2012年9月29日土曜日

坂東元(旭山動物園園長)     ・命と向き合う



坂東元(旭山動物園園長)  命と向き合う
酪農学園大学  獣医学部を卒業 昭和61年旭山動物園に勤務 平成21年に9代目園長になる ペンギン オラウータン アザラシ館等の施設を手掛けてきました  
動物本来の能力 ありのままの姿を引き出す工夫を引き出した行動展示と言われる方法で  
今ある旭山動物園を形造った方です   
父が転勤族で 本州を転々とした  いじめられっ子だった  虫等を飼って過ごしていた  
平成16年アザラシ館ができて、有名に成り、全国区になった 
 動物園は観光施設ではないと考えている  経済的な評価だけが先行するようになった
受け入れる能力を越えた人達が来場した  
今は200万人ぐらいで等身大の規模になったと思っている
獣医として入った  死の迎え方が違っていた  
象の朝子  と係わっていた時  歳を取っていた  
堅いものを食べられない状況    足の裏に小さな怪我をしていた 

凄い社会性が強く、コミュニケーションを細かに取る動物であるが、 それがたった一頭で何十年も生きてきた 
ちゃんと象として生きている  
人間一人ぼっちに成って生きていたら、人としていられるのかなあと思った 
象は体重が4~5トンになる  
治療するのに麻酔を掛ける方法があるが体重が重いために同じ体制でいると問題がある
麻酔はかけられなくて、痛みを伴わない治療をしていたが、段々悪くなってきた  
象の足は周囲1mある  足音はしない(衝撃を吸収する様な構造になっている)
化膿してくる (クッションが潰れてくる)  眼が合うが、元気の時の様な眼をしている  
痛みを感じないわけが無いのに如何してこうなのかと思った

もっと悪くない脚は付けずに、肘を突くようになった  24時間寝ない象で 金が無かったので要らなくなったマットを学校から貰ってきて 少しでも柔らかい様にしてやった  
半年後 いよいよ倒れていて 1週間で死を迎えた  
倒れて初めて検査ができたが、右前脚は肩まで骨が腐っていた  
死ぬまで眼が変わらなかった  恨まない眼  何でこんな目で最後を迎えられるのか  
動物たちは食物連鎖の中で、食べる食べられる、殺す殺される中で、全部が命の輝く仕組みの中で生きている  
人間のように自分だけがと言う生き方ではない

一部に痛みが降りかかる苦しみが降りかかった時に、それをどうにかしてでは無くて、受け入れて生きると言う生き方をする 
だから誰かを怨むと言う事をしないし、どうして自分だけがこうなるかという眼をしない  
自分に降りかかった物を受け入れた中で生きて、生きれ無かったら、そのまま死んでゆくだけですよという生き方をする   凄い どの生き物も  僕らって何なんだろうと思うくらい   
当時の動物園はつまらないと言われていた 
可愛い可愛くない 珍しい珍しくない と言うような我々人間の薄っぺらい基準で動物が見捨てられていた

そして内の動物園は無くなろうとしていた  
経済的に立ちいかなくなって止めるのではなく、こんな動物園はつまらないという事から止めちまえと言う事なんですよ
ラッコブームでラッコが入ってきた(北海道の水族館) 当園にはラッコがいなかった  
動物園は楽しければ良いと言うような傾向がある  アザラシが3番目に見る 
子供達はずっと見続けていた 次に行こうと先生が言ったが子供達はまだ見たいと言う
これラッコじゃないよ ただのアザラシだよと言う 
子供達は「なあんだ ただのアザラシなの」という事になってしまう
大人の価値観が子供に移ってゆく瞬間なのだと思う 子供の価値観を育てることが必要だと思う

黙っていたんでは動物園が無くなってしまうので、ワンポイントガイド お客に動物の説明する  
これは画期的なことだった
ひと前でと言うのはあり得ない事だった   予行演習でもぶるぶる震えて緊張した
暗記したことをどこまでしゃべれるか、だけで、面白くなく段々と人がいなくなってゆく   
判ってくれない人に如何した伝えたらいいのか 考えて  段々結果が出てきた
動物本来の能力や習性を見せる「行動展示」を考案、同園躍進のきっかけをつくった
動物園、水族館の概念を変えた   
命は誕生があり、死がある   
動物園は楽しいところで誕生は伝えられていたが、小さな動物の死は伝えられなかった
タブーだった  
ライオンだったら30年ぐらい生きられると思っているが、そんなに長く生きてはいない

ペンギンは群れているので一匹死んでしまっても解らない  
個体選別ができるようにして、死を知らせるようにした  淡々と死を伝える
これが大きな議論を呼んだ  ペンギンの散歩が一つの風物詩となっていた  
命を閉じ込めているのは我々のエゴで 死を当たり前に伝えないといけないと思う
動物の死は難しい  
動物園で過ごす動物はペットとは違って、何万年もかけて人が飼いやすいようにした動物ではないので、狭い檻に居ても本能は持ち続ける
飼育係との関係は成り立つが、これ以上は絶対に駄目ですよという線は絶対に崩さない

治療されているとは思わない  エゾリスは寿命3~4年といわれているが 最長動物園で16年生きた経験がある  老衰
動物園 はある意味おわれない命  どこかで譲られない命に成ってしまっている  
そして死は必ず来る
動物らしく暮らさせたい 動物らしく終わらせてあげないと飼育は完結しない   
最後は安楽死を選択に入れながら、治療をして最後を迎えさせたい  
ちゃんと死を受け止めてあげないといけないんじゃないかと思う
死んでから心の中に生きてくる  動物は常に死とむき合って生きている

2012年9月28日金曜日

大江健三郎(作家77歳)      ・ノーベル賞作家 人生と日本を語る 2


大江健三郎(作家77歳) ・ノーベル賞作家 人生と日本を語る 2
大江さんは社会との係わりの中から紡ぎだされたものが多くあります  
それぞれの時代の課題と真剣に係わりあった結果、生み出されたエッセーやルポルタージュが
大江健三郎さんのもう一つの面を特徴つけています
小説がメインだが エッセー、ルポルタージュの位置について  堅苦しい論文を書くと言うよりは
面白さが持っている とくに人間について 自分の発見を述べられるような
文章を書きたい  それをフランス語でエッセーという モンテーニュ  ルネッサンスのフランスの中心人物 
自分が大切だと思った 優れた人の言葉 それを毎月一回書いて 7年書いた 「定義集」が
この本なんですね

こういう人がいる、こういう考え方がある  それがどのように人間らしいものになるか 
或る人間らしさ 人間らしい魅力を持った そういう表現をする 行動をする  
という事を基本に小説を書きたいわけです   
人間らしさを書きたい   人間らしい学者、とかそういう人の言葉で胸に残っているもの 心に刻まれたものを「定義集」に書きました
面白い人間 感動的な人間を書こうとすると、その人がどういう社会で生きてきて、この言葉を
発したか、どういう社会の苦しみが、時代の困難が こういう人を
作ったのか、と言う事に目が向いてゆきます
    
今自分が優れた人だと思う人間が、この人物はどのような社会の中で、生れてきたのかという事に関心を持つそれを評論に書いてきたと思うんですね
日本の国の中で、有り難いことに 小説を書いている
と言う事があるから、優れた学者やい学者、政治家(偉くなる政治家ではないが、民衆運動をしている人)
政治家ではないが、民衆運動をしている人) そういう人達に一人前の人間とて受け入れられたと言う事が有った それは小説家という職業であったことはよかったと思っている

一番有り難いと思ったのは、光と言う子供が生まれて 頭に大きいこぶのようなものが有った 
それが取り除くか 取り除くと 当時は赤ん坊の頭に出来たこぶの中に何があるかどうか 
判らなかった  脳が出ているかもしれない 1年間検討して貰った
編集者がいて(安江良助) 平和大会があるから広島に行こうと誘ってくれた   
そこに行ってルポルタージュを書いてくれといわれた(サルトル的な)
行くと、毎日毎日政治論争ばかり 原爆病院に重島文雄先生がいると、自分も被爆されて、
被爆した日から治療を始めた先生 其の先生にお会いしないかと言われた
 
其の先生は日赤病院の院長(日赤病院が原爆病院)  5時間ぐらい話して下さった  
検診しなくてはいけない時間が有ったが、一緒に連れて行って貰って話して貰った
その日、家に帰りましたら、カードに小さく書く習慣があり、 カードが30枚ぐらいあった  
9時~4時までそのカードを清書していた
翌朝8時になったら安江君が 先生のご予定はどうですかと聞いたら 9時から病院に出るから 
暇があれば昨日のように話すと言う事にしようという事になる
翌日も話すことになった  今日も来いと言われて合計5日間通った   2度ほど伺った  
ルポルタージュに政治的なことも書いたけれども、一番重要なものは 広島の原爆病院にどのような
人間がいるか、 先生方はどのような人間なのか

原爆病院に入院されている患者の方は、来年来て会う事ができないと先生から言われた 
そいう人達だけなんですよと言われた
患者が亡くなるので原爆病院の中に大きな穴を掘って、そこで死体を焼いていた  
患者がたくさん来て、どういう爆弾でやられたのかも判らない
患者が一杯来るのに、ちゃんとした医学的な手当てもできない 
アカチンを塗って、包帯をして そういう事でいいんでしょうかと 重島文雄先生に聞かれたそうです
先生はこういう人達が集まって 治療を求めている そうであれば治療せざるを得ないじゃないか
 治療できるかどうかは第二の問題で治療する努力をするしかないではないかと言った
その質問した先生は翌日自殺してしまったと  先生は私に言われた
  
あのときに自分は自分に厳しい考え方を作ってあの先生に
言ったが、あのまま先生に言ったことは自分は間違っていたように思うと   
1日山を越えてゆけば (今ここは焼けただれている街中が)緑の山 そこに行って
にわかスタッフとして行ったらどうかと言うべきだった と言われた  
そういう事を書いて「広島ノート」を書いた  ルポルタージュ 一冊の本を書くと言う事の始まりです
患者の事を書いた 重島文雄が如何に偉大な人物かと言う事ですね 
翌年 沖縄に行く  行き沖縄全体が戦場になった  占領下の時代  
軍人が犯罪を犯しても 裁判が無い時代
そういうところでどういう風に生きてきたかを話してくれる青年がいて、沢山のノートを書いて
持って帰った   文士講演が有った
 
石川達三  有吉佐和子 と3人で行った   有吉さんは沖縄の染め物で有名な琉球かすり 
(五万円  200ドル)を購入する予定だったが その額分を貸して貰う
沖縄に残ってルポルタージュする   それがルポルタージュの柱でした  
それがズーと続いて 去年ですよ それを書いたために裁判になった(「沖縄ノート」と言う本)
守備隊長が数百人に自殺するようにいったと 命令だったと書いた  
そうではないと言う人がいて 裁判にされた  裁判には勝った(去年の事)

牧港篤三さん 大田昌秀さん 本当に人間的な人   政治的な角度で話すのではなくて、
沖縄の人が如何苦しんだか又沖縄には固有文化が有って 
沖縄にどういう優れた学者がいたか と言う事を話して下さいました
沖縄学の祖(伊波普猷いはふゆう)   沖縄の新聞社が出している本を全部集めて下さって 
全部それを買いました  それが沖縄に対する知識を深めました
牧港さんは『鉄の暴風」を書いた 艦砲射撃で 鉄の暴風が来たようだったとの事    
2大ルポルタージュ(「広島ノート」、「沖縄ノート」)は重要な位置を占めている
一番良い事は 小説家を外国の出版社が招待してくれて、旅行さしてくれる 
(外国の有名な作家、評論家、学者が注目してくれる) その人達が会いたいと言って招待してくれる
外国のいろんな作家等に会う事ができた    講演依頼があった
   
キッシンジャーに 沖縄の事を良く知っている日本人という事で話しした
ハーバードの名誉博士を貰った  
エドワード・W・サイード 両親がパレスチナ人   文化論の専門家  音楽が好きな人  
同じ年だったのでヨーロッパで一番親しくなった  白血病で亡くなった
白血病は1年に一回苦しいときが有って 血液を交換したり、医療行為を受けてやっと回復して半年働く、又病気になると言う繰り返しの人生でした
パレスチナ問題に関するいい論文を書き、文化論の良い論文を書いたんですね  
「自分はパレスチナと言う者がイスラエルとの関係で 中近東の社会の中で、いい未来を持っている 
明るいイスラエルとパレスチナの和解という
彼は一つの国土で二つの国民が平和に暮らすと言う事を考えていた 
   
そういうことは実現しないかもしれない しかし自分は楽観主義を持っている
将来それは旨く行くだろうと、なぜなら 人間がやる事だからという  
人間がやることだからこの問題は解決しないはずはない
楽観主義を持っている  意志的な楽観主義だと言っている  人間は意志を持っている  
自分が、将来は楽観的な社会があり得るんだと 人間のする事なんだから
だから自分達は之を解決する事ができるだろうと それを自分が信じると言う事は、自分の意志によって信じている
楽観的なことを自分の意志によって考えている 
自分は意志を持っている 意志的な楽観主義だ」と彼は言っている
  
原発、沖縄にしても中国との関係(尖閣諸島の問題)にしても楽観視していない  
楽観していると思う人がいればその人の間違いです
或る平和な共存 新しく回復することは信じている  
沖縄の人を中心にして考えて、明るい将来はありうると考える 
なぜならば人間がやる事なんだから 
沖縄の人、台湾、中国の人も人間なんだから  そうやってきたんだから それができると言う
考え方を沖縄について尖閣諸島について意志的な楽観主義を持ってます
原発について 2030年代には全廃すると政府は言って、今はそれは無かったと言っている  
アメリカの人達 日本の産業界の人達 保守的な人達は原発は続けないといけないと言っている
福島に起きたことは次に起こしてはいけない   
将来の人達 子供達にこの世界を残すと言う基本的な事の為には 人間のやる事なのだから、
それは実現できると考えています   意志的な楽観主義を持つべきです
 
