2020年8月7日金曜日

池田明美(紙布作家)           ・和紙と語る

池田明美(紙布作家)           ・和紙と語る
紙布は折りたたんだ和紙をmm単位で細く切り、よりを掛けて糸にし、その和紙の糸で織った布です。
紙布は江戸時代に盛んに作られましたが、明治以降和紙の衰退とともに忘れられていきました。
池田さんは宮城県白石の伝統工芸白石紙布を織る紙布作家です。
池田さんによりますと白石紙布は肌触りが良く夏は涼しく冬は暖か着心地は大変軽いということです。
軽くて汗取りもよく乾きも早くて、水に通せば通すほど丈夫になる紙布はまさに日本の気候風土に合った織物だったのではないでしょうか。
池田さんは紙布つくりの難しさはなにより紙糸作りにあるといいます。
熟練の和紙職人がこうぞやかじの繊維を並べるように均一に薄くすいた手すき和紙、その和紙と語らいながら裁断し、もんでと入りをかけかみ糸を作る、この過程が白石紙布の最も難しいところで、同時に自分にとって一番楽しい時だといいます。
和紙と向き合い和紙の声を聴きながら糸にし、紙布を織る、幾重にも手をかけ時間をかけて紙布を織る、そんな手作りの機織りの音もお楽しみください。

縦糸は絹糸を使います、横糸は和紙を2~5mmに裁断してよりを賭けた糸で織った布を白石紙布と言っています。
伊達藩、仙台藩が奨励庇護して育てたものです。
白石藩主片倉さんの処で山にこうぞ、かじを植えて和紙をすき加工して紙布を作り上げていきました。
伝統工芸展に出品しています。
紫色が縦に入っています、ほかにもいろんな色が入っています。
草木染をするので紫から藤色まで段階的に使っています。
数えると十何色入っていますが、見た目には白と紫の二色になります。
白がかじ和紙の色で水にさらせばさらすほど白くなるのがかじの特徴です。
こうぞ和紙やかじ和紙は紫外線を受けることによって白く漂白されていきます。
今回出したものは夏ものですからよりを強くして、さらっとして肌触りが良くて汗をかいても肌に触る部分は紙なので汗をよく吸い取ってすぐ乾きます。
着心地は最高だと思います。
和紙は空気が抜けますので着ていても蒸れないです。

青が大胆に使われた単衣、太古の海という藍の板締めかすりの着物です。
13年前のものです。
大きな海原をイメージして作りました。
板と板の間に布を挟んでねじで締めあげて藍の桶に突っ込み、引き揚げて板の凸凹している部分があるのでその凸凹に応じて柄が出てきます。
絹織物の半分ぐらいの重さになります。
帯、白地に藍の水玉模様。
5mmぐらいの幅に切って、木綿糸よりもちょっと太い糸を使います。
縦も横も紙なので滑りがないので帯が緩まないし軽いし閉め心地はいいと思います。
糸は太いので着物に比べて作るのはずーっと楽です。

畳一畳分を1/3に切った和紙で3匁という和紙を使っていて、その紙をWの形の折りたたんで、折り紙の提灯を作る時の方法と同じです。
切れ込みを入れていきますが、着物用では2mmにしています。
きちんと切れていることを確認しながらやります。
次が紙揉みで、切ったものを広げて屏風状に細くたたんだものを石の上でもみます。
石は溶岩石でもみます。
横幅60cm、縦が50cmぐらいの紙の両端が繋がった状態でそれをを折りたたんで、湿したタオルの間に挟んで、石の上でもみます。
溶岩石が水を吸い取るのでもみ終わるころには紙はほぼ乾きます。
手のひらで転がすようにやさしく揉みます。
その後一本一本バラバラになるように叩きます。
すきての技で繊維が縦になるようにすくので切れないようになります。

