2024年3月14日木曜日

原岡見伍(俳優)            ・子役から半世紀の空白を経て高年俳優へ

原岡見伍(俳優)            ・子役から半世紀の空白を経て高年俳優へ 

原岡見伍さんは1951年兵庫県西宮市の生まれ。  NHKのアナウンサだった父親の転勤で過ごした大阪で、1957年から60年までの3年半NHK大阪放送児童劇団に所属し、テレビやラジオの子役として活躍しました。 その後東京の高校、大学時代は野球に熱中し、大学卒後は就職した証券会社や民放テレビ局などでも演劇とは無縁の生活をしました。 2002年から2011年チーズ輸入自社加工メーカーの常務や子会社の社長を務めましたが、東日本大震災により全事業を手放し退任、破産に追い込まれました。 体調を崩し、長期療養を1年半が終了した時点で、俳優の仕事が心から好きだったと改めて判り、芸能会社のオーディションを受けて合格、養成学校で学びました。 2015年4月から子役時代より半世紀余りの空白を経て、後年俳優の道を歩んでいます。

今年公開される映画に端役で出ているのと、ユーチューブに一本出ています。 NHKBSに初めて出させていただきました。 「プラトニック」と言う題名のフレンチレストランのマネージャーとして出ました。 「チコちゃんに叱られる」にも出ました。 昨年健康サプリのCMにも出ました。 

父が原岡一郎で元NHKのアナウンサーでした。 1934年に入局しました。 父が大阪に転勤になった時にNHK大阪放送児童劇団に入りました。 1957年に子役デビューしました。 「子犬と線路と少年」の主役の少年として出ました。 「赤いほっぺのほっぺちゃん」というラジオ番組にも出ました。  稽古でリアルさを習ったりしました。 父が広島に転勤になり3年半ぐらいで辞めることになりました。 広島では放送劇団はなかったので何もしませんでした。  その後東京に来て少年野球チームに入りました。 都立戸山高校、一橋大学に行きました。   高校ではピッチャーを主にやりましたが、上級生と意見が合わず2年で辞めてしまいました。 大学でも野球部に入りました。  東都大学の3部でしたが、レベルは高かったです。  3年生でレギュラーになりました。 

高校2年の時に哲学、思想に興味がでてきました。 大学ではフランス語が第二外交語で、シャンソンが好きになり、演歌とは違った乾いた悲しさがあると感じました。 大学卒業後は野村証券に入りました。 11年務めてその後フジテレビでも12年務めました。   その後ソニーのコンピューターエンターテイメント、そのほかの関連会社に行きました。  父が病に倒れてしゃべれなくなってしまって、父の世界を継ごうかなと言うような思いが出てきて、新聞にフジテレビの採用の広告が出ていました。  それを見て行ったら受かってしまいました。 

ソニーミュージックとコンピューターエンターテイメントのトップを兼ねていた人から声がかかって移ることにしました。  その方が辞める時には私も辞めるというような契約でしたが、思ったより早く辞められて、私も独立してプロデューサーの会社を立ち上げました。イタリアの食品関係の会社から役員としてフルタイムで来てほしいという事で、会社をたたんで行きました。 順調に行っていましたが、2011年の東日本大震災で原料を保管してもらっている倉庫が全部だめになってしまいました。  資金繰りと工場再開に向けて半年間奔走していましたが、或る時にドクターストップがかかってしまいました。 1年半療養をして、その時に全部を捨てました。 辞めて2か月後に会社を倒産という事になりました。 

体調も良くなって、今後どうするか考えた時に、演劇とか思想とか表現の方の世界が好きなんだろうと改めて思いました。(62歳)  役者がやれるかなあと思いました。 今入っている所属事務所のPRがガラ系で見かけました。 縁だろうと思って申し込んで、授業料を払って2年間研修をしました。 2015年にプロダクションとしての契約をして、芸名も「原岡見伍」にしました。  最初はエキストラから始まりました。 かつてやっていた仕事が役でもいろいろ生きています。 73歳になりましたが、自分では年を取ったとは思わないんです。 50代中、後半ぐらいからの役を含めてやれたらいいなあと思いますし、夢ですが端役でもいいからカンヌのレッドカーペットに行きたいです。 昔のフランス人の恋人に見て欲しいと思います。  シャンソンでも何かできたらいいなあと思います。