チェコ ミラン・クンデラ作家 友人   
将来生きることができないような社会というのが将来であってはいけない
自分達の10年先20年先に子供達がしっかり 
人間らしい ヒューマンな 人間らしい生活ができるような世界を残しておか無くてはいけない  
それを残してちゃんと将来の子供が彼らの子供を産めるような社会を持ちこたえておく  
僕たちはそれを持ちこたえ伝えることができる  それが人間の一番根本的なモラルだと彼は
言います

倫理  生きかたの中で中心にあるもの と言う風に考えています
モラール 本質的な一番根本のもの としての 人間の大切にしなければいけないもの 
それが根本的な人間のモラールがある
それは次の世代の人達が生き残れるようにする 次の社会が生き延びられる世界である 
そのことを守ることだと  ミラン・クンデラは言うんですね
雑誌の中に論文が載っていて 「星の王子様」サン=テグジュペリの著書 第3稿がある  
一番大切なものを君に残しておきたいと言う 
21章で狐は 僕達の一番「重要なもの」は心なんだと 心というのは見えないものだと 
「一番大切なものは」と書いていたが  「本質的なもの」に  消して書き変えている  
人間の中で生きてゆく中で 人間との付き合いの上で 友達との付き合い
  
人との付き合いの中で 一番本質的な、一番根本は 何かというと目に見えないもの
目に見えないものが一番大切なんだと それは心なんだと  一番本質的なもの、
目に見えないものを他の人のなかに受け止める 君が生きてゆくうえで大切なんだと
星の王子様に言う そして狐が去ってゆく  その様なことを或る論文で読んだ
人間との付き合い、人との付き合い、友達との付き合いの中で 一番本質的な一番根本のものは、目に見えないものだと、友達の心という 目に見えないものだよと 狐は言う
それが星の王子様の一番いい教訓になった  と言う事を私は思うわけなんです

大野晋先生(国学者)が「日本の一番大切な字引」を出したなかで 日本語で一番良く使われる
言葉で 「あわれ」 (ものの)あわれ 「かなし」
「かなし」 は自分の子供が死んでしまって、もう会う事ができない  
子供と自分との間の えにし  つながりがすっかり切れてしまった時に湧く感情が「かなし」
取り返しかえしがつかない 切れてしまった感情を「かなし」というんだと  
「あわれ」は 悲しいという気持ちなんだけれども 苦しんでいる人を見て 「あわれ」
と思う人は 苦しんでいる人と同じ場所に立っている
   
同じものを経験していて自分も繋がっていて 相手の人の心に抱いているものの苦しみを本当に辛いと思う 何とかしてあげたいと思う  そういう感情の事を「あわれ」というんだと   
福島で津波によって亡くなった人 の娘さんは「かなし」と考える  
亡くなった母に対する感情だから「かなし」なんだと   繋がりが切れている
どうする事もできない  
(私の)姉は津波で病気になって 今はまだ病院にいるんだと TVで証言を聞く   
それは「あわれ」と思う相手がまだ生きているからです
一緒の場所にいて、相手の気持ち、運命を共有することができるような 同じ場所に立って、
同じものを同じように 担う事ができるような相手に対する相手の不幸 
苦しみに対して私たちが持つ感情が「あわれ」なんです
   
「かなし」はもう好きだったが死んでしまって もう関係が断たれている この世とあの世に成ってしまった
そういう状態で悲しむ状態が「かなし」    それが人間が持っている一番根本的な感情で  
源氏物語の時代から現在までずっと貫かれているというのが
大野晋先生の古典辞典の文章なんです  それが最近一番感動的な文章です
「あわれ」と言うのは、その人の苦しみを一緒に担ってゆく、同じ場所にいる、同じ立場にいる、
とはっきり心に刻んだ人に起こってくる感情だと
子供達に伝えたいし、日本語の一番大切な言葉とはと言われた時に外国の人、
講義の時等にも「あわれ」を理解してほしいと話すことにしています

2012年9月27日木曜日

大江健三郎(作家77歳)     ・ノーベル賞作家 人生と日本を語る 


大江健三郎(作家77歳) ノーベル賞作家 人生と日本を語る
渡辺一夫先生と酒を飲んで、自重的な生活が必要 自分の年齢を健康な年齢と言うものを想い浮かべ
て居ると良いと、そうすると無理をしない と言われた
渡辺先生の本をズーッと読んできて大学に来たんで、死ぬまでそう風にしたいと思うので、
先生がお仕事をしている間はずーと生きて居たいと思います と言ったら
先生も、自分もフランソワ・ラブレーと言う人をラブレーが死んだ年齢まで、生きて  
ラブレーと言う人が判ったと言った
君もいずれは何歳かで死ぬと思うが、死ぬしばらく前までは仕事をすると思う 
 最後の仕事の本を読んでからあーっこの人(渡辺)はこういう人だったのかと考え
自身の一生を終わって下さい と言われた
  
私の目標は先生が73歳で亡くなり、73歳までは先生の最後までお書きになった本を読んで
理解してやろうと思った
先生より5年長く生きているので、それが私の健康の目標です 
 (目標の人の年齢までは最低限生きる)
太平洋戦争が終わったときに10歳でした それから2年経って新しい憲法が出来て公布されて
、新しい教育制度の中で育ってきました
以前の教育の法律であると村の、国民学校を卒業すれば、家の仕事 (森林関係) 
することになったと思うが、新制中学が出来た

そうすると中学は松山まで行かなくてはいけない そうなると下宿しなくてはいけない 
そうするとお金がかかる  高校2年で転校する(松山東高校)
ある女子高生が転校してきた生徒は、その一週間は授業が終わった後は残って掃除をしなくては
いけないという規則になっていると言われて、信じて掃除をしていた
或る少年が来て如何して掃除をしているのだと、言われいきさつを話すと騙されている 
君は一生、綺麗な女性には注意するようにと言われたそれが伊丹十三だった
授業が終わったら、それ以来一緒に居ました  1年間は親しくしていた 
どちらかの下宿で夜まで話していた

そして道後温泉まで行って風呂に入って帰ってくると言う生活をしていた
ドストエフスキー カフカの本を貸してくれた  面白いと言ったら、何が面白いか言われたので
フランス文学が面白いといったら、「フランスルネッサンス断層」を読まないかと言われた
学校も休んで3日間読んだ  この人の本を読んでいきたいと言ったら、これは東大のフランス文学の
先生だと伊丹が言った
僕は東大のフランス文学科に行くと言った  周りのクラスメートが笑った 
それまで受験勉強をしていなかった(3年の一学期の時)
図書館に行ったら受験の本が有って、国語、数学、理科等 貸して貰った  
1時間目だけ学校に出て 帰ってきて読んでいた

浪人することにして2年計画を立てて、伊丹氏とは会わないように話しあった
占領軍がアメリカ文化センターを開いており、そこには図書館も有り、そこには中に自由に入って、
読むことが出来るという部屋が有ることを知った
高校生でも入れることが判り、高校3年生の時、1時間だけ学校に行き、その後は進駐軍の
読書室で受験勉強をそこでおこなった
東大文学部に入学  1,2年は教養学部 ヤムド・ジャック先生(森鴎外の)、朝河末男? 
(フランス文学の権威)等に教わる

3年生の4月に本郷にゆく 最初の時間、渡辺先生と出会う  フランス語授業を始める 
 声もいいし態度も立派で、この人に会う為に自分は生まれてきたんだと思った
伊丹氏は受験勉強をしないで、宣伝のデザイン会社に入った 
寂しくなると私を呼んでバイオリンを弾いて(バイオリンを習ったこともないのにバッハの曲を弾く)練習した
渡辺一夫先生の本は古本屋を廻って全部買う  それを読むと、勉強した   
「定義集」と言う本の中で 「人間が機械になること」と言う章がある
その中に「人間と言う者は他の人間が作った考え方、制度というものに飼いならされるものだと」
人間の心の問題として言うと、自分が考えているのを除いて 他の人間が考えたことを、
今その世界ではやっていることの「とりこ」になっている 

自分が機械に成って 他の人が考えたことの筋道通りに考えてゆくようになってしまう  
行動も同じようになる  君は10歳まで日本が戦争に成って
帝国主義の国だったけれども、其の時は本当に自分達は米英と戦って勝つのだと、
我々は神様の国なんだからと 米英というのは動物なんだと、獣なんだと
考え方を教え込まれていたし、インテリ(30歳を超えている)もその考え方に従ってきて、
その戦争に発展した (戦争の時のように人間は機械に成ってはいけない)
だから人が考えたことの奴隷になる 機械になると言う事をしないと言う事から始めなければ
いけない  それが人間らしく、考える そして人間らしく生きる事だと
人間らしく生きること 人間らしい考え方、人間らしい世界というのを「ユマニズム」16世紀にフランスで
考えられた
  
16世紀から現在までそれがヨーロッパの思想になっている
モンテーニュもユマニズムの人だと ユマニズムの考え方で生きた政治家も要る  アンリ三世    
医学者、陶器(綺麗な色の透明な)がフランスで発明された その色合いを
研究した人物とか、いろんな人物がいて、 ルネッサンスの人間の代表として、その自分が本に
書いたんだとそれが君が最初に読んだ「フランス ルネッサンス大集」だと 
それだけ4年間読んだのだったら、フランスの思想家を考えて、それを卒業論文にして
卒業したらいいと先生から言われた  そのことを日本の現実に当てはめて、人間は戦争中の
ように機械になってはいけない 人間らしく生きなければいけない
「人間らしさ」が一番良いんだ  それが「フューマン思想」だと、16世紀の歴史と絡んで考えると
 「フューマニスト」   それが私の考え方を作りました(中心的な考え方)

学生時代から作家としてデビュー   元々はフランス語の学者に成りたかった 
 先生の助手の希望が有った  秀才が周りに沢山いた
たまたま東大新聞が小説を募集していた 1番になると1万円の賞金(当時5千円で1カ月生活して
いた)がもらえるとのことで、早速応募した 
1番になる(荒正人氏が選んでくれた)   封筒を開けてみたら2万円入っていた  
正直に言おうと先生の処に行ったら 、2万円が正しいと言われた
新聞部に優秀な人が入って広告収入が沢山入り、私が2万円にしたと先生から言われて
、貰う事ができた

武満 徹が小説家に成れと進める    それがきっかけになり小説家の道に進む
私の息子で障害を持って生れてきた子が今でも持っているが、兎に角人間の声を聞いているか
どうかも解らない状態だった
5~6歳になった時に正月に ウグイスの声が聞こえた  うちの子が物凄い喜んだ 
顔が真っ赤にして手を握り締めてワーと喜ぶ 息子が鳥の声を聞くようになって
ウグイスです とアナウンサーが言うんです  息子がウグイスの声だと判る 
鳥の声を掛けると 自分の好きな鳥の声でそれがウグイスだと一挙に判るようになる
レコードを掛けては之は何ですかといい、言葉を教えて その後普通の言葉も判るようになって 
その言葉も言うようになった
普通の音楽を聴くようになって、作曲もするようになった  
音楽の才能を持つようになったのはその息子です

「飼育」で芥川賞を貰う    私は渡辺先生と武満さんとの間で自分の一生を決めたようなもんですよ
井上ひさしは一番最初は NHKの番組の関係者が私の家に来たいと言う人が来て
、若い人に対しての番組が有って、書いている人(井上ひさし)だと紹介した 
生き生きした眼の人だと思った 友人になった  私の本を一生懸命に読んでくれた人です  
私の時代は 戦争に敗れて恐ろしい経験をした、貧しい苦しい生活をしてきた  
憲法が変わって教育基本法ができて、貧しくても教育が受けられ、村に中学校ができた
それを全部経験したのが私と井上さんの時代です  だから民主主義が大切だと思っています  
ですから私は憲法を非常に大切に考えています
第9条  戦争放棄  ・・・「9条の会」を井上さんと持った  

2012年9月23日日曜日

鈴木雅明(音楽監督)      ・世界に届く地域に響く、バッハの音楽

鈴木雅明(音楽監督58歳)      世界に届く地域に響く、バッハの音楽  
兵庫県神戸市出身 東京芸術大学 音楽学部作曲科を卒業 大学院オルガン科に進学 
チェンバロを学ぶ  1990年にバッハコレギュームジャパンを結成して,国内外でバッハを中心にバロック音楽の演奏で活躍しています 
今年4月ドイツのライプティッヒからバッハメダルを贈られました  
2年前から調布市民に練習の一部を公開リハーサルとして公開しています  
バッハの魅力 グローバルな演奏活動と地域の交流などについて伺います

バッハ音楽祭に依頼されて授与式をして貰った   
ライプティッヒ  マイフェン焼きのメダル バッハの横顔が裏に描かれている
バッハが後半の27年間過ごした処 (ライプティッヒ)  1750年にここで亡くなる  
バッハの音楽は全世界で演奏されているが、日本発のバッハ音楽の普及に貢献した  
コレギュームはラテン語で仲間 友達 という意味  結成が1990年   
1983年までオランダで活躍していた 
日本に戻ってきて 時々演奏してきたが,定期的な演奏を始めて 1992年に定期演奏が始まった楽団の構成  アンサンブル(オーケストラと合唱)  
バッハの時代の楽器をなるべく使うようにした
 
