2020年4月6日月曜日

穂村弘(歌人)              ・【ほむほむのふむふむ】歌人 馬場あき子

穂村弘(歌人)         ・【ほむほむのふむふむ】歌人 馬場あき子
1928年(昭和3年)東京生まれ、日本女子専門学校(現・昭和女子大学)国文科に入学、在学中の昭和22年に「まひる野」に入会、窪田章一郎に師事、同時期にお能の喜多流宗家に入門、喜多実に習う。
大学卒業後は中学、高校の教員を務め、退職後は昭和53年短歌結社「かりん」主宰。
古典,能、民俗学に造詣が深く、昭和30年に刊行した第一歌集『早笛』から平成30年の『朝餉夕餉』まで歌集は27冊。
これまでに第20回迢空賞、読売文学賞など受賞して朝日歌壇の選者を40年以上にわたって務めています。
日本芸術院会員であり去年古典的流麗さをそなえて説得力を持つ短歌を創作し、短歌の普及にも力を注いだと文化功労者になりました。

92歳です。
穂村:評論も素晴らしくて、論理と情緒みたいなものが同時にあったり、古典に精通されていて、戦後の民主主義の洗礼を受けたトップランナーでもあり続けている、大きな存在だと思っています。
馬場:歌の数は1万2000首ですが、与謝野晶子は私より若くて3万首ですから。
今は日本語を操るのは難しい時代かもしれませんね。
与謝野晶子の晩年の「白桜集」は現代短歌の一つの土台として吸収され日常化しているところがあります。
晩年の作風が今の女性の土台になっていると思います。

「 一 尺の雷魚を裂きて冷(れい)冷(れい)と夜のくりやに水流すなり」 馬場あき子
穂村:或る時代までは台所は女性の持ち場で、刃物も女性のものだった。
孤独な感じがする歌ですね、詠むとシーンとするような歌だと思います。
馬場:23,4歳の頃の歌だったと思います。
父と一緒に行ったときに獲れた魚で、寒い時で板の上にのせて、身体が凍るような中でこれしか食べるものがないという様な切迫した感情が自分では籠っています。

「ましろなる封筒に向ひ必要君が名を書かむとしスタンドの位置かへて書く」 馬場あき子
穂村:ラブレターを書いているんだと思います、文字を大事に書いている感じがあると思う。  可憐な歌だと思います。
馬場:このころの女性の感覚は恥ずかしいぐらい恋に対して縮こまっていました。
戦争が終わって私たちの上の世代の人はみんな独身で、結婚する相手がいなかった。
窪田章一郎はとても私を大事にしてくれて、推薦者の第一でした。
当時日本的なウエットな抒情を排するというのが世間一般傾向でドライになれというのが傾向でした。
甘っちょろいという様に評価されたのではないでしょうか。

「夭死せし母のほほえみ空にみちわれに尾花の髪白みそむ」 馬場あき子
穂村:お母さんを幼いころなくされていて、記憶にないという事らしい。
おぼろげなはずの母のほほえみが空一杯に満ちているような見守っているような感じがあり、母が亡くなった歳をとっくに越えてしまって、髪にも白いものが表れているような歌、孤独と愛の歌だと思います。
馬場:母を見たのは2,3度しかないです。
結核で隔離されて私を抱くと言いう事は無かったです。
透き通った青い空を見るとお母さんの笑いという感じがするんです。
40代に詠ったものです。
(1977年(昭和52年) 教員生活を終え「まひる野」を退会。)
自分でもやりたいことが出てきて、一大決心をしました。
夫も自立したがっていて、それに従って窪田章一郎先生のところにいって二人とも辞めさせてもらいました。

「夜半さめてみれば夜半さえしらじらと桜散りおりとどまらざらん 」 馬場あき子
穂村:夜中にふっと目が覚めて、窓の向こうに怖いほど桜の花びらが降っていて、映像美が凄い歌です。
馬場:京都で見た夜桜で、かなりな量の桜で力があるんです、命を懸けているような感じがしたんです。
穂村:「桜散りおりとどまらざらん 」というところは口語文ではどうやっても出す事ができないニュアンスです。
馬場:「早船」から「桜花伝承」まで20年掛かっています。
歌以外のことをやっていたのがこの20年だったと思います。

「サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい」   穂村弘
馬場:終りの方に付けたこれが、現代の若者の精神の内面なんだなあと思って、穂村さんには会っていませんがきっと繊細な青白い青年だと決めていました。
ある一種の圧迫感が自分の上層部にべったりとあることに対する突き抜けきれないような思い、孤独なさみしさがあるという事が非常によくわかりました。
どうして象を持ってきたのか、素晴らしいと思いました。
うんこは巨大で、どれだけのものを食べなければいけないのか、どれだけのものを消化しなければいけないのか、それに比べると現代人なんかくだらなくて、生命力もなく駄目なんです。
象のうんこに着目した、このひとに象のうんこに憧れがある。
食と排泄を考えながら象のうんこをするという事は、よほどの腹力があることだし体力があることだし、これからの自分のあこがれの一つが野生の力だと思っていたんだろうと思います。
短歌界にうんこが出てきたのは長い歴史の中で初めてだと思います。

