2021年3月14日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)         ・【クラシックの遺伝子】

奥田佳道(音楽評論家)         ・【クラシックの遺伝子】 

*「ブエノスアイレスの春」  作曲:アストル・ピアソラ アルゼンチン生まれ

今年生誕100年 春の息吹、力強さを感じる。  ブエノスアイレスの四季 の中で最初に夏、秋、冬、春と作られている。 

ピアソラはアルゼンチンタンゴの作曲家ではあるが、伝統的なアルゼンチンタンゴのファンからはピアソラはタンゴを破壊してしまったといわれた。(前衛的、踊れない)

ピアソラの音楽が今の若い音楽家にどんな遺伝子をもたらしたのか、ピアソラはクラシックの人なのかタンゴの人なのか。

1921年生まれ バンドネオン奏者として活躍。  ピアソラはクラシックの作曲家を目指して渡仏し、パリナディア・ブーランジェに師事する。  タンゴを元にクラシックジャズの要素を融合させた独自の演奏形態であるTango Nuevoを産み出した。

*「プレパレンセ 」 (タンゴ) 作曲:ピアソラ  30歳の頃のもの

若いクラシックのアーティストやバンドネオン奏者たちが改めてピアソラの音楽に夢中になっている。

*「天使の死」 1962年の作品  作曲:ピアソラ  タンゴの遺伝子があるのか、フーガの遺伝子があるのか、といった曲。 フーガですが、ベースにタンゴの彩がある。  40代の作品

ジャズミュージシャンが一番夢中になる作曲家がバッハじゃないですか。 ピアソラはアルゼンチンの現代のバッハのような存在なのかもしれません。

アントニオ・ヴィヴァルディの「四季」を意識して、ピアソラも作りました。

「ブエノスアイレスの冬」   作曲:ピアソラ 

*「タンゴ」   作曲:ストラビンスキー  ピアノ曲

「オブリビオン(忘却)」  作曲:ピアソラ   1984年に公開されたイタリア映画『エンリコ4世』のために書き下ろされた5曲のうちの1曲  ピアソラ60代の曲

『リベルタンゴ』(Libertango)  作曲:ピアソラ 

Libertangoという単語は、libertad(自由)とtango(タンゴ)と合わせて作った混成語



2021年3月13日土曜日

2021年3月12日金曜日

遠藤伸一(宮城県石巻市 木工作家)   ・東日本大震災10年シリーズ 「死んでもいい」から「精一杯生きる」へ

遠藤伸一(宮城県石巻市 木工作家)   ・東日本大震災10年シリーズ 「死んでもいい」から「精一杯生きる」へ

52歳になる遠藤さん、宮城県石巻市に生まれ育ち、高校卒業後に上京、1994年に妻と3人の子供を連れて故郷の石巻市に戻りました。   2011年に震災に遇い、長女で中学1年生の花さん、長男で小学4年生の侃太君、次女で小学2年生の奏さん、子供3人を亡くしました。   深い絶望から一時死ぬ事さえ考えたといいます。   遠藤さんはその後、自宅の跡地に仲間が集える拠点を設けたり、子供たちのための木製のモニュメントを作ったりと、妻の涼子さんと力を合わせ、地域の復興に取り組んできました。

或る公園で木製のスペースを見たときに、木製の仕事をしたいなと思いました。  木製の遊具を作っている会社に入れていただいて修行させてもらいました。   長女が小学校1年生になる時に、故郷に戻ってきました。   長女は言葉が判らないと泣いて学校から帰ってきたりしましたが、そのうち慣れてきました。   海に関係する遊びが珍しくて、田んぼは見たことないといったりして吃驚しました。    

