2012年4月30日月曜日

天野祐吉            ・隠居大学(エジプト考古学 吉村作治)

 天野祐吉             隠居大学(エジプト考古学 吉村作治)               
吉村作治  革命後は2か月に1回行っている  それまでは1カ月に一回行っていた 
700万人 10億ドルあったのが 70万人 1億ドルの収入になってしまった
ムバラク     髭は殆どの人が生やしている 47年エジプトに行っている 
22歳からずっと行っている  エジプトに13年死んだ時期があった
エジプトの全てが面白い  当たり前になってしまっている  198年に発見 
父親から貰った財産を全部つぎ込んでしまった 
 
未盗掘未開封の墓を4つ見付けている(現役でこれだけ見付けたのは私だけ)  
太陽の船」を見付けた 王墓゙? ※クフ王の船と呼ばれ舟の使用目的はわかっていない
ラムセス2世 今から3300年前の王の息子の第4皇子の葬式をした場所  
その娘の墓(イシスネフェルトの墓)を見つけた 当人の墓を見付けたいと思っている  
良い発見は10を下らない 国際的に認められているのは5個  
お金は使う物だと思っている  究極は面白い事    
3年目に良い発見をしたがその後17年間はなにも見つける事は出来なかった
1983年にミイラを200体見付けた  国際的に評価された それから遺跡が判る様になった  
ハイテク技術もいろいろ使用できるようになった
遺跡が掘り起こされると その時の緊張感は凄い  蓋をあけるまでは判らない 
盗掘されているのか判らない  

ミイラの保存技術  3000年続いている  
最初イギリスでは蒸気機関車の燃料に燃やされていた  
そのうちに売り買いされるようになり 長寿の薬として飲まれる様になったが、細菌がいるので死ぬ人がいたりして飲まなくなり ヨーロッパでは段々玄関に飾る様になる 
ミイラパーティー ミイラを見ながらダンスしたりパーティーする  
三身一体 自分の身体と自分の聖霊と神 これで復活する  身体を保存する   
免疫力の亡くなった人間を持たすためには 塩でバイ菌を殺菌させる  
肉を堅くする 体液、血液を出してしまう  
乾燥さして防腐剤のミルガ 木の実があるがそれを塗って布で包む  だからミイラという 
スターリン、とかは血液の代わりにホルマリンを注入する
エジプトは火葬ではなく土葬  
80歳ぐらいになったら 発掘現場ですわっていて 弟子が寄ってきて先生 休憩になりました と言ってきたときにコクっと亡くなる、それが私の理想    その様に亡くなりたい  
母親からはいろいろ厳しく言われ続けた  

2012年4月28日土曜日

江宮隆之(作家)         ・浅川巧 白磁の人

江宮隆之(作家)  浅川巧 白磁の人
浅川巧(あさかわ たくみ、1891年1月15日 - 1931年4月2日)は工芸・陶芸の評論家。
朝鮮半島で植林事業を行う傍ら、朝鮮半島の陶磁器と木工を研究紹介した
江宮隆之 1948年生まれ 山梨日日新聞で記者を務める 
山梨の人の評伝、歴史小説  時代小説多数手掛ける
1891年山梨に生まれた浅川巧は林業を学び 秋田県大館営林署に就職 
23歳で当時占領下に有った韓国に渡り朝鮮総督府の林業技師として働き始めます
山々に植林をするかたわら朝鮮の焼き物 白磁等の生活工芸品の研究、収集を始めました
民芸工芸品で名高い柳宗悦等に影響を与えました  
朝鮮民族美術館を景福宮内に設立 朝鮮民族美術館は現在も韓国民族博物館と名を変えて
運営されています

日本から独立して反日運動が激しくなる時代に現地の言葉や風習を学び生活に溶け込もうとした
浅川巧 現在も朝鮮を愛し朝鮮の土となり韓国の人に慕われています
青磁は気品があるが見る側も気を使ってしまう まるで女性を扱うように 
 しかし白磁は静かでおおらかで自己主張をしない まるで大切な友達に会うような感じだ
と博物館の館長が言ってくれた  その説明を聞きながら丸で浅川巧さんの様だと思った
浅川巧さんは山梨県の山村に生まれました 生まれる前に父は病気で亡くなりました
お祖父さんに育てられました お祖父さんから尊い事を教えてもらった  
仕事には尊い事いやしいさなんかないんだよ どんな理由が有れ人を差別してはいけないんだ
自然を大事にして共に生きる事が大事なんだよ 、

その土地に有る文化を大事にしようよ と言うようなことをお爺さんから教わった様です
山梨県立農林学校で林業を学び 23歳で朝鮮に渡ります 兄さんがいます 
7歳年上の伯教(のりたか)さんは美術を学んでいて一家で朝鮮に渡りました
日韓併合が行われたばかりの頃です ソウルにいって総督府の山林課に働く事になる 
当時は中国、ロシア、日本が木を切り出してあかっちゃけた山になっていてしまった
山を緑にすることに従事する 伯教さんは町を歩いていて白磁にふと目が行った 
その美しさに傾倒してゆく  学術的な面から研究した
其れに対して浅川巧は使う韓国人の生活面から白磁の見方をした   
「韓国の善」と言う本を浅川巧は出している 韓国人、日本人双方から愛と智慧の書と言われた
「朝鮮陶磁名工」と言う本も出している 

人々と共に暮らせ 当時ソウルにおける日本人は日本語で過ごしていた  
日本人が強制的に日本語を話すように仕向けていた
浅川巧さんはそのことに対して不思議さを感じた 
なんで自分の国なのに自分の国の言葉を話さないのか
自分の友達にハングル語を教えてもらいたいと読み書きしゃべる事を一生懸命勉強して半年で
出来るようになる
言葉を学んだことが種子の露天埋蔵法という世界的な発見につながる 
韓国に落ちたどんぐりの実は韓国の山の中だと発芽するんだと言う事を部下が韓国語で
話していることに対してそれにヒントを得て気が付く   露天埋蔵法を発見する 
林業をリードしたものでった  韓国の山は徐々に緑になるきっかけになった

上から目線で当時の日本人は韓国の人と付き合っていたが浅川巧さんは同等な対応をしていた
韓国の文化は素晴らしいものであることを柳 宗悦に教えたのが兄さんと浅川巧さんなんですね
柳 宗悦は民芸運動(民衆的芸術)を始めた  柳 宗悦は白磁を悲哀の色と規定した  
これに対して浅川巧さんは清浄無垢の色だと言っている 
この清浄無垢の白い色が朝鮮民族の心の有りようだと言うのが私は正しい指摘だと思います
白磁を含めて韓国の工芸を後の世に広めます と同時に浅川巧さんは白いワジチョノリと言う韓国の
民族衣装を着て、ボクリという履き物を履いて マングーンという帽子をかぶって
長煙管で煙草を吸ってまるで韓国人の様に暮らした   回りの状況に左右されずに暮らした  
人間として普通に生きた

今だから実行できるが当時100年前にはその様には出来なかった
浅川巧はキリスト教徒ではあったがキリスト教徒であったからその様にしたかといえばそうではないと思う 
同様なキリスト教徒が浅川巧さんと同じようにしたか
と言えばそうではなかったから 宗教観を越えたものが浅川巧さんをしてそうさせたものと思う
1931年 40歳で亡くなる 韓国人が集まってきて棺を担がせて下さいといってきた
浅川巧さんの友人で文部大臣にもなった安倍 能成(よししげ)は「人間の価値」と題して中学の
教科書にも載りました 
 
浅川巧さんは官位にも権勢にも学歴にも風紀にも寄らず
その人間の力だでけで堂々と生き抜いていった存在は人間の生活をも頼もしくさせる  
こういう人の損失が社会、朝鮮に対して大いなる損失であることは言うまでもない 
私はこれをさらに人類の大きな損失だと言う事に躊躇しない 
人類に取って人間の道を正しく勇敢に踏んだ人の損失ぐらい大きな損失は無いからである
日本が韓国を併合して35年間も支配したと言う事は 日本と韓国の両方にもっとあってよかったと
思う信頼や尊敬、友情と言う形にはできない心の問題を失いました 
その後長い間理解しあえない時間が流れました  
100年経って今浅川巧の心を間に挟むことによって 失われた信頼、尊敬、友情を再び手にできる
そういった場所に立っている様な気がします
   
浅川巧さんは韓国で二人目の子を亡くしてしまいました
 生れるとすぐに亡くなってしまいましたが、悲しみを追いやって奥さんにこの様に話しました
今度の事は悲しいことだがそれはそれで良かったかもしれない 
この子が朝鮮の土になって日本と朝鮮のかけ橋になってくれるかもしれない
いずれ僕たちも朝鮮の土になる  この子が朝鮮の土に眠るのが意味があるのだ と我が子の
死をこんな形で 受け止めると言うのは巧さん以外を知りません
又浅川巧さんの周辺にいた人達の心です その人達にいくら浅川巧さんが誠実な生き方をしても 
巧さんも韓国を植民地化した日本人の一人であることには間違いない事実です
その浅川巧さんを見る韓国の人達の気持ちは複雑であったと思います 

この韓国の人達と浅川巧さんは一対になっているのではないかと私は思います  
韓国の人達が浅川巧さんを受け入れたと言う事があって初めて成り立つことです
当時の韓国の人達の「許す」と言う心の事を私達は忘れてはならないと思います  
寛容さを忘れては韓国と浅川巧さんとの事を語ることはできないと思います
1945年8月15日以降 日本人のソウルに留まっていた人の家は襲われました 
それまでの報復をされた訳です
浅川巧さんが亡くなっても奥さんと娘さんは住んでいましたが、同じように襲われそうになりましたが、
浅川巧さんが住んでいた家だと判るとおとなしく帰ったそうです
1964年6月加藤松林人(画家)が浅川巧さんの墓を訪れようとしたが場所が判りませんでした  
林業所の人達が手分けをして何日か掛けようやく探したが 
林の中に転がり落ちていた墓を発見した その時に韓国の人が言ったそうです  

実の父の墓が壊れていたような悲しみを感じたとお墓を修復してくれました
今から48年前の事ですが 浅川巧さんの事が新聞に載り名が広がりました
4月2日の浅川巧さんの亡くなった日には日本と韓国の合同慰霊祭が行われています
今韓国の山は大きな木で緑に覆われていますが 韓国の人がこの木の37%は浅川巧さん(達が)
が植えたんですよと言っていました
日本と韓国の新しい友情ができつつあります  
「種をまく浅川巧」 浅川巧が卒業した学校で演劇を演ずるそうです
1984年に浅川巧さんの墓に韓国の人達が設置した記念碑に刻まれた言葉  
「韓国が好きで 韓国人を愛し 韓国の山と民芸に身を捧げた日本人ここ韓国の土となる」

2012年4月27日金曜日

出口智広(山階鳥類研究所)    ・アホウドリ復活を見守って

 出口智広(山階鳥類研究所)     アホウドリ復活を見守って  
1973年12月15日生 札幌市出身
絶滅に瀕するアホウドリを守るため山階研究所が5年計画で進めてきたアホウドリの移住作戦が今年仕上げの年を迎えます
伊豆諸島の鳥島で生まれたアホウドリの雛を小笠原諸島の無人島、聟島に運んでかつての繁殖地を復活させようと言う取り組みです
向島ではこれまでの4年間で55羽の雛が育ち今年も5月下旬に新たな雛が巣立ちます
雛が巣立つのが5月20日頃  翼を広げると2m以上になる 体重は4kg~5kg  上空は数m~20m程度の高さを飛ぶ  信天翁(あほう)

1949年は1羽も確認出来ない時があった  
鳥島で気象庁の方が発見して(十数羽)保護を始める 
その後東邦大学の長谷川先生が一緒になって保護を始める
当時全世界でも50数羽しかいないと言う時期がありました  
今は2500羽 500つがいぐらいは生息している
少なくとも100年ぐらい前は数百万羽いると言われていた  
1800年後半から1900年前半にかけて アホウドリの羽根は凄く綺麗な羽根を持っており
羽毛が高価で取引されることから乱獲されまして、それによってアホウドリが急激に少なくなってしまったと言う悲しい歴史があります

山階研究所が本格的に保護活動に乗り出したのは1992年からです
当初 伊豆の鳥島繁殖場所が崩れやすい場所に有ったので 崖の場所がもう少し安定する場所に変えるような取り組みをした(鳥の人形の設置 声をスピーカーで聞かせる)
最初の10年間はあまり増えなかったが2004年から増えてきて安定した場所で繁殖するようになりました
繁殖場所を2km~3km移動させた  1つがいで1年に1個の卵を産む 
 ほかの鳥は数が多いが  繁殖するには5年必要  30年以上は繁殖する(寿命が長い)
ベーリング海からハワイ  日本近海からアメリカ西海岸まで 活動範囲  
2008年から雛鳥を小笠原諸島の聟島に移住させる計画をして開始した 
伊豆の鳥島はいつ噴火してもおかしくない火山島なので 実際100年間に3回起きている
もし大きな噴火が起きてしまったら大きな被害が想定されるためにこの様な計画をした

