(本名:梁瀬 奈々、1975年7月17日 - )は、奈良県出身のシンガーソングライター
浄土真宗本願寺派僧侶
住職の肩書きを持つ異色のシンガーソングライターです
30歳の時に癌になりそれを克服した経験を持っています
その体験を生かして、生かされた命の大切さを、被災者と共有したいと昨年5月以来毎月のように被災地を訪れてコンサート活動を展開しています
どんな現実にも負けないで命を大切に生きてほしい
そんなメッセージを歌に込める、柳瀬さんに伺いました
震災が起きる前から活動はしていた
応援してくれた人達への恩返しとして 5月から実施 見て歩くのは凄く衝撃を受けました
「まけないタオル」曲 震災支援プロジェクト 山形から宮城に支援をしていた住職がいた
タオルをプレゼントするので募金をして下さいませんかと動いた
それに私も参加した 早坂文明さんも詩をかいて送ってくれたので、私も書いた
長さが50cm 頭、首に巻こうとおもっても巻けない
募金をして下さった人にタオルを差し上げる タオルが絆で結ばれている
親戚のおじさんに頼んでタオルをつくって貰った 55000枚
タオルとして使っている人は少なくて、壁に貼っている人が多いようだ
「千年の戀」曲 鎮魂歌
お寺を中心にコンサート活動をしているので被災地にいってもお寺さんとの縁でおこなっている 音楽を聞いて癒されるという人もいれば、思いだしてしまって悲しさがこみあげてしまっていやだと思う人もいる
私の生まれ育った場所がお寺だった いつか自分もなるものだと思っていた
歌手の方は小さなころから歌が好きだったのでいつかなれたらいいなと思っていた
気がつけばこうなっていたというのが現実
3人兄弟の末っ子だった 上の二人は違う道に進んだ 釈妙華(しゃくみょうけ)という名の住職
尼さんシンガーと呼ばれた 最初は嫌だった
お坊さんとしての勉強もしっかりしなくてはと思って勉強した 今は気にならない
歌の合間に命全般を話すことが多い
30歳の時に癌になる 子宮体癌 体重がドンドン減ってきた
下腹部からの出血 鮮血があふれるような出血
病院に行って調べて貰ったら、癌との事だった
手術をして、女性として生きる道を断たれて行くような気がしてそのことを自分自身で納得して整理するのに時間がかかりました
身体の不調と向き合うのに大変だった 当時歌の活動も旨く行って無かった
友人、若いお坊さんが頑張れと声を掛けてくれたひとが何人もいた
病気が言い訳でくすぶっている状況ではないなと思った
いろんな苦しみを抱えている人が多い
被災地に何十回といっている 要請もあったし、押しかけて行ったりした
奈良と行ったり来たりに対して、しんどかったとは思わなかった
返って励まされたことも有った
普段は普通のドレスを着て歌う 私のコンサートは女性が多い
笑わしたいと面白い話をしたり、命の話もする
お寺の避難所で多い時で400名程度が生活をしていた
壁に約束事項をお坊さんが書いて貼ってある
挨拶をしよう 靴をそろえよう 物凄く基本的なことなんです
そういう事を徹底することによって、心が一つになってゆく
たかが一言の挨拶 たかが靴を一つの向きに合わせる事だけでも心がそろってゆく
実践していた
きちんとやることで人々の心が静まり、一つになってゆくというのは素晴らしくって忘れられないですね
被災者の話を聞いて歌の活動にも影響した 詩と作曲が同時進行のようだった
「春の雪」
「今にも君がその扉を開けて 「ただいま」って言って 笑顔で帰って来るような気がして、見つめる先に、広がるふるさとの海 (あの日と 同じように 降る春の雪
いつもと変わらずテーブルをはさんで、何を食べていたのかさえ もう忘れてしまった
つけっぱなしのテレビから流れていたのは 底抜けに明るいコメディアンの笑い声
ずっと ずっと そんないとおしい日々が 当たり前のように続くと思ってた
最後になるってわかっていたなら、 話したいことたくさんたくさんあったのに 見つめる先に
もう君はいない あの日と おなじように春が訪れても 流されて消えた街の中にたたずみ
どこを歩いて来たのかさえ もうわからなくなった
やっと見つけた君の生きていた証に 涙は流れなかった 信じたくもなかった
そっと そっと手を合わせ 見送っても さようならなんて言えない
言えないよ あー あー あー あー あー あー あー 今でも君に想いは届くかな
ことばを からだを すべてを失っても 見つめて わたしをどんなに
遠く離れても ここでひとり生きているから 今 君がわたしの心に ただいま」って言って
笑顔で帰って来る 見つめる先に 眠るいくつものいのち
おかえりとこたえるように 降る春の雪 おかえりとこたえるように 降る春の雪」