古楽器と言われる   それに対して現代の楽器はモダン楽器
(音が大きくなったり 楽器の本体の構造も変わってきた)
トランペット等も実に演奏するのが難しい   音の響き 音楽の理念 が必要   
思わぬ楽しい発見がある
迫力は劣るが ふくらみの有る  温かみのある 纏まりの有る演奏     
モダン楽器の方が音も大きく性能が良くて 何でもできるようになってきている
そうすると出来ないことが無くなっちゃうので面白くない 
半音階 どの音も均等に鳴り響くようになっちゃって苦悩とかを表現できない
光のあるところには影があるので影がほしいところがある  制約が有る中で何か表現したい
音楽は両親もやっていたので、小さい頃から親しんでいた  
最初は作曲家 を目指して その後オルガンを専攻した
オルガン 小規模なパイプオルガンが有った   当時数えるほどしかなかった    
東京芸術大学に2000年に古楽科ができる   
ロ短調グロリア 第1曲、第2曲   完成したのは死ぬ間際 
海外では大体 年1回はヨーロッパとかいろいろ行っている   
地域との結び付き  調布在住なので公開している(30年来住んでいる)

大、中、小 ホールがあるので リハーサルをしていたが、公開するようになった (抽選)
バッハはスピード感がある 
突き進む力が必要 スピード感は頭で感じるのではなくて身体で感じるものなので 
バッハの家系は音楽家が周りにいた 
古い音楽も取り込まれていたし、彼の音楽の力が余りにも大きかったので 19世紀の作曲家たちもバッハに魅了された人が沢山いた   
18世紀の半ば、末までは音楽も人の心を慰めたり、励ましたりするような、メッセージを成し遂げないと意味が無い そういう想いだったから,言葉と非常に結びついている  
喜びを表現する時も 喜びを表している音系が使われている  そういう約束事が沢山有る  
バッハまでは職人的な作業だったから、バッハはその時代から飛び出した  
そういう制約から飛び出した
1685年に生れて 18世紀の前半に活躍した  
ただただ聞いていて 嬉しく 楽しくなりますよね  身体に力が湧いてくるように感じます
ジャズのバッハも楽しい   
  
東日本大震災  チャリティーコンサートを行う  
アメリカに行ったときに我々は理解していなかったときに,アメリカの人が義援金を始めていてむしろ我々は吃驚した  
帰ってから義援金を集めて定期的に送って行った    
音楽は言葉では伝えられないことを伝えてくれる  
来年2月 バッハ教会カンタータシリーズの全曲完結を迎える  
カンタータ(オーケストラと歌い手が一緒になったアンサンブル) 
礼拝の為に書いたのものが教会カンタータ
それだけでも190曲ぐらいある 
 
全曲録音が来年に終わる   
宗教的背景も非常に複雑で ユダヤ教徒 ユダヤ人だったので ユダヤ人がキリスト教徒に改宗して 殊更に、キリスト教の音楽を沢山残しているんですね
メンデルスゾーン  
新世代の育成 重要な問題ですね  
20代 30代のひとも沢山いるので、いつの時代でも素晴らしい音楽の価値はあるので、怖い様でもあり楽しみでもある

2012年9月21日金曜日

多賀洋子(主婦67歳)       ・もう君を幸せにできんと泣いた夫(つま) 2

多賀洋子(主婦67歳) もう君を幸せにできんと泣いた夫(つま)
デイサービスを利用するようになってから平安な日々を迎えられる様になった
2008年にNHKが募集されたものに募集した介護百人一首に応募した 
和歌  「もう君を幸せに出来んと泣いた夫(つま) 呆けてもなお優しい貴方」
(暗黒の3年 夫のやることに対して避難する そうすると夫も私に避難する  
私も腹を立てていた  閉塞感が有った)
施設に行った(スケッチのドライブの続きに行った)  
シルバーサービスいこいのみぎわ  代表西口和代さんが自宅を改築されて始めた  NPO法人
家庭的な雰囲気がある良い施設でした  そこに通い始めてから私達の関係が随分改善された  
引っ越した頃は人付き合いをいやがっていたんですが、通うようになってから駄洒落を言ったりして
人付き合いが改善された

どの利用者さんも長い人生いろんな苦労を重ねて、過ごしてこられた 
その利用者さんの体験や経歴を含めて、認知症の人としてだけではなくて
一人の大人として尊敬の念を持ってお世話させていただきます と言って下さった 
第一印象として信頼出来ると思った
夫には友人の家に行きましょうと言って憩いのみぎわに行った  
大学の教授だと認めてくれて対応してくれたので安心感が有った様に思う
月に1回から段々と増えてき、最終的には週4回ぐらいになりました   
夫の様子を交換ノートに書いてくれて夫の状況が把握できたので安心できた
負担軽減の為にデイサービスを始めたが、なにより本人にとっていい事なんだと、
言う風に思えるようになりました

デイサービスは家族の介護負担の軽減になるのははっきりしてますが、なにより本人が社会生活を
楽しめる残された数少ない機会なんだなと思えた
最初はやましい様な気がしたが、その後本人にとって楽しい場になると思った  
交換ノート  認知症の人も矢張り外面が良くて、外では穏やかだけれども、一番気の許せる
配偶者には怒りをぶつける
告知することに対する迷い  病気の事を告げていないことは良かった事だと思います 
傷に塩を塗るようなことはしなくていいですよね と書いて下さった
認知症の方が幸せになるには周りの手助けが必要ですよ  それがなければ認知症の人は暗い
毎日しか過ごせません
   
手助けの意味  認知症の人の不安感 喪失感 そういうものを家族の人、スタッフなんかが
ちゃんとわきまえて其の不安感に寄り添う、そういう接し方だと思います
自身は何も感じてないと思いがちですが、そうではない  
認知症になればなにもかも判らなくなる、と思いがちですが、そうではなくて 
自分がドンドンおかしくなって、来ているとうのは自覚しているんですよね
馴染みの風景、馴染みのバー、馴染みの人間関係 そういったものがドンドン失われてゆく 
最後には馴染みの自分自身さえも失ってゆくんじゃないかという不安感、喪失感におびえておられる 
認知症の方は、それを家族やスタッフの方はわきまえて少しでもその様な不安感や  
喪失感を少なくしてやる接し方は無いかと、心がけている事が大事なんですよね
2006年の年末からデイサービスを始めて、2008年の年末ぐらいまで2年間ぐらいは安定していましたが
、2008年の年末から症状が進行して 異常が始まった

スケッチブックに執着が有った様で、手当たり次第 自分の周りにあるものが自分のスケッチブック
だと言い張って デイサービスに行く時に鞄の中に取り込むんです
タオルでもスリッパでもTVのリモコンでも花瓶でも 孫のおもちゃまでも 鞄の中に取り込む  
そんなことが起こりました
羞恥心が薄れてゆくようだ いろんなところで立ち小便をする 
ひどかった時は新幹線のホームで立ち小便をしてしまった
止めても怒りだすだけ、   夫だけではなくて認知症の人によくある症状だそうで  
女性でも運動場、公園などでもいきなりおしっこをする

止めても仕方ないのでやらせて下さいと 相談した医師からの話だった(西口さんの話から)
昼と夜を取り違えてしまう  夜中に起こされる  外はまだ真っ暗だといっても、明るい 
鳥も鳴いていると言って 自分はさっさとリビングに行ってしまう
其の時に今は昼じゃない 外は暗いと説明して、判らせようとしても無理なんですね
しつこく説明しようと思うと怒りだす 同調するようにおやつをやって
之をたべたら、寝ましょうねと言って対応した  
いなくなってしまった事も有った 
一人で外に出てどんどん歩いて行ってしまった  
110番して民生委員とか消防団とか対策を取ってくれて、
3時間後に隣町まで行ってしまっていて、隣町の人が気付いて通報してくれて、保護された事が有った
その時に 手に落ち葉だとか松ぼっくりだとか軍手だとかを握り締めていた、 
手になにを持っているんですかと聞いたら、「お勉強のもの」といったんです

それには唖然としたが、 娘が注意したら、「ちょっと歩こうと思ったもんだから」と答えた 
帰り路が判らなくなってしまった
その後絶対に一人にはできないと思った 私はC型肝炎のウイルスを持っていて、検査を怠っていた  
受けてみたらウイルスのレベルがハイレベルに成っていた
入院しなければいけなかった  インターフェロンの治療は最初に2週間の入院が必要  
退院後も通院が必要  48週 続けることになる
身体がだるい 気分も落ち込む  
副作用が強いので介護と両立できませんよと最初に言われてしまった
治療を諦めようとも思ったが、共倒れになるかも知れず、何とか治療の方法を考えた

ショートステイ を考えたが、他の人の持ち物等を自分のスケッチブックだと思って取り込んでしまい、
トラブルを起こす人の世話はできないと断られた 
先生に相談したが、抗生新薬を使う事ができると言われたが、副作用が強くて外来で処方は
できない 3か月ぐらい入院したら 副作用が出るか見ながら
処方を微調整して段々穏やかになって貰う事ができます と言って貰った 
不安感、焦燥感を鎮める薬です  ためらいが有った 相談した
私が先に死ぬことはできない  夫を最後まで介護しなければならないと思って 
入院をして貰う事を決断した
夫が何にもない 何のために生きているのや と言って泣いていた   
私も入院して治療しようと決断した
薬がうまく作用してくれたようで 身体の衰弱も無く 不安感、焦燥感が静まって安定していた頃の
穏やかな状態に戻れた

わたしも元気に成って 在宅でショートステイを利用して介護しようと思っていた 
 特別養護老人ホームから連絡が有った 入所も悩んだが 入所を断ったら
次にうまく入れるか判らないので、入所を決断した  
食事、排泄、睡眠、着替え、入浴 生活の基本は施設のスタッフにまかせて、出来るだけ頻繁に面会して
ご主人の楽しまれること、よろこばれる事を、一緒にする時間を出来るだけ長く取って精神的に
支えたらどうですかと言われて、ほっとするような気持ちで決断した
ショートステイ、デイサービスはあくまで在宅介護  特別養護老人ホームに入ると 夫はそこが
現住所になる 生活は別になる
入所させた事に罪悪感を感じた 最後まで在宅介護の気持ちはあったが私一人では介護できな
い段階にきていると思った

現在300万人の認知症の人がいる  体験を通して伝えたいこと   
認知症になったからといって、何もかもわからなくなっている人ばっかりではない
おかしな言動はあるが、叱ったり、たしなめたり、正しいことを教えようとしたりすると 
認知症の人は不安感から激しく怒るわけですね 
それでは介護は難しくなる という悪循環になるわけですね  
逆に認知症の混乱した言動を之は病気なんだと家族は優しく受け止めて 混乱した言動の奥にも
人間としての素晴らしさが有るわけです 優しい気持ち、人の為に役に立ちたいという思いがある
(表面的には判りにくいが)
再発見する努力を家族は重ねて、最後まで尊敬や感謝の気持ちを持ちながら係わり続けてゆく
ならば、認知症の人は穏やかな 暮らしができるわけです

そうすると介護の方も 楽になるわけですから  最後の最後に在宅では介護しきれないと
なった時には 社会的なサービスを受けることを視野に入れた方がいいと思います
認知症になった人が新しいことを覚えることができる 「千の風にのって」の歌詞を覚えた
夫の脳は言葉の分野が障害はうけなかったようです
「何が人生の中で一番良い事だったと思う?」と尋ねた  
私の方を指さして「あんたと結婚したこと」 と言ってくれた  涙が込み上げてきた

2012年9月20日木曜日

多賀洋子(主婦67歳)      ・もう君を幸せにできんと泣いた夫(つま)

多賀洋子(主婦67歳) もう君を幸せにできんと泣いた夫(つま)
京都大学在学中に知り合った夫と25歳のときに結婚 夫の透さんは京都大学教授を63歳で
定年退職  その頃からアルツハイマー性認知症を発症し、去年12月に亡くなりました
およそ9年間の介護生活について、「再びのゆりかご」と「認知症介護に行き詰まる前に読む本」を
出版しています
定年退官して 教授室から書類等を1週間かかって家に運び込み、家でご苦労さん会を二人で
していた時に、私にもご苦労さんと言ってくれないのと言ったら
「何が」と言った「 1週間かかって荷物を運んだんでしょう」と言ったら 「えっ」て言う  
1週間かかって荷物を運んだ事を今日だけだと思っていて 6日間の事をすぽっと忘れていた
そういう忘れ方というのが認知症の症状  出来事を全部忘れてしまうのが認知症  
昨年に亡くなる
少しずつ少しずつ進行している   
認知症の介護している人の役に立てればと2冊の本を出版した  
講演も依頼されてしている
薬学部であったが(薬学の勉強はあまりして無かった)、文学部に行きたかった  
卒業後2年後に私にプロポーズしてくれた

やっぱり言葉は大事 亡くなる時に 「君と一緒に暮したのが一番良かった」と言ってくれた
認知症にはいろいろな症状が有る  夫の場合は言葉をつかさどる分野がしっかりしていた 
退職する直前位から 公衆電話がかけられない状態だった その後漢字が読めない、書けないと
いう状況だった 
音に敏感に成っていた 健康だったら騒音は聞き流してしまって、必要な音を聞き分けるが、
それが出来なくなっていた
騒音に耐えられなくなってきていた 引っ越しを何回かした  
人と付き合う事に対しても嫌がっていた  
散歩で向かってくる人に対して顔を合わせるのも嫌がった

