血管の中に入れられるメッシュがあったので、2週間で退院しました。  

2008年の時に3回目、急性心不全ですが、徐々に腹水が溜まって来ました。 年内に手術をしないと死亡の確率が98%と言われてしまいました。 手術をして無事終了しました。 2009年1月にテレビを観ていたら、急に意識不明になりました。  救急車で運ばれて,VT(VT(心室頻拍)とは、心室期期外収縮(VPC)が連続して発生し、心拍数が100~250回/分になる頻脈のこと)といって特殊だから、街のAEDでは対応が出来ないので、身体のなかにICD常に心臓の脈を監視し、命に関わる不整脈の発作が出た場合にすみやかに反応して、電気ショックを発生させてその不整脈を退治し、発作による突然死を防いでくれる装置)という、内蔵型のAEDを埋めた方がいいと言われて、そうする事にしました。 2016年に台風10号が来た時には一日35回ぐらい作動しました。 気圧と心臓のバランスが崩れてしまったようです。  入院することにして、手術で心臓の動きを半分程度止めたところで、8月から12月まで入院生活でした。  今生きている状態を感謝しながら楽しんでいます。 

バチスタオペレーション(心臓の筋肉細胞が変化して膨張し、収縮力が落ちる拡張型心筋症に対する手術)をした後に、白血球値が1000を越えていて、骨髄検査をしたら慢性骨髄性白血病になっていました。  1か月入院して適合する薬があり、飲み薬で養生していたら2008年以降完快しています。(白血病は解決。)  薬代が高くて生活を脅かすぐらいの額でしたが、治ったので薬は飲んではいません。  その後も糖尿病、腎機能障害とかいろいろ出てきましたが、病気達と仲良くやっています。  

塩分には気を付けています。 理想は一日6gですね。 喜怒哀楽はマイクを通して伝わってしまうので、マイクに対しては誠実でないといけないと思っています。 2016年以降この考え方を大事にしてます。(それまでは病院に通っていましたから。) 歌も歌っていますが、これもいい声をしているので歌わないかと言われました。  こういった仕事のきっかけも、回転寿司のようなもので、自分の前にラッキーが流れてきた時に、それを見極める心理眼みたいなもので理解できる能力を常に研ぎ澄ましておけば、楽しい人生が続くという感じです。 身体については常に気を付けています。 身体に信号が出た時には早めに行くことにしています。 今夜とか明日行こうというのではなく,今行く。 Eテレを生きているうちに何かしてみたいと思っています。  深夜便への出演は夢でした。 























2024年9月4日水曜日

山根安行(八重山古典民謡師範)     ・平和への思いを民謡にのせて

 山根安行(八重山古典民謡師範)     ・平和への思いを民謡にのせて

山根さんが語るのは79年前の沖縄県の八重山地方、石垣島で蔓延した戦争マラリアの悲劇についてです。 太平洋戦争の末期の沖縄戦当時、八重山地方では激しくなるアメリカ軍の空襲に備えて、旧日本軍の命令で住民の多くが山間部に強制疎開させられました。 そこはマラリアが蔓延していると地元では知られている地域で、その結果マラリアによって3600人余りの方が犠牲になりました。 戦争マラリアと呼ばれています。 石垣島出身の山根さん家族も疎開した山中で戦争マラリアに罹り、母親や家族を亡くしたほか自身も生死の境をさまよいました。  山根さんは当時の忘れられない記憶や、戦後に培われた平和への思いを自ら作った歌詞に込めて歌い続けています。  歌に平和への思いを託し続ける山根安行さんに伺いました。

1944年10月10日石垣島でもアメリカ軍の爆撃機による空襲が始まりました。 山根さんの石垣島に有った陸軍の飛行場の補修工事に駆り出されと言います。 1945年6月旧日本軍から石垣島の住民に避難命令が出されます。 疎開先は以前よりマラリアの発生地として恐れられている山中でした。 山根さんは母親、義理の父親、3人の弟妹、祖母と一緒に山中に避難を余儀なくされました。 

