2015年9月22日火曜日

寺澤 徹(元マラソンランナー)   ・失速から復活へ、わがマラソン人生

寺澤 徹(元マラソンランナー)   ・失速から復活へ、わがマラソン人生
昭和10年東京生まれ、戦時中に富山県の高岡市に疎開しました。
高校卒業後、地元の自動車販売店に就職し、陸上長距離で活躍しました。
1959年24歳の時に大手企業の富山工場に移り本格的にマラソンを始めました。
主要なマラソン大会で好成績を上げ、1962年12月の朝日国際マラソンでは日本最高記録で初優勝、翌年1963年の別府大分毎日マラソンではエチオピアのアベベの世界記録を上回る2時間15分15秒8で優勝しました。
この頃ベルリンオリンピックで活躍した、村社講平さんがコーチとして指導しました。
これらの実績を元に、寺澤さんは1964年の東京オリンピックのマラソン競技に出場しました。
しかし、後半失速し2時間23分9秒で15位に終わりました。
失意の寺澤さんは一時は引退も考えましたが、その年12月の朝日国際マラソンに挑戦、日本最高記録で優勝しました。
寺澤さんはその後も大きな大会で、優勝を重ね自分の生涯最高記録も出しています。
コーチ監督兼任でも走り、市民ランナーとしても走り続けました。

健康のためのランニングを毎朝5時に起きて、1時間弱走っています。
体調はずーっといいです。
体重は若い時とほとんど変わっていません。(80歳 54.5kg 若い時は54kg)
年に一回ロードレースに14,5年参加しています。
父親の仕事の関係で、高岡市に疎開となったようです。
小学校低学年の時は身体が弱かったが、高岡は私の体に合っていた様で、高学年になると元気になりました。
全国高校駅伝の富山県予選でチームを作る事になり、陸上部ではなかったが、そのメンバーに入って一緒に1カ月ぐらい練習をしたが、何日かしたら陸上の選手よりも強かったので、県大会は一番長い距離を走ったが6位で、全国大会には行けなかったが、長い距離を走れるのかなとの思いがあり、2年の時に陸上部に入りました。
高校時代は1500m、卒業後5000mに挑戦、3年後に国体で6位に入賞する事ができた。
日本一になろうとの思いで練習をしたが駄目で、1万mで駄目で、20kmで駄目で、24歳で転職を機会にフルマラソンに挑戦する事になる。
昭和35年福井マラソン (25歳)に挑戦したら、3位に入った。(2時間34分24秒)
マラソンは走っている途中は苦しかったが、楽だなあと思った。

昭和36年 2回目が別府毎日マラソンで3位に入りました。(2時間27分14秒)
走るスタイルは後半型だったが、優勝するためにはこれではだめなので、前半も頑張ろうと翌年別府で挑戦したが、後半へばって駄目だった。(5位 2時間27分5秒)
1962年夏、ニュージーランド遠征 5名2カ月間指導を受けに行く事になる。
その年の冬 朝日国際マラソンで初優勝する。(2時間16分18秒4  当時の日本最高記録となる)
1963年 別府毎日マラソンでエチオピアのアベベの世界記録を上回る2時間15分15秒8で優勝しました。(0秒4 アベベを上回る事ができた。 アベベは当時この世界では神様の様な存在だった)
37kmぐらいの時にアベベのタイムに勝てるぞとのコーチからの掛け声を聞いて、両足に豆ができていたが、足の痛いのを我慢して頑張ったので世界記録につながったと思う。
円谷、君原選手とともに東京オリンピックの代表に選ばれる。 
日本も後半型から前半型に移行する中途の時期だった。

東京オリンピックは1964年10月21日に36カ国の68選手が参加、当日の私の体調は良かったと思います。
うまくいけば3位に入れると思ってスタートしたが、後半失速して、7,8分悪い、2時間23分9秒
15位になってしまった。
苦しかったがなんとか完走しようと思って、ゴールでは頑張って完走してよかったと思った。
タイムの悪い原因は何かは判らなかった。
最初の5kmの入りが15分38秒だった、今までの世界記録の時等は16分15秒ぐらいだった。
ちょっと早いかなあとの思いがあり、16分10秒ぐらいにして走った。
20kmの時点で世界記録の時より早かった、これから行こうと思ったが25km過ぎてから足が重くなって、30kmから18分台になり、失速してしまったが、最初の入りが早かったので、ペースを遅くしたが、それぐらいしか思い当たる事はなかった。
円谷選手が銅メダル、君原選手が8位だった。(君原選手も失速)
それまでオリンピックの日本陸上は惨敗だったので、マラソンに対する期待感があり自分たちも頑張らねばという様なプレッシャーはあったと思います、精神面でまだ
弱かったと思います。

マラソンは止めようかなという思いはありました。
年齢も29歳で限界かなあとの思いもありましたが、朝日国際マラソンに出て、2時間20分切れなかったら諦めようとの思いで出ることに決めて、30日間ぐらいしか時間がなかったが練習をして、参加し優勝する。(2時間14分48秒 日本最高記録)
行けると言う思いが出てきて、続けていった結果が別府マラソンで3連勝4連勝と続けて連勝できたと思う。
オリンピックで惨敗したことが、もう一回挑戦する事になり、そのあとずーっと競技生活、競技年齢も何年も続けてこられ、負け惜しみではないですが、負けて良かったのかなあと思います
1965年 30歳で生涯最高記録を出す。(2時間13分41秒)
1969年 34歳 最後の優勝を果たす。

監督、市民ランナーとして一般の人と走る機会も出来て、話ができたり色々良かったと思います。
東京オリンピックで辞めていたら、監督になったり、市民ランナーとして走る事もなく、続けて良かったなあと思います。
富山マラソンが11月にあり、5kmの部に参加させてもらうことになり、楽しみながら走りたいと思います。
マラソンは孤独で自分で頑張らなければいけない助けてくれる人はいないが、人生は自分だけでやってもたかが知れていて、いろんな人に助けてもらいながら、自分で研さんして成長していかなければいけない、マラソンをやっていたおかげで沢山の人と知り合いになり、相談を受けとめてくれる人がいるので、本当によかったなあと思います。