2022年9月7日水曜日

原田美枝子(女優)           ・記憶が薄れても、消せない想いをとらえて

 原田美枝子(女優)           ・記憶が薄れても、消せない想いをとらえて

朝ドラ「ちむどんどん」大城房子役で出演、はまり役だねとか言われています。  西洋料理店のオーナー役で、着物にしようというのは演出サイドの方の提案です。   屋台からたたき上げて大きな店を構えたが、イタリア料理を修業に行ってそこから日本を見た時に、自分は日本文化のことを何も知らないであろうと思って、帰ってきて外国から見た日本の良さみたいなものを感じて着物を着てと言う事に設定しませんかという事でした。  47年振りの朝ドラ出演です。  「水色の時」という作品で大竹しのぶさんが主役で、私は大竹しのぶさんの弟の友達の役でした。  

「ちむどんどん」で記憶に残るシーンは従業員が3人辞めて、店を閉めましょうと言うんですが、私が厨房に入ります、というシーンのところです。  初めてコックコートを着て気持ちも引き締まりました。  包丁も練習してプロ用のものを使いました。 房子は芯を通してきた人なので、一つ一つの言葉に面白みがあるというか、ただ厳しいだけではなくて、背中を押したり、わざと落としたりして信子を育てて行く様な、そういったところがいいと思います。  結婚式のセリフもいいなあと思いながら言っていました。  「汝が立つ処深く掘れ、そこに必ず泉あり。」、ニーチェの言葉ですが、かっこいい役をやらせてもらったなと思います。  片岡鶴太郎さんの三郎役とは自分が歳をとったという事を見せたくないし、見られたくないし、というのが乙女心に有るんでしょうね。  何十年か前の気持ちに戻ってしまうんでしょうね、きっと。  

これからは信子が自分自身の本当にやりたい事というのを捜して、地に足をつけて大地に根っこを生やしてゆく時期だと思います。  ここからが本当の信子の成長の仕上げの感じかなと思います。  

一昨年公開されたドキュメンタリー映画「女優 原田ヒサ子」、自身で制作、撮影、編集、監督とすべてに関わってできた映画です。   24分の短編ですが、私の母が認知症が始まって、私は一緒に住んでいたわけではなくて、父と住んでいました。  父が亡くなってから認知症がどんどん進んでしまって、軽い脳梗塞で病院に入った時に、「私15歳の時から女優やってているの。」と言ったんです。   どうして母がそういうことを言うのかなあと思っていたら、母は私を我がことのように、一心同体になって体験をしているような気持になって見守ってくれていたんだなあと思ったんです。   認知症になって押さえていたことがハラハラ取れて行った時に、ポンと出てきた言葉なのかなあと思いました。  母は女優さんをやってみたかったのかなと思うようになって、そうだデビューさせてしまえばいいんだとひらめき、撮影してみようと思いました。   そういう事が無かったら母のことを深く考えなかったです。    

頭の中ではその世界に生きているのかなあと思いました。   ピュアな部分、一番大事にしているものとか、一番強く思っていたこととかが出てくる気がするんです。     「今は年齢的に役が難しくなってきて、子育てもあるしね」という言葉を何べんも言っているが、私が言ったとは思えなくて、母がそう思って心配してたんじゃないでしょうか。  2020年3月に公開されましたが、お客さんが街から消えた時期でそれが残念でならないです。    観てくださった人は認知症に対する考え方が変わったとか、両親を大事に思うようになったとか、感想をいただきました。  ぎりぎりのチャンスで撮ることが出来ました。   晴れ着を着て気持ちも引き締まり、美しいショットが撮れたので、普段では見られない母の顔だったと思います。   ホームページがあるのでそれを観ると案内が出ています。

