2022年9月14日水曜日

関田寛雄(青山学院大学名誉教授)    ・戦没捕虜追悼に思いを込めた28年

 関田寛雄(青山学院大学名誉教授)    ・戦没捕虜追悼に思いを込めた28年

この夏も横浜保土ヶ谷の英連邦墓地で日本で亡くなった英連邦捕虜の眠れる墓前で平和を祈る戦没捕虜追悼礼拝が行われました。   関田さんは戦後50年の1995年に第一回の追悼礼拝をおこない平和への思いを語り続けて来ました。  昭和3年、牧師の子として生まれて関田さんは軍国主義に邁進するも、敗戦で価値観ががらりと変わり、これからどう生きればよいのかと人生の道を捜し続けました。   「そして真実はやがて現れる。」という聖書の言葉に出会い、反戦平和が生きる心の支えとなってきたということです。

関連参考

雨宮剛(名誉教授)       ・我が体験、平和と和解を語り継ぐ(1)(2)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2014/08/blog-post_11.html

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2014/08/2_12.html

追悼礼拝、最後の年になりました。  戦後50年から始めたこの礼拝が、歳のこともあり健康のこともあるので、今年を最後にメッセンジャーは次の実行委員会の方にお任せしようと思いまして、終わりにさせていただきました。   94歳になりました。   8月第一土曜日に追悼礼拝をおこなってきました。   第二次世界大戦の中で、捕虜になった英連邦軍の捕虜の方々1804名の方々がここに眠っているわけですが、無念の思い、望郷の思い、それを思うと胸が痛くなるわけですが、なんとしても追悼礼拝を続けたいという先輩である永瀬隆さんの強い意志がありましたので、礼拝は何としても続けようということで行われています。     

永瀬隆さんは青山学院文学部英語科を卒業した大先輩であり、戦争中彼は健康のこともあり徴兵にはかからなかったが、陸軍通訳に応募しました。  派遣されたのが泰緬鉄道(タイとミャンマーを繋ぐ鉄道でインドに延ばそうとしていた。)で、泰緬鉄道の作業の中で多くの英連邦軍の捕虜の方々が用いられたり、インドネシアの労働者を含めて、突貫工事で進めたわけです。   その間に英連邦軍の捕虜の方々が亡くなって行きました。  その現場にいた永瀬さんにとっては辛い思いをしました。   戦争が終わって、日本軍の捕虜(1000数百人)が、捕虜になるよりは死んだ方が栄誉なんだと、死ぬことを思って一斉蜂起しました。   軍が機関銃で射殺してしまいました。   立派に葬られたという事でした。  永瀬さんは、日本軍は捕虜のために何をしてきたかと、心に刻まれて帰って来ました。  敗戦50年を機に英連合軍の捕虜の方々の追悼礼拝を始めようとしました。

陸軍大臣の東条英機さんが「戦陣訓」という本を出しました。  軍人だけではなく中学校から大学生まで配られている。   そのなかに「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿(なか)れ」というものがあり、捕虜となることは恥ずかしいことだし、捕虜に成ったらとんでもない目にあうぞ、という認識が社会の中に広まっていた。 一斉蜂起のことで永瀬さんの心に強く響いたものです。  あの言葉さえなければ、日本人の捕虜は死ぬことがなかったんだと、おっしゃっていました。    日本軍が捕虜を虐待したのはこの文言があったからなんです。   捕虜を虐待するのは当たり前だという発想が日本人にはいきわたっていた。   沖縄の集団自決が起こったのはこのことなんです。 中国大陸でいかに日本軍が捕虜にどんなにひどいことをしてきたのか、そのことを観てきた日本兵が沖縄住民に言ったわけです。  アメリカ軍の捕虜に成ったらどんな酷いことをされるか判らないから、それなら愛する家族の手であの世に送ってやろうというのが、集団自決の動機なんです。  「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿(なか)れ」が捕虜虐待の原点です。  追悼礼拝が永瀬さんによってはじめられ、私がメッセンジャーとして28回続いているという事です。

イギリス、オーストラリア、インド、カナダ、ニュージ-ランド、アメリカ、オランダの方たち1800人余りが葬られています。  当時捕虜として日本に連れてこられた人たちは3万5000人以上、日本で亡くなった人が3500人ほどですね。  先ほど説明したオーストラリアのカウラ事件日本軍捕虜脱走事件)で亡くなった日本人のお墓がカウラにあって、立派に葬られていて、それを観て永瀬さんは吃驚して、日本にある英連邦墓地で追悼礼拝をして償いをしようという事でした。   