アホウドリは元々生れた処に帰ってくると言う性質がありますので、幼い雛の内に移せばそこに帰ってくるだろうと私達は考えまして、生れて1カ月ぐらいの雛を捕まえまして、移動させてその後4か月ぐらい飼育して巣立ちまで飼育すると言う活動を行っています  
産卵は11月に行なわれる  
孵化は年明けすぐ 1カ月すると両親が餌を獲りに行くのでその時を見計らって雛を運び出す 餌は魚、オキアミ等 アホウドリは水に潜れないので水面で獲る
 死んだ魚とか鯨とかイルカとかが追い上げた魚を場所を選んで獲っているのではないかとも言われている  
胃袋の中に貯めた餌をもどして雛に与える
ヘリコプターを使って移動させる 今年は2月11日に実施した  
1回のえさを500gぐらい与えている 1日1回与える  
父島からゆく 60kmぐらいの距離

雛を毛布で抱えて両手でくちばしを広げて もう一人が餌を与える  
餌を強制的に与えないとアホウドリは食べてくれない  30人ぐらいが係わってる
キャンプ生活 テントでの生活 4か月続けている   
朝5時から餌の準備をして15羽の雛に与えるのに昼頃までかかる(食器を洗い終えるまで)  アホウドリは雑菌に弱いので直ぐ死んでしまうので 餌の管理、器具の洗浄にも気を使ってしまうので時間がかかってしまう  
15羽のうちの1羽が原因が判らないが死んでしまって、後は元気に育ている 現在6kgになっている  泣きはしないが噛む力は強い 噛まれると非常に痛い
2月は結構寒い  雨も時々降るし、風も強い      
鳥の性格もいろいろある
これまでに55羽 今年の雛が巣立てば70羽育てた事になる    
去年 7羽の帰環確認した 
 
本当に帰ってくるのか心配であったが帰って来てくれて本当に嬉しかった
繁殖は2つがいは出来ていて来年は繁殖する可能性がある   
大学で動物の生態行動 博士課程にはいってから海鳥の研究をするようになった
海が小さい頃から好きだった  
アザラシの研究ではどんなものを食べているのか うとう(善知鳥)では バリエーションが有りどうしてその様にバリエーションがあるのか 研究した
山岸哲所長から言われてアホウドリの研究をして見ないかと言われて始めた  
人間が生かされている 環境の中で生かされている  
海と言う環境の中でお互いは影響し合っている
プラスチックが浮いているので死んだ雛を解剖して見るとお腹に一杯プラスチックが発見されたこともある

最後の方は餌は与えない 雛が自分で巣立って行くのを見守ってゆく 
これから10年間はモニタリングを地元の人と見守ってゆく  
数年以内には繁殖は見られるように成るのではないかと思っている
この研究例を旨く伝えて他の国に参考にしてもらいたと思っている 
ニュージーランドでは具体化しつつある

2012年4月26日木曜日

小川三夫(宮大工)        ・わが心の人

小川三夫(宮大工) わが心の人
小川 三夫(おがわ みつお、1947年 - )は、日本の宮大工、寺社建築専門の建設会社「鵤工舎」の
創設者。宮大工西岡常一の唯一の内弟子
22年栃木県生まれ   22歳西岡常一さんの内弟子となる 30歳で独立し、以来寺院の建築や
後進の指導に当たってきました
いかるが工舎を作って35年になる  巣だった弟子は100人になる(基本は10年の修行であるが 
7~8年で終わってしまった人も含める)
かんな屑 薄い物を削るのには1年程度でできる  

西岡棟梁から教えてもらったのはかんな屑 1枚だけだった 
西岡棟梁のところに弟子になるため18歳で行ったが 歳が食ってしまっているとのことで断られる
奈良の方輪寺で三重の塔を作るので一人ぐらいはめんどうをみられるから来なさいと西岡棟梁から
手紙が来た(4年後)
行けば必ず道具を見せなさいと言われるが駄目だと言われる  
道具の究極の磨ぎ方をしないと駄目 見て学ぶ  職人は教えてもらっても駄目
切れた味を覚えて磨き方を一生懸命にやる様になる   中学卒業してすぐでないと遅いというのは、
自分の身体の成長とともに大工の身体になります

成長が止まってから習ってそういう風になるには習うのが大変ですよ  
まず体つくりからするには15歳ぐらいからやりなさいと言う事ですよね
今は先ず知識から入ってくるのでつまらなくなって止めてしまうのではないか
修学旅行で法隆寺にいって この建物は1300年前に建ったものですよとの説明があり 
どうして1300年前にこんなに大きな材料を運んできたのか
塔の上の双輪はどうやってあげたのかと そう思っているうちに この仕事をしたらいいので
はないかと思った  宮大工をやろうと思った
奈良の県庁にいって宮大工を紹介してもらったら 法隆寺の西岡さんの処に行きなさいと言われる
 
西岡楢光(父親)  棟梁 常一(長男) 楢次郎(次男)
断られて長野県飯山で仏壇を作っている処があり宮大工に近い仕事と思いそこで1年間仕事をする
その後法隆寺に行ったら 島根県の日ノ岬で図面書きの仕事があるのでそこで図面書きの仕事を
やってこいと言われたので日ノ岬に行って文化財の仕事をして3年がたった
そして内弟子として住み込むことになる  TV等は一切見ることなく刃を研ぐことに専念する 
或る時に棟梁の息子が浄瑠璃寺に行こうと誘ってくれる  
帰ってきたら西岡棟梁が草刈りをしていた   その草刈が力が入っていて尋常ではない
腹が煮えくりかえっているのだなあと思った 見に行く時間があるのであれば刃物を研ぎなさいと
思っているのだろうなあと思った
見る目が無いのに浄瑠璃寺に行っても何にもならないと考えているのであろうと それ以降一回も
行っていないですね  言葉では絶対に言わなかった

弟子は自分が持って行っては駄目 弟子に成ったのだから
薬師寺の三重塔ができたころに (30歳)独立を考える 
自分では飛鳥、白鳳は勉強させて貰いました しかし 鎌倉、室町、江戸と言う時代があるので
そういう建築も勉強してみたいから独立したいという   
それで止めた その時も薬師寺の仕事は続いていた
西岡棟梁は宮大工は嫁さんも貰えないし なかなか食ってゆくことができないと言っったので
食えるような宮大工になりたいと思った
自分の息子には継ぐようには言わなかった  
田地田畑が有ったので西岡棟梁は食っていけた  
段々に日本経済も良くなり お寺でも作りましょうかと
機運が上がってきたから自分はそんなに西岡棟梁ほど苦労をしなかった

法隆寺をやっていたころは西岡棟梁は本当に苦労したとは思うんですけれども 最後にはあれだけ
の薬師寺の伽藍を任されてやったのでそこで花が咲いた人ですから
相当な幸せ者だと思います
西岡棟梁は自分自身に厳しい人だった  魂は全く違った 真似ができない 生まれたときから法隆寺だった
自分が凄いなと思ったのは 奈良の都を60年ぐらいで作って又出て行ってしまうのだから 
奈良時代の力ですね ああいうものは今の時代には絶対できないと思います
西岡棟梁等は薬師寺も10年ぐらい掛るのですから、奈良の都を60年で作りあげた 
当時それだけの技術者がいたわけでもない 
材料がそろうか揃わないのか、技術的に可能か可能ではないのか そんなの判んないんですよ 
兎に角作ろうと思って実際に作り上げてしまう その力ですね
その力が学べたらいいなと思います そういう時になると判る 職人は教えてはいけない  
教えていれば、これは教わっていないから判らないでは駄目なんですよ

やれと言われれば色んな事を考えてやる  その考える力を付けるのには教えたらいけない 
その人間に考えさせなければいけない
職人の教え方は学校とはまったく違いますね  教えてやることは親切なようで、身にはつかない
作り上げる根性は口で言っても判らない、伝わらない  
だから家では10年経ったら出てゆきなさいと言っている  
折角育てたのだから頑張って貰いたいとは思うんですが、当人の為には成らない  
自分でやってみるとそうすると自分の力が判りますから 
TV、新聞、雑誌は流石に見るなとは云えないでしょうね→言わないけど皆見ませんよね 
1年間 飯を作らせたり、掃除をさせたりするとその人の性格がもろに判る 

だからこの人にはこの様に仕事をさせるかを見極める
その人の一生が見えてくる 触れ合っていないと駄目  今の子供は個室で育ってきていますでしょう  
だから大部屋の生活ができない子がいますね
色んな人と触れ合っているからこそ色んな事が判る  
その大事な時に個室を与えてしまったら 何にもならない 良いも悪いも一緒に生活する
現在 秩父のお寺をやっている    
文化財関係 法隆寺の昭和の大修理は終了した これから300~400年は大丈夫 
それから又大修理が必要になるがその時に問題になるのが材木が無くなる事です
修理する木が無いと言う事です   ですから今から木を育てなくてはいけないと言う事です  
技術は蘇ることはできるが資源が無いと修理は出来ない
お寺が山を育てる様な気が無いと守りきれない   むやみに大きな木を使ってはいけない  
木を育てていかなくてはいけない

2012年4月23日月曜日

辻村寿三郎(人形作家78歳)    ・人形で表す平家物語の心

 辻村寿三郎(人形作家78歳)      人形で表す平家物語の心  
人形作家歴52年 昭和8年生まれ NHKTV人形劇 新八犬伝で一躍脚光を浴びる  
映画や舞台衣装のアートディレクターとしても活躍しています
製作に5年の歳月を掛けて平家物語の人形展が東京で開かれています   
この人形展には平清盛を中心に製作された新作人形を含む80体が展示されています
登場人物を人形で描く  
桓武天皇 栄えている時の顔 悩んでいる時の顔を思い描いて製作する  
織田信長も作っているが 信長の絵が残っている
苦しい時 最後の本能寺で尽きる時其れを考えながらいろいろの顔を作っている 
織田信成に似てきてしまったりする 
皆さんが見て作れる様にしている 
 
月の陰り 諸行無常の時代  平安時代も前期、中期、後期と時代がそれぞれが違う
着せる着物もその人でなくては着られないと言うようなことも考えて作っている
実際にその場に行ってその人の人形制作に参考にしている
清盛の生誕の謎  お水売りをしている女から生まれた 
白河 堀河 鳥羽天皇の 2代に当ってノイローゼになる  
白河がお水売りの2人に声を掛けて御所に招きいれ下の女性が懐妊する 
白河は元気に成る 忠盛にその女性を預ける 男なら長男にして育てよ 
女ならこちらに戻せとなるが長男が生まれる 
直接対話が出来ない、和歌で会話のやり取りをする
 調べて行ったら白河が63歳 忠盛 15歳 年齢差がある  
北面の武士 6,7歳から番犬として使える

満州で生まれた 小さいときから人形を作るのが好きだった 
1歳の時に 算盤と筆とおもちゃを部屋の隅に置いてどれを取るかでその人の一生が決まると言われていた
おもちゃの中に人形があり其れをとったので当時は戦争の時代であったので親は困ってしまった(男は鉄砲を持つ時代であったので国賊ものになってしまう)
布など貰えず拾ってきて洗ったりして使おうと思ってもいつの間にか亡くなってしまっていた
弟子になるようなことはなく人形を作っていた 
NHKの48年に始まった新八犬伝  300体の人形を 50年真田十勇士   
八犬伝は歌舞伎で内容は知っていたのでやりたくてしょうがなかった
真田十勇士  柴田錬三郎はクールな方だったのでその様に人形も考えた 
人物の作成  その人の情念を人形に入れ込みたい 
文楽、能の方々から助けを受けた  

桐竹 紋十郎からは多く手ほどきをえた  能面はいろいろな角度から見られているので
縁起で布石を感じる  宮島に行く 何で宮島に縁があるのかと思ったら 親が音戸の瀬戸で平という名の付く人に育てられている  「平」に縁を感じた 
平家物語も研究している 清盛 12~13歳で早産で生まれている 12月に生まれる 女性の名前は鶴  火の様な性格とナイーブな性格も合わせもつ
清盛は蚊に刺されて凄い熱を発する(医者にその症状を聞いたらマラリヤであろうとのこと)  
戦争に負けた方は悪者にされて歴史に残る 
入水する時にも義経がそうさせているのだけれど 全部偽物 建礼門院(平徳子)のみが本物  義経が仕組んでいる
安徳は63歳まで生きている   
壇ノ浦に沈んで竜宮になる と言う記載があるが 竜宮ではなく琉球に逃れて名前は変えているが先祖が今も代々続いている
この件は辻村氏が調査して得た結論
第二期 平家滅亡への時代  色んなものが見えてくると面白い   
保元、平治の乱  雨月物語に記載されている
崇徳院  歌の名手 西行法師もいる 清盛もいる  歌の会をやっていた 
風説の流布を藤原信西が流す 自分の女房子供達を含めて(20数人いる)スパイで入れている
阿波の局 を崇徳院のところにも入れている  
スパイと知らずに阿波の局を好きに成ってしまう   こういう問題も起きてくる
それぞれの人がそれぞれの事で翻弄されている時代 其れをくみ取って見てやると平家物語が凄い時代だったと 判ると思う  
ただ歴史に残された悪者ではなくて、今後は最終的には古事記まで遡って作ってゆきたいと思う

2012年4月21日土曜日

市田ひろみ(服飾評論家 79歳)   ・凛として生きる

 市田ひろみ(服飾評論家   79歳)        凛として生きる  
市田さんは(1932年7月10日 - )は、日本の服飾評論家、エッセイスト、女優、タレント。 いち早く全国きもの教室を開いて、着物文化の普及に努め平成13年その着付け技術が認められ現代の名工に選ばれました
女優でも活躍、TVでのお茶の叔母さんでも親しまれました。
  