当日は水産会社の工事の引き渡しをしていました。  地震で家が心配で自宅に戻ってきてら、母親と長女がいました。(卒業式で早帰りだった。)   侃太と奏は学校だという事で迎えに行きました。   家に連れて帰って、親戚との連絡にために家を出ていきましたが、津波のことは頭にありませんでした。    トラックで戻る途中に津波に会ってしまいました。  家とか車が向かってくる感じで、目を疑うような光景でした。   トラックが流され、外に出たが私も流されてしまいました。   死んでしまうのかなあと思っている時に、海面にあがったときに、流されてきた瓦礫ともに流されて、コンビニの壁のところで突き当り瓦礫に吊るされた形で生きていました。   右足が折れていました。 何時間後かわからないが、津波が引いて瓦礫が下がってきて、瓦礫につぶされてしまうと思って、瓦礫から出てきました。  コンビニの屋根に上って見たときには自分しかいないのかなあと思いました。    保育所に向かっていったら、火を焚いていた人がいたので、寒くてずぶぬれだったので火にあたらせてもらいました。  

保育所の2階に上がりました。  翌日、家がないことが判り、「誰かいないか」と叫んでいたのがおふくろでした。(骨折していた。)    妻は一番下の奏を抱いていましたが、助かったと思ったが、冷たくなっていました。   避難所に奏とおふくろを連れていき戻ってきました。  長女は冷蔵庫とかが食い込んでいて花を出せなくて、壁を壊しましたが、長女も冷たい状態になっていました。   周りの人に手伝ってもらって保育所に連れて行きました。   また戻って侃太を探していましたが、侃太は10日後に自衛隊の方が重機を使って見つけてくれました。

避難所扱いになっていなかったので、食い物がいただけなくて、津波で流されたものを火を通して食べたり、コンビニから流されてきたポテトチップスの袋などをわけて食べたりしていました。   畳3畳ぐらいのところに奏と花を安置して、顔を撫でても砂でボロボロしていて、眠っているような顔で、温めれば生きているのではないかというような感じでした。  公民館の体育館が借遺体安置所になっていたが、勝手に動かさない様にと言って、侃太を探していました。   本遺体安置所が青果市場になっていて、侃太が見つかったら3人一緒に安置して欲しいという事で、3人一緒に並べて貰いました。  悔やみきれない思いでした。   自分で自分を責めるしかなかったです。   学校から沿岸の家に連れ戻してしまったという、自分の判断で子供を死なせてしまったという思いが、悔やんでも悔やみきれません。

大きい支えがいっぱいありました。    東京で修行させてもらった会社の社長の奥さんから電話が入って、社長から何かできる事はないかという事で、軽トラ一台あったら凄く助かるといったら、社長から用意していただいて、流された道具もあったので持ってゆくように言われて、現金100万円もいただきました。  その代わり必ず再開するように言われました。    軽トラックに物資を一杯いただいて避難所を出て工房に寝泊りしていました。     テーラー基金(テイラー・アンダーソンさんは2011年3月11日に起きた東日本大震災の津波で報告された最初の米国人犠牲者でした。 「テイラー・アンダーソン ’04 記念基金」が設立されました。)で被災者学校に本と本棚を送りたいという事で本棚の依頼がありました。   子供たち3人が教えてもらっていた先生で、やらせていただきました。 子供の生きた証を作り、生きたかったのだったらまだ生きてていいのかなと思いました。      人の思いをかたちにできる仕事だと思えるようなりました。    

折角やらせていただくのでテーラー先生の思いを繋ぐような本棚にしていきたいという思いと、テーラー先生の思いが世界一大きくなるようにという事でアメリカ産のジャイアント・セコイヤ、世界一大きく高くなる木ですが、それを一部その本棚に使わせてもらって作りました。   遊具を自宅跡地に建てました。   私らが幸せだった場所を寂しい場所にならないようにという思いで建てました。    「虹の懸け橋」というタイトルにして、震災で流した涙、そのあとに出てくれた虹が人と人を繋いでくれて、今我々が生かされているという思いと、虹はつかめないが、3人の子供らと幸せに生きてゆくことはつかめなくなってしまったが、虹は綺麗だと感じる事は出来るので、感動は感じられると言う事で、感じられる幸せを感じられる人間になっていけば、まだ生きても行けると思いました。   自分の子らが虹になってくれたんだという思いもあります。  

