山極壽一(京都大学総長) ・ゴリラに学ぶ"人間らしさ"
昭和27年東京生まれ、66歳、京都大学、大学院で京大が世界をリードしてきた霊長類を学びました。
研究者として主にゴリラをアフリカなど野外で研究され、進化の過程で700万年前人間の祖先と別れたゴリラを通して、生活や社会の由来を探求してこられました。
4年前に京大総長に選らばれた際には山極さんを慕う多くの研究者が山極さんに研究の第一戦を離れられると、霊長類学が停滞してしまうと、総長就任には反対の声が上がりました。
それほど日本の霊長類学にとっては余人には代えがたい存在となっています。
ゴリラは深夜には寝ていますが、聞き耳を立てています。
ひょっとするとラジオの「深夜便」を聞いているかもしれません。(笑い)
40年位ゴリラの研究してきましたが、朝暗いうちにキャンプを出て陽が昇るころにゴリラのベッドに到着します。
眠たい顔で起きた時に挨拶に行ってゴリラと一緒に過ごします。
私一人なので人間の言葉を喋る必要はありません
日柄、ゴリラの様子を見ながらその行動をフィールドノートに書いています、これが私の調査の真髄です。
ゴリラは怖いと思っている人が多いが、いかめしい顔をしてドラミングの行動を知っているからだと思います。
ドラミングの行動は19世紀の中盤に欧米人に発見された時に、探検家を震え上がらせた行動で、それを見て探検家たちはゴリラは野蛮で凶暴、戦い好きな野獣だと表現してしまって、100年ずーっと続いて動物園でも鎖に繋がれて孤独な生活を送らされてきましたが、それは大きな誤解だった。
私の師匠の米国人女性博士ダイアン・フォッシーさん、彼女が1967年からアフリカのルワンダやウガンダにまたがるヴィルンガ火山群(4000m級の山々が連なる)に単身いって、自分がゴリラの群れの中に入って、自分がゴリラになってゴリラの観察をしてみると、ドラミングって攻撃的なものではない、色んな意味で使われる行動だと発見しました。
わたしも同様にゴリラの群れにはいっていって観察して、ゴリラは攻撃的ではないと思うようになりました。
ドラミングはジャンケンのパーの形で胸を打ちます。
ゴリラの胸は息を吸うと太鼓の様な役目をします。
パーで叩くことによって大きな音が出て、2km四方に渡って響き自分の集団ではない他の集団のゴリラにも聞こえるようになります、遠距離間のコミュニケーションです。
近くにいるゴリラにとって見ては自己主張のディスプレイなんです。
ドラミングは9つ中の動作の一つに過ぎません。
相撲の動作と同じようなものだと思っています。
まず尊居、身体を揺らして、ホウホウと口を尖らして声を出して、草を掴んでバッとして、二足でたちあがってパカパカパカとして横向きに走って当たりの木を掴んで、大地をバンと叩いて終わります、それが一連の動作になります。
二足で立って胸を打つ姿勢が美しい。
人間に当てはめた時にこれだと思いました、歌舞伎の見得なんです、おなじ構えだと思いました。
ゴリラと人間と全く見たことも会ったことも無い二つの生き物が、同じ様な姿勢を完成させたということは、社会が男に求めている期待と言うのは、よく似ているのではないかと思い当たりました。
戦うものではなくて自分に周囲の注目をひきつけて、自己主張する、それが美しくないといけない迫力がないといけない。
集団と集団同士が出会った時に、リーダーが出てきてお互いがディスプレイ合戦をする訳です。
そこでは戦わない。
オスは共にメンツを保ったままひき分けることができる。
戦ったら勝敗が付くし大けがをするのでそんなことはしたくない。
そのためにああいうディスプレイが発達した。
闘いを避け威厳を保つための姿勢なんです。
人間も実は勝敗を付けたいんじゃない、負けたくない、そういう気持ちが人間の社会でもゴリラと同じように作っているのではないかということです。
ゴリラには負けましたという姿勢、負けましたという表情も無い。(猿にはある)
日本猿の2頭の処に餌をやると強い猿が餌を奪う。
弱い方は歯を剥いて敵意が無いこと、自分の弱さを相手にひけらかす。
弱い方がひきさがることによってトラブルを解消する。(猿の重要な原理)
ゴリラは負けまいと言う姿勢がゴリラの社会を作っていて、勝とうとする姿勢ではない。
日本猿は勝とする社会、必ず勝つものがいて、負けた方は恨みを抱いたり反感を持ったりするので離れていくか、復讐されるかもしれない。
勝ち続ければ勝ち続けるほど孤独になって行く。
ゴリラ社会は勝とうとしない、負けまいとするだけ、威張る姿勢は出てこない、自己主張をしなければいけない。
良い塩梅で相手、周りが判るように自己主張をしなければいけないというのがゴリラの社会です。
仲間を失うことも無い。
我々人間はそっちの方にルーツを持っている。
ゴリラ、猿も笑います。
ゴリラは笑い声を立てます。(腹を震わせて笑います)
人間は口先で笑いますが、あれはだめです。(笑い)
腹を抱えて笑うという事をしないといけない、それがゴリラから受け継いできた人間らしい笑いなんです。
人間にも元々は言葉はなかった。
長い進化の過程を言葉なしで過ごしてきた、我々人間の感情は言葉のない時代に作られたと思います。
言葉より大切なものが我々のコミュニケーションにはずーっとある訳です。
顔の表情、仕草、構えなど、私はそれをゴリラから学びました。
人間の脳は1400cc、ゴリラの脳は500cc以下、人間の脳が大きくなったのは言葉(知性)から来たと思われるが、言葉のルーツはせいぜい7万年前位からということが判ってきました。
チンパンジーの祖先と約700万年前に別れて人間は独自の進化を始めました。
先ず二足歩行だが、その頃チンパンジーとは変わらない脳を持っていた。
それが500万年間続くわけで、その間脳は大きくならず、200万年前にようやく600ccを越えて、150万年掛けて今の脳の大きさになりました。
人間の脳が大きくなったのは言葉をしゃべりはじめたからではないんです。
脳が大きくなった結果として言葉を喋るようになったということです。
脳を大きくした理由とは。
イギリスのロビン・ダンバーという人類学者、面白いことを発見した。
どういう行動、特長が脳を大きくすることに役立っているのか、食べるものなどいろいろ調べてみたが関係なかった、結果は集団の大きさだった。
脳の中の新皮質といわれる部分が大きくなると脳全体が大きくなる。
新皮質が脳に占める割合が高いほど集団の平均サイズが大きい事が判った。
人間も言葉を喋っていない時代(200万年前から40万年前にかけて)集団が徐々に大きくなっていって、脳が増大したということが推測できるようになりました。
猿は集団の中でだれが強く、誰が弱いか常に頭に入れておかないと適当な振る舞いはできない。
仲間の数が増えると複雑になり記憶する量が増える、それが脳を大きくする原因だったと思われる。(ダンバー説)
ダンバーは人間の脳の大きさを推定して、脳に匹敵する当時の人間の集団の平均値を求めた。
脳が大きくなっていない時代の脳、350万年前では500cc以下、ゴリラの集団サイズに匹敵する、10~20人位。
600ccを越えた頃の集団は30人位。
1400ccではどの位の集団で生きるのに適しているか計算してみると150人位。
1万5000年前に我々は農耕牧畜を始めました。
それまでは狩猟採集、自然の恵みだけで過ごしてきた。
現在でもそういった生活は生きていて移動生活をしているが、150人ぐらいの集団になっている。
人間の脳の大きさはずーっと狩猟採集生活に適するような形として作られてきて、40万年前には完成されてしまっていて、それから劇的にコミュニケーションの様式がかわったとしても脳は大きくなっていないということかもしれません。
脳の大きさが決まってしまってきているということは非常に重要で、人間が信頼できる人々の数はせいぜい150人ぐらいということかも知れないということです。
我々はインターネット、スマホなどで膨大な数の人とやりとりしているが、そのなかで本当に信頼できる人達はどのくらいなのか、何千人、何万人に到っているのだろうか。
顔の浮かぶ人、何か体験として身体に埋め込まれた人達、自分が困った時になにも疑わずに相談できる人は150人を越えない数なのではないかと思えるわけです。
言葉によって我々の心が作られているような気がするが、実はそうではなくて身体が反応するということが人間的な特徴なのではないかと思える訳です。
食物を分けあって食べる、共食という行為、人間が二足歩行した時に顕著になり始めた行動だと思います。
他の霊長類は運んで分けあって食べると言うことはしない。(人間だけがする)
人間を信用すると言う事、他の種は自分しか信用しない。
信用しているから他の人間のものも食べる、現代はシステム化して当たり前だと思っているが、当たり前ではない。
我々は信用の上に社会を築いている。
信用できる人の数はわれわれの身体では150人を越えないという事を覚えておいてください。
二足歩行によって手が自由になり、色んな副産物が生まれました。
人間は成長の遅い子供を持ちながら(類人猿から引き継いだ遺産)、肉食獣に囲まれて生き延びるために人為的に多産に、毎年子供を産むようになった。
オランウータンは7年間乳を吸って育つ、ゴリラは3~4年、チンパンジーは5年。
離乳した時には永久歯が生えて大人と同じ食べ物が食べられる。
人間は本来6年乳を吸ってもいいが、1年で離乳するようになってしまった。
そして直ぐ子供が産めるようになり多産の道をあゆんできた。
子育てに老年期の人が大いに手を貸してくれたからこそ、沢山の子供達が生き延びることができた。
今は少子高齢化社会になり人類の進化にとっては全く新しい出来事で、これからそれに向けて社会を変えていかなくてはいけない。
何故人間は高齢になるズーっと前に子供を産むのをやめてしまうのか、何故難産になってきたのか。
200万年前の脳が大きくなり初めて、予め脳の大きな子を生むのか、小さな頭の子を産んで生後脳を大きくするのか、選択せざるを得なくなった。
二足歩行をしてしまったので骨盤の形が変形してしまった。
産道を大きくさせずに小さな子を産んで急速にその脳を発達させる道を選んだ。
ゴリラの赤ちゃんの脳は人間の脳と変わらない大きさで生まれて来る。
ゴリラの赤ちゃんの脳は5年間で2倍になる。