世界を訪ねて民族衣装を収集 膨大なコレクションを持っています。
ブラウス、スカート、ベスト、エプロンで1セットで450セットあります。 
最初から1セットでコレクションすることにきめていたので苦労しました。
1968年に海外に最初に行きました。  世界的に手の込んだ衣装はなくなってきている
黒いビロードはフランスの地方の衣装、模様は伝統的な模様で教会でミサが行われる間は全員がこの衣装を着て、町をパレードしてそこでフォークダンスをします。 
同じ形の服なんですがあの人のは手が込んでいるとか、一人のお嬢さんに分けてもらえないかと言ったら、お婆さんからお母さんへ、お母さんから私に伝わった物だから決して渡すことはできないと言われました。  
これはアフガニスタンの衣装で1972年に行きました。 綺麗だったので購入しました。
しかし京都大学の吉田光邦先生にご指導を受けて、まずコレクションをするんだったら 
誰がどこで何のためにこれを付けていたのかというのが揃わないといけない、単に綺麗だけではいけないと言われました。

ベールが無かったがジュネーブとのやり取りで衣装と一致して、このアフガニスタンの衣装も30年して日の目を見るようになりました。(刺繍など素敵だが普段着だったそうです。)
イエメンの黒の地に細かい刺繍の衣装、貧しい国だが婚礼服、5000円ぐらいだがアクセサリーは銀と珊瑚、刺繍がすごい。
1968年に西陣の織り屋さんからヨーロッパに行って民族衣装を購入して、そこの模様から着物や帯をデザインをしてくれと言われて出掛けて行きました。  
45日かけて11カ国を回りましたが、当時民族衣装をきて日常作業をしていたが、段々変わってきた。   展覧会をするとお客さんが綺麗ねと言われてこの服は満足していると思っています。  
世界を全て日本語で通しています。 3つの言葉で歩けます。 ①笑顔(貴方の敵ではありません) ②おじぎ(ありがとう)  ③手を合わせる(お願い) これで世界中歩いてきました。

私のやり方は取材ノート(200冊ぐらいになる。)にスケッチをします。 そうするとまず子供達が集まってくる。  
やんちゃそうな男の子を書く、そうすると騒いで喜ぶ。 
そうするとその子の母親が敵ではなさそうだと寄ってくる。
ルーペをもって衣装を見せる。  
家に行く、写真を撮って、帰りに何かをあげる。(例えば魔法瓶とか)
アラビア半島とかアフリカでは着物を着ても知らない。(ヨーロッパは着物を着て歩くと 着物、着物と言ってくれる)  着物はわからなくてもアラビア半島とかアフリカでは綺麗とか尊敬をしてくれる。
どこの国でも伝統衣装は価値を認めるが、日常生活とはかけ離れていきつつある。

父の仕事の関係で6年間上海にいました。 上海から小学校の頃に苦労をしてリュックサック一つで帰ってくる。 貨車が襲撃されて一昼夜過ごしたこともあります。  母の里の大津に泊めてもらってその後京都に家を見つけました。  終戦で食べるものがないので母は家族を守ることで必死だった。 
母は着物と米を交換して食べさせてくれた。 
父は仕事の関係で残って残務整理をして1年半後に帰ってきました。

父は学ぶことを、母は生きる事を教えてくれた人だと思います。 父は国税局に入った。 
私は高校3年の時に美容師の免許をとる。  短大を卒業、当時は女性の働く場が無く、看護婦、電話交換 デパートの販売員ぐらいでした。 10社受けてようやくOLになる。
大阪の農機具メーカーに就職、技術部長の秘書をやりました。  
当時の一番新しいエンジンのキャラクターになって、稲穂をもってにっこり笑っている写真が今も残っています。 
お茶とお花、洋裁、英会話、英文タイプ、書道を習っていた。
そのお茶の先生が撮影所見学に行かなかと言って連れて行ってくれました、大映京都 撮影所でした。
2週間ぐらいしてからお茶の先生が「あんさん 女優でっせ」と言われた。 
実は面接だった。 父と母にそのことを説明したが、父は激怒していた。
運命が変わるかもしれないと思って女優になる。   6人入る(大映ニューフェイス(第十期生)   スターの座は約束されていない。
叱られているばっかりでどうしようと思った。  
いつかは誰かに認めてもらえるように頑張ろうと思った

若い頃は外人風の顔立ちだったので余り評価されなかった。映るからどけと言われ、辞める日も決めていましたが、吉村公三郎先生に「夜の河」で使ってもらって 、昭和33年に「手錠」でデビューする事になりました。 (時代劇から現代劇に移る、)  
当時は日本的な別嬪さんばっかりで個性的な顔立ちの人はいなかった。      
外人風の顔立ちだったので和製ソフィアローレンとか言われました。 悪役が多かった。     退廃的な演技が旨く出来なかった、演技力がなかった。 
行き詰って結婚する相手もうまくいかなかったし、京都に戻ってきて、母の美容室を継ぐ。 相手の人は良かったんですが、父親が京都財界でもポジションのある方で、女優やっている
女はあかんとか、髪結いの女はあかんとか言われて、彼は一緒になるとは言ったんですが、
結局当時は同棲とかなかったので、親の大反対で彼はアメリカに留学という事でご縁がなくなりました。 
美容室が忙しくて面白くなって頑張りました。  

或る時に呉服問屋の社長さんが着物教室を開かないかと声を掛けてくれました。
それから毎晩特訓で何とか一人で着物を着られるようになりました。  
デパートに「市田ひろみ着物教室」という看板が出てうれしかったです。
しかし着付けは出来るのだけれども理論が判らない。  
つづれ(綴れ)とは何ですかとか質問があり答えられない。 
(つづれ:破れをつぎ合わせた衣服。ぼろの着物。ぼろ。つづれごろも。)
(つづれ織り:横糸に数色の色糸を使い、模様部分だけをつづら折りのように織り進めて模様を表した織物。地組織の横糸も折り返されて織られるため、色の境目には縦方向にすきまができる。帯地・袋物・壁掛けなどに用いる。綴れ錦 (にしき) 。) 
私の様な体形の人は抱き幅はどのくらいにしたらいいかとの質問だった。  
「抱き幅」なんて聞いたことが無かった。  
困ってしまって「後三分(約1cm)ぐらい多くしてもいいんじゃないですか」と言った。 
「抱き幅」というのはおくび付け縫い代から脇縫いまでの幅で太っている人はちょっと多めにします。 

 これではいかんと思って和裁を習いに行った。  
20年後に私、あの場所にいたんです、と言われて吃驚いした。(「抱き幅」の質問時の教室) 
矢張り誰が見ているか判らないと思った。  着物を着る時には頭をアップにするのが常識だったが、髪の毛までお金がかかってしまう着物を苦痛から解放してあげないといけないと思って、バッサリ自分の髪を切りました。(平成元年)
着物は日本人の文化だと思います。   
昭和33年に女優をしてデビューしましたが、前年昭和32年の1年間は髪型、着物の着付け方の体験をして、どの程度が着やすいかを身を以て体験したので、その後の仕事に凄く役に立ちました。   苦しかったことも全て栄養だと思いますね

2012年4月20日金曜日

松村行栄(日本蝶類保全協会理事) ・姫ギフチョウの舞う頃

松村行栄(日本蝶類保全協会理事)   姫ギフチョウの舞う頃  
1954年群馬県藤岡市の生まれ  製薬会社就職するが、蝶の保護の為に退社 蝶の環境保全に取り組む  赤城山に生息する姫ギフチョウの保護と観察を行う
小学校の環境教育を応援して20年になりました  
私が蝶を好きに成ったのは 父が蝶を集めており 父に連れられて山の中を走り回っていた   3歳の頃から小学校の5年の時に先生が蝶に対して群馬県でも有名な先生でその影響を受けたブラジルの人との文通が始まり蝶の交換もあり刺激された  
35年ぶりにその人と会う機会があり、心臓が止まりそうなほどになり、気持ちが悪くなるほどだった
蝶を捕まえる所から守ろうとの思いで、昨年、会社を止める事になった 
今日本の蝶がどんどん少なくなってしまった  
250種の蝶が住んでいるが 1/4が絶滅寸前 スピードが急激に加速してきている
出来るだけ早いうちに対処しないといけないと思って決心した
鳥をみて楽しむ文化は多いが 蝶に対しては少ないので一般に広めて行きたい。
姫ギフチョウ蝶 環境が同様に悪くなってきている おもに北海道 東北 信州 に住んでいる 群馬県は飛び離れている 1986年に群馬県が天然記念物に指定しているが減少が止まらない状況に有る
 
「「赤城姫」(姫ギフチョウ蝶の赤城での名称)  唐沢孝一  カタクリに止まっている写真 
カタクリの咲く時期と姫ギフチョウの行動時期が違う為に写真に撮るのが難しい
私は10年掛ったが 唐沢先生は1日で撮ってしまった    
大きさが5cm あげは蝶と間違うような黒と白のまだらに成っている  
後ろの羽根の一番先に綺麗な赤の斑点がある
渋川市立南雲小学校の生徒と一緒に保護活動をしている 
姫ギフチョウの保護を始めたのが1987年 天然記念物に指定された翌年 地元の人にも知って貰いたくて 小学校の生徒に展開した  
歴代の校長先生が興味を持っていただいて続けている
 
環境教育の一つの窓口 姫ギフチョウの教育  成虫の飛ぶ時期に(5月の連休当り)全校生徒が山に行って観察する 
又幼虫の時期にもけむしを観察する
虫が少なくなってきていることを自分達の肌で感じる  
山を整備することを提案 親が山の手入れをするようになる 
子供が卒業すると親が地域の役員をするようになり、こんどは地域の活動に発展する  
地域全体で姫ギフチョウをどう守っていったらいいかと言うように地域全体に広がってきている 姫ギフチョウを増やすにはどうしたらいいかと言う事は我々研究者というか、愛好家は情報を提供できる  
その情報を元に 小学校の生徒とか地域の人達が、山を綺麗にするとか活動を進める 
そうすると行政がそれにバックアップして行政として全体を取りまとめをして下さる  
学校、住民、行政三つが旨くかみ合って活動が旨く言っている 
 
行政は パトロール、横断幕 市が予算をとり山の間伐へ提供している
赤城姫を愛する会 7人で結成 減っていっている原因を解明する為にデータを取る 
山の中で毎年卵の数を数える  
こうすれば姫ギフチョウを増やせるのではないかと活動を始めた   
今年も時期を迎えるが 寒かったので1週間は遅れてしまうかもしれない    
先ずは多くの人に見てもらって知って貰いたい   
注意して貰いたいのは無理に山の中に入っていって荒らして貰いたくない
絶滅した蝶はまだいないが、「兵庫もどき」はかつてはどこでも見られたが、今は兵庫の3市町村でしか見る事ができない かつての3%程度でしか見る事ができない

それに近い種が多くある    
少なくなってきている一番の原因は人間の生活様式が変わってきている 
自然との係わりが変わってきている
昔は山から木を切って炭を作ってきた 落ち葉を拾って落ち葉で肥料を作っていた  
炭が要らなくなる 落ち葉が要らなくなる と山が必要でなくなる
山に人が入らなくなると山が荒れてくる(鬱蒼として来る 鳥、昆虫等が住みにくくなる) 明治時代 赤城山は全山雑木林 それが高度成長時代に杉に置き換わっていった
杉の林が手入れされ無くなって 見放されて杉の林の下も手入れがされ無くなってどんどん変わってきている

姫ギフチョウは雑木林の蝶だったので姫ギフチョウはどんどん減ってきてしまっている
同じように変わってきてしまっているのが草原  かつてはカヤを刈ったり、放牧したり 常に草を刈られるようであったが いまは草原が無くなって来てしまっている
ゴルフ場、スキー場に変わってしまったところも多い  
ゴルフ場は草も西洋の品種に変わる スキー場も手入れするのはスキーのシーズンだけなので年間常に刈りはらわれる
状況とは違ってきてしまっている
環境変化 この50から60年で変わってきている 
里山 は人間が常に手を加えて人間とのかかわりを持ちながら環境を保ってきた
山、里山が、人間との係わりが無くなってきて環境がかわってきてしまっている

新しい蝶と人間の文化をどうするか どうしてゆくのかが問題
イギリスでは 伝統的な農業をするところには補助金を出す  
生物の多様性を観察するのに蝶をみることで生物全体を把握出来る可能性がある  
把握する指標になる 
イギリスでは蝶を観察することにより自然の変化を把握する  モニタリングしている
モニタリングをする為には蝶の種類を理解して貰わなくてはいけない 
そのために蝶の図鑑を今年中に作ろうと計画している   
今までは専門家的だったので 野外の写真 すぐわかる様にする  
似たような蝶に対しては違いがすぐわかる様に記載する
バードウオッチングはしっかりしている その様にしてゆきたい
蝶を中心に観察したいと言う人が少ない  
学校教育にも問題があるのでは、獲ってはいけないと蝶をじっくり見る機会が無くなってきている 文化の発信は学校教育に有ると思うので是非 学校教育とタイアップして蝶を愛でる 
蝶を観察する様な所へ結びつけていけたらなと思います

