2019年5月31日金曜日

横山秀夫(作家)             ・ラジオ深夜便のつどいin前橋

横山秀夫(作家)             ・ラジオ深夜便のつどいin前橋
横山さんの代表作の一つ「64」が海外で翻訳されて、広く親しまれています。
今年ドイツミステリー小説海外部門で第1位に選ばれるなど欧米各地で高い評価を受けています。
そして横山さんは7年振りの新刊「ノースライト」が発表され話題になっています。
東京都出身、62歳、大学卒業後1979年上毛新聞社に入社。
以後12年間記者として勤務、34歳の時に「ルパンの消息」が第9回サントリーミステリー大賞佳作を受賞したことを契機に退社、作家活動に入る。
1998年に「陰の季節」で第5回松本清張賞を受賞し、その後も次々に話題作を発表しました。
講演会、「物語でしかかけない真実、群馬の記者時代が出発点だった」と題して伺っています。

「ノースライト」では、主人公は家の設計をする1級建築士、子ども時代はダムの工事現場で働く両親に連れられてあちこち点々と渡りをしていたという設定です。
ノースライトとは主人公の青瀬が自信を持って作り上げた家の特徴を表しています。
北側から家の中に注ぐ柔らかい光のことです。
その家族が家の完成後に入居していない。
ブルーノ・タウトの作品に良く似た椅子だけが置かれていた、と言うのがミステリーになっている。
ブルーノ・タウトは群馬県にゆかりのある有名なドイツの建築家。

「旅」と言う雑誌に連載を始めたのが、10何年も前でした。
高崎市のマンションに一人で借りていて 2,3年部屋にこもって書いていました。
心筋梗塞で入院したが戻っても、同様な状況で、最期まで一生ここから出られないのではないかと言う様な思いでした。
人間がそこに住むと言う事はどういう事だろう、みたいなことを深刻に考えていました。
定住しない生き方などを考えて建築家の方々の話を聞いて「ノースライト」と言う作品になりました。
記者時代に群馬県はくまなく回りましたし、愛着が深くて、記者をやめたときには東京に帰るという選択肢もありましたが、群馬県に住むことになりました。
書くことは特技だと子ども時代から思っていまして、上毛新聞に入れてもらいました。
最初は警察担当の記者でしたが、聞いた途端に飛び出してしまうことから、あだ名が「かっ跳びの横山」と言われたようです。
横山は事件記者になるために生まれてきた様な男だと、言われる様な記者であったことは確かですね。

段々と齟齬が生じてきて、34歳の時に辞めました。
自分自身に正義感、使命感と言うようなことが足りないと言う事に気付いたことが一つ。
犯罪者を紙面で断罪したりすることが、はたして資格が自分にあるのかと言うのが疑問の一つでした。
もう一つは新聞、メディアは人の心を世の中に伝えるのが苦手なメディアなんだと言う事を痛感したと言うのが二つ目の理由でした。
真実、事実は点のような研ぎ済まされたものでないといけないと言うような感覚に陥るが実際には真実、事実と言うものは面積があるものと言うふうに私は考えます。
小説では人間の心理を追うと言う意味では、小説の主人公は羨ましいなあと思ったりします。
記者と違って作家になってからは何かを書く為に誰かに取材に行くと言うことはめったにしない。

事実と想像をふくらまして書いた事の段差をいかに無くして一つのものとして見せるかと言うのが小説の或る意味技術であると思います。
割れる様な食器を買ってくれなかったとう事を書くだけならば、ノンフィクションで書けばいいと言う事で、人の気持ちが絡んだと言うことになればいくら事実を積み重ねても真実にはならないと言うのが、私の記者をやった最終結論です。
映像は人間を見せているが、人間は悲しいかな演技する動物です。
人間は相手の人の期待に応えようとする動物で、なにを自分に期待しているかはひしひしと感じるものなので、カメラも取材陣も無いたった一人だったらどういう状況で居るかという事は考えます。
小説の中には13歳の少女が出るが、雑談で聞いたりするが、最終的には自分以外の人は想像の産物だと思うところから始めます。
父親の側から見た13歳のひな子と言うのが一つの造形としてああいう形で現れいると言うことです。

追い詰められた時にひょっと頭に周りに現れる、あれあれとか、そうなると前と矛盾してしまうんじゃないのと本当に言うんです。
自分の意識と繋がっているんだと思います。
更に追い詰められるとその「ぴよぴよ」がいっぱい出てくるわけです。
ぴよぴよ云うんで「ぴよぴよ」と名付けたんですが。
意識下と意識の表層が繋がっているんだと思います。
「ノースライト」の時には最期の一回だけ出てきました。
自分の頭の中にある事だけで全てを担うと言うそういうやり方なので、逆に広く様々な情報は自分の耳に目には入れる様にしていて、後は常識を疑うと言う事が一番重要ですかね。
自分以外の人間が自分とは違う人間だと言う事を、発見するまでの過程を書くのがミステリーだと思っているので、自分の物差しで人を計ろうとしているのですが、実際には違うんだと言う事を気付くという過程がミステリーだと言うふうに自分では思っています。

エネルギーと言う事であるならば、おそらく負のエネルギーの方が人間の心の中のエネルギーとしては強いと思う、悔しさ、恨みとか負のエネルギーは正のエネルギーよりも圧倒的に強いと思う。
負のエネルギーですらエネルギーなんだから正のエネルギーへの転嫁装置を作ることが、
思っていたことの一つですね。
負のエネルギーを負のエネルギーとして放出したら、結局自分に返ってくるのはその何倍もの負のエネルギーだと言うことですね
正のエネルギーに変えて行くのは自己点検ですね。
自分がどういう状況にあるかと言う事を、知っているか知らないかと言う事だと思います。
組織の中にいると染まっていくことがあるかもしれないが、おかしいなとか、辛いなと思った時には自己点検することだと思います。
気が付かないまま負のエネルギーを膨らましてゆくと負の雪だるま人間になってしまう、それこそ恐ろしい。
「64」は組織と個人の小説で、個人が組織体を認めたうえでどう生きて行くかと言うのが一つの大きなテーマで、欧米人の個人主義が進んでいる、欧米の人達がはたして主人公の気持ちが判るか懐疑的だったが、自分たちにもそう言った事が底流にあると言っていました。
普遍性と言うことに対して、深堀して物語を作っていきたいと思っています。
(記載不足で上手く纏められなくて、理解しにくい所が多々あると思いますが、ご了承ください。)




2019年5月30日木曜日

重森千靑(作庭家)            ・三代目、我が道を行く

重森千靑(作庭家)            ・三代目、我が道を行く
61歳、昭和を代表する著名な作庭家三玲(みれい)さんを祖父に、同じ作庭家である完途(かんと)さんを父に持ちます。
千靑(ちさを)さんは大学を卒業後、作庭家としての道を歩みます。
現在は東京と京都を拠点に日本庭園の設計と庭園師の研究をされながら庭園を身近に感じ、理解を深めてもらおうとホームページで、日本庭園の情報を発信したり講演や講師の活動を広く行っています。
重森さんは自分は3代目と言われるが、自分のすべきことを見付けて自分の道を歩んでいるとおっしゃいます。

重森の家は長男が継いでゆくと言うか、重要視されていました。
私は次男なのでそういう事はやらなくてもいいんだろうとずーっと思っていました。
オートバイの草レースにはまり込んで、古いバイクで出られるレースがあって、古いバイクを改造してサーキット用に仕上げて行ったりしていました。
プロと一緒に走った時に絶対太刀打ちできないと思いました。
16歳の時にオートバイで旅をすることに引きずり込まれました。
オートバイをいじっているとパーツ代にお金がかかるので、アルバイトをまた次に何かしようと思っていました。
つくばい」と言う本、父がそれを出すと言う事で実測をしていましたが、人数が足りないから来ないかと言われて、一緒に行きました。
(つくばい=手を清めるために置かれた背の低い手水鉢に役石をおいて趣を加えたもの。)
その時の場所が凄いところばかりで非公開で、京都のお茶の藪之内流と言う流派の路地のつくばいの実測、表千家、裏千家、武者小路千家の3千家のうちの武者小路千家へ丸々一日行って実測したり、桂離宮にあるつくばいが沢山ありますが、それを実測したりだとかやりました。
今でもやりたいと思う凄くいい仕事でした。
陽の射し方が刻々変わって言って、庭園っていいものだなと思いました。

なんとなく引きずりこまれて行って、気が付いたらどっぷりはまっていました。
長男は大学の時にやらないと言っていました。
私は大学は文学部でした。
父は「間違っても造園科などに行くなよ」と言われました。
重森の家の庭の考え方はちょっと違うからと言われました。
28歳の時に東京の父の家の庭木が繁茂し過ぎていたので植木屋を呼んだが、その人は重森にかつて居た人でした。
息子さんが来てくれればと言う事で5年位一緒にやらせていただきました。
実際の物を作る立場から見ると全然見方が違ってきました。
理論的なものだけだと細かいものが見られないが、気が付く事が出来ました。
親方からは「見えない所ほど丁寧にやれ」と言われました。

その後1年間父のカバン持ち的な事をやりましたが、1年経たないうちに父が亡くなってしまいました。
突き放されてしまったような状態で、でもそれでいまの自分があるのかなあと思います。
祖父、父に対するプレッシャーは凄くありました。
どうやって行くかはおいおい考えて行くしかないと思いました。
一般の人に日本庭園ってこんなものですよと、判りやすく伝えられる仕事も一つの仕事なんではないかと思いました。
1995年あたりからインターネットがぽつぽつ始まり、世界の情報が得られることが凄いと感じました。
自分から発信すると言う事が凄いと思って、日本庭園の情報発信をしていこうと思いました。
重森の3人目のやり方が少し確立できたんかなと思いました。

祖父が200庭以上、父が100庭以上やって、私は今50庭位です。
北は秋田県、西は姫路です。
作品も最初力が入り過ぎていて、段々肩の力が抜けて行っていると言う感じです。
京都の松尾大社の庭園は最初祖父がつくって、池の庭の部分は祖父が倒れて未完成部分で父に依頼されたが、祖父の設計部分をやることに対しては父がやらなければいけないと言う事に対して厭だったようです。(比較されて見られる)
父は出来るだけ自分の考え方を捨てて作り上げました。
そのかたわらを私が担当することになりましたが、長老さん達から方ことごとく言われたのは「君の石の組み方は、三玲さんだな」と言われました。
京都の真正極楽寺(通称真如堂)に10年前ぐらいに庭園を作ったのですが、そこにある材料を生かして作りたいと思って、作り上げましたが、綺麗な庭園にまとまったねと言われました。(「随縁の庭」)

「肩の力が抜けてきている」という意味合いは、石の組み方、植栽の扱い方、地割りといいますが、庭全体を直線と曲線を融合させながら作って行く、意味があって、自分の中で経てきた人生観の中で今答えを持って、それを表現できるようになったと言う事が大きかったと思います。
絵画,彫刻などは自分が作りたいと思う作品を作るが、依頼者があり自分のお金で作るわけではないので、庭園の場合はそれができないところがある。
石を中心にした庭作りで維持管理に手間がかからないようにと言うのが重森の考え方でした。
植物は伸びるし、草取りはしなければいけないし、水やりを必ずしなければいけないし、庭園は愛情を持って接していかないとダメになってしまうので、できるだけ維持管理が最小限でプロの手を余り入れなくても、綺麗な状態を保つことができることが重森の特徴だと思います。

松が主流で、広葉樹では伸びるのが早くて、年一回は剪定が必要なので時と場所に寄ります。
祖父は四国で取れる緑泥片岩(緑色片岩)は美しいと言う事で昭和15年に作り始めた庭園から青石一辺倒になり、父も同様でした。
違った指向でいきたいと思って、地元の石を中心にしようと思いました。
京都ではチャートと言う岩石が取れますので、京都で庭作りではチャートを中心とした物にしたりしています。
竜安寺はチャートと青石が半分ずつ組まれています。
石は基本的には加工しないで行い、岩組みといいます。
山岳風景、鶴や亀を表したり、自然の姿のままで身立てて作り上げて行く、これが庭作りをやっていて一番面白いと思います。
石と対話をする、そういうことに繋がってきます、石の思いを聞き取って庭作りをして行くとその庭は綺麗になる訳です。
作庭記」にはそう言った事が書かれています。
歳を取って来ると、「石が呼んでくれる」と言う事がなんとなくあります。
そういう時には対話が出来たなあと、本当に嬉しいですね。
次のステップとしては海外でも日本庭園を深く理解してもらうように積極的に活動していきたいと思います。
庭園を通して文化交流ができればいいと思います。










2019年5月29日水曜日

サヘル・ローズ(タレント)        ・【心に花を咲かせて】イランはバラの国だから

サヘル・ローズ(タレント)     ・【心に花を咲かせて】イランはバラの国だから
TV、舞台で活躍しているサヘルさんはイラン人です。
私にとってイランは遠い国で、たまにニュースで知る映像には花や緑はなかったように記憶しているんですが、サヘルさんいわく、イランは薔薇の国だそうです。
サヘル・ローズと云う名前も薔薇ですよね。
この名前は養母であるフローラ・ジャスミンさんがつけてくれたもので、フローラさんが薔薇が大好きなことから名付けられたと言う事です。
実はサヘル・ローズさんは1980年代のイラン、イラク戦争の時代に生れて、孤児になり児童養護施設で暮らしていました。
学生時代からボランティア活動に熱心だったフローラ・ジャスミンさんがサヘルさんがいる児童養護施設を訪ねてサヘルさんがフローラさんになついて、「ママになって」と願ったことからフローラさんはサヘルさんを養女としたのです。
当時フローラさんは独身でした。
その後知人を頼ってサヘルさんが8歳の時に、二人は来日、その後の暮らしは苦労の連続で涙なしには聞けないものでした。
今はサヘルさんがTV、ラジオ、舞台で活躍するようになって、お母さんと二人沢山の薔薇を育てて幸せに暮らしています。
サヘルさんにイランと言う国の事、これまでの人生と薔薇の話を伺いました。

イランと言うと砂漠地帯で砂漠というイメージがあると思いますが、日本と同じように四季があります。
四季折々の花があり、季節をちゃんとお花のカレンダーで楽しむ国民性で薔薇は国花であって、ダマスカスがフランスに送られて香水になったりします。
元はほとんどイランの薔薇です。
早朝の薔薇ツアーがあり、薔薇は早朝に良い香りをするので早朝に紡いで、機械で絞りだして薔薇水を作って、それをお土産に帰ってもらいます。
至るところに薔薇が植えてあって国中が薔薇の香りがします。
バラジャムもあり、デザートの中にも必ず薔薇が添えられています。
毎晩花屋さんにいって、お父さんたちが家に帰るまえにお菓子と花束を買って帰るんです。
家族に花をプレゼントすることによって、花のようにいつも豊かで温かい気持ちでいようと、花を愛でる文化なんです。

私はフローラさんと出会い、養子縁組が成立して8歳で日本に来ました。
「おしん」を見て育ってきたので、日本に来たら全然違って衝撃でした。
公園で生活しなければいけない時期もあり、食べ物も無かったり、色んな過酷な環境で生活してきましたが、いつも私の手を握ってくれていたお母さんフローラの存在が大きかったです。
どうして余り苦しいと感じなかったかと言うと、育ててくれたお母さんが本当に苦しい事があっても、彼女が全部受け止めてくれて、私にはそれを感じさせないようにしました。
お母さんは身を削って、働いたり、食べ物を与えてくれたり、冬場でも穴の空いた着物を着て、私には綺麗な洋服を買ってくれて、私が頑張るのは貴方が普通の子として生きて行ってほしいし、生活させたいからとすべてを犠牲にして私を育てて下さった人です。
「自分は血は繋がってないけれど、サエルを世界一愛してる自信がある」と言ってくれて、その言葉は凄くうれしかったです。
いつも一人ぼっちで、血のつながりって良いなあと思っていましたが、大人になるにつれて血のつながりだけがすべてではない、心で繋がる事がすごく大事だと思いました。
心で繋がり合っているので不思議と顔、声、喋り方がお母さんに似てきたなと思います。

或る時、お母さんから言われたのは「サヘル、お願いがある。 次生まれ変わった時にはお母さんのお腹の中から出て来てくれる。 お願い」と言われました。
本当に全てを愛してくれているんだなあと思い、どんな親子よりも彼女との親子関係を誇りに思っています。
お母さんを心配させたくないと思って、本当に苦しい時に或る時からお母さんの前で優等生の自分を演じるようになっていました。
お母さんは強い人だと思っていましたが、或る時に家でお母さんが一人で泣いている姿を見た時に、母親も私の為を思って優等生のお母さんを演じていて、大人だから泣いてはいけないと思ってしまうけれど、そんなことは本当はない、どこかで心の中にもっているチャイルドは誰しも持っている物で、苦しい時に苦しいと言える環境って、お互いに作る事ってすごく大切で、私はそれを気付いてあげられなかった。
苦しい事は苦しいと言っていいんだと言う事を母に云えた時に、お母さんも本当の姿を見せてくれて、やっとお互い理解しあえました、それが中学3年生でした。
それまでは偉大なお母さんだと言う事があり、プレッシャーを感じながら生きてきました。

私も頑張り過ぎて心が崩壊した時がありました。
頑張ると言う言葉はあまり好きではなくて、いい加減に生きることも大切です。
加減を見て生きると言う事も、人生の中で学んでいくことも大切かなと思います。
「あなたとわたし」という詩集を出しました。
私も居るけれど貴方と言うもう一人の自分がある、どちらも認めてほしいと思っているんです。
愛されたいと思っている時期があって、どこかで不安を感じながら生きていた幼少期の時に、全体を通して出さなかった自分の心の弱さをいつも文章で溜めていました。
国民性でイランの人はみんな詩人です。
言葉に対して敏感な国民性です、詩を愛でる国です。
学校の授業でも詩を書きます。
去年一冊の詩集にする機会を得ました。
私が持っている闇とか孤独は決して汚いものではない、人の孤独や闇は誰しも抱えているもの、それを私は言葉にして提示することによって、それぞれが思っている孤独や闇は決してマイナスではなくて、仲間がいるんだと言う事を思ってもらいたいと思ってこの本を書きました。
最初のページが「私を愛してほしい」、最期のページが「あなた自身を愛してほしい」表表紙と裏表紙になっています。
自分を愛した時にやっと人が愛せるんですよね
弱さは長所に変えられる、強くなる必要はない。
弱い自分自身もたいせつに包んでほしいとこの一冊を書きました。

お母さんが居てやっと私が存在する。
苦しかった人生だったのかもしれないけれども、良い経験をしたなと思います。
幼少期、養護施設で生活したこと、家が無かった時代、ご飯が無かった事、いじめられたことも全部今の私を作ってくれた土台、血となり肉となっているので、いい人生だったと振り返られる様な大人になったので良かったです。
悩みながら出会った方々に救われました。
一人では決して人間一人では生きていなくて、誰かが必ずどこかで背中を押してくれたり支えてくれたりする人がいるから、人は生きられるものだと思っています。
お母さんもそうですが、多くの日本の方々に救われて育ててもらった人生なんです。
公園で生活している時にも家にかくまってくれたのも給食のおばさんですし、ご飯が無い時にもスーパーで働いている人がご飯をくれたり、全てが人と人がつなげてくれたご縁によって生かされてきて、ペルシャ絨毯に例えると縦の糸と横の糸が重なって人生が織り込まれていくことで私と言う絨毯が完成されてゆく、色んな糸を貰って自分の人生を作っているんだなあと思います。

今は自慢の娘だと言ってくれるのが何よりうれしいです。
今度は私が仕事をするようになり、これからはお母さんには好きなことをやってもらいたいと思います。
日本語、社交ダンスを習いたいと言う事で通っていて、ガーデニングもしたいという事でお母さんのやりたいことをさせてあげたりとそれをエネルギーにしています。
お母さんは「私がいなくてもこのお庭には私の魂があるから、ここでお母さんの事を思い出してほしい、この庭はそのためのお庭」と言われました。
今私は110種類の薔薇を育てています。
お母さんは「そこにもう一個のお母さんの夢を叶えて欲しい、サヘル・ローズという薔薇をつくって、それがお母さんの最期の願い」と言われ、叶えてあげたいと思います。
お母さんと共に施設の子どもたちに対しても支援をしているので、仕事を頑張っていきたいと思います。
4万5000人以上の子どもたちが社会的養護化で自分の家では生活ができないので施設、里親、乳児院に受け入れられているその数で、心のどこかに傷を負ったり、一人ぼっちになったりしていて、そのこたちと対話をしたり旅行に連れて行ったりすることをお母さんと二人でやっています。