私が小学校5年生の時に、神社で数人にまれて、お前の親父は教会の牧師だろうと言われ、牧師はアメリカのスパイなんだと、お前キリストを辞めろと言われました。  7歳の時に母が亡くなっていて、イエス様に守っていただくので、お前は洗礼を受けろと言われて、洗礼を受けましたので、厭だと言いました。   その時以来、この国でキリスト教徒であるという事は本当にやばい事なんだと思いました。   軍事教練に一生懸命頑張りました。  アメリカのスパイという汚名から逃れたいと、一生懸命軍国少年を演じました。   その後学徒勤労動員が始まって陸軍の薬品を作ったり医療器械を作る工場に行きました。    雨のように焼夷弾がふってきました。  昭和20年8月7日命令が出てやけどの薬などを運びました。  8月6日の広島の原爆に対する対応でした。    

8月15日は身体を壊していて勤労動員を休んで家にいました。   天皇の玉音放送を聞いて負けたんだろうなと思いました。  がくんときて翌日勤労動員で行きましたが、すっかり雰囲気が変わっていました。   その後学校に戻って、街の整理に動員されました。   道路整備をしている時に人間の死体を何体も掘り起こしました。    学校での勉強は目的がありませんでした。    戦争協力への動員を言っていた先生が、英語の先生となっていて、どうしたことかと思って先生に手紙を書きました。    2週間ぐらいしてから、自分も迷っているとおっしゃいました。    先生は新約聖書の中で、「隠されているもので、現れてこないものはない。  覆われているもので明らかにならないものはない。」とイエスの言葉を言いました。  先生は「イエスの言葉を信じて勉強しようじゃないか」と言いました。   その言葉によって私は救われました。    私は牧師になりましたが、反戦と平和に生きるいう事にしましたが、彼が戦争で死んで僕が生き残った、という負い目がずーっとあるんですね。   広島の原爆記念館に29年目にして初めて行きました。  学校で3人が死んで僕が生き残った。   負い目のあるなかでどこで死ぬか、どのように死ぬか、私の人生のテーマになっています。 

今年の7月17日に亡くなった沖縄の金城重明さん、集団自決の当事者です。  1年下のクラスの子でした。  3月末に米軍が上陸してきた時に、愛する家族の手で送ってやろうと、家族で話し合って、号泣して母と一緒に米軍に夜飛び込んでいった時に手りゅう弾で気を失って気がついてみたら米軍のベッドにいたという事でした。  捕虜になってクリスチャンになって、救いのメッセージが無かったら、俺は戦後生きて居られなかったと言っていました。  

「真の和解とは心からの謝罪の気持ちを具体的な形で表し、若い人にお願いしたい、この墓地を訪れ瞑想してほしい。   これに勝る歴史の教科書はない。   ・・・毎年開かれる追悼礼拝が日本人の良心の証の発信地として、百年後も継続されることを夢見る。」  追悼礼拝の実行委員長の奥津さんは雨宮剛先生のお弟子さんです。  

①戦争犯罪に対して心からお詫びをするという事と、ロシアとウクライナの戦争ですが、90年前に日本がやったことと同じことをやっているわけです。    ②ウクライナを応援することは当然なことですが、日本としてはインド、中国に対して話し合いの場を設けて、平和に対して仲介をするという事は日本の責任ではなかろうかと思います。  ③英連邦戦死者墓地から世界に向かって平和の発信をしてゆく。    歴史を学ぶことによって平和と共生の文化を作ってゆくという営みを持つべきであり、日本の教育の使命であり責任であると思います。

知覧の特攻隊記念館で、天皇陛下万歳というような手記のある中で「眠れ 眠れ 母の胸に」とだけ書いた手記を観ました。  ここに学徒兵の本音があると、涙が出ました。  英連邦戦死者墓地にも同様な家族の文字が刻まれています。   共に助け合い、補い合い、癒し合う、そういう和解の文化を作っていくというのが、これからのすべての国々の使命ではなかろうかと思います。英連邦戦死者墓地を発信の基地にしたいと思っています。  

「男はつらいよ」の寅さんに共感します。  存在そのものが周りを持てなすような明るさ、自由な姿、温かい心、自分自身寂しい思いをしながらも「男はつらいよ」と言いながらさくらに向かっていう寅さんは私にとって懐かしい人間なんです。  