土台しかない家に戻ってくるのはつらくて、子供たちの友達が玄関のところに瓶に花がさしてあったりして、それらを見ると切なくなる部分が多くて、来るのが辛かったが、それをこういう場所にしてもらえることは苦痛ではなく楽しく思います。  人が繋がる場所としても使えているので、今は本当にありがたい場所です。

この10年、いろんなことを感じ、学ばせていただけた10年だったと思います。 自分の人生の第一章はあの日で終わっています。  新たな第二章は人が作ってくれていて、10年人の輪のなかで生かされてきたというのが、私が3人の子供を亡くして壊れていない理由でもあると思います。  人の思いを感じて、今、人間捨てたもんじゃないという事と、人間であることに誇りを持てるようになりました。  いろんな人に支えてもらったものとして、支える側になれないものかと新しい目標みたいなものを、今人が場面を作ってくれたりしています。 生きていてもしょうがないと思っていた人間が、今はまだ生きていていいんだと思わせてもらったり、生かされた意味みたいなものを求めているというか探しているといった感じです。  





 

2021年3月11日木曜日

吉川彰浩(元東京電力・原発避難者)   ・東日本大震災10年シリーズ 加害者と被害者の「二重苦」を越えて

吉川彰浩(福島県南相馬市 元東京電力・原発避難者)   ・東日本大震災10年シリーズ 加害者と被害者の「二重苦」を越えて

1999年から東電社員として双葉町、浪江町で暮らしながら東京電力福島第一原子力発電所と第二原子力発電所で保守管理業務にあたっていました。  事故の後は避難生活を余儀なくされた一方、東電社員であることの後ろめたさによって、自分を隠していた過去があったといいます。  廃炉を支える人たちのリアルを伝えることが廃炉や被災された方々の日常を一日も早く取り戻すことにつながると、2012年に東京電力を辞めAppreciate FUKUSHIMA Workers 福島県で復興に取り組む方々への敬意と感謝の頭文字AFWと名付けた一般社団法人で活動しています。   元東電社員の加害者、原発事故によって住む場所を追われた被害者、二つの側面で福島を見てきた吉川さんに、震災と原発事故後の10年について、今後原発の廃炉や福島の復興にどのように向き合ってゆくのかについて伺いました。

現在南相馬市の小高にいます。  今42歳になるので、19歳の時に来たので20年以上になります。   自責の念に駆られていた自分が人との交流とかによって少しづつほぐされてきました。   1999年4月に東京電力に就職しました。  高校は社員育成用の高校でした。  原子力発電は未来のエネルギーとしてCMでもやっていました。  原子力発電という大きな仕事をやってみたくて福島に来ました。  最初の1年間は研修プログラムがあり2年目からは発電所の運転のプロになるか、メンテナンスのプロになるかの二択があってメンテナンスのほうを選びました。   約9年やっていてその後第二原発に移動して4年近くやっていました。   双葉町ではお祭りに参加したり、飲みに誘われたりとか色々していました。  生活を支えている場所が発電所で、協力企業の皆さんが育て上げた子供に対して東京電力の社員にさせたいというのもありました。 日常生活に溶け込んでいました。

地震の時には福島第二原子力発電所にいました。  運転中だった原子炉は緊急停止されました。   地震から40,50分で津波は押し寄せてきますが、多くの社員は津波を見ていませんでした。    丘を切り崩したようなところで高い場所でした。  山が崩れるような感じの音が聞こえてきました。   下に降りて行って街を見下ろすと、大震災、津波の風景になっていました。   12日午後3時36分に第一原発の1号機建屋が水素爆発、3号機、4号機建屋も水素爆発する。    死んでしまうのではないかと皆言っていて、恐怖感、起こしてしまったことの申し訳なさなど感じました。  対応するなか家族との連絡は合間にラインで送ったりしていました。