誰か支援してくれる大人がいれば人間って必ず変われる、それをお母さんから学んだので、今度は私が子どもたちと触れ合って行く中で、必ず人間は這い上がってこれるんだと、やれることが自分にはあるんだと自信を持ってもらいたいんです。
そういうローズモデルを世界中に作りたいんです。
その子どもたちに私の生い立ち、人生の話をします。
純粋な外国人で日本の芸能界でやっていけたのはルビーさんと私ぐらい、でとっても苦労をしました。
どこかで負けたくなと言う思いがありました。
がんばってきた結果自信があると言う事を自分の経験があるからこそ胸を張って言えるんです。
周りができないと言う周りの言葉は信じなくていい、貴方自身がやれるよ思って信じれば変われる、自分自身を信じることがまず大事、自分で道を切り開くことは出来るんだと言う事を子どもたちに経験を通して伝えたい。

強いんですねと言われるが、弱いんです。
昔だったら隅っこで膝を抱えている子でしたが、大人になってこうして泣けている自分って良い事なんだなと思います、泣きたい時に泣く事ってすごく大切です。
幸せを置き去りにしないためにも、自分の弱さ、辛さと向き合う事、毎日感謝をすることは凄く大事です。
最近感謝ノートを作りました、毎日その日その人の事を思い浮かべて誰にどういう感謝をしたかと言う事を5つ書くようにしています。
苦しい事の方が記憶に残る、幸せはどこかで凄い勢いで走って行く。
しあわせの背中を見届けてあげた時に、ちゃんと幸せも走ってくれているからこそ、苦しいと思ってる辛い子の手も握ってあげられたら、この子の辛いと思っている背中を押してあげたら、今度前にもって行った時に辛さが幸せにくるタイミングが来ると思っています。

「私は貴方の視線から生れた」、という言葉を大事にしています。
お互いに目を合わせてその人の人の瞳に映っている自分を確かめてやっと自分が存在することを感じますので、なうべくその人をちゃんと見たいし、名前を確かめたいし、その人が存在している事を確かめてそれを声にだして伝えたい。
私は言霊の力を信じているので、なるべく出会った人の名前を確認したいと思います。
母はずーっと私を育てるために必死で働いたので結構一人ぼっちなんです。
ガーデニングをするようになって声をかけてくれる人がいろいろ出来て、花が人とのコミュニケーションのツールになったんです。
お花が欲しいリスト表が出来ていて今順番待ちになっています。
お庭が集う場所になりました。
こういうお母さんに育ててもらってこういう親子がいたと言う事を歴史に残したいと思います。
もっと自分が大きな人間になって、児童養護施設、バングラディッシュのこと、社会の現状を伝えたい。
私の人生は人の為になにかをしたい人生で在りたい、偽善者と言われてもいい、人を幸せにしたい、人の幸せを見てやっと自分が幸せになれるので。









































2019年5月28日火曜日

森田光江(ガーデンオーナー)       ・花も笑顔も咲かせます

森田光江(ガーデンオーナー)       ・花も笑顔も咲かせます
水辺の散歩道が自慢の東京都小平市、無料で公開されている個人の喫茶店のオープンガーデンが30か所近くあります。
その一人森田オープンガーデンは3000平方メートルを越える広大な庭に様々な花が咲き乱れています。
オーナーの森田光江さん(73歳)は土とかが趣味の御主人と花を育てて来ました。
12年前に主人をがんで亡くされ、悲しみで何も手が付かなくなっていました。
そんな森田さんを励まし立ち直らせたのが、大切に育ててきた庭の花々でした。
それからは花に愛情を注ぎ、庭を花いっぱいにしようと一年中庭に出て、草花と一緒に時間を過ごしています。
自慢のカモミールの花が見ごろを迎えた今月初め、森田さんのオープンガーデンを訪ねてお聞きしました。

この時期は最高の季節だと思っています。
約1000坪弱あります。
主人が12年前に亡くなりましたが、その頃は野菜が中心で花がちょっと植えていましたが、主人が亡くなってからは花が中心で野菜がちょっぴりとなっています。
12年前5月11日に亡くなりました。
末期がんで手の着けようがないと言われてしまいました。
長く生きても1年と言われました。
処置は出来ず水を飲むぐらいと言われて家に帰ってきましたが、その時の夫の笑顔が忘れられませんでした。
家に帰ってから1週間後に亡くなりました。
花がなかったら今の私は無いです。
沢山のお花友達もできました、本当に今は幸せです。

カモミールは野菊のような白い可憐な花で至るところに咲いていますが、モッコウバラがこれから咲いて白い滝のようになります。
お花の情報交換、それが一番幸せな時期です。
お茶の器も友達が焼いてくれます。
玉川上水の緑路に面していて恵まれています。
立ち寄って色んな人に出会っています。
外国では中国、イギリスの人達が来て話をしたりしています。
オープンガーデンの発祥の地はイギリスだそうです。
小平はオープンガーデンが多くて26軒ありそれぞれが工夫をしてます。
草取りで、どくだみ、ちやが、すぎなは最初退治していましたが、すぎなの近くにつくしがでて、そう思ったら取るのを辞めました。
ガーデンで草取り募集中と言う事でやっています。
水やりは朝2時間、夜2時間やっています。
自分より先にお花にごはんをやっています。

冬はビニールハウスでひ孫と一緒に仕事をしています。
ガラスの温室にしたかったが、ビニールハウスは父の遺品なんです。
除草剤など薬剤は使っていませんから、蜜蜂の業者さんにお貸ししています。
3月に水仙が咲き、菜の花が咲き黄色の世界になります。
今頃になるとカモミール、モッコウバラとか白の世界になります。
次にヒマワリなど黄色の世界になり、ゆりも凄いです。
ユリの切り花を売っているところからゆりの球根を貰って来ます。
3月から11月までは必ず何かが咲いています。
カモミールなど種はまいていないです、鳥が運んだりして来ます。
果物も色々なります。
1年がかりで腐葉土を作って、腐葉土を冬の間にすき込んでいるので土がふかふかです。

テーブルがあってそこで食事をして、ハンモックもあります。
東日本の大震災では被災地に花を植えに行ったり、わかめのお手伝いに行っています。
お茶代は全額寄付しています。
103歳の実の親が元気でいます。
101歳の時に転んで大たい骨を骨折して、介護付きの老人ホームに入っていますがとっても元気です。
ご飯も自分で食べるし新聞も読みます。
母の処に行くのが一番幸せです。
中学の一つ下の中島さんがボランティアで看板を作ってくれたり、テーブルを塗り替えたりしてくれます。
色んな人が手伝ってやってくれます。
昔グレープフルーツを食べ、その種を育てていた人がならないからと言う事で、ここに植えましたが20年経って今では沢山なっています。
皆さんに差し上げました。
秋には色んな果物がなります、自由にどうぞと言っています。

遠いところでは沖縄、北海道など全国から来ます。
今日はどんな方が来るかなあと思って楽しみです。
もう少し英語の勉強をしておけばよかったと思いますが、意外と手真似と単語を並べて何とか通じるところもあります。
ポットに植えて、あるいは切り花で販売しようかなと思っています。
数年前心臓を患ったが、20~30年前に貴方はこれ以上よくなりませんといわれたが、
階段を昇るのが大変だったし不整脈があったが、今は全然健康です。
夜は家で採れた野菜を食べご飯は食べないでいますが、体重も減りましたし、健康です。
新鮮な野菜は最高です。
旅で何処へ行くにも花に会いに行きます。
主人がここの元をつくってくれて感謝しています、そして皆さんに愛されるガーデンを健康で最期までやっていきたいと思っています。























2019年5月27日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】トルストイ

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】トルストイ
「結婚なんて決してするものではない。 
そうでないと、とんでもない取り返しのつかない失敗をすることになる。 
君の持っている美しい気高い資質が、すっかり駄目になってしまう。
くだらないことの為に何もかも使いはたされてしまう。」 (「戦争と平和」の一節、トルストイ)

小説を読むと退屈するけれどトルストイの人生は面白くてしょうが無い、興味が尽きない。
今回はトルストイの晩年の結婚生活の話です、これがとっても興味深い。
1828年生まれ、(江戸の後期にあたる。)1910年亡くなる。(82歳)
ほかにも
「全く結婚しないことである。
これができる人間はめったに居るものではない。
だがこれができる人間は幸福である。」
「いよいよ結婚する前に十遍でも、二十遍でも、いや百編でも考えてみる方がいい。」
凄く結婚に対する否定だが、それは自分が結婚しているからです。
34歳の時に18歳のソフィアと結婚する。
「戦争と平和」を書いている時にはうまく行っていたが、晩年になるとお互いに酷く苦しめるようになる。
82歳で家出をして小さな駅で亡くなる。

理想と現実のぶつかり合い、トルストイは理想を激しく求めるタイプ。
生れながらの貴族で身分が高くてお金もちだった。
晩年には私有財産を持つことはよくないと言う事で、領地も農民に与えて、著作権も放棄しようとしていた。
妻にしてみれば大変なことなので反対するが、世界3大悪妻に例えられている。
(病気をするとお金があるなしで切実な問題で、何にもできない人間になるとお金に綺麗なことは言っていられない、現実はシビアだと感じます。(頭木))
妻の方にしてみれば現実ががっちりあったはずで当然そう思います。
トルストイには13人子どもがいました。
「子どもは神の祝福である、子どもは喜びであると言うのはみなウソだ。
それは昔の話で今ではそんなことは全然当てはまらない。
子どもは苦しみである。
ただそれだけのことである。」 (「クロイツェル・ソナタ」の一節)
子どもがいることで子どもが夫婦の喧嘩の種になってしまう。
トルストイに娘が付いて妻に息子が付いて、子ども同士も反目し合っていた。
親がいがみ合っていると子どもにとっては、かなり不可解だと思います。

「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。」 (「アンナ・カレーニナ」の一節)
健康と病気の関係を直ぐ思い浮かべます、健康は一種類ですが、病気は凄く種類があります。
自分とはまったく関係ないと思っていた思いもよらないことが、突然自分のことになる。
どんな不幸が来るかわからない凄味がこの言葉にはあると思います。
トルストイは自分の日記を婚約時代からソフィアに読ませた、結婚後も読ませた。
日記を読ませることは変わっていて、赤裸々に本音が書いてありそれを妻に読ませる。
激しい色んな女性経験の話も書いてありそれは妻にとってはショックです。
理想としては夫婦関係に秘密があっては良くない、自分を受け入れてほしいと言う事だが、妻にとってはたまったものではない。
これは特殊な不幸です。

晩年になるとチェルトコフという中年男性が一番弟子のような形でついて、トルストイの言ったことを世界に広める役をしていて、これに対して妻は厭がっていた。
妻に読ませた日記の中に「私は女性に恋をした事はない。所が今までしばしば男性には恋をしてきた。」と書かれている。
チェルトコフが財産放棄とか著作権放棄を勧めていた人でもありました。
チェルトコフが来てからその後妻に日記を見せなくなる。
ソフィアとしては大変だったと思う。
秘密があってはいけないと言う事は潔癖過ぎると思いますし、晩年は日記を見せてもらえなくなる。

「私の行為はそれがどのような行為であろうと早晩全て忘れられてしまい、この私と言うものは完全に無くなってしまうのだ。
それなのになんであくせくするんだ、どうして人はこの事実に目をつぶって生きて行くことができるのか、実に驚くべきことだ。
そうだ、性に酔いしれている間だけ我々は生きることができるのだ。
が、そうした陶酔からさめると同時に、それが悉く欺瞞であり愚劣な迷いにすぎないことを求めないわけにはいかないのだ。
つまりこの意味において人生には面白い事や可笑しい事など何にもないのだ。
ただもう残酷で愚劣なだけなのである(「懺悔」の一節)
懺悔はトルストイの本音が書かれていて吃驚する。
トルストイは若いころはよくないことを一杯している、ギャンブル、酒、女、さんざんです。
家族、名声、財産、才能、健康など全部揃っている訳です。

だけど虚しい、それは結局死んでしまう。
あと身近な人が沢山亡くなっている。
母親を2歳で亡くして、9歳で父親を亡くして、お婆さんに引き取られるがお婆さんも翌年亡くなって、伯母さんにひきとられるが伯母さんも亡くなり、兄のニコライも結核で亡くなって、13人の子どもも5人は幼くして亡くなる。
お気に入りの次女のマリアも35歳の若さで亡くなる。
死んだら虚しいと言う思いがどうしてもなる、そういう虚しさに晩年とらわれる。
全て満たされても最期に残るのが、死と言う問題なんです。

トルストイが東洋の寓話だと言って紹介しているものがある。
「猛獣に追いかけられて井戸に飛び込むが、井戸の底には龍が口を開けて待っている。
井戸の側面の草にしがみつく。 そうすると2匹の鼠が草をかじってそのままでは下に落ちるしかない。
しかし、掴まっている草に花が咲いていて、蜜がたまっていてそれを舐めるわけで、蜜のおいしさに夢中になることが生きることに夢中になることだと、でも今こんな状態なんだと気付いてしまうと、蜜の甘いおいしさなんて感じることが出来ない、今自分は気付いてしまったと、そういうふうに言っています。
我々も蜜の味に執着するか、蜜の味がしないか。
今の人生の楽しみをなるべく味わってどうせ死ぬんだから、だからこそ今の楽しみをどんどん味わおうとする人と、どうせ死ぬんで虚しいんだから、楽しみなんか何もない、いっそ禁欲的に生きていく方がいいのではないかと両極端に別れる場合が多い。

「人生最期の日だと思って今日を生きろ」みたいな言葉があるが、疑問があります。
人生本当に最期の日だったら仕事なんか行かないし、恨みのある人を殴りに行くかもしれない。
本当は明日もあると思う、明日の為に今日は犠牲にしていることはどうしてもあるが、そういう毎日を過ごしていると虚しさはどんどん増します。
虚しくないように頑張るが、それも限界があり答えの出ない難しいことだと思います。
トルストイの理想はいずれ死んで全てが消えうせてしまうとして、それでも無意味ではないと確信できる生き方、そういう生き方をずーっと探していたんだと思います。
トルストイは神の教えに従って生きようと言うところに行きつく訳です。
自分よりも他人を愛して、人の為に生きるというこういう生き方をしていれば、例え死んでしまって消えてしまっても、全く無意味な人生とはいえないと言うふうに到達する訳です。

しかし矛盾が生じる、他人の為に生きようとすると、一番身近な他人は妻で、妻の為に生きようとすると、財産を放棄しようとする理想が叶わない。
当時トルストイ主義と言って世界中に広まっていた。
ガンジーはトルストイの非暴力主義に凄く影響を受けてインド独立の父になったわけです。
世界をよくしていくために役立っているが、一番な身近な家庭ではうまくいかなかった。
トルストイは葛藤をどうにも解決しようがなくて、最期に家出をして小さな駅で亡くなるわけです。
トルストイは、みんな思っているけどやれないことを、全部やろうとするわけです。
しかし身近な周囲は犠牲になってしまう面があるわけです。
それが簡単に善し悪しが言えないところです。

トルストイは字が汚くて自分でも読めない位で、それを読めるのが妻だけで、それはトルストイがどう考えるか判るわけで、かなりソフィアの手が入っていて、だから結婚していなかったら名作が生れたかどうか、できたとしてももっと違った内容だったかもしれない。
結婚3か月ごろのトルストイの日記
「家庭の幸福が私をすっかり飲みつくしている。
夜中や朝目が覚めて彼女の姿を見ると愛おしさを覚える。
彼女は私を見つめ愛する。
彼女が私のすぐそばに座っていると愛おしい気持ちになる。
私たちはこの上なく愛し合っている。」
私は彼女を愛している。」
















2019年5月26日日曜日

高野進(東海大学教授)          ・【特選 スポーツ名場面の裏側で】五輪陸上ファイナリストの証言

高野進(東海大学教授・【特選スポーツ名場面の裏側で】五輪陸上ファイナリストの証言
(初回2013.12.13)
静岡県富士宮市出身 58歳、東海大学時代から頭角を現し、日本人選手が最も苦手と言われる種目の400mでオリンピック、世界選手権に3回出場、バルセロナオリンピックでは昭和7年のロサンゼルスオリンピック100mで吉岡隆徳さんが6位に入って以来、60年ぶりにオリンピック短距離での決勝進出を果たしました。
400mを44秒78は30年近くたった現在でも日本記録です。
現役引退後は母校の東海大学で指導、研究を続けるかたわら、日本ランニング振興機構を設立、理事長として子どもたちを中心にした、幅広い年齢の人達に走ることの楽しさを教えています。
日本陸連理事、北京、ロンドン二つののオリンピックの代表監督を務めた高野さんに伺いました。

湘南キャンパスには2万人の学生がいます。
7,8階建ての校舎が18在ります。
400mトラックの全天候型6レーン 公認トラックがあります。
19歳の時からここで練習してきました。
当時は土のトラックでした。
4年に一度のアジア大会では400m2連覇を含めて200,1600、リレーを併せて4個の金メダル、世界選手権大会でも3回連続で1991年東京世界選手権では日本の短距離界では初めて決勝に残って7位になりました。
400mの日本記録は自己更新を含めて10回以上出し、日本選手権400mは7回の優勝。

1984年ロサンゼルスオリンピック、23歳 初オリンピック。
開幕直前の競技会で日本記録45秒85を出す。
80~90人のエントリーがあったと思います。
準決勝の1組目で8位となり決勝に進出できなかったが、上出来だと思った。
1988年 ソウルオリンピック、27歳
一次予選45秒42で全体で2番目の記録で通過、二次予選も通過、準決勝第二組で44秒90(日本新記録)だったが、惜しくも決勝進出を逃す。
45秒00を2回くらい出していて、44秒台は壁だったが壁を破ったのは日本人として歴史を作ったなあと当時思いました。
1991年世界選手権400mで日本選手で初めて決勝進出、7位となり世界から注目を集める。

1992年バロセロナオリンピック
44秒90はもう限界かなと思って、1989年には400mを辞めて100mしか走らなかった。
1990年にアジア大会があり200mで代表で出て、これまでこの種目だけ金メダルを取っていないと言う事で、金メダルを取ることができました。(29歳)
ハイペースにシフトして400mも30歳で日本記録を出せました。
これが大きな自信になりました。
バルセロナオリンピックでは31歳になっていました。
教師としての仕事もある中で調整をしなければいけなかった。
世界選手権400m決勝進出で周りから注目されるようになりプレッシャーを感じるようになりました。
毎日トラックにカメラが来るような状態になり、メダリストになれるのではないかと周りが騒ぐようになりました。
自分ではファイナリストになりたいと言うようになり、ファイナリストと言う言葉が日本でも浸透するようになりました。

8月1日 一次予選余裕で通過、二次予選通過、8月3日準決勝1組で45秒09で4位
ゴール、ファイナリストとなる。
胸をなでおろしました。
決勝では8位だったが、力が残っていなかった。
決勝まで4回を5日をかけてやるので31歳の年齢では体力が限界で大変でした。
記録は45秒18でした。
400mを走り終わって1分後には全身に疲労物質が回ってきて、頭は痛くなるし筋肉は痛くなるし呼吸は乱れっぱなしで、30分ぐらいはまともには歩けなかった。
日本人としてスプリント種目で決勝に残ったと言うのは、個人としても嬉しかったが日本人としても嬉しかったです。
44秒78はトラックの中では日本記録として一番古い記録として残っているが、指導者としてはあまり喜べるものではない。
100mのタイムも上がってきているし、日本人のスプリント力も大分上がってきて400mもいずれ破ってくれるのではないかと期待しています。

400mは毎回死ぬつもりで走らないとだめです、自分のエネルギーを出しつくすわけですから、必死に逃げきるというそういうエネルギー系です。
今思うと荒業のような感じです。
苦労と言うふうには全く考えていなかった。
当時は日常の当たり前なことで生活習慣の一つになっていました。
振り返ってみると同じことはできないと思います。
小学校からずーっと走り続けてきたが、何故自分をそう言うふうに掻きたててきたのかと言うと、ゴールした後の先にいつも新しい光景があります。
新しい自分が待っている様な気持になってきて、スタート地点に立った時に、それまでの自分に別れを告げる気持ちになっていました。
400m走り終わると必ず新しい自分になっていると、それが次の自分に会うような気持で走っていました。
中学時代の同級生にったら多分別人だと思います、ほとんど人前では話せなかったし、スポーツもあまり好きではなかったし、オリンピックに出る様な選手になり、東海大学に勤めて学生に講義したりと言う自分は想像がつかなかった。
一方、どんどん自分自身の幹が太くなって枝葉が出て、色んな世界に自分の生きざまが広がっていくような、それがやってきて良かったことだと思います。