2022年9月13日火曜日

鶴澤津賀寿(女流義太夫三味線方)    ・人間国宝としての新たな決意

 鶴澤津賀寿(女流義太夫三味線方)    ・人間国宝としての新たな決意

師匠も人間国宝を頂戴しているんですが、師匠の弟子という方の感覚が強いので、私まで(人間国宝に)なっちゃうのかなという気がしました。  竹本駒之助師匠は22歳年上です。  電話で連絡があったのですが、「師匠と相談します。」といって、師匠と電話のやり取りをしたら、「なんですぐ受けなかったの」と言って喜んで大泣きしてくれました。  師匠はエネオス賞を頂いた時にも泣いていました。  

親が歌舞伎が好きで小学校の時から連れて行って貰って、大学も歌舞伎の研究しに早稲田にいったんですが、観るだけではなくて批評家に成ろうと思って、「演劇界」という雑誌があって懸賞劇評というのを募集していて、何回か佳作に入って、同人誌で誘ってくれる方がいて、同人誌にも書かせていただくようになりました。  1年間だけ長唄研究会に入って、初めて長唄の三味線をいじったんです。   大学4年間は個人の先生に長唄を習っていました。  卒論は長唄に関するものでした。   三味線の音楽とかからアプローチすれば、ちょっと人と違った批評が書けるかもしれないと思いました。   ほかにもいろいろやりたいと思ってカルチャセンターへ行って日本舞踊、鳴り物教室へ行って、その一つが義太夫教室だったんです。 義太夫教室へ行こうと思ったら募集が終わってしまっていましたが、日本舞踊を習っていた人がたまたま竹本駒之助師匠に習っていました。  師匠の舞台をその人と観に行って感激してしまいました。   教室に入ると同時に師匠に売り込んで、1984年の正月に師匠のところに稽古に行くようになりました。   三味線弾きになりなさいと言われ始めました。   

観ている時には義太夫は興味はなかったです。  文楽を観た時に面白なあと思いました。義太夫は男性向けに出来ている芸だから、無理やり女性がやっているわけで、男性より余計振り絞ってやっているわけです。  師匠の舞台を観てとにかく凄いと思いました。   浄瑠璃を始めたら普通の息は出来ないと言われます。    厳しいですが、知っていることは全部教えてくださるような感じです。  駒之助師匠は言いにくいらしくて私にはほとんど怒らないです。   初舞台の後、鶴澤重輝師の預り弟子となって亡くなるまで10年ぐらい稽古しましたが、そこでも怒るという事はほとんどありませんでした。   観て居なさい、聞いていなさいと言う風にして覚えないと、教えてもらうものではないという事をしょっちゅう言っていました。  今になるといろんなことが判りますが。  姿勢というかやり方、三味線弾きは太夫さんのために働くものだから自分が出てはいけない、と教えてくれました。   

小さいころからピアノをやっていて音大に行こうかとも思ったんですが、手が小さいし薄いし、迫力のある音が出なくて断念して、最初に義太夫の太竿をいじった時にはすぐ手に血が出て大変な楽器だと思いました。  訓練するとタコが出来てきて大丈夫です。  師匠は晩年は枯れ木のように痩せていましたが、音色とか音量といいも音凄い音をしていました。身体のお加減が悪くても音は変わらなかったです。   

大きな舞台でも小さな舞台でもやる事はおんなじなので、あまり気にしないでやっています。   女義太夫の定期公演は協会で毎月1日づつやっていて、若手の公演が毎月1日、2日に上野広小路亭でやらせていただいています。   一生悩んでしまうような職業だと思っています。   百篇の稽古よりも一篇の舞台ですから、兎に角舞台を踏まないとなかなか舞台人らしくなっていあないと思います。  絶対やれないようなものを自分で会を開いてやってみるとか、若い人は大いにやるべきだと思います。  

19日に義太夫協会の定期公演で「母の正体」という事で卅三間堂棟由来 平太郎内の段」と師匠と私で芦屋道満大内鑑 葛の葉子別れの段」を行います。  これは何十年振りなので勉強してやらせてもらいます。   