人と会話をすることも躊躇される そういう症状が認知症にはある
釣りが好きだったが、仕掛けが面白いはずなのに、仕掛けができなくなってきたりして、
いちども満足に釣れなかった
退官後1年目に国立医療センターの脳外科に診察に行ったが、脳梗塞、脳腫瘍も無いし、脳委縮が
少しあるが、個人差レベルの事 今のところ大丈夫だとの結果だった
趣味の事を積極的にやって下さいと医師から言われた 
絵が好きだったので、出掛けてスケッチを書いていたが、認知症が進行するにつれて、3年後には
スケッチができなくなった
  
(目が疲れると言っていたが、実際はスケッチをする事ができなくなっていたのではないかと思う)
おかしな事はいろいろあった  私は花が好きで草花を買ってきて植えると、それを踏みつけたりもした  
そこに落ち葉を蒔いたり、小さな米粒みたいな石を気にしてつまみだしたりした
いろんな事で良く口げんかした   
夫の姉が公園で足を踏み外して後頭部を打って亡くなってしまって、ふさぎ込んでしまった
夜間譫妄 夜に非常に混乱して錯乱に近い状態になる  
(昼間に踏み切り停止を警察から注意され、罰金を払ったが 夜中に夫が突然揺り動かして
警察へ電話するといきり立って、目が据わった様な状態だった) 
 
再度病院に行こうとせきたてたが、問題ないと 言って その後行くことができなかった
早期発見が大事ではあるが、当人が拒否してしまうので、早期発見に至らず、之が最初の大きな
ハードルとなる
私自身が閉そく感に悩まされた  共感ができなくなってしまった  
(桜が綺麗だねと 言ったら どれが  とか言われてしまい)
何のために生きているのかという気分に陥ってしまった  
自分の心の中をのぞくと何かを待っている  やましい はっきりさせたくない 
夫のそういう状態から解放されたい 逃れたいと言う状態だった 
 
庭で夫がやったことを非難したら、もう嫌になった 死にたくなった 包丁を出せ  
俺はもうつまらん男に成ってしまった 前から俺は自分の事が嫌に成っているんだ
洋子 お前を幸せにしてやれん  と言って涙を流すんですね  もうはっとしましたね  
夫はある程度自分が頼りない人間になったのを自覚していてそして絶望している
それを私はちっとも気がついてあげてなかった 
 絶望も妻の私を幸せにしてやりたいと思うけれどもそれができない と思って絶望している
それなのに私の方は夫を幸せにしてあげたいと思わないでこの状況から逃げたい  
解放されたいと思っていた
そのことを夫の言葉で気付かされて、私も泣きましたね
    
それからは避難しないで受け流すようにしていたら、夫も矢張り笑顔を返してくれるようになった
ぎくしゃくした関係が良くなってきたが、私としても努力してきた 
夫が病院に行かないので、病院に一人で相談に行く  日ごろの言動を洗いざらい話した 
先生もいろいろ質問をされて  アルツハイマー性認知症であろうと言われた  
MRIを再度取らないといけないと言われた
薬もあるが、限定的である   
嫌がることをさせて絶望感に夫がなると言う事にデメリットの方が大きいと思って診断して貰って告知されるのを諦めた
私にできることは笑いあって、仲良く穏やかに暮らしてゆくことをその時点で決心した   
喉に詰まるとの話が有って それを理由に 神経内科に言った
側頭葉の左側が委縮していて中期の認知症であることが判った  
診断結果は夫には伝えなかった  介護サービスの手続きはしておいた
面接をして要介護度3 でした 安堵した 病気なんだと 不思議な安堵感がした(一瞬であったが)  
認知症 300万人

2012年9月19日水曜日

道下俊一(86歳)        ・北海道の赤ひげ先生と言われて 2



道下俊一(86歳)  北海道の赤ひげ先生と言われて    2
2年目に入った時からも 同じだった  盲腸の人が来た  
看護婦に手術をしたことが有るかと、言ったら全然ない とのことで 道具はあるかと言ったら この前 物置を整理したら、それらしいものが有ったとの事で 盲腸や、お産の道具が錆びないで、そのまま有った  
学生の頃に病院に行った事があり、自分では手術したことはないが、経緯は解っていた  
看護婦に手洗いの消毒から含めて盲腸の手術の第1号をやった
麻酔を掛けて、喉がからからになりながら、盲腸を取って、切り口を縫い終わったときは、
精も根も尽き果てて 手術術は成功した その後2,3回もやった
各科の本は常に用意しておいた  村の人達は今度来た先生は盲腸の手術もできるので根室
まで行かなくていいよと  噂が広がった

盲腸ができるのなら、お産だってできるだろうと、お産も何例かやったね
霧多布でも大変だった  停電になって蝋燭を頼りに手術したことも有った
毎年同じような事が8年間有った 村長等が押しかけてくるので、帰るための荷物を作る、
そして解く  それが我が家の年中行事になった
昭和35年5月24日 朝 どんどん叩かれて、玄関に出たら、腰の痛いと言っていた爺さんが、
真剣な顔をして 先生、奥さんと子供を山に逃がせ 津波が来るぞって
船を出すのに浜に行ったら、海が無くなっているんだ、と言うんですよ  
まだ薄暗かったが山の方のお寺に行った
入院している患者で、歩ける人は誘導して看護婦が避難させた  
前の晩に手術した患者は私と用務員が担架で運んだ

チリ地震による大津波だった  地震が無いのに 起きるはずが無いと言っていた  
ある村落では誰も無くならなかった  後での情報では、私の友達が 海を見て海が無くなって
おり、津波が来るぞと、村落の人全員を避難させた
長男は小学校の1年生、下は2歳でおんぶして高いお寺に逃げた  
救急薬品だけは用意した   11人が無くなった
初めて取り上げた女の子も津波で亡くなってしまった   14回も津波が往復した  
どう仕様も無かった  家も崩壊した

子供も怖がって、おじいちゃんの処(札幌)に帰ろうと言うので、津波が落ち着いたら、
今度こそどういわれようが絶対に 帰ろうと思った
避難所にいる人達が、はしかと水疱瘡とが随分はやって、津波で助かった人を亡くしてなるものかと、昼も夜も随分と頑張りました
前年に伊勢湾台風が来て 其の時に水の便が悪く 赤痢が多発した  
そのことが有って村長に言った
村長に霧多布の若竹だけでも 簡易水道を作れと そうでもしないと毎年赤痢が発生するぞと、また隔離病棟を建てろと その二つを提言しました
その年 34年に簡易水道ができた  
そのために今回の大津波では、赤痢の発生は無かった  
どんなに言われようと、今度こそ絶対に札幌に帰ろうと思っていた  
霧多布から見る夕日が凄く綺麗なんですよ 少し心にゆとりができたのか、一つ 気付いた
8年の内に 2回も津波にやられて 財産を失った人が一人も霧多布を捨ててないということ
だったんですよ  それに気付いたときは背中に水を浴びせられた
様な気持ちになりましてね、そして診療所に帰ってきて、一人の高校生が風邪で来て、
お前のところはまたやられたなと お前の家も船も全部持って行かれたんじゃないかと、
どうしてお前こんな怖いところにいるんだと言ったら、「ここは故郷だ、故郷を捨てられるか」と
言ったんですよ  
故郷を考えてみて、生れたところも故郷でしょう、旅の先でここは気に入ったなと、少し長く住んで
みようと思ったのも、私は故郷だと思うんですよ、私の生きざまを
知ってくれている人が多くいる所も故郷だと思って、私は帰ることを止めて、この青年たちと
一緒に霧多布の復興にかけようと思った

妻にこの事を言ったらボロボロボロボロ泣きだして、診療所に逃げて行った 
夕方に帰ってきたら、夕餉の支度をしていた
その後 さっきはごめんなさい 急に言われたからどう答えたらいいか判らなかったが、
貴方が残るのなら私も残りますと言ってくれてた
妻は花が好きで1年後帰る 1年後帰ると言う事で1年草を育てていた 
だけど 其の時は桜の苗を買ってきて いつ咲くか判らないが決心を示してくれた
今は大きくなって2本が咲いている   
津波が無かったら私の人生は違ったものになっていただろう
先生に病院と土地を全部上げようと議会で決めた  もうNOとは云えなくなった   
土地と建物をもらうわけにもいかず 私名義には成らなかった

浜中町名誉町民になった  47年いた 
私は街作りは人作りだと思うんですよ  子供に剣道を教えて、礼儀、作法、挨拶を教えて 3年経ったら釧路管内を制覇しました 
女子は姉妹で東京に行って、定時制高校の全国大会で剣道で優勝して帰ってきたりした
霧多布浜太鼓 、日本の郷土芸能の会長と知り合いになり、来てくれて 霧多布浜太鼓の
シナリオを書いてほしいとの要望にこたえてくれた
冬のしばれた海で鎮まりかえった海、春の訪れとともに活況を呈する出漁太鼓で、 
海と人間との戦い 霧多布というのは 鯨の取れる所だった

鯨と人間との戦い 漁に行って、大漁で帰ってくる船 むかえる浜は大漁岩太鼓  
津波に会って、恵みを与えてくれる海ではあるが、或る時には怒りをぶちまけてくる  
海、最後にそれに敬虔な祈りをささげて太鼓を打ち上げる 
シナリオがあるので第11回日本の祭 の時に開幕演奏を頼まれて打ってきた
子供を育てる、地域の文化を育てることもやってきた  吉川英二賞を貰った
予防衛生  之からの子供達の為に教育をした  検診、予防注射の普及に努めた
医学の世界は専門職が発達してきた しかし狭い分野しか知らない
   
妻には感謝しています  口では言ったことは無いのですが  
この頃講演に行くと偉かったのは奥さんだと回りから言われた
最近ではへき地医療というのは難しい  
若い医師への提言  やっぱり基本的に問診を十分すれば診療の半分は終わっているぞと、 患者との対話を十分に取れ    カルテの裏側   真剣に捉えている医者も一杯いる  
私が見た患者が今後を継いでいる(東大を出た)    
へき地は 自由が無い アルコールが嫌いだったから出来たと思う
カルテの裏側が判っただけでも良かったと思っている

2012年9月18日火曜日

道下俊一(医師86歳)      ・北海道の赤ひげ先生と言われて



道下俊一(医師86歳)  北海道の赤ひげ先生と言われて
今から60年前 北海道大学医学部を卒業したばかりの道下さんは十勝沖地震で大きな被害を
受けた釧路市から80km東の浜中町霧多布に命ぜられ赴任した
昭和28年当時の霧多布はまだまだ不便な地域だったと言います  
その後47年間、診療所を支え地域医療に力を尽くした道下さんは札幌市に妻とお住まいです
(1926年 - )浜中町名誉町民、浜中町立診療所名誉所長。医学博士。釧路国医師会顧問   1995年 - 僻地医療への貢献で吉川英治文化賞受賞

札幌に戻って来てから12年になる リタイアを考えていたが、北海道は医者が足りないため、
来た年から働いている
大動脈瘤の手術を2回している  新たに又大動脈瘤が見つかった   
60数年医者をやっている  生れは樺太 父は教員だった
昭和23年に引き上げてきて、再度北海道大学医学部に入学した  
25年卒業 小学校の同級生は多く戦争で亡くなった
(地震でやられたのできりたっぷに1年間行って来いと言われた) 第二内科 
27年十勝沖地震が起きて霧多布の街を破壊した どんな環境か一切判らなかった
1年だったら良いのかなあとでかけた。(結婚していて妻からは反対されたが) 
今では4時間で行けるが、当時は夜行しかなかった 釧路に付くのに10時間掛った 
さらに浜中まで2時間掛った

霧多布は思ったよりも診療所の建物(明治元年に建てられてもの)が古かった
 1年間兎に角頑張ろうと思った
看護婦が2人いた  人口が8500人 それに対してたった一人の医師という事  
開業したが朝、患者は来なかった 昼頃に老婆が来て「どうせすぐに帰るのだ
ろうから、私達は医者を信用していないんだ」と言われた   
老婆に手を見せなさいと言ったら、赤くはれ上がっていた。
新しい洗剤によるアレルギーだったようだ  その洗剤の使用は止めなさいと言って、
夜になったらしっかりと洗ってこの薬を付けなさいといって帰した それが第1号
第2号は 釣り針を手に刺してしまって、切って取りだしてやった
  
1日 6~7人来た 内科が専門で有ったが、聴診器は一度も使う機会が無かった
手が痒い、腰が痛い、肩がこる そんな患者ばっかりだった   
村の人達に近ずく為にわいしゃつを脱ぎ、ネクタイを外して、きりたっぷ弁をならった
会話が出るようになった  
村を歩くときに知らない人に会釈したりしていたら、2カ月たったころに患者が増えてきた
往診するために救急車が無い 歩くのみ 8kmぐらい歩いた 待ってる患者の為に  
吹雪であそこに行ったら今日は帰って来られませんよと言われた
湯担保を抱いて毛布をかぶり、馬橇に乗り吹雪の中を往診に行った  
加藤一彦  高校生を雑用係として雇った  暇なときに漫画を書いていた  「ルパン3世」の作者となった
  
レントゲンの現像を担当して貰った   ここに居たら雑用係のままだから、東京にいかなければ漫画家に成れないぞとはっぱを掛けて東京に行かせた
10年ぐらいたったら 一枚のはがきが来た  先生 米の飯が食べれる様になりました
 編集長に認められ、週刊誌に書いたものが爆発的に日本中に受けて増刷増刷になった  モンキーパンチのプロフィールを教えろと双葉社に言ったと言われますが、絶対に浜中出身だとは云わなかった  
専属が切れて初めて 霧多布出身だと判ってから マスコミはモンキーパンチを取り上げるようになった
霧多布は 今は観光地   当時苦労したのは食べ物 28年ごろ  
青物は殆ど店には無かった  缶詰めと卵    札幌に戻る気持ち 鼻歌交じりに荷作りを始めたら、直ぐに集落に知れ渡り、帰らないでくれと家に集まってきた  