軍の命令は絶対でした。 簡単な小屋を作ってそこに入っていました。 下は地面でした。 食べるものが無いので芋を掘り起こして、大きなものは軍に納める、小さいものは貰ってもいいという事でした。  木も皮をむいて中の木をスライスして乾燥させて、石うすで挽いて粉にして食べるんですが、十分乾燥しなうちに食べた人は命を落としています。  

蚊が多い一か月十分に食べるものもなく、不衛生な環境の生活が続きました。 その後戦争が終わって山を下りる事になった山根さん、その時には自分自身と母親がマラリアに罹っていることに気付きました。 寒気がしましたが、畑には行っていました。 その後熱くなって一升瓶に水を半分ぐらい飲み、汗も噴き出てきました。 母親は「もう駄目だから、お前はおじさんのところに行きなさい。」と言われました。 一緒にいたら自分も亡くなっていたと思います。 おじさんの元で看病の末一命をとりとめました。 しばらくして母親のところに行ったら息を引き取っていました。  母親は本当に可哀そうでした。 母のことを思うと毎日泣いています。 

20代を沖縄本島で過ごした山根さん、アメリカ軍の警備員として働き、無我夢中で毎日を過ごしました。 故郷を離れた山根さんの心を支えたのは、三線と故郷の民謡でした。   八重山地方を代表する民謡で恋人や故郷を思う気持ちを歌いあげた「とぅばらーまを歌って自分を奮い立たせたと言います。  お金もないので故郷に帰る手段もなかったです。   

50歳を過ぎてようやく自分の時間を持てるようになったころ、山根さんは小さいころから親しんでいた三線を始めました。 夜遅くやるとうるさがれましたが。  故郷を離れ40年あまり、マラリアで亡くなった母親への思いが募って行きました。 戦争なんては有ってはならない。  酷い目にあう人を二度と出したくはないです。 

山根さんが考えたのは平和への思いを歌う事でした。  山根さんは沖縄で親しまれている歌にオリジナルの歌詞を付けました。 その一つに琉球古典音楽の楽曲の一つで、「散山節」があります。  母のことを歌っています。 

*「散山節」 三線、歌: 山根安行

山根さんは2014年には八重山古典民謡の師範にまでなりました。 今90歳を過ぎ自身の人生を振り返ることが増えたと言い、亡き母への思い、平和への願いを歌詞にして民謡を歌います。  「お前は死ぬな。」という母の一声で今の自分があります。 世界一の母だったと思います。 「命が宝だ。」という事を強調するために歌詞のなかに入れています。 歌というのは人に勇気を与え奮い立たせ、慰めます。  100歳まで歌って世界に届けたい。 

*「じんとうよう節」 三線、歌: 山根安行

沖縄の民謡の一つ。一歌詞の末尾に「ジントウヨウ」とはやしことばがつく。よく歌われる歌詞は「いかな山原ぬ枯木国やてぃんよ無蔵と二人なりばジントウヨウ花ぬ都」。替え歌も多い。戦後のはやり歌として「国頭じんとうよう」がある。





2024年9月3日火曜日

矢川光則(ピアノ調律師)         ・平和を伝える被爆ピアノの旅

矢川光則(ピアノ調律師)         ・平和を伝える被爆ピアノの旅 

この夏も原子爆弾の被爆地広島平和公園で平和を祈る式典が行われました。 矢川さんは広島生まれの被爆二世、たまたま爆心地から3kmほどのところにあったピアノの修理を頼まれた事が被爆ピアノとの出会いでした。 2001年原爆の日、被爆ピアノの音色が大きな感動を与えたのです。 こういう平和の使い方もあるのかと、矢川さんは気付かされたと言います。 それからざっと3000回以上全国から海外にまで各地で矢川さんは原爆被爆ピアノの音色を届けてきました。 

*「月光」 ピアノ演奏

この曲は被爆ピアノにピッタリ合う曲ですね。  このピアノは昭和20年8月6日の広島の原子爆弾で被害を受けたピアノ、2001年に原爆の日に被爆ピアノが演奏会を行い、その響きが皆さんに感動を与えた。 ピアノは直してあげれば音が出て音楽で伝えてゆく事が出来る。 今は平和のピアノとして大きな役目を果たしています。 