日本ランニング機構の理事長になっていますが、私の自身のライフワークとして走ると言う事は人類の挑戦なんです、ようやく2本足で立った時代から進化を重ねてきて、我々は走りながら進化をしてきた。
或る生物学者は「持久力を持った捕食者」と人間のことを言っているが、我々は狩猟採集時代に足の速い草食動物を追い詰めてしとめてきた。
その間に実はセオトニン、ドーパミン、アレドナリンとかが出てきて、やる気、粘り強さが人間自身に備わってきた。
さらに栄養素が運動することによって脳に送られていき、知能が非常に高くなってきた。
脳の成長には運動が欠かせないと言う事でランニングが欠かせないと思って、自分が走り続けてきたら、小学校、中学校時代あんなに駄目な人間だったのに、走り続けてきてまともな社会人になれた。
鍛えればいいと思っている人がいるが、ランニング技能が必要です。
走り方を疎かにしてしまうと一生直らない。

小学生時代のように脳が柔らかいうちに、ターゲットにしたアカデミーや色んな指導形態を取って走り方を覚えてもらっている。
寝たきりにならないように高齢者は元気でなければならない。
そのためには走ると言う運動も取り入れた方がいいと思っている。
散歩中に3歩走れば(10歩でもいいが)ずーっと走らなくても良いと思っています。
2,3セットやればいいと思う。
ランニング技能検定をやっています。
遅くてもいいから正しく走れるようにすれば、それも立派な目標となります。
日本ランニング機構を作った大きな目的の一つはランニングを技能として浸透させていきたいと言う事と、それを教える指導者を増やしていきたい。
日本人のファイナリストを筆頭に、子どもたちの走り方をよくする、高齢者の健脚、運動の指導など、これを総称してを日本人総アスリート計画と言う事で推進しています。




















2019年5月25日土曜日

立川志の輔(落語家)           ・【舌の記憶】あの時あの味(2)

立川志の輔(落語家)           ・【舌の記憶】あの時あの味(2)
圧倒的なパワーと重層的に語られる志の輔落語、その濃密な世界は何処からどのようにして生まれるのか、志の輔落語を貫くものは何なのか、立川談志の話もたっぷり伺いました、「落語でなにがいいたいんだ」という題で伺います。。

師匠はこんなにお茶目なんだ、こんなに不思議な人だと思ったのは「ガッテン」25年続けている中で15年経った頃でした。
スタッフが「ガッテン」に出てもらえないかと言う事で、師匠に伺いました。
出て質問してもらえればいいといったら、「唐辛子は何故辛いのか」、と言うんです。
動物に食べてもらって、熟して甘くなったものをおいしいから鳥に食べてもらって糞とともに種をばらまく、そのおかげで自分の子孫は世界中に広がって行く。
辛い唐辛子を喜んで食う鳥なんていないのに、なんで辛らくなっているのか調べてこいと言う事で、スタッフが当時の志の吉を連れてメキシコまで行きました。
調べてみたら、辛味や甘味が判らない鳥がいて、唐辛子を食べてくれていて、他の動物に食べてもらいたくない、味の判らない鳥だけがたべてくれればいい、と言う事で辛らくなっているんだと考えられると言う事で放送して、カメラに向かって「ガッテン」して頂けましょうかと師匠もTVを見ていると思っていったんですが、放送後、「俺は立川談志だ、あんなことでガッテンできると思っているのか」と製作室に電話がかかってきて、師匠から苦情が来ました。
わざわざ放送直後にかかってきたわけで、大騒ぎになりました。
恐ろしいし、きびしいが振り返ってみるとお茶目な人でした。

古典落語で5年ぐらいたってうまくできたと思っていたら「お前、今の落語でなにがいいたいんだ」と言われました。
「落語を教わった通りとか、俺が教えた通りならば、俺がやればそれで済むんだ」と言う訳です。
お客さんが満足する中には、笑う、良い時間であった、もうひとつは人間こう生きれば楽なのかとか、こう考えれば幸せかとか、ここまではしてもいいけどここからしてはいけないとか、判ったと言う感じの満足感の大きな種類の一つだから、それをもって、と思ったら、新作落語でも、全ての落語、全部の作品に談志の何とか論(金銭論、教育論とか)が入っているんです。
古典落語の根底に人間ってこういうもんなんだ、という談志論がそれぞれの作品の中に結果的にはいっている、酒を飲んじゃあいけないがこの状況なら人間飲んじゃうよなと言う様な、談志論がそれぞれの作品の中に入っている、だから「落語でなにがいいたいんだ」と言って、そういった事に対して気が付かせようとしたんでしょうね。
お客さんが笑っただけで、良くできましたと思っているんじゃねえだろうなと、いつも思いだす言葉ですね。
『牡丹燈籠』は全部を読んでみた時に『牡丹燈籠』は違うテーマの作品だと思った時に、初めから終わりまで2時間半で全部やろうと考えたのは15年前からで毎年やっています。
毎年登場人物がこの人は素敵だなと、毎年違うんです。
三遊亭圓朝師匠の大作です。
「忠臣蔵」は文楽の為の戯曲であって、その大元になった赤穂事件の出来事で、忠臣蔵ではないんだと、歌舞伎座で観てあーそうなんだと思って、「忠臣蔵」を初めから終わりまで説明出来て2時間半で何とかできないかと思って、これも7年目になり毎年これもやっています。
やっていて毎年角度が違うので、やっていて飽きないです。

「みどりの窓口」「歓喜の歌」これは新作落語ですが、清水義範さんの存在が無ければ沢山の新作落語は出来なかった。
「ゴミの定理」と言う本にゴミがどんどん増え続けて行くとお金を払わなければいけない時代が来ますよ、と言われた時代に、ゴミは人それぞれに定義が違っていて、物が届いた時に人によってはゴミになってしまう。
清水義範さんのエッセーの作品を新作落語に練っていきました。
自分の体験談から来たものもあります。(「歓喜の歌」など)
いくら落語でもリアリティーが半分、面白さが半分ないと、と言う事はあります。
新作を作ると古典落語の凄さが判ります。
江戸時代は短い話だったろうが、何十人、何百人と携わりながら、練ってたしてひいてを繰り返し、一番いい状態の物を僕等は師匠に教わりながら来るので、無駄なく見事なセリフだけが残ったのが古典落語だと思います。
談志師匠は古典落語しかやりませんでしたが、「みどりの窓口」を談志師匠が面白いと言ってくれたのは凄く嬉しかったです。

「ガッテン」が週に一回来るのが、リフレッシュになります。
TV、ラジオ、映画それぞれに携われましたが、それぞれのジャンルの作り方、楽しみ方、表現の仕方が全然違うので何をやってもリフレッシュになります。
パワフルなのは富山県民の血ですかね。
持久力があると言うか、地道にこつこつとやる県民性ですかね。
毎月富山で落語会をやっていますが、富山の人にあうたびに富山に生れて良かったなと思います。
富山弁で「気の毒な」と言う言葉がありますが、「有難う」「すみません」など全部含めて言う言葉です。
「あなたに気の毒な想いをさせました」と言う意味です。
富山弁でこの「気の毒な」と言う言葉が一番好きです。











2019年5月24日金曜日

萩谷由喜子(音楽評論家)         ・オペラ史を彩った明治の女性を追いかけて

萩谷由喜子(音楽評論家)       ・オペラ史を彩った明治の女性を追いかけて
昭和29年生まれ、幼い時から音楽や舞踊を習い、立教大学を卒業後音楽教師やライターを経てオペラや女性音楽家の評伝を書き続けています。
明治150年プッチーニ生誕160年と言う年に当たる去年、「蝶々夫人と日露戦争」を出版しました。
世界の三大人気オペラの一つプッチーニのこのオペラは、明治の長崎を舞台にした物語ですけれども、沢山の日本の旋律が多く取り込まれています。
この曲を作るにあたってプッチーニは当時イタリア公使夫人だった大山久子から様々な協力を受けオペラを書きあげたと言うことです。
華やかなオペラ史の陰で埋もれていた女性たちの活躍を、これからも掘り起こして伝えたいと言う萩谷さんに伺います。

大体、年にオペラコンサートを合わせて300公演位いきます。
去年、「蝶々夫人と日露戦争」を出版しましたが、蝶々夫人の知られざる一面が結構出てきています。
「蝶々夫人」に関わった大山久子さんという女性のことに気が付いたのは1998年なんです。
蝶々夫人のオペラの中には沢山日本の旋律が出てくることには気が付いていましたが、プッチーニが何故取り入れることができたのかは、それほど疑問はありませんでした。
大山久子さんのお孫さんが書いた文章に出会って詳しくやりたいなあと思いましたが、20年近くかかってしまいました。
2017年からラストスパートを掛けてようやく書き上げました。

立教大学の経済学部を卒業しましたが、日本舞踊と邦楽をピアノなどはやっていました。
友人の紹介で音楽評論家の志鳥栄八郎先生の門を叩きました。
その後先生のアシスタントをやるようになりました。
祖母がお稽古事を沢山やってきた人で、日本舞踊、長唄、三味線、を習い歌舞伎にも行ったり邦楽、ピアノなどもやり、邦楽と洋楽が融合していきました。
大学卒業後、お琴の先生、ピアノ教室も15年やりました。
志鳥栄八郎先生のもとで音楽評論の勉強を並行してやりました。
最初の評論は「五線譜の薔薇」と言うタイトルでした。
女性音楽家10人の評伝集と言う事で、本を出版しました。

幸田 延(こうだ のぶ)と言う人の事を書きたくて妹の安藤 幸(あんどう こう)の姉妹のことを次に出しました。(2003年)
幸田 延の兄は海軍軍人・探検家の郡司成忠、作家の幸田成行(露伴)、弟に歴史学者の幸田成友。
幸田 延の資料はあまりありませんので自分で書こうと思いましたが大変でした。
書き始めたころは幸田 延のピアノ教室のお弟子さんがまだいました。
幸田 延が亡くなったのは昭和21年でした。
「幸延会」(こうえんかい)という先生を偲ぶピアノの同好サークルを半世紀以上続けて来ました。
その方たちに取材ができたことはラッキーでした。
伝説のヴァイリニスト、諏訪 根自子(すわ ねじこ)、ピアノでは田中 希代子(たなか きよこ)の評伝を出しました。

諏訪 根自子は或る時から突然活動を停止して、又晩年になってバッハの無伴奏全6曲のレコーディングをして、どうしてブランクのある方が一番難しいバッハの無伴奏全6曲の録音ができたのか、これも謎だと思うし、戦中ヨーロッパでナチスドイツのゲッベルス宣伝省から頂いたと言うストラディバリウスの謎など、自分で突き止めたいと思って書きました。
そしてようやく書きたいと思っていた「蝶々夫人と日露戦争」を去年出版しました。
越後獅子、君が代、さくらさくら、お江戸日本橋、など全部で8曲でてきます。
プッチーニは日本に来ていないし不思議だと思っていました。
ジャポニズム、日本文化への憧れの風潮が高まりますが、音楽の流出は判らなかった。
イタリア公使夫人だった大山久子から様々な協力を受けたと言う事が判りました。
それ以外にもパリ万博でミラノ公演をした川上貞奴もプッチーニは見ているんですね。
大山久子はヨーロッパの語学が堪能だったので、プッチーニは直接日本の音楽に関することを聞くことができました。
プッチーニは明治37年に「蝶々夫人」を初演する。
原作は4年前にです。
蝶々夫人は元々はアメリカの新聞記者の方が日本に滞在歴のある姉の話をもとに書いた短編小説ですが、デーヴィッド・ベラスコと言う劇作家が戯曲にしてその戯曲をロンドンで上演した時にプッチーニが見て、これだと思ったのが始まりです。

プッチーニの異国趣味の最初が「蝶々夫人」でした。
その後アメリカの「西部の娘」などを書くわけです。
最期は中国の「トゥーランドット」ですが、広く世界に題材を求めてゆきました。
生涯に12作で、数としては少ないが、一つ一つに対して磨き抜いたものを提供したと思います。
大山久子はイタリア公使大山 綱介の奥さんですが、幸田 延とは東京女子高等師範学校の小学校の同級生でした。
幸田 延はその小学校に日本に最初に洋楽を教えに来たルーサー・ホワイティング・メーソンに見出されました。
大山久子も長唄、お琴を習っていました。
二人は将来に渡って親友でした。
大山久子はプッチーニに日本のことを教えるにあたって資料を提供してもらったのが幸田 延でした。
当時は日露戦争で緊張していた時代でイタリア公使大山 綱介は政治の世界で、大山久子は文化の方面で尽力しました。

「蝶々夫人」は本当に旋律が美しいと思います。
日本の音楽の旋律をそこに自分のペーストを加えて源曲が判らない位に使ってしまう。
「豊年節」をオペラのなかで子守唄にしてしまう。
他にもドラマチックに変貌させる曲が色々あります。
いろいろ突き詰めて行く面白さがありました。
大山久子に関してはイタリアでの取材もありましたが、日本でも関係者から色々提供していただき資料、表紙の写真、本の中の写真なども提供させてもらって感謝しています。
凄く向上心、勉学への強い意欲とか、自分が学んだ事を後進に伝えて行きたいと言う両方の気持ちを取材を通じて当時の女性たちに対して感じました。
津田梅子が最初の女子留学生として、アメリカに留学するが、一緒に永井繁子が留学して彼女がアメリカでピアノを勉強して日本に帰ってきて、幸田 延も教えました。
今書きたいと言う人、戸田 極子(とだ きわこ)さんと言う方で、岩倉具視のお嬢さんで、戸田氏共伯爵夫人となりウイーンでブラームスとお付き合いがあった方です。















2019年5月23日木曜日

真珠まりこ(絵本作家)           ・【私のアート交遊録】「もったいないが地球を救う」

真珠まりこ(絵本作家) 【私のアート交遊録】「もったいないが地球を救う」 
かつて「もったいない」が日常の中で当たり前のように使われていたと思うが、最近では死語になったと思われていたが、この真珠さんの絵本から飛び出して子どもたちの心を掴んでいます。
真珠まりこさんの代表作「もったいないばあさん」は頭にカンザシ手にはツエ、ご飯を食べ残したり、電気の点けっぱなし、水の出しっぱなしをすると「もったいないことをするんじゃない」と姿を現すちょっと怖そうな婆さんです。
このもったいないばあさんが闊歩する絵本は今年誕生から15年を迎えて累計100万部を売り上げる人気絵本となっています。
この間様々な賞や小学生新聞に連載されるなど、常に注目される絵本となっています。
真珠さんは「もったいないばあさん」を通して地球の環境問題についてもアクションを起こしています。
日本の暮らしに古くから流れる「もったいない」という考え方に付いて、「もったいないばあさん」に託す思いを伺いました。

「もったいないばあさん」の話を書くために常に「もったいない」と言う事を意識してもう15年生きているので身にしみていますが、書き始めた時は子どもたちに伝えて行かないと「もったいない」という意味が判らない暮らしをしているなと気がつきました。
子どもが4歳の時にご飯を食べ残したので、「もったいない」といったら、どういう意味と聞かれて、言葉に詰まってしまって、他の言葉に置き換えられないと言うことに気がつきました。

長々と説明したが判らなくて、意味が判るような絵本はないかとさがしたがなくて、それでは自分で作ってみようと思ったのが「もったいないばあさん」でした。
昔だったら修理していたものが、新しいものを買った方が早かったり安かったりして、使い捨てが当たり前だと思ったら、地球がゴミだらけになってしまうのでどうなんだろうと怖くなりました。
「もったいないばあさん」を連載するようになって深く考えるようになって、ケチは自分だけのもの、執着、「もったいないばあさん」の「もったいない」はそれを大切に思う、大好きだからもったいないと思う、大切な人に貰ったからたいせつにしたいとか、自然、頂く命に対して有難うと言う感謝の気持ち、愛情があって言っているんだと言うふうに思うようになりました。

「もったいない」という言葉は元々仏教の言葉で、全てのものは仏になる、すべてのものには命があって、命があるものを大事にしないのは「もったいない」という、命の大切さを伝える言葉だと言うふうに伺いました。
「もったいないばあさん」は、頭にカンザシをしていて、カンザシは七、五、三の時に買ってもらったカンザシを大事に持っていると言う設定です。
鼻メガネで、ネッカチーフを首に巻きモンペ姿です。
考えた末に眼は観音様のような半眼にしました。

家族がみんな医者で、医者になるか医者と結婚すると言う様な雰囲気でした。
専攻は栄養学でしたが、やりたいことがあまり見当たらなかった。
結婚して、或る時に高校時代の友達に出会って、美大を卒業後イラストレーターをしていると言う事でした。
それと絵本科と言う看板があり、面白そうと思ってパンフレットを取ったのがはじまりでした。
絵本だったらずーっと続けられると思いました。
自分を表現することに合っていたんだと思います。
「もったいないばあさん」の連載、本が出るうちに自分で一回やって見ることが必要だと思って味噌を作ってみたり色々なことをするようになり、「もったいないばあさん」のような暮らしが出来たらいいなあと思いました。
「もったいないばあさん」ももう15年になりましたが、あっという間でした。
100万部と言うことですが、想像が付かないです。

ケニアのマータイさんがノーベル平和賞を受賞されて、2005年2月に御自身が推奨される3Rを一言でいえるのが「もったいない」と言う言葉で、判りやすいから世界に広めようと言う事で話題になり、広がって行きました。
リスペクト(respect)が含まれているということで、共感していただきました。
マータイさんは「もったいない」と言う言葉は清水寺の一番偉いお坊さんから伺ったそうです。
深い意味を理解されたのは凄いと思います。
子どもたちがその一冊を読めば、今地球で何が起きていて自分たちとどうつながっているかと言う本が見当たらなくて、「もったいないばあさん」のワールドレポート展をしようと言うことになりました。
ユニセフに協力していただき、データ、写真も提供していただきました。
「もったいない」と言う言葉をキーワードにして、「もったいないばあさん」をガイド役にすると言うのは良かったなと思いました。
3年前からユニセフさんが全国の市部で巡回展をして下さるようになりました。
人、物、心を大切にしたいと言うメッセージを込めた作品、例えば「おたからパン」は、本当の宝とは他人から奪うものではなくて、自分の中で育てるものとか、にこちゃんとぷんぷんまる」シリ-ズでは発達障害のある子どもが、この絵本しか見ないんだと言う反響を聞いたところから更に出版が決まる。
何故発達障害のある子がその本しか見ないのかは私にも判りませんが。

「もったいないばあさん」のワールドレポート展のメッセージとしては、自分さえよければと思わず、分けあう気持ちがあれば平和な世界ができると言うこと、命は全て繋がっていて、一つ一つの命が大切なんだよ、という二つのメッセージがあるが、その二つが「もったいないばあさん」の全ての本の根底に流れる筋のようなものです。
民族、国、宗教、言葉、文化が違っても人が大切に思っているものも同じ様に大切に思う、敬う、リスペクトすれば世界は平和になると思う、そこに全て繋がって行くと思います。
命の大切さ、小さい時に愛されて育つと言う事がとても影響しているのではないかと思います。
姉も弟も医者になりましたが、小さい頃はわからなかったが、大人になって私は傷ついていたんだとおもって、自分はいらない子だったんじゃないのかなあみたいなコンプレックみたいに思っていたんだ私はと言う事に、「もったいない婆さん」を書くようになって「もったいない」と言う意味を考えた時に気がつきました。
何人子どもがいても「貴方が生まれてくれてありがとう、どんなにうれしかったか」と言う事をちゃんと伝えて行くことはとっても大事だと思いました。
最新版「もったいないばあさん 川を行く」 もったいないばあさんが川を旅する話ですが、水の循環とか、命の繋がりを考えてもらえたらいいなあと思います。










































2019年5月22日水曜日

銭谷欽治(日本バドミントン協会専務理事) ・【スポーツ明日への伝言】世界のメジャースポーツにするために

銭谷欽治(日本バドミントン協会専務理事) ・【スポーツ明日への伝言】世界のメジャースポーツにするために
東京オリンピックが迫るなか、日本のバドミントン選手は世界の大会で好成績を残し続けています。
日本バドミントン好調の理由、オリンピック更にはその先への期待について銭谷日本バドミントン協会専務理事に伺います。

この20,30年マイラケットは持っていないです。
選手の代表が決まって行きますが、今、5月1日から来年4月末までの全ての国際大会のポイントで決まってきます。
大会に出るためには実際には2年前からスタートしています。
今5種目ともトップランキングにきているので、本番ではメダルを何とか獲得したいと思っています。
女子のダブルスは熾烈の戦いが始まっています、世界のトップ3になっている。
怪我が一番怖いと思っています。
男子シングルスは桃田選手がトップになっていますが、研究されて楽に勝てると言う訳にはいかなくなってきている。
女子シングルスは山口が若いので未完成な所もあり、奥原選手も頑張ってもらいたいと思っています。

