2019年5月21日火曜日

曽我貢誠(詩人)             ・力一杯生きてきた ~『秋田人 100人の物語』

曽我貢誠(詩人)       ・力一杯生きてきた ~『秋田人 100人の物語』
秋田県出身の同郷組織「秋田ひぇばなの会」が一昨年の11月首都圏在住「秋田人の100人物語」と言うタイトルの詩集を出版しました。
寄稿した人は117人、各自写真入りで291ページの記録集です。
「ひぇばな」とは秋田県の言葉で「じゃあまたね」と言う意味を表しています。
曽我貢誠さんは1953年昭和28年秋田県河辺市に生まれました。
『秋田人 100人の物語』に原稿を寄せると共に編集スタッフの一人として本の刊行に携わりました。
曽我さんは東京理科大学を卒業後、足立区、墨田区、北区の中学校で定年まで理科の先生を務めました。
日本詩人クラブの理事でもあり、作品には詩集「学校は飯を食う処」などがあります。
曽我さんはこの『秋田人 100人の物語』には人々の故郷秋田を思う気持ちと庶民の貴重な生活記録が載っていると言います。

「ひぇばな」と言う言葉は秋田県の言葉で「じゃあまたね」と言う意味を表しています。
「ひぇばな」の会は今から24年前の平成7年に初代が金子信也さんと言う方が代表で立ちあがりました。
主に秋田の文化や芸術みたいなものを人に知っていただくと言う活動を続けていたそうです。
金子さんが7年前に亡くなり、その後、田村輝夫さんが代表になりました。
その田村さんの一言で始まりました。
無名の人達の生の声を残す活動をしたいと考えたそうです。
今まで物を書いたことのない人に貴方の人生を書いてみませんかと言うことから始まったそうです。
秋田県人会とは別になっています。
私は日本詩人クラブに参加していて、その中で秋田の大先輩の詩人である山口敦子さんから突然電話頂きました。
秋田と東京に付いて2000字程に纏めてこの場に来なさいと言うことでした。
持って行ったらいつの間にかスタッフの一員となり雑用をするようになりました。

そこでは喧々諤々の議論をやっていました。
一人の字数制限は2400字となっていましたが、多い人もあり少ない人もあり、写真を入れたりして一人2ページに抑えるようにしました。
東京生まれで秋田大学で学んだ人、仕事の関係で秋田に来た人も原稿を頂いて別枠で載せました。

序章 春夏秋冬の詩が載っています。
「上野駅で初めて降り立った日、直ぐに到着する電車に驚いた。 人の多さにはすこしづつ慣れていった。
でも飲み水と飯だけには身体に合わなかった。  ・・・・。
青空に東京タワーがそびえていた。・・・・。 ここで生きる勇気を貰った。
この日から私の未来への第一歩が始まった。」

第一章 私の歩んだ道
第二章 人ありて今
第三章 あの頃あの時
第四章 こだわりと生き甲斐
第五章 故郷を思う
第六章 ありがとう、これで

かみやかつじさん
「我人生 演歌」金子克司さん
「我が幼少期を思い起こすと 戦後母はシングルマザーで私は実の父を知らなかった。
食べるものも無く母は農家の堆肥場から野菜の葉っぱを持ってきて食べさせてくれました。 ・・・私は栄養失調から肺結核となり誰も遊んでくれない。
この生活環境が私の人生基盤となったのです。・・・・。昭和35年15歳で飛び出した。
・・・見送る義父からの言葉「錦を飾らず家の敷居を跨ぐな 風邪ひくな」・・・とぎれとぎれに聞こた餞別の言葉が今でも脳裏に鮮明に残り忘れることはできまん。・・・。
今は芸能活動をしていて地域の為に活躍していて、いろいろなことがあってそれで優しいんだと思います。・・・
デビューから40星霜、平成28年五月売れない作曲生活40周年記念コンサートを街興しと熊本大地震チャリティーを兼ね、「輝け横手」として開催。
大勢のお客様からは最高によかったと賛辞の言葉を頂戴、感激、感謝、感謝、感謝。
波乱万丈の人生が不幸なのではなく、己に負けることが不幸なのである。
演歌人生 ブラボー」

「父母ありて」 岩崎恭子
「かつて鉱山で栄えた町、阿仁町 私の両親はその阿仁鉱山の鉱石を選別する選鉱場で知り合い結婚しました。・・・。昭和38年12月職場で父は大きな転落事故に遭い診療所に運ばれました。・・・誰もが途中で死んでしまうと思ったそうです。姉が7歳私が5歳の時のことです。・・・一命は取り留めましたが脊髄損傷と言う重度の障害となりました。
・・・差別があったり笑われたりしたことがあったと思います。親身になってくれた人もたくさんいました。・・・なんでも挑戦している二人の姿は周りの障害者に勇気を与えました。・・・「まげねで(負けないで) いぎでれば(生きていれば) だれがのやくにたつ」が父の口癖でした。
父からは境遇や環境に左右されない心の強さと逞しさ、母からは誰かのために尽くす生き方で自分自身が生き生きと輝いてゆく姿を教えられたと答えました。」
彼女は高校時代フェンシングで全国優勝している。
両親から学んだことを生かして現在は福祉関係の仕事をしています。