何とか帰らしてくれと私の方から頼み込んだ    夜 往診していた胆石を持つ婆さんが玄関に倒れ込んで来て、「帰らないでくれ」とほぼ絶叫の声をあげた
菊婆さんに俺まだ若いんだと 手を握って残ると言った  
妻からはNOってどうして言えないと 涙をぼろぼろ流しながら、荷物をほどいたんです
仕方が無いなあと思うんですよ(妻の言  1年経ったときの話)  まあ来年は帰れると思った
舟に乗って往診した帰りにしけに会って、一晩中流された事が有った (九死に一生を得た) 今では考えられないような人の情が有った     
「カルテの裏側が判って、初めて本当の医療ができる」  カルテの表には食欲が無い、
咳が出る お腹が痛い と書きますね  しかしカルテの裏側にその人の人生がある  
夫婦関係の問題 親子の関係  兄弟の関係  最後には経済問題まで私はカルテの裏に
あると思います  
有る少年に往診を頼まれて行ったら どぶ板踏みならして、薄暗い家に入って行ったら、
横に成っている病人見たら母親らしい人だけれども 私は聴診器を当てなくても
その人の病名がなんであるかという事に気付ついた  結核だと    
その人に日の当る場所にいなさいとか、良い栄養の有るものを食べなさいとか
本に書いてあるような事は言えるか  直ぐに民生委員を呼んで、ケースワーカー呼んだ 
 
 療養所に入れた そしたら母親の顔が明るくなりまして
その子供も落ち着いて勉強して 後になったら北海道大学の理学部に入って良い技師になって、母親と一緒に暮らしているのを一つの経験として
カルテの裏側を解れと  こないだも札幌医大の学校に行ったときに聴診器をあてる医者になれと、問診を十分に聞く医者に成れと言ってきましたけど
聴診器を当てない医者、患者の顔を見ない医者が若い人にやられているでしょう   
患者との対話を如何してしないのだろうかと思う
私は会話を絶対十分にしたいと思っている

2012年9月17日月曜日

宮脇昭(植物生態学者84歳)     ・南北300kmの命の森をつくろう  2

宮脇昭(植物生態学者84歳) 南北300kmの命の森をつくろう       
ブラジルアマゾンの破壊再生をやり、1996年 万里の長城 周辺 かつては森だったが 煉瓦を焼くため
に森を伐採した  北京市長から要請される
蒙古ナラ もう消えて無くなっている   有るのはポプラ、西アカシア、柳、と、はんの木だけ  こういう木
は直ぐ育って、直ぐに駄目になる(ある意味松と似ている)
羊もいけない、山羊もいけない処に蒙古ナラがあった  ドングリを毎年 ハウス栽培をして 10万個の
ポットを使った  一冬越して、春に見に行ったら
局長以下 飛行場に迎えに来ていた  植物は最初 根が出て 双葉が出てくる  
絶対成功しないと向こうの担当者等は思っていた様だが、苗ができた

草しか生えていない  1m×1mの処 毎年3万個  平米3本を植えてトウモロコシの殻を運んで
かぶせた  初年度は旨く行った 1000~1500人のボランティア
の人が日本から来た  (身銭を切って日本から行った)  中国の人間からすれば何で自分で金を
払って暑い処でただ働きをするのか不思議であったので
記者が若い日本人の女性に尋ねたら  一生に一度位、良い事をしてみたかったです 
これで少しは私も落ち着きましたと 言っていました
木を植えるということは、明日を植えるという事、命を植えるという事 心に木を植えるという事   
多い時は3500人ぐらいが参加 中国からも同程度参加した
1昨年は最後の100万本 (10年間で) 最後の2万本を植えた   緑が再生している  
ブラジルアマゾンでは廃材を焼いていたのを全部 6m位掘ってそこに入れて、日系企業が協力して、
2000人ぐらいが 最初1991年 1500本植えて見事な森に成っている 

ボルネオの場合もカヤみたいな草が生えていたが、当時は全部焼いていたが、焼かないで穴を掘って
そこに入れて 1991年~2000年でたった7000本しか植えられ
なかったが、今では世界で初めて(熱帯雨林は一度破壊したら再生不可能と生態学者が言っていたが)
成功した  ユーカリやアカシア マンリュウしか植えていなかったが
その土地本来の木 ラワンとか49種類  最終的には10年間で201種類のポット苗を作って植えて見事に
森になった
今度の災害では瓦礫を命の資源として 土地に混ぜながら間マウンドにして、やってほしい
世界の人は宮脇方式と言っているが、そうではありませんと、自然の森が作ったそのノウハウをまねて
いるだけにすぎない 自然の掟に従ってやっているだけ部下任せにしない 
企業に丸投げしない  私は必ず現場に行きます すくなくても最初と最後は
本来自生している地域に主役に有る樹木がある  先ずトップを見付けて その周りに3役がありそれを
植えて 最後にそれを支えるている低木を植える

この図式をきちんと見付けて それを植えるにはマウンドを作る   本命の木は根が深く 真っ直ぐ
 深根性 直根性ですから 裸苗では駄目なんです
ポットに入れて根が充満してから植える  次に根は土で勝負します  根は息をしているので
ほっこら(空間)が大事 
そのために瓦礫は非常に活用法がある  (毒を排除したもの  人間にとっても毒になるものを
排除)  コンクリートは問題ない
防腐剤が入っている 入っているのはごく一部 100%を役所は考える 焼いてしまえば責任者は
問題ないと言うかもしれない
焼いても空気の中に散乱させるか、水の中に散乱するか に成ってしまうだけ
税金を使って、全国にばら撒いて焼いたりするよりも、そこで深い穴を掘って毒を排除しながら
マウンドを築いて、隙間ができて 根が良く育ちますので
希望の森として 出来る所からやってゆく   そうすることで点が線に成り 帯に成り 300km 400kmと
してゆきたい

理想的には幅100m位ほしい 深さもできるだけ深く掘る 最低1m 出来れば3~5m そこに瓦礫を
すべて中に入れる
ユンボでやれば簡単にできる  瓦礫を混ぜればいい 落ち葉 上に行くに従って 土量を多くする 
有機質、腐葉土の様なものを多く入れる 
コンクリート破片は隙間を作る 酸素 酸素が大事 逆三角形のように根が張ってくる  
森には隙間があり 隙間が津波のエネルギーを吸収する  
10m、20mのマウンドを築いて そこに木を植えていれば そんな福島の問題は起きなかった
何のために どこに どのように植えるか 最低限の科学的な 哲学を持って植えないといけない  
木を植えれば良いんじゃ無くして 何のためにどのように
何の木を植えるか その辺を正しく理解してやっていただきたい  
福島 原発 中に入れない時間があるので その時間を有効に使いたい

相馬市  瓦礫に対する予算(昨年100億円 今年100億円 来年300億円)があるが 
1/10を瓦礫を使ったマウンドを作る費用にしませんかと言っているが、
これは法律で決まっているので、瓦礫の分別にしか使えないとの事  処が去年に分別は終了している 
後は小さくしたりするだけ
膠着した行政機構に問題がある  桜井市長はやりたいと思っている そういうところこそ、皆さんが
戻ってきた時には森が育っていて 大丈夫という形にして貰いたい
瓦礫は地球資源なんです   災害はいつかは必ず来る  
10箇所は東北三県の中で森作りが行なわれている  2/3が女性が参加している
小学生も夢中でやっている  
木を植えることによって 森と共生して 森とともに生きてきた本能は思いだされる   
木を植えることは 心に木を植えること  どんな財産にも代えがたい、人間として生物に甘受し 
吸いこまされるために 森作りに参加して下さい

2012年9月16日日曜日

宮脇昭(植物生態学者84歳)     ・南北300kmの命の森をつくろう

宮脇昭(植物生態学者84歳)  南北300kmの命の森をつくろう         
(1928年(昭和3年)1月29日 - )は、生態学者、地球環境戦略研究機関国際生態学センター長、
横浜国立大学名誉教授
植物生態学の世界的権威で生態学センター長  震災跡地の海岸沿いに住民の命を守る南北300km
に渡る森をつくろうと呼びかけています
防風林、防潮林がどのような役割を果たしたのか、或は果たせなかったのかを細かに調査して歩きました
そこで得た結論は防潮林の樹木は松だけでは、津波を防ぐことができなかった  という事でした
土地土地に自生してきた様々な樹木を一緒に飢えることが大切で各地に残されている、鎮守の森の
姿が防災の森に適しているという事です
津波で樹木がどのように影響が有ったのか調査した   3.11の大震災時に、ジャワ島の現地調査に
入っていた
その津波の状況をローカルのTVで放映されていた  急ぎ3日を掛けて帰ってきて被災地に向かった
10m、20mの松が根こそぎにやられた   松だけでは無理じゃないかと思った
処が南三陸、釜石 等ではたぶ、白樫 は残っていた   本物とは厳しい環境に対して長持ちするもの 
生物社会の原則だと思います
七万本でたった1本残っていたのが、マスコミで騒がれたが、倒れた木がカバーして保護していたから
1本残っていた  塩水が中に入ったので長持ちしないと思った
矢張り 枯れてしまったが   それは松だけではだめだという事が判明した  松を支える たぶ、しい、樫の木
と混ぜて植えれば松も育つわけです

今 私達は もの、エネルギー 食べ物もあり余って 最高の科学技術で絶対大丈夫と傲慢に
振る舞っていたその瞬間に一番大事な命が、東日本大震災で2万人
もの命を失っている   温度 PH 等 計量化できるもの 数字で表現できるものが科学の対象で
あって どれほどそれが命や環境に大事なものであっても
計量化できないものは非科学的なものと思われてきた  
しかし21世紀は総合的に見る時代だと言われるけれども、日本で、世界で金で換算できるもの
数字で表現できるものが、科学的であってそれがどれほど命や、心や環境に大事でも、
今の不十分な医学、科学技術で計量化出来ない、数字で表現出来ないものは排除されている
それが現在の一つの不幸なことで 命も心も見えないわけです  
環境もトータルで判らない
それを見えるものだけで絶対大丈夫だという予測をして、釜石では63mの鉄筋 
大丈夫だと思っていた 処が東日本大震災でバーッと来ますと、津波のエネルギーが
突き当たると(10m 20mになって)、裏側から壊したり 抜けて 釜石だけでも1000人ほどの人が
亡くなってしまった

何が有っても生き残れる方法を考えないといけない 植物生態学 植物社会学 植生学を基本に
使って なにがあっても生き残る命の森を作っていただきたい
一番多いのが松だった  海岸だから松しか育たないと思われてきた 
自生しているものも低木に支えられて生きている
人工的に税金掛けて松だけにしたのが、大きな被害をうけて仕舞った  
大事なことは生物社会は多少気になる嫌な奴も 自分が生き延びるためには、皆殺ししない
お互いに少し我慢をして、共に生きてゆく これが40億年続いてきた地球の生物社会の原則です
小手先な対応でやる方法はまた失敗する  
紀伊半島で集中豪雨で100人近い人が亡くなった  倒れているのは杉や檜であって、
人工植林したものであって それが根が浅くドシャと一緒に成って
堤防破壊したりした  ものは再生出来る 命は再生できない

松  早く育つ 早く育つものは針葉樹 針葉樹は一般的に根が浅い  バランスが取れて行ない  
松、杉、檜は過去の植物 現代の様な立地条件では広葉樹が遥かに優勢です
遥かに優勢です  人間によって森が破壊されている(人工林)    
たぶの木  日本文化の原点とも言われ 折口信夫(しのぶ)民族学の先生が最初に書かれ、
池田弥三郎
しいの木  白樫 荒樫  番頭役(常緑広葉樹)・・・ 藪椿 もち  やまもも しろだもも   
それを支える低木・・・あおき やつで さかき さかき(常緑樹)
鎮守の森  限りなく自然に近い木が残っている   
厳しい外部環境 中ではお互いに競争しながら、我慢し、共生してきた  
40億年続いてきた生物社会の掟 それを基本にしてやらないと、植物の進化の歴史から 
いいますと、40億年前に宇宙の奇跡としてたった一つ 小さな地球という星に原始の命が科学的な
自然の奇跡で生まれたのです

そのDNAという細い遺伝子が、切れずに続いたから、今私達が有るわけです  
四億年前に海の水が引きました  陸上に上がったのは植物  初めは藻類  苔の類  
三億年前は間氷期  蕨の大森林ができて、三億年バランスが取れていた
石炭 石油 ガス  190年前に化石燃料を使って人間は燃やすことを覚えた  炭酸ガスができて 
地球温暖化が騒がれる様になる
裸子植物 いちょう ソテツ 針葉樹 檜 松 唐松 それから進化して 被子植物として 
常緑広葉樹 たぶ しい  樫(白樫 荒樫 裏白樫 いちい樫 沖縄裏白樫
奄美荒樫)  それらが森に覆われていた    今はそれらが0.06%しかない 後は人間によって
かえられたものなんです
(日本の常緑広葉樹を主とする照葉樹林帯では土地本来の森は0.06%しか残っていない)
松が問題 進化の過程から言うと 裸子植物の松 現在は被子植物の時代  
広葉樹に押されて隙間に部分的に有った  今ある松は本来の松の領域の250倍に増えている
生物社会はある種が減っても大変だけれども、増えすぎても危ない  人間もそうだけれども
海岸は黒松 どこでも育つ 内陸は赤松  里山 本来は常緑広葉樹  しかし人間が火を使うように
なって、暖房、下草刈りをしたり、人間によって熱帯化する