映画「百花」で菅田将暉さんとW主演。 (9/9公開)  私の役はピアノ教師をしながらシングルマザーとして男の子を育てている役で、息子は結婚して外に出ています。  認知症になって行って、息子は封印していた記憶を少しづつ取り戻してゆく。   ピアノは一生懸命練習をしました。   グランドピアノの音に包まれているような感じで、撮影は終わりましたが、ピアノが好きになってしまって今でも続けています。  菅田将暉さんは息子と同年代の人ですが頼れる俳優さんで、この人と一緒に仕事が出来て良かったなと思います。  川村元気監督とは自分としては何をやりたいとか言いあったことで、この人のことは信頼できると思えたので次に進めました。   なかなかOKが出なくて、どこが悪いのか修正したくて聞くんですが、「いや、もう一回」という事になるんです。  川村さんは何度もやる事で煮詰まって来るというか、違う工程を通ると次の深みのある、その次は、そういったことでやっていたのではないかと思います。   溝口健二さんは「違います。」しか言わないそうです。  「貴方は俳優でしょ、自分で考えなさい。」と言われてしまうんだそうです。  昔はフィルムの時代で高かったので、テストを沢山重ねて本番となるので、そういう様に芝居を詰めてゆくという事は大事だと思います。   矢張り煮込んでいった方が奥にあるものが出てくるような気がします。   OKが出て泣いてしまったことが2度ほどありました。  

人は記憶で出来ている、人は主観で生きている。  一つの出来事をそれぞれ違う思いで記憶していて、その記憶の不思議さ、思い出のあいまいさ、それを息子とお母さんのかかわりの中で、最後に一番大事なものにたどり着くわけですが、それは言葉ではうまく説明できる事ではなくて、映像の持っている一番いいところ、映像には映るような気がします。  それを川村さんは映し出したかったんだろうと思います。  コロナ禍で落ち込んでしまいましたが、ドラマを観てドラマって人を元気いさせる力があるんだなと思いました。   自分は俳優なので一生懸命やろうと思って「ちむどんどん」「百花」という仕事をさせてもらって幸せでした。  元気を与えられたらいいなと思いました。



2022年9月6日火曜日

滝野文恵(シニアチアダンスチーム代表)  ・人生も、弾んで踊って楽しんで

滝野文恵(シニアチアダンスチーム代表)  ・人生も、弾んで踊って楽しんで

滝野さんは90歳、60歳の時にチームを結成し、今も現役で練習に励んでいます。   今年11月にはその成果を披露するチャリティーショーを開催するそうです。  チアダンスを始めたきっかけや新しいことを挑戦することの心構え、人生を楽しむコツなどを伺いました。

チャリティーショーでは10曲ぐらい出すので、ゲストを呼んで1時間半から2時間ぐらい、4組に分かれて1人が4~7曲踊ります。   全員で踊る曲が3曲あります。   私は全部で4曲踊ります。  メンバーは全員で23名、平均年齢は70歳です。   日本で最初に始めたシニアチームなので老舗と言った感じです。   入会資格があり、55歳以上、容姿端麗(自称)、という風になっています。   衣装は年に一回ぐらいは注文しています。  きらびやかな衣装を着たり、お化粧をしたりすると気分が違います。   練習は30分の柔軟体操と1時間半の踊りです。  その後1時間ぐらい自主練習をします。  

先生が曲を選んで、年2曲を習います。  ビデオを撮ったり自分でメモ書きしたりしています。  練習は週一回で後は自宅で振りをやっています。  団体で踊るので合わないと問題なのでそこが大変です。  新しい方は振りは覚えてもフォーメーションがなかなか覚えられない。  結構頭を使わないといけない。   27年間やってきました。 

チームを結成したのが1996年、63歳の時でした。   アメリカでチアのシニアのチームがあることを知りました。  やろうと思って郵便番号を書いてリーダーのところに手紙をだしました。  奇跡的にリーダーの方に手紙が渡りました。  その方がたまたま長くパートで郵便局に長く勤めていて、郵便局の人がきっとあの人だという事でリーダーさんに渡りました。   すぐ返事が来ました。 折り返し手紙を出したりしてやり取りを重ね写真などいっぱい送ってもらいました。   

友達に話をしたら、4人ぐらいが乗ってきました。  青学に行って、教えを請いに行きました。  年に1曲ずつやっていましたが、7年目にチャリティーショーを始めました。  勇気、元気を差し上げることが出来ることをその時実感しました。   世の中への還元と言う思いもありました。   手土産のやり取りはいろいろややこしいのでそれはこのグループではやらないことにしました。   なかなかこれが難しくて徹底するのに数年かかりました。 年賀状、冠婚葬祭など一切禁止でやっています。  練習は夜6時から8時までで、早く帰宅したいという事でつるんでその後どこかへ行くという事もなく、それも長く続けられてきた要因かもしれません。  