広げた紙を切れ込み2本ずつちぎって指の先で転がすようにして粒を作っていきます。
端っこからほぐしていきざるの中に入れると一本の糸になって長く続いています。
揉んだ紙一枚で50~100mぐらいの長さになります。
糸車でよりかけをしていきます。
小豆が入っていてこんがらからないようになっています。
ざるには紙30枚分ぐらいが入っています。
取っ手を一回回すと1mで100回ぐらいの撚りがかかります。
和紙120枚を糸にしようと思うと2か月ぐらいかかります。
巻き取ったものをお湯の中に通して一晩干して、生乾きにしたものをかせという木の輪っかに戻していきます。
1000回回すと一かせ(50mぐらい)が出来上がります。
それを糸巻きにかけていきます。

作業の中でうんでいる(揉んだ後に2本ずつ切って長い糸にしてゆく作業)時と撚りをかけている時が一番好きです。
いろいろ25年研究しながら紙布と向き合ってきました。
出来上がった喜びはひとしおです。
紙糸つくりが紙布つくりの8,9割を占めるというような感じです。
25年以上前に父の介護をしているときに、アルツファイマーにもなっていて、向き合っていくことがつらくて、気が付くと泣いていました。
自分を立て直すために好きなことをやろうと思って、世田谷区で生涯学習の和紙造形と出会って、心に余裕ができて父の介護も出来るようになって自分も健康に戻ることができました。
先生から紙布を知ることになり、白石和紙のすきての遠藤さんご夫妻にお会いして、教えていただいて始まりました。
紙が糸になるということがすごいと思った記憶があります。
絶やしてはいけない布であるということを感じました。
水の中に紙布を浸けてそれを着て火の中に入ったら熱くないんだ、だから火の中を潜り抜けることはできるんだという話を聞いて、記憶に残っています。
大切にしている言葉は「道を楽しむ」という言葉です。















































2020年8月6日木曜日

大城鶴子(琉球舞踊家)          ・南風原のわらべ歌を命薬に

大城鶴子(琉球舞踊家)          ・南風原のわらべ歌を命薬に
沖縄の方言で大城さんの故郷の南風原町を「せいばる」というそうで命薬と書いて「ぬちぐすい」と読むそうです。
大城さんは琉球舞踊家として国内外で沖縄の魅力を伝える傍ら、30数年前から南風原町で
わらべ歌の普及活動に取り組んできました。
おじい、おばあから受け継いだわらべ歌は沖縄の平和の象徴であり、命の薬(ぬちぐすい)だといいます。
平和を願い歌い続ける大城さんに伺いました。(電話インタビュー)

*ちょんちょん歌 歌:大城鶴子

現在81歳で、9月に82歳になります。
幼稚園、小学校に行ってわらべ歌を教えたり、おもな仕事は琉球舞踊の教師をやっています。
南風原町は沖縄の一番南にあり、唯一海が見えないところで、部隊の豪があって負の遺産として保存し、それを通して活動しています。
6歳の時に太平洋戦争末期に、沖縄の学童を疎開することになり、熊本の八代に行きました。
対馬丸という船に乗ったんですが、那覇で浦丸という貨物船に乗り換えさせられました。
対馬丸はアメリカ海軍の潜水艦に攻撃を受けて1400名あまりいた人たちは沈没して亡くなりました。
乗り換えたおかげで今生きています。
長崎に落ちた原爆の原子雲を見ました。
20歳の時に又長崎の音楽大学に沖縄から留学しました。
高校の時に近くに教会があり美しい音楽がいつも流れてきてそれに気を惹かれて訪ねました。

