2014年8月9日土曜日

山口岩夫(元NHKアナウンサー)  ・戦時下で放送を続けた日々

山口岩夫(元NHKアナウンサー)  戦時下で放送を続けた日々
太平洋戦争末期、日本各地の都市はアメリカ軍の空襲にさらされました。
ラジオからは連日のように空襲警報や警戒警報が伝えられました。
当時大阪放送のアナウンサーだった、山口さんは、中部軍司令部に詰めて、空襲警報、警戒警報をつたえていました。
昭和15年日本放送協会に入局した山口さんは、昭和16年には南太平洋パラオのパラオ放送局の初代のアナウンサーとして赴任します。
昭和19年から20年にかけては大阪放送局でマイクに向かい続けました。
戦時中のアナウンサーは何を見て、何を伝えていたのか、伺いました。

昭和15年 年に3回募集があり37人採用 もう生きている人はいません。 
藤倉修一さんと同期。
戦時中は、構えて朗々と話すような感じだった。
ラジオ年鑑 どのように活動したかの記録が残っているが、15年度の記録がとんでいる。
16年度の採用は3回に渡って採用している記録がある。
アナウンサーとは言わず、放送員と呼んでいた。
生まれは和歌山県、 友人がこんな試験があると言う事で、云われて、受けてみようと思って20数人応募して、2人採用だった。
大阪局は6~7人だった。  最初は簡単な天気予報だった。
招集が増えて人が減ってきた。
昭和16年4月には南太平洋パラオのパラオ放送局に転勤。(自ら手を挙げた)
横浜-神戸-パラオに13時間かかって着いた。 

開局2元放送 パラオの近況などを話した。
年間平均温度 28℃ 過ごしやすい。
パラオ放送局の使命はアメリカ向けの対外放送するためにやった。
南洋群島の人々に日本と同じ番組を送ると言うのが大義名分だった。
国策の拠点だった。
昭和18年、19年 船がやられるので米が届かず、食糧難だった。
パラオに来ていた人達も段々内地に引き揚げてきた。
昭和19年1月内地転勤の辞令がくる。  3月19日空路転勤。(軍の飛行機に乗ることができた)
サイパン経由で横浜に帰る。  直後アメリカの空襲があり、7月には大規模な空襲で放送局は機能を喪失し、8月1日には活動を停止する。(開局から3年に満たない)
結婚して、徳島放送局、大阪放送局勤務になる。
陸軍中部軍司令部に詰めて、空襲警報等の放送に交代で当たる事になる。

地下2,3階に作戦室があり、壁に地図があり、監視所から入ってくる情報で、オレンジのランプを点灯、航跡が判る様になっている。
原稿が放送室に差し込まれて、それを元に放送する。
最初にブザーが鳴り、其れが合図となり放送するように成っていた。
岡山大空襲は知らない間に、行われていた。(通信線が切られていた。)
後に岡山に転勤したときに、随分岡山の人に恨まれました。
神戸、大阪などが 次々にやられてゆく。
どこで空襲に遭ってもいい様に、ふんどしだけは毎日取り替えてゆくと言う様な生活だった。
玉音放送 放送局で聞いた。
前日に、重大な放送があることは知ることはできたが、多分戦争終了であろうことは判った。
ショックはなかった、むしろほっとした思いだった。
我々のところに原稿を運ぶ軍曹などは泣いていた。

戦争に入ってしまうと、人間は正統性を自分で持つようになる、其れが怖いと思う。
戦争ってつまんないですよ。
戦争の大義名分を作る様ですが、戦争で解決すると言う事は愚かですね。
私の兄弟、長男も次男も戦争で亡くなっている。