人生49:51で51を選ぶときには、以前は僕は大変そうな方を選んできましたが、大変でも苦労しても大丈夫なほど好きなもののほうを選んでいった方がいいと思っています。 そうするともっと努力も出来るし、我慢、耐えることも出来るだろうと思います。











2024年3月13日水曜日

坪川拓史(映画監督 俳優)        ・室蘭から世界へ

坪川拓史(映画監督 俳優)        ・室蘭から世界へ 

坪川さんは1972年北海道長万部町出身、高校卒業後上京して1991年に劇団オンシアター自由劇場に研究生として入団、同時期に独自で映画製作も始めます。 1996年故郷長万部町にあった映画館の解体をきっかけにして、初長編映画作品美式天然」の製作を開始して10年がかりで完成させ、「第23回トリノ国際映画祭 (グランプリ)、(最優秀観客賞)」を受賞しました。 その後2007年にアリア」、2013年にハーメルン」、20221年にモルエラニの霧の中」を公開し、ほぼすべての監督作で脚本、編集、音楽の作曲とピアノ演奏を担当、2011年に故郷室蘭市に戻って室蘭市から映画製作を続けています。 自主映画のために上映する映画館の交渉まで全て自ら行っているという事です。 来月は短編映画2作品と長編映画4作品の全作品が東京と京都で公開されるという事です。

美式天然」は2005年に製作して19年目にしてようやく公開されることになりました。高木均さんが完成の前に2004年に亡くなられて、追悼試写会流行っていましたが。   イタリアのトリノ国際映画祭でグランプリと最優秀観客賞を頂きました。                 2作目がアリア」で完成が2007年でしたが、17年目でちゃんとした劇場公開となりました。 試写会とかもあんまりやっていないです。 脚本もいつも自分で書くので、この人にやって欲しいと書いてしまって、俳優さんに貴方を想定して書きましたという事で、交渉して9割7分ぐらいの確率になっています。 キャスティングもロケ場所も全部自分でやっています。3作目がハーメルン」、最近の作はモルエラニの霧の中」です。 2020年に完成しましたが、コロナで延期になって2021年に岩波ホールで公開されました。

子供のころは映画館のない街でした。 函館、室蘭が近い都会で、18歳までに見た映画は3本だけでした。 「キタキツネ物語」「南極物語」「ネバ―エンディング・ストーリー」だけでした。東京に行った途端に一杯観ました。 小学校5年生の時に男子を集めて、お話を書いて、演出みたいなことをして、美術、衣装を作って発表したりしました。

東京に来て専門学校に入って寮生活を始めました。 同宿の人が朝までゲームをやっていたりして僕が飛び出しました。(2か月で中退)  大田区洗足池公園でホームレス生活を送る。 11月ごろに親にもばれたりして正式に退学届を出しに行ったら、芝居のタダ券を上げると言われて、行ってみたのがオンシアター自由劇場」の「ティンゲルタンゲル」の芝居でした。 これをやりたいと思ってしまいました。 基礎も何にもないので、2年ぐらい悶々としました。 20歳の時に入団のオーディションがあり、受けに行きました。 そうそうたるメンバーの方たちが怖そうな顔をしていましたが、小日向文世が中央にいてニコニコしていました。 小日向さんに何か楽器は出来るのか聞かれて、とっさにアコーディオンが出来ますと嘘をついてしまいました。 合格しまして慌ててアコーディオンを買いに行きました。 今はアコーディオンが食い扶持になっています。 

近所に映画学校があり、「映画に出てくれませんか。」と言われて、出ることになりました。(8mmフィルムで撮影する学校)  製作中にいろいろ注文を付けていたら、「だったらお前が撮れよ。」と言われて、撮ることになりました。 そう言った彼とはカメラマンとして長い付き合いをしています。  20代は俳優としても10作品ぐらいは出させてもらいました。 30歳過ぎてからは映画を撮るだけになってしまいました。  撮っていると出たくなり、出ていると撮りたくなります。 本当は絵本作家になりたかったが、絵が下手だったので駄目でした。 

