村上敏明(旧満州からの引き揚げ者) ・ぼくは、妹と母を手にかけた
83歳、1946年の夏、日本に引き上げる直前指示されるままに、当時1歳だった妹と病気の母に毒薬を飲ませるという経験をしました。
長旅に耐えられないものは殺そうと誰が決めたのか、はっきりしたことは判りません。
当時11歳だった村上さんはそのショックで前後の記憶を失ったと言います。
戦後、この出来事を覚えていた友人の小林誠さんの話を聞いて村上さんは失われていた記憶と向き合います。
2010年妹と母がなくなった旧満州を再び訪れたあと、断片的な記憶を詩に綴り徐々に人前でも語るようになりました。
詩「消え去った記憶」
「多くの人が文子を囲み見つめていた。
母が文子を抱いて飲まされた水薬、黒い瞳が僕をじーっと見つめ息を引き取った。
[文子、文子]だけが僕の記憶にある母の声。
衝撃に吹き閉ざされてしまった僕の記憶。」
毒の入っている水薬を僕が飲ませました。
黒い瞳が僕をじーっと見つめ、なんか語るようだがそこだけは覚えている。
そのほかのことは一切覚えていない。
衝撃は大きかったと思います。
36年後に親友の小林君が昭和21年7月上旬に泣きじゃくりながら駆けつけてきて「僕が妹を殺した、泣きながら言ったんだよ」とそういうことが有ったと小林君と再開した時に知る訳です。
妹をあやめた時以降の記憶が飛んでいる、断片的な記憶になっているんです。
4歳(昭和13年)父と母と弟2人と京都から大連に行きました。
小学校2年の時に四平に転勤します。
空襲が始まったのがサイパンが占領されて以降で、大連とかが空襲されました。
1945年文子が生まれると同時に、父が徴兵されました。
父はそれまで民間人で鉄道と荷車、馬だとかで、その他の地域に荷物運ぶ仕事をしていました。
学校の男子の先生なども徴兵されてしまって若い男性はいなくなりました。
関東軍が南(沖縄、フィリピンなど)に進軍して行き、抜けた後を父だとか民間の人達が守りに着くわけです。
1945年8月9日にソ連が侵攻する。
ソ連の飛行機が飛んでこないか、北の空を監視する仕事をしていました。
8月15日大事な放送があるということでラジオを聞きましたが、内容は判らず戦争で負けたということだったようです。
ソ連兵により略奪されたり、女を出せと叫んでいました。(後で判ったことだが)
我が家にもソ連兵が強引に入ってきて、必要なものがないということで帰って行きましたが。
ソ連兵が撤退すると同時に中国共産党の軍隊と国民党との軍隊が合同して日本軍と戦うことが行われました。
その後中国共産党の軍隊と国民党軍の内戦が行われる。
四平を奪回するために国民党が攻撃してくる訳で、3~5月まで緊張して怖い目にも逢いました。
日本政府はポツダム宣言を受諾する前に8月14日に大本営が「満州、朝鮮を切り捨てる、満州にお前らは土着せよ」と言う事を正式に伝える訳です。(日本には帰ってくるなということです。)
満州には150万人、他の地域にも沢山行っている。
満州の経済界の有力者高崎達之助さんが日本人会を作って、日本に密使を送って大連から朝鮮半島ルートで東京に到着して、吉田茂さんとかに陳情する。
最後は直接マッカーサーと交渉すると言う事をする訳です。
功を奏して船はアメリカが出し、旧満州の内部から葫蘆(コロ)島の港まで日本人を送るのは中国の国民党が担当して、日本人の引き上げが実現するわけです。(46年5月 第一船)
四平では2000人ぐらいが亡くなりました。(友人、先生なども亡くなりました。)
母親はがんもどきなどを作って生活の足しにしていたりしました。
1946年7月7日に四平からの引き上げが始まって、最初の団体が僕らでした。
逆算すると5日か6日に妹を殺したということです。
引き揚げの準備をしている中で男の人が5,6人来て、渡されたコップを僕が進んで水薬を飲ませる。
黒い瞳の印象が残っていてそれ以降は全く記憶を失われてしまっている。
毒薬だと言われたかどうかは判らない覚えていない、医者、お坊さんがいたことは記憶には残っている。
黒い瞳の印象しかないが「お兄ちゃんなにすんの」と言っているように思えた。
親友の小林誠君が36年後に記憶を取り戻すきっかけを作ってくれました。
妹が死んだ時には君は泣きじゃくりながら僕の家に来た。
それでこういうことをしたと。
彼は怒って、日本人会を殴りつけたのかと言ったわけです。
日本人会がこの子は衰弱して連れていけないから組織的な決定があったのかも。
列車の中、船の中でも亡くなる人が沢山いて、それを防ぐためにはやむを得ないということで、どういう経過かわからないがそういうことがありました。
母は妹が死んだ瞬間にショックで足腰が立たなくなりました。
母親が荷車まで運ばれていた。(小林君の記憶)
11歳(私)、8歳、4歳の子供3人と列車で四平から葫蘆(コロ)島まで向かう。(450km)
普通なら1日でいけるところだが3,4日かかったと思います。
葫蘆(コロ)島迄行って、駅の近くに病院がありの畳の上で寝ていたりしていました。
或る時に母にいつも飲んでいた薬と違うと思いながら飲ませたら、飲んだ途端に泡を吹いて死んでしまいました。(青酸カリ?)
またショックでその時の記憶が無くて、気が付いたのは安置された遺体の前で私達3人がそこにいたということでした。(8月5日)
母の遺体は病院の裏山の中腹に他の方の亡骸と一緒に埋葬されました。
私が最初に、3兄弟で土を順番にかけて行きました。(4歳の弟はそのシーンを覚えていた。)
母にかけてやったお気に入りの着物の綺麗な色は覚えています。(記憶は断片的)
8月6日に港から高砂丸(1200名が乗船)に乗って長崎の佐世保に9月10日に着きました。
京都の亀岡市が祖母の家だったのでそこを目指して行きました。
1月には弟が病気にかかってやはり「文子、文子」と言って亡くなりました。
父親が1948年に帰ってきました。
その後私は京都市役所に就職できて一人で生活をするようになりました。
満州のことなどは父親と話を一切したことはないです。(罪の意識を持っていたのかも)
戦争で両親、兄弟で仲良く話し合うと言うことは極端に失われたと思います。
自分の体験を語らなければいけないと思うようになったのは最近です。
きっかけは3・11が起こり近所に避難してきた人達に、話したのがきっかけだったかもしれません。
一昨年位から聞かせてほしいと言う機会が凄く増えて反響を呼んで、時代がそうさせているのかもしれません。
今また日本は戦争をする国になるのではないかとか、福島のことが又起こるのではないかとかの思いがあり、若い人が声を上げなければいけないと思って話しています。
2018年8月14日火曜日
2018年8月13日月曜日
桂竹丸(落語家) ・創作落語で語り継ぐ「特攻」
桂竹丸(落語家) ・創作落語で語り継ぐ「特攻」
61歳、竹丸さんの出身地鹿児島には戦時中特攻隊の出撃基地があり、多くの若者が飛び立っていきました。
子供の頃祖父母や両親から戦争、特に特攻隊の話を聞かされて育ったと言う竹丸さん、13年前その特攻隊を題材にした創作落語を作り、東京の寄席や学校などを回って上演を続けています。
鹿児島生まれの落語家として特攻の悲劇を伝えて行くことは自分の使命だと言います。
明後日で終戦から73年、戦争を経験された方が少なくなり戦争体験を若い世代に伝えて行くことが年々難しくなっています。
戦後生まれ戦争を知らない世代に、その悲惨さや平和の尊さを伝えて行く一つの手段として竹丸さんが創作した落語とそこに込めた思いを伺います。
演目「ホタルの母」
入門者が多くて現在東京だけで550名いる。
昔特攻の基地がありました。
子供の頃特攻の話を聞きました。
知覧は陸軍の所属の基地だった。
特攻平和会館が建っていて、1036名の遺影があり遺書などが展示されている。
特攻平和観音堂が建立されている。
年間60万人以上が足を運んできている。
出来たのが昭和62年。
鳥濱 トメさん(特攻の母と言われる)が手を合わせていると、ほたるが飛んできて観音様の肩に止まる。
遡ること45年前、昭和16年12月8日アメリカに宣戦布告する。
太平洋戦争が勃発、真珠湾攻撃、あっという間に東南アジアを占領する。
物資不足に苦しんでいた国民には朗報であったが。
知覧に飛行学校が建設される。
昭和17年3月になると少年訓練生が知覧にやって来る。
楽しみは食べること、寝ること、たまの休日の外出でした。
知覧は小さい町なので遊ぶところも無く、富屋食堂の存在が知れ渡る。
休みになると大勢の少年訓練生が富屋食堂にやって来るようになる。
少年訓練生を我が子のように思えるようになる。
その後日本は段々壊滅的状況になって行く。
そこで出した上層部の結論は特攻隊でした。
町長が頼んで軍指定の食堂となって米の支給などはあったが、それでは足りないのでトメさんは自分の箪笥などを売って少年訓練生の為の食料に変えていた。
兵舎ができて全国から特攻の兵隊が来ることになる。
トメさんは特攻の話を聞かされるが、特攻の重みを知る由も無かった。
昭和20年3月28日 知覧は桜がきれいに咲いていた。
富屋食堂に一人の青年将校がやって来る。
