2017年11月7日火曜日

佐佐木幸綱(歌人・日本ほろよい学会会長) ・酒は静かに飲むべかりけり 

佐佐木幸綱(歌人・日本ほろよい学会会長) ・酒は静かに飲むべかりけり
日本ほろよい学会とはどんな学会なのか伺いました。

「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり」 若山牧水
白玉は歯に掛かるまくら言葉的に使われている。
白い歯に沁み透って行く秋に酒はワイワイみんなで騒いで飲むのではなく、一人で静かに味わいながら飲むべきだ、その方がしみじみと酒のうまさが判る、と言うような意味です。
11月頃に新しい酒が出来る。
若山牧水は360首位酒に関する歌を歌っている。
若山牧水のお墓がある沼津の千本山乗運寺の住職の林さんが牧水の酒の歌と言う本を出しました。
歌集に出したのは6900首です。(43歳で亡くなる)
長生きした人は2万位だしてます。
「人の世にたのしみ多し然れども酒なしにしてなにのたのしみ」 若山牧水
「それほどに うまきかと人の とひたらば なんと答へむ この酒の味」 若山牧水
おばあさん、両親が酒が好きだったようです。
早稲田の学生のころに人妻と恋愛するが、2年付き合うがうまくいかず、失恋前後から酒をよく飲むようになる。

一番多い時は朝2合、昼2合、夜6合飲んでいたようです。
朝酒はおいしいが身体には良くないようです。
2cm位のコウモリと柳の絵が描いてある盃を愛用して、亡くなった後に一緒に焼いたが、綺麗にに残っていたので、取っておくことになり、沼津の牧水記念館に陳列されています。
気ままに山里を歩く旅が好きで、夕方に集落があると泊めてもらうと言うような旅をしていたようです。
鳥、木、草、花の名前を沢山覚えた様です。
旅の歌は2300首です。
1674日 1/9旅をしていた、大学卒業後にすると1年のうちに1/5旅をしていた。
富士山が大好きで沼津に住む様になる。
「牧水」の牧はお母さんの名前が「牧」 牧水は「富士人」「旅人」と言う名前を息子に付けている。
亡くなる直前まで飲んでいた。
医者も最初は止めていたが、最後はもういいやと言うことになる。

9月に亡くなるが、暑い時期は傷んでしまうが、3日ぐらいは全然傷まなかった。
医者が生きたままアルコール浸けになるかな といって綺麗になっていたと言う話が残っています。
牧水を話題にしてNHKが番組を作ったが、酒豪、早稲田出身、歌人と言うことでその時に私が出演することになり、色々なところにロケに行ったりしました。
牧水よりも沢山酒の歌を作ろうと思って、牧水より超えましたが、向こうは43歳で亡くなっているので倍を作らないといけないと思っています。(79歳)
若山牧水賞 第二回目に貰う。
受賞者は若山牧水の研究をして地元の新聞に連載しないといけない。
授賞式後のパーティーにはお酒が一杯出ます。
女性では河野裕子さん、小島ゆかりさん、俵万智さんなどが受賞されています。

日本ほろよい学会、1999年秋田で日本デザイン会議が開かれて、当時の市長の石川錬治郎さんが早稲田の同級生だったのでこういうことをやろうと言うことで誘いかけられて誕生しました。
石川さんが酒、牧水が好きで、牧水の歌碑を建てて除幕式にも私も参加しました。
牧水会が有り、ほろよい学会と合流しました。
名誉会長、会長、「燗司」(お燗を司る)長を作って会則も決めました。
「酒および嗜好と言う人類固有の天寿の恵みを、四季折々の花鳥風月を愛でつつあくまでもほろよいのころあいでたしなむとともに、飄逸として清談を楽しむ、ほろ酔いの極意をあまねく伝えることにある。」これが目的です。
斎藤茂吉の長男で斎藤 茂太さんはそういうお酒です。
斎藤 茂太さんは他人に酒を勧めない、他人から勧められても受けない、酒は一人で自分で飲むんだと言う会の会長をやっていました。
会員には亡くなった佐々木久子さん、黒田桃子さん、西木正明さん、池田理代子さん、小島ゆかりさん、三枝成彰さん、林真理さん子、初代名誉会長は暉峻康隆(てるおかやすたか)先生(早稲田の名誉教授)
暉峻先生は「上等の酒を上品に常温で飲め」と言っています。
秋田、宮崎県(牧水生誕地)、沼津、東京、宇都宮等でもやっています。
兵庫県伊丹市(日本酒発祥の地と言われている)で伊藤一彦(牧水研究家)、宇多喜代子(俳人)さんとか集まって語ったりしています。