本が出来上がった時には頭に浮かんでいてロケ場所などは決まってしまっています。 ハーメルン」は福島県の会津の昭和村がロケ現場でした。 2009年から始めていたので、東日本大震災は2011年で丁度真ん中でした。 廃校に関する検索をして気にいったものを壁に貼って書いたんですが、いざその廃校を60か所捜してもなくて、2009年の1月に知り合いが似た廃校があるという事で、理想通りではなかったらハーメルン」を撮るのは辞めようと思って行ったら、まさしくそれでした。 

モルエラニの霧の中」では香川京子さんに出ていただいたことが信じられませんでした。 撮影開始が2015年でしたので、当時香川さんは80歳を過ぎていました。 小松政夫さんも出演しましたが、亡くなったのが2020年の12月でした。 小松さんには5作品出てもらっています。  最初に小松さんは舞台があるので出られないという事でしたが、僕が「何年でも待ちます。」と言ったら真剣な顔になって「出る。」と言ってもらえました。美式天然」は撮影で8年かかりました。 以後作品に出ていただきました。

吉田日出子さんからは大きな影響を受けました。  美式天然」では吉田日出子さんの撮影だけで5年ぐらいかかっています。 名女優です。 山田吾一さんは父親の先輩で美式天然」に是非出てもらいたくて、お会いした時には送った本には赤線が一杯入っていてよれよれになっていました。 大杉漣さんが皆さんに行ってくださった言葉が有って、「映画と言うのはみんなで同じ船に乗って旅をするのと一緒です。 モルエラニの霧の中」も途中いろんなことがあるかもしれないが、いつかきっと 素敵な港に着くと思うので、その乗組員の一員いなれて嬉しいです。」と言ってくださいました。 

こういう絵が欲しいと思ったら待っちゃう。「美式天然」に満開の一本桜のシーンがありますが、ちゃんと咲くのに3年待ちました。 CGは使ったことがないです。 資金がない分を時間を贅沢に使っています。 大丈夫と言っていたらいつかは大丈夫になると信じてやっています。  モルエラニの霧の中」の続編を撮りたいと思っています。









 

2024年3月12日火曜日

三浦律子(主婦)             ・NHK障害福祉賞受賞者に聞く 「生きた時間を生きる」

三浦律子(主婦)         ・NHK障害福祉賞受賞者に聞く 「生きた時間を生きる」

NHK障害福祉賞は障害のある人やその家族が綴った優れた体験記に送られるもので、三浦さんは優秀賞3点のうちの一つに選ばれました。 三浦さんの障害は内部障害で腎臓が一つしかありません。 幼いころ医師に10歳まで生きられないと宣告されました。 さらに言語障害もあり小学校卒業までは自分の名前も正確に発音できなかったと言います。 三浦さんは現在43歳、余命宣告をされた10歳を大きく越え、2人の子どもの母になりました。

 長崎県佐世保市出身。 郡上は夫の故郷でして、郡上の豊かな自然、草花や蝶を追いかけて暮らしています。 27歳の時にこちらに来ました。  

「生きた時間を生きる」

「私は43歳、身長166cm、体重58kg物理的に外見でかけているものはなく、白髪のない長髪で一見とても健康な健常者です。 私の障害は内部障害、腎臓が一つしかない点です。 小学校卒業までは自分の名前も正確に発音できない言語障害を抱えていました。」

ほとんど普通の人として暮らしています。 私は4歳の時に体内に腫瘍が見つかりました。その腫瘍が腎臓に癒着してしまいました。  手術をして腫瘍と一緒に腎臓も摘出しました。 摘出した腫瘍の中に髪の毛とか小さな歯のようなものが入っていて、人間を形成できるであろうというものが沢山入っていた、おそらくバニシングツイン(双子のうちの片方が妊娠初期の段階で、お腹のなかで亡くなり、子宮から消えたように見える現象)という見解でした。 母親の胎内で消えてしまうらしいが、たまたま私は内包して何かの拍子に急に成長しだしたのではないかという事でした。 10歳までは生きられないだろうと言われました。 身体がパンパンにむくんだりして大変でした。 