銭谷さんは1953年生れ、石川県出身 石川県立大聖寺高等学校から中央大学に進み、卒業後は河崎ラケット工業、三洋電機で選手として活躍。
 全日本総合バドミントン選手権大会男子シングルで1976年から4連覇など7回の優勝。
1985年に選手を引退、その後コーチを経て監督に就任。
1996年から三洋電機女子チームを全日本実業団バドミントン選手権大会4連覇に導いた。
現在は日本バドミントン協会専務理事としてバドミントン界をけん引。

バドミントンが強くなったのは15,6年前からジュニアの育成に力を注いできました。
2004年から朴柱奉(パク・ジュボン)ヘッドコーチが来て、2008年1月から開設したナショナルトレーニングセンター、コーチ陣のサポート支援などそういったものの総合力だと思います。
小倉、潮田選手(「オグシオ」)、彼女たちが入ってきたのは2003年で、その前後ぐらいからです。
ジュニアは全国大会の整備、アンダー16の充実、コーチングスタッフもかなり多くの先生などに協力していただきスタートしました。
成果がどんどん出てきました。
ナショナルトレーニングセンターの設備の効果も大きかったです。
いち早く利用したのが卓球とバドミントンでした。
パクさんはオリンピックの金メダルを取っているので、その後イギリスに数年いって、マレーシアにいって、日本に来てからも日本語を貪欲にをマスターして、選手に対するカルチャーショック的な、ベスト8にはいると喜んでいた時代だったので、それをぶち壊してくれてた、意識改革は大きかったです。
パクさんとコーチ、選手との調整役として立ち回った時期もあり、苦労したこともありました。
パクさんも日本のシステムを理解して4,5年かかって信頼関係が生まれてきました。

2016年には賭博問題が起きました。
私が就任して2年目あたりの頃で、吃驚しました。
先ずは検証してできるだけすみやかに処分をちゃんと出さないといけないと思って対応させていただきました。
スポーツの高潔性、ルール、倫理規定をつくっても結局は個人本人なんですね。
関係者全員がインティグリティ(Integrity「誠実さ」「高潔さ」「真摯さ」) の意味合いを学んで行かないと、大きな課題だと思っています。

シャトルは今、初速は最高で473km/hと言われています。
30年前は250km/hでした。
昔は木のラケットで140gぐらいだったが、今はラケットがカーボン製になり80g位でスピードも出ます。
相手の到達するまで0.2秒ぐらいなので瞬間的な判断、感覚、動体視力などが求められる。
テニス、卓球などと違いバドミントンはワンクッションをおかないのも特徴です。
動きが激しいところもあり大きなけがに通じることもあります。
俊敏性、反射能力、読み、心理的駆け引きなどが求められる。
ガットの張りは桃田選手などで33~35ポンドです。(昔は20ポンドぐらいでした)
球離れが早いです。

私は中学の時には野球でピッチャーをやっていて、高校では最初陸上部にはいりましたが直ぐに辞めて、バドミントン部に入ることになりました。
始めてから2年ちょっとで全国高等学校総合体育大会バドミントン競技大会にでて、準優勝することができました。
バドミントンの面白さは0~400km/hぐらいまでのスピードの変化の中での駆け引き、心理戦、色んな要素があります。
バドミントン協会登録者数は平成20年が23万2000人、平成29年には29万8000人に増えています。
実施人口、2002年81万人、2018年104万人と増加傾向にある。
生涯スポーツとしては取り組みやすいスポーツだと思います。
室内なので天候に左右されない。
バドミントンを日本のスポーツの中でメジャーなものにしていきたいと思っています。
東京オリンピックの後、2022年には東京で世界選手権が行われ、その先はパリ大会もあるので繋げて行きたいと思います。












2019年5月21日火曜日

曽我貢誠(詩人)             ・力一杯生きてきた ~『秋田人 100人の物語』

曽我貢誠(詩人)       ・力一杯生きてきた ~『秋田人 100人の物語』
秋田県出身の同郷組織「秋田ひぇばなの会」が一昨年の11月首都圏在住「秋田人の100人物語」と言うタイトルの詩集を出版しました。
寄稿した人は117人、各自写真入りで291ページの記録集です。
「ひぇばな」とは秋田県の言葉で「じゃあまたね」と言う意味を表しています。
曽我貢誠さんは1953年昭和28年秋田県河辺市に生まれました。
『秋田人 100人の物語』に原稿を寄せると共に編集スタッフの一人として本の刊行に携わりました。
曽我さんは東京理科大学を卒業後、足立区、墨田区、北区の中学校で定年まで理科の先生を務めました。
日本詩人クラブの理事でもあり、作品には詩集「学校は飯を食う処」などがあります。
曽我さんはこの『秋田人 100人の物語』には人々の故郷秋田を思う気持ちと庶民の貴重な生活記録が載っていると言います。

「ひぇばな」と言う言葉は秋田県の言葉で「じゃあまたね」と言う意味を表しています。
「ひぇばな」の会は今から24年前の平成7年に初代が金子信也さんと言う方が代表で立ちあがりました。
主に秋田の文化や芸術みたいなものを人に知っていただくと言う活動を続けていたそうです。
金子さんが7年前に亡くなり、その後、田村輝夫さんが代表になりました。
その田村さんの一言で始まりました。
無名の人達の生の声を残す活動をしたいと考えたそうです。
今まで物を書いたことのない人に貴方の人生を書いてみませんかと言うことから始まったそうです。
秋田県人会とは別になっています。
私は日本詩人クラブに参加していて、その中で秋田の大先輩の詩人である山口敦子さんから突然電話頂きました。
秋田と東京に付いて2000字程に纏めてこの場に来なさいと言うことでした。
持って行ったらいつの間にかスタッフの一員となり雑用をするようになりました。

そこでは喧々諤々の議論をやっていました。
一人の字数制限は2400字となっていましたが、多い人もあり少ない人もあり、写真を入れたりして一人2ページに抑えるようにしました。
東京生まれで秋田大学で学んだ人、仕事の関係で秋田に来た人も原稿を頂いて別枠で載せました。

序章 春夏秋冬の詩が載っています。
「上野駅で初めて降り立った日、直ぐに到着する電車に驚いた。 人の多さにはすこしづつ慣れていった。
でも飲み水と飯だけには身体に合わなかった。  ・・・・。
青空に東京タワーがそびえていた。・・・・。 ここで生きる勇気を貰った。
この日から私の未来への第一歩が始まった。」

第一章 私の歩んだ道
第二章 人ありて今
第三章 あの頃あの時
第四章 こだわりと生き甲斐
第五章 故郷を思う
第六章 ありがとう、これで

かみやかつじさん
「我人生 演歌」金子克司さん
「我が幼少期を思い起こすと 戦後母はシングルマザーで私は実の父を知らなかった。
食べるものも無く母は農家の堆肥場から野菜の葉っぱを持ってきて食べさせてくれました。 ・・・私は栄養失調から肺結核となり誰も遊んでくれない。
この生活環境が私の人生基盤となったのです。・・・・。昭和35年15歳で飛び出した。
・・・見送る義父からの言葉「錦を飾らず家の敷居を跨ぐな 風邪ひくな」・・・とぎれとぎれに聞こた餞別の言葉が今でも脳裏に鮮明に残り忘れることはできまん。・・・。
今は芸能活動をしていて地域の為に活躍していて、いろいろなことがあってそれで優しいんだと思います。・・・
デビューから40星霜、平成28年五月売れない作曲生活40周年記念コンサートを街興しと熊本大地震チャリティーを兼ね、「輝け横手」として開催。
大勢のお客様からは最高によかったと賛辞の言葉を頂戴、感激、感謝、感謝、感謝。
波乱万丈の人生が不幸なのではなく、己に負けることが不幸なのである。
演歌人生 ブラボー」

「父母ありて」 岩崎恭子
「かつて鉱山で栄えた町、阿仁町 私の両親はその阿仁鉱山の鉱石を選別する選鉱場で知り合い結婚しました。・・・。昭和38年12月職場で父は大きな転落事故に遭い診療所に運ばれました。・・・誰もが途中で死んでしまうと思ったそうです。姉が7歳私が5歳の時のことです。・・・一命は取り留めましたが脊髄損傷と言う重度の障害となりました。
・・・差別があったり笑われたりしたことがあったと思います。親身になってくれた人もたくさんいました。・・・なんでも挑戦している二人の姿は周りの障害者に勇気を与えました。・・・「まげねで(負けないで) いぎでれば(生きていれば) だれがのやくにたつ」が父の口癖でした。
父からは境遇や環境に左右されない心の強さと逞しさ、母からは誰かのために尽くす生き方で自分自身が生き生きと輝いてゆく姿を教えられたと答えました。」
彼女は高校時代フェンシングで全国優勝している。
両親から学んだことを生かして現在は福祉関係の仕事をしています。

「カラフト サハリンからの逃避行」前田三保子
戦争末期ソ連軍が侵攻、避難をするため南下したが、又ソ連軍により元に戻される。
戦後日本に帰ることができた。
その後半部分
「そのうち日本への引きあげは婦女子優先で順次行われることになった。・・・
着替えをリュックに詰めただけだった。・・・身体検査がありお金はすべて没収された。
着いた港は函館でした。 ・・・青森からは汽車で秋田に向かった。・・・
父母の故郷は何と美しいものかと感動した。・・・戦争は残酷で悲惨です。
貴い生命が奪われます。 勝っても負けても不幸です。 戦争の悪を若い人達にも語っていかなければと思います。」

私は東京の中学で理科の先生として35年間教えて来ました。
校内暴力が盛んなころでした。
子供達とその親に支えられて色んな事をまなんだと感謝しています。
日本詩人クラブは70年ほど前にできた組織で初代理事長は西条八十さんで全国に800人で詩を書いている団体です。
「学校は飯を食う処」
「卒業間近の4時間目、むーにゃんはゆっくり教室に入ってくる。・・・「学校何しにくるんだ」、「飯食いによ」「学校は勉強するところだぞ」・・・卒業させて早二年、むーにゃんの言葉の意味を今にして気付く、むーにゃんには母がいない、兄弟も居ない。
居るのは寝たきりの父と夏の縁日に買った金魚3匹だけ。
夜はカップラーメン、朝はパンをかじったりかじらなかったり。・・・
中学を出て直ぐに中華料理店に就職したが、もしかしたら勉強も飯を食うためと言う事を初めから知っていたのかもしれない。
私は生徒に云う様にしている、学校は飯を食う処、一人のこらず旨い飯を食いたまえと」
とにかく学校に来てくれればいいと言う子もいました、学校に来てしっかりご飯を食べてくれればどうにかなると長年の経験で感じた次第です。

「いじめている君へ」 「いじめを見ている君へ」 「いじめられている君へ」
三篇の作品を作っています。
廻りの見ている子がそのことをどう見ているのかと言う事がすごく大事だと思います。
いじめは無くならないと言う本もあります、どうしたらそこから脱却するかと、子供自身に教える、何処にでもアンテナを張って、我々が出口を教えてあげることが大事だと思っています。

「私の生い立ちとゆりてつのこと」 畑澤富美夫
ゆり高原鉄道
「平成20年10月 秋田内陸線廃止反対のPR活動で伺いました。・・・
全体で2億4000万円程度の赤字で、現在は2億円程度に削減されているようです。
・・・その後悶々としながらゆり鉄の為に立ち上がろうと決心しました。・・・」
それから奮闘が始まる。
ゆり高原鉄道は鳥海山が見えて素晴らしいところです。
終点の屋島町には佐藤まつこさんが「まつこのへや」というお店を開いていて、この方は全国的に有名で全国から来るようで、話を聞いて元気を貰って帰るそうでいつからか「まつこリラックス」と呼ばれるそうです。

「恩返し」 吉岡潤
特別養護老人ホームでお年寄りにリハビリと体操、心のケアをしていましした。
・・・ある老夫人とのやりとり。 
「・・・自分の両親の介護は一度もしていません。 両親、小、中、商高の恩師、街の方々にはさんざんご迷惑をおかけしてきましたので、皆様に対する恩返しのつもりで身近にいる御老人ペアに真心をこめて尽くしました。」
会ったことはないんですが、終末のお年寄りを600人見送ったと、今の手紙では1000人見送ったと書いてありまして、最期に住職さんからの言葉が書いてありました。
「私たち住職はお亡くなりになってからでなければできませんが、吉岡さんは大変御立派に生前に成仏させています。私たち坊主は頭が上がりません。」と
住職さんから貰った手紙の中の言葉と言う事を吉岡さんから私に手紙をいただきました。

「そして今」 
「秋田を離れてもう何年経つだろう。 ・・・こちらでの生活がずーっと長くなった。 とにかく無我夢中で生きてきた。 汗と笑いと涙の人生、首都圏で暮らす秋田人、100人の生きざまがここにある。」
スカイツリーの写真がある。
秋田だけでなく全国の地元の人達に声を掛けて、無名の人達の生活の歴史を書いていただきたいと思います。
「みちのく秋田・赤い靴の女の子」の映画製作も進めています。
ある舅の包丁を手で払った嫁が、近くにいた子供にあたってその子供を殺してしまいます。
母親のお腹の中には別の子を宿っていて、刑務所で女の子が生れて、その子は「はつ」と言いますが、アメリカから来たハリスンという女宣教師が育てて、差別、貧困、病気を乗り越えて、「はつ」はロサンゼルス、ハワイでハリスンと一緒に生活をして32歳で亡くなります。
それを後世に残したいと言う事で大山雅義さんが発起人で脚本監督の石谷洋子さんが監督を務めています。
ホームページを立ち上げてお金の面などで全国の皆さんに協力していただいて映画を完成させたいと思っています。





































2019年5月20日月曜日

玉川奈々福(浪曲師)           ・【にっぽんの音】

玉川奈々福(浪曲師)           ・【にっぽんの音】
進行役:能楽師狂言方 大藏基誠 
第11回伊丹十三賞受賞。
この賞は一つの枠に収まりきれない多彩な活動をされた方に送られてきた賞。
浪曲をどんなふう見せたらお客さんが面白がってくれるかと言うことで、知恵を絞ってきたこと、色んな会をしかけてきたのでそういうものを見ていてくれたんだんあと思いました。
お能、狂言、ほかの芸能とコラボレーションしてみたり、それが他の事が判るがゆえに、浪曲の事がドンドン理解が深まると言う事があって、色んな方と一緒にやってきました。
浪曲は物語をかたるが三味線も入って、節と言う歌うような部分もある、人によっては一人ミュージカルだねと言われることはあります。
浪曲は歴史が浅く、できてから150年位、明治維新後です。
義太夫と似ていますが、直接には関係ないです。
むしろ大道芸の説経祭文(せっきょうざいもん)とか阿呆陀羅経(あほだらきょう)とか、ちょんがれとか道をながして歩いていて物語を語る大道芸人の流れと言われています。
浪曲は凄い芸だと思っていますが中々人に伝わらない、見せ方が下手過ぎると思っています。
こういうふうにしたら浪曲を面白く見えると言う工夫をしてみて、駄目だったら諦めも付くと思って工夫をいろいろしてきました。
昔は浪曲がすごく盛んだった。

最初三味線弾きになろうと思って5,6年やっていましたが、あまりにも下手なので、師匠が「おまえうなって見ろ」といったんです。
自分が浪曲をうなってみて、どういうふうに三味線を弾いてもらったら、浪曲の三味線として有難いのかを体感してみろと言うことで一席覚えてみろと言われたんです。
一席覚えて舞台に立ってみたら浪曲の方の仕事が来るようになってしまって、いつの間にか浪曲師になってしまいました。
入門して8,9年してからどうしたら浪曲が面白く見えるかと言う事で、プロデュースの仕事をしました。
私なりにプロデュースしたらお客様がドーンと来てくれました。
浪曲の問題ではなく見せ方と発信の仕方が問題だったと言う事が判りました。
それからいろんな角度のプロデュースしてきました。
ゲストで小沢昭一さんがきて浪曲に関することをいろいろ話したり色んな小道具を実演したり見せてくれたり色々やってくれてお客さんは大喜びでした。
最期にうちの師匠が浪曲をやるとより判るようになるわけです。

2年前、語り芸パースペクティブ(perspective)と言うのをやりました。
以前フランスでバレリーナをやっていたフランス人の友達が佐渡でフランス語を教えながら人形浄瑠璃を研究している人がいて、お国の伝統芸能はどんなものがあるか聞いたら、腕組みをしてなかなか出てこなかった。
日本には語りの伝統芸能が沢山あり、日本にある語り芸を総ざらいしたらどうだろうと思いました。
60人限定で3万円で11回に渡ってやりましが、一日で売り切れて超人気でした。
それぞれの芸にはそれぞれの芸の出自があり、使命があり、アイデンティティーがあって決して一つにはなれないと言う事が判りました。
日本の芸能を旅するみたいでした。
想像力は日本文化には欠かせないものだと思います。
(大蔵:子供の教育には想像力が一番大事と思っています。
日本文化の伝統芸能だとかを見ると、想像力が養われるのではないかと思います。)
自分たちの物語を知ってて一杯持っていると、心を鍛えてくれる様な気がするんです。
それは凄い財産だと思います。
*浪曲「仙台の鬼夫婦」から仙台から江戸への道行きを語る場面  玉川奈々福

(大蔵:三味線との掛け合いがいいですね)
何の打合せも無く譜面はないです、三味線の方が呼吸を見ています。
浪曲は自分の節を作らなくてはいけない。
浪曲は声ができるまでが大変でした。
*三味線の弾きだし(師匠によって色々ある)

*「文蔵」(狂言 大藏基誠)に三味線(玉川奈々福)を合わせる

今年初めて弟子を取ることになりました。
おたがいに学んで行くと言うような感じです。
落語は都会的ですが、浪曲はローカルだと思っていて、登場人物に素直なパッションを感じます。
浪曲の登場人物は人生にセーフティーネットを敷かない、自分の命を軽く扱って、この瞬間生きればいいという様な輝きがある、やっぱり面白いなあと思います。
(大蔵:狂言も心に面白さを持った人間が多いです。)
「日本の音」は色々ありますが、、懐かしい音と言うことで、お正月を迎える時に横浜港の停泊している船が大みそか12時に一斉に「ボーーッ」汽笛を鳴らしますが、これが私の「日本の音」だと思います。


















2019年5月19日日曜日

藤原将志(包丁研ぎ師)          ・【"美味しい"仕事人】切れ味を売る

藤原将志(包丁研ぎ師)          ・【"美味しい"仕事人】切れ味を売る
料理に欠かせない道具の一つが包丁。
切れ味は研いでこそ保たれるもので、以前は台所に必ず砥石がありました。
今では見かけることが少なくなりました。
包丁の切れ味は食材のおいしさに関係があることが判っていました。
包丁を研ぐことに改めて注目が集まっています。
藤原将志さん(35歳)は三重県松坂市で70年続く刃物店の3代目です。
大学を卒業後、東京老舗刃物店に勤めましたが、接客をする中で同じ刃物でも研ぎ方によって切れ味が大きく変わることを痛感して、研ぎ方と切れ味の関係を研究するようになりました。
設立した一般社団法人日本包丁研ぎ協会を通じて研ぎ文化の普及活動に取り組んでいます。
包丁の切れ味で食材のおいしさも変わる、切れ味を日々追及している藤原さんにうかがいました。

今新しいキッチンには砥石は無くなってしまいました。
おいしく切れることを研究してきました。
そう言ったものが売られているかと言うとそういう訳でもない。
おいしく切れない代表例は誰が使っても、この包丁の切れ味が悪いねというのはおいしく切れない。
切れるのにおいしく切れないと言うこともあります。
爪で引っ掛かるとよくきれるということをやりますが、刃先が凄く荒れていないと引っかからない。
そこでおいしく切れないと言うことになる。
細胞を壊さないと言う事がおいしさにつながっていると思います。
細胞を壊すとネガティブな味が出てしまう。
刺し身でも生臭いとか、フレッシュな味ではないものが出てしまうんだと思います。
どっちがおいしかったかと言う番組に出させていただいて、3種類の料理をやったことがあり、野菜嫌いな子とお母さん3チーム6人に目隠しをして評価していただきました。
ミネストローネに関しては5人が切れる包丁が旨いと言っていただきました。
ステーキは全員切れる方に、チンジャオロースも5人切れる方に上げていただきました。
子供たちは全員正解でした。