小さい時から踊りはさせられていました。
卒業後中学の音楽の先生をしました。
ほかの音楽の先生は沖縄の歌などは教えませんでしたが、私は沖縄の踊り、歌も授業に取り入れていました。
私は学校を辞めて東京に行きました。
夫になる人は武蔵野美術大学にいましたが、その後結婚しました。
沖縄の復帰問題に参加して活動しました。
沖縄が日本に復帰して、沖縄南風原に戻ってきました。
沖縄の思いを伝える活動をしてきました。
沖縄は変わらないです、基地の問題とか。
南風原も変貌してきて、昔の南風原もなくなってしまうと思って、南風原音頭を作ることにしました。
音頭を自分たちで作ろうと言うことで、村々を全部回りました。
公民館にお年寄りをお呼びして歌ってもらったり、話をしてもらって、録画して音符にもして一冊の本ができました。
わらべ歌などどんどん湧き出てきました。
色々集めた中からそれを材料にして音頭が生まれました。

*南風原音頭 歌:大城鶴子

南風原音頭ができてから30年以上たっています。
わらべ歌楽譜集を作りました。
沖縄の言葉は忘れられたり、若者からは敬遠されることもあります。
それで本を作って子供たちに歌ってもらえるようにということで活動しました。
演奏できるように楽譜もついています。
今度はCDにして各家庭全員に配ろうと思っています。
琉球舞踊、歌、三線、わらべ歌と私には一つになっていると思います。
命薬(ぬちぐすい) 命(ぬち)に響いて自分の血となり肉になるんでしょうね。
歌が薬になるんで頑張って広めたいです。
姉がハワイに嫁いでいって、姉たちは活動を始めています。
その流れでハワイにはよく行って一緒に取り組んでいます。

*子守歌 歌:大城鶴子













2020年8月5日水曜日

瀧澤正治(映画監督)           ・「最後のごぜ」がのこしたもの

瀧澤正治(映画監督)           ・「最後のごぜ」がのこしたもの
瀧澤さんは東京生まれの71歳、今月から公開されるごぜを制作しました。
この映画は最後のごぜと言いわれた盲目の女旅芸人小林ハルさんの生涯を描いたもので構想から完成まで17年の歳月を費やしました。
ことしはハルさんの生誕120年にあたります。
この節目に瀧澤さんが伝えたかったものとは何なのでしょうか。

ごぜさんというのは日本全国に存在していて、平安から始まって明治、大正、昭和の中期まで居て、小林ハルさんというのは最後まで歌っていたということで最後のごぜと言われています。
視覚に障害を持つ方たちは按摩さんなり、鍼師なりごぜと職業があったんですが、ハルさんも最初は鍼師になるような流れもあったらしいが、鍼師の先生が飲むと非常に怖い先生に恋慕して、ハルさんはごぜさんに流れた見たいです。
ごぜさんは歌を歌う、浄瑠璃、浪曲を含めてその時代に合った演目を選んで歌っていた。
一年を通してほとんど巡業だったようです。
新潟に大きな組織があり500~1000人規模でした。
山に中の小さな村まで行きました。
そこでは情報をもたらす役割もありました。
ごぜさんが来るというと楽しみにしていたようです。

小林ハルさんに実際にあった方から聞くと背筋がぞくっと来るぐらいに突き刺さるような歌声だったそうです。
非常に人に対して丁寧で優しくて思いやりが深いということをお聞きしました。
生まれて3か月で白内障にかかって視力がなくなってしまって目が見えなくなってしまって、ごぜさんになったといわれています。
新潟の三条市生まれです。
105歳まで生きた方です。
50歳後半で撮った映画で2003年に公開しているときに、次の作品は何かないかなあと思いながらTVのスイッチを入れたらハルさんの番組でした。
こんなに苦労しても普通に人に対して優しいのか、どうしてやり返さないのか、神様とか助ける人はいないのかと思いました。
民族学者の佐久間惇一さんという方がハルさんを見つけ出して世に出したんですね。

