畠山健二(作家) ・江戸下町の笑いと人情
1957年昭和32年東京生まれ 子供のころから漫才や落語が大好きで将来、お笑いの世界に進みたいと考えてました。
家業の町工場の経理を担当しながらも、頭から離れなかったのは漫才や落語のことでした。
或るときお酒の席で知り合った漫才師と話が弾み、漫才の台本を書く事になります。
それがきっかけで畠山さん作、演出の漫才が第3回NHK漫才コンクール最優秀作品に選ばれたのです。
2012年には「スプラッシュマンション」で小説家としてデビューします。
コラムニストとして下町の掟や落語歳時記など新聞や雑誌にも、連載コラムを書いています。
現在は江戸下町を舞台に「本所おけら長屋シリーズ」で心の豊かさをテーマに江戸下町の笑いと人情を書いています。
下町には笑いと人情がある、このよき伝統を残したい、作品の素材は自分の体験からという畠山
さんに伺いました。
自分の名前を書いた袢纏を着て出かける事もあります。
昔ラジオをやっていた時もあり、リスナーから声が良いと言われてました。
小説家としてデビューしたのは50歳を過ぎてからで、その前は演芸、(漫才、コント、新作落語)の台本を書く仕事をしていました。
子供のころから演芸番組などが好きだった。
昭和 60年飲み屋に行ったらマスターがいて、以前ちょっと売れた漫才師だった。
漫才ブームだったが、関西の漫才だった。
東京の漫才に憤慨したが、ネタが悪い、俺が書いた方がもうちょっとまともな台本が書けると言ったら、書いてみろと言われて、当時売れていない漫才師を紹介してもらい、台本書いて演出もさせてもらって、半年たって、NHK漫才コンクールの予選に出てもらい、本選にも出て、最優秀賞を取ってしまった。
この台本はだれが書いたんだという事になり、NHKから仕事を貰う事になったり、芸人さんから台本を書いてほしいという事になり、知らないうちにお笑い作家になってしまった。
チャンスを如何に活かせるかということは大きかったと思う。
2012年には「スプラッシュマンション」で小説家としてデビューします。
スプラッシュ=水、泥を撥ねる マンションは長屋でもある。
人間関係も希薄になってきて、昔の長屋とマンションがどう存在していけばいいのかが、ひとつのテーマになっています。
「本所おけら長屋シリーズ」も5卷になっている。
お笑いの台本を書いていた、落語に精通していた、下町に暮らしていたので、落語と人情を巧く小説と融合できないかと思った。
現代では難しいと思って江戸時代の設定で、人情、笑いに入り込みやすいと思ったら、意外と好評で5卷まで来ました。
山本周五郎さんの雰囲気があるなあと、言われます。
私の場合は長屋に特化しています。
落語というのを可なりモチーフにしている。
落語は駄目な人を排除しない、否定しない。
「本所おけら長屋シリーズ」もそういう人たちがたくさん出て来るが、人間って、皆がそういう面を心の中に持っている。
長屋の人達が持っている雰囲気というものを現代の人が読んでも、安心できたりするのかなあと思います。
落語が持っている力だと思います。
長屋の人達がそれぞれみんなが役に立つポジションをなんか持っている。
10歳から40年は本所で暮らしてきて、本所にはこだわりがあります。
関東大震災、戦争の時の空襲で可なり破壊されて、昔から江戸に住んでいた人が住んでいるというのは、この二つの出来事によって意外となくなってしまって、江戸時代に出てくるべらんめえ言葉は子供のころから聞いてはいないし、そういう文化が無くなってしまったのは残念です。
受け継がれてきた伝統、日本の素晴らしいところは四季があること、行事のほとんどは季節をイメージさせる。
それに見合う恰好をしたがる。
江戸っ子の人間が一番人様に言われて喜ぶ言葉は「粋だね」と言われる言葉、「野暮」ということは江戸っ子にとっては万死に値する言葉なんです。
粋 は垢ぬけていてちょっとした遊びに精通している人。
ほうずき市に行くときに浴衣の着こなし、柄、帯も合っていて、歩いていると、近所のおばさんに「ちょいと粋だね」と言われるのが下町の人が一番喜ぶ言葉なんです。
浴衣を着なれていない人が着ると、なんかおかしい、粋な人には見えない。