小林少尉でした。
ここを去るのでお礼にきたということだった。
行く先を問われたがいえない、特攻との事だった。
トメは溢れる涙をじっとこらえる。
「俺たちの分まで長生きしてください、行ってまいります」と言われると、人前では絶対に涙を見せないトメさんはこの時だけはあふれる涙を止めることができませんでした。
トメさんは何もできないことに気を揉むが、手紙を両親に送ることを思い立つ。
「・・・小林殿は昨日突然やってきて、どちらに行くのと言っても口を開きまん。・・・ハッと気が付きました。・・・特攻隊の隊長として3月29日夕方には立って行きます。私から一筆知らせたいといったら、急に驚かせたくないので長く日が経ってから知らせてほしいと言われたが、父親様には知らせておきます。 お元気で長く長く生きて日本の勝つ日をお待ち下さい。・・・急いでお知らせします。 トメより」
2カ月の間に若い命が何百と飛んで行きます。
トメの気持ちは張り裂けんばかりだがグーッと堪えます。
昭和20年6月5日夜、富屋食堂では明日出撃する宮川軍曹の為に手料理を作っていました。
空襲警報が鳴り出して、防空壕に逃げ込む。
通りすぎると表に出るが表は真っ暗だった。
トメさんと兵士たちが歩いていると、何処からともなくちいさな光が横切る。
「ほたるだ」 川には無数の蛍が飛び交っていた。
宮川軍曹が「明日死んだらおばさんのもとに帰って来たいよ」というと一匹の蛍がスーッと宮川軍曹の前に止まる。
「おばさん俺明日死んだら蛍になって帰って来るから、追っ払ったりしないで」
「おばさんは待っているからきっと帰ってきてね」
一匹の蛍が富屋食堂に入ってきます。
「宮川軍曹が蛍になって帰って来たんだ。」
蛍は柱の梁に止まってほのかな光をともしています。
兵士たちは立ちあがって人前では決して見せない涙、大粒の涙を流して敬礼をしていました。
それから5日間特攻の盛期は続いて、最後は6月11日、たった2カ月で南方に消えた特攻兵の命、439名でした。
8月15日終戦を迎える。
トメさんは思う「あの子たちは死なんでもよかったんじゃないのか」
「誰か教えて下さい」トメさんは観音様に手を合わせ祈り続けます。
昭和62年2月特攻平和会館がオープンします。
トメさんは85歳になっていましたが、車椅子で列席、穏やかな顔をしていたと言います。
「うちの次女は宮川さん、あんたが好きだった。 宮川さんあんたが生きていてくれたらね・・・。 どんな時代になったとしても決して皆さんのことは忘れない。」
兵士の仮の姿だったのか幻だったのかトメさんの祈りが済むと、暗闇にほのかな明かりをともしながらスーッと飛んで行きました。
志半ばにして散った命、我々は宮川軍曹に恥じない人生を送っているんだろうかと問いたいと思います。」
この材材は決して軽いものではないので、涙した人もいたが、落語だから楽しく終わって欲しいというお客さんがいたことも事実です。
「ホタル帰る」の本 著者赤羽礼子さんがいて寄席でやってもいいかと問い合わせたらOKでした。
「ホタルの母」は落語だからこそ柔らかく伝えられると思う。
自分の想像の中で特攻、トメさんを捉えてもらえればいいのかなあと思います。
戦争の事を伝えて行くことが大事だと思います。
2005年にはじめて上演するがお客さんの反応は微妙でした。
泣いて下さる方と複雑な顔をしている人、二つに別れましたね。
平凡な一日、平凡な毎日はどれだけ尊いかということが、戦争を思うと判ると思います。
戦争は人を狂わせる、絶対してはいけないと思う。
61歳、竹丸さんの出身地鹿児島には戦時中特攻隊の出撃基地があり、多くの若者が飛び立っていきました。
子供の頃祖父母や両親から戦争、特に特攻隊の話を聞かされて育ったと言う竹丸さん、13年前その特攻隊を題材にした創作落語を作り、東京の寄席や学校などを回って上演を続けています。
鹿児島生まれの落語家として特攻の悲劇を伝えて行くことは自分の使命だと言います。
明後日で終戦から73年、戦争を経験された方が少なくなり戦争体験を若い世代に伝えて行くことが年々難しくなっています。
戦後生まれ戦争を知らない世代に、その悲惨さや平和の尊さを伝えて行く一つの手段として竹丸さんが創作した落語とそこに込めた思いを伺います。
演目「ホタルの母」
入門者が多くて現在東京だけで550名いる。
昔特攻の基地がありました。
子供の頃特攻の話を聞きました。
知覧は陸軍の所属の基地だった。
特攻平和会館が建っていて、1036名の遺影があり遺書などが展示されている。
特攻平和観音堂が建立されている。
年間60万人以上が足を運んできている。
出来たのが昭和62年。
鳥濱 トメさん(特攻の母と言われる)が手を合わせていると、ほたるが飛んできて観音様の肩に止まる。
遡ること45年前、昭和16年12月8日アメリカに宣戦布告する。
太平洋戦争が勃発、真珠湾攻撃、あっという間に東南アジアを占領する。
物資不足に苦しんでいた国民には朗報であったが。
知覧に飛行学校が建設される。
昭和17年3月になると少年訓練生が知覧にやって来る。
楽しみは食べること、寝ること、たまの休日の外出でした。
知覧は小さい町なので遊ぶところも無く、富屋食堂の存在が知れ渡る。
休みになると大勢の少年訓練生が富屋食堂にやって来るようになる。
少年訓練生を我が子のように思えるようになる。
その後日本は段々壊滅的状況になって行く。
そこで出した上層部の結論は特攻隊でした。
町長が頼んで軍指定の食堂となって米の支給などはあったが、それでは足りないのでトメさんは自分の箪笥などを売って少年訓練生の為の食料に変えていた。
兵舎ができて全国から特攻の兵隊が来ることになる。
トメさんは特攻の話を聞かされるが、特攻の重みを知る由も無かった。
昭和20年3月28日 知覧は桜がきれいに咲いていた。
富屋食堂に一人の青年将校がやって来る。
小林少尉でした。
ここを去るのでお礼にきたということだった。
行く先を問われたがいえない、特攻との事だった。
トメは溢れる涙をじっとこらえる。
「俺たちの分まで長生きしてください、行ってまいります」と言われると、人前では絶対に涙を見せないトメさんはこの時だけはあふれる涙を止めることができませんでした。
トメさんは何もできないことに気を揉むが、手紙を両親に送ることを思い立つ。
「・・・小林殿は昨日突然やってきて、どちらに行くのと言っても口を開きまん。・・・ハッと気が付きました。・・・特攻隊の隊長として3月29日夕方には立って行きます。私から一筆知らせたいといったら、急に驚かせたくないので長く日が経ってから知らせてほしいと言われたが、父親様には知らせておきます。 お元気で長く長く生きて日本の勝つ日をお待ち下さい。・・・急いでお知らせします。 トメより」
2カ月の間に若い命が何百と飛んで行きます。
トメの気持ちは張り裂けんばかりだがグーッと堪えます。
昭和20年6月5日夜、富屋食堂では明日出撃する宮川軍曹の為に手料理を作っていました。
空襲警報が鳴り出して、防空壕に逃げ込む。
通りすぎると表に出るが表は真っ暗だった。
トメさんと兵士たちが歩いていると、何処からともなくちいさな光が横切る。
「ほたるだ」 川には無数の蛍が飛び交っていた。
宮川軍曹が「明日死んだらおばさんのもとに帰って来たいよ」というと一匹の蛍がスーッと宮川軍曹の前に止まる。
「おばさん俺明日死んだら蛍になって帰って来るから、追っ払ったりしないで」
「おばさんは待っているからきっと帰ってきてね」
一匹の蛍が富屋食堂に入ってきます。
「宮川軍曹が蛍になって帰って来たんだ。」
蛍は柱の梁に止まってほのかな光をともしています。
兵士たちは立ちあがって人前では決して見せない涙、大粒の涙を流して敬礼をしていました。
それから5日間特攻の盛期は続いて、最後は6月11日、たった2カ月で南方に消えた特攻兵の命、439名でした。
8月15日終戦を迎える。
トメさんは思う「あの子たちは死なんでもよかったんじゃないのか」
「誰か教えて下さい」トメさんは観音様に手を合わせ祈り続けます。
昭和62年2月特攻平和会館がオープンします。
トメさんは85歳になっていましたが、車椅子で列席、穏やかな顔をしていたと言います。
「うちの次女は宮川さん、あんたが好きだった。 宮川さんあんたが生きていてくれたらね・・・。 どんな時代になったとしても決して皆さんのことは忘れない。」
兵士の仮の姿だったのか幻だったのかトメさんの祈りが済むと、暗闇にほのかな明かりをともしながらスーッと飛んで行きました。
志半ばにして散った命、我々は宮川軍曹に恥じない人生を送っているんだろうかと問いたいと思います。」
この材材は決して軽いものではないので、涙した人もいたが、落語だから楽しく終わって欲しいというお客さんがいたことも事実です。
「ホタル帰る」の本 著者赤羽礼子さんがいて寄席でやってもいいかと問い合わせたらOKでした。
「ホタルの母」は落語だからこそ柔らかく伝えられると思う。
自分の想像の中で特攻、トメさんを捉えてもらえればいいのかなあと思います。
戦争の事を伝えて行くことが大事だと思います。