食材の傷み具合も変わります。
魚を3枚におろしたものでは切れない包丁の方が、早く味が抜けて身が柔らかくなると言うことが確認されています。(野菜でも同様)
料理人さんがOKをだしてくれればと言うことで料理人をターゲットにして、包丁の研ぎ方の考え方とか普及をしています。
中立と言う事を考慮して一般社団法人日本包丁研ぎ協会で研究をさせていただいています。
私は「研ぎ」を「修理」に置き換えましょうと言う事を言っています。
切れなくなったものを切れるようにする。
そのためには構造を知る必要がある。
片刃、両刃、専門的な包丁、金属も一枚と複数をくっつけているものもある。
ステンレス、鉄材とかもあります。
自分の買いたい刃物に合っているのかがポイントだと思います。
構造を知ると良い所、悪い処が判ってきます。
刃物のどこが壊れているのか情報を知らないと直せない。
砥石の使い方、適切に研ぎたいところ、構造を理解し何処にどの砥石をアプローチするのか、砥石の理解と砥石のメンテナンスをしないと正しく研げない。
砥石は5分しか使えないので、メンテナンスをする必要がある。
へこむ前に平を維持することがとても大事です。
曲がった定規で真っ直ぐ線を引けないと言っているのと同じです。
プロの方もほとんで出来ていないと言う事が現状です。

おいしい切れ味の状態を維持管理するお手伝いをすると言うことと、研ぎ方の指導をやっています。
鍋、ナイフ、フォークなどの道具を買う時に、味と言うものをあまり考えないで買っていることが凄く恐ろしいと思います。
スズの容器に日本酒を入れて温めると、まろやかになると言われたりするが、調理道具を構成しているものによって、熱の伝導、伝達が違いがあり色んな要因で味が変わっている可能性がある。
そう言ったことは包丁の切れ味を追及していってるうちに、或る日気付いたと言う事があります。
おいしい切れ味と言いながらも何がおいしいのかは私が決めることではなくて、料理人さんが自分でおいしい料理を提供するのに、私がどうやってささえることができるかと言う立ち位置で提供、提案をさせていただきます。
海外の料理人さんにも物凄い数の日本の包丁が売れていて、特に高級な刃物が売れています。
海外のメンテナンスが気がかりで、昨年ヨーロッパに行きましたが、フランスでは研ぎ方を指導していました。
私が打ちだしたい切れ味を持っている道具は和包丁の研ぎ方を一番指導したいと思っていますが、両刃(洋包丁)のものが多く出ている傾向です。
刺し身を切る時には片刃の和包丁を使っていただきたいとは思っています。
台湾では2度講習会をした事があり、困っていることは顕著に判ります。

三重県松坂市で70年続く刃物店の3代目です。
始め継ぐつもりはなかったが、東京でお世話になることになりました。
研いだ刃物がよく切れるとお客さんから言われて嬉しかったです。
研ぎが厭な仕事だと言われていましたが、そこを追及している人はいないのではないかと思いました、それが研ぎでした。
実家に帰って最初にやったのがあらゆる砥石を購入することでした。
天然の砥石は本当に判らない、謎すぎます、だから何かあるのではないかと思います。
顕微鏡でいつも刃先を眺めているうちに、色んな事が判る様になりました。
包丁の研ぎの試験、免許制度をやりたいと思っています。
海外に行って日本の料理文化は凄いと思います。
魚を三枚に下ろすと言うことは日本だけだと思います。
日本の包丁が出て行っている中で、「研ぎ」が日本食をもっと広める手助けになるのではないかと思います。





















2019年5月18日土曜日

勝部麗子(福祉推進室長)         ・「声なきSOSを見つけ出す」

勝部麗子(福祉推進室長)         ・「声なきSOSを見つけ出す」
コミュニティソーシャルワーカー 大阪府豊中市社会福祉協議会・福祉推進室長
大阪市のベッドタウンとして発展した豊中市は人口40万、千里ニュータウンなど集合住宅が増え都市化と高齢化の中で浮かび上がってきたのが孤独死、ゴミ屋敷、引きこもり、ホームレスなど役所の担当窓口の狭間の問題でした。
一方住民と行政を繋ぐために全国の行政区ごとに組織されている、社会福祉協議会も制度の狭間の問題については動くことができませんでした。
勝部さんはこうした問題にも取り組めるコミュニティーソシャルワーカーCSWという新しい専門職の配置を大阪府に提案、2004年全国で初めて大阪府内の自治体ごとにCSWが配置されました。
勝部さんの取り組みは豊中方式と呼ばれ全国から注目され 、NHKでドラマになり「プロフェッショナル仕事の流儀」でも取り上げられました。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/04/blog-post_21.htmlをご覧ください。

2019年5月17日金曜日

熊谷博子(映像ジャーナリスト)      ・【わが心の人】山本作兵衛

熊谷博子(映像ジャーナリスト)      ・【わが心の人】山本作兵衛
明治25年福岡県生まれ、小さいころから筑豊炭田の坑内に入り、炭鉱夫として働いてきました。
60代半ばを過ぎてから子供や孫に炭鉱暮らしを伝えたいと、絵筆を取り自らの体験を描き続けました。
昭和59年亡くなりました。(92歳)
山本作兵衛さんの日記、絵は2011年5月25日に日本で初めてユネスコの世界記憶遺産となり筑豊の人達をびっくりさせました。
熊谷さんは作兵衛さんの絵に魅せられ、作兵衛さんゆかりの人を取材し、映画「作兵衛さんと日本を掘る」を製作しました。

ユネスコの世界記憶遺産は大変なものです。
他には例えばヴェート―べン第9の自筆の楽譜とか、アンネの日記とか、マグナ・カルタとか、フランスの人権宣言とかあり、作兵衛さんの絵、日記が入ったことは大変なことです。
日本では初めてのことです。
炭鉱の記録画です。
当時筑豊炭田に生きた一人の炭鉱夫が描いた赤裸々な労働の姿を描いている。
愛と尊敬を持って描いている。
2000枚以上描いたと言われる。
最初見て吃驚しました。
描き始めたのが60歳半ば過ぎてからです。
一度も専門的な絵の教育は受けたことが無い人でした。
7歳から親に付いて炭鉱に入って行って、小学校もろくすっぽ行けなかった人がこれだけ豊かな世界を描いた。
最初字も書けなかったが、20歳になって自分で漢和辞典を自ら写して字を覚えた。
脳に浮かんだものをそのまま取り出して、手の先などにそのまま伝わって来るような絵です。
絵の後ろ側から音が聞こえてくるような感じです。
本格的に描いたのは60歳半ばからです。

炭鉱の街のありとあらゆるものを描いた。
「母子入坑」が有名です。
振り返る母のまなざしが凄くいいです、筑豊の聖母子像と呼ばれています。
過酷な労働だけれども、女鉱夫の顔に寄って行くと余りにも美しく、艶っぽくてほつれ毛の一本一本まで丁寧に描かれている。
女鉱夫が背中に赤ん坊を背負ってカンテラを口にくわえて、200kgもの箱をズリズリと触りながら支えて行くと言う凄い情景もあったみたいです。
特に夫婦が多かったようです。
筑豊の言い伝えの中に「筑豊の男は女の尻の光で生き伸びてきた」と言う言葉があります。
いくら男が掘っても運ぶ女がいないとお金にはならないわけです。
落盤事故があったらひとたまりも無かったので、どれだけの人が亡くなっていったんだろうということ。

映画「作兵衛さんと日本を掘る」を作ろうと考えて完成まで7年がかりでした。
最初民放局から依頼されて、作兵衛さんのドキュメンタリーを作って欲しいと言われたが、作ったがTVの中ではカットが多くなって作兵衛さんの絵を見せたことにはならないと思って映画を作りました。
作っては直しの繰り返しでした。
作兵衛さんを描いたものは、現在でもあるし未来なんではないかと思いました。
いっときは300余りの大、中、小の炭鉱があったようです。
三池炭鉱は日本最大の炭鉱でしたが、女鉱夫は1930年までいました。
筑豊はそれより延びました。
105歳まで生き延びた女鉱夫に出会う事が出来て話を伺う事が出来ました。
かやのさんから細かな色んな話を聞けました。
上半身裸で短い腰巻で働いて本当に恥ずかしかったと言っていました。
そのうち夫は戦争に取られて、他人の男の人と一緒に働かなくてはいけなくなってかなりきつかったそうです。
最初会ったのが104歳で、立って迎えて下さって「貧乏が一番」と言われて、それが私を鍛えてくれて、「今が一番幸せ」とおっしゃいました。
子供を8人産んで、一人亡くし、戦後貧しさの中で6人もつぎつぎ亡くされ、最期は一人になって、そんな人生だったんで、今が一番幸せでという、その中で色んな方が助けてくれて、長生きしたからこうやってあなた方にも会えたんですよと言われました。

女鉱夫の仕事も他人事ではないと思います。
皮膚感覚であるのはベトナム炭鉱に入って撮影していたことがあり、3日間毎日入って、最期の日に遠くの方に小さい灯りがポツンと見えて、それを見た時にアーこれで生きて帰るんだなあと、思ったんだろうと皮膚感覚で思いました。
最期に表に出るまでは決して安心できる仕事場ではないとつくづく感じました。
鼻の中も耳の中も炭塵で洗っても洗ってもなかなか取れないんです。
ベトナムの人に画集を持って行って見せたんですが、同じだ同じだと叫んでいました。
作兵衛さんの自伝には自分たちの暮らしと言うのはちっとも変っていないと書かれている。
変わったのは表面だけであって、底の方は全く変わらなかったのではないか、炭鉱は日本の縮図のように思えて胸がいっぱいになりますという言葉があります。
作兵衛さんが60歳代になって働いていた山が閉山となり、日本は高度成長をひた走ることになる。
閉山と言う言葉そのものが、おまえたちはいらないと言われている気がして惨めだったと、しかしこれを見たら私たちの労働がこうやって支えてきたんだと、恥でも何でもないから大声で自信を持っていようと思ったとおっしゃいました。

三池は大炭鉱だったので残っているし世界遺産にもなったが、筑豊の場合は全部つぶしてしまった。
その中で炭鉱への差別もあったと思うし、それを言って下さる方もいませんでした。
筑豊にいたとはとは中々言えなかったと言います。
世界記憶遺産になって初めてここっていいんだと言えるようになったと言いますし、世の中も注目してくれる様になってよかったと思います。
作兵衛さんは当時としては女性に対する尊敬が強いんですよ。
だから描く女鉱夫は綺麗で美しい。
作兵衛さんはユーモアもありお酒が好きでした。
「ゴットン節」は筑豊で鉱夫の間で歌われていた歌ですが、ツルハシの音とか石炭を運ぶ車がゴットンと言う音と言うのもあります。
*「ゴットン節」を歌う作兵衛さんの歌
含蓄の深い歌だと思います。
労働って何なんだろう、労働者って何なんだろう、地の底の方からもう一回この国を見つめ直したい、この先を考えたいと言うのが、この映画と作兵衛さんを通した思いです。












































2019年5月16日木曜日

柴田文江(プロダクトデザイナー)     ・デザインで新しい価値を生みだす

柴田文江(プロダクトデザイナー)     ・デザインで新しい価値を生みだす
炊飯器や電気ポットなどの家電製品からコーヒーカップ迄、私たちの身の周りのものに機能的でスッキリとして美しいデザインのものが沢山あります。
優れたデザインのものに付いているGマーク、日本の誇る物作りの信頼のマークがGマークです。
このGマークの基になる優れたデザインの物、ことを選定するグッドデザイン賞の今年の審査委員長がプロダクトデザイナーの柴田さんです。
柴田さん自身、見やすい電子体温計や身体を包み込みこむ座り心地の良いソファーのデザインで4回グッドデザインの金賞を受賞しています。
女性初の審査委員長として話題になった昨年に引き続き、今年も審査委員長を務める柴田さんにデザインとは何か、デザインに込める思いを伺いました。

グッドデザイン賞は色んなものがエントリーされて、デザインという視点で切り取って見て行かないといけないので、「美しさ」を一つのキーワードにしています。
「共振力」もキーワードに入れました。
グッドデザイン賞は1957年からあります。
最初のころはカメラ、炊飯器、扇風機、などが選ばれました。
産業振興が起点になった賞でした。
今では物だけではなく形の無いもの、サーブス、ビジネスモデルまでデザインが行きとどいているので、「美しさ」だけではなく、「共振力」と言う事を軸にして良いデザインを議論していきたいと思っています。
審査委員長は大役ですが、大勢の審査員と議論できるのは楽しいし、Gマークでも初の女性の審査委員長とか言われていますが、デザインなどは男性、女性とかあまり関係ないジャンルなので、そういったことは考えていないと思います。

昨年は凄くセンセーショナルだったんですが、「おてらおやつクラブ」と言う活動でお寺のお供え物がたくさん来るが、日本にある貧困、或るお母さんと子供が貧困で亡くなるという事件があり、何かできないかと考えたのが始まりだそうです。
一方でお寺にはお供え物がたくさんあって、食べきれなかったりすることがあるそうで、そういうものを「おてらおやつクラブ」がNPOを通じて必要な子供たちやそういうところに届けて行くと言う活動で、実際は食べ物だけではなくて衣類とか色んなものを配っているらしいと言うことです。
教会や神社も賛同しているらしいです。
本来かつてはお寺に行くとおやつをもらえたりしているので、デザインの力で「おてらおやつクラブ」というふうにしてゆくことで、お寺のものを貧困家庭に届ける仕組みなんですが、それが受賞しました。
思想、その活動を見てそのことに気付くことも凄くあると思います。
お坊さんたちの創意工夫で新しい仕組みができたわけで、それはデザインだと思います。
考え方が「美しい」のではないかという議論もありました。

エントリーは昨年は4789ありますが、その中からグッドデザイン賞を選んで、ベスト100も選んで、そのプレゼンテーションを全部聞きます。
デザインは使う人の判断も重要で、そういった点も重要視しています。
いまは使い手側の視点が重要視されるようになりました。
NHKの「日本語で遊ぼう」の番組も2004年にグッドデザイン大賞を受賞しています。
当時その瞬間には会場がどよめきました。
物から離れた最初の時でした。
デザインの領域が拡大してきました。
人が関わるものをデザインなしで作ったり生み出すことは難しいです。
色んな可能性を見せてくれていると思います。
世界にも色んな大きなデザイン賞があるが、アジアでも信頼性も高いし、審査員が外国人を含めて80名ちょっといます。
時間と議論を尽くしてやっているので日本が誇るデザイン賞だと思います。
審査員長をやっていて大変と言うよりも意外と面白いです。
公平さも美しいと思うし、弱い人に対してフレンドリーと言うことも美しいかもしれないし、グッドデザインは何かしらかの美を求めていると思います。
正しさ、全体性、豊かさ、なのかわからないが美しさと言う言葉以外は見つけられないなと思います。
液晶画面で文字が読みやすい電子体温計、身体をすっぽり包み込むようなソファーで金賞を貰いました。
体温計は読みやすい、挟みやすいと言うのが基本の機能なのでそこに注力して行いました。
自分が使う視点で観ることが重要かと思います。

元々絵を描くことが好きでした。
小学校低学年のころには家が織物屋だったので、布を使って人形などを作ったりしていました。
絵描きか漫画家になりたいと思っていました。
段々自分の進路を決めて行きました。
グラフィックデザイナーになりたかったが、浪人している時に立体の展覧会を見て立体のことに興味を持ちました。
家電メーカーに就職してその後独立しました。(26歳)
仕事が取れなくて、デザインコンペに応募して賞を取って、声を掛けられたりして少しづつ仕事が来るようになりました。
足で蹴って乗る体重計とかデザインしました。

閃くと言うのは或る程度考えていないと閃かないので、かなり長い時間を考えてはいますが、最終的にそれを結びつける段階を閃いたと言うのかもしれませんが。
カプセルホテルをとってみても、デザインする前は一ユーザーだったのが、デザインするというスイッチが入ると見えてくるものが違ってきて、違うスイッチを入れてデザインする対象を見ることはデザインの始まりとしては重要です。
新しく作られることがデザインと言う事ではないし、新しいものが何十年も使い続けられたいと思っていると思います。
例えば寝室製品を作ってもこれが暮らしのスタンダードになったらいいなあといつも思っています。
なかにはその瞬間らしい時代のものを作って楽しむようなデザインもあるかもしれないが、適切なものを長く使えるようなものを作りたいと思っています。
暮らしに寄り添える余地のような、そういうものがあってもいいかなと思います。
愛着を持てるようなたたずまい、そういう事をいつも考えています。
例えプラスチックでもデザインでしっとりとした感覚で愛着を持ってもらえないかなあと考えます。
デザインとは人間が人間らしく暮らす知恵かなあと考えています。





















2019年5月15日水曜日

船橋康貴(養蜂家・一般社団法人 代表理事)・ミツバチから地球環境を考える(2)

船橋康貴(養蜂家・一般社団法人 代表理事)・ミツバチから地球環境を考える(2)
オペラ座での出会いは蜂蜜と言う意味でも自信にもなるし励みにもなりました。
私がしたかった蜜蜂を先生にした子供たちへの教育を300年前からあったという事、理由、すなわち自然に畏敬の念を持つ、それが備わったならばいろんな問題は起きないと言う事をフランス国家が認め、いろんな公園に蜜蜂教室を開き役所が課外授業科と言うものを作って、クラスに順番に割り当てをして、ミツバチを真ん中に置いた命の教育をされていたことに勇気づけられました。
蜂育、これを日本にしたいと思いました。
昆虫などが減ってきています。
 
蜜蜂から始まって花に行って、種が落ちて芽が出て、森になって水がたまって、空気が出来て食べ物が出来て、水、食べ物、空気はお陰さまと言うハ百万の神をおもい、自然体として、自分のその一部として理解していて、それに感謝をすると言う習慣があるので、ハ百万の神に手を合わせたりして、日本人の最も日本人らしいところであると思います。
旅をして先住民にも、環境関係の方々、市民とも沢山あいました。
話をしてはっと思ったのは「虫の声を声と聞こえる民族は日本人だけだ。」と言う話です。
外国ではノイズとして聞こえる。
蜜蜂は私に対して安心です、幸せです、有難うと言う時は巣箱ごと重低音がします、ドウーンと言う音(羽音)です。
調子が悪かったり、ご機嫌が悪かったり文句がある時には「ザーッ」と言います。
私の蜜蜂教室では最初に音を聞いてもらう、一定のバイブレーション、感覚に落ち着きます。
そうして、落ち着いたところでどんなに蜜蜂にかじりついても刺すことはありません。
大好きな友達と晩ご飯を食べて楽しいねと言っている心の安らぎよりも、ふとした時に自分のかたわらを蜜蜂がブーンと通り過ぎた揺らぎの方が心身の安らかな安定する効果が高いという論文(フランスなど)が出ています。

アメリカのネイティブのコギ族が大事にしている蜜蜂の精霊の置物がありますが、活動をキャッチしてくださって届けてくれました。
ハワイのカメハメハ大王の7代目の方ともニュージランドの長老とも話をしました。
蜜蜂を或る意味神の化身として考えていて、減っていることが一番地球にとって危険だと言う事を感じられています。
「蜜蜂からの贈り物」ページ数が16ページ位の漫画で、最初のページに、ドイツの物理学者アインシュタインも、蜜蜂がいなくなると「四年以内に人類は滅亡する」と発言しています。
この漫画はカレーライスで蜜蜂が大切なことを説明している漫画です。
具は蜜蜂が受粉してできるものだし、チキン、ビーフ、ポークカレーも蜜蜂が成らした穀物を食べて生きているので蜜蜂の恩恵、スパイス、水、ご飯も同様、と言うことになる。

蜜蜂目線で生きること、蜜蜂の気持ちになって限られた地球上で生きて行く。
安心安全エコマークというマークを作りました。
6つの約束が含まれている、活動していると言う宣言。
①空気を美しく
②水を美しく
③土を美しく
④食べ物を美しく
⑤人を美しく
⑥地球を美しく
自己宣言です。
10月6日に大妻女子大でキックオフミーティングを行いますが、全てのジャンルの人が集まってミーティングをすることになっています。
素敵なマークができあがっています。
オリンピックが来るので、日本人を見てもらう祭典ととらえようと言うのを皆さんに声を掛けています