1938年東京の文京区で生まれる、私は出産のときに俳人で産婦人科医の水原秋桜子さんに取り上げてもらいました。
水原秋桜子さんはくぼたうつおの弟子で、僕が大学院の時に亡くなって、水原秋桜子さんはお通夜、葬式にも来て、俳句の人はあまりいませんでしたが、ずーっと何時間もいました。
佐佐木信綱、祖父で文化勲章をいただいた。
「ゆく秋の 大和の国の 薬師寺の 塔の上なる 一ひらの雲」
両親、兄も歌人です。
「心の花」来年創刊120年になります。
1898年(明治31年)に創刊(短歌の雑誌)してずーっと続いています。
「心の花」とは「歌はやがて人の心の花なり」から来た題名です。
小学校ぐらいからぼつぼつ短歌を作っていましたが、真面目に作ったのは父が亡くなってからです。
父親が50歳で亡くなりました。(私が20歳の時)
父親の命日と私の誕生日が同じです。(10月8日事故でなくなってしまいました)
短歌の追悼の歌を作りました。
31歳の時に「群黎(ぐんれい)」で現代歌人協会賞、若山牧水賞、第10回斎藤茂吉短歌文学賞、第50回芸術選奨・文部大臣賞、紫綬褒章・・・。

私の時代は男の時代の最後の時代だと思います。
三船敏郎、石原裕次郎の時代から段々ユニセックスの時代になる。
マリリンモンロー、ヘミングウエーが亡くなって女っぽい女と、男っぽい男の時代の最後の時代に短歌を作り始める。
ボクシング、ラグビーなどをやっていました。
「男を歌う」と言われました。
父と息子と言うことを一つのテーマにしてきました。
そういう角度から世界を見て行き、歌を作って来ました。
「父として幼き者は見上げ居りねがわくは金色の獅子とうつれよ」 佐佐木幸綱
「徳利の向こうは夜霧、大いなる闇よしとして秋の酒酌む」    佐佐木幸綱
「雨荒く降り来し夜更酔い果てて寝んとす友よ明日あらば明日」  佐佐木幸綱
「人肌の燗とはだれの人肌か こころに立たす一人あるべし」    佐佐木幸綱

















2017年11月6日月曜日

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)     ・【近代日本150年 明治の群像】与謝野晶子

本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・【近代日本150年 明治の群像】与謝野晶子
講談師 神田蘭
与謝野晶子は「君死にたもうことなかれ」の詩で有名  情熱的な人。
講談での紹介
本名鳳志よう(ほうしよう) 明治11年現在の大阪府堺市に和菓子屋の3女として生まれる。
幼いころから朱子学、儒学を学び、女学校に入学すると樋口一葉、尾崎紅葉、源氏物語等を読みまくるようになる。
短歌を新聞、雑誌に投稿する様になる。
歌人与謝野鉄幹が大阪で歌会を催すとの情報が入り、晶子は歌会に参加する。
憧れの歌人で、ひと眼見て惚れ込んでしまう。
鉄幹には奥さんがいたが、愛を深めて行く。
禁断の恋が晶子を女にさせ、悶々とした思いが短歌を作らせてゆく。
晶子は家を飛び出し、東京にいる鉄幹のもとに行く、鉄幹も離婚して晶子と結婚する。

歌集にする「乱れ髪」
「春みじかし 何に不滅の 命ぞと ちからある乳を 手にさぐらせぬ」
人生は永遠ではないのだから、自分の張りのある胸にあなたの手を導く。
「みだれ髪を今日の島田に反し朝伏して今背の君ゆりおこす」
みだれ髪を綺麗に結い直して朝寝するあなたをゆり起こします。
「乱れ髪」が明治34年に発表されると一大センセーショナルを巻き起こす。(23歳)
晶子は文壇のスターに押し上げることになる。
鉄幹は影が薄くなり、浮気をするようになる。
鉄幹があこがれていたヨーロッパに送り出すが、晶子も子供を日本に残したままヨーロッパに旅立つ。
このヨーロッパの旅が二人におおきな影響を与える。
官能女流歌人、反戦歌人、女性運動家と言う色々な顔を持つようになる。

22歳のときに鉄幹との運命の出会いがあった。
当時はひどい拘束を受けていた中で、こういう人が先頭に立たないとだめだったのかもしれない。
赤裸々な歌を作るのは勇気のあることだと思う。
3女なのであまり大切にされなかったので、あんまり守るものがないので自由にできたのかなあとも思ったりします。
「柔肌の熱き血潮に触れもみで寂しからずや道を説く君」
若い女性の情熱的な恋心に触れもしないで、人としての道ばかりを説いているあなた、さびしくないのですか?)
樋口一葉、尾崎紅葉、源氏物語等の影響が大きかったのでは。
「乳ぶさおさへ神秘のとばりそとけりぬここなる花の紅ぞ濃き 」
胸に手を当て、隠された神秘な場所を開けてみると私のはなびらのような女陰が興奮の為に紅潮しています。)
鉄幹28歳、晶子23歳のときに結婚する。
11人の子供をもうけ、育てる。