「かたや」 という遊び、鋳物の型が付いているものに粘土を押しこんで、粘土をはがして型を取ったら金粉を塗っていくというのがあって、でき上ったものをおじさんが点数を付けてくれる。
100点溜まると、大きな型を貰える、それがほしいのでそこに通って、一生懸命に頑張る。
80~90点溜まってくるとそのおじさんが忽然と姿を消す。
又半年すると別のおじさんが来て、そんなの前の人だから知らないと言われて、下町の子供はそういう事で世の中の仕組みを知ってゆく。
下町で身上(しんしょう)を潰したというおじさんが近所で登場すると、株で失敗して身上(しんしょう)を潰したというのは粋でも何でもないが、向島の料亭に通いつめてかっぽれ道場に通って一財産無くすというと、みんな粋だねと言う事になる。
芸者さんに三味線を弾いてもらって、かっぽれを踊るとか、都々逸をその場で作って歌う。
落語 登場人物で粋な都々逸を言う場面があるが、「餓鬼のころから いろはをならい はの字忘れて 色ばかり」とか
下町の人は粋な遊びをしたいというのはある。
子供のころから粋な職業に就きたかった。(鳶の頭、芸人、太鼓持ちなど)
落語が好きだったので、三遊亭竜楽(先代の圓楽の弟子)師匠に習って「がまのあぶら」をやった時の緊張感はもの凄かった。(あまり緊張するタイプではなかったが)
もう二度とやらなかった。
「本所おけら長屋シリーズ」は古典落語が物凄く役立ちました。
日常の生活の中で起こる様々なことをどうやって解決していくかがテーマなので、落語をモチーフにしたものが物凄く多い。
「男はつらいよ」は落語をモチーフにしていると思う。
落語のテーマは人間が普通に生活してゆく、仕事、酒、ばくち、親子、夫婦等がベースになっているのでそれを聞いて判らない人はいないと思う。
聞いている人がそれぞれにその場面等を想像してその話をそれぞれに聞いてゆく。
「本所おけら長屋シリーズ」 1冊の本を寄席だという風に設定している、最後は大ネタにしている。
わたしの武器は笑いである、時代小説は色々あるが、ここまで笑いに拘った小説は無いと思う。
笑いは泣かすのにも効果的です。
漫才を書いていたこともあり、この本は人と人との会話が多い、その方が人情感があると思う。
裏テーマとしては心の豊かさとは何か、というのを、正直にいって答えられないが、読んだ方がこういう事が心の豊かさなのかなと、その人なりに判ってくれればいいかなと、思います。
良い事ばかりでなく、むしろ悪いことも日常生活では多いかもしれないが、ちゃんと笑ってちゃんと泣いて、良い朝を迎えられれば、本当の心の豊かさなのかなあと思います。
この本は人間讃歌ですねと、手紙をいただきましたが、本当に嬉しかったです、涙が出ました。
2015年12月31日木曜日
2015年12月30日水曜日
寺澤 徹(元マラソンランナー) ・失速から復活へ、わがマラソン人生(H27/09/22放送)
寺澤 徹(元マラソンランナー) ・失速から復活へ、わがマラソン人生(H27/09/22放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/09/blog-post_22.htmlをご覧ください。
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2015年12月29日火曜日
梅津貴昶(梅津流家元) ・私の芸に完成はない(H27/9/16放送)
梅津貴昶(梅津流家元) ・私の芸に完成はない(H27/9/16放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/09/blog-post_16.htmlをご覧ください。
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2015年12月27日日曜日
篠崎永育(バイオリン教室主宰) ・バイオリンの楽しさを子どもたちに
篠崎永育(バイオリン教室主宰) ・バイオリンの楽しさを子どもたちに
来年バイオリン教育60周年を迎えます。
8歳の時に父親からバイオリンの手ほどきを受けて、その後長野県松本市のバイオリンの才能教育で有名な鈴木鎮一さんに師事しました。
楽器を通じて人の精神を豊にするという教育方針に共鳴した篠崎さんは、松本の地で9年間バイオリン教育を学び、その後北九州市に戻ってバイオリン教室を立ち上げました。