昭和53年ごぜの伝承者として国の無形文化財に指定されました。
苦労が帳消しになって、素晴らしいハルさんに感動してしまって、自分で作れるかどうかわからないが自分で作ってみようと思ってそれから頑張ってきました。
視覚障碍者なので昔ですのでいろんな方からいじめを受けたことがありますが、ハルさんの場合はやっといい人に出会ったのに亡くなってしまって、又何年かしていい人に出会ったのに又亡くなってしまう。
つらい出会いと別れがあって、ごぜの同業者からもハルさんは本当にうんと苦労をしているんですよと言っていました。
それを乗り越えてくる力とは何なのかと思って、そういう部分も映画にしたいと思いました。
ハルさんの家は庄屋まではいかないがいい家で生まれ何不自由なく暮らしてきて、母親は独り立ちのために5歳のころから礼儀作法を厳しく躾けました。
ご飯の食べ方、躾け、着物の着方、たたみ方、荷造りなどすべてに関して厳しく教えたそうです。
それは娘に対する親の強い愛情を僕は感じました。
8歳で旅に出ることになり、ついたフジ親方はお金目当てで意地悪してあきらめさせようとしたらしいです。
新潟から巡業で険しい峠をこえて福島まで行って、又帰ってくる旅で、ハルさんに言わせると一番つらくて思い出したくない旅だったといったそうです。
15歳の時に親方と別れてサワ親方のところに行って自分の娘のようにかわいがって旅に行きます。
学校も行っていないのですが、親方が「いい人と歩けば祭り、悪い人と歩けば修行」、ということでごぜさんの心というか愛を教えてあげてゆくんですね。
ハルさんのご霊前の前で必ず映画を作りますからと、自分の中で誓いを立てて17年間かかりましたが、それは無駄のない時間でした。
ハルさんの大事にしている言葉なんですが、「難儀をすることが本当の仕事」という言葉があり、くじけそうになった時に励みになって17年過ごしました。
「苦は楽の種」とも言っています。
苦と楽は表裏一体で苦があるから楽を感じるし、楽だったら何もないんじゃないかと思いますし、だから人生は面白いんだと思います。
映画の資金が必要で10年たってこのままではいかんと思った時に、大林 宣彦督が最初の映画の時にぼうし?(奉仕?聞き取れず)ドラマを作ったので、6年前に自分でもやってみようと思いました。
それをラジオドラマにも分けて、やったらリスナーからの励ましの手紙がありました。
斎藤真一さんというごぜさんの絵を描いた人がいて、その絵をどんどん買って退職金でも又買って、それを高田市に寄付している人がいるんです。
それを聞いて、自分の思い、夢を現実にするには自分を犠牲にするものがないといけないと思って、自分の家と土地を売って製作費にあてて動こうと思ってとやっているうちに、周りからの支援も加わりました。

私は東京生まれで、小さいころから映画が好きでした。
父親が映画好きでした。
父親とよく見に行きました。
中学に入って映画研究部に入りました。
8mm映写機が欲しくていろんなバイトをして8㎜映写機を買って自分で物語を作ってやっていたりしました。
そのころから監督になってみたいと思いました。
1980年にCMを作る映画会社に入りました。
「運動靴と赤い金魚」という映画を観て予算は少ないのに、人の心を揺るがすような映画が作れるのかと、こんな映画を作りたいと思いました。
なんともない日常ですが、人の心を揺るがすようなハラハラドキドキ演出ができるのかと思いました。
「ベースボールキッズ」を読んだ時にスポーツマンシップという言葉が原作にあり、そういう思いの少年野球「ベースボールキッズ」という映画を作りました。
メガホンを取った映画はごぜは2本目の映画です。
慈しみという言葉が好きで、私の一貫したテーマです。
ハルさんのお母さんが教える、「人を恨んでは駄目だ、人を区別しては駄目だ、うらやましがったら駄目だ」、ということを目が見えないハルさんに教えていって、ハルさんはその教えを純に守り通すんです。
ハルさんの苦労話ではなくて、けなげに生きてきた力を僕は感じてもらいたい。
力の源は人の夢とかにつながると思います。
「夢無き者に理想無し、理想無き者に計画無し、計画無き者に実行無し、実行無き者に成功無し」という言葉があり、夢が原点で夢を自分の手でつかむには努力という力が必要で、ハルさんも人には見せない努力をしてきたと思います。
17年間というものは素晴らしい人生だと思います。



