「君死にたもうことなかれ」 
日露戦争で旅順を落とさない限り勝利はなくて、物資を運ぶためには制海権が必要だったが、旅順港を何としても落とさなければならなかった。
203高地での沢山の犠牲が出てもやらなければならなかった。
それができなかったら日本の国土の少なからざるところをロシアに取られてしまったかも知れないと言われている。
1904年に日露戦争が勃発して、8月には旅順の第一回総攻撃で死傷者が1万5000人が出た。
そこに弟の鳳籌三郎(ほうちゅうざぶろう)がいた。

「君死にたもうことなかれ」 
(旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて)
ああおとうとよ 君を泣く
君死にたもうことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとおしえしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや

(さかい)の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたもうことなかれ
旅順(りょじゅん)の城はほろぶとも
ほろびずとても 何事ぞ
君は知らじな あきびとの
家のおきてに無かりけり

君死にたもうことなかれ
すめらみことは 戦いに
おおみずからは出でまさね
かたみに人の血を流し
(けもの)の道に死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
大みこころの深ければ
もとよりいかで思(おぼ)されん

ああおとうとよ 戦いに
君死にたもうことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまえる母ぎみは
なげきの中に いたましく
わが子を召され 家を守(も)
安しと聞ける大御代(おおみよ)
母のしら髪(が)はまさりぬる

暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻(にいづま)
君わするるや 思えるや
十月(とつき)も添(そ)わでわかれたる
少女(おとめ)ごころを思いみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたもうことなかれ

「君死にたもうことなかれ」に吉岡しげ美が曲を付けて自ら歌っている。
「すめらみことは 戦いにおおみずからは出でまさね」と言うところがあるが、今の世の中だったら炎上必死ですね、大変なことになったでしょうね。
魂の叫びみたいなものが全てに優先する。
情熱が全面的に展開する。
自分の感情がほとばしる感情が何よりも凄い。
平塚らいてうの「青鞜」にも創刊号に詩を寄せている。

詩「山の動く日きたる」
「山の動く日来(きた)る。 
かく云へども人われを信ぜじ。
山は姑(しばら)く眠りしのみ。
その昔に於て 山は皆火に燃えて動きしものを。
されど、そは信ぜずともよし。
人よ、ああ、唯これを信ぜよ。
すべて眠りし女(おなご)今ぞ目覚めて動くなる。
一人称にてのみ物書かばや。われは女ぞ。
一人称にてのみ物書かばや。われは。われは。」

晶子の創作の泉は鉄幹だったのかもしれない。
晩年 戦争賛美のような詩も作っている。
感性で生きている、自分に正直に生きている人











2017年11月5日日曜日

水木一郎(アニメソング歌手)       ・【時代を創った声】

水木一郎(アニメソング歌手)       ・【時代を創った声】
来年でデビューされてから50年、古希を迎える水木さんですが、益々精力的に活動されています。
1972年から2年間にわたって放送された漫画家永井豪さんの原作ロボットアニメマジンガーゼット、多くの子供を魅了したマジンガーゼットですが、この曲を歌ったのがアニメソング歌手水木さんです。

歌ってから45年、あっという間です。
1万回ぐらい歌っていると思います、身体の一部の様になっています。
作詞が東文彦さん、作曲が渡辺宙明さん(今年92歳の現役)。
劇場版マジンガーゼットが45年の時を経て復活、来年公開予定。
試写会を観ましたが、大興奮しています。
45年振りに又主題歌を歌えることは僕にとって奇跡だと思っています。
渡辺 俊幸さん(渡辺宙明さんの息子さん)がアレンジ。
1968年歌手としてデビュー。
最初歌謡歌手としてデビュー。「君に捧げる僕の歌」
5歳から洋楽を聞いていました。
歌謡曲なので真似が出来なくて暗中模索だったので、ヒットしなかった。
そんなときに出会ったのがアニメソングだった。
堀江美津子12歳、「12歳の神話」という歌を渡辺先生が作って、堀江美津子の前で歌って、その時にアニメソングはどうだろうと言う話がありました。

是非歌わせてほしいと言うことで、主人公の事を色々想像しながらヒーローに成りきって歌ったら歌えました。
手本がなくてもヒーローになりきれば歌えるんだと思いました。
「原始少年リュウ」を歌う。 石森章太郎の漫画作品
歌謡曲は水木一郎で歌わなくてはいけないが、アニメソングは水木一郎で歌わなくて良くて、色んな声を出せたことがこの道にぴったり合ったのではないかと思います。
マジンガーゼットは比較的楽に歌うことが出来ました。
1976年から3年間NHKの「おかあさんといっしょ」の2代目として出演。
「おかあさんといっしょ」のディレクターが雑誌を見てくれて、オーディションに出ることになりました。
300人ぐらい来ましたが、お兄さんに成りきってやったんでそれが良かったようで受かりました。
そこから子供達から教わりました。
つまらないとすぐ反応するので、どうやって子供達をひき止めようかとか、勉強になりました。