「アトミック・ボムの爆心地点にてはだかで石鹸剥いている夜」    穂村弘
馬場:これを詠んだときには怖くて震えました。
これから洗おうとする肌だけど、死んだ人もたくさんいるその肌もここにあったんだという事、反戦歌だと思ってこれは凄いと思いました。
穂村:爆心地は上空であることを聞いて、高層のホテルで石鹸を剥いているときに、もしかしたかこのぐらいの高さが爆心地なのか、みたいな感触が襲ってきました。

「 都市はもう混沌として人間はみそらーめんのやうなかなしみ」   馬場あき子
穂村:都会はいろんなものがごちゃごちゃになっていて、混沌としていてそこで生きる人間には悲しみがあって、それが味噌ラーメン(濁っていて)みたいだというところがなんとも面白いです。
馬場:文明文化が全部混とんとしてかき回されてしまっている、そんなときに味噌ラーメンが出てきてまさに味噌ラーメンこそ現代を表現する食べ物だという気がしました。
漢字で味噌と書くとそのものになってしまうので、抽象化するためにひらがなとしました。

「 長浜に馬のクラブのありしなり 馬流れたること涙なり」     馬場 あき子
馬場:地震の後閖上にいったんです。
その人の家もめちゃくちゃに壊れたりしましたが、蔵から出してきてあらゆるものを売って自分が食べるものを売ってしまったことがあるという人に案内してもらった。
馬のクラブがあり、そこも全部流されたが、馬が繋がれていてもがいて繋がれたまま家ごと流されてゆくという凄惨さ、様子が目に浮かびました。
事実を言って「涙なり」と捧げたかった。

「手を振りてじゃあねと言いて別れ来ぬ又とは遠ほい遠ほいつの日」?  馬場 あき子
馬場:「じゃあね」とはいえるけどもう「またね」とは言えないですよ。
年寄りの歌としてまあこんなところですかね。
穂村:時間の無限感覚も出ていて胸に残る歌です。

リスナーの作品
「きっしりと積み込んでいるトラックの荷台に一人紛れ込みたい」?
「もう何もできない君の今住んでる長野の天気予報を見つめる」?

?の付いた短歌は漢字、文字などが違っているかもしれません。















2020年4月5日日曜日

関俊彦(声優・俳優)           ・【時代を創った声】

関俊彦(声優・俳優)           ・【時代を創った声】
57歳、関さんはNHKのアニメ「忍たま乱太郎」の土井先生役、最近では「鬼滅の刃」の鬼の親分などで知られています。
NHKの教育番組、「いちにのさんすう」や、「笛は歌う」のお兄さん役としても出演されていました。

振り返ってみると私の役回りは、学校の先生とかお坊さんとかの系統のものが多いと思い返しています。
悪役は途中から多くなってきて、一番最初にやった悪役は「冥王計画ゼオライマー」というロボットアニメの中で木原 マサキという悪い科学者のです。
悪役は癖があるのでそれをどうやってやるかなど楽しいです。
あの人がこんな役をやるんだと思ってもらった方がいいです。
祖父が高校の漢文の先生で、先生をやりながら剣道をやっていました。
小学生の頃に興味を持って、防具を引っ張り出して祖父からいろいろ教わったのがきっかけで中学で剣道を始めました。
高校では中学の時に主将をやっていた人達ばっかりなので強くて、選手に成れなくて厳しかったです。
当時はスタミナをつけるために水を飲むなと言われて、掃除して汚くなったバケツの水を本当に飲みたいなと思いましたね。
大学に入って、この世界に入っても多少嫌なことがあっても、剣道をやっていたころのことを思い出すと大丈夫だという自信がありました。

高校の頃に姉の部屋には劇団のミュージカルのポスターが沢山貼ってあって、それが頭に刷り込まれていたのと、深夜ラジオ番組で聞いているときに、野沢 那智さんと言う人が劇団の座長をやっているという事がだんだんわかってきて、いろいろ話を聞いているうちに演劇が体の中に刷り込まれていきました。
リスナーの手紙を読む番組だったので書いて出したら、何と読まれて体が震えるほどの感動でした。
そんなことがあって、大学に入学した時に近くにある元前進座の女優さんがやっている演技教室があってそこに跳び込んで芝居の勉強をしようと思いました。
習うんだったらプロに習いたいと思いました。
川路夏子先生という元女優でアニメの声優もやっていました。
体操、発声、発音、呼吸法、詩の朗読、演技術の基礎、などを習って、実際の小劇場での舞台稽古から始まって、小道具作りなど、本番をやって舞台のばらしまで、一通りを習いました。(19~25歳まで)
これがベースになりました。