1932年(昭和7年)生まれ。  関西学院大学を卒業後、1年間アメリカに留学、25歳で結婚、2人子育てが終わって53歳の時に再度アメリカに留学、老年学を学び老年学修士号を取得。    両親から進学してほしいと頼まれました。   専門学校に行って1年行ったら短期大学に替わりました。   乗馬を見てこれだと思って、乗馬をするには関西学院大学しかないという事で関西学院大学に入ることにしました。   卒業後、父が自立できるようにならないといけない言うことでアメリカに留学することになりました。     色々あって52歳で家出しました。    

父は世間から見れば成功した人生だと思いますが、最後の半年が寝たきりになり、自分の人生は無だったとかすごく嘆いて、これ以上食べると長生きするから食べたくないとか、言い出したらしいんです。  そのことは父が亡くなってから聞いました。  物凄いショックでした。   寝たきりになる前は、自分は寝た切りになっても絶対人生最後まで楽しむと豪語していました。   寝たきりになっても、スイッチボードを作って音楽が聴けたり、テレビが観れたり出来るように自分で準備していました。   でも嘆きの人になってしまいました。  関西にいたので月1回程度会いに行っていましたが、結婚生活もいろいろあって、子供のために犠牲になって愚痴ばっかりいう人生は厭だから、兎に角家を出ようと思って家を出ちゃいました。(息子が就職した年)   53歳の時に米国へ再留学し戻ってきてチアダンスチームを作りました。    スカイダイビング、ウクレレ、語学の勉強などいろいろ挑戦してきました。    

世間の人がどう思うんだろうという事は比較的ないです。   自分の人生だからしたいことをしないと、周りの人から言われて辞めるという事は自分の人生ではないんじゃないかなと思います。   大事なことは相談しないです。  チアをやってきたことで友達も増えたし、身体も健康で、脳への影響もよかったのかなと思います。  娘は近くなのでちょこちょこ来てくれますが、息子はそれほどでもありませんが、今は子供たちとも仲良くやっています。    健康食はあまり好きではなく、食べたいものを食べて飲みたいものを飲んでいます。   面白くなくても笑えと、そうしたら楽しくなると思います。   笑顔を作るという人がいますが、或る程度本当じゃないかと思います。


 

2022年9月5日月曜日

穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】枡野浩一

 穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】枡野浩一

Eテレでは「究極の短歌・俳句100選ベストセレクション」という放送がありました。  東大の渡辺先生、歌人の栗木京子さんと私が短歌部門を担当しました。   千数百年の歴史の中から究極の50首を選ぶという無理な企画なんですが、50首の作者の誰かを選ぶのは結構一致しますが、どれとなると全然意見が合わない。  

枡野浩一さんは1968年東京都生まれ、大学中退後広告会社のコピーライターやフリーの雑誌ライターを経て1997年短歌絵本「てのりくじら」「ドレミふぁんくしょんドロップ」で歌人デビューしました。  簡単な現代語だけで読者が感嘆、感心して褒めるような表現を目指す、感嘆、短歌を提唱されて、又短歌をちりばめた小説「ショートソング」はおよそ10万部のヒットとなり、短歌ブームを牽引しているおひとりです。  短歌以外にも絵本、童話、詩、評論を手掛け多方面で活躍されているところは穂村さんと一緒です。  

「毎日のように手紙が来るけれどあなた以外の人からである枡野浩一全短歌集」というタイトルの短歌集をだしました。  

18歳のころ、俵万智さんの「サラダ記念日」を母が買ってきて、見て自分でも作ったがとても作れなくて、実際に作り始めたのは20歳の時に、たまたま短歌が一気に生まれる日があって、100ぐらい短歌が出来て、最初の一首は本には出ていないんです。  

「今夜どしゃぶりは屋根など突きぬけて俺の背中ではじけるべきだ」  枡野浩一    普通雨など避けたいものですが、何か大きな出来事があったのか、どしゃぶりがいっそのこと屋根など突きぬけて自分の背中を打ちつけてくれ、はじけるべきだも凄く強い言い方。 絶望みたいなものがありながら、裏返るような不思議な快感を感じます。 

枡野:サークルの先輩が亡くなってしまった時に作りました。    

「街じゅうが朝なのだった店を出てこれから眠る僕ら以外は」     枡野浩一    起きた人にとっては朝なんだけど店を出てこれから眠る僕らにとっては朝ではなく夜の続き、僕らは少数派なんですね。