一人一人の市民こそが世界をパラダイスに変えられる主役、脇役ではないと言う事を子供
お父さん、お母さんにももう一度思い出してほしいと言っています。
ディズニーのプーさんは蜂蜜が大好きなので、私が言うよりもプーさんが言った方が早いと思って、ディズニーの本社にアポなしで行ったら、6回アタックを掛けたらパトカーを呼ばれて撃たれそうになりました。
社長宛に手紙を書きましたが、返事が来なかったが、その後会議を開いたりして対応してくれて、感動しました、ごめんなさい、知りませんでした、大切なことを教えてくれて有難うということで、キャラクターを動かすことは尋常ではないので色んな提案をしてくれました。
プーさんへの手紙を書こうと言うことになり、そのうちプーさんから手紙が来るようになりました。
受け取った子供たちは大喜びしています。
アクションを続けていると言うことも大事だと思います。
蜜蜂の話で伝えて行きたい。
本物の蜂蜜は熱処理をしていなくて取ったまんまを瓶詰めしているので、物凄いパワーを持っているし、人を癒す力を物凄く持っています。

金子みすゞの詩 『蜂と神さま』
「蜂はお花のなかに、
 お花はお庭のなかに、
 
 お庭は土塀(どべい)のなかに、
 土塀は町のなかに、
 
 町は日本のなかに、
 日本は世界のなかに、
 世界は神さまのなかに。
 
 さうして、さうして、神さまは、
 小ちやな蜂のなかに。」

この詩には本当に感動しました。

















2019年5月14日火曜日

船橋康貴(養蜂家・一般社団法人 代表理事)・ミツバチから地球環境を考える(1)

船橋康貴(養蜂家・一般社団法人 代表理事)・ミツバチから地球環境を考える(1)
船橋さんはサラリーマンとして働いていたころに、地球の環境問題に関心を持ちシンクタンクを立ち上げました。
産業廃棄物の処理、地球温暖化など幅広いテーマで国や海外の研究機関などとの共同研究に取り組んできました。
仕事は多忙を極めますが、環境問題の改善の実感が持てずにいる時に知ったのが自然界での蜜蜂の役割でした。
現在は養蜂家として働きながら、幅広くその経験を生かした蜜蜂に学ぶ蜂育家活動なども進めています。

ミツバチは日本蜜蜂、西洋蜜蜂がいますが、この森の中にはまだぎりぎり日本蜜蜂がいます。
温暖化、気候変動、とか言われますが、四季の繰り返しの流れのなかで過ごしてきましたが、ここの処ずれがあったりしています。
花が咲いても虫が出てこないとか、虫が出ているのにまだ花が無いとか、それで生命の循環が狂い始めていることがあります。
蜜蜂にしても春から動き始めて家族を増やして、夏は暑いので少しゆっくりリズムが休んで、秋に又秋の花が咲くので頑張って溜めた蜜で冬を越して行って次の春を迎える。
冬はしっかり寒い状態がうまく保てているので、巣箱で身を寄せ合って身体をブルブルと震わせてお互いを温め合って、外の蜜蜂が寒くなると順番に交代しながら過ごしています。
温暖化の影響で冬が暖かかったりすると、虫たちはアレ春かなと思って勘違いして動いてしまう。
そうすると死んでしまったりする。
予定されてなかった体力を使ってしまうので、その後にガンと冷えた時に温め合うエネルギーが足りなくなって、冷えてしまって寄り添って固まって死んでいると言う事があります。
ベテランの人達は蜜蜂が育てにくくなったと言う事を言われます。

働き蜂は全員メスで2万匹いて、ほんの少しの雄蜂とたった一匹の女王蜂が一つのコミュニティーになっています。
働き蜂の一生はわずか一カ月で死んでしまいます。
生れて動けるようになって直ぐは部屋の掃除係をします。
暫くすると赤ちゃんたちの子育ての係をします。
次にお姉さん蜂が取ってきた蜂蜜を受け取って、中に溜めて行く貯蔵係のような仕事をします。(内勤:2週間)
次に外で飛ぶ練習を始めます。
半径2kmの中にある蜂蜜や受粉をします。(2週間)
一日3000の花を廻ります。
受粉して貰う為花たちもちょっとしか蜜を出さない。
遠くで蜜蜂の羽音がすると花もその音に共鳴します。
蜜蜂に来てもらわないと命が続かないからいろいろな形と色をしていて、花の蜜を甘くして出します。
遠くの蜜蜂はそれを感じ取る力があるので、蜜をちょっと頂いた時に受粉して次の花に行きます。
全ての生態系がこういう関係性で、「甘いあえっこ」をする訳です。
鳥と果物も「甘いあえっこ」していて、種が混じったウンチをして土に落ちて、土には微生物、ミミズ等がいて、豊かな土にして種を発芽に導き、その代わりに落葉して土を豊かにする。
森が出来て、古い木が朽ちて新しい芽が出て、豊かな森が二酸化炭素を吸収してくれて酸素を供給してくれて私たちは生きていることができる。
水も循環していて、魚を育てる。
太陽、水、などの作用もあり、光合成、醗酵等が起きて私たちもこのループの中にある。

評価として蜜蜂一匹の人生は10円だねと言う事になるが、3000の花を受粉してリンゴ、ミカン、桃とか野菜とかを供給する大事な仕事をしています。
実一個を100円とすると蜜蜂一匹が人間に与えてくれる食べ物の経済価値は450万円なんです。

51歳で養蜂業を始めました。
サラリーマンを経て環境のコンサルティング会社の社長業をやりましたが、或る時中学2年生の女生徒からの手紙があり、彼女がインタビューに来ました。
環境に関する現象について話をするうちに彼女は号泣し始めて「生きるって、人生って、人間ってなんですか?」と叫んで、「みんな病気になって死んでしまいます、子供たちを助けて下さい」と言われました。
それまで自分は貢献していると思っていたが、その問いに答えは持っていなかった。
養蜂家を訪ねる機会があり、蜜蜂が少なくなってきていること、蜜蜂がいなくなったら食糧危機になることも知っていましたが、ただ知っているだけでした。
75歳の養蜂家がこの子たちがいなくなると食料危機になって、地球が終わってしまうと朴訥と語ったんです。
衝撃をうけて、判ったと思いました。
蜜蜂を先生にして伝えたならばどんな人にも素直に判り易く伝わるかと思って、社長業を辞めて蜜蜂と暮らす生活を始めました。
年収は1/20になり大変でした。

自然の中に入って生き物と暮らすことで、心身ともによくなってきました。
今年で8年目になりますが、食べれるようになったのは7年目の途中からです。
6年目の年末は財布の中に55円、通帳残高ゼロでした。
「俺たちどうなる?」と息子に言ったら「何とかなる」と言われ、本当にできた息子で本当に何とかなってきました。
何故かギリギリのところでいつも手助けが入りました。
凄く美味しいと言われましたが売れませんでした。
試食をしてもなかなか買ってもらえませんでした。
環境の展示会があった時に小さなブースを出したことがあり、隣りでタオルの会社(今では有名なタオルの会社)の社長さんがいて、内容的には素晴らしいことをやっていましたが、商談は思わしくなくうなだれて帰りました。
或る時にその社長の会社が驚異のV字回復をしました。
最後の資金でニューヨークの展示会で、日本で出したものと同じものを出したが、グランプリを取ったと言う事でした。
日本中が注目して凄いことになりました。
そのことを覚えていて日本人は海外に特にニューヨークに褒められると弱いんだと言う事で、ニューヨークへ行こうとしたが、食べ物の専門家たちから食はパリだと言う事で、銀行に行ってなんとかお金を貸してもらいました。

言葉(フランス語)が出来ないので、インターネットで「通訳を一日でも助けてくれたら有難い」と発信をして飛んで行きました。
宿の金が無く、公園で野宿するつもりでいました。
一人の人が手伝いますと言ってくれて、宿はどこかと言われてお金が無かったので公園に寝る予定だったと言ったら、夜はマイナス10度ですと言われてしまいました。
その人の友人のマンションが空いていて使っていいと言うことになりました。
オペラ座の屋根の上に蜜蜂がいて、アポなしで飛び込みましたが、会う事を拒否されました。。(都市型養蜂でやっています。)
何人も警備員がいたがありったけの笑顔で「ボンジュール」といって、通してもらいました。
オペラ座の執務室に到着し、そこには100人ぐらいいました。
最高責任者に会わせてくれと言ったら大さわぎになって、総支配人室に行き会わせてもらいました。
「パリの人、フランスの人は蜂蜜の味はその作った方の人生の味だ」とおっしゃいました。
あっちこっちの電話をしてくれてあっという間に2週間のスケジュールがうまりました。
フランスの人達と繋がって色んな事が起きました。
蜜蜂が減ることで食料危機があり、自分の一個の命と74億人の命との交換は愛だなと思ってしまいました。
何とかしたいと言う気持ちの方が強かったです。
開いて行った扉が沢山ありました。
音楽は国境を越えると言うが、もうひとつは蜜蜂だと思います。
パリ中央養蜂委員会があり、名だたる公園の真ん中に蜜蜂の園があり子供の教育があります。
フランスでは蜜蜂から教わるという姿勢が300年前からあります。
パリ中央養蜂委員会の委員長に会えて、「自然に畏敬の念を持つ、この事が判ったならば何も子供達の非行は起きない」と言われて、超多忙な方なのに丸々3日時間を割いてくれて、色んなところに行き色んな事を教えてもらいました。
オーガニック(一般的には農薬や化学肥料に頼らず、太陽・水・土地・そこに生物など自然の恵みを生かした農林水産業や加工方法)・・・ 君等は製品の原材料とか生産のプロセスのことをオーガニックと呼ぶだろう、物を選ぶとか○○剤を入れていませんとか・・・でもそれはオーガニックの考え方の一部だと言われました。
ではオーガニックとは何かと言った時に、その会長は「人生の在り方、生きざま 命の使い方」だといわれました。
最期にお別れする時にグーッと抱きしめてくれて泣きながら「尊敬する日本人に友達が出来てとてもに幸せだ」とおっしゃいました。
日本人はすべての命に対して神を見、それ(八百万の神)に手を合わせて、朝な夕なに太陽に手を合わせ自然のありように、丁寧に寄り添って生きている国民だろう」と言われました。
しかし私はとても恥ずかしい気持ちになりました。
是非日本に来て案内したいと言おうと思ったが、とても日本に今お呼びできないと思って、返す言葉も無く、ただただ有難うと言って涙を流しました。
そう思っている方に応えたいと思いました。










2019年5月13日月曜日

穂村弘(歌人)              ・【ほむほむのふむふむ】

穂村弘(歌人)              ・【ほむほむのふむふむ】
初めにショックを受けたのは、自分の書いたものが活字になって雑誌に載ったことでした。
手書きで送っていた時代でした。(ワープロが一般に広まっていなかった。)
別世界の出来事でした。
雑誌に載ったことは連絡がありませんでしたのでなおさらでした。
文学部で教職課程を取っていなかったので先生にはなれないし、行き場が無くてコンピューターがまだ黎明期で人が足りなくて、ほぼ無試験でシステムエンジニアとしてコンピューター会社に入社しました。
通勤時間も長い(1時間40分ぐらい)し、原稿書く時間も中々ないような状況でした。
他の雑誌で新人賞を取った加藤治郎さんから手紙が来て、一回会わないかと言う事で会う事になりました。
会うと朴訥な感じがしました。
加藤さんは会社員で3,4歳上の人でした。
彼を介して段々人脈が広がって行きました。
同人誌「かばん」に所属することになりました。
そのころちょうど文語体から口語体に替わる時期でした。
先生はみんな文語体でした。

「かばん」では翻訳家としても著名な井辻朱美さんとか、当時のリーダーは中山明さんとか、林あまり
さんとかがいました。
周りの人たちは歌人と言う事だけではなく色々な方面に活躍していて私も翻訳、絵本などを作るようになりました。
定型詩としての5,7,5、7,7に興味がありました。
加藤治郎さんの歌
「ぼくたちは 勝手に育ったさ 制服に セメントの粉 すりつけながら」
コンクーリートに囲まれた場所で制服を着せられて、管理されているが本人たちはどこかクールで、いや僕たちは勝手に育ったんだよと。(学生運動の世代の後の世代)
「さ」行の言葉が繰り返される。
見えないかすり傷を沢山負っているようなそんな雰囲気がこの言葉にはあるようです。

「もうゆりの花びんをもとにもどしてるあんな表情を見せたくせに」
僕はこれはセックスの歌だと思います
セックスのような微妙なテーマになると口語体にすると生々しすぎる。
文語体は生々しさはないが。
比喩的な表現で暗示している。
連作の配列によって効果が出てくる。
「 ヘッドフォン・ステレオを聴く この家にもうだれもいないことに気づいて」
どこか自閉的な世代の特徴が出てきている。
当時年上の人から見たらヘッドフォンをつけて音楽を聴いて居る人たちは心を閉ざしている象徴の様に見えた。
*「サムデイ」 佐野元春
ポップスの歌詞に当時の口語体の短歌で影響された部分もあると思います。
「・・・さ」とか「・・・だぜ」とか「・・・かよ」といったふうな語尾に。

「シンジケート」より穂村弘
「体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ」
冬で窓の外には雪がひらひら落ちてきて、雪だと言ったが口に体温計が入っていて、「ゆひら」と聞こえ、なんだよ雪といったのかよ?みたいな感じ。

「 「キバ」「キバ」とふたり八重歯をむき出せば花降りかかる髪に背中に」
桜が咲いていてその下で何故か二人は 八重歯を見せあって、戯れている。
初期の歌には社会の歯車になるとかの恐れ、嫌悪感、反抗、不安などがすごく裏返っていて二人だけの学生のような時間を生きる、時間が掛け替えが無い、子供のようにじゃれ合っている時間に対する憧れが凄くいいと指摘されて、当時の自分の気持ちそのものだと思いました。
「水滴のひとつひとつが月の檻レインコートの肩を抱けば」
女の子がレインコートを着ていて、肩を抱いたらふと見ると水滴がちっていて、その一つ一つの中に月が映っていて、それが月の檻の様だと言うふうに見立てた歌です。
月がその中に閉じ込められている。
これは女の子は全然気が付いていない状態、女性に対する憧れみたいなものが投影されている。















2019年5月12日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)         ・【クラシックの遺伝子】

奥田佳道(音楽評論家)         ・【クラシックの遺伝子】
5月12日にちなんだ曲
スメタナの連作交響詩《わが祖国》より「モルダウ」
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団による2014年5月12日から14日にかけて録音されたCDから。
合唱コンクールなどでコーラスとしてて歌った人が多いかと思います。
雪融け水が岩から出てきて大河になってゆく、チェコをたたえるスメタナの名曲
5月12日はスメタナの命日。
今日のクラシックの遺伝子5月にちなんだ曲

*《わが祖国》の第6曲 「ブラニーク」の最後の部分。
高揚感に溢れている。

メンデルスゾーン作曲 無言歌集 第5巻から第6曲《春の歌》
『無言歌集』の中でも最も有名な曲。
メンデルスゾーンはシューマンの親友。

シューマン 作曲 『詩人の恋』 「美しい5月に」 ハインリヒ・ハイネの詩

モーツアルト 作曲 「春への憧れ」
モーツアルトが亡くなる年の作品。
*モーツアルト 作曲 ピアノ協奏曲第27番(KV.595) 第3楽章から

中田章 作曲の日本の唱歌「早春賦」 吉丸一昌作詞
「早春賦」の調べをテンポアップしてみると、モーツアルトの「春への憧れ」 ピアノ協奏曲第27番のフィナーレのメロディーととても向かい合っているような感じがして似ています。

山本直純 作曲 児童合唱と管弦楽のための組曲『えんそく』から「光る」「おべんとう」

*エディット・ピアフの代表曲 「バラ色の人生」 ピアフ作詞、ルイギ(フランス語版)作曲

2019年5月11日土曜日

笹畑美佐子(「スマイルシード」代表)   ・【人ありて、街は生き】親子で安心、おいしいメニューを

笹畑美佐子(アレルギー対応子ども食堂「スマイルシード」代表)   ・【人ありて、街は生き】親子で安心、おいしいメニューを
去年の春滋賀県の守山市でユニークな食堂が立ち上がりました。
食物アレルギーのある子供達の為の子供食堂です。
自宅の調理はもちろん給食や外食、保育園や幼稚園の行事などあらゆる場面で食材のチェックは欠かせません。
色々な制約の中で外出するのが億劫になって孤立してしまうという人もいると言います。
そんな親子の為に医師や調理師、管理栄養士などのグループが夏祭りハロウインなど、季節ごとに安全で楽しいメニューを考えようと言う訳です。
設立を呼び掛けたメンバーの一人、笹畑さん54歳は自身も食物アレルギーの息子さんを育ててきました。

大豆の醤油ではなくエンドウ豆の醤油を使って、片栗粉でしているので小麦粉アレルギーにも対応しています。(子供達のクリスマス食事会の食事の一部)
コタミネーション(食品を製造する際に、原材料としては使用していないにもかかわらず、特定原材料等が意図せずして最終加工食品にコンタミネーションしてしまう場合がある)が怖いので食事会の前日に徹底した掃除と洗浄を行っています。
調理台が特に危ないので3回は洗浄してから使用します。
食器も独自で購入したものを一般と分けて使用しています。
特定原材料7品目があり、卵、乳、小麦、エビ、カニ、蕎麦、ラッカセイは義務表示になっています。
推奨表示と言う20品目があります、肉、魚、ナッツ類、果物があり、メーカーさんに任せている表示があります。
加工食品ではハムなどもあります。
ケーキの元、小麦粉を使用しているので、米粉をスポンジにつかっているものがあるのでそれを使っています。
アレルギー源が含まれていないか、食物アレルギーのひとは命にかかわるので表示チェックをしています。

アレルギーにも色々タイプがあります。(約5種)
食事型症状が一番多いです。
8~9割の方が皮膚症状、じんましんとか赤くなったり、かゆくなったりします。
全身に蚊に刺されたようなぶつぶつが出現する人もいます。
その後にお腹が痛くなったり嘔吐、下痢、呼吸器症状、目がかゆくなったりします。
アナフィラキシー、アレルゲン(アレルギーの原因となる物質)が体内に入ることにより、複数の臓器や全身に症状が起こり、生命に危険が及ぶ過敏反応のことです。 その中でも血圧低下や意識障害を伴う状態をアナフィラキシーショックと呼んでいます。

ソーセージの繋ぎに小麦が入っていて、救急車に運ばれたこともありました。
食物アレルギーに対する理解もすこしづつ社会に広がってきています。
ちょっとした量でもコタミネーションが起きてしまうので、アレルギー研修を年に一度でもしてもらって意識を持ってもらう事は大事だと思っています。
私の子は18歳になりますが、食事症状ではなくて、特殊型でしたので、原因物質を食べて激しい運動をすることによって症状が出たり出なかったりするものです。
幼稚園のころにその症状が発生しましたが、私自身が理解できていなくて、心臓が悪いのか内分泌かなあと思っていました。
4,5回目に救急車で運ばれた時に食物アレルギーだと思われると言われて、食物アレルギーに関する勉強を始めました。
その時は小麦粉ではないかと言われていました。
小学校に入ると食事後にサッカーをしたりするので、休憩時間は母親が管理してほしいとの事で、
学校に行って子供の様子を見て帰って来るようにしていました。
緊急で必要な場合はアナフィラキシーに対応する注射を打つキットがあります。

アレルギー対応子ども食堂「スマイルシード」立ち上げについて
務めている病院ではアレルギー教室を年に4回行っていますが、精神的課題、社会的な日常生活に関する質問が多くて医療の中でできる事が少ないと気がつきました。
アレルギーに関する学会で、病院外で何かできることをしていかなければいけないのではないかと言う事があり、子供食堂活動内容と言うものを滋賀県小児保健学会で聞きました。
アレルギーの子はお断り来るケースが多いと言う事を聞いて、アレルギー対応子ども食堂を作ったらそこでアレルギーの子が来て交流会が出来、母親の情報交換ができる場になると思って立ち上げました。
食物アレルギーの事を判ってもらっていないと誤解、偏見とかがおきて、次に出て行くのが億劫になったりして引きこもりになったりすることもあります。

「スマイルシード」立ち上げに関わった医師 楠隆さん。
2012年の東京都調布市の学校給食のアレルギー誤食による死亡事故があり、一気に危機意識が高まり県のアレルギー対策の事業が立ち上がり現在に至っています。
とにかく食べないこと、アナフィラキシーを起こした時に対応する事しかなかったが、
最近は症状を起こさない、ごく少量から食べ始めて行こうと言う方向に変わってきています。
皮膚からすこしづつ吸収させることで免疫の耐性を作ろうと開発中です。
抗抗IgEを併用する治療も工夫されているところですが、まだ研究段階です。
報告書では給食にしじみ、そこに粉チーズが含まれていて、食べさせない表示と言う事になっていたが、お代りをする段になって誤って彼女の手に渡ってしまった。
いくつかの条件が重なって対応を誤り命を落としてしまった。
「スマイルシード」では一人500円頂いています。
対応するには色々と金額がかかってしまうので了承いただいています。
食品メーカーさんから商品の提供があったり、メーカーさんの助成金制度を利用させていただいて運営しています。
滋賀県だけでなく近畿一円の医療機関で働くアレルギー専門看護師、管理栄養士、小児アレルギーエデュケーター(435名が資格を認定されている)のグループが「スマイルシード」を立ち上げる。