1997年にスーパーロボットのライブを日本で初めて始めて、ライブハウスには30から40代の人が2000人ぐらい集まって、水木一郎はおじさんだろうと思っていたら、スマートな僕が登場してきて歌ったら、歌い終わってから「兄貴」と言うことになってそこから「兄貴」と言われるようになりました。
1999年におこなった24時間千曲ライブで24時間歌いました。(51歳)
歌手生命をかけて、医者もついてくれて、1曲目がマジンガーゼット、ロボットソングが100曲、バラード、とか色んなジャンルを100曲ずつ600曲、ギターの弾き語りで100曲、そのうちに指がつってしまって、ピアノで演奏してもらって、明け方になってきて1000曲いけないかなあと思ったときに、仮面ライダーの歌を歌っていたらステージにばった(仮面ライダーの化身)が来て、(石森先生が亡くなられた後だったので)先生が来たと思って、残りの300曲を乗り切りました。

その後韓国、中国、フランスなどでライブを主体に世界に活躍の場を広げました。
最初は香港だったが、堀江美津子が「キャンディーキャンディー」を歌ったら拍手が鳴りやまなくて、日本に帰って来てどう説明しようと思ったが、誰も信じないだろうと思って、言わなかったが、海外で段々話が来るようになりました。
このジャンルを認めさせようじゃないかと思ってやって来ました。
アニメソングを聞いて人生を変えた方が何人もいます。
宝物、勇気付けられるもの、夢などが一杯詰まっているのがアニメソングだと思います。
アニメソングを目指す若い人に対しては、アニメソングではないジャンルを聞いてもらいたい。
そこから色んな引き出しを掴んで貰って、アニメソングを歌う時にそれに当てはまった自分の気持ちをぶつけて行く、温故知新、昔のものも引き継いでもらいたい。
アニメソングが大好きで、愛があればそれでいいと思います。
自分が歌った歌はどれほど責任があるか、と言うことを考えて歌ってほしい。(影響を与える)












2017年11月4日土曜日

楠木新(人事・キャリアコンサルタント)  ・定年後をイキイキと

楠木新(人事・キャリアコンサルタント)  ・定年後をイキイキと
「定年後50歳からの生き方、終わり方」が22万部を超えるベストセラーとなっています。
楠さんは63歳、著書には大手生命保険会社を定年退職まで務めた楠木さん自身の体験と多くの当事者への取材による実例が盛り込まれています。
最近、雑誌にも定年後をテーマに特集記事が掲載されるなど、定年後をどう生きるかに関心が集まっています。
平均寿命が伸びて長くなった定年後をどう生きるか、そのためにどう備えるか、生き生きと生きるためのヒントは何か、楠木さんに伺いました。

思っていた以上に定年後に関心があるのを実感しています。
50~60歳ぐらいを対象にしているのですが、40歳代の人、女性も結構多いと数字で判ります。
36年間勤めていました。
主に営業関係、企画、人事関係の仕事をしていました。
50歳から働く意味をテーマに執筆活動を始め、60歳で定年になるまで2足のわらじを履いていました。
40歳で阪神淡路大地震があり、自宅で遊びに来ていた娘の同級生が家につぶされて亡くなったり、実家もひどかったりして、そのまま会社の中で務めていいのかなあと揺れ始めた感じはしました。
45歳の時に支社長をした後、関連会社に出向になりましたが、配下の職員の不祥事で転勤になり、忸怩たる思いがあり、たまたま異動の内示の日が父の亡くなった日が重なり、出向のことと重なり複雑な思いで過ごした事を覚えています。
2年後に戻りましたが、脚光を浴びるようなポジションだったが、このまま続けて行っていいかどうか迷って、片や自分を止めるような部分もあり、アクセルとブレーキを同時に踏んでしまったような状態で、2カ月後に会社に出られないようになってしまった。

休職して、一旦出て人事部長と言う役職で復帰したが、調子が悪くなり2回ほど出社したり休んだりして2年半過ごしました。
鬱状態と言う診断だったが家でゴロゴロするのがきつかった。
会社中心だと大変なことになると気付きました。
50歳を越えたあたりから体調が良くなったが、平社員で仕事もあまりなくてどうしたらいいのか判らない状態が続きました。
定年退職した先輩に聞いてみたが、あまり元気な人は数多くいなかった。
転身した人の情報が入ってきて、そういう人は何か自分の求めるものがあるなあと思いだして、そういった人達に話を聞き始めました。
150人ぐらいの人から話を聞きました。
経済的な事、家族の事とか、駆られるように話を聞き始めました。
65歳まで勤める余地があったが60歳で辞めました。
一番初めは凄く開放感を感じました。

