2018年11月30日金曜日

柴田美保子(女優)            ・古事記をうたう -神話のふるさとから-

柴田美保子(女優)            ・古事記をうたう -神話のふるさとから-
大阪市出身、1965年NHKのドラマ「チコちゃん日記」の主役でデビュー、その後映画やTVで活躍、1972年に脚本家の市川 森一(いちかわ しんいち)さんと結婚されました。
市川さんは大河ドラマ、「黄金の日日」「山河燃ゆ」「花の乱」など数々の大ヒット作品を世に送りだしましたが、晩年、ライフワークの一つにしていたのが古事記の普及でした。
柴田さんはその遺志を継ぎ、市川本、古事記の語り部として全国で活躍中です。

小学校1年生の時に児童劇団に入り、高校1年生の時に大阪NHKでオーディションがあり受けないかとの話があり、受けてみたら受かりました。
NHKのドラマ「チコちゃん日記」の主役でデビューしました。
チコちゃんの成長を追う1年間の青春ドラマです。
月曜日から土曜日まで毎日6時半から20分間放送されました。
「マキちゃん日記」という子供番組で脚本を書いていた市川 森一(いちかわ しんいち)と知り合い、市川が31歳、私が24歳の時に結婚しました。
40年間連れ添い、2011年12月に70歳で亡くなりました。
最初夫は『快獣ブースカ』『ウルトラマンシリーズ』の子供番組を書いていましたが、
その後大河ドラマ、「黄金の日日」「山河燃ゆ」「花の乱」などを世に送り、晩年、ライフワークの一つにしていたのが「古事記」のドラマ化でした。
バブル崩壊などで不安定な時代となり、日本、日本人の行く末に危機感を感じていました。

脚本家として、日本人の精神と文化の原点である「古事記」から現代人が学ぶことが多いのではないかとドラマ化に取り組みました。
2005年から2007年の3年間に渡ってNHKラジオオーディオドラマとして放送されました。
「自分の国の歴史を大事にしない国は滅びる。自分の国の建国の歴史を知らない民族は消滅する。と言われているが今の日本がまさにそれに近づいているのではないか、一体日本人は何処へ行ってしまうのか。古事記には私達祖先の生きざま、ありよう、考え方が書かれている。 それは今の私達に受け継がれて、文化、芸術、芸能、生活、思想など全ての基になっている。日本人の原点が書かれている「古事記」から今の私たちは改めて学ぶことが多くあるのではないか。・・・」
2012年古事記編纂1300年という記念の年に古事記の舞台化を企画していました。

律令の設定 大宝律令によって確立した。
歴史書 国史
一国の形が形成する上で民族が共有する固有の文化は無くてははならない。
711年(和同4年)天武天皇が国史の撰録(せんろく)を命じる。
太 安万侶(おお の やすまろ)が勅命を受ける。
各地に伝承される民話や古き言葉の編纂に取り組みました。
こうしてできたのが「古事記」です。
民族の原点探しでした。
1300年を経てどのように日本を形成してきたのか。
古事記は日本の全ての催事、祭りの根本がそうであるように、死と再生を歌いあげるドラマなのです、歴史ロマン大作です。
夫は企画書を書いただけで、自分の手で上演する事が出来なかったので、夫の夢を実現するために夫の妹の市川愉味子と上演活動を始めました。
2013年に神話ミュージッカル「ドラマティック古事記」を宮崎で初めて上演、2015年には第二作目を2016年には第三作目を上演しました。
一人がたりでも「古事記」の公演活動をさせてもらっています。
「古事記」は日本人の宝だと市川は言っています。

第一作目「始まりの始まり」 原作:市川 森一(いちかわ しんいち) 台本:市川愉味子
音楽:松本俊行 神話絵画:マークエステル
『この世の初め、気が遠くなるような昔々の事でございます。 ・・・高天原というところがありました。・・・呼び出されたのが「伊邪那岐命(いざなきのみこと)」と「伊邪那美命(いざなみのみこと)」、という神様でした。・・・天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)は言いました、「この漂える地上世界を美しい姿に整え固めよ」・・・鉾の先から滴り落ちた塩のしずくが固まり、積もり積もって幾つもの島が生まれて行きました。・・・こうして私達が住む大八島(おおやしま)がこの世に誕生したのでございます。・・・時が流れ太陽神「あまてらす」、月の神「つくよみ」、大海原を治める「すさのう」これらの兄弟神のお陰でつつがなく収められていました。・・・「すさのう」聞かん気の甘えん坊で大層我ままでした。 黄泉の国に去った母「いざなみ」が恋しいと駄々をこね赤子のように泣きます。