ちゃんと喋れずに小学校に入ると言葉の学校に通うようになりました。  母は罵声を浴びたりただ泣くばかりでした。 母は夜台所で泣いていたりしていました。 私自身は仲間外れにされたりからかわれたりいろいろありましたが、幼稚園、小学校と仲良くしてくれた子が一人居てくれたおかげで、人を憎まず、恐れず済んだんだと思います。 理恵?ちゃんと言いますが、今も仲良くしています。 

「定期的な検診、尿検査、傷跡の癒着や腸閉塞など痛い思いを多々しながら、私は死ぬはずだった10歳を越え、少しづつ体力がつきました。 身長も平均より伸び、小学校を卒業するころには言語障害もほぼ克服、正しく発音できる言葉が増えて行きました。 スモールゴールを越えながら、私は少しづつ少しづつ普通に話せる様になって行きました。」 

読書感想文発表大会があり、大会に出るごとに言葉をしゃべらざるを得ない状況に追い込んでゆくわけです。  そのたびに私の言葉は増えて行きました。 10歳を越えても母は安心していないし、今でも安心していない、心配しています。 

部活もできなかったし、外で遊び廻るという経験はなく、家に帰って来て寝るというような生活でした。 たまたまテレビを見ていたらスキーを滑っている場面があり凄いなあと思って居たら片足のスキーヤーでした。(長野パラリンピックだった。)  腎臓も一個ないから駄目なんだと思っていたが、一個あるんだと思いました。 好奇心を押さえたままだったがそれを辞めようと思いました。 岐路の節目節目で障害のある方に3回出会っています。その出会いのお陰で一歩、二歩前に進みました。  まずは両親の反対を押し切って京都の大学に進学しました。 親からは自分でやりなさいと言われて、奨学金とアルバイトでやりました。 大学を無事卒業しました。 二輪免許も取りました。(父にバイクに乗せてもらった経験とどこへでも行けると思いました。)  

名古屋で就職をして、結婚、出産、二人の娘の母親となりました。 子供を理由に諦めるという事はしたくなくて、バイクを再開しました。 楽しくてうずうずしている姿を子供には見せたいです。 バイク仲間とあちこち行っています。 

「或る日バイクで出かけた先、道の駅で左ハンドルについいている筈のクラッチレバーが右ハンドルについている二輪車両の隣にバイクを止めました。 良く観る中年男性のバイク乗りで、バイク屋さんをしているからと名刺を貰い、帰途に就きました。 帰宅後名刺を見ると片腕ライダー肩書がありました。」

福井勝一さんです。  最初気が付きませんでしたが、吃驚しました。 片腕でバイクの整備をいろいろしている姿を見た時に、障害の有無は関係ない、個人差だなと思いました。目標に向かって何かに取り組むと言う事を忘れていました。 一般人に混ざって演説大会で日本一になりたかった。 中学生で弁論大会、その後30大会近く参加して、30年目で演説の全国大会で優勝することが出来ました。 

私はアコースティックギターで弾き語りをするのが趣味の一つです。 地元のライブにも出させてもらえるようになりました。 素敵な人が居て調べたら長谷川きよしさんでした。 今年活動55年目を迎えるそうです。 全盲の方です。 ライブに行ったら吃驚、感動しました。 同じテーブル席の方々から凄く親切にして頂いて、感謝でした。 長谷川きよしさんとファンの方に力を貰って今回障害福祉賞の原稿を書こうと思いました。 ギターを弾くことにも熱が入って行きました。 ファンレターを出そうと思ったが、私自身の文字を読んでもらえる事はないと思って、点字を覚えて送ったら直に触れてもらえると思って、昨年の夏から点字を習い始めました。 全盲の方の弁論大会を見ることがあり、いろいろ便利な使い方が有ることも判りました。  