罪の意識などもあり、苦しいなか、汚れた人間としての扱い、差別偏見が重くのしかかりました。   起こした側なので黙るしかなかった。   お金のまわりもうまくいかなくて否応なく辞めていく人が多かったです。   

東京電力の姿勢というものは社会が求める姿勢とは違っていたと思います。  賠償金では窓口の対応も悪くて、あの対応では怒るよね、というような感じでした。

現場で働く人達、協力企業で働くみなさんは双葉郡、浜通りで暮らしていた方々で住民の皆さんで、労働環境の悪さ、社会的な地位の低さ、差別偏見は私は見過ごすことはできませんでした。  それを本気でやろうと思うと、東電社員としては不可能だと思って、辞めれば出来ると思って悩みましたが、辞めました。 (2012年6月ごろ)

労働環境の悪さ、社会的な地位の低さ、等々泥臭く訴えていきました。   心が追い込まれて自殺してしまう人もいました。  あの時には秒単位でものごとを解決しないと、人の人生は狂うし、人が死ぬと、危機感は強かった。   一般社団法人AFWを立ち上げて、敬意と感謝という意味でAppreciate FUKUSHIMA Workersとしました。   福島第一原発を開かれた場にするために民間として、視察を手段として訴えました。   視察には1000人ぐらい参加しました。   年間2万人以上はあの場所を視察している人たちがいます。    今でも視察のことはやっていますが、力を入れているのが中学、高校、大学生、などに対して講義、授業を行っています。   始めてから3年ぐらいになります。 福岡~北海道、アメリカの大学で5つぐらい回って授業をしてきました。  

相手のバックグラウンドを知ることも大事だと思っています。  この地で起きたことが社会を豊かにすることにつながらなければいけないと思っているわけです。  きちんと客観的に批評して変えていかなければいかないことは変えてゆくことが必要だと思いますが、自分に中心を置くのではなくて、今よりも良き未来のために、ある時代においてどんな政策をすべきかが大切なんじゃないですか、と思います。

自分も、組織も、周りもみんなで少しづつ変化していけば、きっとよい未来が待っていると思います。  沢山の方との出会いがあって、変われる自分がいて、自分は誰かの役に立てるかもしれないという感覚、自分自身も未来を作る当事者なんだと、今生きている実感がします。  





  







 

2021年3月10日水曜日

渡邉浩二(地域活動サポートセンター柏崎 職員) ・東日本大震災10年シリーズ 避難者を支え続けた避難者

渡邉浩二(地域活動サポートセンター柏崎 職員)・東日本大震災10年シリーズ 避難者を支え続けた避難者 ~"原発の町"に逃げた避難者たちの10年~

新潟県柏崎市に住む渡辺さんは51歳、10年前に東京電力福島第一原子力発電所の事故によって避難を余儀なくされて、当時住んでいた福島県の双葉町から同じく原発のある柏崎市に家族5人で避難しました。  東日本大震災の直後や原発事故の直後、新潟県では全国で最も多い8000人が福島県などから避難して、その中でも柏崎市には2000人ほどが身を寄せました。  渡邉さんは柏崎市に避難してきた人たちの元へ市の委託を受けて個別訪問し、生活で困っていることなどを聞きとる訪問支援員として働いてきました。  自らも避難者でありながら、支援者として歩んできたこの10年について伺いました。

この10年、立ち止まらずに走り続けた感じであっという間です。  地震の時はプールで水泳指導をしている最中で、海水パンツ一丁で外に飛び出しました。  娘の保育園に行きましたが、もぬけの殻でした。  生きていてくれという事だけでした。  小学校の娘には会えましたが、凄く不安な顔をしていました。   家族も無事でいてくれて、双葉中学校で家族5人が会うことができホッとしました。   2日目に校内放送が流れて、ただいまから西に向かって非難してくださいという事で、なぜなのかという事は言われてなかった。  安全神話を信じていたので、放射性物質が外に漏れだすという事は思ってもみなかった。  3日目の3時半ごろに次の避難所で爆発が起きたのをTVで見ました。 考えもしていなかったが。  もううちの町には帰れない、仕事も出来ないんだ、友達にも会えないんだ、と思いました。    