一般的にハローワーク等に仕事を探しに行くが、60歳を越えて今までの延長縁で仕事をしようとするとなかなかそういう場がない。
転身した人の話を聞いているという人がいると言うことで新聞にも載り、それが縁で新聞社のコラムにその人たちを紹介することになり、執筆活動が始まりました。
人に聴きやすいようにするために、大学で社会人学生の募集があり入学して、キャリアの研究と言うことで、話を聞くようにしました。
毎日が日曜日にはいい面と悪い面がある。
私の場合は書くと言うことがあったので、メリハリがありました。
家庭内では今までいなかった人が24時間いると言うことになると、今までのペースがうまくいかないと言うことはよく聞き、家庭内でぶつかることが色々ある様です。
家でも管理職のように細かいことをブツブツ言う人もいると言うような話も聞きます。
日本の会社は居場所的、夜の一杯を含めて、一つの居場所になっている部分がある。
次の居場所を見付けるのがなかなか難しい。

ギャップをいきなり埋めることは難しい、そう考えると定年後については考えることは50歳ぐらいから始まっているのかなあと思います。
そのぐらいから準備をして行けば、ギャップを自分のものにして行く、10年やれば大丈夫かなあと思います。
それを育てながら定年を迎える、もうひとつの自分のある人は比較的スムースに移行していると思います。
趣味、ボランティアなどいろんな事、自分の好きだった事、そういったものを育てて行く。(自分で見つけて行く)
私自身は執筆以外に、「心の定年研究会」ということで会議室で2カ月に一度定年後について何人かで集まって話し研究する事を13年間やっています。
去年まではマンションの理事長もやっていました。
大学の聴講生として、人事の仕事の事を勉強に行っています。
学ぶと言うことは凄く重要なことだと思います。
40年間働くと8万時間弱だが、60歳から退職して75歳まで1日11時間として、その後平均余命が85歳とすると後の10年の自由時間が5、5時間とすると、自由時間を全部計算するとちょうど8万時間、定年後の自由時間が今まで働いてきた全ての時間よりも長い自由時間があると言うことです。
自分に意味がある時間に使うか、使わないかの違いが、取材してみて本当におおきな違いがあると感じます。

60歳から退職して75歳までは黄金の15年と言えるかもしれません。
ここを輝かせるかどうかが人生の後半戦の最大のポイントかなあと思っています。
最大のポイントは主体性、会社では主体性を薄くしながら、諦めながら働いている。
定年後は主体性がポイントになる。
ある取材した人、機械メーカーの45歳で支店長、リフレッシュ研修で3カ月外れるが、自分がいなくてもいい成績が出来ていることに気が付いて、このままでいいかと悩んで、50歳の時に見た新聞記事、施設に入っている方が頭を綺麗にして貰ったら施設の中を歩くようになったという事で、その人は美容師になろうと思い付いて、2回落ちたが3回目で58歳の時には美容師と介護ヘルパーの資格を持って、実務の修行をして、60歳の時には自分の美容室をもったと言う方がいました。
その後も元気に75歳になってもやられていて、当時と変わらずやっていて感銘を受けました。
保険会社の先輩で、定年の少し前に大学教授に成られて、ソフトボールを学生とやっていて楽しいんだと言っていたことが印象に残っています。

役職を取って上に上がっても次のステップが見えない方もいる。
週に3日とアルバイトをしながら博士論文を書いてる人がいまして、生き生きしている。
50歳からその人も関心を持っていたと言っています。
小さな会社にアルバイトに行って、小さな会社のいいところがいろいろ見えるので面白いと言うような感想の人もいます。
事務職だった人がスーパーの搬入作業、最初は抵抗があったが、やってみると身体を使うことのそう快感があり、体重も減ってきて思ったよりも面白いと言うことでした。
違うところが見える新鮮さ、楽しさもあると言うこともあると思います。
50歳ぐらいから取り組み始めることが大事だと思いますが、遅すぎると言うことはないと思うので、いま取り組んでいることによろこび楽しさを見出している人がいる、それも大事だなあと思いました。
長い間会社員でやってきた方は完全な悠々自適は難しいかなあと思います。
定年後も色々小さくてもいいから役割、責任、義務みたいなものをある程度持ちながら、小さくてもいいからそういうものを自分の中に持っていることが重要ではないかと思います。

小学校、中学校、高校など同窓会でサラリーマン以外の人と会えると言う刺激もあるし、しがらみの無い時代に戻れるので、そこから新しい事をやり始める人もいます。
人の繋がりという意味では同窓会は非常に大事だと思います。
小さいころ好きだったこと、小さいころコンプレックスを感じたことを変えるとか、積み残していたことなどを取り入れることによって、次のステップを踏みやすいと思います。
その方が素直な自分が出てくるので、見い出しやすい。
宝の山は子供のころにあると思います。
私は顔つきのいい人に成りたいと思っています。(淀川長治さん、植木等さん、藤田まことさん、さかなくんなどのように)
顔つきはごまかせない、要は良い顔になることをやればいいい、それを自分で見つけるしかないと思います。





