教育のモットーは子供達の自主性を延ばすこと、これまでの教え子は1000人にも及び、自分の息子にも自由にヨーロッパで音楽の勉強をするように指導してきました。
その息子さんというのが篠崎史紀さん、現在NHK交響楽団の第一コンサートマスターを務めています。
79歳、現役のバイオリンの先生です。
6歳の子供を相手にする時には私は6歳になっています。
引っ込み思案の子もいるので、笑顔で接しています。
「あいうえお」 明るく生きいきと 嬉しく笑顔で思いやりを お母さんもよろしくねとお母さんにも言っています。
その子の目線になって話等で接します。
命令するのではなく「・・・しましょう」と言います。
小さいころからハーモニカを吹いていました。(父はハーモニカの日本一になりました)
父は趣味でバイオリンをやっていて、それが良くて私は転向しました。
最初父から習って、その後海軍音楽隊の隊長をしていた人がバイオリンが出来て、その先生に教わりました。
松本に夏季学校があって行って、鈴木先生にあって指導法、教育の「育」(育てる)を重視する事に感激しました。
松本の鈴木先生の門を叩く事になりました。
先生が病気になって無料奉仕だが代理を求めていて、19歳だったが、代理をすることに手を上げました。
松本で妻との出会いもありました。
アマチュアの北九州交響楽団があり、そこでTNC(西日本TV)で聞かせてもらって、近衛秀麿さんが何でもいいからこいと言われて、 それからTNCの偉い人に掛けあってくれて、コンサートマスターにという事で、収入も得られることになった。
出張レッスン見たいな事をしていた。
北九州交響楽団のコンサートマスターをしながら、1964年にバイオリン教室も開いていた。
長男 篠崎史紀 毎日レコードをかけて聞いて遊びながらやっていました。
ベビーベッドの中にバイオリンが入っていて、それを叩いたりしていました。(環境作り)
中学になった時は自活できるような環境を作っていました。
高校生になった時には100万円を渡して遊んで来いと言って、ザルツブルクの夏季講習に行ってきた様です。(収入もよかったわけではない。)
私は実力があれば学歴などは気にしない。
「・・・してやったから、それなのに貴方は・・・してくれなかった」と良く愚痴をこぼす親がいるが、それは無いです。
お互いに自立した関係、親子喧嘩はしたことは無いです。
N響は3~5人、九州交響楽団は7人、スイス・ロマンド管弦楽団には大野君、南紫音ちゃんは1歳から来ていました。
去年バイオリン教室50周年でいろいろイベントをやりました。
来年バイオリン教育を初めて60周年になります。
今の子は環境が良くなってるので(レコード、CD、生の演奏など)、幸せだと思います。
楽器もよくなっている。
幼児教育が専門なので或る程度のレベルまで教えることができるが、後は本人次第で良い先生も紹介できる。
音楽が好きになってくれればいい、プロにならなくてもいいし、本当に音楽を通していろんな友達ができて、楽しめればいいと思います。
謡曲もやるし三味線も弾きますし(名取りも取っている)、ハーモニカもやっています。
来年バイオリン教育60周年を迎えます。
8歳の時に父親からバイオリンの手ほどきを受けて、その後長野県松本市のバイオリンの才能教育で有名な鈴木鎮一さんに師事しました。
楽器を通じて人の精神を豊にするという教育方針に共鳴した篠崎さんは、松本の地で9年間バイオリン教育を学び、その後北九州市に戻ってバイオリン教室を立ち上げました。
教育のモットーは子供達の自主性を延ばすこと、これまでの教え子は1000人にも及び、自分の息子にも自由にヨーロッパで音楽の勉強をするように指導してきました。
その息子さんというのが篠崎史紀さん、現在NHK交響楽団の第一コンサートマスターを務めています。
79歳、現役のバイオリンの先生です。
6歳の子供を相手にする時には私は6歳になっています。
引っ込み思案の子もいるので、笑顔で接しています。
「あいうえお」 明るく生きいきと 嬉しく笑顔で思いやりを お母さんもよろしくねとお母さんにも言っています。
その子の目線になって話等で接します。
命令するのではなく「・・・しましょう」と言います。
小さいころからハーモニカを吹いていました。(父はハーモニカの日本一になりました)