人間の赤ちゃんの脳は1年間で2倍になります。
ゴリラの赤ちゃんはガリガリで1.6kg位です。
人間は3kg位で体脂肪率が全然ゴリラと違って、ゴリラの体脂肪率は5%以下、人間の赤ちゃんは15~25%あります。
脳を急速に育てるためです。(脳は脂肪)
離乳が早い分、体脂肪が補ってくれる。
人間の赤ちゃんが共同保育されるように生まれてくる。
ゴリラの赤ちゃんは全然泣かないで抱かれて育っていきます。
人間の赤ちゃんは本当にうるさい、お母さんが赤ちゃんを手放すから泣くわけで、自己主張、自分の機嫌の悪さをを判ってもらえないから、誰にでも判るように泣くわけです。
あやす時に赤ちゃんにかけるトーンは民族文化を越えて人類同じ性質を持っていると言われます。
あやす時にトーンが普段より高く、繰り返しが多いという特徴を持っている。
だれにも習わなくても出来る。
その声に安心して赤ちゃんはにっこりほほ笑む、これがみんなだまされる、赤ちゃんに奉仕する。
人間の赤ちゃんは周りの人を自分を育ててくれるように、ひき込む特徴を持って生れて来る、それがゴリラの赤ちゃんと違う。
人間は食べる行為を変え、子供を脂肪に包まれた頭でっかちになるような赤ちゃんを大勢作らなくてはいけなくなったゆえに、共同で保育をせざるを得なくなって、それが人間の社会を大きくした原因だと思います。
おたがいが影響し合って社会脳として脳が大きくなったと思います。
言葉ではない身体のコミュニケーションで我々は社会をもう一度作り直さないといけない、そういう身体を我々はしているという事を頭に入れて下さい、これはゴリラからの提言です。
2018年6月30日土曜日
2018年6月29日金曜日
安野光雅(画家) ・【人生のみちしるべ】鏡の国のボク
安野光雅(画家) ・【人生のみちしるべ】鏡の国のボク
1926年大正15年生まれ、92歳、島根県出身
子供の頃鏡を畳の上に置いてそこに映る世界を覗きこみ、空想を膨らませて遊んでいたと言います。
終戦後徳山市から23歳で上京、小学校の教師として働きながら本の装丁の絵の仕事などを手がけていましたが、36歳で教師を辞め画家として独立、安野さんが絵本作家としてデビューしたのが1968年42歳の時です。
今年は絵本作家デビューから50周年です。
繊細な風景画を始め、多彩なテーマ、楽しいアイディアに満ちた絵本を次々に生み出し、国際アンデルセン賞を始め数々の賞を受賞されています。
「旅の絵本」が5年ぶりに新刊発表。(スイス編)
文字が無い絵本で、最初文字が無いからわからないと言う人がいたが、文字を通して説明的に理解すると言うのは、絵は説明なんかじゃないと言いましたが、判ってくれたかどうか判りません。
心臓にパイプを入れる手術、がんの放射線治療(10年前)をしましたが、現在元気でいます。
1時まで起きていてそれから寝て、8時頃には眼をさまします。
絵は昼も夜も描いています。
島根県津和野町の旅館を営む家に生まれる。
3月20日生まれなのでクラスでも小さく、学校が厭だった。
おはじきも持っていかなくてはいけなくて、おはじきは家にはなくて貝殻を持っていかなくてはいけなくてみんなと同じではなく厭だった。
絵は好きで勝手に色々描いていました。
絵かきになりたいとは小さいころから思っていました。
絵かきが一度家に泊まりに来て、軸ものを描いていました。
手本にすずめの絵を描いてくれましたが、すずめの絵を描けると言うふうにはいきませんでした。
絵描きでも宿屋の倅というのがいて茂田井武、ドボルザーク、児島虎次郎とかがいます。
児島虎次郎は大原美術館を作った大原孫三郎という人の友人でした。
京都の美術館を作った安藤忠雄がよく勉強していて、本から出てくる言葉があり気があいました。
終戦後、復員して先生にならないかという話があり、小学校の代用教員になりました。
教科書が無くて桜の花を断面図を描いてはなびら、おしべ、めしべがあり実になって行くと説明したが、生徒から玉椿にはおしべが無いというのがいて、確認したが本当におしべはなかった。
後で調べてみたらおしべが花びらに変化したということだった。
子供は色んな事を知っているものです。
19歳で兵隊に行きした。
両親は64,5歳で「年寄りを残していきますのでよろしくお願いします」、ということだったが私は先のことしか思っていなかった。
親の方は今生の別れと思っていたようだが、私はなんにも考えずに行きました。
陸軍だったが船舶兵で自動小銃一発で沈む様なベニヤ板の船だった。
敗戦の日は歩哨に立っていたが、上官が隠匿物資を何度も持ち出していた。
両親のもとに帰っていきましたが、触らないでと言われて着ているもの全部煮沸消毒することになりました。(しらみなどを全部殺す作業)
これで人間になったという感じでした。
代用教員の後、23歳で上京しました。
絵描きになる為にいつか東京に行こうと秘かに思っていました。
小原國芳さんが地方講演に来て、私の描いた絵に目が止まったそうで、玉川学園の創立者で、学校に来て絵の先生になってほしいとの要請がありました。
養運寺に泊って玉川学園に会うために通い、ようやくあえました。
玉川学園出版部で本の装幀、イラストなどを手がけた。
山手線を一周回ったが東京は焼け野原で、どこも同じだと思って、劣等感が消えると言うか、勉強すれば何とかなると思いました。
一分一秒無駄にしてはいけないと勉強しました。
「雲中一雁」という篆刻を見て2万円ということで買えなかったが、その時これなんだと思いました。(自分のことのように思いました、一人で生きていこう)
本の装丁の絵の話があり、百科事典20冊出るが、一つ書いてほしいということでその後要望もあり、同じテーマで16描かないといけない。
人の顔をそれぞれ違うので、よしやろうと思いました。(5万人いれば5万あるので驚かなくなった)
井上ひさしの「長屋の仇討」で堀部安兵衛をかき上がって、ポスターも貼られていて、
題名が変わりましたと連絡があり「犬の仇討」ということになったとの事。
ポスターをあらためて書いてほしいということで3日で書き上げ対応しました。
ヨーロッパに初めて行って、コペンハーゲンの素晴らしさに感動しました。
その後42歳で絵本作家としてデビューし、『ふしぎなえ』を製作。
1926年大正15年生まれ、92歳、島根県出身
子供の頃鏡を畳の上に置いてそこに映る世界を覗きこみ、空想を膨らませて遊んでいたと言います。
終戦後徳山市から23歳で上京、小学校の教師として働きながら本の装丁の絵の仕事などを手がけていましたが、36歳で教師を辞め画家として独立、安野さんが絵本作家としてデビューしたのが1968年42歳の時です。
今年は絵本作家デビューから50周年です。
繊細な風景画を始め、多彩なテーマ、楽しいアイディアに満ちた絵本を次々に生み出し、国際アンデルセン賞を始め数々の賞を受賞されています。
「旅の絵本」が5年ぶりに新刊発表。(スイス編)
文字が無い絵本で、最初文字が無いからわからないと言う人がいたが、文字を通して説明的に理解すると言うのは、絵は説明なんかじゃないと言いましたが、判ってくれたかどうか判りません。
心臓にパイプを入れる手術、がんの放射線治療(10年前)をしましたが、現在元気でいます。
1時まで起きていてそれから寝て、8時頃には眼をさまします。
絵は昼も夜も描いています。
島根県津和野町の旅館を営む家に生まれる。
3月20日生まれなのでクラスでも小さく、学校が厭だった。
おはじきも持っていかなくてはいけなくて、おはじきは家にはなくて貝殻を持っていかなくてはいけなくてみんなと同じではなく厭だった。
絵は好きで勝手に色々描いていました。
絵かきになりたいとは小さいころから思っていました。
絵かきが一度家に泊まりに来て、軸ものを描いていました。
手本にすずめの絵を描いてくれましたが、すずめの絵を描けると言うふうにはいきませんでした。
絵描きでも宿屋の倅というのがいて茂田井武、ドボルザーク、児島虎次郎とかがいます。
児島虎次郎は大原美術館を作った大原孫三郎という人の友人でした。
京都の美術館を作った安藤忠雄がよく勉強していて、本から出てくる言葉があり気があいました。
終戦後、復員して先生にならないかという話があり、小学校の代用教員になりました。
教科書が無くて桜の花を断面図を描いてはなびら、おしべ、めしべがあり実になって行くと説明したが、生徒から玉椿にはおしべが無いというのがいて、確認したが本当におしべはなかった。
後で調べてみたらおしべが花びらに変化したということだった。
子供は色んな事を知っているものです。
19歳で兵隊に行きした。
両親は64,5歳で「年寄りを残していきますのでよろしくお願いします」、ということだったが私は先のことしか思っていなかった。
親の方は今生の別れと思っていたようだが、私はなんにも考えずに行きました。
陸軍だったが船舶兵で自動小銃一発で沈む様なベニヤ板の船だった。
敗戦の日は歩哨に立っていたが、上官が隠匿物資を何度も持ち出していた。
両親のもとに帰っていきましたが、触らないでと言われて着ているもの全部煮沸消毒することになりました。(しらみなどを全部殺す作業)
これで人間になったという感じでした。
代用教員の後、23歳で上京しました。
絵描きになる為にいつか東京に行こうと秘かに思っていました。
小原國芳さんが地方講演に来て、私の描いた絵に目が止まったそうで、玉川学園の創立者で、学校に来て絵の先生になってほしいとの要請がありました。
養運寺に泊って玉川学園に会うために通い、ようやくあえました。
玉川学園出版部で本の装幀、イラストなどを手がけた。
山手線を一周回ったが東京は焼け野原で、どこも同じだと思って、劣等感が消えると言うか、勉強すれば何とかなると思いました。
一分一秒無駄にしてはいけないと勉強しました。
「雲中一雁」という篆刻を見て2万円ということで買えなかったが、その時これなんだと思いました。(自分のことのように思いました、一人で生きていこう)
本の装丁の絵の話があり、百科事典20冊出るが、一つ書いてほしいということでその後要望もあり、同じテーマで16描かないといけない。
人の顔をそれぞれ違うので、よしやろうと思いました。(5万人いれば5万あるので驚かなくなった)
井上ひさしの「長屋の仇討」で堀部安兵衛をかき上がって、ポスターも貼られていて、
題名が変わりましたと連絡があり「犬の仇討」ということになったとの事。