2017年11月3日金曜日

若宮正子(メロウ倶楽部副会長)      ・スーパーITおばあちゃん

若宮正子(メロウ倶楽部副会長)      ・スーパーITおばあちゃん
昭和10年生まれの82歳、高校を卒業して都市銀行に入り、関連会社を経て62歳で退職しました。
退職後は認知症のお母さんの介護で家に閉じこもりがちになりました。
もっと外の世界と繋がりたいと思った時、パソコンを知り衝動買いをしました。
でも悪戦苦闘の連続でした。
それでもパソコンの可能性を感じ独学での習得を決意し、のめり込んでいきました。
そして今ではIT機器を使いこなすようになりました。。
去年若宮さんはスマホのアプリケーションのプログラムを自力で製作し公開したところ、大きな話題になりました。
これらのアプリを管理するアメリカにある世界的なIT企業の新製品発表会に招待され最高齢のアプリ開発者として世界中に紹介されました。

パソコンは4台あると思います。
アップルに呼ばれてアメリカに行きました。
年に一回開発者会議があり、アプリを作っている人を呼んで新製品、バージョンアップなどを説明する会議です。
男女とか年齢とか差別しないでと言うことで呼ばれました。
オーストラリアから来た最年少の10歳の坊ちゃんと最高齢の私を紹介されました。
会場には5000人ぐらいはいたと思います。
アップルのティム・クックCEOにもあいました。
開発したのは「hinadan」と言うアプリですが、シニア向けのアプリとして作りました。
雛壇にお雛様をどういう配置をしてゆくかというものです。
どうしても判らないところは仙台の先生に教わったんですが、遠隔操作の形で教えてもらいました。
シニアが楽しめるアプリが無いので、若い人に作ってほしいと言ったが、そんなものはできませんと言われて、自分で作ればいいのではと言われて、やる気になりました。
かなりハードルが高かったです、ウインドウズは使っていましたが、アップル社なのでマックのパソコンでないと作れないので不慣れで、英語なのでかなり厳しかったです。

家庭にパソコンが普及し始めた頃に買ってしまいました。
ウインドウズ95が出た前でした。
自宅で暮らすようになると皆さんとおしゃべりができなくなり、母が要介護に入りつつあるころで、世話をするために家にいなければならず、パソコンがあればネットでおしゃべりが出来ると言うことを読んで買ったんです。(60歳頃)
テキストもなく、パソコン教室もなく、モデムも自分が買ってきてセットアップも自分でしました。
まず自分が必要なことだけを勉強しました。
本を読んだり、メーカーの人にも聞きました。
まず設定で大変な思いをしました。
判らない言葉も沢山あって、後に自分でパソコンの本を書いたときに用語辞典も作ってみましたが、日本語に表現するのも余ほど才能がないと無理だと判りました。
プロパティー、ウィザードなど日本語でとなるとますます判らなくなる。
15年前からパソコンの本を書きました。

ウオークマンは音楽を持って歩ける、コンピューターが身近になり面白く感じました。
今はスマートフォンでも画面が綺麗になり、グレードアップしないといけないと思って一生懸命勉強しています。
昭和10年東京で生まれて、学童疎開した最小年でした。
銀行に入社しましたが算盤の時代でした。
定年のころにはコンピューターが導入されまして、商品企画とかに銀行も力を入れ始めて私の出番もすこし増えて来ました。
両親のもとで兄弟3人で育ちました。
母を見送りましたが、母は100歳で亡くなりました。
外と繋がりたいとの思いもあり、パソコンを習得する大きな動機にもなりました。
メロウクラブに入ってパソコンの使い方、言葉使い、人生についても色々教わりました。
メロウクラブは今はインターネット上で展開している老人クラブです。(以前はパソコン通信) 会員は300人ぐらいです。
俳句、川柳の例会とか、話し合うとかのコーナーもあります。

インターネットに繋がっているかどうかでその人の人生観まで変わって来ると思います。
ネットで世界中と繋がっていて、世界中の動きが把握できるし自分も情報発信もできる。
フェースブックでも沢山写真をアップロードしています。
返信で色んな方の反応も感じることが出来ます
海外にも毎年行っています、ヨーロッパなど50カ国に行っています。
海外から例えばイタリア語で投稿があって、翻訳ソフトがあるので、受けたものの返事もしています。
同年齢の方と一緒に楽しんでるような形でパソコン教室をやっています。
3~4人で、週に一回ぐらいでやっています。
エクセルでセルに色を付けたり罫線の形を変えたり色を変えたりして、絵になるんです。
図案を作ってブックカバーにしたり、色々作ったりしました。(10年以上前から)
立体化ソフトもあり、自分の作った図案を立体化して楽しんだりしています。
「エクセルアート 展示館」で出てくると思います。
プログラミングの基礎からやってみたいと思っています。
将来何か伝統文化に根付いた新しいアプリが作れれば良いなあと思っています。
源泉は好奇心だと思います。