義理の父親が柏崎市でしたので、そちらに避難しました。   退職するように言われて、避難者が避難先を回って訪問する仕事があるのでやらないかと言われて、1年間やってみようと思ってやったら10年経ってもまだやっています。   避難の経緯とか健康状態などを聞く、情報提供もするという内容でしたが、いろいろ細かいところまで観察はしていました。    避難者であるがゆえにつらいところがありました。   心を開いてもらうためには方言丸出しで話しかけました。    話していて辛いことばっかりで、何回か僕も一緒に泣きました。   この人が死なないためにはどういうことをていきょうすればいいのか、ひとりでも考えていました。   母子避難で来ている人がいて、生きてゆく自信がないと言う事で、娘の上にまたがって首を絞めて自分でもその後一緒に死のうという方がいました。   あなた方がいたので今の私たちの今があるんですと、泣きながらいわき市に帰っていきました。   二人の命が守れたという事でやっていてよかったという瞬間でした。   

生活してゆく中での色々な苦労が見えてきています。   高校も柏崎市にするのか、福島にするのかとか、内容も変わってきていると思います。   語り部としても活動しています。  地震直後のことから、原子力発電所の事故とかですが、怖さよりも避難の仕方などを強く話していて、怖さなどはなるべく避けて話しています。   自分の持っている知識経験などを全部置いていきますという感じで、柏崎にいる自分の役割みたいなところだと思っていて、自分がやらなければいけない仕事の一個というところです。

柏崎とか県外に避難している人がどのように苦労しているか、福島県内にいる人にも伝えたいという事で、話をさせていただきたいとお願いして、講演をしました。  泣いて聞いてくれた人もいて、やる意味は物凄くあったと感じています。  今後もこの仕事を続けて行くことを考えています。   双葉の家は解体して、柏崎市に家を建てました。    多分柏崎で死ぬんだと思いますが、なんとなく福島に帰れる自分もいるんだと思いたいんです。   福島にいるときには渡邉浩二が100%でしたが、柏崎に来てからはあんまり自分を出さずに生活をしています、出したいけれど出せないんです、制御してしまっている。

故郷っていいところですよね、いつかはか帰る場所だと思います。   100%で笑える場所、気を使わない場所だと思います。   どんなに変わろうが双葉町は双葉町であり、人はそうそう変わらないわけで、僕たちの誇りですかね。    





 

2021年3月9日火曜日

渡邉昌子(「いいおか津波復興かわら版」編集長)・東日本大震災10年シリーズ "5時26分"を語り継ぐ

渡邉昌子(千葉県旭市「いいおか津波復興かわら版」編集長)・東日本大震災10年シリーズ "5時26分"を語り継ぐ 

千葉県旭市では地震から3時間近く経った午後5時台に、7.6mと最大の津波に襲われ、災害関連死を含めて16人が犠牲になりました。   震災の後特に被害が大きかった飯岡地区で発行されてきたのが「いいおか津波復興かわら版」です。  編集長の渡辺さん74歳に被災した人達の証言の聞き取りを続けてきた思いを伺いました。

10年前に震災があった年から「いいおか津波復興かわら版」という手作りの新聞を作って市内に配り始めました。  一人で被災者のところに行って話を聞いてA4サイズのフリーぺーパーに纏めて書いています。  月一回のペースで3年間続けて4年目からは隔月になって現在は3か月に一回となっています。  現在は7000部を作って配布しています。

被災者の証言と一緒に似顔絵を描いています。  写真よりも似顔絵のほうが本当の気持ちを載せることが出来るのではないかと思いました。   おたがいにつらさを分かち合うような形でお話ができるようになりました。   私の家も被害にあいました。 柱にも津波の跡が残っています。  襖にも残っていてこうだったという事を残しておこうという思いがありました。