ポスターをあらためて書いてほしいということで3日で書き上げ対応しました。
ヨーロッパに初めて行って、コペンハーゲンの素晴らしさに感動しました。
その後42歳で絵本作家としてデビューし、『ふしぎなえ』を製作。
2018年6月28日木曜日
神田松鯉(講釈師) ・"男の美学"を語る
神田松鯉(講釈師) ・"男の美学"を語る
昭和17年生まれ、昭和36年新劇俳優としてデビュー、歌舞伎界を経て昭和45年二代目神田山陽さんに入門、講談の世界に入りました。
これまでに第一回講談奨励賞、第六回放送演芸大賞ホープ賞、第43回文化庁芸術祭賞受賞。
「赤穂義士伝」、「祐天吉松」、「村井長庵」など数々の古典の連続物などを中心に幅広く活躍されています。
松鯉さんがこだわりを見せるのは連続ものと男の美学です。
講釈師の声帯ではないと講釈ができにくいところがある。
昔は綺麗な声だと言われました。
新劇の役者の時に声学もやっていますが、講釈は作り上げた声です。
空気の出入りが時速300km/hと言われます。
擦すれて傷ができそのうち固まってきて声帯が一面たこになり、講釈の声帯になります。
腹式呼吸でズーとやっていたら高い声がでなくなってしまったが。
この声になったのは10~20年前ですかね。
身体の力が抜けたからかもしれないが高い声も出るようになりました。
昭和20年8月15日未明に大空襲がありました。(3歳の時の伊勢崎大空襲)
日本最後の本土大空襲、家が焼けてしまって前橋に引っ越しました。
4人兄弟の長男で、惣領の甚六でした。
中、高校時代に役者になりたいと思いました。
文学少年で詩を書いて本も読みました。
水戸黄門記など読んでいました。
言葉を矯正しようと思ってアナウンス学校に行きました。
その後劇団文化座の研究所に入り勉強しました。
2年で卒業して俳優集団民衆舞台(桑山正一さんが創設)に入りました。
旗揚げ公演に出演しました。
或る人が紹介してくれて、歌舞伎をやらないかと言われました。
2代目中村歌門先生に入門して1年位いました。
楽屋を肌で感じたことは大きかったです。
昭和45年二代目神田山陽さんに入門、講談の世界に入りました。(27歳)
演劇の朗読は基本なので喋ると、桑山さんがお前は講談だと言われ続けて来ました。
何処がそうなのか本物の講談を聞いたが判らず、いっそ講釈師になろうと思ったのかもしれない。
当時二代目神田山陽師匠はとっつきやすさがありました。
師匠の芸は明快で軽いんで、だから受けます。
私はいくらやっても軽さはでなくて重いんです、或る時点からそうなりました。
「ゆうた」(お面をかぶって幽霊の役をやってお客さんの周りを回る)をひと夏で120回位やったことがあります。(師匠が怪談を120高座をやっているという事)
昭和52年真打ちになる。(7年でなりましたが、いまは13~15年かかります。)
講釈師の世界では当時分裂していたりしていました。
昭和63年度の第43回文化庁芸術祭賞受賞
平成4年「3代目神田松鯉」を襲名。
2代目神田松鯉師匠に対してうちの師匠は「おやじ」と呼んでいて親しみを持っていたようで、その師匠から神田松鯉を継がないかと言われていて、まだまだと思っていました。
2代目神田松鯉師匠のご遺族まで紹介されて、松鯉を襲名することになりました。
2代目神田松鯉師匠とは芸風が違うが、自分なりの松鯉を作っていこうと思いました。
ネタはだいたい500席はあります。
講談には連続物と一席物があります。
徳川天一坊は20席の連続物になります。
連続物のいいところだけ取る、いいとこ読みが多いですが、連続物にこだわっています。
連続物は山場とだれ場もありますが、だれ場をどうやって工夫してお客さんに聞いてもらうか、これが勉強になります、講釈師の技量にもつながってきます。
明治時代は一人の講釈師が1カ月2カ月かけて連続物をやっていました。
戦後になって連続物をやる場所がなくて、一席物をやることになっただけですから。
本来の形を継承しておきたい。
最初「三方ヶ原」から教えます。
全6巻ある、これが基本なのでまずこれから教えます。
その後武芸物を教えます。(宮本武蔵伝など)
もう一つが男の美学、わたしの人生のテーマです、義侠心が最大のテーマです。
それぞれの立場で男の美学がある。
保身に走らない、自己犠牲・・・敬天愛人に近いのではないか。
こうありたいと柱を立てると無意識に近づいてゆくと思う。
芸はお客様と一緒に作り上げるものだと思う。
シャボン玉理論、シャボン玉のなかにお客さんと一緒に入りその呼吸がお客さんと一緒になり、薄いシャボン玉の皮が破れない。
そういうことは数年に一度あればいい方だと思います。
困っている人に黙って情けを掛ける、掛けられた恩を忘れない、これが男気だと思います。
講談教室を17,8年やっています。
盛況で小学6年生も入ってきました。
昭和17年生まれ、昭和36年新劇俳優としてデビュー、歌舞伎界を経て昭和45年二代目神田山陽さんに入門、講談の世界に入りました。
これまでに第一回講談奨励賞、第六回放送演芸大賞ホープ賞、第43回文化庁芸術祭賞受賞。
「赤穂義士伝」、「祐天吉松」、「村井長庵」など数々の古典の連続物などを中心に幅広く活躍されています。
松鯉さんがこだわりを見せるのは連続ものと男の美学です。
講釈師の声帯ではないと講釈ができにくいところがある。
昔は綺麗な声だと言われました。
新劇の役者の時に声学もやっていますが、講釈は作り上げた声です。
空気の出入りが時速300km/hと言われます。
擦すれて傷ができそのうち固まってきて声帯が一面たこになり、講釈の声帯になります。
腹式呼吸でズーとやっていたら高い声がでなくなってしまったが。
この声になったのは10~20年前ですかね。
身体の力が抜けたからかもしれないが高い声も出るようになりました。
昭和20年8月15日未明に大空襲がありました。(3歳の時の伊勢崎大空襲)
日本最後の本土大空襲、家が焼けてしまって前橋に引っ越しました。
4人兄弟の長男で、惣領の甚六でした。
中、高校時代に役者になりたいと思いました。
文学少年で詩を書いて本も読みました。
水戸黄門記など読んでいました。
言葉を矯正しようと思ってアナウンス学校に行きました。
その後劇団文化座の研究所に入り勉強しました。
2年で卒業して俳優集団民衆舞台(桑山正一さんが創設)に入りました。
旗揚げ公演に出演しました。
或る人が紹介してくれて、歌舞伎をやらないかと言われました。
2代目中村歌門先生に入門して1年位いました。
楽屋を肌で感じたことは大きかったです。
昭和45年二代目神田山陽さんに入門、講談の世界に入りました。(27歳)
演劇の朗読は基本なので喋ると、桑山さんがお前は講談だと言われ続けて来ました。
何処がそうなのか本物の講談を聞いたが判らず、いっそ講釈師になろうと思ったのかもしれない。
当時二代目神田山陽師匠はとっつきやすさがありました。
師匠の芸は明快で軽いんで、だから受けます。
私はいくらやっても軽さはでなくて重いんです、或る時点からそうなりました。
「ゆうた」(お面をかぶって幽霊の役をやってお客さんの周りを回る)をひと夏で120回位やったことがあります。(師匠が怪談を120高座をやっているという事)
昭和52年真打ちになる。(7年でなりましたが、いまは13~15年かかります。)
講釈師の世界では当時分裂していたりしていました。
昭和63年度の第43回文化庁芸術祭賞受賞
平成4年「3代目神田松鯉」を襲名。
2代目神田松鯉師匠に対してうちの師匠は「おやじ」と呼んでいて親しみを持っていたようで、その師匠から神田松鯉を継がないかと言われていて、まだまだと思っていました。
2代目神田松鯉師匠のご遺族まで紹介されて、松鯉を襲名することになりました。
2代目神田松鯉師匠とは芸風が違うが、自分なりの松鯉を作っていこうと思いました。
ネタはだいたい500席はあります。
講談には連続物と一席物があります。
徳川天一坊は20席の連続物になります。
連続物のいいところだけ取る、いいとこ読みが多いですが、連続物にこだわっています。
連続物は山場とだれ場もありますが、だれ場をどうやって工夫してお客さんに聞いてもらうか、これが勉強になります、講釈師の技量にもつながってきます。
明治時代は一人の講釈師が1カ月2カ月かけて連続物をやっていました。
戦後になって連続物をやる場所がなくて、一席物をやることになっただけですから。
本来の形を継承しておきたい。
最初「三方ヶ原」から教えます。
全6巻ある、これが基本なのでまずこれから教えます。
その後武芸物を教えます。(宮本武蔵伝など)
もう一つが男の美学、わたしの人生のテーマです、義侠心が最大のテーマです。
それぞれの立場で男の美学がある。
保身に走らない、自己犠牲・・・敬天愛人に近いのではないか。
こうありたいと柱を立てると無意識に近づいてゆくと思う。
芸はお客様と一緒に作り上げるものだと思う。
シャボン玉理論、シャボン玉のなかにお客さんと一緒に入りその呼吸がお客さんと一緒になり、薄いシャボン玉の皮が破れない。
そういうことは数年に一度あればいい方だと思います。
困っている人に黙って情けを掛ける、掛けられた恩を忘れない、これが男気だと思います。
講談教室を17,8年やっています。
盛況で小学6年生も入ってきました。
2018年6月27日水曜日
西川右近(日本舞踊家 西川流総師) ・"芸どころ名古屋"をふたたび
西川右近(日本舞踊家 西川流総師) ・"芸どころ名古屋"をふたたび
1939年名古屋市生まれ、79歳、3歳で初舞台、芸歴は70年以上。
2014年まで31年間西川流の家元を務めて来る。
その経験、日本舞踊の枠にとどまらない多彩な活動について伺います。
日本舞踊は色々な流儀がある。
日本舞踊協会に所属しているだけで200以上あります。
江戸時代まで遡っていくと3つ位の流派なんです。
お茶、お能のように一つの哲学をつくった人がいないから沢山の流派が出来ているが、比較的古い歴史があるのが西川流です。
初代西川西川鯉三郎という人は元々は江戸にいたが、名古屋に行った時が江戸の終わりの頃です。
東京では弟子が継ぐことになった時に、一番、二番目に古い方が亡くなってしまった。
一番若い人が花柳流の流祖になっている。
三番目の人が名古屋に行って西川流となり家元西川流となっています。