政府の「人生100年時代構想会議」の有識者委員の13人の一人に選ばれる。
人生100年時代に向けて、教育、福利厚生など、設計図を書き変えないといけなくなって、どんな風なかたちで作り上げていったらいいかを多方面から考える。
教育はかなり大きな問題として取り上げらているが。高齢者にたいする何らかの再教育が必要だと思っています。
科学技術が進歩しているので、それにふさわしい再教育が必要だと思っています。
これからは長く働かなくてはいけないのでICT(Information and Communication Technology)の知識がないと厳しいと思います。
これからの時代は人工知脳の時代になってしまうので、これからどういう人が生きのこれるのか、人間の脳と人工知脳とのガチンコ勝負になると思うので、これからの子供さんは人間力を養うのが大事だと思います。
人間でしかわからない様な事を大事にしていかなければいけない様な気がします。
創造する楽しみは当分主役は人間だと思います。


















2017年11月2日木曜日

望月絹(江戸屋旅館27代目女将)      ・南アルプス 麓の一軒宿

望月絹(江戸屋旅館27代目女将)      ・南アルプス 麓の一軒宿
山梨県早川町赤沢に江戸時代の面影を今に伝える一軒の宿屋があります。
宿を切り盛りするのは江戸屋旅館27代目女将、望月さん(93歳の現役女将)。
鎌倉時代日蓮が開いた日蓮宗の総本山身延山九遠寺と、その信仰の山七面山を結ぶ参詣道の宿では昭和の中頃まで6軒の宿が軒を並べ険しい山中の参詣道を行く旅人の宿としてにぎわっていました。
赤沢の集落は国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されていますが、現在営業している宿屋は望月さんの旅館一軒になりました。
宿場町の伝統を守り、信仰の旅人を温かく迎え道中の糧となるおにぎりを提供し続けてきた宿の女将望月さんに伺いました。

50町行くと七面山 今から紅葉になるので綺麗です。
家の前にイチイの木があり赤い実がなります、200年近い木だと思います。
お客さんは信仰のお客さんです。
白装束で「南無妙法連華経」とたいこを叩いているお客さんもいます。
今は観光客がバスで往復していてここは関係ないですが、昔はここを通らないといけなかったですが。
100人泊ったこともありますが、今は古いからそんなにお泊めできません。
おにぎりは500人、登りに500人、下りに500人です。
150gぐらいで団体によってこぶ、梅干しなどを入れたりします。
おにぎりも熱いうちに握らないといけないので手を真っ赤にしてやっています。
7時には弁当を持って上がります。
11時ごろには戻って来ます。
外人さんもいます。

小学校にあがるころは白装束のお客さんで一杯でした。
遅くなると懐中電灯はなくて提灯を持っていました。
「しょいこ」が荷物、食糧をしょったり、石油までしょって行きました。
おんぶしたり、かごを担いだりして、生計を立てている人たちがいました。
電気は子供のころは入っていましたが、ランプのところもありました。
薪ではいっぺんに燃え付かないので、へっついに杉っ葉、もやをくべて、薪をくべてはじめて燃えて、ご飯も薪、お風呂も薪でした。
山から呼んである水を我家まで来て、他の5軒のでは自分の家まで水を担いで、自分の家のかめに一杯にして柄杓で使うんです。
昭和22年に結婚しました。
子供が大勢いる時代で当時の子供達は奉公にいったりしていました。
小麦がとれてほうとうと言って野菜を一杯入れてうどんを食べました。
豚肉、牛肉などは食べられませんでした。

戦時中はいろいろ怖い目に逢いました。
この辺には爆弾が7つ落とされました。(20年3月)
戦時中はお客さんも自分を守るのが大変でお客さんはきませんでした。
さつまいもを作っても供出で、供出、供出で大変でした。
江戸屋は長男が継いで、次男は家を建てて貰って新屋で、私の家は江戸屋の新屋なんです。
そうして江戸屋の地類が5軒あります、皆望月です。
ですから私は新屋から本家に嫁ぎました。(17歳で許嫁になりました)
夫になる人は戦地に行っていて昭和21年に戦地から帰って来て、22年に結婚しました。
戦後ぼつぼつお客さんが来るようになりました。
男3人、女1人 4人生んでいるので大変でした、食料も無かった時代でしたので。
トイレの肥え桶を担いで、人を頼んで男も女も畑にまいていました、
お客さんと村の言葉は使い分けていました。

お客さんも来る時は白装束ですが帰る時はスーツに着替えて、来る時と帰る時では段違いです。
身体も元気なのでこの歳までおにぎりを握ることができます。
身体が続く限りは元気に頑張りたいと思います。




