2020年8月4日火曜日

小柳 剛、玲子(ダイヤモンド・プリンセス号乗客) ・クルーズ船での隔離の日々

小柳 剛、玲子(ダイヤモンド・プリンセス号乗客) ・クルーズ船での隔離の日々
小柳さんご夫妻は1月2日にダイヤモンドプリンセス号に乗船し東南アジアを旅するツアーに参加しました。
しかし船内で新型コロナウイルスの感染者が確認され、2月3日から17日間の隔離生活を余儀なくされます。
小柳さんはクルーズ船での日々を克明に記録し、5月にダイヤモンドプリンセス号からの生還という本に纏めています。

剛:今は普通の生活を送っているつもりですが、気持ちの中ではわさわさしています。
2月20日に下船して、外に出るなということで14日間は外に出れませんでした。
帰ってから2,3日してから電話がかかってきて、毎日のように健康チェック、外に出るなと言われました。
私は相模原の病院に入っていて妻のほうも感染しているのではないかと噂が広がりました。
まったくそうではないのに、吃驚です。
2月3日の夕方に香港で下船した中国人が感染していて発症したということが、2月1日の夜中に香港政府から発表になり、厚労省も2日に情報をつかんでいます。
3日に船内放送で伝えられ検疫に入るといわれました。
船内移動は4日の夜まで自由でしたし、ショーとかもいろいろ行われていて楽観ムードでした。

5日には船から降りられると思っていましたが、5日の早朝に船長から部屋から出るなという放送があり、そこからガラッと変わりました。
14日間の隔離をしますという通達がありました。
私たちは窓のある部屋でしたが、窓のない部屋は外国人が多かったです。
隔離の状態では天国と地獄だと思います。
豪華客船というイメージがありますが、そうではなく僕らの部屋は定価が41万円/人ですが実際は20万円です。
16日間のクルーズで3食付きで施設は使い放題で、1万2500円です。
窓のない部屋は10万円で決して豪華ではないです。
僕は73歳で薬を使っていますが、隔離中に一番精力を費やしたのが薬の確保でした。
妻が隔離後10日目、僕が12日目にようやく薬がそろうことができました。
あまりにも理不尽なことが多くて逆上するわけですが、毎日続くわけはないので自分に言い聞かせるわけです。

玲子:海外のお客さんもおおくて年齢層も高く持病比率が高いのは一目瞭然でした。
薬にはややこしい名前であったり、メモで伝える程度で大丈夫なのか危機感があって、フロントの一元で管理していて本当に伝わるのかなということが一つ、漢方薬に関しては処方してもらうのには西洋医なので重要性はあまり理解してもらえないということがありました。
全てが不安でした。
通路が狭くて大型のカートで各部屋に食事を運ぶような作りではそもそもなかった。
外国人がかなり多くて標準的な食べ物を作ることがかなり厳しかったのではないかと思いました。
今では3密対策はやっているが、大型クルーズ客船ではどうしても過密になってしまうことが多いと思います。
空気感染、飛沫感染に伴う病気に対してはできるかというと、どうなんですかねと思わざるを得ないです。
私は割りと楽観主義で基本的には食べられている間は大丈夫だろうということが強くて乗り切れるだろうと思ったりしていました。
常に待っている状態でそれがストレスになるのと、東京湾も荒れていて結構な揺れでした。
ベトナムのほうから北にきたので自分の体感と外感の温度の格差があり体がなじまなくて自律神経がやられたのか、物凄く調子が悪かったです。