2005年にはじめて上演するがお客さんの反応は微妙でした。
泣いて下さる方と複雑な顔をしている人、二つに別れましたね。
平凡な一日、平凡な毎日はどれだけ尊いかということが、戦争を思うと判ると思います。
戦争は人を狂わせる、絶対してはいけないと思う。
2018年8月12日日曜日
大古誠司(男子バレーボール 元全日本監督) ・特選【スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言
大古誠司(男子バレーボール 元全日本監督) ・特選【スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言 (2007年11月23日OA)
1972年ミュンヘンオリンピックで金メダルを取る。
72年から25周年、30周年、35周年(今年)ミュンヘンに行ってきました。
20数名で行ってきました。
準決勝がブルガリア戦
日本は予選リーグは5戦一つのセットも落とさず。
ベスト4に残ったのが優勝候補筆頭のソビエト、東ドイツ、ブルガリア、日本。
日本とブルガリアが戦うことになる。
日本が2セット連取される。(1時間半経過していた)
「今から2時間お前たちが戦っていれば絶対勝つ」と松平監督から言われる。
第三セットも4-7とリードされる。
15-9で第三セットを取る。
第四セットも15-9で取る。
第五セットも3-9とリードされる。
ボールが僕の処に良く回ってきました。
12-11と日本が逆転しました。
セッターの猫田さんに「俺のところに持って来い」と叫んでいました。
エースは劣勢場面、辛い時に踏ん張れるのがエースだとずーっと教育を受けていたので、
踏ん張らなければいけないと思っていました。
奇跡的な逆転だったと思います。
決勝は翌日東ドイツ戦でした。
試合前に監督が「昨日お前らは死んだんだから、もう死のうと思っても死ねないから、今日は行こう。」という話をしました。
第一セットを失うがその後三セットを取り、金メダルを獲得する。
試合を開始する前に金メダルはいけそうだという思いがあり、最初ちょっと気のゆるみが有ったのかもしれない、東ドイツには負けたことが無かったので。
4年前のメキシコオリンピックは銀メダルだった。
東京オリンピックから8年計画でやってきましたので、これを逃したらないだろうと思っていました。
私は9人制上がりで、攻撃的な部分は自信が有ったが、レシーブ、守備のいいチーム作りを目指していたのでかなり毎日絞られました。
2m近くの人間のウエイトを二の腕で立てるぐらいのバランスが無いとボール処理ができないということで、当時私だけが出来なかったので逆立ち9m歩きを監督から言われてやりました。
1週間で出来ないとオリンピックに連れていかないと言われていましたが、まさか逆立ち9m歩きが出来ない位でオリンピックに連れていかなということはないだろうとたかをくくっていました。
1週間経とうとしててもできなかった。
練習は4時間でくたくたでしたが、その後に逆立ちをする訳です。
今日の夜12時までが期限だと言われて、段々松平さんの目が厳しくなってゆく。
1時間半が過ぎいつの時点からか力がスーっと抜けて行き、9m歩くことができた。
11人の選手が駆け寄ってきて良かったよかったと言ってくれて、訓練のなかで涙が出たのは初めてでした。
凄く友情を感じました。
神奈川県川崎市生まれ、5人兄弟の末っ子。
父を幼いころに亡くす。
小学校3年から朝学校に行く前に野球をやって、6年生までやっていました。
何故かキャッチャーが好きで将来ジャイアンツに入れたらいいなあと思いました。
中学では野球部が無くて2年生からバレーを始めました。
その前はブラスバンドのクラリネットをやっていました。
東芝学園から日本鋼管に入りました。
6人制は日本鋼管で始めました。
父も兄も日本鋼管でした。
昭和42年第一回に日本リーグでスパイク賞2位、敢闘賞、ベスト6にもなった。(19歳)
翌年松平監督の要請で全日本に入る。
同期の森田淳悟、横田忠義とともに全日本ビッグスリーとも称された。
6年間日本鋼管に在籍して、4回優勝、MVP2回、スパイク賞3回、6回ともベスト6に選ばれる。
メキシコ、ミュンヘン、モントリオールのオリンピックに出ましたが、毎試合試合前に痛み止めの注射をして膝、肩などの痛みをこらえてやっていて、満足に戦えたということはないです。
気力でやっていました。
昭和48年サントリーへ移籍をする。(25歳)
兄から「お前の学歴だと将来は工場に回されて3交替されるぞ」と言われました。
バレーボールを通して自分を見つめてくれるような会社があると嬉しいと思っていましたが、佐治敬三社長から話を頂き、「日本一のバレーボールのチームを作って欲しい、バレーボールの王古が欲しい」と言われました。
意気に燃えて入ることにしました。
チームが出来てから2年でトップリーグ入りを果たす。
現在のサントリーバレーの基礎ができたと思います。
1991~1995年に全日本の監督を務める。
その後オリンピックに参加出来なかったが、92年バルセロナオリンピックで6位になる。
初戦に3連覇を狙っていたアメリカと戦うことになる。
アメリカの選手が1セットで2回イエローカードがでた。
本来2回目はレッドにならないといけないが、イエローカードだった。
レッドになれば1点が加算され勝つことになり、試合は終わっているはずだった。
相手監督、審判団、国際バレーボール連盟の人達などに抗議して、私達の主張が通って2日間がかりの勝利を挙げた。
当時のメンバーがVプレミアリーグの監督かコーチになっています。
そのうちの3人を一度渾身の力で殴ったことがあります。
負けた時は物凄く悔しいので次に勝ってみせるということに持ち込まなくてはいけないので練習をする、そうすると勝つんです。
自分たちから向上心が生まれてくる。
ナショナルチームの監督になった時もあるが、選手はそれぞれの監督に指導されてきているが、やはり私自身尊敬されるような立場の監督でなくてはいけないと思います。
12人トータルでチームは出来るので、みんなを引っ張ってくれるので僕のチーム作りには上田は欠かせなかった。
松平さんと僕の気持名前は彼の頭の中にははいっていると思います。
彼のやっている練習は厳しいです。
男子はバレーボール離れになってきているのでオリンピックで活躍している姿を彼等になんとかやって欲しいと思います。。
1972年ミュンヘンオリンピックで金メダルを取る。
72年から25周年、30周年、35周年(今年)ミュンヘンに行ってきました。
20数名で行ってきました。
準決勝がブルガリア戦
日本は予選リーグは5戦一つのセットも落とさず。
ベスト4に残ったのが優勝候補筆頭のソビエト、東ドイツ、ブルガリア、日本。
日本とブルガリアが戦うことになる。
日本が2セット連取される。(1時間半経過していた)
「今から2時間お前たちが戦っていれば絶対勝つ」と松平監督から言われる。
第三セットも4-7とリードされる。
15-9で第三セットを取る。
第四セットも15-9で取る。
第五セットも3-9とリードされる。
ボールが僕の処に良く回ってきました。
12-11と日本が逆転しました。
セッターの猫田さんに「俺のところに持って来い」と叫んでいました。
エースは劣勢場面、辛い時に踏ん張れるのがエースだとずーっと教育を受けていたので、
踏ん張らなければいけないと思っていました。
奇跡的な逆転だったと思います。
決勝は翌日東ドイツ戦でした。
試合前に監督が「昨日お前らは死んだんだから、もう死のうと思っても死ねないから、今日は行こう。」という話をしました。
第一セットを失うがその後三セットを取り、金メダルを獲得する。
試合を開始する前に金メダルはいけそうだという思いがあり、最初ちょっと気のゆるみが有ったのかもしれない、東ドイツには負けたことが無かったので。
4年前のメキシコオリンピックは銀メダルだった。
東京オリンピックから8年計画でやってきましたので、これを逃したらないだろうと思っていました。
私は9人制上がりで、攻撃的な部分は自信が有ったが、レシーブ、守備のいいチーム作りを目指していたのでかなり毎日絞られました。
2m近くの人間のウエイトを二の腕で立てるぐらいのバランスが無いとボール処理ができないということで、当時私だけが出来なかったので逆立ち9m歩きを監督から言われてやりました。
1週間で出来ないとオリンピックに連れていかないと言われていましたが、まさか逆立ち9m歩きが出来ない位でオリンピックに連れていかなということはないだろうとたかをくくっていました。
1週間経とうとしててもできなかった。
練習は4時間でくたくたでしたが、その後に逆立ちをする訳です。
今日の夜12時までが期限だと言われて、段々松平さんの目が厳しくなってゆく。
1時間半が過ぎいつの時点からか力がスーっと抜けて行き、9m歩くことができた。
11人の選手が駆け寄ってきて良かったよかったと言ってくれて、訓練のなかで涙が出たのは初めてでした。
凄く友情を感じました。
神奈川県川崎市生まれ、5人兄弟の末っ子。
父を幼いころに亡くす。