「私よりきらきらさせる人がいる私がやっと拾った石を」       枡野浩一     一種の比喩のようなものだと思う。   自分がやっと手に入れたものをもっと簡単に最初から持っているような人がいて、それを自分よりもずっと輝かせている、というような気持ちってわかりますね。

「私には才能がある気がしますそれは勇気のようなものです」     枡野浩一    一首前の歌と矛盾するようですが、これは繋がっていると思っていて、若い時には才能とか気にするが、30,40、50代になって来ると才能のことはどでもよくなって、大事なのは勇気とかという事にじわじわ気付いて来る。  この歌は衝撃的でした。 

枡野:この歌は自分らしい歌だと思います。

枡野氏が選ぶ穂村氏の短歌。

「パンツとは白ブリーフのことだった水道水をごくごく飲んだ」     穂村弘     穂村さんはある永遠的なものを捉える歌人だと思いますが、時代の刻印を押されたものに眼を向けた感じがこの歌の面白いところだと思います。  

「意味まるでわからないままぱしぱしとお醤油に振りかける味の素」   穂村弘    意味まるでわからないままかけていたという感動、子供時代のことを大人になって振り返ったからこそ書ける、大人の視点があるから書けるものだと思います。  

穂村氏が選ぶ枡野氏の短歌

「雨上がりの夜の吉祥寺が好きだ街路樹に鳴く鳥が見えない」       枡野浩一

雨上がりの夜の空気感がファーっと再現されるような、嗅覚、視覚、聴覚と言った感覚が複合的に表現されていい歌だと思います。  

「好きだった雨、雨だったあのころの日々、あのころの日々だった君」   枡野浩一    意味の区切りと5,7,5,7,7の区切りがずれているが、しりとりみたいな感じになっていて、特別な形をしている。  

「真夜中の電話に出ると「もうぼくをさがさないで」とウォーリーの声」  枡野浩一  ウォーリーを捜せと言うゲーム性のある絵本があるが、本歌取りの元ネタを歴史的に遡った過去の有名な短歌ではなくて、ジャンルが違っても同時代の横の作品、それから持ってくる技法ですが、枡野さんはそれを先駆けてやっていて、しかもこれは使い方が上手ですね。

「あじさいがぶつかりそうな大きさで咲いていて今ぶつかったとこ」   枡野浩一    「今ぶつかったとこ」という表現が不思議な衝撃がある。   魂とか脳みそとか比喩に見えてきて、新しいスタイルをここで発見している歌だなと思います。

リスナーの作品

*「このさら地なんだったっけと考える判らぬ怖さ判る寂しさ」   気まぐれウサギ

*「飛行機もトンボもバックしないから君が空へと吹くハーモニカ」 春木敦子

*印は漢字、かな、氏名の文字がが違っている可能性があります。







2022年9月4日日曜日

京田尚子(俳優・声優)         ・【時代を創った声】

 京田尚子(俳優・声優)         ・【時代を創った声】

「それゆけアンパンマン」のおむすびまん、「ポパイ」の彼女のオリーブ役、ほか数多くの映画の吹き替えで活躍しています。

コロナ禍ですが、4回接種を終えて外へ出るのが好きで買いものなど楽しんでいます。    凝り性で、いろいろ買ったりするんですが、忙しくてなかなかできなくて、そのうちに別のところに気が移ってしまったりしています。  今はお花に興味があって本を買ってきて、生け花、など楽しんでいます。   芝居って何だろう、台詞って何だろう、声って何だろうと悩んできましたし、今でも悩んでいます。   演技は下手だと痛感していたので苦しかったです。  

小学校2年生ぐらいからNHKのラジオドラマに出演。  当時は軍国主義の教育でしたが、その小学校は自由主義で、一人一人の個性をよく見て、私は俳優があっているという風に見られました。   児童劇の草分け的先生がいて、その先生がNHKのドラマも書いていて、先生が私をラジオドラマに出してくれました。   当時は全て生放送でした。  中学、高校は兵庫県の芦屋市に住みました。   蜂窩織炎による骨膜骨髄炎という骨の中に菌が入って血液によって全身に回ります。  弱い組織のところに菌が繁殖する。   戦時中で薬はないし医者もいませんでしたが、父が商社マンで戦争があるということでインドから引き上げ船で帰ってくる時に、薬を一杯持って帰って来ました。  3人この病気にかかったんですが、父が持ち帰った薬を一杯飲んで私だけが生き残りました。  そんなことで学校は半分ぐらいしか行っていませんでした。   ちょうど学制の変わり目で、中学4年、女学校5年、高校3年、どれで出てもいいころでした。   兎に角芝居がしたかったので、東京に出てきて短大に入って、芝居のまねごとをしていました。  