どんな境遇にあっても、父親母親が楽しく笑って家庭での時間を過ごせたら、障害のある無いにかかわらず子供はみんな穏やかで幸せになれるんじゃないかと考えています。

「私は太く長く生きるつもりです。 太く短く何て悲観的にはなりません。 私の好奇心は4歳の時と変わらず旺盛です。 お母さんは強いんだから。 我が人生の本舞台は将来にあり。 これからも楽しく生きて、生きた時間を私は過ごしていきます。 有名なアフリカのことわざに「高齢者が一人亡くなることは、図書館が一つなくなることに等しい。」と言う言葉が有ります。 私が亡くなった時に「お母さんは図書館と言うぐらいなんでも知っていたよね。」と娘たちに言ってもらえるように、沢山の知識、経験を積んで、日々有意義な時間を生きる、それを「生きた時間」と私は呼んでいます。  好奇心の鈴を鳴らし続けて行きたいと思います。

































2024年3月11日月曜日

きじまりゅうた(料理研究家)       ・〔師匠を語る〕 料理研究家の家庭で育って

きじまりゅうた(料理研究家)       ・〔師匠を語る〕 料理研究家の家庭で育って

台所の残り物でちょっとした食事を作る料理バラエティー番組「きじまりゅうたの小腹すいてませんか」などでの親しみやすいキャラクターでも人気のきじまりゅうたさん、その活躍の陰には祖母の村上昭子さん母の杵島直美さんと言う二人の名だたる料理研究家の存在があるようです。 

祖母の村上昭子さんが亡くなったのは2004年。 生まれた時から祖母と同居していました。 初孫で子供心に祖母が溺愛していたのを実感していました。 祖母のそばでずっと台所にいました。 ステーキナイフを渡されて人参の皮とか、キュウリのヘタなどを渡されてい切っていなさいと言われて遊んでいました。  台所は撮影できるスタジオ場所でもありました。 小学校上がる前には一人で卵焼きができました。 祖母から天才だという風に褒めれてやっていました。 小学校の卒業アルバムにはコックさんと書きました。 高校生で自分の将来を考えた時に、料理メディアの業界に生きたいと思い、祖母に料理研究家になりたいと言いました。 祖母は「男がやる仕事ではない。」と言いました。  収入の安定するサラリーマンになりなさいと言われて、選択肢から外してしまいました。 

大学2年の時に友人に誘われてアパレルショップを手伝うようになりました。 そしてアパレルショップの社員になりました。 24歳までそこの会社にいました。 この先どうしようと悩んでいる時に祖母が亡くなりました。 周りからも言われたりして料理の道への気持ちが動きました。 1年間は会社に残って欲しいという要望があり、その間で夜の調理師学校に行くことにしました。 母にアシスタントになりたいと言ったら了解してもらいました。 母のことは杵島さんと呼んでいて、未だに杵島さんと呼んでいます。 アシスタント時代は時給でした。 

母の動き、カメラマンさんの動き、などを見てタイミングを見計らうとか、いろいろな段取りを学びました。  レシピの書き方は見て覚えました。  アシスタントになって5年後ぐらいに独立しました。(27,8歳)  そのころ「弁当男子」が流行り始めました。(2008年)  出版社と話し合いがあり「弁当男子」と言う本を出すことになりました。  「料理研究家の仕事は料理の作り方を伝えるプロであるべき。」という事は言われてきました。  うちは家庭料理研究家なので店に憧れても駄目で、家で作るものを家で作り易く、そこを考えろとはうちの家訓のような感じです。 母が業務用のガスコンロのカタログを取り寄せた時には、祖母は激怒しました。 理由は「火加減が強くなってしまったら家庭料理ではなくなるでしょう。」という事でした。 42,3年前に家を新築するときに、料理家の動線、カメラマンのスタイリストの動線、編集者の動線などを建築士がチェックしてくれて、完璧な動線を組んで撮影しやすい家を作りました。 祖母は良く可愛がってくれました。 今となっては尊敬する偉人みたいな感じです。     母は現役でやっているので、先輩であり師匠であります。 ライバルの様な部分もあると思います。  