小学校3年から朝学校に行く前に野球をやって、6年生までやっていました。
何故かキャッチャーが好きで将来ジャイアンツに入れたらいいなあと思いました。
中学では野球部が無くて2年生からバレーを始めました。
その前はブラスバンドのクラリネットをやっていました。
東芝学園から日本鋼管に入りました。
6人制は日本鋼管で始めました。
父も兄も日本鋼管でした。
昭和42年第一回に日本リーグでスパイク賞2位、敢闘賞、ベスト6にもなった。(19歳)
翌年松平監督の要請で全日本に入る。
同期の森田淳悟、横田忠義とともに全日本ビッグスリーとも称された。
6年間日本鋼管に在籍して、4回優勝、MVP2回、スパイク賞3回、6回ともベスト6に選ばれる。
メキシコ、ミュンヘン、モントリオールのオリンピックに出ましたが、毎試合試合前に痛み止めの注射をして膝、肩などの痛みをこらえてやっていて、満足に戦えたということはないです。
気力でやっていました。
昭和48年サントリーへ移籍をする。(25歳)
兄から「お前の学歴だと将来は工場に回されて3交替されるぞ」と言われました。
バレーボールを通して自分を見つめてくれるような会社があると嬉しいと思っていましたが、佐治敬三社長から話を頂き、「日本一のバレーボールのチームを作って欲しい、バレーボールの王古が欲しい」と言われました。
意気に燃えて入ることにしました。
チームが出来てから2年でトップリーグ入りを果たす。
現在のサントリーバレーの基礎ができたと思います。
1991~1995年に全日本の監督を務める。
その後オリンピックに参加出来なかったが、92年バルセロナオリンピックで6位になる。
初戦に3連覇を狙っていたアメリカと戦うことになる。
アメリカの選手が1セットで2回イエローカードがでた。
本来2回目はレッドにならないといけないが、イエローカードだった。
レッドになれば1点が加算され勝つことになり、試合は終わっているはずだった。
相手監督、審判団、国際バレーボール連盟の人達などに抗議して、私達の主張が通って2日間がかりの勝利を挙げた。
当時のメンバーがVプレミアリーグの監督かコーチになっています。
そのうちの3人を一度渾身の力で殴ったことがあります。
負けた時は物凄く悔しいので次に勝ってみせるということに持ち込まなくてはいけないので練習をする、そうすると勝つんです。
自分たちから向上心が生まれてくる。
ナショナルチームの監督になった時もあるが、選手はそれぞれの監督に指導されてきているが、やはり私自身尊敬されるような立場の監督でなくてはいけないと思います。
12人トータルでチームは出来るので、みんなを引っ張ってくれるので僕のチーム作りには上田は欠かせなかった。
松平さんと僕の気持名前は彼の頭の中にははいっていると思います。
彼のやっている練習は厳しいです。
男子はバレーボール離れになってきているのでオリンピックで活躍している姿を彼等になんとかやって欲しいと思います。。
2018年8月11日土曜日
山口岩夫(元NHKアナウンサー<昨年9月死去>・戦時下、空襲警報を伝え続けた日々(2014年8月OA)
山口岩夫(元NHKアナウンサー<昨年9月死去>・戦時下、空襲警報を伝え続けた日々(2014年8月OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.com/2014/08/blog-post_9.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.com/2014/08/blog-post_9.htmlをご覧ください。
2018年8月10日金曜日
笹本妙子(放送ライター) ・平和への橋わたし
笹本妙子(放送ライター) ・平和への橋わたし
21年前笹本さんは自宅近くにあるイギリス連邦墓地での戦没捕虜追悼礼拝の記事を目にします。
笹本さんはそこが日本で亡くなった戦争捕虜たちの墓地であることを知りませんでした。
墓地に眠るのは1942年から45年までに日本国内で死亡したイギリス、カナダ、オーストラリアなどの捕虜1720人です。
こんなに多くの人たちが何故ここに葬られているのか笹本さんはそのいきさつを調べ始めます。
16年前笹本さんは捕虜問題に関心を持つ人達に呼びかけて捕虜収容所の実態を調べます。
南方から日本に辿りついた捕虜はおよそ3万6000人、全国130か所の収容所に入れられ、鉱山、工場、造船所などで働かされます。
そしておよそ3500人が栄養失調や病気で死亡したとされています。
笹本さん達は調査とともに元捕虜やその家族との交流活動を積み重ね、消しがたい憎しみを解消することにも努めて来ました。
平和への橋渡し、笹本さんに伺いました。
POW(prisoner(s) of war 戦争捕虜)研究会という会を作って、英語でもホームページをだしていまして、頻繁に問い合わせがあります。
捕虜の御家族がたずねてみたいとか、しょっちゅうあります。
情報を提供してその人が何処に収容されていたのかと判ると、一緒に同行して収容跡地にご案内したりしています。
すべてボランティアでやっています。
英連邦戦死者墓地と言いますが、この墓地の存在を知ったのは40年前になります。
或る日、墓地に踏み込んでみたら無数の墓碑がならんでいてほとんどの人が1942年から45年に亡くなった人達でした。
なんでこの人達が戦死者として埋葬されているのか不思議でした。
図書館に行って調べに行ったが判りませんでした。
1997年にたまたま新聞での戦没捕虜追悼礼拝が行われたという記事を見ました。
埋葬されている人達は捕虜だったと書いてあり吃驚しました。
主催している方々が3人いました。
泰緬鉄道で通訳をやっていた長瀬隆さん、青山学院大学の雨宮先生、国際キリスト大学の斎藤先生が呼びかけ人になって戦後50年1995年から追悼礼拝を始めたということなんです。
雨宮先生のところに話を伺いに行ったら5時間に渡って話していただきました。
ビデオも見せていただき大変なショックを受けました。
日本が捕虜に対して想像を絶するような酷い事をして沢山の犠牲者が出て、元捕虜たちが日本に対して激しい憎悪を抱いているという事を初めて知りました。
イギリス、アメリカ、オーストラリア、オランダなどとはずーっと仲よくしてきたと私は思ってたんですが、激しく恨んでいる人たちがいることに物凄いショックを受けました。
日本軍は証拠を残さないという事で焼却されてしまったようでした。
捕虜の体験記の日本語訳などの本をたまたま見てすこしずつ判ってきて、本の訳者の人に連絡して教えていただいたりしました。
段々広がってきて、或る時田村良子さんに出会って、私よりも早く墓地とのかかわりを持っていました。
彼女は英語が堪能な人で願っても無いパートナーが出来き調査に取り組みました。
捕虜問題に関心をもっている人達が何人かいることが判り、POW研究会を立ち上げることにしました。(2002年)
日本国内に130か所捕虜収容所がありますが、発足した当時は20人ぐらいで数えるほどしか収容所のことは判りませんでした。
国会図書館にGHQ(占領軍)の資料が沢山所蔵されていることを福林さんが見つけました。
その中に130か所の収容所で亡くなった人の名簿が見つかりました。
どういう人がいつどういう原因で亡くなったかも書いてありました。
データベース化して会のホームページに英語にもして公表しました。
日本には3万6000人位連れてこられたということです。
死因は脚気、栄養失調、赤痢、マラリア、肺炎、工場での事故とか悲惨な状況でした。
味方の空襲や原爆でも亡くなっています。
墓碑を持たずに一つの棺の中に遺骨が多葬されている納骨堂があります。
九州の門司で亡くなった人達でした。
捕虜の輸送船が入港する門司港からの人達でした。
食事もろくに与えられず、トイレもバケツが与えられるような過酷な状況で、たどり着くかどうかで亡くなった人もいて一緒に火葬して一緒に埋葬したために識別できなくなってしまった。
1942年リスボン丸 イギリス人捕虜1800人を乗せて日本に向かう途中、上海沖でアメリカの潜水艦に攻撃されて沈没して半分が亡くなる。
捕虜は船底から脱出するが、仲間を蹴落として生き残ったと言う人がいて、彼が戦後大きなトラウマになって罪悪感、捉われている時の恐怖の時間などに苦しむわけです。
広島につれていかれて焼跡の片付け作業に駆り出されて、素手で黒こげの遺体を掴んで作業したと言っていました。
広島に行ったことを話したら医者から「あなたはきっと子供は生まれないだろう」と言われて、実際彼には子供に恵まれなかったと言っています。
彼が日本に来た時には断片的だったのでイギリスに行って詳しく聞きに行きました。
私たちが頼りにする資料は外国の資料からしか求めようがないです。
捕虜の体験記、来日した人達からの証言、外国に行って得た証言などから調査してきました。
元捕虜の人たちは日本に対して激しい憎しみ、怒りを持っています。
元捕虜の人も平均年齢が95歳になっているので日本に来られる方は少なくなって子供、孫世代が来ます。