友達が養成所があると教えてくれて、昼は学校、夜はそのに養成所に行きました。    文学座堀越節子さんの付き人のような係になりました。   脇役や老け役志向で、「芝居というのは脇が作るのよ、ちょっと出てきてぴったりの感じの人を使わなければならない、だから脇は難しいのよ。 人生経験の豊かな、ひとこと言っても味のある深みのある、そういう人がやるものなのよ。」と母から言われました。 脇役の仕事は多く来ました。  声の幅を広げようと思って最初は声学の勉強をしました。   歌うような声になってしまって、悩んで、日本語ののセリフを旨く言うにはどうしたらいいか考えて、狂言教室に通って、怒鳴られながらも身についていきました。  努力をすれば身に付いて来る、という事が判り、それが力になりました。   義太夫も習いました。  10年やりましたが、なんて難しいのだろうという事が判りました。    三味線の心理描写、情景描写の音色に合わせて即興で作っていくわけです。   

「ポパイ」の彼女のオリーブ役、高い声が出せました。     1997年ジェームズ・キャメロン監督「タイタニック」で歳をとった主役のローズ役の吹き替え。   それまでいろいろ苦しみましたが、ローズ役は全く苦しまなかった。   本人になったような感じで凄く不思議な経験でした。   「それゆけアンパンマン」のおむすびまん、男の中年がどうして私に来るのと思いましたが、いいディレクターは深いところを見てくださるんですね。  そういったことが最近になって判って来たところがあります。   おむすびまんも30年ぐらいになります。  吹き替えでは向こうの人に寄り添わなくてはいけない、自分の生理に合わなくても寄り添わなくてはいけない。  いい作品のちょっとした役、いい女優さんがやっているのはとっても楽しいです。   アニメはどっか遊び心がないと、人間を見る目が直感的に大きく捕まえる能力が有った方がいいですね。   

努力すればやっぱり結果が出ると思うんです。  いっぺんどん底を見た方がいいですね。若い時にはお金を出しても苦労した方がいいと言いますが、これは本当だと思います。  苦労は未来に対する投資ですね。   若い人に対しては、本当に好きならば何としてもかじりついてやりなさい、そうじゃなかったら一回限りでも楽しんで、別の世界に動けばいいんで、今の自分を作るのは昨日の自分なので、明日の自分を作るのは今日の自分なんですね。  必ず見ている人はいると思います。   自分を大事にして捨てないことですね。 もうできないですが、アテレコの翻訳は面白いと思います。   言葉、文化、習慣、その国の生活など、それと日本の語彙、日本の文化なども知らないといけないし、それが出来たら大変な仕事だと思います。  訳すための制約はあるし、表情に合わせるように翻訳することが難しい。  生まれ変わったらこの仕事をしたいです。

2022年9月3日土曜日

前橋汀子(バイオリニスト)       ・バイオリンと生きて 演奏活動60年

前橋汀子(バイオリニスト)       ・バイオリンと生きて 演奏活動60年 

日本を代表するヴァイオリニストの前橋さん、今年プロとしての演奏活動60年を迎えました。  ヴァイオリンとの出会いは戦後すぐ、幼稚園の情操教育の一環でたまたま勧められたことがきっかけでした。   当時日本在住でロシア出身の音楽教師小野アンナさんに手ほどきを受けたあと、1961年17歳で旧ソビエトのレニングラード音楽院に入学、その間にプロの演奏家としてデビューしました。   以来ニューヨークやスイスを拠点に活動を続け世界的な演奏家や指揮者と共演してきました。  1980年からは日本に拠点を移し、関西の音楽大学でも指導してきました。   今も年間50回も公演を行っています。    60年間第一線で演奏活動が出来た秘訣と音楽への思いを伺いました。