2012年4月19日木曜日

玄秀盛(歌舞伎町駆け込み寺代表) ・人生180度転じてボランティアに 2

玄秀盛(歌舞伎町駆け込み寺代表55歳)  人生180度転じてボランティアに 
1995年大震災の時は酔っ払っていた 朝焼けにしては偉い赤いなと思ったら火事だった  
当時10社のうち7拠点が神戸界隈にあり、スーパーカブを買えと指示した
動物的な感 TVを見てそう思った ポリタンクも購入するように指示  水が必要と思った 
現状を見に行く 金を貸してある地域が如何なっているか
バイクにポリタンク2つに 水を積んで行って、皆にすれば一番に来てくれてありがとうと言ってくれた  
こっちは金を貸しているから いつ取り立てにいけるか
でもいまはそんな時期ではないと 得意先 尼崎まで全部回りました
  
約50か所近かったのかなあ  2回目ゆく時にはトイレットペーパーとか 水とトイレットペーパーを
セットで渡すとか その間に会社の近くにテント村を作るわけです  
仕事の方は大盛況 通常の3倍儲かった  自分自身が解体作業の請負をしていたので 
手作業で取り除く作業員が必要なので 今回は全部倒れているものを単なる取り除くだけでしょう
利幅も大きい 当時は貪欲だったので解体仕事を物々交換 こちらは人を集める事で 人を供給 
その代りダンプを他から供給してもらう
困っているのはお互いさまと テント村ではいろいろと面倒を見たり 作業も1万円での作業であれば
5000円でもいいと利ザヤも甘く対応した

1998年本来 元請けからはいるお金が入らず手形を裏保証していたのを引っかかって会社が
抑えられた格好に成った  建設関係の仕事ですけれども
この年に会社を全部整理してお金に替えて東京に出てくることに成った  
矢張り稼ぎが東京は違う  あこぎな世界から多少違うスタンスの仕事でと思った
探偵、債権回収とか 女性関係のトラブルとか 処理してゆく探偵会社  オゾンの会社を作って仕事を
任しておいたら半年で社長が逃げてしまったので自分で社長に成って
1年間勉強さしてもらって 会社を作って実用新案とか特許申請を出しながら2年でそのぐらい行ったよね  
当然 不動産 金融と言うのは自分のテリトリーなので
それと並行しながら 最終的には宗教法人を手に入れてペット霊園等やろうかなとそんなことも
計画中だった  15年以上前の話

オゾンの会社、ペット霊園  建設、不動産  1社に5000万円 4社を作ってビル1棟に全部入れて
体制作りに2年掛った
さあこれからという時に秋葉原で何気なく献血をする 2000年8月に献血をして10月に通知が来る 
そこで引っかかる HTLV1 白血病 発症したら1年以内に命が無くなる 
1000人に5人とか1人と言われているけど  HIVだと一瞬見えた HIVだったら遊んできたと  
当時 お茶の水の日大にちょっと股関節が悪くて通っていた  
歩いていても躓く 普通の平地でも躓く  原因はどう調べても判らず 骨がすり減っているでもなく
丁度リンクする  症状が  あーもう命がないんやったら どうしても5人は始末しなければあかんと 
物騒だけれど   5人を始末して俺もあの世に行くんやと
48時間探して4人  後の1人はどうしても判らない
 
そうしている間にもう一度用紙を見るとその時にHTと書いてあった  
レトロウイルスで発病すると助かる見込みはないと  それ以上に私が死を意識した時に自分の
脳裏に先ず引っかかるのは   
どうしても許せないのは 引っかかるのは 仕返しと言うんですか 復讐と言うんですか 
そっちの方に頭が行った  5人を殺して俺もゆくしかない
この自分の鬼畜さ 鬼畜のような生き方が当時の俺の43年の歴史やったんや 
最後の最後 死を意識した時に普通なら子供とか妻とか家族とか 100%菩薩の様な心に成ると
思うのに お金でも無くこの5人にこの恨みを返すだけ
それしかないと言う 何のために俺は生きてきたのか 人並みにやってきたのに 自問自答を繰り返す  
5回殺されかけたと言う事は人からやられること
自分の中で死を意識するという事は24時間払拭できない 俺は自分に勝てたという人間が
この人間のもろさは何かと ずっと死を意識したらご飯もおいしくない

好きな食べる事が全然味気ない 望みが無くなる  自暴自棄、自信喪失 人間て こんなにもろいなと 
ずっとふつふつとしてきてもだれにも相談できない
HTLV1でそうは死ねないぞと 逆に1000人のうち995人は助かるんやと どうってことないと思った
時に じゃあこの1年なにに使ってやろうかと 
世間の役に立つんじゃなくて俺はどうやって生きて行ってやるんだと その時に新宿の書店に行って 
本を手に取ったのがNPOというボランティアという本
その時の事は鮮明に覚えている  阪神大震災、得度して歩いた   坊主には成れない 
歌舞伎町 だったら 駆け込み寺 24時間やろう 365日無休でやろう

成り振りかまわずやった 身代わり不動のようなもので誰かに生かす命もあるだろうと言うのが始まり
歌舞伎町は600m四方 飲食店が3000軒以上 ホテル50~60軒 映画館が12軒 やくざが80団体有る  
年がら年中犯罪があり他に比べて20倍~40倍
その中に区役所が有り、病院があり 公園もある 東洋一の歓楽街   ダーティーな町 
そういう街だから女性、子供が泣いているのではないかと
俺ならここで出来る 1年命、限定でやってやろうと  NPOを猛烈に勉強する そして申請する 
歌舞伎町 夜面白かった しかし見て見ぬふりをするのが多々あった 
2002年1月8日に認証を頂いて 5月20日に駆け込み寺をたった一人で始める 
 
会社を整理して金はない 唯一残ったのが生命保険
当時1800万円借りた 生命保険を担保に借りる  1年後にはいないと思いで、始めた
最初夜 放送が流れた 歌舞伎町で駆け込み寺ができたと 
相談の分類 1/3は自分で会社が潰れた 家を取られた 借金で家が離散した 
後の1/3は真摯な相談で
後の1/3は夜中の相談が多かった  実際女性が逃げ込んで来る 男が追いかけてくる  
本当にてんやわんやの始まりだった
一番最初は家出の相談 娘を探している 36歳の男が16歳の子と同棲している  
この女の子を直ぐ引き離したら又この子は男を追いかける だからお父さんに
表向きは付き合いを承認しようと その間にしっかりこの男に言うからと 腹が立ってもいまは
抑えといてくれと 今腹が立ったら 娘が敵になるでと
36歳の男には青少年違反で捕まるでと 云いながら別れ話をして男が他に女を作ったという
シナリオを作って別れさせた

その後色んな奴が来た 連日連夜 寝泊りしながらやってきた  全身全霊全力投球しかなかった  
1年3か月やってきて体調がおかしくなる
幻聴幻覚 当然お金も無くなってくる  1日12時間に切り替えて 何とかかんとか今は生き伸びている 
相談受ければ受けるほどパワーアップしてゆく その人の負のエネルギーを貰えるので  
やくざが来たら手の内がわかる 引き際も判る 手に取る様に判る
警察には相談は行けない  土日、祭日は当然休み 役所、相談所は休み 先ずそれが一点   
12時間になっても DVで相談に来るにしても内容は複合的
借金、DV、親子のいじめ、  公共ではDVはDV担当 金銭は弁護士担当とか、ばらばらになる
 だからいろいろなところでたらい回し的に成らざるを得ない
たった一人で受けるキャパの持ち合わせがない  

相談者は感情的に成っており 2時間も3時間も聞いてあげないとその人の本当の腹の底が見えない
これをやらない限りどんなところに相談に行っても ここが一番のひずみです  
自分の場合はその場で即断即決します  
そうしないと相談とは或る意味生き物でもあるし こっちが動かないと相手は動き回るから 
今やらない限りは駄目です 
約10年2万件以上 即決でやっています  DV、いじめ、虐待 ストーカーもあります  
相談も少し変わってきた DVとかも法律ができてきて世の中の関心も出てきた  
暴力団も暴力団排除条例が出来たから官民ともに動きやすい
法律ができてもアウトローの人間には全く関係ない もっともっと陰湿に成ってきている 
1年の内、家族殺人が半分 暴力団が人を殺すのは1割も無い 
現場だから手に取る様に判る
  
DVの対処 女性が来たらまず話を聞いて 逃げるならば段取りをしてあげて 
「玄さんのところにいきます 御用があれば玄さんのところにいってください」と手紙を置いてゆく
そして逃げる 100%ここに男が来る 号泣するか 懇願するか 哀願するか する  
ドアを蹴破ったやつはゼロ
加害者をどうやって受け止めるかが大事  このやろうと思った時にピシッとやらないといけない 
これがDVだと  しっかり諭す
相談していて これもやったこれもと 自分でスラスラ出てくる  
この駆け込み寺をやる為に45年と言う自分の経験が必要だったんだなと感じる
これが天職なんですよね 自分の余命 に目覚める   今こそこれが天職だと思う  
当時120万円必要だった 公演、本とか 多少の相談料で何とか賄う 2か月滞ったらしめる
  
日本財団が家賃の補てんをしてくれる これは有り難い  有り難いからもっとやるべきことが出てくる 
だからやっと仙台に行ける
与えられた命 使命ではないけれど 今そういうところにまい進している  
去年大震災の時には私はなんにも出来なかった  2/11に視察も兼ねて仙台に行きました  
今、国分町に準備室はできました
国分町は歓楽街  7月に向かって本格的な駆け込み寺をやります   
白血病を持ちながら戸惑わないか?→それが俺の生きる道だし 生かされた俺の選択肢はそれだし 
生きているという毎日の実感があるし
座右の銘は「一日一生」  思い残すことなく毎日毎日の繰り返しが365生だと 毎日が旅支度だと
思って生きている 何もかも整理してある
今度仙台に行ったら月の半分 沿岸部とかの 叫び声を救いあげて助かった命をどうやって
生かすか 考えるし 俺を使ってほしい

今はっきり分かることは 命尊しやから なにゆうても キャッチフレーズは「一つの命を救う」と言う事だから  
セーフティーネットとかマニュアル作ったりだとかすると安全と
思っているかもしれないが そんなセーフティーではなくヒューマンネットワークだと思っている  
一人の思いが、人間が波を起こすことによってそういう部分がウエーブ見たいに
そうやって繋がってゆくし 仙台で私ができる事って 東京にいては判らない 
そこの土地の空気を吸うからこそ今やるべきことがまだまだあると思う 
たまたまこの間仙台に居る時にボランティアの方が53人集まった  
俺の言うボランティアというのは人への思いやりだよと 誰かの為にやると言うのは辛い 
これは続かない

人への思いやりが自分へ優しくなれる  自分が優しくなってゆく  
他者への思い遣りが自分を育くむ これが私の考えるボランティア  「布施行」と言う事   
自分さえよければというものに危惧を感じる  10年前から始めて ゼロになる 又ゼロになる 
マイナスになる 寿命燈ではないけれども自ら光を放ちながら  
こうやって人がよってくる その人が又繋いでゆく  野火に火が放たれる様になっていったら誰
もが無関心ではいられなくなると思う 
無関心は人を殺すから そういうことに関心を持とうと  ちょっとでも感じてもらえたらもっともっと
捨てたもんではないと思う 
自立 抜け出しても抜け出せないそういう環境が有りますね  
自らの意志で本来やるべきことを人によって左右されてやっている  
そういう事の自立のサポートですね 自分の場合は

2012年4月18日水曜日

玄秀盛(歌舞伎町駆け込み寺代表) ・人生180度転じてボランティアに

玄秀盛(歌舞伎町駆け込み寺代表55歳)  人生180度転じてボランティアに 
歌舞伎町に駆け込み寺を開いて10年になる  
昨年から財団法人の支援を受けられるようになった  名称が「日本駆け込み寺」に変わった
誰でも駆け込み寺に来てどんな悩みや相談に応じる  
玄さんは自分の45年の波乱万丈の人生を生かして一人一人に真贄に取り組んでいます
生れは大阪市西成区 物心着いたときから転々としている 
父親は韓国の済州島から密入国できて 神戸で働いていた 
母親は在日で神戸のにしなりで働いていた

私は母親以外の処を、短くて半年、長くて1年半ぐらいで転々と住むところを変えて暮らしていた 
知っている人で5人 そこら5か所をそのぐらいの周期で変わってゆく
三重県 京都、奈良、大阪 行くたびに全く環境が違う、名前も変わるし、学校も違う  
名前も変わるし、国籍も変わる 小学校2年の時は3回変わっている  
3人親が違うと言う事で 誰が自分の御母ちゃんかなと言う事で 小学校2年の時は
北朝鮮の学校 全く違った環境 小学3年になったら韓国系の学校で全く違う
 三重県に行ったときは韓国の済州島から密入国してきた海女さんだった人がお母さんだった
三重県は転々とした 父親自身は働かないので常に女性に食べさせてもらっている 
だから女性の処に行ったらそこの家族に連れ子で連れまわされる

父親が又違う女のところに行くものだから、そこに居られないので当然家出する  
警察に報道が掛る 父親が呼ばれる 父親は密入国から外人登録を
持っていたから、そういう繰り返しを小学校で8回 中学校で5回 当然勉強も付けられないし 
兎に角自分の生活 飯、をどうしようかとのことしか考えていなかった
子守をし、新聞配達をしたが 忘れもしない1200軒の初任給を1000円を母親に取られて 
新しく入れてくれと言うところを10軒持っていた 
朝夕配って560円 5600円 その地区を集金もするので5600円が丸丸自分の懐に入る  
こずかいは貰ったことが無いので5600円を栄養補給に使った
自分がご飯を食べるのに必死しか言いようがない  中学生 煙草をやってたりシンナーを吸って
たりするので走るのに辛い 万引き、高校生に対して窃盗をする