「すさのう」の大泣きが青々とした大地が枯れ木の荒れ野になるまで泣き枯らします。
・・・悪神、悪霊が湧きい出てあらゆる災いが同時に起こってきました。
・・・「すさのう」を追放しました。・・・「すさのう」は大喜び、高天原を目指して駆け昇って行きました。・・・「あまてらす」と「すさのう」は競い合いが繰り広げ会います。・・・「あまてらす」の口から漏れ出た息が虹色の霧となって天空に羽ばたいていきます。・・・次々と生まれい出たのはみ柱の清らかな女神達でございます。・・・「すさのう」は首飾りを惜しげもなくガリガリ噛砕き、息を吐き出します。 すると五柱の立派な男神が次々と生まれい出たのでございます。・・・「すさのう」は目も当てられぬ乱暴を働いたのです。・・・止め立てするものは誰もいなかったのです。・・・混乱のさなか、一人のおり姫が身体を突かれ命を落としてしまいました。・・・「あまてらす」は岩屋の扉を封印してとうとう一人奥深くに閉じこもってしまいました。

・・・「あまてらす」が去った後の世界は全てが真っ暗な闇に包まれてしまいました。神々は「すさのう」を捉えて牢獄に閉じ込めましたが、「あまてらす」は戻ってきません。・・・絶望の淵に立たされてしまいます。・・・「あまてらす」はひたすら悲しみに心を静めていますと、自らの光も弱弱しく薄れて行くようです。・・・そんな「あまてらす」に時空のかなたから呼びかけて来る声がありました。・・・その声は亡き母「いざなみ」でありました。・・・「いざなみ」は語りかけて行きます。そなたが居なく有った後の世界がどうなっているか見せてあげましょう。・・・天界も下界も暗闇に包まれてしまった、闇を喜ぶ悪神、悪霊が躍り出て疫病がはびこり、食べ物も育たぬ不毛の地になったのだ、気の毒なことだ。・・・「あめのうずめ」が踊り狂い、神々も囃したて「あまてらす」に戻って欲しい思い一心の祭りなのです。・・・「すさのう」は高天原を乗っ取ろうという野心は無く、姉に無心に甘えたかっただけの事、有頂天の余り心を踏み外した愚かな子。・・・とらわれの身を晒している。・・・母「いざなみ」の諭しに「あまてらす」のかたくなな心も次第にほどけて行きます。・・・「あめのうずめ」は言います、今より闇の夜をあまねく照らし希望の神として生まれ変わります。・・・さあ「たじからおう」天岩屋の扉を開けよ。』










































2018年11月29日木曜日

長谷川哲夫(国立天文台チリ観測所上席教授)・視力6000で宇宙に挑む

長谷川哲夫(国立天文台チリ観測所上席教授)・視力6000で宇宙に挑む
チリの標高5000mのアタカマ高原に宇宙からやって来る電波を捉えて分析し、宇宙の謎を調べるる強大な電波望遠鏡があります。
アタカマ大型ミリ波サブミリ波干渉計、通称アルマ望遠鏡と言います。
直径12mと7mのパラボラアンテナ66台を組み合わせることにより、最大で直径16kmの電波望遠鏡に匹敵する能力、人間で言うならば視力6000で宇宙を観測できます。
アルマ望遠鏡は日本、アメリカ、ヨーロパが共同で建設し、2013年から本格運用が始まる、すでに多くの成果を上げています。
長谷川さんは63歳、専門は電波天文学で、このアルマ望遠鏡の建設運用に長年携わってきました。
長谷川さんが研究者の道に進むきっかけを与えてくれたのは、小学生の時に出会ったある一冊の本だと言います。

望遠鏡というと光の望遠鏡を思い浮かべると思いますが、星が見えるが非常に熱い天体です。
星の材料となる物質は冷たいんです。
マイナス250度で、光を出さないが、電波は出します。
電波で宇宙を見ると冷たい物質から放たれた電波が、私たちに届いているのが判るわけです。
光、赤外線でそこから誕生した星、銀河を見る、両方を突き合わせてどういうものから何が起きて何ができたか、その星が死んだあとの物質がどう材料に戻っていくのか、大きな宇宙の中でのモノの流れが見えてくるわけです。
こういった望遠鏡をほしいなあと思ったのは35年前のことです。
1983年に日本でも大きな望遠鏡が完成しましたが、次にどのような望遠鏡にするかと検討したのが、アルマのルーツのひとつになっています。
携帯で使用している電波は何十cmで、ミリ波、サブミリ波(0.3mm)は最も波長の短い電波です。
東京からアルマ望遠鏡で大阪を見たら見たら、大阪の道に落ちている1円玉が見える、それが視力6000になります。
現在2000ですが6000を目指しています。