現在弟子は全国4800人ぐらいいますが、そこで弟子を持っていたり把握はできないです。
私自身は東京、金沢、大阪など色々行っています。
家元時代は全国を駆け巡っていましたが、3年前から息子が家元になったので、少なくなってきました。
初舞台は3歳といわれるが、お猿さんの恰好をしているのは覚えている。
父と母は6代目菊五郎師匠の弟子でした。
名古屋に西川流を継ぐ人がいなくて師匠に言われて名古屋に行きました。
4,5歳で戦争の慰問隊として一緒に連れていかされました。
6歳で初めて、父が名古屋をどりを県からの要請で踊った時に一緒に踊りました。(昭和20年9月)
劇場の窓ガラスが割れるほどの大入り満員でした。(心の癒し)
焼け野原にバラックが建ち屋根が出来てきて、人間の復興の力を子供心に凄いと思いました。
二回目御園座でやったのが戦後3年目でした。
今の名古屋をどりよりもその頃の名古屋をどりの方がお客様から切望されていたと思います。
疎開先のおばあちゃんが畑から内緒だよと言ってトウモロコシを持ってきて、醤油を付けて焼いて食べさせてくれたのが生涯で一番おいしかったと思います。
先代の尾上松緑師匠には部屋子のように可愛がってもらいました。
よく御園座へ行って遊んでいました。
劇場での折り箱の寿司を握るお手伝いなどもしました。
或る時6世藤間勘十郎師匠(後の2代目藤間勘祖)を見た瞬間に判らないが、踊りをやりたいと思いました。(15,6歳の頃)
それまではおだてられて踊らされていた。
自分の手本を発見して、いっぺんに踊りが好きになってしまいました。
名古屋をどり 舞踊の大衆化に重きを置いていい先生と出会って舞踊劇を作って、それが川端康成先生、北条秀司先生、吉川英治先生、船橋先生など数えたらきりがないです。
そういった先生方と出会ったのも踊りを好きになった要因かもしれません。
川端康成先生の弟子になりたいと言った時もありました。
僕たちは切符を売りたいと言ったが、北条秀司先生からは稽古稽古と言われました。
「稽古が十分してあってお客がいない舞台と、お客が一杯いて稽古がしていない舞台とお前たちどっちがいいんだ」と言われました。(本当にいい勉強になりました。)
私の人生は自分の努力というよりも、良い方に恵まれたということが一番大きいと思います。
出演者も長谷川和夫さん、美空ひばりさん、市川 笑三郎さん、アグネス・ラムさん、佐久間良子さん、山本富士子さんなど色んな方がゲスト出演させて頂きました。
美空ひばりさんからは「どうして私を呼んでくれないの」と言われたが、「呼ぶほどのギャラが払えないし忙しいそうなので」といったら、「それが水臭いというのよ」といって出て下さいました。
出ていただいたが、当日はお母さんが手術をする日でした。
3日間来てくれましたが。舞台を終わるとさっと帰って行って母の所に行っていたようですが、我々には悟られないようにふるまっていました。
舞踊劇の執筆など30数本、エッセー、時代小説など書いています。
対談、ラジオのパーソナリティーなどもやってきました。
ラジオドラマ、TVの仕事にも関わりました。
TVドラマが始まって2年間ぐらいやった所から「中学生日記」が始まりました。
日本舞踊を取り入れたエクササイズ。
病気をして筋力が衰えたが踊りの稽古をしたら筋力が戻ってきて、身体に効く事があるのではと思って、平成14年ぐらいから湯浅景元先生(元中京大学教授)に踊りが運動になるかを聞いたら、興味があるので日本の踊りをスポーツ化したサイエンスにしようと言うことで、機器を取り付けたりして血圧、脈拍など色んなデータを取りました。
動きが緩やかなので高齢者の介護予防、幼稚園などに取り入れてもらっています。
平成19,21年にかけて厚生労働省のモデル事業にもなりました。
筋力を鍛えることと、コミュニティーを作ること、ミスしたりして笑って運動するそれが大事だと思います。
イベントをプロデュース、対談(鳳蘭さん、原辰徳さん、市川 笑三郎さんなど)とか。
人に会うことは勉強になるが、その人の凄さを知らずに終わってしまうのはもったいない。
ものを見るとつい興味がわく、妻を8年間在宅介護して亡くなってしまったが、在宅介護も興味が起こります。
どうやると被介護者が楽しい毎日を送れるかを演出して行くか、踊りは演出家なので、こうやると喜ぶみたいだと興味が湧いてくる。
気づく、それが面白い。
2018年中日劇場が閉館、5年ぶりに御園座が生まれ変わる。
坪内逍遥先生の少年期に見た歌舞伎の印象の本があるが、昔名古屋は芸どころと言われていたと書かれていて、今後名古屋はどうなっていくんだろうと書かれている。
名古屋にしかないというものを作らないといけないと思います。
1939年名古屋市生まれ、79歳、3歳で初舞台、芸歴は70年以上。
2014年まで31年間西川流の家元を務めて来る。
その経験、日本舞踊の枠にとどまらない多彩な活動について伺います。
日本舞踊は色々な流儀がある。
日本舞踊協会に所属しているだけで200以上あります。
江戸時代まで遡っていくと3つ位の流派なんです。
お茶、お能のように一つの哲学をつくった人がいないから沢山の流派が出来ているが、比較的古い歴史があるのが西川流です。
初代西川西川鯉三郎という人は元々は江戸にいたが、名古屋に行った時が江戸の終わりの頃です。
東京では弟子が継ぐことになった時に、一番、二番目に古い方が亡くなってしまった。
一番若い人が花柳流の流祖になっている。
三番目の人が名古屋に行って西川流となり家元西川流となっています。
現在弟子は全国4800人ぐらいいますが、そこで弟子を持っていたり把握はできないです。
私自身は東京、金沢、大阪など色々行っています。
家元時代は全国を駆け巡っていましたが、3年前から息子が家元になったので、少なくなってきました。
初舞台は3歳といわれるが、お猿さんの恰好をしているのは覚えている。
父と母は6代目菊五郎師匠の弟子でした。
名古屋に西川流を継ぐ人がいなくて師匠に言われて名古屋に行きました。
4,5歳で戦争の慰問隊として一緒に連れていかされました。
6歳で初めて、父が名古屋をどりを県からの要請で踊った時に一緒に踊りました。(昭和20年9月)
劇場の窓ガラスが割れるほどの大入り満員でした。(心の癒し)
焼け野原にバラックが建ち屋根が出来てきて、人間の復興の力を子供心に凄いと思いました。
二回目御園座でやったのが戦後3年目でした。
今の名古屋をどりよりもその頃の名古屋をどりの方がお客様から切望されていたと思います。
疎開先のおばあちゃんが畑から内緒だよと言ってトウモロコシを持ってきて、醤油を付けて焼いて食べさせてくれたのが生涯で一番おいしかったと思います。
先代の尾上松緑師匠には部屋子のように可愛がってもらいました。
よく御園座へ行って遊んでいました。
劇場での折り箱の寿司を握るお手伝いなどもしました。
或る時6世藤間勘十郎師匠(後の2代目藤間勘祖)を見た瞬間に判らないが、踊りをやりたいと思いました。(15,6歳の頃)
それまではおだてられて踊らされていた。
自分の手本を発見して、いっぺんに踊りが好きになってしまいました。
名古屋をどり 舞踊の大衆化に重きを置いていい先生と出会って舞踊劇を作って、それが川端康成先生、北条秀司先生、吉川英治先生、船橋先生など数えたらきりがないです。
そういった先生方と出会ったのも踊りを好きになった要因かもしれません。
川端康成先生の弟子になりたいと言った時もありました。
僕たちは切符を売りたいと言ったが、北条秀司先生からは稽古稽古と言われました。
「稽古が十分してあってお客がいない舞台と、お客が一杯いて稽古がしていない舞台とお前たちどっちがいいんだ」と言われました。(本当にいい勉強になりました。)
私の人生は自分の努力というよりも、良い方に恵まれたということが一番大きいと思います。
出演者も長谷川和夫さん、美空ひばりさん、市川 笑三郎さん、アグネス・ラムさん、佐久間良子さん、山本富士子さんなど色んな方がゲスト出演させて頂きました。
美空ひばりさんからは「どうして私を呼んでくれないの」と言われたが、「呼ぶほどのギャラが払えないし忙しいそうなので」といったら、「それが水臭いというのよ」といって出て下さいました。
出ていただいたが、当日はお母さんが手術をする日でした。
3日間来てくれましたが。舞台を終わるとさっと帰って行って母の所に行っていたようですが、我々には悟られないようにふるまっていました。
舞踊劇の執筆など30数本、エッセー、時代小説など書いています。
対談、ラジオのパーソナリティーなどもやってきました。
ラジオドラマ、TVの仕事にも関わりました。
TVドラマが始まって2年間ぐらいやった所から「中学生日記」が始まりました。
日本舞踊を取り入れたエクササイズ。
病気をして筋力が衰えたが踊りの稽古をしたら筋力が戻ってきて、身体に効く事があるのではと思って、平成14年ぐらいから湯浅景元先生(元中京大学教授)に踊りが運動になるかを聞いたら、興味があるので日本の踊りをスポーツ化したサイエンスにしようと言うことで、機器を取り付けたりして血圧、脈拍など色んなデータを取りました。
動きが緩やかなので高齢者の介護予防、幼稚園などに取り入れてもらっています。
平成19,21年にかけて厚生労働省のモデル事業にもなりました。
筋力を鍛えることと、コミュニティーを作ること、ミスしたりして笑って運動するそれが大事だと思います。
イベントをプロデュース、対談(鳳蘭さん、原辰徳さん、市川 笑三郎さんなど)とか。
人に会うことは勉強になるが、その人の凄さを知らずに終わってしまうのはもったいない。
ものを見るとつい興味がわく、妻を8年間在宅介護して亡くなってしまったが、在宅介護も興味が起こります。
どうやると被介護者が楽しい毎日を送れるかを演出して行くか、踊りは演出家なので、こうやると喜ぶみたいだと興味が湧いてくる。
気づく、それが面白い。
2018年中日劇場が閉館、5年ぶりに御園座が生まれ変わる。
坪内逍遥先生の少年期に見た歌舞伎の印象の本があるが、昔名古屋は芸どころと言われていたと書かれていて、今後名古屋はどうなっていくんだろうと書かれている。
名古屋にしかないというものを作らないといけないと思います。
2018年6月26日火曜日
中村元(水族館プロデューサー) ・弱点を武器に
中村元(水族館プロデューサー) ・弱点を武器に