浄瑠璃は太夫と三味線が一個のものなので、太夫が注意することと、三味線弾きさんが注意することは、結局のところ同じことだたりします。  区別は原則ないと言っていいと思います。  駒之助師匠はいまでも凄く怒ります。  人を怒ることは体力はいるし精神的にも消耗するので、怒ってくれたことには感謝しないといけないと思います。  今の若い人は怒られ馴れていないみたいで、怒られると吃驚しちゃうみたいなところがあるみたいです。 有難いという風にその価値観を思わないと、なかなか芸も良くならないと思います。正座が出来なくてやめてゆく人も結構います。   稽古の時には2時間ぐらい正座をしていないといけないので。   あるお師匠さんは「観るものもの聞くものがお師匠さんやで」、と言われますが、私も普段から機会あれば畑違いのものを観に行くようにしています。  自分の中に貯めて行く様にしています。



2022年9月12日月曜日

石原良純(気象予報士・タレント)    ・【師匠を語る】 森田正光

石原良純(気象予報士・タレント)    ・【師匠を語る】  森田正光 

石原さんは1997年に気象予報士になりました。  その石原さんが師として仰ぐ気象キャスターの森田正光さんについて伺いました。

最近は異常気象とか天気の話題が多いですね。  大変な時代になって来ちゃってるよねというようなことは森田さんとは良く話に出ます。   2008年に環境サミットがあり、いろんな予想が出て、それが当たっているよねというような話も出ます。  

森田正光さんは1950年(昭和25年)愛知県名古屋市に生まれます。  財団法人日本気象協会を経て、日本で初めてフリーのお天気キャスターになったのは1992年(平成4年)、同時に民間の気象会社を設立して多くの後輩を育成する一方で、親しみやすい解説で人気を集めてテレビのお天気キャスターの代名詞のような存在になりました。

森田さんから「気象予報士になったらどう。」って勧めてくれたことに感謝しています。  空のことを伝えることの大切さを教えてくれました。   神奈川県の逗子市で生まれ育って、海辺に立つと水平線の上は全部空で、梅雨明けの頃に山には雲があるが街には雲がないことがあり、不思議に思いました。  年に何回もあるわけです。  気象予報士制度が出来たことを知り、或る時クイズ番組があって森田さんにお会いし、疑問に思っていたこととか天気の話をしました。  気象予報士制度が出来てそれを勉強すると疑問が解けるよと言われました。   一般気象学という大学の本があり、読んで勉強すれば気象予報士に成れる最低限の知識が得られると言われました。   森田さんは一回目の気象予報士試験に落ちたんですが、法律に関することなどは何も勉強しないで行ったようです。  森田さんが落ちなければこんなに気象予報士制度は注目されなかっと思います。  

地球にある水の97%以上は海水、次に多いのが氷、地下水、川、湖とかの水があって、動植物も水を含んでいて、その残りの0.001%ぐらいの水が空気中にあります。  太陽の熱エネルギーで大気が動くと、或る状況で水蒸気が集まる状況が出来る。  集まった水蒸気が飽和状態になると液体や固体になる、それが雲粒です。   上昇気流とかで雲粒がくっついて雨粒が半径1mm、雲粒が半径0.01mmです(雲粒が約100万個集まると雨粒になる。)。   太陽、地球、空気、水の4つがあるから起こる現象です。  雲になるのも理屈があるんだという事が判りました。  1995年(平成7年)3月に第3回気象予報士試験がありました。  3,4か月の期間があり受けましたが、落ちました。(学科は合格したが実技で落ちる。)  次の試験には合格しました。     森田さんとしてはみんなに天気予報に興味を持ってもらいたいという思いがあり、僕のような門外漢が天気予報士になることによって注目されることを願っていたんだと思います。   

気象情報を活かせて安全に暮らしたい、それには予報技術があって、伝達技術があって、避難してもらう事が大事で、この3つが連動しないといけないという事を森田さんは気付いていた。  島川甲子三さんという森田さんの師匠がいて、NHKの名古屋放送局のアナウサーでその前身が名古屋気象台の予報官なんです。 昭和34年の伊勢湾台風の時に危険だという事で情報をもって役所を回ったそうです。    土曜日でそのまま机の上に置きっぱなしとなり、日曜日の未明に大災害になってしまった。   そこで島川さんは予報だけやっていては駄目だと思ってアナウンサーになります。  森田さんも同じ道を進むわけです。