60年はあっという間のような気がします。   幼稚園の情操教育の一環でヴァイオリンを始めてこんなに長く弾き続けて、いろんな経験が出来たので、ヴァイオリンを与えてくれた母に感謝しています。   当時渋谷公会堂しかなかったが、世界一流の演奏家の演奏を聞いて、子供心に私もあのように弾きたいと思いました。   同じ楽譜だけれども弾くたびに、新しい発見とか気付きがあるんです。   それが新鮮で、それの繰り返しですかね。  若いころには10~12時間練習をしました。   今はそんなには弾けないのでイメージトレーニングとか、ハンドバックに楽譜を入れていつも見れるようにしています。      今は、簡単に言うと知恵と工夫で練習をしています。  身体のメンテナンスのためにはトレーニングを欠かさずやっています。   トレーナーの人に来ていただきて体幹を鍛える事とかいろいろやっています。   数時間は楽譜を見ていろいろ研究しています。   あんまり練習すると指が痛くなってそれもよくないです。   

10代の時にソビエトで厳しい奏法を訓練して沢山練習をしたことは、これまで弾き続けてこれた一番大きな基盤になっていると思います。    冬はマイナス20~30℃になり、行列して食べ物を手に入れたりする時代だったので、そんな中で頑張って勉強していたのを懐かしく思います。  文化、日々の暮らしなどから演奏の土台になるものがありました。  音楽の好きな国民ですから、そこでいい経験をさせてもらいました。   魅力のある先生、演奏家にじかにあったり、話をしたりしました。  アメリカやヨーロッパに行っていろいろな出会いがありました。   刺激を受けてニューヨーク、スイスにも暮らして、自然に触れたり、食べ物などを経験したからこそ判ったことはたくさんあります。  私の財産です。

弾くたびに新しい発見があり、表現するときの役に立っているかと思います。  引きだしが増ええているかなという感じはあります。   現役でステージに立てるという事は幸せなことだと思います。  初の自叙伝「私のヴァイオリン」を上梓。 若いころはお客さんにどう聞いてもらえるかという事を考えていましたが、最近は音楽、作曲した人に向き合うように演奏しています。  会場によっても毎回条件が違うので指使いとかも変えたりします。   山に登ってこれでいいかなあと思って見渡すと又高い山がある、という感じですかね。  その人の生き方、暮らし方とかが音に大きく反映してくるんじゃないかと思います。   若いころのように体力、気力はありませんが、知恵と工夫で考えながら、まだ挑戦できるかあなと思っているので弾き続けて居ます。    身体のメンテナンス、食事など大事だと思います。  ヴァイオリンを持つとスイッチが入って、元気になります。   ヴァイオリンこれさえなければ、と思うような時もありますが、しばらく経つとやはり戻っちゃているんですね。    性格的にもヴァイオリンに没頭することが厭ではないんです。  

特に思いを寄せるのがバッハの無伴奏「ヴァイオリンのためのソナタ」と「パルティータ」、30曲以上からなるこの楽曲はヴァイオリン独奏の代表的作品です。  

「ガボット」 作曲:バッハ

5,6歳ごろ弾いた曲です。  10,20代もバッハに触れていますが、そのときよりも遥かに自分の思っていることがストレートに音が表現できるようになったのかなと思います。 今でも新しい発見があります。    芸術、音楽は国籍、宗教、人種などに関係なく心が通じ合えるものだと思いたいです。   ソビエトに留学していたので今は非常に複雑な思いです。   今だからこそ音楽で会話が出来たらいいなと思います。  今まで当たり前だと思って演奏してきた毎回のステージがもっともっと大切に、いとおしく思うようになりました。   



2022年9月2日金曜日

あがた森魚(シンガーソングライター)  ・「赤色エレジー」とともに50年

 あがた森魚(シンガーソングライター)  ・「赤色エレジー」とともに50年

1948年(昭和23年)北海道留萌市生まれ。  小学校を青森、中学校を函館で過ごす。   1965年高校2年生 の時にボブ・ディランライクローリングストーン」(Like a Rolling Stone)に衝撃を受け、シンガーソングライターの道を目指します。   1972年「赤色エレジー」でデビュー、50万枚を超えるヒット曲となりました。  又映画監督、俳優としても活動し、1981年から84年にかけて放送されたドラマ「人間模様 夢千代日記」三部作に出演しています。   今年でデビュー50周年を迎えたあがた森魚さんに伺いました。

