溝口重夫 ・残された「空襲警報」~録音盤は語る(2)
兄弟とともに昭和14年~20年までのラジオ放送を自宅で録音してきました。
放送局にも残っていなっかった貴重な録音の数々は2013年にNHKアーカイブスに登録されました。
そこには歌、実況放送、大本営発表、空襲の際の情報等、日本が戦争へと突き進んでゆく時代などのラジオ放送等がおさめられていました。
録音機が一般家庭にない時代、どの様にしてこれらのラジオの音が残されたのか、熊本市にお住まいの溝口さん83歳に伺いました。
「東部軍情報、敵の編隊11機は14時10分潮岬に到達し、北に進んでいます。
その先頭が阪神方面に進むものとすれば、14時20分ごろ、名古屋方面に向かうものとすれば、14時25分ごろ到達するものと思われます。」
昭和20年2月4日の神戸空襲の時のラジオの防空警報。
潮岬に来る前の警戒警報も出ているが、録音できなかった。
「空軍情報、敵の編隊は神戸の明石方面に向かいつつあます」(神戸の東郊外で録音していた)
交代で物見台に上がって見たりした。
それまでは軍事工場狙いだったが、住宅が燃えていた。
11インチレコードがあり、その素材がアルマイトに録音していた。
ラジオを直接録音するダイヤモンド針で録音するカッターがあった。
録音カッターはアメリカから輸入されて(コロンビア)、そのヘッドをラジオ装置の内部に接続して、それを大阪の林田電気屋がやってくれた、特注品です。
父親が当時、フィルム撮影機を持っていてそこに音を入れて、工場のPR用のフィルムを作ろうとしていた。(父親は大きな軍需工場を経営していたので)
国民歌謡 1939年(昭和14年)3月1日放送 国民歌謡 「朝」 島崎藤村作詩
スポーツ実況 1939年(昭和14年)3月16日 大阪場所 相撲の実況 69連勝してその後双葉山が連敗して、そのあとの3月場所の9日目 双葉山×鹿嶌洋(前の6日目に双葉山が破れた)の仕切りの状況(3分しか片面録音できない。)
純一郎?(一番上の兄が)が主に録音していた。
日本号の実況 毎日新聞社が民間航空機として初めて4つの大陸を回って帰ってくると言うイベントで出発と帰還の実況(帰還の実況 昭和14年10月20日)
昭和15年1月 大阪天満宮の初天神の録音
昭和16年12月8日 アメリカとの戦争に突入するが、昭和16年12月10日大本営発表「マレー沖海戦の戦果」 (イギリス艦隊を撃沈した状況を発表)
この4日後に東条英機がマイクロフォンの前に立つ。(戦争にいたる状況を説明)昭和16年12月14日
その時は私は小学校4年生で、当時子供達の間では戦争よりも相撲の方に興味があった。
中学になり勤労工員として働く。(0戦のエンジンを冷やす部品の加工)
隣りの建物に爆弾が落ち、何人も死んだ。
昭和17年兄が兵隊にとられてゆき、暫く録音をしていなかったが、次兄(孝)が東京に務めていたが母が死んで戻ってきて、次兄と私で録音の再開をした。
記録として残しておこうと思った。
昭和20年2月18日夜、米軍機1機が飛来した時の中部軍の警報、防空情報が収録されていて、これがアルマイト盤に残された最後の記録となる。
「中部軍情報 今夜は天候の関係上、敵機の行動の判定は極めて困難であり、又めくら爆撃の恐れがありますから、一般に敵機の爆音に注意し、退避は迅速かつ確実にやって下さい。
ただ今のところ後に続く敵機はありません。」
「中部軍情報、今夜は雨が降っておりますが、高度の高い敵機は雨には少しも関係なく行動しますから、油断は禁物であります。」
「中部軍情報 敵一機は愛媛県に侵入し、松山方面に向かっている様でであります。」
・・・
「中部軍情報、敵機は方向を変えて東に向かい、瀬戸内海に出るものと思われます。」
・・・
この後、近畿地方に警戒警報を発令、しかし米軍機一機は徳島、和歌山、大阪上空を悠々と飛行し、中部軍の防空情報がそれを後追いするという状況が録音盤に収められています。
(敵機1機の後追いの情報がいくつも放送される。)
その後アルマイトの録音盤が入手出来なく無くなり、録音ができなくなる。
父は軍事工場を子供に継がせる気持ちは全然なかった。
純一郎?(兄)は戦死する。(昭和19年12月)
出征するときに「俺ほんま行きとうないねん」と、私にポツンと言って行った。
吃驚して人に言ったら偉いことになると思った。
兄は早稲田大学での卒業論文を録音していたが、残念だがついに見つけられなかった。