2000年ぐらいの時に癒し系のブームがあり、フジテレビのプロデューサーの方が私の言動を観ていたらしくて、「良純さんは空の話を楽しそうにしている。 是非空の楽しさを伝えてもらえませんか。」と言われて、自然の美しさ、楽しさの裏には凶暴な一面を持っているので、楽しさを知って貰って次に怖さを知って貰うということ、そういう事なんだと思いました。  空を観ようという事を伝えていきました。   空を観るという事は気分転換にもなるし、天気予報より有効な手段に使える。  森田さんが島川甲子三さんの思いを踏襲されていることと一緒だったなあと思いました。  

令和4年3月31日現在で、気象予報士として登録されているのは1万1251人です。    顔見知りに言われると行動に移るので、気象予報士の相談、仕事はこれからは増えてくるだろうと思います。   

森田さんへの手紙

「子供のころからの謎を、「科学が証明してくれますよ。」という森田さんの一言が、僕の気象学、そして気象予報士の始まりでした。  ・・・気象学は遥か宇宙から地球を眺める神の眼を持つ学問であることに感動しました。  ・・・僕のような門外漢にも優しく手を差し伸べてくださる、一人でも多くの人に天気の面白さを伝いたいという熱意が僕の合格を手伝ってくれたんだと思います。・・・天気の面白さ、楽しさを知って貰う、楽しさの裏返しが恐ろしさなのだから、楽しさを知って貰えればおのずと気象現象の怖さも理解してもらえる森田流のウエザーショーを僕も踏襲させてもらいました。  ・・・予報と、伝達と避難の3つが円滑にいくことに努力される森田さん同様、これからも現場に臨んでいきたいと思います。・・・」





   

2022年9月11日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)         ・【クラシックの遺伝子】

 奥田佳道(音楽評論家)         ・【クラシックの遺伝子】

*「常動曲」 作曲:ヨハンシュトラウス

終わりのない曲で終わりが近づくと元に戻って、指揮者はこの曲はいつまでも続きますと言って終えるしかない。  

1972年から1983年までTBSで放送された「オーケストラがやってきた」企画、構成、司会が山本直純さん、昭和7年生まれ、今年生誕90年、亡くなって今年20年になります。  あらゆるジャンルに渡って名曲を書いています。   素晴らしいオーケストラの曲も書いています。   

*児童合唱と管弦楽のための組曲「えんそく」から第2曲「歩く時のうた」   NHK東京合唱団の為に書かれた曲。   作曲:山本直純  

日本の合唱曲の新たなジャンルを切り開いた曲。  音楽と身体の動き、体操を結び付ける、ハンガリーの作曲家のコダーイ、ドイツのカール・オルフなどを受け継いだ画期的な名曲だと思います。  

*児童合唱と管弦楽のための組曲「えんそく」から「おべんとう」  作曲:山本直純    お弁当を開けた喜びを輪唱、フーガの一種でもあるが、ゲームみたいな要素もあり楽しい。山本さんはパロディーの天才。

1960年代の終わりに日本フィル交響楽団と冗談音楽のコンサートを東京文化会館で3年続けて開催して毎年超満員にしたという記録が残っています。 そこで演奏された曲。

* ピアノ協奏曲「ヘンペラー」 作曲:ヴェートーベン 変曲:山本直純   ヴェートーベンのピアノ協奏曲第5番「エンペラー」(皇帝)から変な曲にしたという事で「ヘンペラー」

いろんな曲が出てきて面白おかしく伝えてはいるが、それぞれの曲の音符は変えていないんです。   音楽理論的に頭に入っていないと綺麗につなぐことな出来ないんです。

*アンコールの作品 目まぐるしくいろいろな曲が演奏される。 

*メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲のパロディー 「迷混」 編曲:山本直純    メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲「メンコン」の略称をさらにパロディー化して「迷混」としている。  

*交響曲 第94番「驚愕」 第二楽章   作曲:ハイドン  うとうとしたところに、寝ている場合ではありませんよと、やったんでしょう。(驚かす!)   