父は趣味でバイオリンをやっていて、それが良くて私は転向しました。
最初父から習って、その後海軍音楽隊の隊長をしていた人がバイオリンが出来て、その先生に教わりました。
松本に夏季学校があって行って、鈴木先生にあって指導法、教育の「育」(育てる)を重視する事に感激しました。
松本の鈴木先生の門を叩く事になりました。
先生が病気になって無料奉仕だが代理を求めていて、19歳だったが、代理をすることに手を上げました。
松本で妻との出会いもありました。
アマチュアの北九州交響楽団があり、そこでTNC(西日本TV)で聞かせてもらって、近衛秀麿さんが何でもいいからこいと言われて、 それからTNCの偉い人に掛けあってくれて、コンサートマスターにという事で、収入も得られることになった。
出張レッスン見たいな事をしていた。
北九州交響楽団のコンサートマスターをしながら、1964年にバイオリン教室も開いていた。
長男 篠崎史紀 毎日レコードをかけて聞いて遊びながらやっていました。
ベビーベッドの中にバイオリンが入っていて、それを叩いたりしていました。(環境作り)
中学になった時は自活できるような環境を作っていました。
高校生になった時には100万円を渡して遊んで来いと言って、ザルツブルクの夏季講習に行ってきた様です。(収入もよかったわけではない。)
なんか得てくると思った。(自分が若いころにできなかった事をさせた方がいいと思った)
音楽大学に行かせたわけではない。私は実力があれば学歴などは気にしない。
「・・・してやったから、それなのに貴方は・・・してくれなかった」と良く愚痴をこぼす親がいるが、それは無いです。
お互いに自立した関係、親子喧嘩はしたことは無いです。
N響は3~5人、九州交響楽団は7人、スイス・ロマンド管弦楽団には大野君、南紫音ちゃんは1歳から来ていました。
去年バイオリン教室50周年でいろいろイベントをやりました。
来年バイオリン教育を初めて60周年になります。
今の子は環境が良くなってるので(レコード、CD、生の演奏など)、幸せだと思います。
楽器もよくなっている。
幼児教育が専門なので或る程度のレベルまで教えることができるが、後は本人次第で良い先生も紹介できる。
音楽が好きになってくれればいい、プロにならなくてもいいし、本当に音楽を通していろんな友達ができて、楽しめればいいと思います。
謡曲もやるし三味線も弾きますし(名取りも取っている)、ハーモニカもやっています。
2015年12月26日土曜日
清水信子(料理研究家) ・私の考える「ひとり力」
清水信子(料理研究家) ・私の考える「ひとり力」
NHKの今日の料理などで活躍していて、懐石料理から惣菜まで幅広く手掛けています。
和食の基本を判りやすく伝える指導に定評があり、TVラジオ雑誌や料理講習会などで指導をしています。
25年前にガンで夫を亡くして、今は一人暮らし、親戚や廻りの友が心配してくれますが、一度甘えるときりがないと、なるべく人に頼らず、生活する工夫をしています。
電車では足腰を鍛えるために譲られない様に人の前に立たない、大好きだった車の運転も事故で迷惑をかけたくないと 74歳で辞めました。
顔色が悪い時は周囲に気遣い頬紅でカバーしたり、ストレス発散は近くを歩いたり大好きな新聞を隅から隅まで読んでアンテナを広げたりと新しい事をいつも追求し自分を磨く努力をしていると言います。
信子(しんこ)と読む。 兄は甲平(きよし) 妹は誠子(さとこ) 下の妹は昌子(まさこ)と一番下だけは父は疲れたのか普通に読みます。
正月に向けての料理は、9月に決まってテキストを作るので、9月が勝負になります。
新しい料理は3回リハーサルしないといけない、細心の注意を払ってやっています。
1回目は本の通りに作って、2回目は自分の味に直して、3回目はその味が正しかったか、どうかを試して作ると料理上手になると言われています。
おせち料理 1万円から50万円代まであって豪華になっているが、昔は祝い魚、田作り 数の子 黒豆、関西では数の子が無くなってたたきごぼう その3種類で賄っていた。
新おせち料理(簡単)
黒豆 :煮てあるものを買ってくる。 熱を加えても溶けないチーズを買ってきて、黒豆と同じ大きさに四角に切って、その二つをワンタンのかど(?)をひねり状にして油に入れて揚げる。