山の上に有った落葉広葉樹のクヌギ、こなら 山桜 えごの木 それが里山の雑木林として 
それが武蔵野の雑木林  2年に一回下草刈り 20年に一回
伐採して再生 その管理をしない限り 持たない   
3000年前には海岸には黒松が有った それが日本文化の原点と言われるし、松が育つには 
たぶ しい 樫類が共に育っていないと駄目
危機を前向きにとらえて、南北300km 幅100m、高さ22mの9000年続く平成の森を作りたいと
願っています 
瓦礫をそこに全部入れたとしても、マウンドのたった4.8%しかない   
国家プロジェクトとして是非進めていただきたい  9000万本必要
1年間提案していたが、なかなか動かなかったが、たまたま細川元総理から電話がありまして、
協力の話がありきてくれた
瓦礫を生かす森のプロジェクトという 法人を作りまして 21世紀の鎮守の森、9000年続く平成の森を
作りたいと思っています

来年までに被災を受けた19か所の鎮守の森を日本財団の協力で進めています
先ず出来る所からやっていく  点から線に線から帯にと そして東北地方以外にも広げて日本列島
の出来る所から始めてゆく
命の森作りを是非皆さんとともに進めてゆきたいと思っています
我々人間が最大の害虫ではあるが、人間が破滅することはできない  
だから人間私達が生き延びるために少し我慢しながら出来る所から命の森を作る
何故森を作るか 森なんか関係ないとおっしゃるかも知れません 
実は我々がどれほど科学技術を発展させ、富を築いて エネルギーや食べ物が一杯になっても
この地球上に生きている限り 森の寄生虫の立場でしか生きてゆけない  
バターとか食べ物 衣服すべて基は植物です
炭酸ガスを吸収するのも植物です   今すぐできる事から始めましょう

2012年9月15日土曜日

柏木哲夫(金城学院大学学長73歳)  ・人は死を背負って生きている

柏木哲夫(金城学院大学学長 73歳) 人は死を背負って生きている
大学で精神医学を学んだ後、アメリカに留学して末期の患者を様々な分野の専門家がチームを
組んで、ケアをすると云う後のホスピス医療につながる取り組みを眼にしました 
帰国後  大阪にある淀川キリスト教病院で1973年に日本で初めてのホスピスの取り組みを医療の現場に導入し、約40年間にわたって2500人を超える命を看取ってきました
学校法人の学院長を務める柏木さんに信仰を持つ、一人の人間として命を看取ってきたことで、
見えてきた事を伺います

人は生の延長上に死があると思っていますが、現実には死を背負っているんだなと思う 
人は生きてきたように死んでゆく中、2500名の方を看取って教えられたこと
昔は家で死を迎えていた  
祖母が74歳で自宅で死を迎えました 祖母の姿を見ていて、お婆ちゃん死ぬんだなあと 子供心に実感した
今、ほとんどの死が病院の中で起こっているので、多くの人はその死というものを、実際に自分で体験していない 、見ていない

極端に言えば自分が死を迎えるときに、それが初めての死の体験であったり、家族が死を迎えるときにそれが初めての体験であったり、要するに勉強しないで実際の場面に遭遇せざるを得ない
そういう時代に成っているので対処するのが本当に難しい
心の準備なしに迎えるというのはとっても大変なこと   
年に一度ぐらいは自分の死を考えるという事をされることが大切ではないでしょうかと
誕生日に死を思うという事を奨励しているのですが  大学、病院、会社 防災訓練日とか、
火災訓練日がありますね  一度も発生していない 発生率 ゼロ
発生率ゼロの火災に対して 年に一度準備をするわけですから  死というのは発生率100%ですから必ずおとずれる死というものを年に一度ぐらいは考え、それに対して準備をするというのはごくごく当然のように思えるのですが 私は自分の誕生日に死を考えている
 
遺言を都度書いている
死というものは、この世との別れではあるけれども 同時に新しい世界への出発であると、いう風に思ってますので、我々の仕事は この世をこちら岸とすれば新しい死後の世界は 向こう岸ですね  きちっと向こう岸に渡さないと 苦しまれたら困る 
ですからちゃんとこちらで専門的なチームを組んで 大きな良い渡し船を用意して、乗っていただいて こちら岸から向こう岸にお渡しする 良い渡し守になれば人々の役に立って、喜んでもらえるという風に思っています

私の信仰というか 信じているものとの間にそういう関係はあるかもしれない
大学2年生の時に初めて教会に行った  現役で入ることにしていたが、少し成績が伴わなくて、
浪人をしまして、浪人の反動で大学1年生の時にはダンス、麻雀してみたり、ちょっと真面目に勉強しようと思わなくて、1年生の終わりに なんかむなしい 満たされないという気持ちがしてきた
そんなときに熱心なクリスチャンが居て、教会に来ないかという誘いが来て、ある時クリスマス特別集会が有って ふっと行く気になった
宣教師がたどたどしい日本語で一生懸命にイエスキリストの誕生の話をしていて、内容は判らなかったが、一生懸命さに感動した

今まで見たことの無いような笑顔をした人を見かけた  
今の自分のむなしさを埋めてくれるような場所かなとふっと感じた  教会に通うようになる
5年ぐらいかかった 科学的な思考であったので判らなかった  
牧師が奇跡の話をしたと同時に罪の話をした sin(罪) 私が中心に有るでしょう  
人間は非常に自己中心的な考えをするので 自己中心 私が中心だと思う事が罪なんですと 
罪はいくら努力しても自分で解決する事は出来ない
それはある意味で 罪から解放されるのは奇跡的なことなんだと それは我々の罪を背負って
十字架にかかって下さったイエスキリストを信じることによってのみ、その罪の問題は解決するんだと言われた ポコっと開いていた空間が段々埋められていったという感覚が有るんですね

自己中心性 自分が自己中心的な人間で 自分の努力では解決できない という気持ちで  
自分でどうにもできないという気持ちを神が埋めて下さる という
そういう感じがしたんですよ  
それで自分では自己中心性というものはどうにもできないので、これは神様に何とかして頂かないとどうにもならないと思ってそれが洗礼に結びついた
当時川で洗礼を受けた(11月末 みぞれの日)  川に全身を浸して洗礼を受けた  
出来るだけ長く浸かっていたら罪が洗い流される様な気がした
今から考えると奇妙な考えかもしれないが、その時は本当にそう思った

水から上がった時にほかーっとした  生れ変わったと思った 私の人生の中で本当にドラマティックな日でした
1972年 リエゾン(橋渡し)精神医学  医者がほかの分野(内科で 透析を受けている人  
外科の手術の前の患者 婦人科でお産の後精神的にちょっと不安定になった人 とか) 他の科で精神的な問題を持っている人とそういう人を診療する
精神科で外来で待っていて来る患者さんを見るだけでなく、出掛けて行ってみる 
それをリエゾン(橋渡し)という
その中で初めて末期の患者さんのチームアプローチを体験した 
あと1月の命という患者さんに対して、医師 ナース ソーシャルワーカー チャップレン 多くのボランティア
薬剤師 栄養士 という人達が集まって患者さんの検討会をする 

 この患者さんにとって今何が一番大切なのか どういうケアをしなければいけないのかを本当に一生懸命討議している
初めて体験した時に 非常に不遜な考えだったんですが 1月で亡くなる患者さんに何故こんなに熱心にやるのと思った
疑問を言った時に、一人のナースが この人は今までアメリカの為に家族のために一生懸命生きてきた 今あとひと月ぐらいでこの世を去ろうとしている
最後の一月を その中でどのように過ごして頂くのか、どのようにして苦痛をから解放されて、
良き最後を迎えられるかを皆で考えて ケアを提供するのはとっても
大切な医学看護の分野だと思うと言った   
本当に素晴らしい事をやっていた 
 
独立した病棟でやっていた(明るくて 広くて 静かで 温かい)
5か所位回って 如何しても日本にこの様なものをつくりたいと熱い思いを持った 
病院をつくる(2億円)のに借金ではなく、 寄付と献金で賄いたいと言った  
それは甘いと言われた  開き直って 「要とされるならば 天の窓が開く」と言った 
ホスピスの病棟をつくる  2500名の患者を看取る  
2週間ぐらいの間をおいてみ取ったのが対照的だったのではっきり覚えている  72歳

すい臓がんの末期患者 倉庫会社を一代で築いた人  豪邸が有って 乗用車が2台あって 
非常にお金持ちの方 地位と名誉と財産がある
その方が入院されてきた 物凄い痛みがある  直りたいという気持ちが強くて 死にたくない 
この痛みを何とか無くして治療を受けて直したい
死ぬという事が全然受け入れられないような状態で入院されてきて、一番やって貰いたいことは痛みをとって欲しいとのことでモルヒネを打って幸い痛みはとれた
すい臓がんは下り坂になるとどんどん悪くなる 

死に対する恐怖感が凄くなって 何とか助けてくれと言って すこしでも不安を和らげることは出来ないか、恐怖感をちょっとでも少なく出来ないか、苦労したんですが 不安、恐怖感を解決しないままに、身体的な痛みはとれるのですが、心の痛み 魂の痛みは随分有ったと思うんですが、
切ない看取りというんですか 不安、恐怖感を解決できないまま亡くなった 
そういう風な患者さんでした
末期というのは其の人が付けてる衣が全部はげ落ちて、魂がむき出しになる 
そういう時期だと思う
この方は入院してこられたときに、素晴らしい衣を付けていてピシッとしたスーツを着て絹のネクタイをして、 入院と同時にパジャマに着替えますね 

そうすると衣は剥げ落ちる と同時に社会的な衣もはげ落ちる
倉庫会社の社長 名誉と財産 そういう社会的な衣も全部はげ落ちて、魂がむき出しになる
むき出しになった魂に平安が無かった 死の恐怖 不安にさいなまれながら亡くなっていった 
どう対処していったらいいか判らないままに切ない看取りになってしまった
それから2週間後に72歳の肺がんの末期の女性  クリスチャンだったんですが、
入院してこられたときに呼吸が苦しくて せいぜい2週間ぐらいかなと思った
私は1週間 か2週間で神様の元にいけるかと思いますが、それはそれで嬉しいんですが、
何ともこの息切れが苦しい、辛いんです

これさえ取っていただければ嬉しいんですといわれ、モルヒネとステロイドを開始した 
2日して随分良くなった
しかし、衰弱はどんどん進んで行って 1週間目ぐらいに回診に行ったときに、
明日ぐらいの気がしますと小さな声で言われて、私先に行っていますから先生も後から来て下さいねと言われて「ハイ」と言ったんですが、それから2日ですね 
段々意識が無くなってき始めたが 最後まで意識はしっかりしていた
娘さんに「では、行ってくるね」と言ったんです 
 娘さんも「お母さん、行ってらっしゃい」と言ったんですね 
隣の部屋に行くような感じだった

思ったこと  再会の確信が有る(二人とも 死後の世界での再会)  永遠の命の確信  
(この世の生命は終焉を迎えても あの世の命は永遠に続く)
2週間前の倉庫会社の社長さんとは全然違う   はげ落ちて魂がむき出しになった時に 
その魂に平安があるかどうか それが 一番最後の勝負の様な気がする
沢山の人を看取ってきて魂に平安があるかどうかが最後の決め手になる気がする   
身体の痛みは近代医学があり旨くコントロールできるようになった
心の痛み 鬱状態 不安等は抗鬱剤等で緩和出来る
  
しかし魂の痛み ということに関しては其の人が魂に平安を持った生活をしてきたかどうか という事に掛ってくる
問題になった人には、宗教家がいて 聖書の学び 祈り 讃美歌とか宗教的なアプローチで
剥きだしになった魂に対するアプローチで 短い時間できゅっと魂に平安を注射することは出来ないので、それまでの生活の中で魂の養いをしておかないと大変だと思います
病気で入院するのは小さな死の体験だと思う  
そういう小さな死を体験して準備をして訓練をして死にのぞむほうが、魂がむき出しになった時にちょっと魂が訓練されているというか そんな感じがする  
魂に平安があるかどうかが 一番大切ことではないかと思う 

どうも死というのは随分先に有るように思うが、入院してこられる家族の話を聞いてみると、人間死を背負って生きているんだと思うんですよ
62歳の肝臓がんで亡くなった人 主人は本当に会社人間でずーっと会社の為に働いてきた 
ようやっと定年で之から二人で温泉にでも行こうかと思っていた矢先に癌で倒れた 
60歳過ぎに卵巣がんで入院してこられた奥さんのご主人との会話で  家内は3人の子供を本当に育てて呉れて、私は外に出っぱなしだった

去年娘が結婚をして二人きりになれて 温泉にでも行こうと思っていた矢先に癌で倒れた   
私は勝手に「矢先症候群」という名前を付けた
生の延長線上に死があると思っていたが、実際は死を背負っていたんだと  一枚の紙の表を生に例えるならば、紙の裏に死というものが文字通り 裏打ちされている
一枚の紙が風の吹き具合によって、ふっと裏返ったら ちゃんと死が裏打ちされていたなと  
そういう感じがする
阪神大震災の時に 係わった経験  西日本脱線事故に係わった経験  ご遺族のケア 東日本大震災のケア 災害とか震災とかに 各段階によって、提供できる医療 ケアは段階的に考えないといけないと思った