62歳、大学卒業後三重県内の水族館に入社した中村さんはアシカのトレーナーとしてスタートした後、ラッコ、ジュゴンなど当時は無名だった動物を前面に押し出し、当時ブームの立役者として活躍しました。
2001年水族館を退社した後、日本初の水族館プロデューサーとして全国各地の水族館のリニューアルなどを担当します。
それぞれの水族館の弱点を進化の武器に変える手法でリニューアルを成功させてきました。
水族館の仕事と合わせ中村さんが力を入れているのが、バリアーフリーの観光地作りです。
障害がある人、高齢者が安心して旅ができる観光地作りを進め、訪れる人を増やすのが目標です。
ビルのてっぺんに水族館を作ろうとすると、水の重さが大変です。
そうすると大きな水槽が作れなくなる。
厳しかったのは屋上を使うことでした。(建築基準法上使いにくい場所)
この弱点をどうやってクリアーしようかと思ったのが、ペンギンの水槽でした。
空をバックにしたら少ない水で広く見える。
ペンギンを飛ばせて見せようという大それたことではなくて、空をバックにいかに広く見せようかと思いました。
生き生きした姿は水中から見上げると見られ、目を合わすこともできる、そういった感動を見せたいと思いました。
大学卒業後三重県内の水族館に入社。
特に水族館、動物が好きという訳ではなった。
動物の事を知っておかないと経営、営業ができる訳ではないので3年間やらせてほしいと頼み込みました。
魚の種類など全く知らなかったが、1万種以上載っている本を買わされて全部覚えろと言われました。
アシカとペンギンに興味を持ちましてアシカを担当することに決めました。
ショーに出せないアシカを言う事を聞くようにして欲しいと言われて、接すると性格の違いを感じて、性格に合わせて何かをしてあげると色んな事が出来るようになって来るんです。
決まったやり方では駄目なアシカたちでした。
そのアシカ達を使って1年後にデビューしたんです。
今までのショーとは全く違ったショーでした。
お客さんが笑って楽しむショーにしました。
輪を投げるのをわざと一回失敗させて、そうするとアシカが台から降りてきて咥えて自分の首に通す、アシカが主人公になり拍手喝さいとなる。
水族館は動物の凄さを見せるものだと思っています。
3年後営業に移りましたが、従来のやり方ではお客さんは増えないだろうと感じました。
大学時代は映画を作ったりしていたので、スナメリ(ネズミイルカ科)の出産をビデオで撮りました。
へその緒がぷつんと切れるところまで映りました。
NHKのTVの知り合いに電話したら興奮して是非送って欲しいとのことで送ったら、世界で初めての映像と言うことで次の日からTVで全国放送になってどんどん放映されました。
次の週の土、日からお客さんが一杯来ました。
団体旅行に頼っていてはだめだと言うことも判りました。
個人を対象にするにはメディアを利用することだと思って、広報担当が必要だと思いました。
タツノオトシゴは魚だとは一般には判らない、卵ではなく同じ形の赤ちゃんがオスのお腹から出てくる、物凄く面白いと思った。
TVを呼びましょうと言ったが、周りはそれほど面白い話ではないと言っていました。
二人での広報を作ってラッコ、ジュゴンなど面白いことを撮って、お客さんが沢山来てくれました。
副館長になり、経営のやり方などの違いもあって辞めることにしました。
或る出資者からの水族館のリニューアルの話がありそのお手伝いをしました。
それがきっかけとなり水族館プロデューサーになりました。
最後までかかわったのが7館有ります。
条件が悪ければ悪いほど燃えてしまいます。
北海道の北見市の「北の大地の水族館」は弱点だらけでした。
大雪山のふもとで人が住んでいない、北見市の市街地から1時間かかってしまう。
お金も掛けられないということで2億5000万円とのことで、建て直しだけで3億円でも厳しく、淡水魚しか飼えないということだった。
北海道の魚か熱帯淡水魚(ペットショップで売っている魚)しかいない。
日本一の貧乏水族館だけれど世界初を持っているという事を使おうとずーっと言いつづけました。
水塊を見せようと、湖に潜って美しいと思われる光景を作ろうと考えました。
オショロコマ(イワナの仲間)を見せるために滝壺の水槽(滝壺を見上げる水槽)を考えました。
白い泡が凄い勢いで流れ、そこにオショロコマの群れが集まってくるそういうふうにしました。
安くするために外に穴を掘って窓を付けて水槽にしました、流れる川にしました。
冬は寒いので川が凍るので氷の下を見せる世界初の水槽です、というのを作りました。
いまでも大人気で真冬でもお客さんが来てくれます。
年間2万人のお客さんだったのが、年間30万人来るようになり、7年目になっているが10万人は来ています。
三重県にいたころに伊勢志摩の観光客を増やすように知事から言われて、バリアーフリーを考えました。(お客さんの層を増やす事、障害者、高齢者を受け入れる)
お客さんは感動するところに行きたい、そこが大事だと思う。
バリアーフリーの情報よりもバリアーの状況が知りたい(段差のレベルなど)との事。
観光地はコミュニティーのマーケット、一人でも行きたくないと言う人がいれば行けない。
コミュニティーのマーケットは体の不自由な人が基準になる。
完璧なバリアーフリーしなくてもいいと思っている。
最初は伊勢志摩の観光客を増やすということで始めたが、今は関係ないがボランティアで続けています。
ニッチ産業でニッチなことばっかりやっていて成功して、ニッチをメジャーにして行くトリックを使って上手くできたのかと思います。
次の世代の育成に頑張っていきたいと思います。
62歳、大学卒業後三重県内の水族館に入社した中村さんはアシカのトレーナーとしてスタートした後、ラッコ、ジュゴンなど当時は無名だった動物を前面に押し出し、当時ブームの立役者として活躍しました。
2001年水族館を退社した後、日本初の水族館プロデューサーとして全国各地の水族館のリニューアルなどを担当します。
それぞれの水族館の弱点を進化の武器に変える手法でリニューアルを成功させてきました。
水族館の仕事と合わせ中村さんが力を入れているのが、バリアーフリーの観光地作りです。
障害がある人、高齢者が安心して旅ができる観光地作りを進め、訪れる人を増やすのが目標です。
ビルのてっぺんに水族館を作ろうとすると、水の重さが大変です。
そうすると大きな水槽が作れなくなる。
厳しかったのは屋上を使うことでした。(建築基準法上使いにくい場所)
この弱点をどうやってクリアーしようかと思ったのが、ペンギンの水槽でした。
空をバックにしたら少ない水で広く見える。
ペンギンを飛ばせて見せようという大それたことではなくて、空をバックにいかに広く見せようかと思いました。
生き生きした姿は水中から見上げると見られ、目を合わすこともできる、そういった感動を見せたいと思いました。
大学卒業後三重県内の水族館に入社。
特に水族館、動物が好きという訳ではなった。
動物の事を知っておかないと経営、営業ができる訳ではないので3年間やらせてほしいと頼み込みました。
魚の種類など全く知らなかったが、1万種以上載っている本を買わされて全部覚えろと言われました。
アシカとペンギンに興味を持ちましてアシカを担当することに決めました。
ショーに出せないアシカを言う事を聞くようにして欲しいと言われて、接すると性格の違いを感じて、性格に合わせて何かをしてあげると色んな事が出来るようになって来るんです。
決まったやり方では駄目なアシカたちでした。
そのアシカ達を使って1年後にデビューしたんです。
今までのショーとは全く違ったショーでした。
お客さんが笑って楽しむショーにしました。
輪を投げるのをわざと一回失敗させて、そうするとアシカが台から降りてきて咥えて自分の首に通す、アシカが主人公になり拍手喝さいとなる。
水族館は動物の凄さを見せるものだと思っています。
3年後営業に移りましたが、従来のやり方ではお客さんは増えないだろうと感じました。
大学時代は映画を作ったりしていたので、スナメリ(ネズミイルカ科)の出産をビデオで撮りました。
へその緒がぷつんと切れるところまで映りました。
NHKのTVの知り合いに電話したら興奮して是非送って欲しいとのことで送ったら、世界で初めての映像と言うことで次の日からTVで全国放送になってどんどん放映されました。
次の週の土、日からお客さんが一杯来ました。
団体旅行に頼っていてはだめだと言うことも判りました。
個人を対象にするにはメディアを利用することだと思って、広報担当が必要だと思いました。
タツノオトシゴは魚だとは一般には判らない、卵ではなく同じ形の赤ちゃんがオスのお腹から出てくる、物凄く面白いと思った。
TVを呼びましょうと言ったが、周りはそれほど面白い話ではないと言っていました。
二人での広報を作ってラッコ、ジュゴンなど面白いことを撮って、お客さんが沢山来てくれました。
副館長になり、経営のやり方などの違いもあって辞めることにしました。
或る出資者からの水族館のリニューアルの話がありそのお手伝いをしました。
それがきっかけとなり水族館プロデューサーになりました。
最後までかかわったのが7館有ります。
条件が悪ければ悪いほど燃えてしまいます。
北海道の北見市の「北の大地の水族館」は弱点だらけでした。
大雪山のふもとで人が住んでいない、北見市の市街地から1時間かかってしまう。
お金も掛けられないということで2億5000万円とのことで、建て直しだけで3億円でも厳しく、淡水魚しか飼えないということだった。
北海道の魚か熱帯淡水魚(ペットショップで売っている魚)しかいない。
日本一の貧乏水族館だけれど世界初を持っているという事を使おうとずーっと言いつづけました。
水塊を見せようと、湖に潜って美しいと思われる光景を作ろうと考えました。
オショロコマ(イワナの仲間)を見せるために滝壺の水槽(滝壺を見上げる水槽)を考えました。
白い泡が凄い勢いで流れ、そこにオショロコマの群れが集まってくるそういうふうにしました。
安くするために外に穴を掘って窓を付けて水槽にしました、流れる川にしました。
冬は寒いので川が凍るので氷の下を見せる世界初の水槽です、というのを作りました。
いまでも大人気で真冬でもお客さんが来てくれます。