剣道で習った「間と呼吸」が芝居の上においてもとっても大事だという事が判りました。
技術を一つ一つ習得してゆく楽しさが面白いです。
役者は感情論と技術論が二本柱でありますが、感情を表現しろと言いますが、技術のないやつにそんなことはできないというのが、先生の持論でした。
1年経って小さな舞台でやったらお客さんから拍手をもらった、これは凄い仕事だと思いました。
大学3年生の時に社長に預かってもらって、そこでラジオドラマとアニメ一本振ってもらいました。
親は教師か銀行員を望んでいたので、就職については親と揉めました。
何とか親を説得して25歳まではやってみろという事になりました。
今のことを頑張るしかなかった。
23歳の時にNHKの「いちにのさんすう」という番組があり、オーディションがあり受かりました。
TVに出て両親、親戚も喜んでくれまして、許してもらえました。

1987年 『学園特捜ヒカルオン』、『赤い光弾ジリオン』で初めての主役。
毎日緊張の連続でした。
周りのベテランの人が盛り立ててくれたお陰で、何とかこなすことができました。
今は声優になる人数が多くて若い人は大変だと思います。
レギュラーをたくさん持たしていただいているうちに、面白さが判ってきました。
そうすると間や呼吸が判ってきました。
出来上がっている絵に合わせて、おっしゃったような芝居を重ねると絵と全然合わないんでできないんですが、と言うとディレクターが[ちがうんです、関さんがやった芝居が絵をうごかすんです、芝居がそうであれば絵がそう見えてくるんです。」と言われて、感動しました。

NHKの番組「笛は歌う」のお兄さん役をやりました。。
笛は吹くものだと思っていたが、笛は歌うような息使いをする、これでリコーダーと言う楽器が命を吹き込まれた生きたものになるんだという信念が、リコーダーの先生にはありました。
8年間やってみて子どもたちへのメッセージが上手く伝えられたのかなと思います。
声優は簡単そうに見えて、誰でもできると思いますが、やってみてドラマの中でドラマの内容を際立たせるための合格点を取れる芝居ができるかどうかは別です。
面白さは自分と違う人生をやれることだと思うし、どれだけ素晴らしいドラマと出会えるかどうかという事ですね。
自分の琴線に触れる何かがあるドラマを自分がやれたら、自分として大きな仕事をこの世に残したと思えることになると思うので、それこそが望みです。
そこにむかっていくために残りの人生をやってゆくという事だと思います。






















2020年4月4日土曜日

木津川計(立命館大学名誉教授 上方芸能評論家)・大阪の文化を見つめて65年(1)

木津川計(立命館大学名誉教授 上方芸能評論家)・大阪の文化を見つめて65年(1)
~風前の灯(ともしび)の上方芸能に光を」
1968年大阪で雑誌上方芸能を創刊し、以来48年に渡って発行にかかわってきたのが木津川計さんです。
1986年からは京都の立命館大学で教壇に立ち若い世代に落語や歌舞伎、文楽、人形浄瑠璃、上方舞などの味わいを語り伝えてきました。
その活動が評価されて1998年に9は菊池寛賞を受賞、その受賞のコメントにはこう書かれています。
芸能の衰亡は民族の興亡にまで関わるとの信念に基づき、私費を投じて季刊上方芸能を刊行し続けて30年、上方の伝統芸能と大衆芸能の継承と発展に尽くし、次代を担う人材を育てた、とこのようにあります。
第一回目は「風前の灯(ともしび)の上方芸能に光を」 生い立ちから伺っていきます。

一人語り劇場が14年目です。
長谷川伸の新国劇、落語、歌舞伎、映画などの名作を一人で語ってきましたが、去年は浦島太郎、今年はかぐや姫で10分から15分で終わってしまいます。
しかし、その後なにを言い伝えようとしているのかと言うことを、解釈、解明してしてゆくという事をやっていきます。
高知県高知市江ノ口生まれ、1歳ちょっとで京都に移りました。
10歳で母親の故郷高知に戻って10年間過ごします。
大坂に20歳で出ていきました。
5人兄弟の長男です。
父親は離れて愛人と大阪で暮らして、母親は子どもたちを苦労しながら育てました。
高校3年の時に結核を宣告されて、母親は4人の子どもを連れて大阪にいきました。
高校卒業して友達のつてがあり国立療養所に入りました。
坂本昭という人が国立療養所の所長をしていました。
東大生の樺美智子がデモでなくなるが、最初の診察したのが坂本昭でした。
坂本昭は社会党の参議院議員になりますが、その後高知市長になります。
福祉に重点を置きました。
国立療養所には1年数か月いました。

謄写版印刷を父親が始めて、私と私の次の弟とでガリ版に書いてゆく作業をしました。
貧乏していましたが、父親が祇園で豪遊していたのには吃驚しました。
弟からの応援もあり大学に行くために必死で勉強しました。
大阪市立大学文学部社会学科に合格して、弟も目指す大学に入ることができました。
大学では学生運動の盛んなところで、文学部の学生委員会の副委員長になれという事で副委員長になりました。
10日に一遍大阪の学生連盟の大きな集会がありそこに行きました。
最大6000人が集まりました。
デモの最前線の誘導役をやりました。
印刷の依頼をきっかけに知り合い25歳の時に学生結婚をしました。
8月6日を結婚の日に選びましたが、戦後精神はアウシュビッツを再び繰り返さないという決意と、広島の惨劇を再び繰り返してはいけない、この二つを教訓に生きていかないといけないと思って8月6日にしました。
結婚して60年になりました。