収容跡地、墓碑などに案内して彼等の話を聞いたりします。
新潟県に直江津捕虜収容所があり、オーストアラリア人が300人位収容されていて60人が亡くなっている。
戦犯裁判で直江津捕虜収容所から8人の日本人が絞首刑になっている。
直江津の人にとってはタブー視されていたが、元捕虜の人から地元の高校に手紙があり、直江津ではお世話になりましたと言うことで、手紙がもとで収容所のことに地元の人が調べ始めて、双方にも犠牲者を出した歴史を放っておいてはいけないという事、運動が盛り上がって、収容所跡地に平和公園を作り、モニュメントを作り、捕虜の慰霊碑、日本の絞首刑の人達の慰霊碑の両方を作ったんです。
オーストラリアとの交流が展開されてきたが、日本人の慰霊碑に関してはだれも近づく人がいない。
日本人の慰霊碑を建てることはオーストラリアからは凄い反対が有ったそうですが、日本側が押し切って建てたそうですが、捕虜側から認められなかった。
外務省がアメリカとオーストラリアの元捕虜を日本に招へいするプロジェクトをやっていて、ヒルさんが再び来て日本人の碑にも自ら献花したそうです。
周りは吃驚したそうです。
ヒルさんに何故献花したのかを問い合わせると、「彼らも彼等の家族遺族も悲しい思いをしただろう」と言ったそうです。
そう思う様になるまでには長い年月がかかっているんだろうと思います。
憎しみをいかに解きほぐしていくかということはなかなか難しいことだと思います。
泰緬鉄道で通訳をやっていた長瀬隆さん、通訳として或る拷問に立ち会った。
そのなかにいたローマックスという人が戦後もずーっと恨み続けた。
通訳の声を通して拷問された。
長瀬さんはタイに行って贖罪の活動をやってきた人だったが、或る時ローマックスさんはそのことを新聞で知ったが、妻が私の夫はあなたを許してはいませんと手紙を送ってきた。
長瀬さんはショックを受けるが、ロ-マックスさんに手紙を送り続けるが許すという言葉は出てこなかった。
或る時ロ-マックスさんが日本にやって来た時に、旅を共にしても思いは変わらなかった。
最後の夜に自分の部屋に呼んで初めて赦すというふうに言ったそうです。
長瀬さんは理不尽であると思ったが、日本軍の一員であると思って責任を果たさなくてはいけないと思った。
お互いに生生しい傷があるからお互いに赦しに至らない、和解がいかに難しいことかと思いました。
戦争中のことは時間が経って赦すことは出来るけれども忘れることはできない。
戦争は無残なものむごいものだと皆さんおっしゃいます。
戦争で何があったか掘り起こして記録して次の世代に伝えて行くことが、私たちの役割、責任ではないかと思っています。
戦争は絶対に起こしてはいけないことだと思います。
21年前笹本さんは自宅近くにあるイギリス連邦墓地での戦没捕虜追悼礼拝の記事を目にします。
笹本さんはそこが日本で亡くなった戦争捕虜たちの墓地であることを知りませんでした。
墓地に眠るのは1942年から45年までに日本国内で死亡したイギリス、カナダ、オーストラリアなどの捕虜1720人です。
こんなに多くの人たちが何故ここに葬られているのか笹本さんはそのいきさつを調べ始めます。
16年前笹本さんは捕虜問題に関心を持つ人達に呼びかけて捕虜収容所の実態を調べます。
南方から日本に辿りついた捕虜はおよそ3万6000人、全国130か所の収容所に入れられ、鉱山、工場、造船所などで働かされます。
そしておよそ3500人が栄養失調や病気で死亡したとされています。
笹本さん達は調査とともに元捕虜やその家族との交流活動を積み重ね、消しがたい憎しみを解消することにも努めて来ました。
平和への橋渡し、笹本さんに伺いました。
POW(prisoner(s) of war 戦争捕虜)研究会という会を作って、英語でもホームページをだしていまして、頻繁に問い合わせがあります。
捕虜の御家族がたずねてみたいとか、しょっちゅうあります。
情報を提供してその人が何処に収容されていたのかと判ると、一緒に同行して収容跡地にご案内したりしています。
すべてボランティアでやっています。
英連邦戦死者墓地と言いますが、この墓地の存在を知ったのは40年前になります。
或る日、墓地に踏み込んでみたら無数の墓碑がならんでいてほとんどの人が1942年から45年に亡くなった人達でした。
なんでこの人達が戦死者として埋葬されているのか不思議でした。
図書館に行って調べに行ったが判りませんでした。
1997年にたまたま新聞での戦没捕虜追悼礼拝が行われたという記事を見ました。
埋葬されている人達は捕虜だったと書いてあり吃驚しました。
主催している方々が3人いました。
泰緬鉄道で通訳をやっていた長瀬隆さん、青山学院大学の雨宮先生、国際キリスト大学の斎藤先生が呼びかけ人になって戦後50年1995年から追悼礼拝を始めたということなんです。
雨宮先生のところに話を伺いに行ったら5時間に渡って話していただきました。
ビデオも見せていただき大変なショックを受けました。
日本が捕虜に対して想像を絶するような酷い事をして沢山の犠牲者が出て、元捕虜たちが日本に対して激しい憎悪を抱いているという事を初めて知りました。
イギリス、アメリカ、オーストラリア、オランダなどとはずーっと仲よくしてきたと私は思ってたんですが、激しく恨んでいる人たちがいることに物凄いショックを受けました。
日本軍は証拠を残さないという事で焼却されてしまったようでした。
捕虜の体験記の日本語訳などの本をたまたま見てすこしずつ判ってきて、本の訳者の人に連絡して教えていただいたりしました。
段々広がってきて、或る時田村良子さんに出会って、私よりも早く墓地とのかかわりを持っていました。
彼女は英語が堪能な人で願っても無いパートナーが出来き調査に取り組みました。
捕虜問題に関心をもっている人達が何人かいることが判り、POW研究会を立ち上げることにしました。(2002年)
日本国内に130か所捕虜収容所がありますが、発足した当時は20人ぐらいで数えるほどしか収容所のことは判りませんでした。
国会図書館にGHQ(占領軍)の資料が沢山所蔵されていることを福林さんが見つけました。
その中に130か所の収容所で亡くなった人の名簿が見つかりました。
どういう人がいつどういう原因で亡くなったかも書いてありました。
データベース化して会のホームページに英語にもして公表しました。
日本には3万6000人位連れてこられたということです。
死因は脚気、栄養失調、赤痢、マラリア、肺炎、工場での事故とか悲惨な状況でした。
味方の空襲や原爆でも亡くなっています。
墓碑を持たずに一つの棺の中に遺骨が多葬されている納骨堂があります。
九州の門司で亡くなった人達でした。
捕虜の輸送船が入港する門司港からの人達でした。
食事もろくに与えられず、トイレもバケツが与えられるような過酷な状況で、たどり着くかどうかで亡くなった人もいて一緒に火葬して一緒に埋葬したために識別できなくなってしまった。
1942年リスボン丸 イギリス人捕虜1800人を乗せて日本に向かう途中、上海沖でアメリカの潜水艦に攻撃されて沈没して半分が亡くなる。
捕虜は船底から脱出するが、仲間を蹴落として生き残ったと言う人がいて、彼が戦後大きなトラウマになって罪悪感、捉われている時の恐怖の時間などに苦しむわけです。
広島につれていかれて焼跡の片付け作業に駆り出されて、素手で黒こげの遺体を掴んで作業したと言っていました。
広島に行ったことを話したら医者から「あなたはきっと子供は生まれないだろう」と言われて、実際彼には子供に恵まれなかったと言っています。
彼が日本に来た時には断片的だったのでイギリスに行って詳しく聞きに行きました。
私たちが頼りにする資料は外国の資料からしか求めようがないです。
捕虜の体験記、来日した人達からの証言、外国に行って得た証言などから調査してきました。
元捕虜の人たちは日本に対して激しい憎しみ、怒りを持っています。
元捕虜の人も平均年齢が95歳になっているので日本に来られる方は少なくなって子供、孫世代が来ます。
収容跡地、墓碑などに案内して彼等の話を聞いたりします。
新潟県に直江津捕虜収容所があり、オーストアラリア人が300人位収容されていて60人が亡くなっている。
戦犯裁判で直江津捕虜収容所から8人の日本人が絞首刑になっている。
直江津の人にとってはタブー視されていたが、元捕虜の人から地元の高校に手紙があり、直江津ではお世話になりましたと言うことで、手紙がもとで収容所のことに地元の人が調べ始めて、双方にも犠牲者を出した歴史を放っておいてはいけないという事、運動が盛り上がって、収容所跡地に平和公園を作り、モニュメントを作り、捕虜の慰霊碑、日本の絞首刑の人達の慰霊碑の両方を作ったんです。
オーストラリアとの交流が展開されてきたが、日本人の慰霊碑に関してはだれも近づく人がいない。
日本人の慰霊碑を建てることはオーストラリアからは凄い反対が有ったそうですが、日本側が押し切って建てたそうですが、捕虜側から認められなかった。
外務省がアメリカとオーストラリアの元捕虜を日本に招へいするプロジェクトをやっていて、ヒルさんが再び来て日本人の碑にも自ら献花したそうです。
