達川光男(元広島東洋カープ監督 野球評論家)・これが広島野球じゃ!
野球界がジャイアンツ中心に動いていて、プロ野球全体がジャイアンツに勝ちたいと言う中で、高校野球では広島より東のチームに負けたくないと言う事がありました。
高校野球では広島に入りたいという選手が高校野球に集まりました。
1955年7月13日に広島市で生まれ、広島商業高校で作新学院の江川投手を攻略して春の選抜高校野球では準優勝、夏は全国優勝、大学では東洋大学に行き、昭和52年のドラフト会議で広島カープから4位指名を受けて入団、入団6年目から正捕手として活躍し 、現役選手生活は15年、ゴールデングラブ賞3回、ベストナイン3回、広島のセリーグ優勝5回、日本一に3回貢献。
引退後は1995年から福岡ダイエーホークスのバッテリーコーチ、98年にカープの二軍監督、99年、2000年と一軍監督、阪神タイガース、中日ドラゴンズでバッテリーコーチ、福岡ソフトバンクホークスでヘッドコーチ、去年広島カープを下して日本一になったのを機にユニフォームームを脱いで、野球評論家として活躍中。
物心付いた時には大人の中に混じって野球をやっていたようでした。
最初はボールを拾う役目でした。
広島球場へは自転車で行っていました。
熱狂的なファンでした。
外木場さんが完全試合をやったのを見ています。
高校は広島商業に行きました。
中学は和気あいあいとした学校でしたが、高校は軍隊式の学校で吃驚しました。
1年の時はやめたかったが、大好きな野球をやめると言う事は出来なかった。
高校1年生の時に入部が100人位いたが厳しさで段々辞めて行って12人になってしまいました。
最初はピッチャーではいったがその後野手としてやっていたが、キャッチャーが一人しかいなくてその人が仮病でその代役をやることになり、キャッチャーをやるようになりました。
当時、作新の江川投手に注目が集まっていました。
選抜の開幕戦に江川投手がブルペンで第一球を投げた時に浮き上がる様な球を投げてどよめきが起きました。
準決勝で対戦することになりました。
とにかく粘り強くやろうと言う事でしたが、勝てるとは思わなかった。
選抜は決勝では敗れる。
夏は全国優勝をすることができました。
豊富な練習をしたという自負がありました。
負けない野球と言うものをずーっとやってきました。
*「今ありて」 選抜の大会歌になった歌 阿久悠作詞、谷村新司作曲
広島のお好み焼きは大好きです。
昭和52年のドラフト会議で広島カープから4位指名を受けて入団。
スカウトが欲しい選手をずーっと見つめて行き、そのうち相思相愛みたいな感じで入団すると言うようなケースが多いようです。
三村さんの前で10回、20回とバットを振ったら、あまりにも非力の為ため息をつきた。
お前がキャッチャーで生き残ろうと思うのなら、古葉監督より勝ちたいと言う気持ちを持てるキャッチャーになれといわれました。
勝てるキャッチャーに、裏を返せば負けないキャッチャーにと言うことです。
自分も頑張るがピッチャーにも頑張ってもらうように、監督の作戦だけはできるようにという思いです。
6年目で正捕手となる。
江夏さんからは色々教えてもらいました。
サイン通りに投げなくてもしっかり補球できるようにと言う事を言われました。
江夏さんからは「初球、といつインサイドを投げるかその時のサインが大事だ」と言われました。
「直ぐ覚えたことはすぐに忘れる、苦労して覚えたことはなかなか忘れない」、と言う事を上田監督から言われました。
長い間苦労してきたから、苦労した体力が今開花しているのではないかと思うのが今の広島の力ではないかと思います。
野球人口が少なくなり、キャッチャーになる人も少なくなってきているようです。
広島の野球は自分たちで喜ぶと言うか、上手く言えないが自分を自分で褒めると言うような、そんな感じです。