長い事教員をしていまして、3月に退職の予定でした。  それで退職の会を夫の店で会食をしていましたが、その時に地震に会いました。  津波も来て高台で見ていましたが、まさか津波が押し寄せてくるとは想像できませんでした。   私たちの町内の被害が正確にわからなくて、被災状況を聞き取って記録に残した方がいいんではないかと思って5月から被災した人たちのところに行ってお話を伺って、記録して子供や孫に伝えようという活動につながりました。   

当時73歳の人の証言、防災無線で津波が来るから避難してくださいとの呼びかけがあったが、店が心配なので家にいた。  第一波が下水からあふれたぐらいで済んだので安心していたが、学校から帰ってきた子供たちが逃げようという事で、車でコンビニの駐車場まで避難したが、大丈夫だと思い店に戻ってしまった。  しばらくして海岸の様子を見たら高い波が見えて、子供を車に乗せて逃げようと思ったが、車が思うように動かず、車が浮き始めたので、子供たちはバラバラに逃げ、自分は津波の勢いで流されたが、救助され助かった。あの時帰ってこなければ被害にあわずに済んだのにと悔やんでいます。  第3波が最大の高さで7.6mにもなりました。 5時26分でした。

九十九里の浜には津波が来ないと聞いていたが、飯岡地区にも300年以上前に元禄津波が来て70人以上亡くなった方がいるという事を後で知りました。  このことを知っていればもっと津波への警戒心はあって、人的被害はなかったのではないかと思いました。  

小野良子さん、74歳。  津波が来るから避難するように防災無線の呼びかけがあった。第一波を堤防の近くまで見に行ったが、道路も濡れていなかったので、これならば大丈夫と思って家へ戻ることにした。  息子も帰ってきたので念のために避難しようと思って玄関のドアを開けた瞬間、目の前に大きな波が押し寄せてきた。  家の中に押し流されてしまい、家具の間などに挟まれて身動きが取れず、押し寄せる波で息も出来ずおぼれてしまった。   気が付くと海水で浮いていた畳の上にいた。  助かったのが不思議だった。  息子も流されたが瓦礫の上を渡りながら逃げ消防署員に救助された。  (息子さんには障害があり、避難先では辛かったと思います。)  助けられた命なのでなんとか生かしていきたいとおっしゃいました。  体験を防災に役立ててもらえれば一番いいと考えたようです。  このことを紙芝居にして知っていただこうと活動しました。

被災した方々は高齢者が多くて、10年経って直接被災した方々が表に出られなくなって、教訓をどうやって伝えてゆくのか大きな課題になってきました。 

夫婦二人で魚練り製品製造業を営む家庭。 製造機など全く使えなくなり大金がかかるので家を更地にしてしまった。  年齢、妻の体調を考ええると、再起不能と判断した。

復興どんぶりを考えました。    地元の食材を必ず使う事と値段は1000円にする、その中の10%を支援金として街の様々な支援活動に繋ぎたいという事で進めました。  23店舗が参加していただきました。

「いいおか津波復興かわら版」63号では震災後に作られた建物、当時の仮設住宅とかを特集にしようかと思っています。

旭いいおか文芸賞 「海へ」 と題して5回目になります。 自由詩、エッセー、作文,定型詩(俳句、短歌、川柳)

先日旭いいおか文芸賞 「海へ」の朗読発表会が行われました。 震災を語り継ぐ事にもなります。

話を聞いてもらいたいという人がいる限り、話を聞いてそれを記録に残していきたいと思っています。  つらい記憶はすぐには話せないという人もいますので、聞いて伝えていきたいと思います。  

