片桐和子(74歳) | |||||||||||
片桐正吾 | |||||||||||
インドで悲惨な状況をみて、子供に憩いの村(3万6000平米)を建設 親の無い子、貧しい子 救済 | |||||||||||
2003年から活動 生活から学問まで 宗教自由 基礎教育ほか図書館、診療所建設 | |||||||||||
子供(0~18歳)130人 スタッフ30人で活動 若い母親が赤ん坊を置いてゆく→保護 | |||||||||||
13年前 夫婦2人でインドに旅行する→駅のホームで子供たちが寝ていて、 暗い中踏みつけてしまった →何とか助けたい思い生じる |
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1997年3月60歳の時 事務所 荒廃した学校サポート、海外支援 | |||||||||||
現地協力者 ローズ夫妻 (50歳) 憩いの村の面倒をメインで見てくれる 子供の職業訓練、教育とか片桐夫妻と考えが一致 |
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東日本大震災の時直ぐにインドからメッセージが来る | |||||||||||
資金援助が大変 正吾氏は資金調達の為、夜勤労働等行い350万円/年稼ぎ 調達している | |||||||||||
学校建設の話があり、600万円の協力者が出る | |||||||||||
通訳、パソコン操作、等々の協力者も現れてくる | |||||||||||
夫が企業、へ協力要請→駄目 友人、知人に要請→駄目 結局自分で資金調達の道を選び夜まで働く |
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夢は持ち続けなくてはいけない | |||||||||||
1945年8月15日 8歳 父は軍人で帰ってきたが右腕切断→畑を借りて農作業をする | |||||||||||
母曰く 教育が一番大事 教師になることを決意する |
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インドは貧しいけれど雄大な自然がある カースト制度 貧しさは厳しい状況 | |||||||||||
3月11日の大震災で寄付がほとんどゼロになる あと3年何とか救済の事業を進めたい 内容として 水洗トイレ、現地の先生の給与等の援助が必要 |
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インドの子供を見捨てることはできない | |||||||||||
上野駅基金について 6000円の給料の時 5000円 上野駅に送る(29歳の時)→助け合い基金 新聞に掲載 |
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インドプロジェクトへの応援資金が集まる | |||||||||||
スタディーツアー(3~4年実施)・・・若い人を連れてゆきたい→ 国際的視野に立った人間が育つので はないか |
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日本=インドの繋がり深くなってほしい 交流を深める環境を整えたい |
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正吾氏は小さい頃に母を亡くし、それがショックで父がなくなり片桐家に貰われる→いじめっ子に 会う→虐められないためにはどうしたらよいか、考える |
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運動で勝つ→100m、200m、走り幅跳び、走り高跳び、砲丸投げの5種競技で校内新記録を 打ち立てる(今でも破られない)→虐めがぴたりとやむ |
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スポーツの大切さを感じる→インドの学校にグラウンドをつくりたい→子供たちに対してオリンピック選手誕生 の夢がある |
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働く・・・はたの人を楽にさせる 思い続ければ夢はきっと叶う | |||||||||||
余生・・・余生はない・・・人生に余りはない | |||||||||||
人様をちょっとだけ思う気持ちを持つ | |||||||||||
動いている水は腐らない・・・始めなければ始まらない 一歩が二歩、二歩が三歩・・・ | |||||||||||
今の為に生きる | |||||||||||
親のない子でも素晴らしい夢を持っている→夢をかなえさせてあげたい |