中学2年になったら密入国した母親がかった家に一人で住むようになる 
手に負えないのでここに一人で居れとの事
月のうちの1週間分の食費しか貰えないので 恐喝をほとんどする 
補導は5~6回される 学校でも家庭環境を判っていたので退学とかは成らなかった
自動車修理工場に就職しようとした シンナーが吸えるからと  
仕事しながら半年ぐらいシンナーを吸いながららりっていた(食事もろくにせず)
先輩からこんなことをしていては駄目だと言われ、兎に角ここから出ろと 生みの親のところに行けと 
時計を餞別に貰った

生みの親のところに行っても、生みの親も男が入れ替わり変わるので 当然合わないので 
出たり入ったりしながら 寿司屋に就職(食べれるから)
その後転職する 職種で20職ぐらい、転職の数で40回ぐらい変わる   
殆どあらゆる職種を体験する 行き当りばったり  人の動きばっかり見ていたので
仕事作業は1回やると6割は覚えられた 実践すると自信が付く 盗み聞き 盗み見は得意であった   
20歳で結婚している 21歳で子供ができる  ローンで購入したので借金があったので
がむしゃらに働いた 糞尿処理とか効率がいい物 ちり紙交換 キャバレー店長
とか 一日14時間ぐらい働いた  速く認めてもらう為に一生懸命にやった 

大工の親方が逃げて 2か月半で完成しなくてはならず ハッタリでやりますと手を挙げて 
図面も読めないのに 監督等に聞きながら 完成させる  そこで200万円を貰う事になる  
それから建築の看板を挙げて立ち上げる
建築現場でぎっくり腰になってそれが原因で椎間板ヘルニアになってしまう  手術する 
1年間入院、及びリハビリに費やす 
肉体労働は出来なくなってしまった 大工で培った人脈で人を使ってやるしかないと思った  
人夫出し(今の人材派遣に相当)をするようになる
たまたま怪我をしたときは大手の処で働いていたので労災が適用されて収入への影響は大丈夫だった   
その時にがむしゃらに本を読んだ 如何に人を使うか どうしたら人に慕われる人間に成れるか  
いままで経験したことをちょっと脇から見直して見た

人夫だしは旨くことが運んだ 最大200人は使った1988年 バブルが終わる一歩手前の時代だった
当時1日1000円あれば食べていけた時代で凄く儲かった 簡易宿泊所作り作業員を集める  
6000万円/月儲かる  最盛期は会社10個作る 
 金融、不動産 等   サラ金とか 10日で1割 1月で3割  (今では規制があるが)  
需要は有った あこぎな商売ではあるとは思わなかった
回収率は100%だった  評判は抜群に良かった 飲食店不動産等  手形では決してやらなかった  
180日待って居られない
貯金をせずに夜は遊びまわって、妻と離婚することになる  2番目の妻との中で家庭を作り 
夢を実現したと思った しかし自分の居場所がない 

ホテル住まいが一番安心する  仕事に貪欲に邁進する 当時年商20億円 自分で使える金が8億円だった  
神戸で大金(100万円)を使って、飲み食いすると目立った
大阪でも目立つ たまに東京銀座で使っても目立たない カスみたいなもの 
関西弁を使うということでは人に目立った    東京にちょこちょこ行くようになる
天台宗で得度する 平成元年10月27日初めて出会う 
生れてこの方メモ取らない  いままでなにからなにまで頭の記憶  平成2年2月4日に得度する
(1990年に天台宗の僧侶、大阿闍梨酒井雄哉(2009年現在 比叡山飯室不動堂在住)のもとで得度)
知り合いに京都のお坊さんに会いに行くと言うので、坊主丸儲けと言うから行ってみようとその人と
一緒に会いに行った

「あじゃり」(阿闍梨)さんにあう  片方に最澄、もう片方に伝行大師と書かれた物があり 
どちらが偉いのですかと聞いたら答えなかった 
10分ほどしたら足が痺れてきたので立ち上がって不動明王をじーっとみた
右と左では顔が違うなあと 後ろは炎やなあと それから不動明王を見に通うようになった 
同期で7人が得度して坊さんに成った 私は得度だけして得度で終わりとしていた   
10年通った 毎日掃除しかしなかった 下働きが好きだった なにか気持ちいい
なにかいい事をしてやろうじゃなくて 何か自分を磨いてやろうじゃなくて 何かすがすがしい    
「行」らしいことはしなかった

36歳の時に29日間 阿闍梨さんが東北巡礼に行ったときに 栃木県の大慈寺から恐山まで
1600km 29日間行かれると言うので是非自分もと先立ちで歩かして貰った
出かけるにあたり、初めて赤の他人に仕事を2か月前に全てを任した  疑いも無く任した(手形 預貯金 等)
3日もすると足がパンパンに成り厳しく 電柱ごとに色んな事を考えて歩くようにしたが
そのうちにネタも切れきた 毎朝4時に起きて 終わりが9時10時となる事がある  
その間夜に飲みに行ったりして肉を食らったりしてはいけないのに牛タン食ったりした 
恐山に行く最後の夜にも居酒屋で飲んだりスナックに行ったりしていた 
二日酔いで まっすぐ歩けと怒鳴られた  
あっ終わったと 帰りに草津温泉で楽しもうぐらいの思いであった

頼んでおいた会社も8000万円から6000万円ぐらいに収入は落ちていたが挽回できると思っていた 
余り追い込まないでおこうとか中途半端な仏心が裏目に出始めた   
ちょっと緩めるちょっと明日の事を考えてここを緩む 待てよどこかでなんかの歴史書に書いて
有ったよなとふっと思い出した時に人間何百年経っても変わらないものなのだなあと思った
どっかでかすかに追い込みが効きにくくなる  あんなに寺を回ったし、般若心経も一丁前に
覚えたし、ちょっとした「許す」と言うかけらを、覚えるのでしょうね
そうしたら事業が傾きだす  弱みは見せられない 

2012年4月17日火曜日

米澤 傑(鹿児島大学医学部教授)  ・医学も音楽も私の喜び

 米澤 傑(すぐる)(鹿児島大学医学部教授)    医学も音楽も私の喜び  
1950年 生まれ 癌細胞の研究 オペラ歌手 日本クラッシック音楽コンクール第一位 グランプリ受賞2004年 ブルガリア ソフィアこくりつ歌劇場オーケストラ との共演CD 「誰も寝てはならぬ」   
米澤 傑 テノール・オペラアリア集」(ジョヴァンニ・ディ・ステーファノ指揮・ソフィア国立歌劇場管弦楽団)としてリリース、好評発売中  
2012年4月29日には横浜で医者だけで構成される管弦楽団の第一回の演奏会でその歌声を披露することに成っています
全国から沢山集まり 最終的には86名の程度のオーケストラの構成になる
中学3年の時に独唱の大会に出て見ろと先生から言われて吃驚いた  
大会に出て私ともう一人予選を通過する 「追憶」歌った
高校もバレーボール部と音楽部の部長もやっていた  
NHK 歌曲の部に高校2年の時に参加して徳島県で優勝してしまった

四国大会に行って第二位だった(全国大会には行けなかった)  
鹿児島大学 医学部に行った (音楽への道は全く考えなかった)
病理学 腎臓病に興味があった 
泌尿器科に行ったが病理学に行くように勧められそちらに行った  
先代の恩師の佐藤栄一教授が大腸がんをされてきたので、癌をやる様にいわれてそちらに進むやり始めたら結構面白く 新たな知見をアメリカの一流雑誌に出したら旨く通りましてそちらの方にも興味が湧いてきて、段々と癌の研究をやるようになりました  
面白くなってきて 腎臓の研究と癌の研究を並行してやって居た  
病理学にメインを移して段々と病理学の専門になっていった
2010年日本病理学賞を貰う 
 
がんの中でもムチン性糖蛋白といってムチンとは胃の粘膜の表面を覆っていたりして粘膜を保護したりして 或は便が出やすいように、粘液が出るとか それもムチンなんですけれども、ムチンには、上皮細胞などが産生する分泌型ムチンと、疎水性の膜貫通部位を持ち細胞膜に結合した状態で存在する膜結合型ムチンがある  
ウナギをはじめとする一部の魚類特有の体表のぬめりもムチンである
それに全部番号が付いているんです MUCIN MUC1~21まである
そういう風なものがどんなふうに癌細胞が作っているかという研究を 1989年から90年にかけてカリフォルニア大学のサンフランシスコ校に留学していた時に、ヤング S キム教授 世界的大家の処に居る時にすこしずつ判ってきていた頃でしたので それを膵がん細胞を対象に研究してみなさいとテーマを与えられまして、非常に面白い結果がでまして それを論文にしまして ちょうど留学中に投稿できまして 帰ってきまして、それをベースに それまでは主に大腸がんとか食道がんとか  管の臓器の癌の事をしてきたのですが これらは切ると2次元に成るのですが 膵臓等は切っても3次元構造をしている
   
膵がんもたちの悪い癌からたちのいい癌まであり(膵管内乳頭粘液性腫瘍(通称IIPMN)) たちの悪い癌はMUC1は作っているけれどもMUC2は作っていないとか、通称IPMN、良性のものはその逆であるとか 見つけ出しまして アメリカの専門誌に出しましたら 採択されまして其れを発展させていったのが、日本病理学賞に繋がっていった  
30年ぐらい積み上げてきたもの  
その間に音楽をしていた サンフランシスコのトップの方に紹介してもらった  
テノール歌手で自分が直接レッスンするからと言われて先生のところに時々、伺ってレッスンを受けていました  
入学式に男性合唱団に入った 
小さいほうの合唱に入ったが1年後に大きな合唱団に吸収合併したが 声が飛びぬけていたので(押さえろと言われたが苦しくて)独唱の方に変更した  
本当は医学も音楽もやればやるほど長い苦しみがあるんですね
 
医学の研究も間違ったことがあってはいけないのでそういう厳しさはあります  
何度も検証を繰り返す  ランクの高い国際誌に載って見た瞬間は本当に嬉しいですね
音楽も松本美和子先生なんですが 本当に厳しいレッスンが有りまして 「あ」と声を出したら違う「い」と声を出したら違うと 本当に厳しいトレーニングを受ける  
ずっと積み重なって きちっと歌えてブラボーと言っていただいたときは本当に嬉しい 快感ですね 一瞬の為に長い苦しみをずーっと続けているのが正直なところです  
苦しみのほうがどうしても多い  
どうやって工夫をしたんか?→効率よく考えた練習をすれば フルボイスで謳う時間は少なくすることができる
楽譜と論文を一緒にカバンに入れていて電車の中などいろいろな場面で勉強している 

音楽で本当に練習する時間は3%  
1985年に鹿児島で第九をやる 井上道義先生が指揮を担当して頂いた
徳島  鳴門 は第九の初演の地なんです  
それを記念して6月に有ったので第九のメッカのように成って15回記念の時にソプラノソリストの松本美和子先生だった 
その方と共演できると言う事は本当に嬉しかった  イタリアにデビューしない?と言われる 
1週間後に著名なプロデューサーが日本に来られるから是非声を聞いて貰ってと言っていただいて 松本先生と一緒に聞いていただいた  
そのプロデューサーの方も一緒に勧めて下さっった  
1カ月半イタリアに来て後は仕事をしていいからと言って下さる  
3日空けるのも大変なので遂にお断りした
いまは両方できる状態でやっている   ちょっとしたきっかけ、御縁で繋がっている
膵がんの早期発見に注力したい 
音楽は松本先生から70歳になっても声が変わらないように精進しなさいと言われているのでそれを目指して行こうと思っている

2012年4月16日月曜日

アーサー・ビナード(詩人・絵本作家) ・大好き日本 風景はいつも新世界


アーサー・ビナード(詩人・絵本作家)     大好き日本 風景はいつも新世界
1967年ミシガン州の生まれ 大学で英米文学を研究しながらイタリア語、タミル語も学んで、日本語の多様性に好奇心を持ちます
22歳の時に来日して詩人となる 2001年に詩集「つりあげて」は中原中也賞を受賞 「日本絵本書」 山本健吉文学賞を受賞するなど様ざまな作品を表している
日本への関心はどのようにして? →詩が書きたくて新聞配達しながら書いていた 
大学に入って英米文学を専攻して、イタリア語に興味を覚えてイタリアに渡った
卒業するのに単位を一生懸命かき集めた 先生からタミル語をやってみないかと言われた 
アルファベットとは全然違う文字の面白さに目覚めて、
違う文字を使うと世界がもっと違って見えると言う事に気付いた 

卒論を書こうとして 本を読みあさっていた時に日本の文字 中国の文字 漢字について  
出合って タミル語も習って、思考回路も柔らかくなっていた状態だったので 漢字がピンときて 「これだ これをやんなきゃあと思って」 
タミル語は200文字 漢字は無限の多様性があって しかも意味をはらんでいる文字が生き物のような存在だと思って、生きた詩が、生きた文学が作れたらなあと思って それで日本語か中国語を どっちにしようかと思って 卒論を書く合い間合い間に調べて、日本語の方が面白そうだと思った  
日本語の授業に潜り込んで勉強した