年間2万人のお客さんだったのが、年間30万人来るようになり、7年目になっているが10万人は来ています。
三重県にいたころに伊勢志摩の観光客を増やすように知事から言われて、バリアーフリーを考えました。(お客さんの層を増やす事、障害者、高齢者を受け入れる)
お客さんは感動するところに行きたい、そこが大事だと思う。
バリアーフリーの情報よりもバリアーの状況が知りたい(段差のレベルなど)との事。
観光地はコミュニティーのマーケット、一人でも行きたくないと言う人がいれば行けない。
コミュニティーのマーケットは体の不自由な人が基準になる。
完璧なバリアーフリーしなくてもいいと思っている。
最初は伊勢志摩の観光客を増やすということで始めたが、今は関係ないがボランティアで続けています。
ニッチ産業でニッチなことばっかりやっていて成功して、ニッチをメジャーにして行くトリックを使って上手くできたのかと思います。
次の世代の育成に頑張っていきたいと思います。
2018年6月25日月曜日
頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】ゴッホ
頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】ゴッホ
「春なのだ、しかし何と沢山な沢山な人々が悲しげに歩いていることか」 ゴッホ
「ひまわり」、「夜のカフェテラス」、「糸杉」 など沢山の作品がある。
ゴッホは日本びいき、浮世絵などに興味を持つ。
1853年オランダ生まれ(黒船到来の年)、南フランスで沢山の名画を描いた。
画家として活躍したのは10年間。
画家を目指したのは27歳と遅い。
37歳で亡くなっている。
生きている間は一点しか売れなかったという。
弟テオが画商をしていて仕送りをして貰って生活していた。
ゴッホは手紙を多く書いていて、弟に対してが特に多い。
ゴッホは確認されているだけで800通以上になる。
ゴッホが亡くなり、弟も亡くなり弟テオの妻ヨーが3巻の『ファン・ゴッホ書簡集』を出版し、書簡集が評判になり有名になる。
「春なのだ、しかし何と沢山な沢山な人々が悲しげに歩いていることか」
この手紙を書いた時期は悲しい状況だった。
若いころで初期の名作「ジャガイモを食べる人々」を書いた後ぐらい。
食費を切り詰めて体が衰弱して歯が欠けたりした時期だった。
自分がそのような状況であるならば、楽しそうに歩いている姿を本来妬ましいはずだが、他の人が悲しいであろうことに目を向けている。(共感)
25歳のころに伝道師になろうとして修行するが、熱心すぎて貧しい人にあげてしまい自分は裸同然で歩いたりして、持っているものをあげてしまい、やり過ぎると言うことで追い出されてしまう。
ゴッホの特徴はいつも熱心すぎて常にうまくいかない。
小林秀雄はゴッホは炎の人で「いつも沸騰している精神」と言っている。
「怠惰と性格の無気力、本性の下劣さなどからくるのらくら者がいる。
君が僕をその手の人間だと判断したければしたらいい。
他方、それとは違うのらくら者、不本意ののらくら者がいる。
こちらは心の中では活動への大きな欲求にさいなまれながらも何もしていない。
それは彼が何一つすることが不可能な状態にあるからだ。」(弟テオへの手紙)
不本意なのらくら者、自分は内に秘めたものは有るんだけれどでもできない、社会の中でそうなってしまうこともある。
ゴッホは中学校中退しているが、勉強ができなかった訳ではない。
英語、ドイツ語、フランス語などを使いこなしている。
手紙も文学性も高い。
親は大学まで行かせる予定だったが、自分で中退してしまっている。
性格的な問題でおそらく学校が合わなかったと思われる。
学歴がなく無職になって、金銭的に弟の世話になる。
「人は往々にしてなんとも得体のしれぬ恐ろしい籠、実に実に恐ろしい檻の中の囚人となって何もできない手詰まり状態に置かれてしまう。
われわれを閉じ込めるものが何か、壁の中に囲い込むものが何か、埋葬してしまうらしいものは何か、人は必ずしもそれを言うことができない、が、それでも何か得体のしれない柵を格子を壁を感じ取っている。
そこで人は自問する。
ああ、こんなことが長く続くのか、いつまでも永久にこうなのか。」
檻とか籠とかをかならずしも、それを言葉に表すことができないと言っている。
私(頭木)が「自分で何を悩んでいるかわからない」と言ったら、大笑いされて「自分で何を悩んでいるか判らないということはあり得ない」と一笑されて、悩みははっきりしているもんだと受け付けられなかった。
悩みは正体不明な悩みもあることは感じる。
悩みの言語化、数値化を求められるが、言語化、数値化をしないと解決策も出てこない、それが出来ないという事は良くないとされて、なんともいえないもやもやしたものは除外されて考えられる。
あの女=ゴッホが真剣に結婚しようと考えた女性。
ゴッホは彼女を娼婦と書いていて、子供がいてしかも妊娠中だった。
彼女に会ってゴッホは放っておけなくなった。
周囲から結婚を反対されて、彼女に問題があることは知っていたが、でもゴッホは「彼女の不幸は彼女の責任を越えて大きくなるのではないかと僕は心配している。」と言っているのが素晴らしいと思う。
不摂生で病気になったとしても、自業自得だと言う人もいるが、仮に100%不摂生で病気になったとしても、自業自得だったとしても、病気の苦しみは大き過ぎると思う。
ゴッホはそれを感じている。
周囲が強烈に引き裂こうとするので別れることになるが、ゴッホは彼女が出産して落ち着くまで見届けています。 安産にならなくて手術になって大変だったので、ゴッホがいなかったらどうなっていたのか判らない。
「僕の判断する限りでは世間には僕の様に何事も思うようにいかず、働き通した末何処に助け様も無い状態に追い込まれる人々が他にもいるのだ。」 (ゴーギャンへの手紙)
見えている人たちはなんとかやっている人達で、収入はあるし動けてるし、ものは持てるが、そういうことができない人達は出歩かないので目に見えない。
そういうのをゴッホは感じ取っている。
「絵で生計をたてられるようになったら、どんなに幸せかと思う。
あんなにたくさん油絵を描いて、一枚も売れないとなると実に情けない。」 (ゴッホ)
10年間に2000点を描いているが、弟が画商をやっているが売れない、苦しい。
どうしようもない所に追い込まれている人がいる、そういう所に目を向けようとしているところがいいなあと思います。
ついにゴッホは自殺してしまうが、最近は自殺ではなかったかもしれないという説が出てきている。
2011年に他殺説を発表した。
「ファン・ゴッホの生涯」という分厚い本。(ピューリッツァー賞受賞コンビによる奇跡的ゴッホ伝。)
この中で他殺説が紹介されている。
自殺に関しては不可解なことが色々あった。
ピストル自殺で自分で撃ったということだが、自分で撃った割には角度がおかしい。
絵を描きに出かけていたが、画材などが全部消えている。 謎の自殺だった。
他殺説がかなり有力な説として出てきている。
この本によると、当時ゴッホをいじめていた村の16歳の少年がいた。
そのうちの一人はピストルを持っていて、ゴッホをからかっているうちに銃が暴発して、ゴッホに当たってしまったのではないかというのが新しい説です。
ゴッホは家に戻って「治療してくれ」と言っているが、それも納得する。
でもゴッホは「自分で自分を傷つけた」とはっきり言っている。
だから自殺だと言われている。
ゴッホの人柄を考えると、少年には未来があるので少年をかばって、自分が撃ったことにしたということにすれば納得がいく訳です。
調べに来た警官に「だれも責めないでください、自分を殺したかったのは僕なんです」と言っている。
自殺と考えるとちょっと変で、誰かをかばったとしたら言葉として自然です。
もしそうだとすると自分をいじめた少年までかばって、人の為にかばいながら死んだゴッホらしいと思います。
「絵を描くのは悲しみに傷ついた心に慰めを与える芸術を作ることです。」(ゴーギャンへの手紙)
悲しみに傷ついた心に慰めを与える芸術、これこそゴッホが生涯を通じて目指していたことではないかと思う。
「芸術の中には何と多くの美しいものがあることか、人が見たものを記憶にとどめておくことができる限り、決してむなしいとか本当に孤独だとか言うことはない。
決して独りぼっちにはならない。」 (弟への手紙)
ヴェートーベンもゴッホも同じ様な境地にたどり着いているが、コースが逆で、芸術から入った人、人を助けたいという気持ちから入った人、両者が芸術は悲しみに傷ついた心を慰める事が出来るんだという境地に、別ルートからたどり着く、そこが面白い。
「春なのだ、しかし何と沢山な沢山な人々が悲しげに歩いていることか」 ゴッホ
「ひまわり」、「夜のカフェテラス」、「糸杉」 など沢山の作品がある。
ゴッホは日本びいき、浮世絵などに興味を持つ。
1853年オランダ生まれ(黒船到来の年)、南フランスで沢山の名画を描いた。
画家として活躍したのは10年間。
画家を目指したのは27歳と遅い。
37歳で亡くなっている。
生きている間は一点しか売れなかったという。
弟テオが画商をしていて仕送りをして貰って生活していた。
ゴッホは手紙を多く書いていて、弟に対してが特に多い。
ゴッホは確認されているだけで800通以上になる。
ゴッホが亡くなり、弟も亡くなり弟テオの妻ヨーが3巻の『ファン・ゴッホ書簡集』を出版し、書簡集が評判になり有名になる。
「春なのだ、しかし何と沢山な沢山な人々が悲しげに歩いていることか」
この手紙を書いた時期は悲しい状況だった。
若いころで初期の名作「ジャガイモを食べる人々」を書いた後ぐらい。
食費を切り詰めて体が衰弱して歯が欠けたりした時期だった。
自分がそのような状況であるならば、楽しそうに歩いている姿を本来妬ましいはずだが、他の人が悲しいであろうことに目を向けている。(共感)
25歳のころに伝道師になろうとして修行するが、熱心すぎて貧しい人にあげてしまい自分は裸同然で歩いたりして、持っているものをあげてしまい、やり過ぎると言うことで追い出されてしまう。
ゴッホの特徴はいつも熱心すぎて常にうまくいかない。
小林秀雄はゴッホは炎の人で「いつも沸騰している精神」と言っている。
「怠惰と性格の無気力、本性の下劣さなどからくるのらくら者がいる。