周りは吃驚したそうです。
ヒルさんに何故献花したのかを問い合わせると、「彼らも彼等の家族遺族も悲しい思いをしただろう」と言ったそうです。
そう思う様になるまでには長い年月がかかっているんだろうと思います。
憎しみをいかに解きほぐしていくかということはなかなか難しいことだと思います。
泰緬鉄道で通訳をやっていた長瀬隆さん、通訳として或る拷問に立ち会った。
そのなかにいたローマックスという人が戦後もずーっと恨み続けた。
通訳の声を通して拷問された。
長瀬さんはタイに行って贖罪の活動をやってきた人だったが、或る時ローマックスさんはそのことを新聞で知ったが、妻が私の夫はあなたを許してはいませんと手紙を送ってきた。
長瀬さんはショックを受けるが、ロ-マックスさんに手紙を送り続けるが許すという言葉は出てこなかった。
或る時ロ-マックスさんが日本にやって来た時に、旅を共にしても思いは変わらなかった。
最後の夜に自分の部屋に呼んで初めて赦すというふうに言ったそうです。
長瀬さんは理不尽であると思ったが、日本軍の一員であると思って責任を果たさなくてはいけないと思った。
お互いに生生しい傷があるからお互いに赦しに至らない、和解がいかに難しいことかと思いました。
戦争中のことは時間が経って赦すことは出来るけれども忘れることはできない。
戦争は無残なものむごいものだと皆さんおっしゃいます。
戦争で何があったか掘り起こして記録して次の世代に伝えて行くことが、私たちの役割、責任ではないかと思っています。
戦争は絶対に起こしてはいけないことだと思います。
2018年8月9日木曜日
鴻上尚史(作家・演出家) ・奇跡の特攻兵から見えること
鴻上尚史(作家・演出家) ・奇跡の特攻兵から見えること
昭和33年愛媛県出身、早稲田大学在学中の昭和56年劇団「第三舞台」を結成し、以来演出家としてキャリアーを積んできました。
又エッセーや演劇関係の著書も多くTVやラジオの司会者としても活躍しています。
NHKの番組ではクールジャパンの進行役でおなじみです。
去年「不死身の特攻兵」というノンフィクションを出版されました。
作品には9回出撃し9回生還した特攻兵が描かれています。
「ローリングソング」8月11日から初日を迎えるのでてんやわんやです。
(作・演出:鴻上尚史 出演:中⼭優⾺ 松岡充 中村雅俊 /森⽥涼花 久野綾希子)
中山優馬、松岡充、中村雅俊がトリプル主演を務め、二十代のミュージシャン、四十代のビジネスマン、六十代の結婚詐欺師という夢に翻弄される三世代の男たちの物語が描かれる。
昨年「青空に飛ぶ」「不死身の特攻兵」2冊を出版 特攻兵をテーマにした話。
TVでアニメなどの戦争ものが多かった。
子供心に何故そんなことが起こったんだろうと、心の中に引っ掛かっていました。
本では8回出撃して8回帰って来たと紹介されていたが、僕は最終的には9回出撃し9回生還した特攻兵がいらしっていてそれが佐々木友次さんでした。
本で2009年に知りました。
特攻から帰って来た人間だけを博多に作った寮で軟禁して外出させないようにして特攻から帰ってきたことを隠そうとした。(陸軍の正式な記録には残っていない。)
2015年にあるプロデュ―サーと親しくなってそのことを話したら、佐々木さんは生きていますと言う事だった。(札幌の病院に入院中 92歳)
早速会おうと言うことになりました。
行ってみたら転院していて、看護師からは一切情報をもらえなかった。
息子さんの名前が判っていたのでインターネットで調べたら、ある会社の役職をしていることが判りました。
手紙を書いて連絡が取れました。
しかし父は喋りたくないということで、顔だけでもいいからということで会いに来ました。
糖尿病の為目が不自由でけがをして入院したとの事だった。
亡くなる3カ月前に会えてその後1カ月で5回お会いすることができました。
佐々木さんは小さいころから飛行機が好きだったそうです。
陸軍に入って21歳のとき陸軍最初の特攻隊「万朶(ばんだ)隊」に選ばれる。
万朶(ばんだ)=多くの花の咲くの枝
海軍は「神風」
後期の特攻隊員は未熟なパイロットが選ばれたが、初期の特攻はベテランから選ばれました。
爆撃ではなく体当たりしろということで凄く怒ったそうです、プライドがある人々の存在そのものの否定だった。
隊長が我々の役目は敵の戦艦を沈めることであって、我々は体当たりして死ぬことではないんだと、だから何回も行っていいんだと言う話だった。
爆弾を整備兵が落とせるように工夫してくれて、1回目出撃して爆弾を落として小型の船を傷つけた。
米軍機が大挙来るので撃ち落とされるか、早く引き上げるしかなかった。
佐々木さんは戦艦を沈めたと報告されてしまい、軍神になって新聞にも出るし、ラジオでも放送され、天皇にまで報告されて大変なことになります。
戻って来た時には上層部は大変困ってしまった。(天皇にうその報告をしてしまった。)
求めることは次の特攻で死ねば帳尻が合うと言うことになる。
「次は死んでこい」と言われる。
2回目は夜間出撃で難しくて一機事故で爆発して出撃が中止になる。
3回目は出撃の時に儀式の好きな上官がいて、上官などが話をしているうちにアメリカ軍の空襲がきて爆撃で友人の伍長が亡くなったりしてしまった。
4回目は絶対死んでこいと言われたが、「爆弾を落として船を沈めるのが私の仕事です」といったが、「爆弾を落として船を沈めた後、お前は体当たりして死ね」といわれた。
途中でアメリカの編隊が来て、こちらの護衛機は数機で隊長機はUターンしてしまった。
特攻は一機だけで佐々木さんを死なすのはおかしいということで守ってくれたというのが4回目だった。
5回目はいきなり遠くの方に敵軍がいることが判って、特攻機は評判の良くない速度の遅い飛行機だった。
機銃とかは一切ない丸裸の飛行機なので引き返した。
6回目は爆弾を投下して輸送船らしきものを沈め、帰ってきたが沈没させたことよりも帰ってきたことをなじられる。
敵の船を沈めたと発表されて2回目の軍神になる。(戦死と扱われる。)
盛大な葬式が地元では行われる。
最初の海軍の特攻で商船を改造した防御の弱い護衛空母を一機の250kg爆弾を抱えた特攻機がたまたま撃沈した。
それが護衛空母ではなく「空母」を一機で撃沈出来たと誤解を起こしてしまう。
飛行機が突っ込んでいくということは爆弾を落とす速度よりも半分だし、アルミの機体なので特攻に反対した軍人が言っていたのは、「コンクリートに生卵をぶつける様なものだ」と言っていたそうです。
ベテランパイロット達は効果が無いことを主張していた。
特攻が続いたのはキャンペーンとしか思えない。
純真な若者たちが命を犠牲にして体当たりをしている、戦争に対して気合いが足りないのじゃないかと、内部向けのキャンペーンになっていたとしか思えない。
最初は特攻も多少効果が有ったがアメリカは直ぐに対応し、効果が激減した。
7回目離陸に失敗、8回目はたった一機で出撃、ここでたとえ戦艦を撃沈しても戦果確認機さえいないということだった。
9回目は機体不調で戻ってくる。
その後出撃命令が出るがマラリアにかかって戦況が悪くなりアメリカ軍が侵攻してきて山の方に逃げてゆく。
最後は山の中で終戦を迎える。
捕虜収容所を経て1946年1月に日本に帰って来る。
このまま帰ってもらったら困るので、山の中にいるころに殺そうかというようなこともあったようです。
佐々木さんは「寿命が有ったんだ」といっているが、岩本大尉に「死ぬな」と言われたこともあるし、父親が日露戦争で厳しい状況があり「人間簡単に死ぬもんではない」といっていたが、私が思ったのは佐々木さんは本当に空を飛ぶことが好きで、戦場に向かう時には「怖いと思ったことが無くてどきどきわくわくしていた」言っていて本当に飛行機に乗るのが好きだったんだと思いました。
日本に戻ってきても辛い目にあった。
この本が出てから、いとこの方から1年前から自分の経験したことを本に出したかったという事を佐々木さんが言っていたという事を手紙でもらいました。
タイミングとして奇跡的だったと思います。
生還した特攻の人たちがものを言いにくい状況がずーっと有ったと思います。
死ぬことを前提の命令が何故生まれたのかを検証しないといけないと思います。
命令する側命令される側、最近のスポーツ界の不祥事と構造が同じだと思います。
昭和33年愛媛県出身、早稲田大学在学中の昭和56年劇団「第三舞台」を結成し、以来演出家としてキャリアーを積んできました。
又エッセーや演劇関係の著書も多くTVやラジオの司会者としても活躍しています。
NHKの番組ではクールジャパンの進行役でおなじみです。
去年「不死身の特攻兵」というノンフィクションを出版されました。
作品には9回出撃し9回生還した特攻兵が描かれています。
「ローリングソング」8月11日から初日を迎えるのでてんやわんやです。
(作・演出:鴻上尚史 出演:中⼭優⾺ 松岡充 中村雅俊 /森⽥涼花 久野綾希子)
中山優馬、松岡充、中村雅俊がトリプル主演を務め、二十代のミュージシャン、四十代のビジネスマン、六十代の結婚詐欺師という夢に翻弄される三世代の男たちの物語が描かれる。