「ワルツィング・キャット」(「踊る仔猫」)  作曲:ルロイ・アンダーソン    軽快で諧謔性に富んだ曲調の管弦楽曲で知られる。

*NHK大河ドラマ「武田信玄」のオープニングテーマ     作曲:山本直純 

*映画「男はつらいよ」のメインタイトル           作曲:山本直純 



2022年9月10日土曜日

小松 みゆき(ベトナム残留日本兵家族会コーディネーター)・ベトナム残留日本兵と その家族を探しつづけて(初回2021/9/11)

 小松 みゆき(ベトナム残留日本兵家族会コーディネーター)・ベトナム残留日本兵と その家族を探しつづけて(初回2021/9/11)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2021/09/blog-post_11.htmlをご覧ください。

2022年9月9日金曜日

弓野恵子(アイヌ文化伝承者)      ・【人生のみちしるべ】 民族の心・アイヌ語を未来へ

 弓野恵子(アイヌ文化伝承者)   ・【人生のみちしるべ】  民族の心・アイヌ語を未来へ

「シマフクロウとサケ」  シマフクロウは昔からアイヌにとっては村をを守ってくれる神として崇められてきました。  カムイユカラ(神謡 「アイヌ」の本来の意味である「人間」にたいして、彼らの身の周りの自然界に存在する実体(生物・無生物を問わず)や現象あるいは精神世界の存在などを遍く「カムイ」としてとらえていたアイヌが伝承してきた、主として身近なカムイとしての動物たちに自ら語らせるというかたちで展開される物語である)にはサケヘという動物の声を真似た繰り返しの言葉が必ず入ります。   この場合はフクロウを真似た「フムフムカトという繰り返しの言葉で歌っています。  

*「シマフクロウとサケ」をアイヌ語で語る。 話: 弓野恵子

「私は村の守り神 シマフクロウのカムイチカブ 山で一人で暮らしていたので、つまらなくなって山をい下り浜へ降りてきました。   木にとまって沖の方を見えていると神の魚サケの群れがやって来ました。  まっさきの昇ってきた先頭のサケは仲間のサケたちにこう告げました。  尊いシマフクロウのカムイチカブがおいでになるぞ。  畏れ慎みなさい。    ところが最後にやってきたサケたちがこういったのです。   一体何のカムイだい。   そんなでっかみ目玉をしたものが畏れおおい神だというのかい。   そのサケたちはしっぽが裂けたものと呼ばれ、神の魚と言われるサケのなかでも一番どん尻の魚でした。  しっぽが裂けたものたちは「あいつは何様だっていうんだ。  どんな神様がいるからって俺たちがおとなしくしなければならないんだい。」と、繰り返し繰り返しいいながら、高く高く尾びれを上げてはばたつかせ、飛び跳ね飛び跳ね テレケテレケ ホリピリピと海に水をまき散らしました。   

これにはシマフクロウの私カムイチカブも我慢がならなくなり、懐から銀のひしゃくシロカネピサックを取り出しました。 そして海の水を汲むと海の水の半分がなくなってしまいました。  すると先頭にいたサケがどん尻のサケに向かって怒って言いました。  「このような怒りを私は恐れていたのだ。  シマフクロウのカムイチカブに失礼のないようにと私が告げておいたのに、お前たちは聞こうともせずあのようなことをして、今はもう水が半分も汲まれてしまい我々は仲間共々死にそうに苦しんでいるではないか。」 先頭のサケは苦しそうに呻きました。   シマフクロウのカムイチカブは今度は金のひしゃくコンカネピサックを取り出して、更に海の水をくみ出したのでうみはすっかり干上がってしまいました。   ここに至ってはどんじりのサケたちさえ苦しいうめき声を上げました。  先頭のサケは激しくもがき苦しみ唸り声をあげ、切れ切れにこう言いました。  「神を畏れぬことをしてはならぬとどん尻のサケに告げておいたのに、お前たちは耳を貸さなかった。  だから仲間共々私は死のうとしているのだ。」

それを観てシマフクロウの私カムイチカブは、今さらのように驚き、私が怒りを掻き立てたとて何の良いことがあろうか、と思い直しました。   そして銀のひしゃくシロカネピサックで水を戻すと、海の半分が満ちました。  さらに金のひしゃくコンカネピサックで水を戻すと海は満ち元に戻りました。   すると先頭のサケは、「尊いカムイチカムブよ、怒りを沈めて海の水を満たして下さり私たちは生き返りました。 ありがとうございます。  尊いカムイチカブよ」、と言って喜びつつ静かに去ってゆきました。

それからシマフクロウの私カムイチカブは私の大地、私の山へ帰ることにしました。  そして山に戻ってきた私は、いつものように一人寂しく山で暮らすカムイとなって、このように語っているのです。  「フムフムカト」 フムフムカト  これがシマフクロウカムイチカブの語った物語です。」