今年50年なのでいろんなことをやらしていただいて、50年になるが内側にあるものはあまり変わっていないという、そういう50年の感触です。  

*「赤色エレジー」  作詞・編曲:あがた森魚 / 作曲:八洲秀章   歌:あがた森魚

あの時代をこの曲で一緒に送ったんだなあと思うと、贅沢なことをさせてもらったなあという感じです。   1972年当時はフォークブームでした。   皆にエールを送りたいという思いがあり、作ってすぐになんかに似ていると思った時に、「荒城の月」を思い出して、いまはこうだけど頑張って生きて行くぞみたいな、そういった感じです。  21歳の時の作品です。漫画雑誌ガロ』に林静一さんが連載した「赤色エレジー」 青年・一郎と、その恋人・幸子のアニメーターになりたくて夢を追いながら同棲生活を描くものです。  勝手に主題歌を作ってしまったというのがこの歌です。  

1969年12月 URCレコード事務所へ赴き、早川義夫さんらの前で歌い、早川さんに薦められ、1970年1月「IFC前夜祭」で初ステージに立つ事になります。  

大橋巨泉さんの番組にたまたま下駄を履いて出て行ったら、面白がられ、他のテレビ局、NHKさんでも下駄で出てきても構いませんよと言われて、いつの間にか下駄がトレードマークになってしまいました。   歌いたくないと思ったことはないが、ちょっとしばらくはブランクを置きたいと思ったことはあります。   割と自然体で向き合ってきました。  

僕にはボブ・ディランという師匠が居て、もう一人文学者で稲垣足穂という師匠が居まして、この方の世界観が好きで、吉田兼好の「徒然草」のチャプターを引用して「美のはかなさ」を書いたんですが、そのなかに なんか昔これと同じようなことをしているなとかあると思いますが、ふっとそういう気持ちになるのは僕だけだろうか、と吉田兼好は言っている。  その感じを稲垣足穂は持っていて、もっと後の世代もきっと感じることがあると思うんです。   デジャブ(既視感)的な感覚(過去に経験・体験したことのない、初体験事柄であるはずにも関わらず、かつて同じような事を体験したことがあるのような感覚包まれること。「前にどこかで一度これと同じものを見たような気がする」という感覚。)は僕らが永遠に受けつぎ、未来に運んでいくだろうと、その累進は僕らがどう変形させるかによって、未来にもっと美しいものや、もっと僕らが楽しいものとして分かち合えるものに変形できるんじゃないかと、稲垣足穂と「徒然草」から感じたその世界も又僕の次の音楽って何があるだろうと、デジャブが未来のデジャブにどう歌えるだろうかみたいなことが、例えば僕の一つのテキストであろうみたいなところは有ります。

アルバムの数だけでも凄い数出していますが、その原動力というと、いろいろな言い方が出来るけど「欲深さ」ですかね。(笑)  いつも自分のなかに、やり足りていない、もっと今度あれをやろうと、いつもあるというか。  

飛鳥山で僕らは毎月最後の日曜日に稲垣足穂さんにプレゼントする「稲垣足穂ピクニック」というライブみたいなことをやってきます。  自分がやりたいことを分かち合おうという、それは今までも大事だしこれからも大事だと思います。   音楽なり音を出したり自分たちの素朴な感受性を響き合わせるという事をやりたいと思っています。   欲望なり、モチベーションなり、パッッションのようなものがあれば、やろうよって、僕らがいろんなものを分かち合って来た流れは、その中にあるのかなあと思います。  

9月22日に50年の節目のライブをやります。   その日に伝記本も出ます。




2022年9月1日木曜日

田宮俊作(会社社長)          ・プラモデル わが人生

田宮俊作(会社社長)          ・プラモデル わが人生 

プラモデルを戦後日本に広め、世界に日本のプラモデルの名を高めた人がいます。  田宮俊作さん87歳です。   今もタミヤの会長、社長として先頭に立って活躍しています。   田宮さんにプラモデルと共に歩んできたこれまでを伺いました。

コロナ禍の中でプラモデルの人気が高まってきています。  昔の製品の注文が結構あります。  日本だけでなく海外からが凄いんです。    最初にアメリカからプラモデルが入ってきた時には、余りにも簡単に出来ちゃうのでジェラシーを感じました。    こんなものはプラモデルではない、模型じゃないと思いました。    木工模型をやっていましたが、高校2年の時に木工機械が全部焼けてしまって再生できなくて、製材の機械を立ち上げてきたころにプラモデルが流入してきてしまいました。   人集めと何とかお金の都合をつけて金型を起こすことに苦労しました。    試行錯誤して戦車の金型を金型屋さんと苦労して作りました。  それが運よくヒットしました。   