弁護士、新聞記者、出版社を経営したい(絵本)という3つの夢がありました。
そのために大学に行きました。
憲法の講座を受講してその時に教授が黒田 了一教授で、のちに大阪知事を2期務められた方です。
黒田 了一教授は来た途端に黒板に
「秋の夜をひたすら学ぶ六法に恋という字は見いだせざりけり」
と書きました。
これを観て非人間的な感じに弁護士への道はあきらめました。
新聞記者については入社要綱を取り寄せたら、結核の 既往症があったら応募できないという項目がありました。
絵本の出版社については東京に行かなくてはいけなかったが、それが仕事の事情で出来なかった。

1968年(33歳)雑誌上方芸能を創刊。
上方歌舞伎、文楽もお客が入らない、伝統芸能があえいでいた時代でした。
当時どついたりする漫才が受けていました。
上方歌舞伎はお客が半分にも満たない状況でした。
文楽も600人入る劇場で夜の部では30人に満たないような状況でした。
住んでいるところを故郷にしないと、住んでいるところの芸能文化は駄目になってしまうと思いはじめました。
上方芸能は滅んでしまうのではないかと思って、上方芸能を復権復興させてゆくために働いてみようと思って、上方芸能という雑誌を出しました。
上方落語を聞く会を発足して、その時の会報として出したのが上方芸能の創刊号でした。
B5の8ページの粗末なものでしたが、廊下に捨てられないものがあり、それを踏んでゆく人たちがを見ました。
飲んでぼやいていたら、店の主人が「捨てられないもの、踏まれないものを作りなさい」といわれて、そこから上方芸能を懸命に私なりに拵えて行く出発点になりました。

創刊して1か月後、話をしているときに警察から電話がかかってきました。
どうやら父が自殺を図ったので、吹田の医院へすぐに行ってください、という事でした。
長椅子に毛布にくるまれた父親が転がっていまいた。
睡眠薬を大量に飲んで亡くなっていました。
今の金額でいうと5,6000万円の借金がありました。
そこから30代の難儀が始まってゆくわけです。












2020年4月3日金曜日

田原総一朗(ジャーナリスト)       ・「ニッポンへの遺言(2)」

田原総一朗(ジャーナリスト)       ・「ニッポンへの遺言(2)」
タブーに挑戦し危険なディレクターと呼ばれた田原さんは、たびたび仕事を干され空いた時間に活字のノンフィクションに挑みます。
そしてTV局を辞めて、フリーのジャーナリストとなります。
そのきっかけとなったノンフィクション、原子力について伺います。

当時原子力船「陸奥」がつくられて、青森の陸奥湾から出て放射線が漏れて大騒ぎになりました。
陸奥の取材に行きました。
筑摩書房が「展望」という雑誌を出していたので、原子力問題をまともにやろうと「原子力戦争」という連載を始めました。
原子力推進運動もあり、調べていったら仕掛けていったのが最大手広告代理店で、それを書いたらスポンサーがこんなことを書いているやつの局にはスポンサーを紹介しないぞ、という事で、上から連載を辞めるか、会社を辞めるか判断しろと言われました。
僕はどっちもしなかったら、部長、局長を処分して社内で発表したのでやめざるを得なかった、そしてフリーになりました。(42歳)
それが結果的には良かったと思う。
妻は全く反対しなかった。

1976年の「原子力戦争」と同じ時期に「アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄」というルポを書いています。
山川 暁夫さんと、長谷川 慶太郎さんと共に勉強会をしていましたが、二人とも元共産党でした。
山川さんは日本は対米従属は良くない、長谷川さんは反ソで両方から学んで、田中さんが辞めたロッキード事件、どうもアメリカにやられたとう事でいろいろと取材して、やはりそうだという事で、当人ではなく周りを全部取材しました。
その後1982年に田中角栄氏にインタビューすることになる。
失脚した後初めてのインタビューでした。
11時からのインタビューだったが、1時間たっても始まらなかった。
秘書の早坂さんに聞いたら、私に関する資料3.75㎏を全部集めて読んでいるとのことだった。
インタビュアーを徹底的に調べたいと思ったという事で、田中角栄という男を改めて見直しました。
構想力が有る、これはNO.1ですね。

高校、大学と日本で一番信頼できる党は共産党だと思っていました。
共産党は最期まで戦争反対、進駐軍のことを共産党は解放軍と呼んでいました。
徳田球一も野坂さんも非常にアメリカ軍と仲が良かった。
朝鮮戦争が始まったときに、日本への戦略を変えた。
ソ連は世界で一番素晴らしい国だと思っていました。
1965年「世界ドキュメンタリー会議」がありモスクワに行きました。
前年フルシチョフが失脚したが、モスクワ大学で15人ほどとディスカッションしたが、失脚理由を誰も発言してくれなかた。
この国は言論の自由が全くないことがわかった。
共産主義は平等は大事にするが競争は認めない、この国は駄目だと思いました。
1971年に宮澤さんに会うことができて、宮澤理論に惚れ込みました。
自衛隊ができたのが1954年、自民党ができたのが1955年、最初の総理大臣が鳩山一郎、
鳩山は憲法と自衛隊は大矛盾しているという事で自主憲法を想定、憲法改正しようとした。
池田以降は国民を騙してる、嘘をついていると言ったら、宮澤さんは実は違うと、日本人というものは自分の身体に合った洋服を作るのは下手だと、押し付けられた洋服に身体を合わせるのは上手い、という事でした。