祖母、母への手紙

「・・・俺が料理家になったことをバアバに伝えたらどんなリアクションをするんだろうか。 ・・・なくなって20年以上経った今でもちょいちょい夢には出てくるが、料理の話題には全然ならないんだよね。・・・料理家一族の家訓めいた大事な教えを聞いて来たけど、子供のころから働くバアバと直美さんを間近に見てきて、言葉にできない感覚を受け継げたことが俺にとっては財産です。・・・これからも料理研究家として芯の部分を大切にしながら、料理を軸に自由気ままにいろんなことをしたいと思っています。 直美さんも年を重なるごとに自由になって仕事もプレイベートも元気に飛び回っています。他の一層に70代を迎えていることが息子として弟子として、人生の後輩として凄く頼もしく感じています。 俺はまだ40代に入ったばかり、これからの人生も楽しみだは、と思えるのは二人のお陰だね。  これからも引き続き、宜しく。」

引き継がれてきたハートは、結局誰かに喜んでもらいたいのかなあと思います。







奥田佳道(音楽評論家)         ・〔クラシックの遺伝子〕

奥田佳道(音楽評論家)         ・〔クラシックの遺伝子〕 

幻想交響曲の第二楽章「舞踏会」、2010年12月カーネギーホールでの演奏、小澤征爾指揮、斎藤記念オーケストラ演奏。 2024年2月6日に88歳で亡くなった小澤征爾さんに思いを寄せてお送りしたいと思います。 斎藤秀雄さんが1974年に亡くなって1984年に小澤征爾さんと秋山和義さんを中心にして斎藤秀雄メモリヤルオーケストラを作って、東京文化会館と大阪のシンフォニーホールでコンサートをやって、それがきっかけとなって斎藤記念オーケストラが出来て、松本での音楽祭、内外でのステージがありました。  晩年は小澤さんは病との闘いでしたが、最後まで若い人に音楽をと、世界に飛び出しなさいというメッセージを最後まで送り続けた方でした。

小澤征爾音楽塾があってオペラを若い人に教える機関があります。 ヘルベルト・フォン・カラヤンレバード・バーンスタインに可愛がられた。 生涯音楽家として二人と付き合い続けた。 小澤さんの集中力、人間力が素晴らしかったです。 小澤さんは30歳の時にウイーンの音楽界、ザルツブルク音楽祭に名乗りをあげました。(1966年)   60年、70年代は小澤さんとウイーンでは蜜月関係にはならなかった。(お互いが探り合う時代) 1980年代の半ばにストラビンスキーの春の祭典をウイーンフィルの指揮をして、大絶賛となる。 ヴェートーベン、ブラームスを聞いてみようじゃないかという空気が生まれた。 2002年のニューイヤーコンサートに出る。 一番評判になったのが、ヨーゼフ・ヘルメスベルガー作曲「悪魔の踊り」。 ヘルメスベルガーは19世紀から20世紀の世紀転換期に活躍した作曲家、ウイーンフィルのコンサートマスター、ウイーンの指揮者でした。 ヨーゼフ・ヘルメスベルガー作曲「悪魔の踊り」を一気に世界の音楽ファンが知ることになる。 

*「悪魔の踊り」 作曲:ヨーゼフ・ヘルメスベルガー 指揮:小澤征爾  ウイーンフィル管弦楽団  2002年ニューイヤーコンサートのライブ録音。

ウイーンフィルに新しい風を吹かせたことが、ウイーンでの小澤さんの活動のキーワードになっている。 1990年代から小澤さんとウイーンフィルは蜜月になりました。 

*交響曲第8番 「第3楽章」 作曲:ドヴォルザーク  指揮:小澤征爾 ウイーンフィル管弦楽団  1992年定期公演での録音

*交響曲第9番 新世界より 「第4楽章」 作曲:ドヴォルザーク  指揮:小澤征爾 ウイーンフィル管弦楽団  1991年定期公演での録音  小澤さんとウイーンフィルの大きな転換点になった演奏。  小澤さんはボストン交響楽団の監督を29年間を続ける。