剛:隔離されてからの情報については、部屋にTVモニターがありますが、映るのはNHKのBS1,2,3のみで、あとは海外チャンネルとビデオ見るというものです。
情報を取るメインはスマホのネット検索だけになります。
あとは知り合いからのメールが入ってくるので情報はそれだけです。
NHKの記者からインタビューされていたので、その方から多少重要な情報は得ました。
このクルーズ船の事故をどうとらえているのかということは全くわかららなかったです。
それが一番知りたかったがそれはなかったです。
ダイヤモンド・プリンセス号はイギリスの船籍で経営はアメリカの会社で複雑です。
前例がないので厚労省は最初困ったと思います。
接岸せずに検疫を始めたが、あまりにもおおくて700名程度の感染者が出て、接岸せざるを得なかった。
なぜ早くPCR検査がしてもらえなかったか、クル-の検査は全くしていなかったので非常に不安がありました。

乗客の要望がほとんど無視されてしまった。
人数不足、緊急対策本部がなぜ作らないのか、重症者の対応など切りがなかった。
3711名で60歳以上が60%以上を占めていて、隔離するのは無茶な話でした。
高齢で持病を持っている人も隔離するわけです。
誕生日が2月18日でケーキは運ばれてきましたが、食事は来ませんでした。
17日間の出来事で二つ大きな柱があり
①厚労省はこの船の中で何をやったのかということがまだ出てこない。
②プリンセス・クルーズという船会社が一切口を閉ざしている、これは非常にひどいことだと思っています。
この二つが見えないと今回の事故の全貌はまるきりわからないと考えています。
厚労省現地対策本部が船の中に設けてその後報告書が出ていてネットで見ましたが、よかったのか悪かったのか、悪かったのならどうしてそういうことになってしまったのかということが一切省かれていて、具体的に突き詰めないとこういう事故がまた起きるのではないかと思います。

玲子:ワクチンが開発されれば又クルーズ船に乗ってしまうと思います。
旅というよりは生活するみたいな場として使っている方もいます。
出来上がったグループの交流が楽しくて乗っている方が多いので衰退はしてゆかないと思います。
安全性とかを再点検して提供するようにしないと感染症なども起こってしまうので、対策を打っているクルーズ船に乗りたいです。








2020年8月3日月曜日

穂村弘(歌人)              ・【ほむほむのふむふむ】

穂村弘(歌人)              ・【ほむほむのふむふむ】
短歌の世界では歌会始の選者を務めていた岡井隆さんが先月亡くなられました。(92歳)
我々が短歌を始めたころのトップランナーであこがれの歌人だったのでとてもショックです。
寺山修司や、塚本邦雄と一緒に前衛短歌運動を推進した3人のなかの人おひとりで、最後の人です。
未来という短歌の集団のトップでした。
容貌がかっこよかったです。
歌風はベースになっているのがリアリズムで、斎藤茂吉たちがやっていた現実を一人称で歌うというようなものでしたが、青春期以降塚本邦男たちとの出会いがあったことで、三人称や、虚構にブレンドされて、カオスが岡井さんの中にはあったと思います。

「眠られぬ母のためわが誦む童話母の寝入りし王子死す」     岡井隆
王子死すというところでドキッとして母との間には緊張感があるなと伝わる感じがあります。
「泣き叫ぶ手紙を読みてのぼり越し屋上は闇はさなきだに闇」?  岡井隆
恋の歌なのかと思います。
「さなきだに」というのはそうでなくてもという意味だともいます。
心の中の風景と目に映っているものが一つになっている迫力のある歌です。
岡井さんは医師でもあったのでもしかすると病院なのかもしれない。
斎藤茂吉も精神科医であったし、森鴎外も医者だったし、明治以降医師、文学者であり物書きという系譜があると思うが、岡井さんはどこかで意識していたのではないかと思います。