田づくり :170℃弱の油で揚げる→紙の上に取る→3色の味を付ける(七味とうがらし、青海苔の粉、 カレー粉)
数の子 :練ってある酒粕に砂糖を入れて、そこに数の子をガーゼに包んで1週間から10日入れておくと塩が抜けておいしい。
母が体が弱くて、入院していたりして、私が母の手伝いをして、今日の私があるのはおせっかいだったからだと思います。
母が入院した時に叔母と祖母が見舞いに来てくれて幾晩か泊る必要があると思ってきたが、昼ご飯を私が作って出したら、吃驚してこれだけできるなら大丈夫と帰ってしまった。(小学校6年生)
浴衣などの洗い物などもあったが、干すのに裏の叔母さんが干してくれたりしたのが長く続いた。
母の指導のもとに食事、漬物などをやったりしていたが、母から教えてもらって高校生のころから友達と一緒に塾みたいなものをやってみたいと思った。
栽縫は苦手だった。
ご飯味、噌汁、おかず、箸の位置など 家庭で皆一緒に食べているから判ってくるが、そういった場面も無くなってきて最近は判らない人も多くなったのでは。
日本料理を作るときにはダシを取ってほしい。
昆布とカツオがあれば取れる。
自分でダシを引くというのが基本的な基本だと思う。
一緒に入れてダシを取るのが、最小のもので最大の効果。
3分~5分 コトコト煮て火を止めて3分~5分おいて昆布だけ抜き出して、しゃくしであけると綺麗に透き通った山吹色のが取れる。
そこにほんのひとつまみの塩を入れると濁ったりしない。(板前のコツらしい)
良質なたんぱく質とミネラルが取れる事になる。
出来合いのものと飲み比べてみるとすぐわかる。
いろんな料理の下味となる。
親が子供を育てる責任の第一の大事なことは、自分が自分のものを作って食べられる事だと思います。
おふくろの味と言うけれど、やっぱり心を残した食べ物を残していきたいと感じました
25年前にガンで夫を亡くしたが、もうあと何カ月なので好きなように旅行などしてくださいと言われたが、そのあと5年生きました。
私が51歳の時でした。
何とも言えない悲しさがずーっと続いてきました。
誰にも会いたくなくて妹家族の中に入る事さえ嫌だった。
友達が本を作ろうと言ってくれて、1冊出すことにして、本は命を削る様にして作るわけなのでそれである程度立ち直ることができて、悲しいことは色々あるが、悲しんでばかりしていても彼は喜ばないと思って、一人で生きる為にはどうしたらいいか考えて、この本が生まれてきた様な感じです。
「ひとり力を鍛える暮らし方」
夫は人に干渉しない様な人でしたので、私も好きに仕事をさせてもらいました。
高校野球が本当に好きな人でした。
「ひとり力を鍛える暮らし方」 かっこいい本だと思っている。
電話を取る時も、明るい声で対応する事にしている。
少しでも私と話をする人たちが明るい気持ちになってほしいと頑張っています。
人に寄りかかれば本当に楽ですが、いつまでも寄りかかるともっと自分がつらくなる。
寄りかからないで行こうと習慣にして行けば、きっと今からでも遅くないと思っています。
こんなことをしてしまって、という思いにならない様な生き方を真剣に生きたいと思っています。
お互いに助け合っていとしみ合いながらしっかり手を組んで生きていける様な世の中を作っていきたいというのが私のたった一つの目標として生きていきたいと思います。
NHKの今日の料理などで活躍していて、懐石料理から惣菜まで幅広く手掛けています。
和食の基本を判りやすく伝える指導に定評があり、TVラジオ雑誌や料理講習会などで指導をしています。
25年前にガンで夫を亡くして、今は一人暮らし、親戚や廻りの友が心配してくれますが、一度甘えるときりがないと、なるべく人に頼らず、生活する工夫をしています。
電車では足腰を鍛えるために譲られない様に人の前に立たない、大好きだった車の運転も事故で迷惑をかけたくないと 74歳で辞めました。
顔色が悪い時は周囲に気遣い頬紅でカバーしたり、ストレス発散は近くを歩いたり大好きな新聞を隅から隅まで読んでアンテナを広げたりと新しい事をいつも追求し自分を磨く努力をしていると言います。
信子(しんこ)と読む。 兄は甲平(きよし) 妹は誠子(さとこ) 下の妹は昌子(まさこ)と一番下だけは父は疲れたのか普通に読みます。
