2015年9月9日水曜日

若林尚司(童謡研究家)       ・世界に誇れる童謡を歌いつなごう

若林尚司(童謡研究家)       ・世界に誇れる童謡を歌いつなごう
「小さな木の実」昭和46年 TV「みんなの歌」で大庭照子さんが歌って大ヒット この曲をプロュースしたのがNHKで皆の歌を担当し、現在は童謡研究家の若林さん、83歳、当時増えてきた交通遺児を励まそうとした曲だそうです。

昭和44年「みんなの歌」を担当、歌が好きだったので担当できたのが嬉しかった。
家庭で歌える歌をという事で「みんなの歌」が昭和36年にできた番組。(小学校中学年~中学生)
「おお牧場は緑」、「線路はつづくよどこまでも」・・・等々
酒を飲んでいて、流しが来てザ・ピーナッツの「情熱の花」を頼んだら、これは「エリーゼのために」じゃないかという事で、クラシックのいい曲を探して作れば、自分でもできるのではないかというのがきっかけだった。
先生に相談したら出尽くしているとの事だったが、ビゼー「カルメン」 「美しきパースの娘」のセレナードのメロディーが良くて、これに詩を付けることにして、「世界の音楽」の構成をしている海野弘さんに依頼した。
少年を主人公にしてもらいたいと の要望をして、できたのが「小さな木の実」でした。
彼は40歳過ぎて子供ができたので、自分の願いも込めて、長男のために「草原の足跡」を書いたが、それに言葉を変え「小さな木の実」ができた。

大庭さんはシャンソンコンクールで入賞したこともあり、NHKの歌謡オーディションも受かっていて、これに受かっていないとどんなに有名な歌手でも歌謡番組に出られない。(美空ひばりは受けていなかったので其れを楯にしたそうだ)
4月、5月の毎週土曜日に放送される事になるが、昭和46年の4月、5月でベストワンだった。
最近までこれだけ再放送されたものは、ないのではないか。
唱歌 歌もない先生もいない 井沢修二がアメリカのボストンに行って、4年間留学して帰ってきて、彼が中心になって唱歌作りが始まった。
最初に「ちょうちょ」(スペイン民謡)、「むすんでひらいて」(ジャン=ジャック・ルソーが書いた「見渡せば」という歌)、「ほたるの光」(スコットランド民謡)の3曲で、最初は全部輸入だった。
大正ロマンチズムの時代、唱歌は歌でもって子供の心をマインドコントロールしようとしているのではないかと、鈴木三重吉文学者が怒って、赤い鳥運動が始まる。
唱歌は北原白秋、与謝野晶子とかの一流文学者に頼んで作ってもらうべきであると言う事になる。
発行したのが「赤い鳥」という教育雑誌で夏目漱石がその名前を付けたといわれる。

童謡という言葉は語源は中国での言葉で「ざれ歌」、日本では大正7年に「赤い鳥」運動で童謡ができる。
東西の一流文学者が童話、童謡を作った。
北原白秋が中心になって行った。
「歌を忘れたカナリヤ」(大正7年 西条八十) 「金の舟」「少年号」「少女号」「童話」といった「赤い鳥」に類似の教育教養雑誌がどっとでる。
童謡が日本独特のものなのだと言われるようになってくる。
三木露風、野口雨情、清水かつらなどが出てきて、「叱られて」「靴が鳴る」等の名曲ができる。
1992年定年退職していたら、大庭さんが来て「小さな木の実」を携えて3000校を回っていると言う事で、唱歌として取り上げられていて、皆知っているという状況で、彼女はもう一度「赤い鳥運動」をしようという事で、手伝いをしてほしいと言われて、1995年にやりました。
ジュニア短歌を使ってやったらどうかという事で、素朴な歌ができた。(作曲はトップレベルの人に依頼した 審査は子供達が行った)
これを童謡として10曲作った。

童謡は大正時代に花が開いたがレコード等手が届くところになかったが、第一次世界大戦後、科学産業が民間に転用されてレコーディングが格段に安くなって大量生産ができるようになって、音質が良くなって、昭和と同時ぐらいに大量生産されてレコードが庶民のものになり、NHKのラジオ放送がはじまって、童謡、唱歌にとってみては爆発的な浸透力になった。(直接家庭に届く ラジオとともに広がった)
曲が定期的にできてくれないといけない様な形態になる。
遊戯唱歌をレコードにしたら凄く売れて、振付するが、そのうちに振り付け師に合う様な童謡ができるようになる。(本末転倒)
昭和12年4月から国民歌謡ができて、「椰子の実」(島崎藤村)ができる。 歌、東海林太郎
昭和16年 国民歌謡から「めんこい仔馬」等ができるが、段々軍の干渉が起きてくる。
昭和18年 川田正子さん 関東児童唱歌コンクールで「兵隊さんの汽車」でいきなり優勝する。
戦争が烈しくなると疎開とかで歌手がいなくなってきて、川田正子さんが毎日出る様になる。

復員船が入ってくると言う事で「引き上げ同胞激励の午後」という特集番組を作って、新しい歌を作ってほしいと言う事で「里の秋」を作って川田正子さんが歌う、これが感動した。
その後何十人と言う歌手が乱立した。
「とんがり帽子」「雪の降る街」など・・・・ラジオドラマの主題歌などができる様になる。
ラジオ歌謡ができて、「森の水車」「山小屋のともしび」「アザミの歌」「桜貝の歌」・・・・・名歌が生まれる。