小、中、高校の生徒の4,5%に食物アレルギーがあるというデーターもあると言われる。
アレルゲンを除去した冷凍食品の開発をしていただければと思います。
「スマイルシード」のノウハウを提供していきたいと思っていますので、アレルギー対応の食堂を作っていただければと思っています。




































2019年5月10日金曜日

藤城清治(影絵作家)           ・「人生は光と影」(2)

藤城清治(影絵作家)           ・「人生は光と影」(2)
(ちょっと聞き取りにくい面があり理解できずうまく纏められなかったと思います)
どちらかというとメルヘン的でした。
80歳になるころから自然の持っている物をもっと描きたいと、自分の夢ばっかり楽しく描いているだけでは駄目だと思うようになりました。
広島の原爆ドームは描かないと若いころは思っていたが、たまたま広島に行くことがあって小雨の降る中で見た時に、なんともいえぬ衝撃を受けました
戦争と言うものを実際に味わい兵隊にも行き、そういうところから次第に自分が何かを表現する、広島原爆ドームなど、見つめられるようなものを絵が描けなければいけいけないと思いました。
簡単にできるようなものではないので、事実と歴史を形の上にちゃんと書き表せる表現力が自分の中にできるかどうかやってみたいと言う気持ちで取り組み始めました。
雨が降っている中で描きました。
それを観てそこから何か、勇気、喜びなり、歴史の深さ、悲しみ、人生、世の中のそういうものを含めた中で、絵の中に表示できるようなものを描いてみようと思いました。
広島原爆ドームみたいなものこそ、こういう大きな夢がそこから生れて来るんだとか、あたらしい時代が開けてくるんだと、そういう作品を描いてみたいという気持ちで描きました。
80歳位になって徐々にそういったものが出てきました。

東日本大震災があり、地球のすさまじさを感じ、災害にどう取り組んで行くか、人間が見て写真のような記録も大事だが、一人の人が描く絵と言うもので 気持ちを込めて、悲しみ、勇気、未来をこうしなければいけないとか、いろんなものが混じっているものの中でこの現実をどう描きとどめて、後世に残していくと言う者としては、被災地の絵と言うものは相当大事ではないかと思います。
ただ壊れていると言うふうに写実的ではなくて、凄さをどうとらえて、そういうものがあっても又それを乗り越えて人間というものは時代を越えて生きて行かなくてはいけないと言う、そういう事の勇気が出る絵でなければいけないんじゃないかと思います。
自然の美しい風景だから描くんだと言うのが今までの絵だったかもしれないが、災害的な凄さみたいなもの、そこには色んな悲劇、悲しみがあるけれども、そういうものを越えた力の凄さ、そういうあらゆるものを表現して、それを越えて行くのがやっぱり人間の生きる勇気ではないかと思います。
そういうものを出すような絵を描くのが、重要なことではないかと思います。
美しい絵を描くのは美しいと思って描けばいいんだがそうではないので、形も取りにくいし、想定を越えた力で曲がったり崩れたり、そういったものを、その凄さを人間は越えて行くんだと、そういったことがわき出てくるような描き方ができないかなと挑戦して、描いている間に時間が経ってしまって、数値(放射能)が上がってしまっているので、辞めて下さいと言われる中でやりました。

絵が描かれた被災地の影絵には小人が登場して折り鶴が飛んでいると言う作品になりました。
そこに勇気と癒しが生れてきて人間の心に更に未来に希望の心を植え付けるようる様な作品にしていかなければいけないんじゃないかと思います。
小人を描くのは若いころから自然に描くようになり、それは自分の分身で 目でもあるし、心でもあるし、自分を代弁しているようなもの、素直に描けるようなものと言う事です。
一番最初はシルエットだけでそのうち、小人の素直な目を入れたいと思うようになり、目を入れて行きました。
はなもりやすじ 影絵には光があると言っていました。
それが人々の心に届いて励ましとなっていると思っています。
色んな意味で花森さんん育てられたと言う事があります。
僕は暮らしの手帳に何十年と連載しましたが、自分の影絵の個性を出そうと言うのではなくて、花森さんの持っている考えは暮らし、生きていると言うか、人間は単なる芸術だけと言うよりも生きている暮らしてゆく事のためのものだと言う事を基本にして、単なる作家と言うのではなくてあらゆる問題について、判っているんで・・・。
僕が適当に楽しんで作ってきた。

暮らしの手帳が狙っている世界観が僕の影絵なんだという、そういう事は念頭にいれていて、暮らしの手帳の方向性を僕の影絵は出している、作っているんだとそう思っていると言う気持ちを持っているから、この影絵の頁を開くと・・・・・。
90歳になって2回手術、椎間板ヘルニア、脊柱間狭窄症。
入院している時にはやる事がないから、窓から見える景色をデッサンしたりしました。
障害があってもそこで出来る限りの事をやって行くことに喜びがあり生きる喜びがある。
絵と言うものは学生時代に自由に描いていたのは、凄いなあと思うし、戦争中に描いていたのも凄いなあと思うし、戦後にも無い時に影絵をやったのも面白かった。
他にも色んな事をやって、その後影絵に絞って影絵の展覧会をして細かいことができるとか、そういう20歳のころも凄くいいけど今も凄くいいと思う。
20、30、40代に出来なかったことが、90歳代になってできる部分もあると思います。
生きている事の素晴らしさ、若い頃の素晴らしさ、中年の素晴らしさ、老年の素晴らしさがあり、老年になるほど生きることの素晴らしさが或る意味、より高められる。

2019年5月9日木曜日

佐々木常雄(医師)            ・"がん患者"2万人に寄り添い続けて

佐々木常雄(医師)            ・"がん患者"2万人に寄り添い続けて
山形県出身73歳、弘前大学医学部卒業後、青森県立中央病院、国立がんセンター、都立駒込病院などで勤務し、2008年から4年間院長も務めました。
佐々木さんはがんの内科専門医としておよそ2万人以上のがん患者の抗がん剤治療に当たり、看取った患者はおよそ2000人と言われます。
現在日本におけるがん患者の発生数は年間およそ100万人、死亡原因の一位で死亡者全体のおよそ30%を占めています。
平成の時代に入ってからがんの治療は急速に進歩、放射線の治療ではがんの部分だけを叩く粒子治療、薬物療法ではがん細胞だけを選択して叩く分子標的治療薬も出てきました。
その一方で入院期間を短くするなど医療費削減、経営改善などから本人が望まないまま転院を求められたり、医師からの心ないコメントに患者や家族が傷ついてしまう事があるそうです。
日進月歩のがん治療や心のケアの重要性、患者や家族に寄りそったがん治療の在り方等について語っていただきます。

実際にこれまで受け持った患者さんは、2000人位だと思いますが、色々かかわった患者さんは2万人以上になると思います。
がんと言われると皆さん本当に心配されます。
がんは1981年から日本の死亡原因の第一位なって、もう40年位がんは死亡原因の第一位になっています。
死因の30%ががんで年間100万人が新たにがんと診断を受けるような時代です。
この10年で75歳未満の方で16%ぐらい減っています。
しかし全体では増えている状況です。
1985年位までは患者にがんとは言いませんでした。(がん=死と言うような時代)
その頃から2000年位までは隠せない時代になり、がんである事を告げる時代になりました。
2000年以降になると、個人情報保護法があって患者さん本人にがんだと言う事を言わないといけなくなって、家族に云う場合は本人の了解を得ないといけないと言うような時代になってきました。
治療法もどんどん進歩してきて、抗がん剤でも抗がん剤治療の効き方なども、調べれば患者さんも分かる時代になり、後6カ月、3か月の命ですと簡単に言うような時代になってきました。

早期癌で見つかれば内視鏡で取ると言う事もあります。
抗がん剤、放射線治療も一緒にやることによって大きくとらないで済むようになり、ロボットを使っての手術だと傷も小さくて済むと言うようなことにもなってきました。
抗がん剤では副作用がありましたが改善されるような薬も出てきています。
分子標的治療薬はがん細胞の分子を標的にするもので2000年のころから、慢性骨髄性白血病にはイマチニブと言う飲めばコントロ-ルできる。
それまでは骨髄移植という大変な手術をやっていた。
肺がんではEGFR遺伝子の変異のある人、東洋人、日本人の女性など、煙草を吸わない人こういう人に遺伝子変異のある腺癌があるが、ゲフィニチニブと言う飲み薬があり70%ぐらい効果があると言われています。
遺伝子異常診断をしてそれに合った薬を選ぶと言うような時代になってきました。
粒子治療、がんのその部分だけを叩くと言うものです。
前立腺がんは以前は放射線をかけると、直腸もやられて出血して困ったと言う事もよくありましたが、直腸にあたらないような形になってきています。
免疫チェックポイント阻害薬、本当に効く人には物凄く効いて、今までには考えられない効果が得られています。
肺がんの患者で99%駄目だと言われた人が一回の治療で明らかにがんが小さくなり18回の治療でがんが何処にあるかわからないと言う人がいます。
全く副作用が無いと言う人もいます。

知る権利、自己決定権とか、あと3カ月しか生きられませんとつげられると、患者は大変です。
心をどう支えるのか、いろいろ問題があります。
多くの患者の中央の数値から言っている訳で、実際にその人がどのぐらい生きられるのかは判らないということです。
告知は非常にきついわけです。
心のケアは停滞気味です。
私はセカンドオピニオンは前から推進してきた方です。
納得して治療することが大事です。
担当医が気を悪くすると言うふうに気を使う事は全く考える事はないと思います。
抗がん剤が効くと言う事は治ると言う事になればいいが、治らないけれど小さくなって生きながらえることがあるということで、抗生物質の効き方とはちょっと違います。
緩和ケア、ホスピス 
本当に死が間近になった時は生きたいと思う気持ちが出てくるのは当然だと思います。
心の思いを温かく見守って欲しいと思います。
緩和ケアが死を受け入れると言う、これって僕は違うと思います。

人間体が弱ってくると心も弱って来る訳なんですが、当然だと思います。
医療関係者は患者さんの弱さと未練、そういったものを肯定するそういう心が欲しいと思います。
「死を受け入れなさい」と言う医者は、自分が死に直面していないから言えるんだと思います。
生きたいと思うのは当然だと思います、それに医療者は付き合って行ってほしいと思います。
一緒に暮らす家族の負担は大きいと思います。
家族が健康を損ねてしまうと言う事もあるわけです。
家族を休ませるためのレスパイト入院と言う事もあります。

胃がんが再発してもう駄目で、科学療法ですっかり消えてNHKの「ためしてガッテン」に出てもらった人もいます。
56歳の女性の患者、40年前に急性骨髄性白血病になり、当時本人に言ってなかった。
本人が知らないなかで副作用もあり或る意味無理やり治療した訳です。
うまくいって、10年経って結婚することになりそこで初めて白血病だと知って、その後20年経って乳がんになり、手術、化学療法、放射線治療など行って大変な想いをして、
クリアしたかと思ったら反対側の乳がんが見つかり3回目となりました。
その患者さんが私に手紙を書いてくれました。
「これからやりたいことが3つあります。
①さんざん心配を掛けた両親をきちんと看取る。
②孫の顔を観る。
③ボランティアをしたい。
17歳で白血病にかかって完全にぽっきりと心が折れた時期もあります。
病気で高校を留年した時、結婚して乳がんが見つかった時、何故何度も私だけがと自分を呪い続けた毎日でした。
去年にはもう片方が乳がんになりました。
患者は孤独です、会社には話しても判ってもらえない、今後が心配なので自分の弱さを見せたくない。
家族にどう話をしていいのか言葉を失い何を話せばいいか判らなかった。
先生や看護婦さんに話を聞いてただき、先生や看護婦さんから頂いた命のともしびを医療関係などのボランティアで少しでも役に立って返したい。
それが自分の生きる力にもなるように思えるのです。」
医師と患者と一緒になった戦う姿勢が大切だと思っています。
3度もがんを経験された方ですから、患者さん同士は心に響く訳です。

旦那さんを失ってから100日位した人から頂いた手紙。
「すこしずつ体が弱っていくなかでも、希望をもって過ごすことができたのは病院の方々が最善を尽くしていただいたからです。
今はたった一人になりましたが、何故か温かな気持ちで生きることができそうです。」とありました。
その旦那さん「今はたった一人になりましたが、何故か温かな気持ちで生きることができそうです。」と言う言葉が私の宝物になったなあと思います。
死への恐怖どう乗り越えるのかの方法。
そういった文献も無いし、どうやって我々の愛とか思いやりを発揮していけるのか、患者さんはどうやって死への恐怖どう乗り越えて行けるのか、きっとこの方は死の恐怖を乗り越えた方だと思ってその人に聞いて見ることにしました。
女性で67歳の方乳がん4年間戦ってきて後1カ月の命だと言われた方。
旦那は72歳で無職。
放射線の治療の為に僕の処の病院に来ました。
患者さんはもう動けないし全身が痛いので、モルヒネを沢山打って早く死なせてくれればいいと思った。
生きていてもしょうがない、みんなに迷惑をかけるだけ、夫は食べ物を買ってきてくれるが食べる気がしない、どうせ後3週間出し・・・早く死なせてもらった方がいいとその方は思っていたそうです。

或る時に旦那さんが好きなおかずを買ってきたが食べない。
「生きていても意味がない、どうせ何にも役に立たない、早く死なせて。」と言ったそうです。
旦那さんが帰り間際になって「君が生きてさえいればそれでいいんだよ。 生きててほしい」、そう言って帰って行ったそうです。
2日後の夜になってはっと気が付いて
「私が生きていることが夫の励みになっているかもしれない。
私が生きている意味があるのかもしれない。
私が死んだら夫は一人になってしまう。
生きなきゃ、生きている間に夫に料理や家事を教えなきゃあ。」
「君が生きてさえいればそれでいいんだよ。 生きててほしい」その言葉で、どうせ死ぬにしても口は動くので料理、家事を教えるために翌朝には、カーテンが開けられ部屋が明るくなり、表情も明るくなっていた。
例え人間動けなくなっても、生きているだけでも人の役に立つことができる、私はこの患者さんからこの事を教わりました。
或る患者さんから「みんな人それぞれ心の奥には安心できる心があるんだ、そういう要素が心の奥にあるんだ、人間皆安心できる心があるんだよ」ということを教えてくれた人がいました。
安心できる心を引き出すには、周りの人の真心が大きな役割を果たすのかなと思います。

這い上がる術を探しているんですが、自分の考えを書いてみる。
泣ける話せる相手を見付ける。
貴方の命はこの地球にたった一つで本当に大切な命なんです、先のことは誰にも判らないが、医師などと相談して最も良い治療法を選ぶことが最もい大事なことだと思います。
学生時代悪性腫瘍だと言われて、どうどうめぐりしていたが書くことによって気持ちを整理するのに役に立ちました。
泣けて心がすっきりした経験もありました。
自分の心を出せる相手を見付ける、実際泣いて、心にため込んでおかない出だす事も重要です。













































































2019年5月8日水曜日

達川光男(元広島東洋カープ監督 野球評論家)・これが広島野球じゃ!

達川光男(元広島東洋カープ監督 野球評論家)・これが広島野球じゃ!
野球界がジャイアンツ中心に動いていて、プロ野球全体がジャイアンツに勝ちたいと言う中で、高校野球では広島より東のチームに負けたくないと言う事がありました。
高校野球では広島に入りたいという選手が高校野球に集まりました。
1955年7月13日に広島市で生まれ、広島商業高校で作新学院の江川投手を攻略して春の選抜高校野球では準優勝、夏は全国優勝、大学では東洋大学に行き、昭和52年のドラフト会議で広島カープから4位指名を受けて入団、入団6年目から正捕手として活躍し 、現役選手生活は15年、ゴールデングラブ賞3回、ベストナイン3回、広島のセリーグ優勝5回、日本一に3回貢献。
引退後は1995年から福岡ダイエーホークスのバッテリーコーチ、98年にカープの二軍監督、99年、2000年と一軍監督、阪神タイガース、中日ドラゴンズでバッテリーコーチ、福岡ソフトバンクホークスでヘッドコーチ、去年広島カープを下して日本一になったのを機にユニフォームームを脱いで、野球評論家として活躍中。

物心付いた時には大人の中に混じって野球をやっていたようでした。
最初はボールを拾う役目でした。
広島球場へは自転車で行っていました。
熱狂的なファンでした。
外木場さんが完全試合をやったのを見ています。
高校は広島商業に行きました。
中学は和気あいあいとした学校でしたが、高校は軍隊式の学校で吃驚しました。
1年の時はやめたかったが、大好きな野球をやめると言う事は出来なかった。
高校1年生の時に入部が100人位いたが厳しさで段々辞めて行って12人になってしまいました。
最初はピッチャーではいったがその後野手としてやっていたが、キャッチャーが一人しかいなくてその人が仮病でその代役をやることになり、キャッチャーをやるようになりました。
当時、作新の江川投手に注目が集まっていました。
選抜の開幕戦に江川投手がブルペンで第一球を投げた時に浮き上がる様な球を投げてどよめきが起きました。
準決勝で対戦することになりました。
とにかく粘り強くやろうと言う事でしたが、勝てるとは思わなかった。
選抜は決勝では敗れる。
夏は全国優勝をすることができました。
豊富な練習をしたという自負がありました。
負けない野球と言うものをずーっとやってきました。
*「今ありて」 選抜の大会歌になった歌  阿久悠作詞、谷村新司作曲

広島のお好み焼きは大好きです。
昭和52年のドラフト会議で広島カープから4位指名を受けて入団。
スカウトが欲しい選手をずーっと見つめて行き、そのうち相思相愛みたいな感じで入団すると言うようなケースが多いようです。
三村さんの前で10回、20回とバットを振ったら、あまりにも非力の為ため息をつきた。
お前がキャッチャーで生き残ろうと思うのなら、古葉監督より勝ちたいと言う気持ちを持てるキャッチャーになれといわれました。
勝てるキャッチャーに、裏を返せば負けないキャッチャーにと言うことです。
自分も頑張るがピッチャーにも頑張ってもらうように、監督の作戦だけはできるようにという思いです。

6年目で正捕手となる。
江夏さんからは色々教えてもらいました。
サイン通りに投げなくてもしっかり補球できるようにと言う事を言われました。
江夏さんからは「初球、といつインサイドを投げるかその時のサインが大事だ」と言われました。
「直ぐ覚えたことはすぐに忘れる、苦労して覚えたことはなかなか忘れない」、と言う事を上田監督から言われました。
長い間苦労してきたから、苦労した体力が今開花しているのではないかと思うのが今の広島の力ではないかと思います。
野球人口が少なくなり、キャッチャーになる人も少なくなってきているようです。
広島の野球は自分たちで喜ぶと言うか、上手く言えないが自分を自分で褒めると言うような、そんな感じです。















2019年5月7日火曜日

木島隆康(元東京芸術大学教授)      ・美術品修復の魅力を次世代に

木島隆康(元東京芸術大学教授)      ・美術品修復の魅力を次世代に
1951年昭和26年北海道生まれ、画家を目指して上京し、予備校に通いましたが、受験の為の絵を描くことに疑問が膨らみ、生き方を模索している時に 絵画や文化財などを修復する世界に出会いました。
当時池袋にあった、アートとデザインを学ぶ創形美術学校に入学、ここで多くの修復の師に恵まれ、修復の道を選択しました。
イタリア留学で海外文化財などの修復技術を学び、東京芸術大学教授に就任してからは、修復は職人の技術と言われていたものを学問に高めることに勤めました。
主な業績は山梨県立美術館所蔵のミレーの「種まく人」の修復や、藤田嗣治の秘密の絵画技法を解明したことです。
又赤坂迎賓館の天井画の修復では、木島研究室で学んだ人が多くかかわるなど、次世代の育成にも評価されています。