君が僕をその手の人間だと判断したければしたらいい。
他方、それとは違うのらくら者、不本意ののらくら者がいる。
こちらは心の中では活動への大きな欲求にさいなまれながらも何もしていない。
それは彼が何一つすることが不可能な状態にあるからだ。」(弟テオへの手紙)
不本意なのらくら者、自分は内に秘めたものは有るんだけれどでもできない、社会の中でそうなってしまうこともある。
ゴッホは中学校中退しているが、勉強ができなかった訳ではない。
英語、ドイツ語、フランス語などを使いこなしている。
手紙も文学性も高い。
親は大学まで行かせる予定だったが、自分で中退してしまっている。
性格的な問題でおそらく学校が合わなかったと思われる。
学歴がなく無職になって、金銭的に弟の世話になる。
「人は往々にしてなんとも得体のしれぬ恐ろしい籠、実に実に恐ろしい檻の中の囚人となって何もできない手詰まり状態に置かれてしまう。
われわれを閉じ込めるものが何か、壁の中に囲い込むものが何か、埋葬してしまうらしいものは何か、人は必ずしもそれを言うことができない、が、それでも何か得体のしれない柵を格子を壁を感じ取っている。
そこで人は自問する。
ああ、こんなことが長く続くのか、いつまでも永久にこうなのか。」
檻とか籠とかをかならずしも、それを言葉に表すことができないと言っている。
私(頭木)が「自分で何を悩んでいるかわからない」と言ったら、大笑いされて「自分で何を悩んでいるか判らないということはあり得ない」と一笑されて、悩みははっきりしているもんだと受け付けられなかった。
悩みは正体不明な悩みもあることは感じる。
悩みの言語化、数値化を求められるが、言語化、数値化をしないと解決策も出てこない、それが出来ないという事は良くないとされて、なんともいえないもやもやしたものは除外されて考えられる。
言葉にできないものって、それだけでも攻撃されてしまう事がある。
ゴッホは炎の人でいつも沸騰しているから、あっちにぶつかりこっちにぶつかり籠を感じると思います。
「籠の鳥も春が来ると、自分が役立つはずの何かがあると強く感ずる。
何かやるべきことがあると強く感ずるが、それをやることはできない。
何なのか、それはどうもよく思い出せない。
そして頭を籠にぶつける、でも籠はびくともせず鳥は苦悩で頭が変になる。」(弟への手紙)
*歌「ビンセント」 アメリカのシンガーソングライターのドン・マクリーンがゴッホに捧げる曲を書いている。 歌詞はゴッホに呼び掛ける様に歌っている。
「僕はとても憂鬱な気持ちでよくあの女と子供達のことを考える。
なんとか暮らしていけたらいいのだが。
それは彼女自身の責任だと人は言えよう。
確かにそうではあろう、ただ彼女の不幸は彼女の責任を越えて大きくなるのではないかと僕は心配している。」 (1883年 ゴッホ30歳の時に弟へあてた手紙)
ゴッホは炎の人でいつも沸騰しているから、あっちにぶつかりこっちにぶつかり籠を感じると思います。
「籠の鳥も春が来ると、自分が役立つはずの何かがあると強く感ずる。
何かやるべきことがあると強く感ずるが、それをやることはできない。
何なのか、それはどうもよく思い出せない。
そして頭を籠にぶつける、でも籠はびくともせず鳥は苦悩で頭が変になる。」(弟への手紙)
*歌「ビンセント」 アメリカのシンガーソングライターのドン・マクリーンがゴッホに捧げる曲を書いている。 歌詞はゴッホに呼び掛ける様に歌っている。
「僕はとても憂鬱な気持ちでよくあの女と子供達のことを考える。
なんとか暮らしていけたらいいのだが。
それは彼女自身の責任だと人は言えよう。
確かにそうではあろう、ただ彼女の不幸は彼女の責任を越えて大きくなるのではないかと僕は心配している。」 (1883年 ゴッホ30歳の時に弟へあてた手紙)
あの女=ゴッホが真剣に結婚しようと考えた女性。
ゴッホは彼女を娼婦と書いていて、子供がいてしかも妊娠中だった。
彼女に会ってゴッホは放っておけなくなった。
周囲から結婚を反対されて、彼女に問題があることは知っていたが、でもゴッホは「彼女の不幸は彼女の責任を越えて大きくなるのではないかと僕は心配している。」と言っているのが素晴らしいと思う。
不摂生で病気になったとしても、自業自得だと言う人もいるが、仮に100%不摂生で病気になったとしても、自業自得だったとしても、病気の苦しみは大き過ぎると思う。
ゴッホはそれを感じている。
周囲が強烈に引き裂こうとするので別れることになるが、ゴッホは彼女が出産して落ち着くまで見届けています。 安産にならなくて手術になって大変だったので、ゴッホがいなかったらどうなっていたのか判らない。
「僕の判断する限りでは世間には僕の様に何事も思うようにいかず、働き通した末何処に助け様も無い状態に追い込まれる人々が他にもいるのだ。」 (ゴーギャンへの手紙)
見えている人たちはなんとかやっている人達で、収入はあるし動けてるし、ものは持てるが、そういうことができない人達は出歩かないので目に見えない。
そういうのをゴッホは感じ取っている。
「絵で生計をたてられるようになったら、どんなに幸せかと思う。
あんなにたくさん油絵を描いて、一枚も売れないとなると実に情けない。」 (ゴッホ)
10年間に2000点を描いているが、弟が画商をやっているが売れない、苦しい。
どうしようもない所に追い込まれている人がいる、そういう所に目を向けようとしているところがいいなあと思います。
ついにゴッホは自殺してしまうが、最近は自殺ではなかったかもしれないという説が出てきている。
2011年に他殺説を発表した。
「ファン・ゴッホの生涯」という分厚い本。(ピューリッツァー賞受賞コンビによる奇跡的ゴッホ伝。)
この中で他殺説が紹介されている。
自殺に関しては不可解なことが色々あった。
ピストル自殺で自分で撃ったということだが、自分で撃った割には角度がおかしい。
絵を描きに出かけていたが、画材などが全部消えている。 謎の自殺だった。
他殺説がかなり有力な説として出てきている。
この本によると、当時ゴッホをいじめていた村の16歳の少年がいた。
そのうちの一人はピストルを持っていて、ゴッホをからかっているうちに銃が暴発して、ゴッホに当たってしまったのではないかというのが新しい説です。
ゴッホは家に戻って「治療してくれ」と言っているが、それも納得する。
でもゴッホは「自分で自分を傷つけた」とはっきり言っている。
だから自殺だと言われている。
ゴッホの人柄を考えると、少年には未来があるので少年をかばって、自分が撃ったことにしたということにすれば納得がいく訳です。
調べに来た警官に「だれも責めないでください、自分を殺したかったのは僕なんです」と言っている。
自殺と考えるとちょっと変で、誰かをかばったとしたら言葉として自然です。
もしそうだとすると自分をいじめた少年までかばって、人の為にかばいながら死んだゴッホらしいと思います。
「絵を描くのは悲しみに傷ついた心に慰めを与える芸術を作ることです。」(ゴーギャンへの手紙)
悲しみに傷ついた心に慰めを与える芸術、これこそゴッホが生涯を通じて目指していたことではないかと思う。
「芸術の中には何と多くの美しいものがあることか、人が見たものを記憶にとどめておくことができる限り、決してむなしいとか本当に孤独だとか言うことはない。
決して独りぼっちにはならない。」 (弟への手紙)
独りぼっちで、虚しくて、孤独な人がいて、でも芸術を見れば不幸が慰められるという事を言っている。 そのための芸術を作るという事が自分にとっては絵を描くことだと、それがゴッホが目指したことだと思うし、ゴッホの魅力はそういうところにあると思います。
ヴェートーベンもゴッホも同じ様な境地にたどり着いているが、コースが逆で、芸術から入った人、人を助けたいという気持ちから入った人、両者が芸術は悲しみに傷ついた心を慰める事が出来るんだという境地に、別ルートからたどり着く、そこが面白い。
2018年6月24日日曜日
紫舟(書家) ・【私の“がむしゃら”時代】
紫舟(書家) ・【私の“がむしゃら”時代】
NHK、2010年大河ドラマ「龍馬伝」の題字や美術番組「美の壺」の題字や番組内の文字を手掛けています。
2010年には書道界の芥川賞と言われるて 手島右卿賞を受賞、伝統的な所から三次元の立体的な書、アニメーションのように文字が動くデジタル作品等新しい作品を手掛け、世界各地の展覧会でも人気を博しています。
書道を始めたのは6歳の時、小学校を卒業する時には八段になっていたと言います。
大学卒業後は神戸のアパレルメーカーで広報の仕事をしますが、3年で退職、将来やりたいことは何なのかを考え続けた結果、書家の道を選びます。
半年後には個展を開くなど自ら活動の場を切り開いて行った紫舟さんですが、書を世界にと意気込んで参加したイタリアのヴェネツィア・ビエンナーレで挫折を味わったと言います。
書家の道を選ぶまでの悩み抜いた日々、世界の舞台で味わった挫折から何が生まれたのか、伺いました。
祖母が孫全員に日本舞踊と習字を学ばせたいという願いがあり、日本舞踊を3歳から始めて6歳から習字を始めるのがルールでした。
祖母も京都から家元を呼んで自分自身も学んでいました。
私の書の先生はスパルタで夕方から24時を回っても帰らせてくれないし、泣いてみても出来るまで通用しなくて帰らしてくれなかった。
好き嫌いというよりも自分ではしなければならないと思っていました。
才能もセンスもないと思っていました。
先生の熱心さ、費やした時間の長さなどにより周りよりも早く上達したか、位ですね。
上から下に真っ直ぐな線を描くと言うことは今でもできないです。
小学校を卒業する時には八段になっていました。
高校生まで続けていました。(大学に行くために一時辞める)
子供のころから絵を描くことが好きで絵描きになりたいと思っていました。
自分にどんなセンスがあるか、いろんな習いごとをしてみたがどれもダメだった。
やればできると言う自信があったのは結局書だけだった。
書は手放すことはできなかった。(我慢と忍耐を学ぶ)
大学時代に色々考えたが何を選択していいかわからなかった。
大学卒業後、住みたい街に住みたいと思って、神戸で好きな合気道をしようと思いました。
広報の仕事を担当することになり、海外でイベントをするとか、色々と華々しい仕事をしましたが、別に自分がクリエーティブな仕事をする訳ではなかった。