日本文化とか余り考えずに日本語を勉強した 
卒業の日には既に日本に来ていた (卒業証書は郵送してもらった)
文字の面白さは思ってた以上に豊かな世界が在って、いまも毎日驚くような素晴らしい言葉があって、いまも毎日覚えるんですよね
私が予想していなかった部分もあって 例えば擬音語 擬態語 の凄さ 音の表現の豊かさに吃驚した  雨の表現 ザーザー  ドシャドシャ いくらでもある
めそめそ泣く さめざめと泣く  げらげら笑う くすくす笑う 
笑い方も一杯在って (英語もあるにはあるが日本語の方がその何倍もある)
日本語と毎日毎日楽しく、時には苦しく格闘している   
池袋に住みついたが 日本語学校でも習ったが商店の店で沢山教えてもらった(買い物通して)
「柿」「牡蠣」 発音が難しい  パーシモン   カッキ(柿)はイタリアでは知っていた(渋柿を熟した柔らかいもの)  静岡の次郎柿 これも柿だと言われて吃驚した
イタリア語のカッキは日本語の「柿」が渡って行ったものだそうだ  
猿蟹合戦 とかにも出てくる 掘り下げてゆくと色んな物に繋がっている
日本に来てイタリア語とのつながり、英語とのつながり 判らないことが結局面白い 
少年時代は好奇心旺盛で 魚、昆虫 好きだった  
昆虫少年が漢字に興味を持つと言う事はいま思えば 自然な流れだなあと思います
昆虫が好きな人は 一概には言えないかも知れないが、多様性が好きな 沢山バラエティーに富んだ どう頑張ってもは把握出来ないぐらいの多様性の有る世界、が好きな 圧倒されるバラエティー と圧倒される生命の多さに直面すると「うわー 面白い」と思って飛び込む人が昆虫少年に成るのかな
 
漢字もそうなんですよね  何千文字 何万文字とか とっても覚えきれない  
私は漢字を全部知ってますと言う人は一人もいない
でもそれが面白くて 昆虫と触れ合って昆虫の世界を冒険することと、どっか繋がっている様な気がする
詩人になろうと思ったら観察が命なんですけれども、観察したうえでなにが作りだせるか 
そういう時に私の場合は疑問符 なんだろう?という好奇心
疑問の様なものが原動力となって それを自分の好奇心に引っ張られて 引き込まれて 探ってゆく
観察して何かがみつかったら それが詩の出発点になるような
「まめ」 と言う詩  ジャックと豆の木を題材にしている 日本で知っている物語と英語の物語   イギリスの昔話  見事に訳した 「木」としたのが凄いと思った

日本のジャックと豆の木を聞いて新しい別の物語に感じた  
子供の頃聞かされた物語とは違う風に感じた 
大豆ではないかと思って 新しい作品になる
「ジャックが手に入れた魔法の豆は ジャックの庭に蒔かれてにょきにょき ぐんぐん 一晩で摩天楼より高く成ったそうな 高いところが得意じゃない
僕だけれど もし魔法の豆が手に入ったら 魔法の豆腐を作ってみたいと思う  
きっと巨大な入道雲のような 世界中の人がほうばっても 食べきれないぐらいの、豆腐の一丁が出来上がるだろう  
それとも納豆を作ってみようか 世界をねばねばねばっと 一回り 世界を繋ぐ素晴らしい糸をつくるだろう」
 
英訳するときに納豆が弱くなる(豆腐は米国でも認知 納豆は? 最後のところが弱くなってしまう 補うのが難しい  説明すると詩にならない  ネットワーク(ナットウワーク)
詩とは?→生活と詩は結びついていて 生活そのものが詩になるかと言うと ある瞬間が詩になる     詩があるところで生活の本質を捉える 
単純に生活が詩になるわけではないのですが、生活を抜きにした詩だと私の場合は読者に手渡す必要が無いのではないかと思う
生活の本質を発見する手段かもしれない 

他の生き物と繋がっていると言う事を実感できるかどうか 大事だと思います 
日本語の言葉のレンズの作用 団子虫  恰幅のいい虫  英語ではそういうイメージには成らない 
「ばなな」
「屋上でバナナを食べた  半分ずつ 遠い南国の事 搾取の事 農薬 死んでゆく愛の事 一つも考えないで かすんだ町 見下ろしながら バナナをほうばった」
一本のバナナの裏には遠い国の経済問題 労働問題 農業の問題 農薬の問題 いろいろな問題がある  そういうことを考えると詩になってゆくか、論文になるかも知れない 
或は行動に結びついて 農薬を使わないバナナはつくれないのか  
一本のバナナから世界中の色んな分野が繋がって 人と人が実はそのバナナを 通して 或は私達が着ている洋服を通して 色んなつながりがあるのですが この詩をつくった時には具体的には核の問題 放射能の問題に触れてはいないのですが、それも全てに係わっているんですよね 
いまの日本を考えるときに 太平洋がどういう影響を受けているか 日本里山 森の生き物はどうなっているのか  
繋がっている命が生きていけるか これから書くものに全て影響してくると思います  
文学者としてこれからの事を考えなければ文学は作れない 古くならないのが文学 自分が死んだ後にも読んで新たな発見があると言う風にしなければいけない
これから生まれてくる子供達の事を考えなければそれは文学じゃないと思う

2012年4月15日日曜日

門倉タニア(料理研究家)        ・祖父から学んだドイツ流生活の極意

 門倉タニア(料理研究家)      祖父から学んだドイツ流生活の極意  
フランス料理とドイツの料理を教室を開いている門倉さんは日本人の父とドイツ人の母との間に生まれました 
2歳の時に 家庭の事情でドイツの祖父母のところで生活することになり 6歳の時、高校生の時にそれぞれ1年間ドイツで過ごします
幼い門倉さんを世話をし愛しながらも、厳しくしつけたのは祖父でした 
その後 日本の大学を卒業して外資系会社に就職して結婚 アメリカ、イギリス、香港などでも
暮らしてきましたが、生活習慣、物の考え方の基本にはつねに幼いころからドイツの祖父から教え込まれた生き方があったと言われます
祖父の生きかたからくみ取ったドイツ流の生活術をお聞きします
祖父は現在90歳になった ドイツでは自分が友人、家族に対して招待状など書いて、呼んで祝う(日本とは逆)

2歳の時に1年間親元を離れて祖父が45歳の時に心臓発作でリハビり中に一緒に過ごした
優しいところもあるが、厳しかった  
整理整頓と規律正しい事が基本だと常に言われていた  
6歳の時にも1年凄く影響を受けた 
規則正しい生活 洗面所の使う時間も順番が決まっていた スムーズに一日が過ごせる  
祖父は探し物をしない 自分で管理する 繰り返しのリズムができれば寝る事も一定時間に寝られる
諺「人生の半分は整理整頓」  探し物をしていると何時もこういう風に言われた 
 ドイツは日曜日は営業禁止 パン屋、花屋以外はやっていない
キリスト教国なのでこの様にやっている 
「寝ごこちは自分が整えたベッド次第」 責任は自分で持つ

「始めなければ終わりは来ない」  
祖父は1923年生まれ ベルリンから北に50kmぐらいの処 終戦時イタリアにいたが歩いてドイツに帰ってきた
鉄鋼が盛んに成り鉄鋼所で仕事をした 
年間6週間は休暇を取れる スペインにリゾートマンションを購入し余暇を楽しむ
母は航空会社に勤めていて、伝統的な日本を見たいと思って日本に旅行に来た 
日本語が通じないし お金も無くなってしまった為に 自分が勤める英国航空に行けば
何とか助けてもらえると思い、その会社に行ったら父がそこに努めておりそこで知り合って、結婚した
私は大學を卒業して外資系の証券会社に就職をしてそこで主人と知り合って結婚した
引越しの多い生活だった(アメリカ、東京、関西とか) 
父は鹿児島出身 神道 男尊女卑  母はプロテスタント 日本であるからこそ可能 先祖を大事にして感謝をして、どの宗教でも変わらないと思うので 本当に日本のいいところだと思う  
家庭の共通語は英語にしようとなった  
祖父母とはドイツ語 父はドイツ語ができない 
ロンドンにいた時にフランス料理を習いに行った  
日本に帰ってきてから友人が教えてほしいとの要望があり、徐々に教えるようになる

NHKのドイツ料理コーナーとかも担当するようになる  ドイツ料理はこだわり過ぎてはいけない 質素である
余りファッションとかも余り注目しない  プロテスタント的な考えがあるのでじみかもしれない
祖父は今は一人暮らし 祖母は14年前に亡くなった  
みすぼらしい生活はしたくないとガールフレンドを見つけて付き合っている 
一時間ぐらいのところに住んでいるので、そこに車で出かける  
毎日毎日規則正しく車の運転をしている  
日本では伴侶が亡くなると内に閉じこもってしまいがちだが いいことだと思う 
彼女と喋っていると生き生きとしている  
人間も自然の一部だという考えがある    
自立する(流されない考え方) 質素 規律正しく 整理整頓      祖父は人生の先生 

2012年4月14日土曜日

辰野勇(冒険家64歳)       ・山が教えてくれた生きる力

 辰野勇(冒険家64歳)       山が教えてくれた生きる力  
22年大阪生まれ 21歳の時にスイスの名峯 アイガー北壁を日本で2番目 当時最年少で登頂成功しました
続けてマッターホルン北壁も登頂  カヤックでコロラド川グランドキャニオンを日本人で初め走破する 
28歳の時に自分達が欲しかった道具を作ろうと創業した
アウトドアメーカー モンベルは日本だけでなく世界トップクライマーにも愛用される企業に成長しました
17年前阪神淡路大震災の時にはアウトドア義援隊を組織して支援物資等全国から集めて被災地に届けました
東日本大震災の時には今までの経験やネットワークを生かして多くのボランティアの人達と連携して全国から届いた支援物資を小さな避難所までその時々のニーズに合わして配り続けました     
ロックガーデン 懐かしい (高校時代利用した岩場)  小学校の頃は身体が弱かった 
金剛山に雪中登山に小学校高学年に行く行事が有ったが身体が弱気
ドクターストップがかかってしまった  中学になると金剛山に登る様になった  
大阪府では一番高い山 1125m  高校1年生の時の国語の教科書にアイガー北壁
に登頂する場面が書かれておりそれに憧れた  (「白い雲」)  
皆が登ろうとして登れかった山に登ったのが凄い あわや遭難と言う場面がある
この本一冊に出会って人生を決めた 家に帰って貯金箱をつくった 旅行費用を貯めようと  山の道具の専門店もやろうと、一人でロープを使って落ちても大丈夫なようにいろいろ考えた 
高校時代は一人で山登りをした 同級生に同様に山が好きな人がいてどこでも一緒に登れた 
 
アイガー登りたいのだけれどどうだと打ち明ける 彼は吃驚したがそのきになって準備をし始めた 1969年6月にソビエトの貨客船に乗ってナホトカに行ってシベリア鉄道でスイスまで行った 
下から見ると短く見える   
前の晩はあまり眠れなかった 
岩に手を触れた瞬間に 無になってひたすらに足場を探して一歩一歩登ってゆくしかない
自分の手足が届く世界が自分の世界  その単なる連続だけ   雪崩にあう  
中谷がちょうど雪崩が多く発生するところに居る時に発生した 
頭を手を隠せという 15m離れたところに居る  2人を繋いでいるロープに石が当たり 5mmぐらいしか残らないで切れる寸前だった

何とか助かった 頂上に立ったら(帰りには暖かいところでおいしいものでも食べて帰ろうと言い合っていたが) 雲海のかなたにマッターホルンが見えて「次はあれやな」と マッタホルンの北壁も登って帰ってきた  登った途端に今までの事は消去 後ろを振り返らない  
冒険を実行する原動力は好奇心 決断力  雨が降れば天気が悪くなる 危険だ 登るのか引き返すのか 瞬時に判断しなければならない
失敗という概念は無い  不都合と考える 成就しないと言う事を失敗と考えないで不都合と考えれば そこを介してどうしたらそこにアプローチ出来るかどうかという事を考え続け行動し続けることができる  例えば岸壁に咲いたユリの花 それを欲しいと思った時に 足が先ず一本前に出ている     歩きながら考えている  

どうやったらあの花が手に入るのかなあと 思考の深い人はちょっと待てよあそこには川があるし 橋も無いし、渡れたとしても 岸壁があるし やめておこうと止める
私は川を渡るために丸太を探したり、無かったら下流に向かって歩いてゆき、浅瀬を見つけて、浅瀬に行って川を渡る 
向かっている方向は違うかも知れないが、花を欲しいと言う意志の方向は変わってはいない 
人が建物の中に居て囲われた生活空間がそこには暗然と快適さがある 
外に出てくればぽかぽか温かいし風が吹けば寒いし なにも無い状況に放り出されたときに 求められるのは知恵と勇気と優しさ  気使う心 人間一人では生きてはいけないので 何か手を携え会うとか あるべき姿が共有されて来る
 
阪神淡路大震災   当時建物はことごとく壊れていた 
知り合いが沢山住んでいたので4輪駆動の車に水と食べ物を出来るだけ積んで現地に行った 亡くなられた友人のお母さんをトラックに乗せて遺体の安置場に行ったが一杯で4から5か所探してが無くてようやく探した そこは遺体にかける毛布も無く、寝袋を利用すればいいのかなと思って会社に電話したら2000個の寝袋があると言う事で2000個を確保した  
生きている人が瓦礫を集めて暖を取っている姿を見て、ご遺体には申し訳ないが生きている人達に寝袋は利用してもらおうと思った      テント500張りも提供する  
数が足りない 一社だけの力ではどうしようもないと思い 義援隊として 声を掛けて 人、物 、金についての援助要請 200社に送った
 
