2016年3月22日火曜日

中村メイコ(女優)        ・放送博物館60年記念講演会「私とNHK」

中村メイコ(女優)・放送博物館60年記念講演会「私とNHK」
2歳の時に映画デビューした中村さんは、戦前のTV試験放送のころからNHKの放送と関わってきました。
ご本人がかかわって来た放送番組のエピソードを交え、放送の歴史の裏話をはなしていただきました。

私の先祖は青松寺に墓がありますが、神津家は多摩墓地にあり、当然多摩墓地に入るのではないかと思っていたら、神津が私の父が亡くなる時に、耳元で一人っ子のメイ子を長い間お借りしましたので、お父さんと一緒の墓に入れますと約束したので、神津家の方に入れないとの事でした。
分骨をと言ったら、口やのどの一部が入っていたらおちおち眠っていられないと言われてしまいました。
母の故郷、愛知県の墓に洞雲寺に祖母も母も眠っているので、そちらに墓を立てて赤い字で今書き入れています。
あかるく自分の老後を語るのがいま一番目指しているところです。
2歳8カ月で映画デビューしました。
「江戸っ子健ちゃん」 笑いたくなるような面白い子役が必要で、撮ってもらった写真がそれが丁度良いと言う事で要請があり、出ることになりました。
長女カンナからは厳しく言われたりしていましたが、おむつをする頃から仕事をしていたと言ったら、「あーそう、ほんと、頑張りなさい、又すぐそうなるわ」 と言われてしまいました。

伊馬鵜平さん 10分間演芸 「ほがらか日記」 お爺さんの徳川夢声と字が読めないころ、やっていました。
坂本さん(後にNHKの会長になる)が漢字にカタカナを振ってくれました。
TVは昭和15年にはありましたが、当時は試験放送で都内の有名なデパートだけには映りました。
5歳が初の試験放送でした。
戦争を挟んでマイクロフォンとはずーっと一緒にありました。
スタジオが一番落ち着く場所でした。
私が17歳、親友の美空ひばりさんは15歳の時に対談がありました。
私たちも普通の女の子の様にボーイフレンドと銀座を闊歩したいと言う様な事を言ったら、「私はそうは思わないわ、私達って夢を売る商売なんだからファンが見てあんなことをしてほしくないことは我慢しなくてはいけない」、と言われ吃驚しました。
長い付き合いの中であの人は我慢我慢の人でした。
病院にお見舞いにいった時に、「随分と酒を飲んだがメイ子の2倍は飲んだと、メイ子にはあんたが飲みすぎると止める人がいる、私には止めてくれる人はママが死んでから居ない、止めてくれる人がいると言うことは本当に幸せなんだよ」と言ってくれました。
美空ひばりとは「悲しい酒」ではなく、本当に楽しく飲みました。

二人とも子供のころから仕事をしていたので子供の遊びは知らなくて、自分の知ってる歌を歌いっこしようと言う事で歌いあいました。
小唄、どどいつ、軍歌、何から何まで歌いました。
紅白歌合戦の司会を3年間だけにしてほしいと、3年間やりました。(カンナが生まれたばっかり)
曲目だけは決まっていて台本は無かった。
リハーサルは音楽関係だけでした、失敗もしたが面白かった。
今でも生放送は大好きです。
80の声を聞くまで生きているなんて夢にも思いませんでした。
子供の時から睡眠時間は3時間で過ごしてきました。
結婚して仕事を辞めようと思っていました。
夫から辞めない方がいいのではないかと理つめで言われて、やることになってしまいました。
糖尿の姑、子供の面倒もしなくては行けなくて本当に忙しかったです。

「お笑いオンステージ」 面白い女をやらせて頂きました。
喜劇女優になりたいと思っていました。
カンナはアメリカ、長男は絵の勉強の為スペインに留学しました。
昔は物凄く照明が熱くて、刺身など見る見る悪くなっていった。
TVはハイビジョンに替ってきて技術的なことは随分変わってきました。
昔はズームが無くて、カメラに向かって寄ってゆきました。
老後に残されたことは何だろうと思うと、現代に乗り遅れない様に、素直にカンナに聞きます。
美空ひばりはどんな歌もこなすが、小唄、端唄、都々逸などが本当にうまかった。
「お姉さんと一緒」も生だった。
長いことやっているが、ニュースだけは一度もやったことはない。