葛藤があり3年は続けようと思っていたが、リセットしないと始まらないと思って、全てを手離してみようと思いました。
会社を辞めるのが初めての自分自身での選択でした。
それまではレールに乗っているだけだと言う思いがありました。
職を探すのにどうしたらいいかわからない時に、合気道の先生から言われた「自分の内面をもっとちゃんと見なくてはいけない」という事を思いだして、3か月は何も決めず自分に聞いてみよう思いました。
自分に問いつづけました。
会社にいるころは会社をバックになんでもできるようにおもっていたが、今は何もできない自分に気づきました。
朝起きると顔が涙で濡れている、そんな日々の中で或る日お腹の奥底に残っていたのが書家でした。
書は好きではないし楽しくもないし才能も無いと思っていて、そこに蓋をしてしまっていたのかもしれません。
小学生のころは書にコンプレックスを持っていたが、年賀状のあて名書きにはオリジナルな字を書いていて褒められたりはしていました。
25歳の時に振り返った時にはそのようなことを思い出したりしました。
書家になると決めて心が軽くなるという経験をして、これを信じようと思ってコンビニで書道道具を買って、書いたものを大阪のギャラリーにいって伊部?さんに見ていただいて、書家になります、個展をさせて下さいと言いました。(半年後に個展をしました。)
お酒のラベルに書が使われたら素敵だなあと思いました。
映画の題字が書けたらいいなあと、書いた字がTVに映ったらどんなに凄いんだろうと、この3つが出来たらいいなあと思いました。
エネルギーを感じさせるような書体で書いたものを1000通以上出しました。
1ヶ月後に依頼をいただいて、最初がVシネマの映画の題字でした。
竹内 力さん主演の「無間地獄」です。
それぞれを生かす為の書を書くことを教えていただきました。
浜崎あゆみさんのミュージックDVD、映画にもなった「月に沈む」の題字も書かせてもらいました。
最初の3か月で願っていた3つのことができました。
最初の個展はさんざんでした。
良い作品だとは思っていましたが、未熟者が書いた未熟な作品だったんでしょうね。
一生やらないと思いましたが、恩人がいて「表現者というものは人に見てもらう事でしか成長しない。・・・」と言われて、発奮することにしました。
2005年ヴェネツィア・ビエンナーレに出品(審査員枠で出す)
通用していないと実感していて、まざまざと見せつけられて飛行機で泣きながら帰って来たというような感じでした。
世界に通用する表現者になりたいと思って、招待状が来るまでは世界には出ないでいようと思いました。
紙の中に閉じ込められている限り伝わらないのではないかと思って、紙から解放して立体的にしました。
立体造形にすること、文字の歴史をたどってみると紙は最近の技術、紙の誕生よりも前から文字は生まれていて、竹、骨などに書かれていたりしていた。
甲骨文字の彫られていた感じは今も残っている。
文字の歴史を遡ることで立体にすると言う事が誕生しました。
文字は元々立体だった。
「寂」という書、三次元、人の抱えている寂しさを表現するために影だけが異様な雰囲気で揺らめいているという作品です。(内容をよく理解できず)
2010年大河ドラマ「龍馬伝」の題字を書く。
コンペだったので私は本命でないことは重々承知していて、本を読んだりしました。「龍」は横の線が多くふとったどっしりしたものになりやすいので、福山さんのようなすらっとして龍馬のエネルギッシュな若々しいものにしたいと思って書きました。
海外からも招待されるようになり感謝しています。
フランスは日本の文化を憧れていて、フランスで展示出来て嬉しかったです。
日本語を彫刻にしたが、日本語が判らない筈なのに限りなく近い感想を言い当てて来たりします。
ミラノではこれまでの立体的な作品や最新作なども展示しました。
デジタルも使って文字や絵が動いてゆく作品がある。
NHK、2010年大河ドラマ「龍馬伝」の題字や美術番組「美の壺」の題字や番組内の文字を手掛けています。
2010年には書道界の芥川賞と言われるて 手島右卿賞を受賞、伝統的な所から三次元の立体的な書、アニメーションのように文字が動くデジタル作品等新しい作品を手掛け、世界各地の展覧会でも人気を博しています。
書道を始めたのは6歳の時、小学校を卒業する時には八段になっていたと言います。
大学卒業後は神戸のアパレルメーカーで広報の仕事をしますが、3年で退職、将来やりたいことは何なのかを考え続けた結果、書家の道を選びます。
半年後には個展を開くなど自ら活動の場を切り開いて行った紫舟さんですが、書を世界にと意気込んで参加したイタリアのヴェネツィア・ビエンナーレで挫折を味わったと言います。
書家の道を選ぶまでの悩み抜いた日々、世界の舞台で味わった挫折から何が生まれたのか、伺いました。
祖母が孫全員に日本舞踊と習字を学ばせたいという願いがあり、日本舞踊を3歳から始めて6歳から習字を始めるのがルールでした。
祖母も京都から家元を呼んで自分自身も学んでいました。
私の書の先生はスパルタで夕方から24時を回っても帰らせてくれないし、泣いてみても出来るまで通用しなくて帰らしてくれなかった。
好き嫌いというよりも自分ではしなければならないと思っていました。
才能もセンスもないと思っていました。
先生の熱心さ、費やした時間の長さなどにより周りよりも早く上達したか、位ですね。
上から下に真っ直ぐな線を描くと言うことは今でもできないです。
小学校を卒業する時には八段になっていました。
高校生まで続けていました。(大学に行くために一時辞める)
子供のころから絵を描くことが好きで絵描きになりたいと思っていました。
自分にどんなセンスがあるか、いろんな習いごとをしてみたがどれもダメだった。
やればできると言う自信があったのは結局書だけだった。
書は手放すことはできなかった。(我慢と忍耐を学ぶ)
大学時代に色々考えたが何を選択していいかわからなかった。
大学卒業後、住みたい街に住みたいと思って、神戸で好きな合気道をしようと思いました。
広報の仕事を担当することになり、海外でイベントをするとか、色々と華々しい仕事をしましたが、別に自分がクリエーティブな仕事をする訳ではなかった。
葛藤があり3年は続けようと思っていたが、リセットしないと始まらないと思って、全てを手離してみようと思いました。
会社を辞めるのが初めての自分自身での選択でした。
それまではレールに乗っているだけだと言う思いがありました。
職を探すのにどうしたらいいかわからない時に、合気道の先生から言われた「自分の内面をもっとちゃんと見なくてはいけない」という事を思いだして、3か月は何も決めず自分に聞いてみよう思いました。
自分に問いつづけました。
会社にいるころは会社をバックになんでもできるようにおもっていたが、今は何もできない自分に気づきました。
朝起きると顔が涙で濡れている、そんな日々の中で或る日お腹の奥底に残っていたのが書家でした。
書は好きではないし楽しくもないし才能も無いと思っていて、そこに蓋をしてしまっていたのかもしれません。
小学生のころは書にコンプレックスを持っていたが、年賀状のあて名書きにはオリジナルな字を書いていて褒められたりはしていました。
25歳の時に振り返った時にはそのようなことを思い出したりしました。
書家になると決めて心が軽くなるという経験をして、これを信じようと思ってコンビニで書道道具を買って、書いたものを大阪のギャラリーにいって伊部?さんに見ていただいて、書家になります、個展をさせて下さいと言いました。(半年後に個展をしました。)
お酒のラベルに書が使われたら素敵だなあと思いました。
映画の題字が書けたらいいなあと、書いた字がTVに映ったらどんなに凄いんだろうと、この3つが出来たらいいなあと思いました。
エネルギーを感じさせるような書体で書いたものを1000通以上出しました。
1ヶ月後に依頼をいただいて、最初がVシネマの映画の題字でした。
竹内 力さん主演の「無間地獄」です。
それぞれを生かす為の書を書くことを教えていただきました。
浜崎あゆみさんのミュージックDVD、映画にもなった「月に沈む」の題字も書かせてもらいました。
最初の3か月で願っていた3つのことができました。
最初の個展はさんざんでした。
良い作品だとは思っていましたが、未熟者が書いた未熟な作品だったんでしょうね。
一生やらないと思いましたが、恩人がいて「表現者というものは人に見てもらう事でしか成長しない。・・・」と言われて、発奮することにしました。
2005年ヴェネツィア・ビエンナーレに出品(審査員枠で出す)
通用していないと実感していて、まざまざと見せつけられて飛行機で泣きながら帰って来たというような感じでした。
世界に通用する表現者になりたいと思って、招待状が来るまでは世界には出ないでいようと思いました。
紙の中に閉じ込められている限り伝わらないのではないかと思って、紙から解放して立体的にしました。
立体造形にすること、文字の歴史をたどってみると紙は最近の技術、紙の誕生よりも前から文字は生まれていて、竹、骨などに書かれていたりしていた。
甲骨文字の彫られていた感じは今も残っている。
文字の歴史を遡ることで立体にすると言う事が誕生しました。
文字は元々立体だった。
「寂」という書、三次元、人の抱えている寂しさを表現するために影だけが異様な雰囲気で揺らめいているという作品です。(内容をよく理解できず)
2010年大河ドラマ「龍馬伝」の題字を書く。
コンペだったので私は本命でないことは重々承知していて、本を読んだりしました。「龍」は横の線が多くふとったどっしりしたものになりやすいので、福山さんのようなすらっとして龍馬のエネルギッシュな若々しいものにしたいと思って書きました。
海外からも招待されるようになり感謝しています。
フランスは日本の文化を憧れていて、フランスで展示出来て嬉しかったです。
日本語を彫刻にしたが、日本語が判らない筈なのに限りなく近い感想を言い当てて来たりします。
ミラノではこれまでの立体的な作品や最新作なども展示しました。
デジタルも使って文字や絵が動いてゆく作品がある。
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