*ディヴェルティメント ニ長調から第1楽章 作曲:モーツアルト 指揮:小澤征爾 水戸室内管弦楽団  2017年演奏。












2024年3月9日土曜日

2024年3月8日金曜日

生島 淳(スポーツジャーナリスト)    ・故郷のためにできること

 生島 淳(スポーツジャーナリスト)    ・故郷のためにできること  

生島さんは宮城県気仙沼市出身、56歳。 早稲田大学社会科学部社会科学科卒業後、広告代理店を経てフリーのスポーツジャーナリストとして活躍中です。 フリー―アナウンサーの生島ヒロシさんの弟でもあります。 アメリカ大リーグをはじめNBAやNFLなどのメジャースポーツから日本のプロ野球やラグビー、ロードレースなどを中心に幅広く取材し、様々なメディアで作品や文章を発表しています。 今月11日に東日本大震災から13年になりますが、生島さんは当時気仙沼市に住んでいた実の姉を震災で亡くしました。 その出来事をきっかけに高校時代を過ごした故郷、気仙沼を改めて見つめ直し故郷のためになにが自分にできるのかを考え続けています。 震災から13年になるのを前に故郷のためにできることと題して生島さんに伺います。

ドジャースは日本の方にも親しみのある球団だと思います。 野茂はじめ日本人を一番多く取得した球団ですね。 僕は広い視点で見て行きたいと思いますが、大谷がどの程度打てるのかは楽しみです。 50本は期待したいです。 エンジェルス時代は敬遠も多かった。 しっかり勝負する機会も増えると思います。 40本40盗塁は期待したい。 山本投手はフロントスタートか2番手でいきそうです。  1シーズンコンディショニングに気を付けて頑張って欲しいです。  バッターでは吉田正尚選手もいい成績を残したので、期待したいです。 ヤンキース、レッドソックスもここの所苦戦していて、ヤンキースも2009年以来ワールドシリーズに行っていない。 1990年代の後半からの黄金時代はジーターを筆頭に品格と素晴らしいチームが出来上がって行った。

*「花は咲く」 作詞:岩井俊二 作曲:菅野よう子 東日本大震災復興支援ソング

姉は57歳で亡くなりました。 『気仙沼に消えた姉を追って』と言う本を2011年11月にだしました。  気仙沼はいい街だったという事を書き残しておきたかった。 5月23日に見た光景はまだ覚えています、モノクロームになっていました。 なぜ逃げなかったのか、僕には釈然としないものがありました。 判断の積み重ねで、姉は姉でそういう人生を生きてきたんだなと思いました。 逃げないという判断をしたのは僕としては残念でした。 母が2月に亡くなっていて、納骨の日で上京する日でもあって、午前中の大船渡線の列車を取っていれば助かったかも知れない。 残念だが何でそうなってしまったのかを知りたかった。  

姉から電話があって長男が受けました。 僕の携帯に電話をかけてくれていたら、「「逃げろ」とか言ったかもしれない。 ちょっとしたことで人生大きく変わって行ってしまう事がある。 3月18日にすべての携帯電話が復活しました。  その時点で繋がらないのはもう無理なんだろうなと思いました。 うつうつとした日々を過ごしました。 2か月経って気仙沼に行き取材をしました。  家からこんなに海に近かったんだと驚きを覚えました。 道路も新しくなって運転していても、故郷だという感覚も薄まって来てしまいました。  本、雑誌なども沢山かいましたが、そういったものもみんな流されてしまったんだなあと思いました。   安心する場所が気仙沼にはなくなっちゃったというのは正直思います。    

母親の骨壺は姉の家にありました。 家にいても大丈夫だろうと判断したものと思います。 避難先として公民館が200m先にあって、そこに逃げて助かった人たちもいました。  書くことで自分を納得させたかった。  母の介護を姉に任せてしまっていたことは申し訳なかったと思います。  姉が欠けたという事で帰る家がなくなり、故郷が希薄になって、13年経ち、町の区画も変わって行くと、故郷への思いも難しいものだと思います。 僕を形作ってくれたのが気仙沼にあると思います。