日本語はアイヌ文化伝承者で古布絵作家宇梶静江さんが作った絵本「シマフクロウとサケ」を朗読しました。

弓野恵子さんは昭和23年北海道浦河町の生まれ、現在は千葉県在住。  もの心ついたころから暮らしの中にはアイヌ語があり、アイヌ文化、精神世界を大切にする祖母や母親の姿を観て育ってきました。  17歳で仕事をするために上京、その後結婚し、二人のお子さんを育てる間はアイヌに関わる活動はしていませんでしたが、子育てが一段落した50代半ばからアイヌ文化を改めて学び始めます。  特にアイヌ語でのカムイヤカラの習得に励み、アイヌ語弁の歌の大会の口承部門で最優秀賞を受賞するなど、アイヌ語を未来へつなげてゆく活動に尽くしています。 

おばあさんがアイヌ語で話していたのを聞いて、意味は判らなかったが、響きがとっても懐かしくて、アイヌ語の響きを何とか、皆さんにも聞いてもらいたいと思っていました。   今まで9つの物語を覚えましたが、忘れないように歌ってゆく努力をしています。    アイヌ語で言っているとなかなかわからないと思います。  今回は機会を頂いて嬉しいなと思っています。   祖母が明治23年生まれ。  北海道浦河町ではアイヌの風習、言葉、料理などがいつまでも残っていました。   明治中頃では刺青が禁止されていましたが、おばあさんは手と口に刺青をしていました。  刺青をした時がすごく痛くて1週間ぐらいは腫れて食べれないような状況だったそうで、色は群青色といった感じでした。    体調が悪くなると色が薄くなったり変わるんです。  ですから健康上のバロメーターになったんじゃないかなと思います。 

水は神聖な清めるものなので、ヨモギを水を浸けて振り撒いたしていました。  災いをおさめるような形で水を撒きました。  そういったことが生活の中で風習がいっぱいありました。  中学生になるとアイヌであることに段々恥ずかしいような気がしておばあさんのそばから離れるようになっていきました。  今思うといろいろ話を聞けばよかったと残念に思っています。  山菜を取りに行く時には「獲らせていただきます」、その帰りには「いただきました、有難うございます」、と言ってお祈りをするとか、生活の中からアイヌの生活の大事さが判りました。  アイヌの文化、物語などを知って貰いたいと思うようになりました。   カムイのお陰で私たちがいる、みんな同じ、生きているというのが根っこにあり、それに感動しました。   浦河町地方では「こんにちわ」を「イカターイ」と言います。  「ヒトツ」という地名があり、昔十勝の人との戦があり、その地でおばあさんがダンゴを煮て作っているから待ってという事で、ダンゴのことをアイヌ語で「シト」というんですが、和人が入ってきて地名をつける時に、「ヒトツ」という地名にしたそうです。   人間だけではなく動物、草木もみんな一緒になっているという、それを歌にして踊りにしてというところがアイヌ文化は凄くいいなと思います。

母がよく言っていたのは「赦す」という事で、「シマフクロウとサケ」の物語の中でも「赦す」という事が出て来ます。

2022年9月8日木曜日

平川冽(英語指導者)          ・カムカム・ダディを語る

 平川冽(英語指導者)          ・カムカム・ダディを語る

今年3月まで放送された朝の連続テレビ小説「カムカムエブリバディ」その英語の先生「カムカムおじおさん」こと平川唯一の詳しい伝記を息子さんの冽さん(81歳)が書きました。  終戦直後の日本に社会現象までになった「カムカム英語」を広げて国民を元気づけた「カムカムおじおさん」とはどんな人だったのか、又超人気番組はどのように作られ、戦後の日本に何を残したのか息子さんの冽さんに伺いました。

父は岡山県の高梁市の農家の次男として生まれました。  祖父が定次郎と言いまして、米相場に失敗して借金を返済するためにアメリカに出発しました。  父、兄と一緒に祖父を迎えに行きました。  父はアメリカの家庭に住み込みながら17歳で小学校に入りました。    3年間で卒業して次はハイスクールに行って、雄弁大会では準優勝するまでになりました。  その後ワシントン大学に入学して演劇のコースに入って首席で卒業しました。  その後ハリウッドに出て端役までやりました。  イングリッシュアクセントとかアメリカンアクセントの両方を覚えて、後のNHKでアナウンサーをするきちっとした原稿読みも出来るようになりました。   すべてのテキストを自分で考案して作りました。  