5分後には返事が来るところもあり 鳥肌が立つ思いがあった 
普段はライバルの会社が支援に対応してくれて非常に感激した
係わってくれた人達の思い アウトドアの人達は何かしなくてはいけないと言う気持ちがあったと思う
これほど大きな災害があることは経験したことが無い  義務ではないかと思った
東日本大震災   当日TVで見てこれは大変だと思った 
経験があったので今回も何とか手伝いができないかと考えた
仙台に3店舗在って仙台港の店は津波にあって3km走ったとのことで 従業員は助かった
店はまったく使えない状態 もう一軒は建物は使える状況でそこを拠点にしようとした
とりあえず現地に行けば何が必要か見えてくる  テントが必要かとか食糧が必要かとか 現地に入ったらそういうレベルの話ではない
 
規模が全然違う  アウトドア義援隊は衣食住を自分達で全て賄える 
ボランティアで援助に行く人はそれが自身で出来る事が最低条件だと思う
ボランティアに行く人が宿泊はどうすればいいのかとか食事はどうすればいいかとか 周りに助けてもらいようでは論外 次元が低く過ぎる
パーフォマンス、売名行為だとかいう人がいるが そうじゃなくてまず困っている人が居たら飛び出してゆく  それぞれができる事をやってゆけばいい
今回は規模が大きすぎるので一社二社ではどう仕様も無い 
まだまだこれから 我々がやったのはほんのわずかなことなので もう一回振りだしからやってゆく これからが大変
復興住宅を建てる計画をしている 家の規模は小さいが 福島から疎開させたい子供達 母子家庭を優先して入って貰う
いずれ自然学校を建てたい アウトドアを通じて危機管理、リスクマネージメントとか有事の際に生きる力を持て得る様な事を子供達に教育したい

2012年4月13日金曜日

鷲谷いづみ(東京大学教授)    ・里山に学ぶ自然との共生

鷲谷いづみ(東京大学教授)  ・里山に学ぶ自然との共生
78年、東京大学大学院理学系研究科修了。筑波大学講師、助教授を経て、東京大学教授(大学院農学生命科学研究科)。
生態学・保全生態学(植物の生活史の進化、植物と昆虫の生物間相互作用、生物多様性保全および生態系修復のための生態学的研究など)。  
1950年生まれ 保全生態学 生物多様性に関する幅広い研究を行っている  
地球サミットがリオデジャネイロで開催されてから20年 国連持続可能な開発会議が再びリオデジャネイロで開催される  
20年間で人口は70億人を超えて森林は減少し CO2排出量は増え続けています
 
いま地球上では1年間で7万種の生物が絶滅していると言われます  
里山でのフィールドにして生物多様性の研究をしています
かつての里山は絶滅危惧種が増えていると言う厳しい現実があります  
自然との新たなシステムを作ってゆくことが出来れば新しい人間の未来が開けると期待している 桜草の研究をしている  
かつては馬、牛を放牧している土地とか草を刈る処 田んぼの畦などにもみられる花だった、が今は特定な処でないと見られない
様々な開発で失われた  
人が刈り入れをやらなかったり人の手が入らなくなった所でも減ってきている

20年間の地球の変化 気候変動枠組み条約 生物多様性対策枠組条約 二つの取り決めを行ったが  環境劣化が著しい
40万種~絶滅していると主張する人もいる  
かつての絶滅種を把握することから絶滅速度を見積もると1000倍ぐらいになっていると予想される
今の様な人間活動が続いて行くと現時点から更に10倍の絶滅速度になると考えられている  そう遠くない時代に地球の生命の半分は亡くなってしまうと言うことが指摘されている   
坐して見逃すことはできない 人間に対しても地球の生物に対しても環境劣化を起こしている  
多様な生物が地球に生息していることがいろいろ人間にとってみても恩恵を受けている   
生物は40億年 の歴史を持っていて 全ての生物の祖先はちいさな泡みたいな生物だったが 大きな木から草から動物も大きな動物から小さな動物、微生物まで みられるが40億年と言う様々な地球の環境で 進化し 又動物同士の関係も食べる、
食べられるの関係を旨くやってゆく為に進化したり 共生 マルハナバチと桜草の花の関係 花粉が付きやすい様な花の形状をしている  
係わり合う生き物同士の関係が 進化によって形状とか花が咲く時期とか 行動とか 工夫に満ちている 

人間が技術として利用できるような事が沢山ある  
新幹線にも生物に習う技術がいろいろ使われている
先頭がカワセミの様な形 トンネルに入る時空気の抵抗で大きな騒音がするが カワセミは水辺の枝などに止まっていて 魚の影を見つけると水に飛び込んで魚を取るので空気中から一瞬に移動するので抵抗を少なくなるようにしている  それを利用している  
騒音対策としてパンタグラフのところにフクロウの毛の細かい構造を真似て使われていて フクロウと言うのは音も無く林の中を飛び回って ネズミ等の小動物を見つけると 捉える 
音があると捕まえる事ができないので、多様な生き物がいる事によって今後も何か課題がある時に生物に学んで対応することができる
 
薬などにして色んな生物を利用してきたし 現在の様に科学が発達しても まだ日々草にしてもそれからがんの薬を取るとか利用してますし 将来新しい病気が発生しても、その時に生物を利用するかも知れない   
色んな役に立つはずの生物からなっている生物多様性というものを将来の世代の暮らし 幸福な人生を送れるかと言うことに対しても重要な問題だと思います     
先ほどの条約の中で生物多様性と言うのは生命に見られるあらゆる 多様性と言うか、この生物とこの生物は違うと言う 違いのすべてを表すのが、生物多様性と定義しているが  私達が認識できないほど多様な生き物がいて、その一つ一つが私達に利用できると言うだけではなくて それらの生物が連携しながら 生態系の働きを生み出す 
その生態系の働きも私達の生活、産業に無くては成らないものであると言う事も生物多様性と言う言葉とともに良く認識しておかねばならないことだと思います

 里山 日本の原風景  田んぼ 雑木林 草原 多様な要素からなる環境 生物多様性の高い環境になる 植物資源の管理から作りだされる環境、手をいれずなにもしないと日本では全体が森になってしまう 暗い環境になってしまう 
人が農業したり必要な植物資源を確保しようと草原や広葉樹林等を管理するようになると、明るい安定した環境が維持される様になってくる  
原生的な森林だけよりも両方を組み合わせると多様な生物の場が保証される様になる   
生物多様性の高い場所と言う事で人の営みや生産が成り立ちながら生物多様性の高いと言うところが現代的な意義が大きいと思うんですね

地球も人口が増えてきており、これからも増えてゆく そのための食糧、燃料を生産しなければならない場がなければならない 
里山と言うのは日本の農業生態系の伝統的な土地利用のやり方ですけれども 将来を考える上でも様々な示唆を与えてくれる場だと思っています 
里山も危機を迎えている  生態系自体が開発などで無くなって仕舞ったり、人が手を加え無くなってやぶになってしまったりして 里山の環境を特徴付けていた
田んぼも私達の主食を生産する場であったと共に多様な生き物が生きる事ができる場だったんですが、農業の方法も変わって そういうところも生き物が住む、影の薄い場所になってきてしまい そういう変化が同時に起こってきてしまい 普通の生き物が絶滅危惧種になってきてしまいレッドリストにあげられるようになってしまった
 
秋の七草 ススキ以外は絶滅危惧種になってきてしまった  
田んぼの関係では めだか、蛙 トンボ (赤とんぼが急に少なくなった 農薬) 
近代的で効率が良くなったがちょっと考えてくれると少なくは成らなかったかも知れない、かつて普通に見られた動植物が著しく減少したり 絶滅を心配しなければ行けないような状況になっているんですが、ただ生物の多様性を保全したり取り戻そうとする運動が活発に成ってきた  
日本の里山 取り戻して行こうという取り組み 兵庫県 コウノトリ 農業生態系を代表するような鳥だったんですが 農業のやり方が変わり 又餌も無くなったんで巣をつくる松も無くなったり 絶滅してしまったんですが シベリア等一つの集団と見る事ができるので譲り受けて繁殖に成功してそれを野生復帰をした
 
餌を取ることができるように 農薬を控える 餌になる蛙を旨く生育するとかコウノトリのえさになる環境を整えて野生に戻ったコウノトリが自分で餌をとれるように出来る餌の場所を確保したり、繁殖も野生で繁殖をして今 40羽ぐらいのコウノトリが生活できるようになったんですが、そこから日本中にコウノトリが様子を見に行っている   
(住める場所を求めて) 110ヶ所ぐらいを観察しているが(33都道府県) 
それに答えようとしている地域も出てきている
コウノトリを受け入れるために農業も工夫したりしているところも出てきている
北海道 南部の街 生物多様性の戦略を考える   
黒松内町 ぶなの北限に近い町 昔からブナ林を大切にしてきた町
最近は生物多様性全体に目を向けるようになって ブナ林を大切にして、そこに生きる生物の場所を保証するだけではなくて しぶと川という良い環境を残している

川があるが 川にも目を向けて他の地域では無くしてしまった様な魚だとか貝とかをしっかり保全したり そういう生物多様性が豊かな町であると言う事を これから町の経済発展や地域作りにも役に立てようと頑張っている地域もあります  
町が計画して私達がお手伝いする様な形を取っている
宮城県大崎市 株栗沼があるが 真雁 越冬に日本にやってくる 東北地方が多い 殆どが株栗沼に何万羽が来る 狭い沼であるので込み合う
それを分散させようと田んぼに水を張って取り組む  
可なりうまくいって寝ぐらにするようになって、糞も落とすので肥料になる  
水を張っておくと田んぼの中で糸ミミズが活動して土がとろとろになりとろとろ層ができて それがあると雑草の種が潜ってしまって発芽できないとか 肥料を蒔くとその効果より一層あるとか 今他の地域にも広がりつつある  持ちつ持たれつの関係がある 
 
人間中心のやり方は短期的にはいいのかもしれないが長期的に考えるとそういうやり方は長続きはしないと言う事が判って来て 人間の為なんだけれども、短期的に見て人間中心になり過ぎないやり方として他の生物とか自然環境全体等に目を向けると言う重要性が世界全体で共有されるようになってきましたので、生物多様性条約と言うのもありますし、最近条約の取り組みの節目になるような重要な会議 生物多様性会議が2010年に開催された  
日本の提案も多数採択された  世界目標にも成っている

市民の参画、力が必要  先ほどの取り組みの例は世界に誇れるものだと思う
今の子供達は今までの世代とは違って自然に接する機会が非常に少なくなってきてしまっている是非 地域の自然 生き物に触れる機会を十分に保障する様な機会、教育が欲しいと思います
自然環境を大切にすることは非常に大事だと思う  新しい政策を決めて実践を始めたところもあるし大きな励ましにもなるし他の地域にも広がってほしい  
持続可能な地域はどういうものなのか 生物多様性の視点から見て行ってみたいと思います

2012年4月12日木曜日

大樋長佐衛門(陶芸家84歳)    ・陶芸の道に今昔無し

大樋長佐衛門(陶芸家84歳)     陶芸の道に今昔無し  
十代 大樋 長左衛門(おおひ ちょうざえもん、1927年(昭和2年)10月28日 - )は石川県出身の大樋焼の陶芸家
昭和2年生まれ 金沢で江戸時代から350年続くおおひ焼きの10代目です  
伝統ある陶芸家として楽焼等茶器を焼いている
日展にも出品して意欲的な活動をしてきました  
現在日展顧問 芸術院会員で 去年秋には文化勲章を受けました 
又金沢学院大学の副学長として教育にも携わっている
焼き物に携わって60年

「工芸は人々の為に」と震災後1カ月後に展覧会を開催  
自分の仕事を社会に活かす これしかないと思った
大樋焼き 前田綱紀 5代目が頑張って文化政策 工芸技術産業に切り替えた 
庶民とのコミュニケーションの場と言うのはお茶と能なんですね
加賀は加賀友禅だとか加賀象嵌だとか加賀が付く工芸が多い  財力があって趣味が広がった
楽焼 温度が低い 1000度前後で焼く  焼き物文化は中国朝鮮半島から来た   
それを利休が長次郎と一緒に発案したもの  手技のもの 
沸騰したものを入れるので楽茶碗は手で持てる  田土を使って練る  
レンコンを作っている田んぼの土を使った 
あめ色がほとんど80%程度が特徴  色に安心感がる  現代的な作品作りにも取り込む  
点てやすく、飲みやすいもの 年齢的に時代的にマッチしたのでそういう動きになった
父の頃は新しい、新鮮と言う事は無かった デザイン形はお粗末だった 
私達の時代になって学校の方針もデザインとかを教育に取り入れるようになった
1984年 代表的な作品 「そばだつ」 (花見縞飾り壺)つくる 60cm 
発想のヒントは ヨーロッパに塔 雲を突き破って高くそびえる塔を見た