「ああ迷う迷えとことん迷い抜けレモンを絞るその時の間も」?  岡井隆
我々は迷いを整理して片をつけたいと思うが、岡井さんはとことん迷い抜けと自分に言い聞かせていて、下の句もユニークでレモンを絞る時も心の中は葛藤が渦巻いているという、岡井さんでも混乱しているのかと思うと勇気付けられるような気がします。
「蒼穹(おほぞら)は蜜かたむけてゐたりけり時こそはわがしづけき伴侶」  岡井隆
上の句は叙景的に入って、下の句でちょっと見えを切る。
リアリズムの強みは変化を詠えるということです。
若いころの文語的な骨格の正しい感じの歌い方と段々話し言葉に砕けた感じになっていって、それが若者の話ことがと違って80,90代は渋い。
「うら寂しいダイエーでシャツを海風に耐えらえるだけおしゃれな白」?  岡井隆
かっこ悪い安物を買って、逆にかっこよくなるみたいで、なかなかまねはできない。
岡井さんは内容にも幅があるし文体にも幅があります。

後半は夏の歌をテーマ
「ラジオ体操の帰りに喧嘩して喧嘩し終えてまだ八時半」?    伊舎堂仁
小学生の感じです。
今日の終わりまではまだまだ長い、子供の感覚で長い今日が終わってもまだまだ夏休みが長くて、夏休みが終わってもまだまだ人生は長い、人生を時計に例える換算法があるが、子供だとまだ朝で、我々では夜八時半ぐらいで二度と太陽は登らないぐらいの年代に来ていて、これには膨大な時間に包まれている空気感がある。
「自転車の後ろに乗ってこの街の右側だけを知っていた夏」    鈴木晴香
どこにも書いていないが恋の歌です。
自転車を前にこいでいる人がいて、おそらくスカートで自分は横座りをしている。
恋をしてその人の後ろに乗っていたその季節だけの特別な行為なんですね。
「 二〇一七年の夏、人はまだ蜂に蜂蜜を作らせている」        鈴木晴香
2017年以前の死者に向かって説明しているようにもとれるし、何かとても大きな時間を感じる歌です、あるいは人類というようなものとか、我々に進化、運命みたいなものが「まだ蜂に蜂蜜を作らせている」というフレーズから伝わってくるような不思議な魅力のある歌です。

「おすそわえされた水ようかんが差し上げた水ようかんだと気づく猛暑日」?鈴木美紀子
よほどの猛暑日ですね。
水ようかんが妙にリアルです。
「気づく猛暑日」、時間差で気付くところが面白い。
「電気屋のマッサージ器で友達としりとりしているプール日和に」?   かみもとさん
若い方で時間の使い方が逆に若さを感じる。
「母さんと思われる人にちゃんづけて呼ばれるバス停遠い遠い夏」?   ゆきのさん
何か切ない、実のお母さんはあまり知らずに大きく成った方だと思います。
うっすらした記憶が一つだけあって夏の日にバス停で○○ちゃんと呼ばれて、おそらくその後別れたかなんかで、たった一度の記憶だと思います。
「ゴーグルの反射する日の光から彼氏いるのと聞かれた夏の日」?
まるで「ゴーグルの反射する日の光」から聞かれたかのような、鮮烈な、この鮮烈もやはり若さではないですか。
こんな鮮烈さにはならない、ある年齢以上になると。
リスナーからのもの
「そういえば血管年齢百歳といわれて十年まだ生きている」 はるがすみさん(79歳)
ユーモアと渋とさみたいな感じ、面白いです。

*「・・・」?の短歌は漢字等含め記載が違っている可能性があります。




2020年8月2日日曜日

平野 文(声優)             ・【時代を創った声】

平野 文(声優)             ・【時代を創った声】
3歳のころから子役として多くの舞台やドラマで活躍されてきた平野さん、ラジオのディスクジョッキーなどを経てアニメ『うる星やつら』にラムちゃん役で声優としてデビュー、40年近くたちます。
現在は築地の魚河岸のお嫁さんとして生活をしながら声優の仕事を続けている平野さんに伺いました。