昨年「青空に飛ぶ」「不死身の特攻兵」2冊を出版 特攻兵をテーマにした話。
TVでアニメなどの戦争ものが多かった。
子供心に何故そんなことが起こったんだろうと、心の中に引っ掛かっていました。
本では8回出撃して8回帰って来たと紹介されていたが、僕は最終的には9回出撃し9回生還した特攻兵がいらしっていてそれが佐々木友次さんでした。
本で2009年に知りました。
特攻から帰って来た人間だけを博多に作った寮で軟禁して外出させないようにして特攻から帰ってきたことを隠そうとした。(陸軍の正式な記録には残っていない。)
2015年にあるプロデュ―サーと親しくなってそのことを話したら、佐々木さんは生きていますと言う事だった。(札幌の病院に入院中 92歳)
早速会おうと言うことになりました。
行ってみたら転院していて、看護師からは一切情報をもらえなかった。
息子さんの名前が判っていたのでインターネットで調べたら、ある会社の役職をしていることが判りました。
手紙を書いて連絡が取れました。
しかし父は喋りたくないということで、顔だけでもいいからということで会いに来ました。
糖尿病の為目が不自由でけがをして入院したとの事だった。
亡くなる3カ月前に会えてその後1カ月で5回お会いすることができました。
佐々木さんは小さいころから飛行機が好きだったそうです。
陸軍に入って21歳のとき陸軍最初の特攻隊「万朶(ばんだ)隊」に選ばれる。
万朶(ばんだ)=多くの花の咲くの枝
海軍は「神風」
後期の特攻隊員は未熟なパイロットが選ばれたが、初期の特攻はベテランから選ばれました。
爆撃ではなく体当たりしろということで凄く怒ったそうです、プライドがある人々の存在そのものの否定だった。
隊長が我々の役目は敵の戦艦を沈めることであって、我々は体当たりして死ぬことではないんだと、だから何回も行っていいんだと言う話だった。
爆弾を整備兵が落とせるように工夫してくれて、1回目出撃して爆弾を落として小型の船を傷つけた。
米軍機が大挙来るので撃ち落とされるか、早く引き上げるしかなかった。
佐々木さんは戦艦を沈めたと報告されてしまい、軍神になって新聞にも出るし、ラジオでも放送され、天皇にまで報告されて大変なことになります。
戻って来た時には上層部は大変困ってしまった。(天皇にうその報告をしてしまった。)
求めることは次の特攻で死ねば帳尻が合うと言うことになる。
「次は死んでこい」と言われる。
2回目は夜間出撃で難しくて一機事故で爆発して出撃が中止になる。
3回目は出撃の時に儀式の好きな上官がいて、上官などが話をしているうちにアメリカ軍の空襲がきて爆撃で友人の伍長が亡くなったりしてしまった。
4回目は絶対死んでこいと言われたが、「爆弾を落として船を沈めるのが私の仕事です」といったが、「爆弾を落として船を沈めた後、お前は体当たりして死ね」といわれた。
途中でアメリカの編隊が来て、こちらの護衛機は数機で隊長機はUターンしてしまった。
特攻は一機だけで佐々木さんを死なすのはおかしいということで守ってくれたというのが4回目だった。
5回目はいきなり遠くの方に敵軍がいることが判って、特攻機は評判の良くない速度の遅い飛行機だった。
機銃とかは一切ない丸裸の飛行機なので引き返した。
6回目は爆弾を投下して輸送船らしきものを沈め、帰ってきたが沈没させたことよりも帰ってきたことをなじられる。
敵の船を沈めたと発表されて2回目の軍神になる。(戦死と扱われる。)
盛大な葬式が地元では行われる。
最初の海軍の特攻で商船を改造した防御の弱い護衛空母を一機の250kg爆弾を抱えた特攻機がたまたま撃沈した。
それが護衛空母ではなく「空母」を一機で撃沈出来たと誤解を起こしてしまう。
飛行機が突っ込んでいくということは爆弾を落とす速度よりも半分だし、アルミの機体なので特攻に反対した軍人が言っていたのは、「コンクリートに生卵をぶつける様なものだ」と言っていたそうです。
ベテランパイロット達は効果が無いことを主張していた。
特攻が続いたのはキャンペーンとしか思えない。
純真な若者たちが命を犠牲にして体当たりをしている、戦争に対して気合いが足りないのじゃないかと、内部向けのキャンペーンになっていたとしか思えない。
最初は特攻も多少効果が有ったがアメリカは直ぐに対応し、効果が激減した。
7回目離陸に失敗、8回目はたった一機で出撃、ここでたとえ戦艦を撃沈しても戦果確認機さえいないということだった。
9回目は機体不調で戻ってくる。
その後出撃命令が出るがマラリアにかかって戦況が悪くなりアメリカ軍が侵攻してきて山の方に逃げてゆく。
最後は山の中で終戦を迎える。
捕虜収容所を経て1946年1月に日本に帰って来る。
このまま帰ってもらったら困るので、山の中にいるころに殺そうかというようなこともあったようです。
佐々木さんは「寿命が有ったんだ」といっているが、岩本大尉に「死ぬな」と言われたこともあるし、父親が日露戦争で厳しい状況があり「人間簡単に死ぬもんではない」といっていたが、私が思ったのは佐々木さんは本当に空を飛ぶことが好きで、戦場に向かう時には「怖いと思ったことが無くてどきどきわくわくしていた」言っていて本当に飛行機に乗るのが好きだったんだと思いました。
日本に戻ってきても辛い目にあった。
この本が出てから、いとこの方から1年前から自分の経験したことを本に出したかったという事を佐々木さんが言っていたという事を手紙でもらいました。
タイミングとして奇跡的だったと思います。
生還した特攻の人たちがものを言いにくい状況がずーっと有ったと思います。
死ぬことを前提の命令が何故生まれたのかを検証しないといけないと思います。
命令する側命令される側、最近のスポーツ界の不祥事と構造が同じだと思います。
2018年8月8日水曜日
奥田豊治(入市被爆者) ・被爆の実相を語り継ぐ
奥田豊治(入市被爆者) ・被爆の実相を語り継ぐ
奥田さんは88歳、原爆が投下された後に広島に入り被爆した入市被曝者です。
奥田さんは山口県下関市で少年時代を過ごし、旧制中学4年の時に陸軍予科士官学校の試験を受けました。
昭和20年8月6日奥田さんは自宅に来た憲兵に広島に行けと言われ、列車で広島に向かいました。
3日後の8月9日広島に入った奥田さんは、被爆した街の惨状や人々を目撃しました。
奥田さんは家族を含め自分の被爆体験を語ることはありませんでしたが、75歳の時に初めて公の席で体験を語り、以来被爆の後遺症と戦いながら体験を伝えることに力を入れています。
子供時代は友達と原っぱを駆け回る普通の少年でした。
小学校の2年生の時に日中戦争が始まって、まもなく南京陥落の提灯行列とか旗を振って出征兵士を送るとかしていました。
15歳の時に陸軍予科士官学校の試験を受けました。
陸軍予科士官学校は陸軍の幹部将校を育成する学校です。
一次試験に合格して、憲兵が来て親戚等々の調査をしました。
満足に中学に行ったのは1年だけで、2年になると1週間は農村に泊り込みで作業して1週間学校に帰るというような生活で、3年生になると工場に行きました。
ジュラルミンの素材、パイプをつくる工場でした。
夕方家にいたら憲兵が見えて広島が大変なことになって君もすぐに来いと言われました。(6日)
1945年8月8日朝列車に乗り込みました。
フッと目が覚めた時に暗くて西広島駅(当時己斐(こい)駅)であたりを見ると、ホームはあるが駅舎はボロボロでした。
次に目が覚めたのが、横川という駅でここは何にもありませんでした。(爆心地から2.5km位の処)
焼夷弾によるものとは全然違う感じでした。
山を見ると山肌が焼けていて一体何なんだろうと思いました。
太田川の鉄橋にさしかかり、下を覗いてみたら真っ黒くなってパンパンに膨れ上がった沢山の馬でした。
広島駅は壁だけが残っていました。(9日の朝)
陸軍中国軍司令部が広島城の中にありそこに行こうと思ったが、一面ぐしゃっと上からやられた光景でした。
まわりには聞く人もいなくて線路を歩いて行きました。
電車のモーターの銅線が溶けた光景を見て、いったいどんな熱なんだろうと思いました。
電車はがらんどうでした。
人の焼ける臭いがして来て本当にいやな臭いでした。
街の中の様子はペチャンコになっていて何にもありませんでした。
ところどころに鉄筋コンクリートがあるだけでした。
広島城にようやくたどり着いたが、なにもありませんでした。
将校がいてこういう訳で来たと説明したが、「今こられてもなんにもわからん、直ぐ帰れ」と言われました。
いっぺんに気が抜けてしまいました。
気が付いたら凄く喉が渇いてました。
水を探しもとめていたら、蛇口を見付けチョロチョロ出ている水を飲みました。
そこに座ってフッと見ると今でいう原爆ドームがありました。
焼けたボロが一杯積んであると思ったら原形をとどめない亡骸で、それが沢山ありました。
一体何なんだろうと思い吃驚しました。
空襲で焼かれて亡くなられた方は下関で何体も見ていて神経が麻痺していたが、それでさえもえーっと思うほど酷い状態でした。
とにかく下関に帰ろうと山の方へと歩き始めました。
まわりは地獄絵図でした。