正月に向けての料理は、9月に決まってテキストを作るので、9月が勝負になります。
新しい料理は3回リハーサルしないといけない、細心の注意を払ってやっています。
1回目は本の通りに作って、2回目は自分の味に直して、3回目はその味が正しかったか、どうかを試して作ると料理上手になると言われています。
おせち料理 1万円から50万円代まであって豪華になっているが、昔は祝い魚、田作り 数の子 黒豆、関西では数の子が無くなってたたきごぼう その3種類で賄っていた。
新おせち料理(簡単)
黒豆 :煮てあるものを買ってくる。 熱を加えても溶けないチーズを買ってきて、黒豆と同じ大きさに四角に切って、その二つをワンタンのかど(?)をひねり状にして油に入れて揚げる。
田づくり :170℃弱の油で揚げる→紙の上に取る→3色の味を付ける(七味とうがらし、青海苔の粉、 カレー粉)
数の子 :練ってある酒粕に砂糖を入れて、そこに数の子をガーゼに包んで1週間から10日入れておくと塩が抜けておいしい。
母が体が弱くて、入院していたりして、私が母の手伝いをして、今日の私があるのはおせっかいだったからだと思います。
母が入院した時に叔母と祖母が見舞いに来てくれて幾晩か泊る必要があると思ってきたが、昼ご飯を私が作って出したら、吃驚してこれだけできるなら大丈夫と帰ってしまった。(小学校6年生)
浴衣などの洗い物などもあったが、干すのに裏の叔母さんが干してくれたりしたのが長く続いた。
母の指導のもとに食事、漬物などをやったりしていたが、母から教えてもらって高校生のころから友達と一緒に塾みたいなものをやってみたいと思った。
栽縫は苦手だった。
ご飯味、噌汁、おかず、箸の位置など 家庭で皆一緒に食べているから判ってくるが、そういった場面も無くなってきて最近は判らない人も多くなったのでは。
日本料理を作るときにはダシを取ってほしい。
昆布とカツオがあれば取れる。
自分でダシを引くというのが基本的な基本だと思う。
一緒に入れてダシを取るのが、最小のもので最大の効果。
3分~5分 コトコト煮て火を止めて3分~5分おいて昆布だけ抜き出して、しゃくしであけると綺麗に透き通った山吹色のが取れる。
そこにほんのひとつまみの塩を入れると濁ったりしない。(板前のコツらしい)
良質なたんぱく質とミネラルが取れる事になる。
出来合いのものと飲み比べてみるとすぐわかる。
いろんな料理の下味となる。
親が子供を育てる責任の第一の大事なことは、自分が自分のものを作って食べられる事だと思います。
おふくろの味と言うけれど、やっぱり心を残した食べ物を残していきたいと感じました
25年前にガンで夫を亡くしたが、もうあと何カ月なので好きなように旅行などしてくださいと言われたが、そのあと5年生きました。
私が51歳の時でした。
何とも言えない悲しさがずーっと続いてきました。
誰にも会いたくなくて妹家族の中に入る事さえ嫌だった。
友達が本を作ろうと言ってくれて、1冊出すことにして、本は命を削る様にして作るわけなのでそれである程度立ち直ることができて、悲しいことは色々あるが、悲しんでばかりしていても彼は喜ばないと思って、一人で生きる為にはどうしたらいいか考えて、この本が生まれてきた様な感じです。
「ひとり力を鍛える暮らし方」
夫は人に干渉しない様な人でしたので、私も好きに仕事をさせてもらいました。
高校野球が本当に好きな人でした。
「ひとり力を鍛える暮らし方」 かっこいい本だと思っている。
電話を取る時も、明るい声で対応する事にしている。
少しでも私と話をする人たちが明るい気持ちになってほしいと頑張っています。
人に寄りかかれば本当に楽ですが、いつまでも寄りかかるともっと自分がつらくなる。
寄りかからないで行こうと習慣にして行けば、きっと今からでも遅くないと思っています。
こんなことをしてしまって、という思いにならない様な生き方を真剣に生きたいと思っています。
お互いに助け合っていとしみ合いながらしっかり手を組んで生きていける様な世の中を作っていきたいというのが私のたった一つの目標として生きていきたいと思います。
2015年12月25日金曜日
楓友子(ステッキアーティスト) ・素敵(ステッキ)な杖で歩きませんか?
楓友子(ステッキアーティスト) ・素敵(ステッキ)な杖で歩きませんか?