「カラフト サハリンからの逃避行」前田三保子
戦争末期ソ連軍が侵攻、避難をするため南下したが、又ソ連軍により元に戻される。
戦後日本に帰ることができた。
その後半部分
「そのうち日本への引きあげは婦女子優先で順次行われることになった。・・・
着替えをリュックに詰めただけだった。・・・身体検査がありお金はすべて没収された。
着いた港は函館でした。 ・・・青森からは汽車で秋田に向かった。・・・
父母の故郷は何と美しいものかと感動した。・・・戦争は残酷で悲惨です。
貴い生命が奪われます。 勝っても負けても不幸です。 戦争の悪を若い人達にも語っていかなければと思います。」

私は東京の中学で理科の先生として35年間教えて来ました。
校内暴力が盛んなころでした。
子供達とその親に支えられて色んな事をまなんだと感謝しています。
日本詩人クラブは70年ほど前にできた組織で初代理事長は西条八十さんで全国に800人で詩を書いている団体です。
「学校は飯を食う処」
「卒業間近の4時間目、むーにゃんはゆっくり教室に入ってくる。・・・「学校何しにくるんだ」、「飯食いによ」「学校は勉強するところだぞ」・・・卒業させて早二年、むーにゃんの言葉の意味を今にして気付く、むーにゃんには母がいない、兄弟も居ない。
居るのは寝たきりの父と夏の縁日に買った金魚3匹だけ。
夜はカップラーメン、朝はパンをかじったりかじらなかったり。・・・
中学を出て直ぐに中華料理店に就職したが、もしかしたら勉強も飯を食うためと言う事を初めから知っていたのかもしれない。
私は生徒に云う様にしている、学校は飯を食う処、一人のこらず旨い飯を食いたまえと」
とにかく学校に来てくれればいいと言う子もいました、学校に来てしっかりご飯を食べてくれればどうにかなると長年の経験で感じた次第です。

「いじめている君へ」 「いじめを見ている君へ」 「いじめられている君へ」
三篇の作品を作っています。
廻りの見ている子がそのことをどう見ているのかと言う事がすごく大事だと思います。
いじめは無くならないと言う本もあります、どうしたらそこから脱却するかと、子供自身に教える、何処にでもアンテナを張って、我々が出口を教えてあげることが大事だと思っています。

「私の生い立ちとゆりてつのこと」 畑澤富美夫
ゆり高原鉄道
「平成20年10月 秋田内陸線廃止反対のPR活動で伺いました。・・・
全体で2億4000万円程度の赤字で、現在は2億円程度に削減されているようです。
・・・その後悶々としながらゆり鉄の為に立ち上がろうと決心しました。・・・」
それから奮闘が始まる。
ゆり高原鉄道は鳥海山が見えて素晴らしいところです。
終点の屋島町には佐藤まつこさんが「まつこのへや」というお店を開いていて、この方は全国的に有名で全国から来るようで、話を聞いて元気を貰って帰るそうでいつからか「まつこリラックス」と呼ばれるそうです。

「恩返し」 吉岡潤
特別養護老人ホームでお年寄りにリハビリと体操、心のケアをしていましした。
・・・ある老夫人とのやりとり。 
「・・・自分の両親の介護は一度もしていません。 両親、小、中、商高の恩師、街の方々にはさんざんご迷惑をおかけしてきましたので、皆様に対する恩返しのつもりで身近にいる御老人ペアに真心をこめて尽くしました。」
会ったことはないんですが、終末のお年寄りを600人見送ったと、今の手紙では1000人見送ったと書いてありまして、最期に住職さんからの言葉が書いてありました。
「私たち住職はお亡くなりになってからでなければできませんが、吉岡さんは大変御立派に生前に成仏させています。私たち坊主は頭が上がりません。」と
住職さんから貰った手紙の中の言葉と言う事を吉岡さんから私に手紙をいただきました。

「そして今」 
「秋田を離れてもう何年経つだろう。 ・・・こちらでの生活がずーっと長くなった。 とにかく無我夢中で生きてきた。 汗と笑いと涙の人生、首都圏で暮らす秋田人、100人の生きざまがここにある。」
スカイツリーの写真がある。
秋田だけでなく全国の地元の人達に声を掛けて、無名の人達の生活の歴史を書いていただきたいと思います。
「みちのく秋田・赤い靴の女の子」の映画製作も進めています。
ある舅の包丁を手で払った嫁が、近くにいた子供にあたってその子供を殺してしまいます。
母親のお腹の中には別の子を宿っていて、刑務所で女の子が生れて、その子は「はつ」と言いますが、アメリカから来たハリスンという女宣教師が育てて、差別、貧困、病気を乗り越えて、「はつ」はロサンゼルス、ハワイでハリスンと一緒に生活をして32歳で亡くなります。
それを後世に残したいと言う事で大山雅義さんが発起人で脚本監督の石谷洋子さんが監督を務めています。
ホームページを立ち上げてお金の面などで全国の皆さんに協力していただいて映画を完成させたいと思っています。