ヨーロッパ、アメリカは弱い国と戦争して勝って植民地化してきたが、ベルサイユ講和条約で侵略戦争を認めない。
日本は憲法9条第一項では侵略戦争を認めない、侵略戦争で奪った植民地は全部解放しなければいけないが、ヨーロッパ、アメリカは全く解放しない。
そこで昭和維新、昭和になって日本はアジアの国々 タイ以外は全部植民地だという事で
アジアの国々を独立解放させるのが日本の役割だと、日本が強くなって、満州がいろんな民族が入り組んでめちゃくちゃになっているという事で、満州国を独立させる、日本のものにするという事だが、満州事変は侵略戦争になってゆく。
実は日本政府は満州事変を始めるにあたって、国際連盟の理事国のトップのイギリスに満州は独立させたいと伝え、イギリスはOKするんです。
リットン調査団は満州は認めることになっていた。
国際連盟の最終会義の最中に、日本が熱河省(ねっかしょう)・・・?(聞き取れない)認めない、国際連盟が・・・(聞き取れず)いけない。
翌年1935年にイギリスが日本に特使を派遣して、蒋介石が金に困っているからイギリス日本で・・・?を作ってやろう、もしこれに乗ったら蒋介石を説得して、満州国を認めさせる、日本政府は乗ろうとする。
ところが前の年に5・15事件で総理大臣が殺されている。
2・26事件もあり1937年日中戦争が始まる。

大川周明、北一輝、石原莞爾は全部反対、近衛首相の勉強会昭和研究会も反対。
広田弘毅を外務大臣にしてヒトラーに頼んでトラウトマン、蒋介石との会談をしようとする、うまくいくようなときに南京陥落し、軍隊は自信過剰になって賠償金を出すように言うが出すわけがない。
本当はここで収めたかったが、その後訳の分からない太平洋戦争になった。
日本は自分の体に合った洋服を作ろうとすると、軍主導になり、そして戦争に負けた。
アメリカがあの憲法を日本に押し付けた。
こんな憲法ではまともな軍隊は作れない、日本の安全保障はアメリカに責任を持たして、憲法を逆手に取ってアメリカの戦争に巻き込まれない。
1965年にアメリカがベトナム戦争を始めた。
自衛隊の要請があったが、宮澤さんは憲法によって行くには行けないと言って行かずに済んで、これ以後日本はアメリカの戦争には巻き込まれないでやってきた。
自衛隊は誰も殺してはいない、これが日本だ、というのが宮澤理論です。
宮澤理論を田中角栄、中曽根みんなこれで賛成なんです。
トランプさんになって今の日本の安全保障はどうするのか大課題ですね。

日本の官僚は人間として一人一人は素晴らしいが、組織になると駄目になってしまう。
田中角栄が失脚したのちに三木、福田となり、再選の時に当然福田がなると思っていたが、田中角栄が全面的に大平の味方をして大平が勝ってしまった。
その後福田-大平戦争が起きて、財界は政治家の言う通り、政治家は金権だと、高度成長を支えたのが官僚だと、官僚でやろうと日本の官僚が出てくる。
官僚の問題点 
①リスクを取らない
②無責任
③無主張
バブル崩壊すると地価が1/10になり、宮澤さんはお金を出すというと、公的資金に賛成するという事は大蔵省の金融政策が間違ったと認めなければいけない。
大蔵省は絶対認めないから反対、大蔵省が反対したら財界も反対、その時に宮澤さんはいいました、「この国は総理大臣よりも大蔵賞の方が強いんだ。」と。
官僚主導から政治主導にしようとしたのが小沢一郎です。
それをさらに強めたのが安倍政権で600人の人事が官邸に行ってしまう。
官僚たちが官邸にご機嫌伺いをやるようになる。
中曽根内閣までは官僚はしっかりしていた。

「朝まで生テレビ!」(政治関連を中心とする討論深夜長寿番組)1986年から。
本気の討議をやろうとした。
ベルリンの壁が崩壊して、冷戦時代が無くなり新しい時代の座標軸は何だろうとこれを求めて真剣勝負、徹底討論、一夫勝負をやろうとしました。
1988年の秋に昭和天皇が危篤になり自粛自粛となり、いまこそ天皇の戦争責任をやろうではないかと、言ったら馬鹿野郎といわれました。
4回目に企画を変えようという事で、日本の左翼と右翼が仲直りしようという事でやりました。
右翼も来なかった。
大島渚、野坂などとは本気で勝負したが、その世代の人がいなくなって行って、戦争を知っている世代が亡くなって行って、みんなおとなしくなってしまいました。
大島渚、野坂などとやっていたことをそのままやっていたので、田原は人の話を聞かない、という声が出始めて今は反省しています。
ジャーナリストとして大事にしていることは
①身体を張って言論の自由を守る、戦争していますから。
②自分と考え方の違う人達の存在を認めて徹底的に討論する。
③野党を強くしたい。