世の中は丸 三角 角で出来ている と理論統一した人がいた(前衛的な画家たち) 
 バッハス?  造形は現代造営 伝統と新しいものが混在
彫金の方に入ってよかったと思う  
焼き物は昔風  工芸とは 意匠化する  
伝統とは 時代時代の鏡 色  時代の推移によって替わる  
手でつくるものは時代永劫続く  
黒 昔は黒 今は青い黒 茶色い黒とか見るようになってきている
物を作ったりする上で迷いが無かったら今ではない 創意創作 人のつくらないものをつくる 
新しい素材の導入とか 今は新しい素材を導入する必要があると思う

昭和初期から戦後にかけてどんどん変わっていった 
変わらなければ如何という意識を持たないといけないと思う 
一輪さし  鶴首 これは自分が作った鶴首だと,よっぽど考えて作らないといけない 
そうでないと作家は駄目になる  
茶碗はいろいろある そう解釈しないと,今後異質なもので作っていきたい 
焼き物は別の面白さがある 
作家で好きなのは武者小路実篤  小説家でありながら字の良さ 絵の良さ  
何でかと言うと、言うのはちょっと難しいけれども 絵描きのプロよりも好きなことは事実です  
情緒性がある  日本には四季がある 
繰り返しがあるのは民族の歴史,春夏秋冬は芸術とか俳句、和歌とか 情緒性がある     
元気で長生きしたい 仕事がしたい 作りたい物がある 

光悦は 芸術家   
「陶道無今昔」  人間の歩みとして繋がってきている 
昔はなにが立派かと言う事も評価しなくてはいけない 
自分の我によってそれを見定めると言う事が無かったら仕事ができない   
作ると言う事は自分に入れた技術を全部蹴飛ばしてどうしたらいいかと作るしかない  
学生には本を読むのも大変なので図録を見て確かめて旅をして本物を見るように言っている  何としても進むしかない

2012年4月11日水曜日

樋口広芳(野鳥研究家)       ・人慣れ雀は何故登場したのか

樋口広芳(野鳥研究家)         人慣れ雀は何故登場したのか  
東京・上野 不忍池近くで主に餌をあげると手のひらに乗ってくる   
横浜が最初に見られた1980年代~   数年前から東京でも見られる様に成る
その頃からほぼ一斉に全国で始まる   
退職された方々がベンチで鳥に餌をやる光景がみられる 団塊の世代が退職
雀は鳥の中でも人には懐かない代表的な鳥と言われていた 
雀は米を食べる害鳥と言われていた 人に追い払われる存在

1970年代からヨーロッパでは雀は人に対して警戒心が無く手に乗ったりする光景が見られた
大都会が中心で限定的ではある   社会現象の一環(熟年層が餌をやる)
人がいなくなると雀も居なくなる(長野の過疎地 三宅島の噴火後) 
人の生活に密着している      雀は人の何に頼っていてくっ付いているのか判らない
雀は雑食系の鳥  人と共生する必要がないのだが  建物の隙間に巣をつくることが多い (安全)  他の鳥に比べ複雑な形状の巣をつくる(ドーム型)
雀は機敏性がある  
道路にきて餌を取り自転車が着たりするとさっと逃げる光景とか ,地上では両足で飛び跳ねて(ホッピング、英: hopping)素早く移動する
飛翔は直線的であるが、急に飛ぶ方向を変えたりすることもできる  
きちんとした縄張りはない  ヨーロッパは家雀    雀は減少傾向に有る 
家の構造が変わって来て巣を作りにくい構造になってきている

ヨーロッパは急に減少してきている   雀は典型的な留鳥 子供は他の地域に分散する 
渡り鳥は食べ物が特殊なものを食べるので食べ物を求めて渡る  
野生の生き物との共生を如何してゆくのか  
海猫 東北地方から北海道の岩場に主に棲息する  
2000年に入って来てから6月、7月に不忍池に来るようになった
ビルの屋上に巣があると予想した  
使っていなかったビルの屋上に巣があった(人がいないビル)  
安全で近くにえさ場があれば巣をつくる条件とはなる
動物園に餌を求めて海猫がいる(そう多くはない数だが)  20から30の巣がある 

100羽はいる 近くのえさ場を求めてどこかに行っているのではないかと思っている
最初のきっかけは 動物園で飼育されていた海猫(傷病鳥)が元気に成って放した  
それがいついて繁殖したと言う記録はある 
今は可なり纏まった数で繁殖している  
上野のビルの屋上で繁殖するのは世界でも初めて   
他の鳥の巣を襲って卵を取ってしまったりすることが懸念される

2012年4月10日火曜日

加賀乙彦(作家82歳)        ・希望ある未来を望み見るために 2

加賀乙彦(作家82歳) 希望ある未来を望み見るために
「宣告」 正田昭をモデルにして 大阪生まれだが東京生まれにして登場する 昭和4年4月19日  
私は同年同月22日生まれ 3日しか違わない
彼が処刑されていなくなってから 彼が書いた物が一杯有ったものだからそれを通じて 
彼を生きた人間として小説に出来ないかなあと思った
1979年1月に完成した 正田昭のことは自分なりに描き上げたと思ったので 筆一本で行こうと
大學を止めた
送ってきた手紙、Nさんへの手紙、日記 全部違う  宣告で言いたかったこと 何人かの死刑囚を
モデルに書いたが、見た事が無いような人物は絶対に書かない
実際に知り合って相手を知っていないとモデルに使えない
  
私の文学的想像力の限界かもしれないけど 途轍もない人間を考え出して何かをすると云うより
リアリズム文学に自分の資質があると「宣告」を書いているうちに見出しました  
その後の小説も同じスタイルになる
宗教的な悟りを開いた様な死刑囚も居る   人間と言うのは非常に人によって自分の思っている
ことが違う 
心理的なものを書くよりはもっと霊的なものを書きたいという 中々難しいが それを私は魂と
呼んでいるのですが、 フロイト、ユング、ジャック・ラカン等読んで彼らの影響も受けた
彼らも天才的な人達なので 新しい無意識の世界を開いたと言えるんだけれど それはそれとして
もっと奥に 何か人間の無意識が判ってしまうと言う理論を展開
するんですが、それに合致しない人間が一杯いるんだと言う事を私は気が付いてきたんですよ

大学でユングやフロイトとについて学生たちに講義したし自分でも読んできたがこういう風に人間の
有る面を分析して分析が正しい科学だと言いきってしまうのが
学問なんだけど、学問と言うのはもっと 奥深いもんじゃないか 
人間と言うのはルネッサンス時代、神の秘密を解くために 先ず解剖をしてみるだとか
ニュートンが万有引力を発見するだとか これは皆神様が人間に隠していたと思われるものを
発見して それなりに人間の知識をどんどん増やしていったわけですね
宗教と言うものがあってその宗教的な心で持って神の秘密を解いてゆくのが科学 科学書を
読んでみると皆 例えばコペルニクスが地動説を唱えた時でも
それまで地球と言うのはズーと西に行くと不思議な国がありそれで終わりだとか言っていたのが
、実は丸だったとか 神様が隠していた秘密だったわけですが
それが解けたと 言う風に段々に人間の知識が増すに従って神の秘密がどんどん解かれて
行くんですけれども しかし逆に自分の経験から言えるんだけど
そういう科学的な研究と言うのは何時も限界があってここまでは判るけどここから先は真っ暗で
なにも判らないと言う

  どこまで判るかと言うのが科学なんですよ
東日本大震災の時に 私は思った  専門家が津波や地震の研究をやり 原発をつくったり 
知識の富んだ方々でもやっぱり知らないことがある
神はそれを越えた何かを持って人間に迫ってくる  
そういうことから私自身は段々に宗教的なものに関心を持って 上智大学で多くの神父に会ったり
昭のこともあったし 宣告を書き終えた時に 何とかこの宗教の内側に入りたい 
キリストでいえば洗礼を受けたいと言う気持ちになりました
洗礼を受ける事によってもうちょっと神様の魂の奥底に有る物を教えていただけるのではないかと
言う希望を持ちました

58歳の年に或る神父に苦しくなってきてしまったと告げる 釈迦も偉い、キリストも偉い アラーも大したものだ 奥深い宗教 コーランもキリストを褒めている
あらゆる宗教はまったく違う様に考えられているけれども お互いに非常に近いところに有るので
 峰に登るのにどこから登ってもいいのではないか
私の人生経験が宗教として捉えるように感じた 自分の疑問を全部神父に聞いて行った(4日間) 
復活の問題 イエスは人間であって神であって 質問する
知識によってイエス、釈迦はどうだとかをやるんじゃなくて イエスを認めてしまう   
説教の中にイエスは間違ったことはいっていない これはどういうことだろうと
4日間の中である講演をしていた時に不思議な体験をした スーッと身体が軽くなって 
明るくなって幸せが漂うような不思議な体験が起きた

貴方がた二人(夫婦)は洗礼を受けていいですと神父が言ってくれた
ヨハネ福音書の中に 「風と言うのはいずこからいずこに行くのか判らない しかし 確実に何かを
運んでくる」 霊の世界も又同じだ
正田昭が持っていた聖書にもここにだけ赤い線が引かれていた
霊の世界の出来事はいつどのように行われるか判らない  魂の奥底に隠れている   
心理学が数にできるもの(これはいくつ これはいくつと言うように)
現象だけでは論文にならない  私自身 拘禁ノイローゼがいかに違うか 数で表現出来た 
数で表現できる様なことは心理学の学問でも出来る事
その出来ると言う事はそんなに深い事じゃない 間違いだらけかもしれない 

魂と言う世界は心理学で我々が知っている人間の精神の動きではない もっと真っ暗な中に有るんですよ
空を見て沢山の星が有ると言うけれど 星の占領している部分と暗黒の部分を比較してみたら
暗黒の部分の方が絶対おおきい
判らないものの方が大きい 同じことを人間の精神と魂についても言える  
結局私の判ったことは妻の死と言うものは私には全然判らなかった(私は医者ですが)
妻に対してはそれなりに注意はしていたが、そういうものとは全然違う私自身の力を越えたあるもの
が妻に働いて亡くなったと思うようになった
自分の死も同じようにして全く意外なところからやってくるだろうと思うんです
著書「科学と宗教と死」 に 大震災後に宗教が重要な役割をして行くのではないだろうかと
書いてある

今の日本での宗教の役割は?→科学を越えた或る世界は宗教の中に有ると思っている  
宗教については日本は本当に恵まれていると思うのですが
沢山の偉いお坊さんがいて 素晴らしい本をいくつも書いている  
道元はいくら読んでも判らないが親鸞は判りやすい  人によって違うが 彼らの世界は
科学の世界を越えるなにか 深い思索を持っていると言う事は事実で 今度の場合の人間が
津波や地震に会うことは予見できなかったというのは当然のことで
それを判るためには神の秘密をもう少し努力して探ってゆく  
科学を研究することと宗教をやることは同じレベルで考えられる
宗教を知ることによってもっとわれわれの世界は平和に成るしたおやかになるし苦しみから逃れる
事ができるし 私が経験した喜びの不思議な体験をしたのを
被災した方々も持てるのではないかと あらゆる宗教の人々が一緒になって今の日本の再建或は
被災者の人達の悩みを解く事に協力すればもっと日本は
素晴らしい国になるんじゃないかと思います
  
 今の日本に必要なのは勿論科学の研究、経済の復興 そういうこともあるでしょうけれども 
もう少し深く広く考えると
昔の人が神の秘密を解こうとしていたような謙虚な科学者が出てきてほしい  
その科学者の力によって 災害を何とかよける事が出来るかもしれない
死者に対して祈ることによって 悲しみが無くなるし 少しでも苦しみを無くすことができる
(自分自身の体験から)
宗教、宗教といって一生懸命に本を読んでいるんではなくてもうちょっと祈ると言うだけでも
人間の心は随分喜びに充ちてまいります
日曜にお祈りするだけで大変な喜びですし、満ち足りた気持ちになってくるんですよ 
希望ある未来に向けて→祈りだと思います  神が(自然が)向こうから人間に働きかけてくる  
何かの力で科学者が神の秘密を垣間見せてくれる
自然が我々に語りかけてくる それを良く聞いて人間は希望を持つことが出来る 
  
人間の持つ希望と言うものが神から来たのであれば大きな希望
今にそういう時代が日本に来るのでは   宗教について若い人達がなんも知らないでいる  
宗教をやれば何か超自然的な力を自分が持つとか一時オカルトが
非常にはやりました  あれは宗教ではない  宗教は他人が幸福に成るためにある
 自分ではない 自分自身に何かを与えたまえではなくて あの人達を助けたまえ
他人で苦しんでいる人の為に祈るのが本当の宗教だと私は信じています  
信ずると言う言葉が一番深い意味を持っている
信じると言う事は1%の疑いも無く信じる  宗教による差はない   
親鸞の「教行信証」もキリストと同じような事を言っている
人間の力だでけでなんとか乗り切ろうとしていますけれども 大震災を乗り越えるためには
自然の力への謙虚な気持ちが必要 

謙虚な人達の科学が最も進んだ科学なんですよ   
宗教と科学を全く反対方向のものとして見るのではなくて、同じ自然の中で自然の不思議を解くと
言う気持ち
それは神の不思議を 秘密を、解くと言う気持ちと一致する様に思うんですが  
そういうものが今の日本では一番必要ですし そして人々の平和と安寧、喜びを
見出して 今の人達は頑張ろうと言いながらどっかで無理をして一生懸命にやろうと言う気持ちも
あってもう少し 気持ちをゆっくりと豊かにして
自然の愛というものがある 日本には四季があり美しい森、海がある 
こういう国に生まれた事を喜んで 喜びの上に復興があるんだと思います