JR西日本脱線事故の場合は駆けつけた医師が少なくて助からないと思った人には手当ができないままに助かる可能性がある人の治療 そこにあるのは技術力なんですね 
上から下に差し出すことが必要になる
其の医者のパーソナリティー、親切、思いやりとかは問われない  
その人が技術さえ持っていればいい  処が其の修羅場が収まって、被災地で一般的な医療が
必要になった時 例えば高血圧で悩んでおられた方が血圧の薬が全部なくなって 物凄く困っている、其の時に診察に行く医師は技術力プラス人間力が必要

これは支える医療(『差し出す医療ではなく) 下からの支え    今は寄り添いのケア  
寄り添いが必要  横から むしろ人間力が必要 人間力を持つ人が横から寄り添う
その人の自立性みたいなものを信じているから寄り添える  信じて無かったら寄り添えない
とっても大切なこと  背負う  背負うというのは人間にはできない  
震災で今辛い状況にある方を、私が背負いましょうということはできない
これは人間力ではなくて神の力というか  上よりの力というか 私には背負うことはできませんが、貴方から辛さ、悲しみを背負って下さる方はおられるんですよ、という背負う事ができる神の力をしっかり伝えてゆく といういわば宗教的なアプローチがこれからは大切になるのではないかと思えてしょうがない

仙台にカトリックの神父 プロテスタントの牧師 仏教のお坊さん  神道の神主さん  が宗教を越えた人達が心の相談室をつくっている
その人達の一番の仕事は 我々には貴方の苦しさを背負えないけれど ちゃんとそれを背負って下さる人はおられるんですよという事を伝えるという事が大きな仕事に成ってくるんではないかと思う
①差し出す ②支える ③寄り添う  ④背負う  の4段階があるのではなかろうか    
死を避けて通らないで、蓋をしないでしっかり見つめる  死は誰にでも訪れる
ごく自然な現実としてしっかり見つめる  という事をやっぱり一人一人がしてゆく必要がある
毎日毎日 死を想えというのは酷かもしれないが、年に一度 誕生日に自分の死をしっかり
思って下さいというのが 私の最低限のお勧めです

2012年9月14日金曜日

永幡嘉之(写真家)       ・東北の生態系の変化

永幡嘉之(写真家)           東北の生態系の変化  
東北大震災の津波により、動植物の生態系が大きく変わりました  
この生態系の変化について、震災直後から調査したのが、山形市に住む永幡さんでした
調査結果を写真とともに、著書「巨大津波は生態系をどうかえたか」、に纏めました  
こうした活動が評価され、東京大学の研究員も勤めています
東北の生態系にどんな変化が起きたのか お聞きしました    
1973年兵庫県生まれ

兵庫県の出身 小学生の頃から虫の標本をつくったりした  
学生の頃からブナ林に興味を持ち、東北の山を歩くようになった 山形県に拠点を持った  
東北には見事なブナ林が残っている 鳥、昆虫の数が全然違う  東北に魅せられた  
虫、植物の写真をじっくりと撮り続けてきた
撮影よりも調べる事に趣を置いている   
3.11大震災発生当日は小笠原で調査していた  
夕方集落に入ってきたらメールが入っていた(避難の内容)
生命の気配が無い 海水が内陸まで入って 雑草も生えない世界になるのではないかと思った
4月から本格的に始める 
海岸線の生き物でしたら すべての砂浜に広く見られて、湿地も平野に広くあったはずなのに 100mとか、200mとか 狭い範囲に、いろんな生き物が押し込められた様な形になって、どんどん周りを開発していましたので、たとえば1kmの砂浜に津波が被るのと、100mの砂浜に津波が被るという のでは影響が全然違う   
これまでの歴史上類を見ない大きな影響があるということは最初から気がかりで仕方なかった 悲しみをしっかりと封印してしまい、今やらなければいけない調査をすると云う事を優先させました  
非常時には人命最優先というものはつきもので、ただ 其の時に本当に必要なものは他にも沢山有るわけです
周囲から今そんなことはすべきではないという、声が無かったわけではありませんし、なにもせず、じっと待っているというのは安全ではあるわけですけれども、それは私にはできなかったというのは有ります

現地に泊るところがほとんどない 
山形から福島、岩手 青森までずーっと車で走り続けるというスタイルをとりました
(凄い距離を走ることになった)
1年半で7万5000km走っています  
調査で分かった事  沢山の絶滅を見てきました
ヒヌマイトトンボ ちょっと塩分が混じった所にしか生息しない特殊なトンボ すべての生息地が海岸にしかない 
10か所 の内1か所のみ辛うじてわずかな数を発見したのみ、他は全部絶滅した 
葦の中を縫うように飛ぶ種類なので、人の目には触れにくく、新種として見つかったのが1970年代で日本で最後の新種と言われた
 
残っていた1か所というのは、川沿いに10km位に渡って葦が残っていまして、潮の満ち引きによって川を海水が逆流して 岸辺の葦原にはずっと薄い塩分が、入り続けるという このトンボにとっては絶好の場所だった  
他の場所は開発が進み 猫の額の様な場所に成ってしまっていた  
そういう場所は津波で破壊され、生き残るような隙間は無かったように思う    
10kmの場所も100m位の場所にしか生息していなくて、5kmに及ぶには、後5年 10年掛ると思います     
復活した生命も有った  「みずあおい」 
お盆過ぎに咲く花 1cmほどの花を10幾つ咲く  全国的に絶滅の危機にある種類の植物
みずあおいは出来た湿地を渡り歩くような植物なんです  
種を沢山つけるが、土の中に埋まっていて何十年か後に その土地に洪水などで水が入り、土の表面近くに種が来ると、光を受けると 突然芽吹いて 花を咲かせるという変わった習性を持っている 
 
そういった形で湿地から湿地に渡り歩く 
日本の歴史の中で湿地が増えるということは無かったんです  
常に開発によって埋め立てたりして減少してきた
今回の大津波で大規模に湿地が増えたのが事実として有る  
津波の3か月後には畑であった土地に葉っぱが生えてきた(何十年前の種が発芽した)
去年の津波の直後と今では 全く状況が違う事がある  
海岸林 砂を飛ぶのを止めるために 畑を守るため、家を守るために 植えられたのが黒松の海岸林、場所によっては 足の踏み場の無いぐらいに黒松の苗木が育ち始めている  
1年間で劇的に変わってきている  
広葉樹の苗木によって地面が覆われてゆく、様子は劇的な生態系の再生を見る思いがします  
復旧事業というのは津浪直後を前提に進められているので、足の踏み場もないくらいの苗木の場所を重機で整地して 上に新しく育てた苗木を植えるというような、行なわれているのも確かで、自然の再生能力を最大限に生かすという順応的な進め方も有っては良いのではないかと思う  
絶滅したものは出ているのでしょうか?  
今のところは幸いにして無いが、有る一つの地域から絶滅してしまったということは無数にある 人間の開発により狭められ、そこに津波が来たという複合的な要因が強いと思います  
人間が作った小さな保護区は本質的に意味が無いと思う   
自然を残すということは広さを残すこと そういった本質は何かという部分を強く考えさせられます
復旧作業 動植物がそこにいるということは、その地域で生まれ育った人の故郷の風景の一部であるという事で 今インフラ整備が進んで、道路、堤防 住宅地が、ドンドン進んで、目に見える形の復旧は誰にも判り易いものです  
ただそこに生まれ育った人が生活を取り戻すには、懐かしい風景 目にする鳥、動植物  
潮の匂い そういった精神的なゆたかさが不可欠だと考えるんです
インフラ整備とともに、大きな生活の柱となるべきものがあるという事を強く感じる  
自然環境を残すことが大事だと考えています

調べたことを評価して頂いた 
これを論文に纏めて 社会に提言をして その成果を社会に活かすという事を同時にきちんとやらなければと責任を感じています
ライフワークの一つとして之からも大きな柱になっていく事と思います
個人がこんなことが判ったと言っても趣味の世界で終わってしまいますし、その人が無くなればそれは消えて行ってしまう
それを本にしたり、論文にして 万人が使える状態にする という性格も持っています
自然写真家としての今後の歩み  今まで続けてきたことを続けてゆく  
今後別の事が起これば、やっぱりそれと向かい続けたい

日本の自然環境が如何なってゆくのか  我々の暮らす国土が如何なってゆくのか それを写真家として切り取って 調べ続けながらメッセージを発信し続ける、という事はこれからも続けてゆくつもりです  
今回津波によって人生が変わったという方は沢山いらっしゃいます   
私は普段続けていることが、出来たということは、やっぱり山形という外側に居て出来る事であったということであって その現場で壮絶な体験をされた人にとっては、人生が変わる大きな事であったと思いますし、直接の生活に関係の無いそれでも将来にわたって其れなりに必要性の有る調査というのは外側の人間がキチンとやらないといけない と強く感じた一つです
      
写真には様ざまな藝術的な効果もありますが、私にとっては調べる手段なんです  
こんなことが判ったとそれを一生懸命文章にしても 写真がある事によって初めて、文章が生きるという事も大きいので、私にとっては自分が調べてきた結果というものを、表現する手段として文章とともに之からも、大きな柱の一つで有り続けると思います    
自分自身 調べることが好き 手段として写真を続けてゆく  
自然が豊か 具体的な表現が無い   
津波でこれだけの豊かさが失われて、さらに時間がたってこれだけの自然の豊かさが戻ってきたという、具体的に形にして描き出す、それをこれからも続けてゆきたいと思います

2012年9月13日木曜日

土方正志(49歳)        ・被災地からの挑戦(2)

土方正志(49歳)   被災地からの挑戦(2)
3.11以前を伝える事が難しいけれども、必要だと言っています。 
今度の災害を東北地方から全国にどう伝えるか 等について伺います
東北6県 今後如何していったらいいのか  阪神淡路大震災を5年間取材し続けた  
復興してゆく力はどこにあるのか コミュニティーのしっかりしている地域のほうが
復興が早い 団結力がある 復興プランを建てるのが早かった(神戸の下町)   
コミュニティー近い経験は仙台だと思った(学生時代過ごした)
赤坂先生と取材で出合った 「東北学」(地域学をたちあげて、一緒に手伝わないかと誘われる)  
最初の5年間はフリーでやっていた
出版社(有)荒蝦夷(あらえみし)を立ち上げる事になる  
 熊谷達也(直木賞作家)が別冊東北学に連載してくれていたタイトルが「荒蝦夷」だった
荒蝦夷 日本書紀に出てくる言葉  当時東北に住んでいた人達が蝦夷  
荒蝦夷:大和朝廷が東北に責めて着て朝廷に抵抗した人達
にぎ蝦夷:大和朝廷に帰服した人達   日本書記に記述されている
    
東北6県で約1000万人、北海道を含めて1600万人
可能性を持っているのは東北、北海道ではないかと思った  人口が少ないが、面積が広く
豊かな可能性を秘めているのではないだろうかと考えました  
東北は一歩後れた時を過ごしてきた
高度成長期を遅れてきて、日本全体を見直す時に
東北にヒントがあるのではないかと考えていた   
海の特集をやる時は海に暮らす人達の証言を記録に残す 
山の特集の時は山の人達の証言を記録に残す
というようなことをやってきた   災害の時は何でもいいから証言をしてほしいとやってきた  
テーマは「東北」ですよね  東北のありとあらゆる事 記録を残すという事    
漁業、農業 林業 城下町の職業の人達 等々

東北とひとくくりにしてしまうと間違えるのではないかと思います  
東北は自然に近い 山、海、自然が豊かで 人口が少ない
仙台から車で30分行ったら、山があり、海がある    
仙台市内を見て今度の災害で仙台では大丈夫だと思われるのは、ちょっと違う 

車で30分いったところの海岸は壊滅状態にある  
自然の豊かさによって生かされてきた 漁師とか  自然が牙をむく事もあるんだよ というのも 
自然に近いだけに皆どこかで受け止める という事があるのでは 
記憶の濃度はやっぱり違ったのではないかと思う  祖父から聞いたのと、全く聞いていなかったのと
、書物、文献から得たもの それぞれ濃淡があると思う
自然災害って何だろう  という事で 例えば 南海の無人島で 火山が噴火しようが、地震が起きようが、
津波が起きようが、ただの自然現象なわけですよね
災害なのではないんですよね  そこに人が住んでいるから災害になるという事ですよね
 
自然と近いということは実は、生きている 生者と死者のあいだも近いんだねと 話している  
生と死が近いという精神風土  死んでいる人の声を聞こうと思えば聞こえるんだよという精神風土
精神風土がなぜ生まれたのかというのも自然と近いからではないだろうか、という事ですよね
それが今回も生きていたのではないでしょうか
明日はわが身になるのではないかと切実な問題として考えるには、東北の人の力は大事なんでは
ないでしょうか
記録に残すのは地元の出版会社の使命だと思っている  資料を残す  

今回 被災地でいろんなことを経験したというのは、たとえば西日本の人達にとってみれば、
いつ来るか判らない、東南海大地震 其の時にどうするかとの一つの
ヒントになってくれるのではないかと思っている  
神戸の経験を今回どう生かせればいいのだろうと思って、今も行き始めている
神戸の地震学者のいうには 東北が早く復興してくれなければ困る  
如何してかと聞いたら、東南海、南海  西日本もやがては地震に見舞われるだろうと
其の時に東北が復興していてくれないと困ると、 言ってました    
西日本がやられたときには東北に助けて貰わなくてはいけない と言ってました
東北の経験を記録に残すのは必要なのではないかと思います   
災害を生かす手段 何のための犠牲、何のための苦労なのかという事ですよね