妻が乳がんになりましたが、看病はコミュニケーションが密接になりますから楽しいです。
その当時北朝鮮に行くという話が出てきて、主治医は帰ってくるまで持つかどうかわからないと言われましたが、妻に相談したら行きなさいといわれて、行っている間に妻は亡くなりました。
妻を亡くして辛かったが、娘がいてくれてありがたいと思います。
出来れば生涯現役でいたいと思っています。
若い人は好きな事、やりたいことを人生掛けて見つけてほしい。
日本は戦争をしない、だから世界から信頼されている。
これからは攻めの経営をどうするかという事を考えていかないといけないと思います。

*聞きづらいところがいろいろあり、正しく伝えられていないところがあるかもしれません。













































2020年4月2日木曜日

田原総一朗(ジャーナリスト)       ・「ニッポンへの遺言(1)」

田原総一朗(ジャーナリスト)       ・「ニッポンへの遺言(1)」
滋賀県彦根市の出身、85歳。
昭和、平成、令和になった今もTVと活字の世界で現役を貫いています。
一回目は日常、生い立ち、TVディレクター時代を振り返っていただきます。

新型コロナウイルスは中国から始まって、アジア、ヨーロッパ、アメリカで今後南米などとなって行くでしょうね。
ツイッターは10年前からやっています。(フォロワー数は108万人)
反応がすぐあるので面白いです。
人に会うのが好きで一日に4組ぐらい会いますが、それ以外はほとんど原稿を書いています。
寝るのは夜中の一時前後で、起きるのは9時です。
朝食後2,30分散歩します。
朝食は自分で作ります、妻が生きているころからそうしています。
今日も生きているよと伝えるために朝と夜に娘たちに電話をします。
去年から今年にかけての本、日中問題、「伏魔殿」(総理官邸について)、「人は120歳まで生きられるか」(生命科学の最前線について)、「脱属国論」(対米従属を続けていいのか)など多彩なテーマ。

戦争を知っている最後の世代です。
小学校の5年生の夏休みに天皇の玉音放送がありました、これが大きいです。
小学校5年生の時の一学期に先生が「諸外国が植民地化しているアジアの国を独立解放させるための戦争である。君たちも早く大人になって戦争に参加して天皇陛下のために名誉の戦死をするように。」といわれてその通りだと思っていました。
戦争が終わったらしい、負けたらしいという事で2学期になり占領軍がやってきた。
先生のいう事、ラジオ、新聞のいう事が180度変わった。
一学期まで日本の英雄としてラジオ、新聞が褒めたたえていた人々が、二学期になると占領軍に逮捕された。
戦争中は東条英機は総理大臣でいかに素晴らしいかとか言われていたが、二学期になると逮捕されて、ラジオ、新聞も逮捕されて当然であると、いかに彼が悪いことをしたかと、価値観が180度変わって、これが私の原点で、先生、マスコミも信用できない、国も国民を騙すという事が原点です。
ジャーナリストになったきっかけでしょうね。
情報をきちん取材して自分で確かめないといけないと思っています。
新型コロナウイルスにしても韓国に比べて検査数が少ないので、本当は検査すべきなのにしていないのではないか、検査を多くすると感染者の数が多くなるのでそうしないために検査していないのではないかと、そういう疑いもあります。

滋賀県立彦根東高等学校に入学しました。
高校の時には作家になろうかと思いました。
作家を志して上京し日本交通公社(現JTB)で働きながら早稲田大学第二文学部日本文学科(夜学)に行きました。
家には必ず仕送りをするという事で親を説得して東京に行き来ました。
同人雑誌に投稿しましたが、駄目でした。
石原慎太郎さんの「太陽の季節」、大江健三郎の作品を読み、リアリティーがあり「二人の文章を読んでこれはダメだ、全く敵わない」と作家を目指すことを断念しました。
ジャーナリストになることを目指して、昼間の早稲田大学第一文学部史学科に再入学しました。
卒論は森鴎外にしました。(タイトルは「ドロップイン」)
軍医でありながら当時の政府を平気で批判することを書いていて、これはいいなあと思いました。
いろいろな放送局、新聞社を受けましたが、全部落ちてしまって、岩波映画製作所に入社しました。
カメラ助手で不器用で困りまして、降ろされてしまいました。