2017年11月1日水曜日

小島秀康(国立極地研究所名誉教授)    ・隕石からのメッセージ

小島秀康(国立極地研究所名誉教授) ・隕石からのメッセージ
南極大陸や北極圏の観測研究を行う国立極地研究所で長年隕石の調査研究を続けて来ました。
隕石は世界中で見つかりますが、これまで最もたくさん発見されている場所は南極大陸です。
現在までに確認されている隕石のおよそ70%を占めると言うことです。
小島さんは日本に隕石の研究者が少なかった1970年代から研究を始め、南極観測隊にも5回参加して一度は隊長も務めました。
南極ではその都度多くの隕石を発見して、世界でもっとも多く隕石を見てきた研究者の一人と言われています。
現在も隕石とかかわりを持ち続けている小島さんに伺いました。

2013年2月にロシアのチェリャビンスク州付近に落ちた隕石、間違いなく隕石だと思いました。
隕石自体は古い、地球が出来た時と同じ頃に出来て、特徴としては地球の空気を通り抜けてくるので溶けた跡が残っているので、それがあれば隕石と判ります。
大きさは小さいものから大きいものまであります。
小惑星帯(火星と木星の間に有る)所からくると言われているが、そのほかに月、火星、彗星からもきます。
宇宙が出来たのが138億年前と言われているが、太陽系は46億年、1サイクル、2サイクルぐらいたちます。
地球にある石は40億年位です。
プレートテクトニクスで地球の内部に引き戻されて、溶けてしまうので溶けてリセットされてしまう。
地球の年齢も46億歳 宇宙から来た隕石によって判りました。
隕石がどういう鉱物で出来ているかなど興味の対象によって色々変わって来ると思います。

小惑星帯は隕石のもとになる天体が沢山分布しています。
ぶつかって弾き飛ばされて、飛び出したのが隕石です。
最終的には太陽に落ちて行ってしまいます。
太陽は引力が強いのでものを全部引き集めます。
太陽に落ちる一部分がやって来たのが地球と言うことになります。
月、火星、彗星からもきます。
日本の南極観測隊は1万8000個隕石を集めていますが、月は10個程度火星も同様です。
落ちてきたのは2000年から数万年前に落ちたと言われています。
46億年の姿をとどめているのは隕石しかなくて、地球の古いことを知ろうと思うと隕石を調べるしか手がないです。
隕石は遠い過去からの手紙だと思っています。

長野で生まれて子供のころは川の石を集めていました。
石の美しさに魅かれました、犀川のヒスイとか。
球顆流紋岩 (青みがかった黒い球形状)の特殊なものがたくさん見つかりました。(小学校高学年)
中学の時はバレーボール、高校は地学をやっていました。
北大を目指したが、大学は秋田大学でした。
鉱山学部が有名でした。
先生が純粋な岩石学者でした。
どういう鉱物で出来ているか、1~3ミクロンでも組成が全部判る様な分析装置があり、それを使って花崗岩、変成岩を作り出している鉱物を分析をしていました。
出来た時の温度条件などが判ります。
隕石と出会ったのは南極に行ったときで、1978年に初めて南極に行きました。
大学院を出てすぐの時でした。

地学のリーダーだった人が極地研の人だったので、先輩だったのが縁でした。
第20次越冬隊に参加、越冬隊が3回、第39次(1997年から)第44次(2002年から)、夏隊が2回 第27次(1985年から)、第51次(2009年から)5回参加。
第44次越冬隊隊長も務める。
最初行ったの時の印象がすごく強かった。
音のない世界、風の音しかなくて、風の音がないと音のない世界でした。
南極観測隊はそれぞれのプロが行っているので、半分は研究者、それを支える立場の人で、凄いと思いました。
昭和基地から300kmのところに行く機会があり、隕石が見つかるだろうという期待があり、トータルで3000個を超える隕石が見つかり、月の隕石も見つかりました。
気候のメカニズム、まわりが氷、雪なので岩石質のものが判りやすい、それが南極で多く見つかる要因だと思います。
隕石がある氷の層が動いて行って、ぶつかる山、山脈のある地形でないと見つかりにくい。(当時の情報量はすくなかった)

氷は蒸発して隕石だけが残る。
一サイクルで80万年とかかかります。
南極は宇宙空間に開かれた窓といった感じです。
越冬しないと隕石を探す様な状況は生まれなかった。(探すのは夏場)
私の隊では1万8000個のうち半分ぐらいは見つけ出しています。
大和山脈まで2週間かかります、調査期間を入れて3~4カ月かかります。
他にはアメリカなどが主体になってやっています。
分類、整理、保管をしますが地味で根気が要ります。
一個一個重さを測り、見栄えの良し悪しなどを調べます。
ざっと60種類に分けられます。
炭素質隕石(溶けて居ない隕石 有機物を含まない様な隕石数百個に一個ぐらい)に特に興味があります。
一個一個は宇宙全体を表している駒と言うふうに考えることが出来るので駒が有ればある程画像が鮮明になるので、隕石はたくさん集めたほうがいいと思います。
今は情報を集めるために極地研にいっていると言った方がいいかもしれないが、本当はもう一回南極に行きたいが。
一般の人に隕石をもっと知ってもらいたいと思います。