東北には毎年よく行っています。 東北の方では一か月毎日コンサートをやります。 中でも学校公演が多いです。 子供たちから学ぶことが多いです。  私はよく奇跡的に残ったピアノだといっていますが、或る中学生は「このピアノは原爆の恐ろしさを伝えていくために、必然性をもって残されたピアノだと自分は感じた。」というんです。  子供たちはストレートに自分が感じたことを感想文に書いてこられます。  北は北海道から沖縄までいって、コンサートの回数は3000回を越えました。 海外も2010年にはアメリカ、ニューヨークのマンハッタンに呼ばれました。  

アメリカに被爆ピアノを持ってゆくことに対しては反対意見もありました。 過去は変えられないから未来を変えましょうと言う事で、9・11を選んでいきました。  私の父が26歳の時に広島消防署の本庁で被爆しています。 父は奇跡的に助かりました。 9・11で消火活動をしていたのがニューヨーク消防でした。  消火活動で343人の消防署員が亡くなっています。 父と重なり合うものを感じました。 被爆医コンサートをやっても何も問題なかったです。 平和を願う気持ちは日本もアメリカも一緒ですから。 音を通して音楽を通して、ピアノについて考えてもらう、そこに被爆ピアノのそういうところがあるのかなと思います。 被爆ピアノに触れることも出来ます。 被爆ピアノは広島の原爆資料でもあります。  大がかりな修理はしていません。 外観はそのままです。 内部もどうにもならないところは中のパーツを一部変えていますが、被爆当時の材料を使って手作業で全部直しています。 

ピアノは修理をすれば長生きします。 処分すれば環境破壊にも繋がります。 私の両親、祖父母も被爆者です。  私は原爆投下の7年後に生まれて、原爆のことには興味はありませんでした。  私にとっては被爆ピアノとの出会いでした。 2001年8月6日原爆式典の後に、被爆者と一緒に被爆ピアノで平和コンサートをやりました。 思ったよりも凄い反響がありました。 こういう平和運動なら自分も出来ると思いました。 それがライフワークになって行きました。 平和は与えられるものではなくて、一人一人が作り出してゆくものだと思います。 そのきっかけになってくれればいいと思っています。 

被爆ピアノはほかに人間の愛おしさ、そういったことも伝えてくれるピアノかなと思っています。 日本は平和ですが、心に病気を持っている人が非常に多いと思います。 でも聞いてメッセージが来るんでしょうね。  大きな役目を果たしていると思います。 或る時に8人の方に演奏してもらう事があり、60代の女性が「悲愴」を弾きました。 その方が乳がんで余命宣告をされた方でした。  後で被爆ピアノを弾いた方でガンが治ったという話を聞きました。 そんなバカなと思って聞いてみたら、再度がんの治療を挑戦されたそうです。  8年後にその方が再度ピアノを弾きました。(「悲愴」) 彼女の話を聞いて、人間最後の最後まであきらめてはいけないんだと思いました。 

私の活動は平和の種まきと言っています。 私のピアノ工房の敷地内に被爆ピアノ資料館を作りました。 子供たちにも来てもらって学びの場として利用して頂きます。 今被爆ピアノは7台あります。 被弾ピアノも展示してあります。(空襲で被害を受けたピアノ)  2005年が被爆60年にあたり、そこから全国縦断コンサートが始まりました。    最初に愛知万博に招待されました。(女子高校生からの依頼)  来年は終戦、被爆80年で、いろいろなところから問い合わせが入ってきています。  ノールウエーにも招待されました。 コンサートには世界中から集まっていて、多くのメディの取り上げていただきました。(ノーベル平和コンサート 2万人が来ていた。) 曲は「神のみぞ祈る」 会場で原爆を受けたピアノだという紹介があり、みんな驚いていました。

被爆者も高齢になり、後5,10年すればいなくなってしまうのではないかと言われています。  戦争、原爆のことを考えてもらうきっかけ作りになってもらいたいので、被爆ピアノの役割はますます大きくなっていくと思います。 被爆ピアノは映画にもなりました。  

*「祈り」 演奏:高橋昭?