1960年安保反対のデモに参加していました。
「楽しい科学」という番組の助手をやらなかという事でやっていたら、TVなので毎週なので台本を書くことになりました。
小児麻痺が流行っていて、小児麻痺のウイルスのフィルムがあることが判って、小児麻痺の脚本を書いて現場を担当して、演出家に見せたらだめだと取り直してこい言われました。
一緒に入った清水邦夫さんから自分で編集したらどうかといわれて、ヌーヴェルヴァーグの手法を取り入れて初めて編集しました。
放送したら賞をとることになってしまいました。
TVのいい加減さに興味を抱き、TV東京が開局しようとしていて、何とか行けました。
製作費は他局と比べて1/3程度なので、対抗するにはどうしたらいいか考えて、危ない番組、スポンサーに直接売り込むしかないと思ってスポンサーがOKしてくれれば手前勝手な番組ができるので。
自由に番組が作れて有難いことでした。
『ドキュメンタリー青春』で寺山修司さんがが主宰していた劇団「天井桟敷」の舞台『青ひげ』に感銘を受け劇団に入団したカルメン・マキさんの取材をしました。
カルメン・マキさんが歌を歌いたいという事で、寺山修司さんが作ってやろうという事で「時には母のない子のように」(作詞:寺山修司、作曲:田中未知)ができました。
売れていろんなTV番組に出るようになった。

ジャズピアニスト・山下洋輔さんを撮ろうと思った時に山下洋輔さんが「ピアノを弾きながら死ねるといい」といったため、、バリケード封鎖されていた大隈講堂からピアノを持ち出して山下さんに弾かせることを考え、中核派から分裂した組織「反戦連合」のメンバーたちが運びだし、そのピアノを山下さんが演奏した、いろんな組織、先生も聞きに来ていたが、内ゲバは起きず静かに聞いていた。
私の音楽とは全く外れたが、山下さんは最高の演奏だったと言う事で、彼はその後レコードにしました。
例えば大隈講堂からピアノを持ち出す、これはやらせで、やらせ的な演出をして、その結果としてどうなるか、そういう手法を取りました。
対象と深くかかわっており、下手をすると相手を壊す可能性があり、これがドキュメンタリーの一番の問題だと思います。













2020年4月1日水曜日

南木佳士(小説家・医師)         ・「尊厳死に向き合う」

南木佳士(小説家・医師)         ・「尊厳死に向き合う」
この春公開された映画『山中静夫氏の尊厳死』、末期の肺がんを宣告された男性が生まれ故郷で死ぬために信州の病院に転院してきます。
家族の反対を押し切ってきたその患者は、動ける間はと外出許可を担当医に求めました。
医師はその患者との約束を守って、初めて尊厳死というものに向き合おうとします。
原作者の南木佳士さんは群馬県の生まれ、68歳。
1989年に「ダイヤモンドダスト」で芥川賞を受賞しました。
長野県の佐久市の病院で今も医師を務めながら作家活動を続けています。
あまりにも多くの死に出会う中でご自身もかつてうつ病を発症した経験をお持ちです。

『山中静夫氏の尊厳死』は今から26,7年ぐらい前に書いた作品です。
自分の体調が悪くて小説も書けないし、医者の仕事も満足にできない頃にようやく少し書けるという様になった作品です。
山中静夫氏は57歳、末期の肺がんを宣告されて主人公の今井医師の病院にやってきて、「楽に死なせてください」と医師に告げて故郷の誰も住まなくなった実家のそばで墓を作り始めるという話ですが。
呼吸器内科はどうしても肺がんの患者さんを診ますので、30年前の肺がんの患者さんは進行した形で見つかることが多かったです。
亡くなる方々はどこへ行くと思って亡くなってゆくんだろうと常に思っていました。
モデルになる方はいませんが、患者さんの平均的な思いはこういう事ではないかと思って想像しました。
自分でも体調が悪い時にも死を考えていたので、故郷の裏山に埋葬してほしいとは妻に言っては怒られていました。
病院の社宅みたいなところに住んでいたので、たえず重症の患者さんがいたので夜間の呼び出しはしょっちゅうでした。
小説も書いていたので書いている途中に呼び出されて、そのまま病院にいて朝を迎えるという事もありました。
今考えると無茶だと思いますが当時はそのようなことができると考えていました。

生まれは群馬県嬬恋村です。
中学2年になるときに父の都合で東京に転校しました。
都立高校2年生の頃に手に職をつけて田舎でもできる仕事をやりたいと思っていまいた。
田舎には医師が非常に少なかったので、田舎に戻って医師の仕事をしたいのが第一でした。
秋田大学の医学部に入って佐久の病院に行きました。
病院に勤めて3,4年後に難民の医療でカンボジアのタイ国境地帯に行きました。(28歳)
3か月で交代する医療チームでした。
そこでは人間ってしたたかに生きていくんだなと感じました。
若者たちと話し合う機会がありましたが、日本が何か災害戦争にあったらカンボジアに逃げてくるといいよと言っていました。(ちょっとした着るものさえあれば大丈夫だと)
難民の医療に携わっているときに宿舎に、文学界の新人賞を受賞しましたという、電話が無いので無線連絡がありました。
実際に人が亡くなってゆく状況を診る仕事なんだと医師になってみるまでわからなかった。
1年目から重症の患者さんを受け持ち、この仕事はしんどいなという事がありました。
しんどさを俯瞰するような形で文章にして捉えなおしておかないと、何をやっているのかわからないという事がありました。