17年間在職したので17年間にたまったものを片づけている最中です。
以前は修復と言う職人でしたが、教育者となれるのかなと思ってはいたんですが、付き合ってみると多様な学生と出会いました。
今年1月に退任記念展を行いました。
「本展覧会では木島のオリジナル作品は展示されていません、修復の手は鑑賞者には見えてはならないものだから」とパンフレットに書いていますが、多くの先生は自分の作品を展示するのが多いのですが、自分の場合はあまり作家活動はしていないので、修復の成果を展示したかったので自分の作品は展示していません。
修復はあくまでも裏方の仕事なので、直した人がしゃしゃり出るわけにはいかない。
(歌田真介名誉教授は、木島氏を職人の技術を学問に引き上げる第一人者だと評価している。)
修復する以前のその作品が持っている、背景、歴史が詰まっている。
修復する作品の技法、材料がどうなっているのか調べなければいけない。
調査することに依って色んな事が判って来るので、記録する、それを学問化していく。
文化財保存学と言っています。
得られた情報は貴重なものが多い。
次の世代に渡せる事が出来る。

修復家にならないかと言ってくれたのが歌田先生でした。
はいって見ると非常に面白かったです。
森田恒之先生は(国立民族学博物館名誉教授)、「修復と言うものは一人でするものではない」と言っています。
(森田恒之先生は木島氏はチーム木島を作り上げた第一人者だと評価している。)
森田恒之さんはベルギーで勉強して修復、技法、材料について勉強されて日本に帰国された。
文化財を扱うので個人のものではない歴史を通したみんなの門で、一人で独断でやることは危険なことだと思います。
直す時には色んな人が集まって修復するので気持ちがまとまらないといい修復には繋がらない。
いい修復をすることはいいチームを作ることと同意義に近いと思います。

北海道の日高に生まれました。
絵は小さいころから描く事が好きでした。
東京芸大を目指して予備校に通って、受験に合わせたような指導に、こういう絵を描きたくて絵描きになろうとしたんではないと思うようになりました。
ヨーロッパの古典的な絵を見てみると本当に魅力的ですが、自分で絵が描けると言うとそうでもなかった。
技法とか材料を真剣に自分自身で勉強しないといけないのではないかと思いました。
段々修復への思いに傾いて行きました。
創形美術学校に入学しました、そうしたら歌田先生、森田先生に出会う事になりました。
歌田先生は外部からの修復を受け始めていました。
修復の手順が実に職人的で合理性に富んでいまして、それに吃驚しました。
作品が蘇ってきて魅力が出てきます。
この作業はよく考え抜かれた理知的な作業だと思って虜になりました。
自分の気持ちのはやる気持ちを抑えて、自分が思い描いた勝手な方法論で突っ走らないように注意しながらやらなければいけないと言うのが、自分に戒めている点です。

芸大に移って2年目に山梨県立美術館からミレーの「種まく人」の修復を頼まれました。
色んな分野の先生方に協力してもらって始めました。
調査してみて何度も修理されていることが分かりました。
何度目かにある修復画が徹底的に修復しましたが、やり直しされていることが判りました。
一番最初にやった修復家のやり方がやり過ぎていた。
その補彩が図柄がちょっと変わるぐらいにされていた。
それを批判した修復家がいて、前の修復を全部取り去ってまた新しく修復をしたんです。
藤田嗣治の修復は日仏共同で2000年にやりました。
技法の調査をして絵の具の分析をして、絵の具の表面にタルクがでてきました。
一世を風靡した技法が美しい乳白色で、藤田の一大特徴でしたが技法は判っていませんでした。
そのヒントになったのが2000年の修復でした。
タルクはケイ酸マグネシウムと言うものです。
ベビーパウダー、化粧品にも入っています。
ベビーパウダーを藤田は買ってきて描いていると言う事が判りました。
乳白色にするための工夫はほかにも随所に盛り込まれていることが判りました。

東京大学の安田講堂の壁画も修復しています。
横12m縦が6m位です。
小杉放庵の作品で、絵を剥がして研究室に持ち込んで直してパネルに張り込んで元に戻すという大掛かりな作業で2年位掛りました。
赤坂迎賓館の天井画の修復にはじかには関わっていません。
相談を受けて、具体的な修理をやって見て、どういうやり方 どういう材料、期間、費用などについて算出して現在進行している状態です。
参加した作業者を見ると僕の研究室からも多く参加しています。
チームを組むことに依って次の世代がどんどん育ってゆくというシステムです。
技術、知識が伝承される。
「さんまの会」と言うものを作って、昨年秋に15回目になり、さんま400匹を焼いて参加者は300名を越えました。
忌憚のない話をして一杯やると言う会で、喜んで貰っています。
修復は意思の疎通がきちんとできるかどうかが大事な要素だと思っています。



























































2019年5月6日月曜日

内村周子(体操選手内村航平の母)     ・【アスリート誕生物語】

内村周子(体操選手内村航平の母)     ・【アスリート誕生物語】
内村航平さんは北京、ロンドン、リオデジャネイロのオリンピックの3大会に連続で出場、ロンドン、リオデジャネイロの大会では個人総合優勝を果たしています。

バレエ教室から帰ってきました。
長崎諫早市の自宅にでは体操教室も主催しています。
バレエは基本です。
小さい時から習ってきました。
バレエを習ってそれが体操に生かせていけます。
航平は2017年から日本で初めてのプロ体操選手として活動を始めました。
プロでやることは難しいと思っていたが、彼が選んだのであれば応援したいと思います。
失敗しても自分の責任だと言ってくれたので、それならば後悔はないだろうと思いました。
出産の時に全ての幸せを貰ったと思いました。
子育ては甘かったと思います。
生きていてくれたらそれでいいと思っていました。
自分がおこなったことで母から怒られて、同じ事をやっても怒れませんでした。
私たち夫婦が恥ずかしいことをしなければ、子供は背中を見ていてくれると思いました。
結婚して3つの約束をしました。
①子供の前で絶対に夫婦喧嘩はしない。
②人の悪口を絶対に言わない。
③嘘をつかない。
これを守り抜きました。

どうしても叱らなければいけない時には叱ります。
先ず理由を聞いて、そうするとどうなるんだと説明しました。
でも体操ばかりやっていたのであまり叱るようなことはしませんでした。
3歳の時に急に泣きだして「ママ、抱っこ」と言われたが、放っておいて他の生徒を補助しながらやったのを今でも覚えています。
ずーっと泣いていましたが、よその子を放っておいてもどうして抱きしめてやらなかったんだろうといまでも思います。
小さいころからあまりなじめない子、弱い子でした。
色んなところに連れて行って色んな人と出会って経験させることだと思い、あっちこっちにつれていきました。
大きな大会にも連れて行って、観させてこういう試合をしなければいけないんだとそれを沢山やりました。
航平は最初の大会では最下位でした。(6歳)
緊張しないで出来るようになったのはどうしてかと聞いた時がありますが、「経験かな」と言いました。
怖がりで高所恐怖症でしたが、私もそうでした。
しかし体操の時には怖くないんです。

私の両親は厳しく怖かったので、その逆を行こうと思いました。
母は怒ったことが悪かったのかなと後で思うことがありました。
それを思ったのは今年の正月だったんです。
母が体育館に遊びに来て、沢山料理を持ってきてくれて、急に「あなたの事を本当によく怒って育てて、ごめんね」と言ったんです。
どうしてその時に言ったのかは判りません。
航平は私に何かを伝えるために生れてきていると思っていて、私は弱い人間だろうと思っているので、だから世界一になって勇気付けてくれて、元気に喜んで生きてと、そういう意味なんだろうと思っています。
そういうものだと思っています。
普通の内村航平が私の頭に中にあるだけです。
トロフィー、メダルはそれほど大切だとは思わないが、航平の言葉です、言葉の宝物が大きいと思います。
北京オリンピックの前年にプレオリンピックがあって、いい結果ではありませんでした。
試したかった技があったが失敗してしまった。
貴方のひねりは世界一だよと言ったら、「教えてくれた人が良かったんだよ」といって、「どの先生?」って聞いたら、「自分を産んでくれた人だよ」と言ってくれたんです。
一生その言葉で生きていけると思いました。
もうひとつは全日本ジュニアで優勝した時に「親孝行したよ」と言ってくれて、その二つの言葉ですね。

航平は3歳から始めましたが、たまたま体操教室を開いていたので自然に体操を始めました。(航平も妹も)
体操が好きだったようです。
他の子たちと遊ぶ経験が無くて可愛そうだと思って、サッカーなどを薦めたが、「厭だ、面白くない。」と言って、「だって体操が一番面白い。」と言うんです。
体操の練習以外はピンクパンサー(ゲーム?)で技の名前をを言いながら遊んでいました。
それとVTRをずーっと観て、コマ送りして技を習得していました。
体操ばかりで心配で相談したこともあります。
体操教室での指導については他の子が優先で、どちらかと言うと放っておきました。
アレルギー体質で困りました。(白砂糖、白米などが駄目なので黒砂糖、玄米などにする)
今は食べられるようになりました。
高校から上京しましたが、私は最後まで反対しましたが。
私の時には反対した父が航平の思い通りにさせてあげればと言われて腹を決めました。

親心としては無事に試合が終わって欲しいと言う思いしかないので、メダルをとってほしいという思いはありませんでした。
航平は体操を愛していると思います。
私は30年振りに2014年9月の第47回体操全日本シニア選手権に出場、21位(50歳以上の部ではトップ)の成績でした。
去年まで5年間出場、今年も出れたら出たいと思います。
私が出て周りが観て楽しんでくれれば、どんな事でもします。







































2019年5月5日日曜日

杉山佳寿子(俳優・声優)         ・【時代を創った声】

杉山佳寿子(俳優・声優)         ・【時代を創った声】
代表作は「アルプスの少女ハイジ」のハイジ役です。
杉山さんは子供のころに児童劇団で活動し、声優としてデビューしてから50年以上たちます。
現在も俳優、声優として活躍されながら大学の教授としても後進の育成にもあたっています。

「アルプスの少女ハイジ」1974年の作品。
今のCMのハイジも担当しています。
オーディションの日に風邪をひいてしまって高い声が全然でないような状態でした。
後で聞いたところそれが良かったと言う事でした。
アニメのデビュー作は1967年に『冒険ガボテン島』のトマト役でした。
佐々木守さんの本を読んでいくとそのままハイジにはいっていける感じでした。
子供の声の出し方は幼稚園などで声を聞いて勉強したりしました。
収録の時にはまだ絵が出来上がっていない状態で想像力だけで喋っていました。
後で見ると冷や汗をかくシーンが結構ありました。
「アルプスの少女ハイジ」は自分の中では代表作になりました。
子供を演じたものの集大成みたいな感じです。
名古屋出身で、NHK名古屋放送児童劇団に入りました。
小さい時にはとっても人見知りしていて、友達の中に飛び込めなくて、どちらかと言うと暗い性格でした。

地元にあった話し方教室へ通うことになりました。
そこで講師をしていたのはNHK名古屋放送児童劇団の顧問でした。
台詞を言う事には抵抗感ありませんでした。
講師から名古屋放送児童劇団に入らないかと言われて、200人位受けた中の5人の合格者の一人に選ばれました。
芝居が面白くて違う自分になれるので面白いと思いました
2年目に主役をやらせていただきました。
その後東京に行くことになりました。
大きい声を出すとリアリティーが無くて、段々大きな声を出してもリアリティーのある声を出せるようになりました。
悲しんだり泣いたり笑ったりする演技でも、自分の心と合致しないとその感情なりが観ている人に伝わらないと思い、それを見付けた時にはちょっと大発見だったと思います。
いまだに判らない事だらけでこの世界は切りが無いです。
舞台はお金にならないので色々アルバイトをしました。
ぬいぐるみのアルバイトは面白かったです、ぬいぐるみに入ると自分ではないから。
それからいろんな役をやるのが面白くなりました。
どちらかと言うと変な役が多かったです。

声だけで演じる事はあまり抵抗感はなかったです。
昔は口の動きと多少ちがっていてもそれほど問題にならなかったが、今は厳しいです。
タカラのリカちゃん人形のテレホンサービス 29年間やらせていただきました。
最初のころは原稿用紙1枚で84秒で撮っていましたが、最期の頃は1枚半位になっていて、時代のテンポが速くなってきたんだと思います。
1972年 戦うヒロインのはしりである『科学忍者隊ガッチャマン』白鳥のジュンを演じる。
1974年には、『アルプスの少女ハイジ』で主人公のハイジを演じる事になる。
初期のころにはお金には色々苦労してきました。
劇団の先輩には飲み屋さんに連れて行ってもらって結構助かりました。
結婚は27歳で36歳の時に子供が生まれました。
離婚をし子供をベビーシッターにお願いして随分周りの人にも助けてもらいました。
一回だけスタジオに子供を連れて行ったことがありましたが、ディレクターが僕が面倒みるからオーディションで5分で済むからと言われて、「それでは行きます」と言って行きました。
そうしたらそれが大変な問題になって子供を連れてスタジオに行っていたと言う事で、そういうふうな時代でした。
今は違いますけれど。

声優は一瞬にしてどんな時代にも飛んで行けるので、役も動物になったり、役は何でもできるので、面白いです。
自分の大好きな外国映画の女性の吹き替えが出来るのも魅力ですね。
今は声優、俳優と言うジャンルに分けられているので、役を掘り下げることを考える人が少なくなってきているので、視聴者に気持ちが伝わらないと駄目だと思うので、気持が動かないとだめだと思うのですが、ところが最近の若い子は感性の弱い人が多くて泣いたり怒ったりできないんですね。
心の中の感情の幅が小さくなっているのではないかと思います。
どうしたらもうちょっとできないのかと思います。
まず上手い人の真似をしてみることも一つの方法かと思います。
自分の知らないところにも足を突っ込んでみることも必要かと思います。
歳を取って来ると声も小さくなるので一日一回大きな声を出して貰いたいと思います。




2019年5月4日土曜日

島田妙子(児童虐待防止機構理事長)    ・虐待を生き抜いて今できること

島田妙子(児童虐待防止機構理事長)    ・虐待を生き抜いて今できること
島田さんは子供の頃両親から虐待を受けた経験をもとに、虐待する大人の心を救いたいと全国で講演するなど、虐待防止の活動を精力的に行っています、
島田さんは神戸市の出身で4歳の時に両親が離婚、二人のお兄さんと共に父親に引き取られました。
その後7歳の時に父親が再婚、その再婚相手からの暴力が始まり、更に実の父親までもが加わって命の危機を感じるような虐待に発展します。
虐待を受けた当時の気持ち、現在の活動についての想いを伺いました。

小学校2年生の時に父が再婚をして継母と新しい家族として生活していましたが、或る日宿題をやっていてもうすぐ終わるころに「ちょっと来て」と言われて、「ちょっと待って」といったら、継母が凄い顔をして「なんで呼んだら直ぐに来いへんのや」といって、私の腕を靴べらでパーンと叩いたんです。
それまでは理不尽に叩かれたことはありませんでした。
後で聞いた話ではその後に謝るつもりでいたそうですが、「なんやその目は」と言う言葉を言ってしまった。
その日から暴力が続いて行きました。
一晩中寝たらいけないとか、ご飯を食べたらいけないとか、寒空のベランダに出されたりとか、おかしなことになってしまいました。
父に言いたかったが、父も大事だと言う思いがあり、言う事は一大事だと思って、父に言うと継母が何かされるかもしれない、でも心の中では早く気付いてほしいと思いました。
父に対しても「これはしつけや」と行った日から、なんとなくきつい言葉だったり、お湯を湯沸かし器を使っていたるするともったいないといって、後ろから蹴られたりしていて、それを父も気付いていて、父はそれを見たくないから帰りが遅くなるわけです。
そうすると継母もイライラして、今日はこの子はこんなんだったと父に言って、父に対しても攻撃が激しくなって、「あんたが怒らないから私がやってるだけや」といって、毎日叫ぶようになりました。
当時父も31歳で、或る日父親のプライドを傷つけるような言葉を発して、父は車のカギを床にバーンと投げつけました。
これで助かると一瞬思ったが、その時に取った行動は私たち3人を殴ったんです。
その後に表に飛び出して行きました。
その後父は「なんやその目は」と言って兄を殴りました。
その日から崩壊してしまいました。

今だから虐待と思いましたが、当時よその家にもある様な事で、それよりもちょっと酷い感じだと言う事があって、我慢はしていました。
そんな中で虐待に対して麻痺してしまうような感覚がありました。
直ぐ上の兄は早く大きくなったら働いてアパート借りて住もうという未来の話をしてくれました。
小学校5年生の時に、父は酒を結構飲んでいて、雪の降る日に父が包丁を持って素っ裸の私を追いかけて外まで出て行きました。
凍りつくような寒さだったので風呂にはいっていたら、父が風呂の戸をパーンと開けて入ってきて、髪の毛を掴んでお湯の中に沈めて、私は「これはあかん」、と思うと同時に「このまま死んだらこんな生活は終わるのではないか」と思いました。
直ぐ上の兄がなんとか止めに入りました。
暫くしてから父は無表情でしたが、継母に向かって「もうええやろう、これで気が済んだだろう」って言って、私は吃驚しました。
いつか優しい父に戻ってくれるのかと思って我慢をしうていたのに、だれに気を使って毎日私たちを殴って来たんだと、怒りの感情が物凄く起こりました。
「もう死にたい」と兄に言いましたら、「何言ってんねん、もうちょっとや妙子、親父は死んだと思え」と言われました。
中学1年位までは親を無視して喜怒哀楽の感情を無くして淡々ときました。

中学2年の時に、担任の女の先生(27歳)が「あなた そのあざはなんや」と聞いてくれました。
或る時父から初めて首を絞められました。
その時に上の兄が父を突き飛ばして助けてくれました。
父はガラスの灰皿を取って兄の頭を殴ったので、脳しんとうだったのかもしれませんが、私の中でもう兄は死んだと、もうこの家は絶対無理だと思いました。
父は病院へ行くと掴まってしまう事を恐れて、父は継母にバスタオルを持って来いと言って、裁縫道具を取りだして兄の頭の傷を父が縫ったんです。
この時父は泣きながら縫っていましたが、もう限界でした。
兄は「お前たちを裏切るようで悪いがもう家を出て行く」と言って出て行きました。

私ももう無理だと思って先生方に今までの6年間の事を言いました。
先生は親を呼び出して、「誰が見ても虐待は判る、もう言い訳は絶対許さない。」と言って下さいました。
今後暴力の形跡があったら即刻警察に連絡してこの子らは返しませんからと言って下さいました。
私は帰りたくないと思っていました。
もし帰りたくないのなら私の家に連れ帰ります、と担任の先生が言って下さいました。
その日で2000日に渡る虐待の日々が終わりました。
父と継母とはそのまんま別れました。
中学3年生の卒業まで養護施設にお世話になりました。
この2年間があったと言う事はその後の私の人生に取って物凄く大きいんじゃないかと思っています。
この2年間で身長が20cm延びました、食事の栄養、言葉の栄養、心の栄養だと思います。

結婚して3人の子に恵まれました。
虐待の連鎖はないと思っています。
私は虐待生活が終わってから沢山の愛情に恵まれましたので、自分は絶対優しいお母さんになると決めていました。
息子は発達に障害があると言われて言葉がうまく伝えられない分、甘えてしまうと言う事がありました。
或る時息子が暴れて、抱っこしながらも心の中ではいい加減に私を困らせるなと目が怒っていました。
黙れと、息子の口を押さえたことがあり、息子の顔を見て手をパッと離していたたまれなくなって、布団をかぶって情けなさ惨めさでワンワンと泣きました。
その後膝に迎えて「ごめんなさい」と言って、氷が解けたような感覚があり、抱きしめて泣きました。
それがなかったら虐待の道を進んでしまったかもしれません。
父は6年間暴力をふるって罪悪感を感じて、その後自殺しました。
だから今はそういった感じで活動をしています。
虐待については第3者の力は必要だと思います。
頭にカチンと来た時にアドレナリンが発生して、アドレナリンが強い感情を起こして当たり易い相手に向かってしまうのでアドレナリンをやり過ごす、長くても6秒と言われている。
6秒をやり過ごす、その後怒るか怒らないかを決める、叱っておかないといけないと思った時にはゆっくりと丁寧に穏やかに叱る。

虐待をされてきたことは封印してきました。
本当に優しかった直ぐ上の兄が急性骨髄性白血病に38歳でなりました。
骨髄移植もしました、結局白血病は治ったという言葉を頂いて、リハビリを開始した直後に肺炎にかかってしまって、治ったら自分の辛かったここのことで何かやりたいので手伝ってほしいと言われて、2週間後に亡くなってしまいました。
私は生きている、何でもできると思って、虐待防止は事が起こらないようにすることで通報は対処だから、通報しないようにできればいいなあと思いました。
講演では父の虐待の話をするので辛い思いをしていましたが、今は役に立っているんだと思っています。
(父は養護施設に「悪かった」と一言電話をして自殺してしました。)
大切なお子さん、夫婦、親子を大切にして欲しいと思っています。