2016年3月11日金曜日

熊谷達也(小説家)        ・被災地を書くということ

熊谷達也(小説家)          ・被災地を書くということ
仙台在住、宮城県気仙沼市で中学校の教員をされていたこともあります。
その時の経験も取り入れ、震災後気仙沼をモデルにした架空の都市、仙河海市を舞台にした連作小説に取り組んでいます。。
被災地を知る小説家として何を書き続け様としているのか、伺います。

日々暮らしをしていて5年だからと言うことはないが、唯区切りと言う事は大事かもしれません。
ゆっくり立ち止って振り返ってみる時間としてその一日は過ごしたいと思っています。
小説は、書き終えただけでは完成形ではない。
本になったからと言っても完成形ではない、皆さんに読んでもらって完成形だと思います。
沿岸の被災地に自分の担当の編集社6社、15人を連れて行っています。
どうしてかと言うと、私が小説を書く上で最も大事なベースとなる感覚があり、それを共有してほしいと思っています。
時計の針の進み方を常に考えています。
3月11日午後2時46分、この国に暮らす全ての人の時計は止まったと思います。
同期する、本当にそこで一つになったのではないかと言う気がします。
沿岸の被災地でその日を生きるのが精一杯だが、被災地の外側の方は一度は同期された時計の進み方がすでに違ってきているのではないかと思います。

自分に何かできるのではないか、応援するための義援金はどうするかとか、真剣に思ったと思いますが、その時すでに時計の進み方が違っていると思います。
「絆」 一度はいっしょになった時計の進み方が違いはじめるのは知っていた、それをなんとかしてつなぎとめたいと言う必死の思いが「絆」と言う言葉に象徴されたんだなと、それが「絆」と言う言葉の正体だったのではないかと私は思っています。
以前の日常を取り戻せた人から元の速度で時計の針は動き始めます。
3月11日で動かなくなった人はたくさんいると思います。
動きだしてもゆっくりしか動かない人もたくさんいると思います。
5年が経過しようとしている中で、時の差は、時と共に拡大してゆきます。
被災地の内側外側で溝が深くなっています。
「風化」 最近聞かない、記憶が薄れてゆくのをなんとか止めようとして「風化」と言う言葉を使ったが、これもまた温度差がでている。

5年間経って、私は自分で振り返らないといけないと思っています。
2011年4月1日、気仙沼に行きました。
気仙沼中学校に平成への変わり目の3年間教師をしていました。
当時の教え子たちの半数が被災して家を無くしています。
大谷海岸の先に御伊勢浜海水浴場があり、そこに立ち寄りました。
海水浴場の砂浜が無くなっていて、あたり一面土の匂いで磯の匂いが無くなっていました。
お伊勢浜から本来見えないはずの高校が見えました。
至るところで自衛隊の皆さんが遺体の捜索をしていて、北上してその後気仙沼中学校に行き、倒壊した街を半日歩きました。
現実を目にして、言葉を失いました。
小説家として前の自分には、もう戻れないと思いました。
毎週のように沿岸部に、ただひたすら津波にのまれたいろいろな沿岸部の風景を見続けました。
何故そんなことをしているのか判らなかったですが、最近すこし気付きました。
言葉を失った、自分の中に言葉が戻ってこないのかなあと、自分の中に言葉が戻ってこないのかなあと試していたんだと思います。
震災のつめ跡に耐えうる様な力を持った言葉が自分の中に生まれないかな、戻ってこないかなと必死になってそれを願っていたんだと思います、でも戻りませんでした。

本が大好きな子供で、大人になってもそうでしたが、本を読もうとはするが読めなくなってしまいました。
小説の中に入っていけない、リアリティーが全然感じられない。
書き手の意図も見えてしまう。
たまに読めるのもありましたが、読んだ後で何も残らない、満足感が得られない。
小説を読めない小説家に小説をかける訳がない。
廃業するしかないなという時期もありました。
一つの転機がありました。
毎年30年ぐらい北海道に行っていて、震災の夏も北海道に行きました。
なじみのショットバーがあり、そこに行ったら映画にエキストラとして出たとのことでした。
海炭市叙景 海炭市(函館をモデル) 佐藤泰志さんの短編集 
購入して読んだら、震災後初めて我を忘れて読みました。
リアリティーの塊の様な、人間ってこのように生きているんだと、こうやって物事を感じている、登場人物が本当にいるかの様にリアリティーが迫っている。
これを読んだ時に、まだ小説にはやれることがあるかもしれない、こんな話を書いてみたいと思った。

挑戦してみたいと初めて思いました。
壊滅と言って津波で流された瓦礫の風景を撮って、全国に流しているけれど、カメラマンは以前どんな風景だったか、どんな人がどんなふうに暮らしていたか判らず、全国に流しているが、ちょっと違うのではないかと友達と話していたことがある。
その友人から震災前の三陸の海辺の街の肌触り、様子を知っているたった一人の小説家ではないかと言われた。
この二つのことがあり、ここで廃業はできないと思いました。
気仙沼をモデルにした街を作り上げて、生きている人々の話なら書けるのではないかと思った。
2012年秋に「仙河海」という名前が出来ました。( 仙は人と山 をつないでいる河と海)
書き始めて以前とは違う言葉が生まれたなと思いました。
年内に合計8冊になると思います。
私の作品で時計が止まっている人たちの時計の針が進みだすための少しでも進まないかなという思いがありました。
でもそれは無理だと思いました、時計の針を動かすのはあくまでご本人なんですね。

小説にはなにも出来ないようだけれども、そうした人たちが時計の針が刻み始めるのを待つ事はできるなと、待つと言うことは仙河海の話を書き続ける、それであなたの事を忘れませんと言うメッセージにはならないかな、せいぜい出来ることはそれぐらいかと書き続けています。
望まれないものを必死になって書いているのではないかとジレンマに陥ることがあります。
被災の外側の人に言わせると5年もたった今頃震災の事を書くのかと思う方が沢山いると思います。
被災された内側の人にはまだとても読めないと言われるかもしれません。
もしかして私自身の時計が止まっているのではないかと思ったりします。
ゆっくりとしか時計の針が動かないと言うことは、歩き始めているが辛いが頑張っている。
僕は一番後ろを歩いていればいいんだと思っています、必死になって歩いている人が後ろを振り向いた時に、いやおれが一番最後にいるから大丈夫だよ、そんなふうに有りたいなと思います。