医療現場の現実、患者と医療者の現場を伝えたいという事がありました。
死の現場としての病院、そこでは毎日起こっている。
死との出会いの後に家に帰って子どもが風呂から上がって拭いてもらった後に自分に跳びついてくると、どういう顔を返せばいいんだろうと、そういった中で私はどの位置に居ればいいんだという事がいつも疑問でした。
私が不幸なぐらいの方が患者さんを診るという状態にはあっているんじゃないかという事で家族サービスを全くしたことが無いという事になってしまいました。
1989年に「ダイヤモンドダスト」で芥川賞を受賞しました。
うつ病を発症した翌年の秋でした。
芥川賞候補には4回なって5回目で受賞することになりました。(37歳)
3,4回目になると書き続けなければという様な気持ちになりました。
受賞した時にはほっとしましたが、今後はプロの作家としてやらなければいけないと思って自分に課すハードルは高くなったという事はあります。
体調が悪くなったのは38歳でした。
芥川賞を取ると次の月の発売の文学界に新しい作品を載せるという事があります。
3日間で一作仕上げて送ったという事もありました。
3ケ月に一遍必ず短編を書けとか言われて書いていました。

やればできるとはおもっていましたが、ある日急にめまいがしてソファーで横になっていたが不安感がやまないで、妻に車で迎えに来てもらって家に帰りました。
妻が顔を見て生きている顔色ではなかったと言っていました。
翌日病院に行くが階段を昇ろうとするが足が出ていかなくて、検査入院したが大丈夫だと言われて、これは鬱かもしれないと思いました。
1ケ月して精神の外来に行ってみてもらったら、すぐに入院しなさいと言われてしまいました。
しかし頼み込んで自宅療養にしてもらいました。
子どもは1年生と3年生でしたし、眠ろうとしても眠れませんでした。
死のことを考えて得たいの知れない怖さがありました。
眠りに付けないと昔のことを考えてしまって、患者さんが亡くなってゆくところで、300人以上見ていたのでひとりひとり瞼の裏に出てくる、そんな感じでした。
症状が良くなるまで2年半ぐらいかかりました。
変えてくれたのは、一つは時で、もう一つは末期がんの診療医師と芥川作家という役を降りざるを得なかった、降りたという事です。
生きていられるだけで儲けものだという事でもう一回動き出したという事です。
諦める、事態を明らかに見る、それが一番だったと思います。

子どもたちには勉強しなさいと言っていましたが、そういうことは全く言わなくなりました。
子どもたちの遊び相手にトラ(猫)がなってくれて、私が何とか大丈夫な様になった頃に15年いたトラが亡くなってしまいました。
トラが亡くなったときには子どもたちも来てくれてみんなで見送りました。
研修医だったころに教えた若い医者が精神科医になって、不安でたまらなかった時に夜に救急で跳び込んだことがあって、彼が丁寧に対応してくれて諄々と諭してくれました。
鬱は良くなったり悪くなったり繰り返しながら徐々に良くなってゆく、確かに実感です。
鬱の直接の原因はないです、毎日の亡くなる方を看取る生活がボディーブローの様に少しずつ効いていて、或るとき普通の一回のパンチでガクッと来てしまうという事だと思います。
最期を看取る医者も沢山いるという事です。
患者さんが亡くなってゆくのを見ていると、人というものはいずれこういう風になってゆくのが当たり前なので、私に起こらないはずなないという発想になってゆきます。
周り周って自分の背中に張り付いてくるというような感じがします。
一人の人が段々呼吸を止めてゆく過程が診る者にとってはエネルギーを吸い取られてゆくような気がする仕事です。
エネルギーをもらう産婦人科医とは逆のような感じがします。
心身ともにタフではないとだめだと思います。

肺がんの患者さんは末期になると呼吸困難になりますが、酸素を投与するが苦しさが消えないとなると、モルヒネを点滴したりすることになりますが、そうすると呼吸は楽になりますが、呼吸が浅くなったり、意識がとろとろしてくるので、家族の人ときちんと話せなくなったりします。
患者さんを楽にしたいという事だったら、モルヒネを使い続けるんですが、やがて全身が衰弱してくるので、安楽死と尊厳死の間ってどこなんだろうなという事をいつも考えていました。
尊厳死をきちんとやろうとすると、あの映画のようにかなり患者さんもたいへんなことになるし、家族も大変なことになるし、という事です、難しいです。
なにか基準となるという事はないです。
30年前は末期ですよとは患者さんには伝えませんでしたが、今は告知するようになって現実の状況を医師がきちんと話してあげられればいいなあと思います。
本人の意志をみんなが共有するという事だと思います。
地方では末期の人を診る内科、外科の人数が足りないと思います。
30年前とは医学部卒業生が倍になっていると思いますが、そういったところを避ける傾向があるのではないかと思います。

今というのが或るときパタッと終わるんだなという、そっけない死生観になってしまいました。
明日踏み出せばもうそうかもしれないと思いながら生きていると、日々ちゃんと暮らそうという風になります。
山を歩いてみると気分がよくなりリラックスしました。
うつ病の再発の予防としては脳の血流の循環を良くするために、しっかりとした心拍数を上げる運動が有効であるという事が常識になっています。