具体的に如何なるかということはまだこれから  
神戸の「人と未来の防災センター」ができたのは震災後7年後だったと思う
東北の被災地はまだそんな余裕はない状態  神戸の仮設住宅がすべて無くなったのが、5年目ですから
記録だけは出来るだけ早い段階から記録していかなければ、15年後 20年後に役に立つような記録は
とって行くことはできないので記録を進めている
「東北の泉を探して」 言葉  有る新聞の原稿に書いた   
「汝の足元を深く掘れ そこに泉あり」  沖縄の民族学者がいわれた言葉
地域を考えるときに、よそからアイディア、知識、思想、とかいろんなものを持ってくることも必要だが、
先ず自分の地域、自分の足元、 その地域の文化で有ったり
歴史、風土、そこを先ず深く掘ろうと 先ず自分達の暮らしている地域の事を理解しなければいけない 
理解した時に自分達の地域 を豊かにできる

震災まえからおっしゃっていた  この言葉が大切に成ってきたような気がする  
新しい知恵を見出す為の元になる
平時から探し求めてきたが、求める意味がより深く、切実に成ってきた  
立場を超えて普遍的な言葉だと思う
繰り返しやってくる災害に対する知恵というものは、足元を深く掘ればでてくるものと思う
自分の暮らしている街、自分の暮らしている地域の災害の歴史はみんな知っておいた方がいい

2012年9月12日水曜日

土方正志(出版社49歳)     ・被災地からの挑戦

土方正志(出版社49歳)   被災地からの挑戦
3.11以前を伝えたい 東京でフリーライターや編集の仕事をしていた土方さんは12年前に仙台に移り、
出版社(有)荒蝦夷を7年前に立ち上げました
去年の大震災時は仙台市内の事務所が傾き、自宅も全壊する被害を受けた 作家や書店 読者に
背中を押されて 出版の仕事を続けています
被災者の立場に立って 3.11以前をどう伝えたいのかをお聞きしました
復興という言葉が使われているが、まだまだ程遠い状態だと思います  
阪神が復興宣言したのが10年目ですから  
まだ1年半なので 復興の道のりの第一歩を踏み出したか、踏み出すところかもしれない  
まだ一面の荒野ですよね
以前の街を考えるならば全然まだまだですね  場所によってそれぞれ違う  
元に戻すことと何か新しく変えなければいけないんじゃないか そのバランスのいいところで変えなければ
いけないと思う
仙台に住んで12年になる 出版している頃も災害報道をしていた  フリーライター、編集者を含め東京では
15年過ごす(普賢岳が最初)

麓の街が壊滅した 其の取材が最初  奥尻島の津波、阪神淡路大震災、三宅島の噴火 
有珠山の噴火 ・・・ずーっと災害の取材をやってきました
一旦自然が人間に牙をむけるとこの様になるのかと思った 自然の脅威を覚えた 災害は日本列島
に暮らしている限り だれでも被害者になる可能性があると思った
戦争も無く平和だと言うけれども、災害の歴史を考えてみるとこの67年間 災害でどれだけの人が
亡くなり、 どれだけのお金が亡くなりどれだけの街が壊滅したのか を考えると
ちょっと空恐ろしくなると、ある地震学者の方が言っていました
減災  被害を最小限に減らすために如何したらいいかを考えるようになった   
繰り返すことをどうやって記憶にとどめるか

当時 一旦 山形に避難した 「仙台学」を出版していたが 3月末に原稿依頼した 
この時点で考えていることを書いてほいいと依頼した
東北ゆかりの17人が、震災への胸の内をつづった特集号「仙台学」11号を4月下旬に発刊
東北在住だった人は生々しい経験  東北に故郷があり現在は東京とか大阪とかに住んでいる人達
は焦り、いらだち、やるせなさ を書いて頂いたようです
ストレートにみなさんが原稿にぶつけていた  被災地のそとでも被災地の事を思っていてくれるのだ
という事が判った
赤坂憲雄 民族学者  東北学を立ち上げる時に一緒に仕事を立ち上げた  
聞き書きは其の時からやってきた
今回も震災が有ったこと  経験をしたことを記録に残しておかなくてはいけないと 一般の人達に
片っ端から聞いて書きこんでいった

最初の一年で100人の人から聞いた その後も続けている 被災体験だけではない  
被災前にどのように生活をしていたのか 被災の時にどういう経験をしたのか
そしてどのように考えているのか 其の聞き書きなので長くならざるを得ない  
そうならないと全体が見えないのではないかと思った
20年後30年後に役に立つためにはその様に聞き書きする必要があると思った  
被災地を生きてゆくのはどういう事なのかというところまで考えないと
災害列島に生きる上で役に立つ記録には成らないのではないだろうかと考えた
明治(29年)と昭和(8年)の津浪  聞いたということはあったが、やっぱり切実には思えてはいなかった 
其の事が今回の聞き書きを3年 5年 10年とやっていきたい しつこいほどやれば皆さんの身体に焼きつく
のではないかとの思いがある

災害 根こそぎという事では 明治、昭和の津波も同じ  明治にしても 昭和にしても 木造家屋で
根こそぎ持って行かれたけれど、今回は鉄筋、高層で
人間社会の暮らしが違って来たんで被害が大きくなってきている   
建物とかが凶器になってしまう
木造家屋の方が生存率が高い しかし火災に対しては弱い    
どのように被害を少なくするにはあらゆる角度から考えないといけないので、難しい側面がある
これからの街作りは 逃げるのが一番なんだけれど 逃げ方 頑丈な建物をつくってそこに逃げるだとか
1年目にこう思っていたのが 状況が変わってくるのでそれから半年なり、1年経つとまた考えていることが
変わってくる 

神戸の被災者にあったが、1年目と2年目 3年目が矢張り違ってくる  
1年目の時にはここまで来れば大丈夫だと想ったが、その後いろんなことが起きてきて
やっぱりまだ駄目だ と2年目の時に思う  2年駆けて来たんで大丈夫だと思ったが、矢張り又いろんな
ことが起きてきてまだ駄目だと新たに感じてしまう
(取材に来てくれた時にもう大丈夫だと言っていたが、経過してみると 俺達何にもわかっていなかったと
感じる)
被災者というのは矢張りその様なものだと思う(神戸の被災者を取材してきて)   
2重ローンの問題とかいまだに引きずっている
街が復興することと、被災者の生活とか気持ちが復興するとかは別問題なんだと思います
今の神戸は以前住んでいた神戸じゃないよと言う人がいる  復興とは何だろうか

有る建物が有って、そこに何らかの思い入れがある方たちにとってみれば、以前の建物が壊滅して
しまって新しい建物が建つということは、違う街になって
仕舞うんじゃないんでしょうかね   そんな気がします    
自分が被災者になって仕舞って、そうかこういう気持ちなんだなと初めて感じましたね
3.11以前に  気仙沼の街で地元の人達と一緒に酒飲んで、夜ふらふら歩いて 
思い出が有りますよね  あの街が無いんだなという事ですよね
ゆりあげのお寿司屋さんとかが無いんだなとという事ですよね 
しかしあの店の記憶とかは全部残っているんですよね  
あそこの寿司屋さんで美味しいお寿司を食べた しかしそこは更地になってしまっている   
その感覚なのかな という気がする 
 
今の神戸の人の話なんかも そういうことなんじゃないかと思いますけれど  
新たに高台に店をつくって主人も我々お客も良かった、良かったと言ってお寿司を食べているのですが
、そこの店は全然違うわけですよね
それは仕方の無いことなんですけれども、あっ そういう喪失感なんだな 
被災地の人達が抱くのはと初めて自分がその立場になって初めて判りましたね
災害以前にそこに有った生活ですかね 営みですかね  
それがそのまま戻ってくることなないんですよね
それが一番大きいのかなという気がします  
多分仕方の無い事だと皆思っていますけれども、復興ってなんだろうなと、
理屈では割り切れない感覚というのでしょうか
それがやっぱりどこかに有るんじゃないのかなという気がします 
 
震災直後、1年、2年、3年その都度考えが変わってくる  そうですよね それは仕方が無い  
変ないい方かもしれないがそれが復興なのかもしれませんよね
忘れてゆくということも、もしかすると人間の心の大切な働きかもしれない   
といいながらも忘れたくない、思い出としてちゃんと残してゆきたい
記録としてのこしておきたい    
地元の出版社だけじゃなくて いわゆるメディアの役割なんだと思います
聞き書き 100人にやりましたけれど、初めて会った方も居ますが、実は震災前からずーっと 
お付き合いしていた方たちもいるんですよ
だから当然震災前の暮らしも知っていて、今回被災されてじゃあ今どうしているのか 
地元の出版社だっただからこそと思っている
地元の出版社だからこそ、東京から取材に来た人と話すのとは、どう接してくれるかというのは
全然違いますから、やっぱり地元の人間の仕事だろうなあと思いますけれども
寄り添うというより お互い 生活体験で、くんずほぐれつの世界でやっている処がありますんで 

2012年9月11日火曜日

やなせなな(シンガーソングライター)     ・生かされた命の大切さを歌に託す

やなせなな(シンガーソングライター)       生かされた命の大切さを歌に託す  
(本名:梁瀬 奈々、1975年7月17日 - )は、奈良県出身のシンガーソングライター   
浄土真宗本願寺派僧侶
住職の肩書きを持つ異色のシンガーソングライターです  
30歳の時に癌になりそれを克服した経験を持っています   
その体験を生かして、生かされた命の大切さを、被災者と共有したいと昨年5月以来毎月のように被災地を訪れてコンサート活動を展開しています  
どんな現実にも負けないで命を大切に生きてほしい  
そんなメッセージを歌に込める、柳瀬さんに伺いました

震災が起きる前から活動はしていた 
応援してくれた人達への恩返しとして 5月から実施  見て歩くのは凄く衝撃を受けました
「まけないタオル」曲 震災支援プロジェクト 山形から宮城に支援をしていた住職がいた 
タオルをプレゼントするので募金をして下さいませんかと動いた
それに私も参加した  早坂文明さんも詩をかいて送ってくれたので、私も書いた  
長さが50cm  頭、首に巻こうとおもっても巻けない
募金をして下さった人にタオルを差し上げる  タオルが絆で結ばれている  
親戚のおじさんに頼んでタオルをつくって貰った  55000枚 
タオルとして使っている人は少なくて、壁に貼っている人が多いようだ
  
「千年の戀」曲  鎮魂歌     
お寺を中心にコンサート活動をしているので被災地にいってもお寺さんとの縁でおこなっている 音楽を聞いて癒されるという人もいれば、思いだしてしまって悲しさがこみあげてしまっていやだと思う人もいる  
私の生まれ育った場所がお寺だった  いつか自分もなるものだと思っていた  
歌手の方は小さなころから歌が好きだったのでいつかなれたらいいなと思っていた
気がつけばこうなっていたというのが現実  
3人兄弟の末っ子だった  上の二人は違う道に進んだ 釈妙華(しゃくみょうけ)という名の住職
尼さんシンガーと呼ばれた 最初は嫌だった 
お坊さんとしての勉強もしっかりしなくてはと思って勉強した  今は気にならない
歌の合間に命全般を話すことが多い
    
30歳の時に癌になる  子宮体癌  体重がドンドン減ってきた 
下腹部からの出血 鮮血があふれるような出血
病院に行って調べて貰ったら、癌との事だった   
手術をして、女性として生きる道を断たれて行くような気がしてそのことを自分自身で納得して整理するのに時間がかかりました   
身体の不調と向き合うのに大変だった   当時歌の活動も旨く行って無かった 
友人、若いお坊さんが頑張れと声を掛けてくれたひとが何人もいた 
病気が言い訳でくすぶっている状況ではないなと思った   
いろんな苦しみを抱えている人が多い
 
被災地に何十回といっている   要請もあったし、押しかけて行ったりした
奈良と行ったり来たりに対して、しんどかったとは思わなかった  
返って励まされたことも有った
普段は普通のドレスを着て歌う  私のコンサートは女性が多い  
笑わしたいと面白い話をしたり、命の話もする
お寺の避難所で多い時で400名程度が生活をしていた 
壁に約束事項をお坊さんが書いて貼ってある   
挨拶をしよう 靴をそろえよう 物凄く基本的なことなんです 
そういう事を徹底することによって、心が一つになってゆく  
たかが一言の挨拶 たかが靴を一つの向きに合わせる事だけでも心がそろってゆく 
実践していた
きちんとやることで人々の心が静まり、一つになってゆくというのは素晴らしくって忘れられないですね
被災者の話を聞いて歌の活動にも影響した  詩と作曲が同時進行のようだった
 
「春の雪」
「今にも君がその扉を開けて 「ただいま」って言って 笑顔で帰って来るような気がして、見つめる先に、広がるふるさとの海 (あの日と 同じように 降る春の雪
いつもと変わらずテーブルをはさんで、何を食べていたのかさえ もう忘れてしまった 
つけっぱなしのテレビから流れていたのは 底抜けに明るいコメディアンの笑い声
ずっと ずっと そんないとおしい日々が 当たり前のように続くと思ってた  
最後になるってわかっていたなら、 話したいことたくさんたくさんあったのに 見つめる先に
もう君はいない あの日と おなじように春が訪れても   流されて消えた街の中にたたずみ 
どこを歩いて来たのかさえ もうわからなくなった  
やっと見つけた君の生きていた証に   涙は流れなかった  信じたくもなかった   
そっと そっと手を合わせ 見送っても さようならなんて言えない
言えないよ  あー あー あー あー あー あー あー    今でも君に想いは届くかな  
ことばを からだを すべてを失っても  見つめて わたしをどんなに  
遠く離れても ここでひとり生きているから  今 君がわたしの心に ただいま」って言って 
笑顔で帰って来る  見つめる先に  眠るいくつものいのち  
おかえりとこたえるように  降る春の雪  おかえりとこたえるように  降る春の雪」