父は牧師補という免許も取って、その後母親となる人が日本から教育に関する代表で行ったらしいんですが、教会で英語を教えらりするのがきっかけで結婚したらしいです。  1937年19年ぶりに日本に帰国しました。  NHKで海外要員を捜しているという事で、試験を受けてNHKに入社しました。   50人受けて2人が入社できたそうです。   

入社して海外へのアナウンサーを7年間しました。  戦争になり、自分の意に反することを放送しなければいけなくて心残りがあったようです。  昭和20年8月15日天皇の玉音放送があり、その玉音放送を父が英語で放送しました。    全世界に流れるので、父はこれほど緊張した放送はなかったと言っていました。    

横浜に小さい放送局を作るという事になり、そこに行ったら物凄く汚かったので、父が部屋の隅々から便所まできれいに掃除をしたら、マッカーサーが大変喜んでマッカーサーに気に入られてマッカーサーとの縁が始まりました。   スタジオが小さすぎて占領軍は気に入らなくて、NHKを接収しようという事でアメリカの大佐の通訳をして、NHKの幹部の人が部屋に閉じこもって会議をしていたらしいんですが、大佐が言った一番すごい言葉が「開けなければ発砲するぞ」という事で、通訳せざるを得ず言ったら顰蹙を買って、「7年間お世話になりました。」と言って直ぐ退職したそうです。   「人と喧嘩をしてはいけないよ、あの時にいい訳を言わずに感謝の気持ちで辞めたから、カムカム放送につながったんだよ。」と言っていました。 

辞めた2か月後に、今までと違ったやり方で英会話の放送をしてもらえまいかとNHKから話がありました。   考えてイメージが浮かんで1週間後に快諾しました。   英語を自然に面白く大衆化し、家庭内にも取り入れる実用的な面に応用しうるものにしたいと思ったらしいです。   父は英語教育をしたことは一遍もないんですが、アメリカの小学校生活が役に立ったと思います。    昭和21年2月1日午後6時30分英会話放送がスタートします。    5つの方法を上げていました。  ①勉強とか苦しい努力をしないこと。  ②赤ちゃんが母親の真似をするように私の発音の真似をしなさい。  ③できれば家族とかでこの番組に参加してほしい。  ④習ったことを日常会話で使いなさい。  ⑤完全な英語をしゃべろうとむやみに考え込まないこと。 「証城寺の狸囃子」の童謡を聞いてこれをテーマソングにしたいと思ったそうです。  日本の家庭を題材にしてテキストを作っていました。  テキストにはネイティブの発音に近いカタカナを書いて発音するように工夫していました。    テキストはなかなか手に入らないような状況だったようです。 20万部から或る時には50万部いったそうです。  聴視率は24,5%あったと言われています。

毎日15分の生番組で体調管理とか大変だったようです。   経済界の有名な人々とか、後に「百万人の英語」を担当ことになる五十嵐 新次郎さん、NHKテレビで最初の英語の先生で田崎清忠さんとか父の大ファンです。  ファッション界の芦田 淳さん、歌手のペギー葉山さん等も「カムカムベビー」と言っていました。  「南国土佐」を英訳したのは父で、ペギーさんはそれをアメリカで歌いました。   当時「カムカムクラブ」が1000ぐらいあったそうで交流をはかっていたようです。   「カムカム英語」は9年6か月続きました。(NHKと民放合わせて)  ファンレターは50万通以上きて、すべて管理していました。  

引退後はテニスをしたり、自宅では英会話を教えたりしていました。   春の叙勲を受けました。    春の園遊会でお言葉を頂いて、硬直して帰りは足がつっちゃってタクシで帰ってきたそうです。   父は本当に優しい人でした。 叱られたという記憶がないです。   「辛いことがあっても新しいページは開くんだよ、良いことだけを考えて居なさい、それが幸福につながるんだよ。」といつも教えてくれていました。  「BeDifferent 」「人と違う事をやりなさい。」という事はしょっちゅう言っていました。   私は大学卒業後、小さな会社に入って自分で貿易部を創設しました。  ウクレレが得意だったので、東南アジアのテレビ局に英語で書いて出演させてもらって、最後にこういうものを売っていますと、宣伝して、10年後には自分の貿易会社を作るまでに発展しました。  今でも英語とウクレレを教えています。  12年前にカーネギーホールでウクレレのソロ演奏をしました。   

平成5年91歳でも父は亡くなりました。  「Be Different 」 父がそうだったんだなあと思って、感謝しています。