足の不自由な人が外出するときに、手放せないのがステッキ、その杖の従来の暗いイメージを覆すカラフルでおしゃれなステッキを作って喜ばれている若い女性がいます。
ステッキアーティストの楓友子(ふゆこ)さん、大学時代に交通事故で重症を負い、杖なしでは歩けなくなりました。
従来の杖で外出すると、かわいそうと同情されるのにいたたまれず、自分でおしゃれな杖を作ったところ、評判が評判を呼んで、とうとうステッキ作りが仕事になってしまいました。
足の不自由な人達に家の中に閉じこもらず、素敵(ステッキ)な杖で歩きませんかと呼びかける楓友子さんにうかがいました。
木製ですが、これはかなり軽いです。
7年前、交通事故に遭い、それから杖を使う様になりました。
車同士の正面衝突で腰の骨を骨折してしまい、脊髄神経を損傷して、右足に不自由が残っていて、それ以来杖を使う生活が始まりました。
頭も打って気がついたらベッドのうえで、一つでも違っていたら死んでしまっていたと医者に言われました。
交通事故の前に軽いうつ病をして、自殺未遂もしました。
その中で交通事故に遭い、実際に死を目の当たりにして、生きている事って何と素晴らしいことだろうと、逆に気付いて、事故にあったことによって、考えが変わりました。
入院は100日ほどでした。
大学4年生の夏のことでした、就職先は決まっていましたが、歩けるようになるのか判ら無い状態だったが、人事担当者が来てくれて、待っているのでリハビリに励むようにと言われました。
その後その会社に就職しました。
初めての東京での生活では満員電車の通勤は大変でした。
2年目の夏に、原因不明で歩けなくなったのが何日かあり、ショックでした。
人の持っている時間は有限なんだと知りました、歩く時間も有限なんだと知りました。
歩ける有限の幸せな時間を目一杯楽しもうと考えるようになりました。
事故以降は困難に当たってもポジティブに考える様になりました。
医療器具的なステッキを使っていましたが、或る日会社から帰る時にひじの輪っかの部分が折れている事に気付いて、街でステッキを買わなくてはいけなくなりました。
買う場所も判らず、百貨店の介護用品売り場にあることがインターネットで調べて行くと、30本位あり、介護用品を買わなくてはいけないことにショックを受けました。
杖はどれが一番ましか、という風な選択肢しかなかった。
ストラップとかリボンを付けたりしていたが、或るとき、杖ってそんなものしかないのね、かわいそうといわれてショックだった。
かわいい杖を作ろうと思った。
デザイン、工芸とかは一切していなかったので、どういう工具を使えばいいか判らず、試行錯誤を繰り返しました。
出来上って、それを持って出掛けた時が嬉しかったです。
周りの反応も変わって、かわいそうという周りの想いが、杖をどこで買ったのかという風に変わった。
ブログに写真を出して、欲しいというメッセージや、街中での声等で、段々と杖で悩んでいる人がいることが判り、作ってほしいという依頼があり、これを機に自分も仕事として始めてみようと決心をしました。
製作自体は4~7日程度です。
オーダーメイドの場合、お客さんの顔姿、好きな洋服、等を聞いて情報を集めて、それにあうイメージを描いてデザインしステッキを作ります。
カタログの中から選んでもらったりもします。(10種類 それに色のバリエーション)
装飾を取り変えたりできるようにも工夫もしています。
都内に2店舗ありそこにサンプルを置いています。
価格は1万5000円から5万円ぐらいまでです。
およそ200本ぐらいは使われています。
特に嬉しい時は出掛けるのが楽しみになったといわれることです。
ファッションの一部としてステッキを楽しんでいただけるような状態を作って行きたいと思っているので、介護用品売り場ではなく、靴、バックと同じように杖を買えるようにして行きたいと思っています、
ファッションショー(東京コレクション)で私の杖を使っていただきました。
海外のメディアも取り上げてくれました。
この夏ロンドンに一人で行ってきました、デザインを勉強してくることが目的でした。
私が杖を付いていても生活に苦労することはほとんどなかったです、電車の中でも席をさっと譲ってくれました。
建物は意外と段差があるが、当然のようにベビーカーを持ってくれたり、心のバリアーフリーが凄いです。
日本でもぜひ学んで頂きたいと思うところがたくさんあります。
だれしもが明日100%生きている保証はなく、一日一日、後悔無く生きたいと思うので、それが行動に表れているのかなと思います。
もっとおしゃれな杖を一杯だして行きたいし、もっと皆さんに手に取ってもらいやすい様な折りたたみステッキとか、作ってみたいと思います。
歩くのを助けるための杖が、杖が可愛くないから歩かないということは本末転倒なので、この杖のためだったらリハビリ頑張ろうという様な希望になる杖にして行きたいです。
足の不自由な人が外出するときに、手放せないのがステッキ、その杖の従来の暗いイメージを覆すカラフルでおしゃれなステッキを作って喜ばれている若い女性がいます。
ステッキアーティストの楓友子(ふゆこ)さん、大学時代に交通事故で重症を負い、杖なしでは歩けなくなりました。