早稲田大学に行きました。 兄弟7人でしたが、家を継がなければいけないと思いました。大学の卒業式の3日前にすぐ帰れと言われて、東海道線で何時間もかけて帰って来ました。 母親が後1週間持たないという事でした。  翌朝母親と20分ぐらい話をしましたが、それが僕の母親と話をした最後でした。   火事を起こしてしまって、社員もいるし、何とか盛り返さなければと思いました。   カスタマーサービスを担当して回りから喜ばれました。(木工の時からやっていました。)    カスタマーサービスという考え方は自分で考えました。   今でもカスタマーサービスは休みなしです。   土、日は8時から5時まで、ウイークデーは8時から8時までです。   壊れた部品の交換部品のをお客様に発送するときには手紙付きで発送します。  小学生だろうと大人だろうとお客様に関係ないです。   こちら側に設計のまずさがあったかもしれないし、それをお客さんとやり取りしています。  そういう手紙のやり取りでうちの社員になった人が2人います。    うちのプラモデルで楽しんでもらいたい。  それはありがたい話です。  

外国のお客さん、代理店も、タミヤだけが大きくなってはいけない、共存共栄、あなた方もタミヤと一緒に成長してください、そういう方法でやっています。   東南アジアも立派なお客さんになってきています。  今、台湾、韓国、バンコックとも仲がいいです。  東南アジアの代理店をやっている社長の親父さんの代から付き合ってますから。      僕がカスタマーサービスを始めたのは23歳で会社に入ってからです。   そういうことをやらなければお客さんに申し訳ないと思いました。   多少お金がかかってもいい印象を持ってもらえると思います。   買ってもらってうちの製品に不備があったとか、材料にもろさがあったとか、そういう事を心配します。   子供も多いですし、そういった時にはサービスします。   メーカーとしての当たり前な親切心です。   こういう事ばっかりやっていると儲からないとおもいましたが、それで信用が付きましたし、お客さにも喜ばれました。   

1965年にホンダのF1が優勝を果たしました。   1967年にドイツに行って、ニュルンベルク国際玩具見本市に出展しないと名が知られないと思って、1968年に小さいスペースを貰って出展しました。   F1だなあと思いました。  タイヤがよかったです。   ヨーロッパで日本のプラモデルを認めてもらうために勝負に出たのがホンダのF1でした。 本田宗一郎さんの考え方は違っていましたね。   羽田の倉庫に行って、図面はないですが巻き尺で寸法を測りました。  写真は時間の限り撮りまくります。  要所要所の寸法を測ります。   当時1/12というF1はなかったです。  あの大きさがよかったです。当時インチスケールのもので1/12としました。   夜中の12時に父親に物凄い反響だったと電話をしました。   会社をプラモデルで経営できるようにしなければならない、それをやらなければ無理だったんですね。 

ミニ4駆の発想は、4輪駆動という言葉がはやり始めて、4駆の雑誌が出て来ました。   4駆の時代が来るのかなあと思て、作ってみました。   これがヒットするまでに7年かかりました。   コースでレースをやるようになってからヒットしました。   最初はモーターがついて500円で買いやすかったですね。(40年前)    今、ミニ4駆のお客さんの8割は大人です。    プラモデルは或る意味F1です。  誰もが競争できる、一番身近なレーシングカーです。    

一番の原動力は、会社を立て直さなければいけないという事と、僕は模型が子供の時から好きでした。  最初アメリカに行った当時、メードインジャパンは不良品の代名詞でした。 相手にされなかった。  世界で品質で一番に成ろうと思いました。  今は品質では一番になっています。  実物は立派なストーリーがあり、そのストーリーが面白い。  前書きを読んで模型を作ってくださいと、それが面白んです、模型は前書きが重要なんです。

田宮さんはプラモデルには絶対しないものが1つだけあります、それは日本に原爆を投下した飛行機B29です。  原爆で犠牲になった人とのことを考えると、余りにも悲惨で作る事は出来ませんと言います。 アメリカに行くと必ず「ミスター田宮はどうしてB29を作らないのか」と聞かれるそうですが、その答えは「私がどうしてB29をプラモデルにしないのか、アメリカ人のあなた方が考えなさいよ。」だそうです。