声優、ナレーター、ラジオパーソナリティ、エッセイストなど多岐にわたって活躍。
『うる星やつら』は1981年の放送、高橋 留美子さん原作、ラブコメディータッチの話。
ラムちゃん役は声優として初めてです。
最初に受けたオーディションが『うる星やつら』のラムちゃん役でした。
ラジオの深夜放送では2時間を一人で生で行うので、声のリクエストをやっていたら、リスナーの一人がアニメの声をやってみたらというはがきが来て、できるかも言しれないと思って事務所にお願いしてオーディションを受けることになりました。
子役のころにアフレコをしていましたと言ったら、それではすぐに慣れますといわれました。
児童劇団にいたので基礎は厳しくしつけられましたし、大学でも演劇を専攻していたので演技の勉強は沁み込んではいたとは思います。
ラムは現代の妖精だといわれました。
演技をしない自然に行こうと思いました。
センテンスが非常に短い、「ダッチャ」という語尾をイエスという言い方とおんなじだとするんですね。
喜怒哀楽をそういった言い方で表現するようにやっていました。
原作にも投影してもらってうれしかったです。

マイクの立ち位置など技術的なことはDJの時代から教えていただいていたので基本的なことはできていたと思います。
水中の中で話す場面ではペンとか指先を唇のところにあてて前後に動かすんです。
マスクをする場面では紙コップを当てたり手で覆ったりします。
こういったことは舞台ではないことなので吃驚しました。
食べながら泣いてしゃべって、というアニメではありうるストーリーです。
3歳のころピアノを習っていて、いとこがバレエをやっていて見に行ったら譜面など見ないでできるということで自分からバレエをやりたいといったようです。
佐川さんの体操のお兄さんがNHKでやっていて、ミュージカルの舞台でやるので一緒に子役としてはいって、それが舞台に広がっていって、6年生の時にNHKの少年ドラマでデビューしました。(「名探偵カッチン」)
NHKのTVの子供番組などにも出演しました。

叔母がNHKが若者向けのラジオを始めるらしいから受けてみたらといわれて、耳心地いいおしゃべりには憧れていたので、DJのオーディションを17歳の時に受けました。
間違ってもいいから自分の思ってることを自分のことを気楽にしゃべりなさいと間違ったことは後から訂正できるからとディレクターの方から言われて肩の力が抜けました。
コンビでやるものがありましたが、コンビのおしゃべりがたのしかったです。
リスナーの方からのはがきを読むということでもいろいろなことを教えていただいたと思います。
ラジオで鍛えられた1秒以下のスポーツ的な感覚はアニメのなかでも役立ちました。
1987年『アニメ三銃士』のミレディ役をやりました。
妖艶な色っぽい女性の悪女なのでラムちゃんとは対極で「私無理です」と断りましたが、やってくださいということでやることになりました。
絵が動き始めるとその声になるんですよね。
こういうことがあるんだなという初体験のアニメでした。

報道番組、リポーターとしてもやるようになりました。
魚河岸のリポーターをしているときに見合いをして結婚することになります。
平成になったときに34歳となり、所帯を持つのもいいかなあと思って魚河岸の人とのお見合いを頼みました。
会ってみたらニコッと笑って亭主にするならこのタイプという感覚的なものがありました。
そこで教わることは楽しかったし楽でした。
自分でこれをやりたいとお願いしたのは、深夜放送をやってみたい、アニメをやりたい、魚河岸にお嫁に行きたい、その三つぐらいしかないです。
若い人達に対しては今の方はリズム感もいいし、勘もいいので、技術的なことは長けていると思いますが、私の経験上子供のころから何が役に立つかわからないからいろんなものを見ておけとか、ドアを開けたら公人であれと言われたのは必ず守っていて、声は経験値がその表現に声が看破するということがあると思うので、諸先輩の演技のずっしりした中身のすばらしさは実感していたので、演技の基礎はいやっというほど習得しておいていただきたいと思います。
声に限って言えば、地声でやってきたような気がします。
















2020年8月1日土曜日