従来の杖で外出すると、かわいそうと同情されるのにいたたまれず、自分でおしゃれな杖を作ったところ、評判が評判を呼んで、とうとうステッキ作りが仕事になってしまいました。
足の不自由な人達に家の中に閉じこもらず、素敵(ステッキ)な杖で歩きませんかと呼びかける楓友子さんにうかがいました。
木製ですが、これはかなり軽いです。
7年前、交通事故に遭い、それから杖を使う様になりました。
車同士の正面衝突で腰の骨を骨折してしまい、脊髄神経を損傷して、右足に不自由が残っていて、それ以来杖を使う生活が始まりました。
頭も打って気がついたらベッドのうえで、一つでも違っていたら死んでしまっていたと医者に言われました。
交通事故の前に軽いうつ病をして、自殺未遂もしました。
その中で交通事故に遭い、実際に死を目の当たりにして、生きている事って何と素晴らしいことだろうと、逆に気付いて、事故にあったことによって、考えが変わりました。
入院は100日ほどでした。
大学4年生の夏のことでした、就職先は決まっていましたが、歩けるようになるのか判ら無い状態だったが、人事担当者が来てくれて、待っているのでリハビリに励むようにと言われました。
その後その会社に就職しました。
初めての東京での生活では満員電車の通勤は大変でした。
2年目の夏に、原因不明で歩けなくなったのが何日かあり、ショックでした。
人の持っている時間は有限なんだと知りました、歩く時間も有限なんだと知りました。
歩ける有限の幸せな時間を目一杯楽しもうと考えるようになりました。
事故以降は困難に当たってもポジティブに考える様になりました。
医療器具的なステッキを使っていましたが、或る日会社から帰る時にひじの輪っかの部分が折れている事に気付いて、街でステッキを買わなくてはいけなくなりました。
買う場所も判らず、百貨店の介護用品売り場にあることがインターネットで調べて行くと、30本位あり、介護用品を買わなくてはいけないことにショックを受けました。
杖はどれが一番ましか、という風な選択肢しかなかった。
ストラップとかリボンを付けたりしていたが、或るとき、杖ってそんなものしかないのね、かわいそうといわれてショックだった。
かわいい杖を作ろうと思った。
デザイン、工芸とかは一切していなかったので、どういう工具を使えばいいか判らず、試行錯誤を繰り返しました。
出来上って、それを持って出掛けた時が嬉しかったです。
周りの反応も変わって、かわいそうという周りの想いが、杖をどこで買ったのかという風に変わった。
ブログに写真を出して、欲しいというメッセージや、街中での声等で、段々と杖で悩んでいる人がいることが判り、作ってほしいという依頼があり、これを機に自分も仕事として始めてみようと決心をしました。
製作自体は4~7日程度です。
オーダーメイドの場合、お客さんの顔姿、好きな洋服、等を聞いて情報を集めて、それにあうイメージを描いてデザインしステッキを作ります。
カタログの中から選んでもらったりもします。(10種類 それに色のバリエーション)
装飾を取り変えたりできるようにも工夫もしています。
都内に2店舗ありそこにサンプルを置いています。
価格は1万5000円から5万円ぐらいまでです。
およそ200本ぐらいは使われています。
特に嬉しい時は出掛けるのが楽しみになったといわれることです。
ファッションの一部としてステッキを楽しんでいただけるような状態を作って行きたいと思っているので、介護用品売り場ではなく、靴、バックと同じように杖を買えるようにして行きたいと思っています、
ファッションショー(東京コレクション)で私の杖を使っていただきました。
海外のメディアも取り上げてくれました。
この夏ロンドンに一人で行ってきました、デザインを勉強してくることが目的でした。
私が杖を付いていても生活に苦労することはほとんどなかったです、電車の中でも席をさっと譲ってくれました。
建物は意外と段差があるが、当然のようにベビーカーを持ってくれたり、心のバリアーフリーが凄いです。
日本でもぜひ学んで頂きたいと思うところがたくさんあります。
だれしもが明日100%生きている保証はなく、一日一日、後悔無く生きたいと思うので、それが行動に表れているのかなと思います。
もっとおしゃれな杖を一杯だして行きたいし、もっと皆さんに手に取ってもらいやすい様な折りたたみステッキとか、作ってみたいと思います。
歩くのを助けるための杖が、杖が可愛くないから歩かないということは本末転倒なので、この杖のためだったらリハビリ頑張ろうという様な希望になる杖にして行きたいです。
2015年12月24日木曜日
熊谷晋一郎(脳性まひの小児科医) ・誰もが“生きていける”社会を目指して(2)(H2015・8・27放送)
熊谷晋一郎(脳性まひの小児科医) ・誰もが“生きていける”社会を目指して(2)
(H2015・8・27放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/08/2_27.htmlをご覧ください。
(H2015・8・27放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/08/2_27.htmlをご覧ください。
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