私の前を棒きれを持ってヨタヨタと歩いている小学4,5年生を見ました。
シャツが破れて足の処に覆いかぶさっていると思ったら、背中の皮膚が剥げ落ちていて「お母さん、お母さん」といって歩いていました。
軍国主義にすっかり洗脳されている私が「戦争がいやだな」と思いました。
なんとか広島駅に着きました。
操車場があり貨車が一杯止まっていて、石炭を積む貨車があり、筑豊炭田に行くに違いない、下関を通ると思ってよじ登り疲れ果てていたので眠ってしまいました。
気が付くと貨車が動いていました。
大竹という駅がありもうすぐ山口県だと思ってまた眠ってしまいました。
親には広島でのことはどういう訳か詳しいことは話せませんでした。
8月15日 工場に行っていて作業をしている時に、重大放送があるので集まれという放送があり、聞いていたが何にも判りませんでした。
当時工場には1万2000人程度いました。(中学生、女学生がほとんど)
中央広場に全員が集められ、所長から日本が無条件降伏したという天皇の放送が有ったと知らされました。
愕然としました。
占領軍が来たら一矢報いようと友達と話し合ったりしていました。
アメリカ軍が入ってきてジープのスピードとライトの明るさに吃驚しました。
軍を初めとする人達に自分たちは騙されていたということが段々強くなりました。
大学に行って会社で会社員、役員として第一線で仕事をしてきました。
必死になって働いていて自分の体験を話すことはありませんでした。
長崎に3年間生活して、改めて原爆の事を思い知らされて、体調にも変化が出てきて被曝の事を思い出し、且つ実感するようになりました。
高校生の男女が観光客に対して被爆の話をしていて吃驚しました。
祖父母などから聞いていたとの事だった。
伝えなければいけないことだから話をするということでした。(71歳の時)
自分で被曝をして被爆者手帳を持っているのに何にもしていないということで、本当にこれでは駄目だと思って自分も外に向かって話をするようにならなければいけないと思いました。
本格的な動きは東京に帰って来てからで75歳になったころからでした。
江戸川区原爆犠牲者追悼碑が40年前に出来て、その翌年から追悼式があり被爆体験を話すことがあり、当時の会長から話をして欲しいと言われて初めて話をしました。
伝える責任と義務があると思います。
私が江戸川区の被爆者の会長になって、ある中学校に行って全校生徒に話をする機会がありました。
フッと見たら女の子が泣いていてちょっと伝わったのかなあと嬉しかったです。
今があるということは戦争が無いからです。
そのことを先ず判ってほしい、当たり前と思うかもしれないけれども決して当たり前ではない。
核兵器を使ったら地球はそれこそなくなってしまう、どんなことが有っても戦争はしない、平和を守ろうよと云うのが私たちの願いだし、それを伝えて行きたいと思っています。
奥田さんは88歳、原爆が投下された後に広島に入り被爆した入市被曝者です。
奥田さんは山口県下関市で少年時代を過ごし、旧制中学4年の時に陸軍予科士官学校の試験を受けました。
昭和20年8月6日奥田さんは自宅に来た憲兵に広島に行けと言われ、列車で広島に向かいました。
3日後の8月9日広島に入った奥田さんは、被爆した街の惨状や人々を目撃しました。
奥田さんは家族を含め自分の被爆体験を語ることはありませんでしたが、75歳の時に初めて公の席で体験を語り、以来被爆の後遺症と戦いながら体験を伝えることに力を入れています。
子供時代は友達と原っぱを駆け回る普通の少年でした。
小学校の2年生の時に日中戦争が始まって、まもなく南京陥落の提灯行列とか旗を振って出征兵士を送るとかしていました。
15歳の時に陸軍予科士官学校の試験を受けました。
陸軍予科士官学校は陸軍の幹部将校を育成する学校です。
一次試験に合格して、憲兵が来て親戚等々の調査をしました。
満足に中学に行ったのは1年だけで、2年になると1週間は農村に泊り込みで作業して1週間学校に帰るというような生活で、3年生になると工場に行きました。
ジュラルミンの素材、パイプをつくる工場でした。
夕方家にいたら憲兵が見えて広島が大変なことになって君もすぐに来いと言われました。(6日)
1945年8月8日朝列車に乗り込みました。
フッと目が覚めた時に暗くて西広島駅(当時己斐(こい)駅)であたりを見ると、ホームはあるが駅舎はボロボロでした。
次に目が覚めたのが、横川という駅でここは何にもありませんでした。(爆心地から2.5km位の処)
焼夷弾によるものとは全然違う感じでした。
山を見ると山肌が焼けていて一体何なんだろうと思いました。
太田川の鉄橋にさしかかり、下を覗いてみたら真っ黒くなってパンパンに膨れ上がった沢山の馬でした。
広島駅は壁だけが残っていました。(9日の朝)
陸軍中国軍司令部が広島城の中にありそこに行こうと思ったが、一面ぐしゃっと上からやられた光景でした。
まわりには聞く人もいなくて線路を歩いて行きました。
電車のモーターの銅線が溶けた光景を見て、いったいどんな熱なんだろうと思いました。
電車はがらんどうでした。
人の焼ける臭いがして来て本当にいやな臭いでした。
街の中の様子はペチャンコになっていて何にもありませんでした。
ところどころに鉄筋コンクリートがあるだけでした。
広島城にようやくたどり着いたが、なにもありませんでした。
将校がいてこういう訳で来たと説明したが、「今こられてもなんにもわからん、直ぐ帰れ」と言われました。
いっぺんに気が抜けてしまいました。
気が付いたら凄く喉が渇いてました。
水を探しもとめていたら、蛇口を見付けチョロチョロ出ている水を飲みました。
そこに座ってフッと見ると今でいう原爆ドームがありました。
焼けたボロが一杯積んであると思ったら原形をとどめない亡骸で、それが沢山ありました。
一体何なんだろうと思い吃驚しました。
空襲で焼かれて亡くなられた方は下関で何体も見ていて神経が麻痺していたが、それでさえもえーっと思うほど酷い状態でした。
とにかく下関に帰ろうと山の方へと歩き始めました。
まわりは地獄絵図でした。
私の前を棒きれを持ってヨタヨタと歩いている小学4,5年生を見ました。
シャツが破れて足の処に覆いかぶさっていると思ったら、背中の皮膚が剥げ落ちていて「お母さん、お母さん」といって歩いていました。
軍国主義にすっかり洗脳されている私が「戦争がいやだな」と思いました。
なんとか広島駅に着きました。
操車場があり貨車が一杯止まっていて、石炭を積む貨車があり、筑豊炭田に行くに違いない、下関を通ると思ってよじ登り疲れ果てていたので眠ってしまいました。
気が付くと貨車が動いていました。
大竹という駅がありもうすぐ山口県だと思ってまた眠ってしまいました。
親には広島でのことはどういう訳か詳しいことは話せませんでした。
8月15日 工場に行っていて作業をしている時に、重大放送があるので集まれという放送があり、聞いていたが何にも判りませんでした。
当時工場には1万2000人程度いました。(中学生、女学生がほとんど)
中央広場に全員が集められ、所長から日本が無条件降伏したという天皇の放送が有ったと知らされました。
愕然としました。
占領軍が来たら一矢報いようと友達と話し合ったりしていました。
アメリカ軍が入ってきてジープのスピードとライトの明るさに吃驚しました。
軍を初めとする人達に自分たちは騙されていたということが段々強くなりました。
大学に行って会社で会社員、役員として第一線で仕事をしてきました。
必死になって働いていて自分の体験を話すことはありませんでした。
長崎に3年間生活して、改めて原爆の事を思い知らされて、体調にも変化が出てきて被曝の事を思い出し、且つ実感するようになりました。
高校生の男女が観光客に対して被爆の話をしていて吃驚しました。
祖父母などから聞いていたとの事だった。
伝えなければいけないことだから話をするということでした。(71歳の時)
自分で被曝をして被爆者手帳を持っているのに何にもしていないということで、本当にこれでは駄目だと思って自分も外に向かって話をするようにならなければいけないと思いました。
本格的な動きは東京に帰って来てからで75歳になったころからでした。
江戸川区原爆犠牲者追悼碑が40年前に出来て、その翌年から追悼式があり被爆体験を話すことがあり、当時の会長から話をして欲しいと言われて初めて話をしました。
伝える責任と義務があると思います。
私が江戸川区の被爆者の会長になって、ある中学校に行って全校生徒に話をする機会がありました。
フッと見たら女の子が泣いていてちょっと伝わったのかなあと嬉しかったです。
今があるということは戦争が無いからです。
そのことを先ず判ってほしい、当たり前と思うかもしれないけれども決して当たり前ではない。
核兵器を使ったら地球はそれこそなくなってしまう、どんなことが有っても戦争はしない、平和を守ろうよと云うのが私たちの願いだし、それを伝えて行きたいと思っています。
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