2021年3月8日月曜日

金野靖彦(陸前高田 酒造会社元社長)  ・東日本大震災10年シリーズ 避難を語りつぎ、守る命

金野靖彦(陸前高田 酒造会社元社長)  ・東日本大震災10年シリーズ 避難を語りつぎ、守る命 

金野さんは津波で56人の従業員のうち7人を亡くしました。  災害時の避難の重要性を痛感したという金野さん、今震災での経験を語り伝える語り部を育成し、災害から一人でも多くの命を救いたいと考えています。

街の変化がありますが、複雑な思いがあります。  代替え地が高台で、10mかさ上げした商店街には住所名があるが、10m下にはかつて住んでいた自分たちの同じ番地を見ると何とも言えない気持ちになります。   10年前、海から2kmほどのところにあった酒蔵のすべてが津波で流されました。  従業員の安否を確認するため避難所を回って歩きました。  7人が津波の犠牲になってしまいました。   悔やまれるのは解散する時に戻らないようにとか、遠くから来ている人たちは海岸寄りの道は絶対通らないようにとか、もっとはっきり徹底させればよかったなあと思いました。   津波は3mでそれが順次、6m、9mと変わっていきました。  3mという事を聞いてここまでは来ないだろうとは思っていました。    「沿岸住民は・・・」という放送には自分では沿岸住民という意識はなかった。  地震津波の訓練は町内会ではやっているので、会社としてはやってこなかった。   

地震が収まって広場に集まってもらって、建物、酒の被害の確認をして問題はなかったので、解散することにしました。    防災無線が泣き声のように変わっていって、避難しました。(地震から30~40分後ぐらいだと思います。)   内陸側の安心感があったなあと思います。    他の酒造会社の支援を受けて震災後半年に酒作りを再開しました。   10月には出荷ができました。    会社は従業員にとっては金銭の繋がりだと思いますが、それだけではなくて心と心のつながりが醸成されて行って、いろんなものが出来上がってゆくものだと思います。   酒が出荷されると地元の人達から狂喜のさたで迎えてもらいました。 商品は社員の思いがそのままそこに乗っかって市場に出て行くものだと感じました。 

亡くなった従業員とのことをいつも思っているよとか、かっこよすぎるかもしれませんが、しかし実はそうなんです。   申し訳ないという思いではなくて、何とも言い難いそういうようなものでそのあと過ごしてきてると思います。

2013年に会社のめどがついたので、会社の社長を辞めて、兼務していた観光物産協会の会長に専念することにしました。   アメリカから来ていた女性の支援の方で、外国の方々に話をしてほしいという事で、通訳してもらって話をしました。   それをきっかけにして、別の社会とつながっていたいという風に思いました。    一人の災害に強い人間がいれば周りの人が強くなっていき、周りの人が強くなっていけば地域が強くなる、地域が強くなれば町、市が強くなる、災害に強い国になってゆくことになるのではないかと思いました。

自分の命は自分で守るという人が増えていかないといけないので、講演では強い人間になって行く事と言う風に話しました。   経験したものとしては伝えるという意味合いで取り上げていいんじゃないかと思います。    10年になるので今後これからはどういう形をとって行ったらいいのか考えています。   災害を経験した人としなかった人の差はどうしても出てくる、この差を埋めるという事ではなくて、理解度を広げてゆくことが大切なんじゃないかと思います。  「安全、安心」、「安心、安全」 どっちが先なのか。 「安全が確保されて安心がある」ものだと思うが、安全もいつまでもあるものではなくて、結局なくなって行く運命にある。  「安全」をいつもチェックしておかなくてはいけない。    まず命が根底で、この「安全」はこれで命が守れるのかという風に考えてゆく必要がある。

根底は命を大切にすることで、それに向かってどういう行動をとるのかという事、「大丈夫だ」という事を安易に発しないこと。   「想定外」はできるだけ控える事、想定外という事では我々のレベルではそこで終わってしまう。  

地震が起きて避難する時に、何を持ってゆくか、誰と非難するかという事を決めておく、それを強く覚悟しておく必要がある。   自分の命は自分で守るという事ですが、自分の命を守るという事は、結局は人の命も守っていることに繋がると思うんです。