日本からチリに約20名が詰めています。
標高5000mの処にあるので、首都サンティアゴのアパートに暮らしています。
1000km離れたアルマ望遠鏡所のあるに出張して1週間仕事をして戻ってくるというような仕事をしています。
空気が薄くて空気が乾いています。
電波は水蒸気に吸収される性質があるので。
アルマ望遠鏡はこれまでの10倍になっています。
2年前、惑星が作られている現場をみる事が出来ました。
おうし座のなかの生れて100万年ぐらいの星です。(生まれたばかりの星)
その星を取り巻く円盤があり、円盤に溝が入っているのが判りました。
そこでは惑星ができていて、その惑星が軌道上にある物質を全部自分の中に吸い込んでしまったために、そこには物質がなくなって溝になるという説が有力です。
46億年前の太陽系の出来た姿を見ているようなものです。

2000年に天文台でアルマ望遠鏡の仕事をする人を募集していたので、大学から天文台に移ってアルマ望遠虚の建設に携わってきました。
アメリカで大規模な電波望遠鏡を作ろうという構想がありました。
ヨーロッパでも同じような構想でスタートしていました。
日本、アメリカ、ヨーロッパでそれぞれ計画がスタートして始まりました。
望遠鏡の設置場所とか、望遠鏡の形式とか情報交換するうちに、3つの計画が似てきて、1990年代の終わりごろに1つにまとめて、大きな望遠鏡にしようという機運が高まったアルマが誕生しました。
チリ以外も実際の場所に行って調べたりしました。
文化、物事の進め方など、色々違う環境条件の中で進めてきました。
議論をしてお金を持ち寄って、うまくいきそうだと確認をしながら、何百億円のプロジェクトが動き始めるわけです。
出だしのころはリスクの問題等で、日本ではお金が出ないで色々苦労をしました。

アルマ望遠鏡の建設の仕方は独特なところがあり、建設、運用も一人の人が責任を取れなくて、持ち寄りの手巻き寿司パーティーの様におのおの手分けして持ち寄ってつくる、インカインドでいろいろ出しあって作るということです。
最初綿密に計画を作るが、予想外の事が起きるが相談して落とし所を決めて行くが、手間がかかりました。
何処もアルマが欲しいという事で紛糾しても元に戻ることができた。
お金儲けではない活動なので、なんとかうまく進行出来ました。
2008年から2012年まで合同副プロジェクトマネージャーを担当しました。
その後チリの観測所長になりました。
2012年5月に同僚がサンティアゴで強盗に襲われまして、命を落としてしまいました。
森田耕一郎さん、30年来の友達で、基本設計も考えてもらいました。
日本から持ち込んだ16台のアンテナの部分を「モリタアレイ」と呼ぶことにしました。
太陽系のでき方についての理論があり、数値シュミレーションでは表せない或る種自然の美しさがありました。
今惑星誕生の理論を組み直そうと、世界中で大騒ぎになっていて色々な説が出ては消えをしています。

栃木県生まれで、父が理科の先生をしていて、小さいころから聞いていたと思います。
小学校5年生になった時にプラネタリウムができて、嬉しくて毎週のように行きました。
解説員の方から本とか自作望遠鏡とか色々見せていただきました。
天文学はどうなるかわからない、そういうものを追い続けている真剣さに驚きました。
「未知の星を求めて」関つとむさんの本を借りてむさぼるように読んで衝撃でした。
新すい星を見つけるいきさつなど、関ラインズ彗星という名前が付いた。
ラインズ氏は発見が一瞬遅かった。
未知のものを見付ける、そのために物凄い努力をする、その感動、そういうものを自分でもやってみたいと思いました。
自然を相手にしていると、人間って、なんと自然の事が判っていないんだろうと思います。
小学校に行ったりすると、人の役に立ちたいという子が多いと思いました。
人類の仕事に身を投じることも、人に役に立つなんだと言っていいんじゃないかと思います。
科学の研究は自分の人生をかけて、取り組むに値する仕事だというのを子供たちにも伝えたいと思います。
アルマ望遠鏡が色々なものを発見すると、新しい要求が出て来ると思うので、それに答えるようなグレードアップをしながら、使い続けるというふうになって行くと思います。

























2018年11月28日水曜日

長谷川和夫(認知症介護研究・研修東京センター )・実はボク、認知症になったんです。

長谷川和夫(認知症介護研究・研修東京センター 名誉センター長)・実はボク、認知症になったんです。
認知症診断の物差しとなる長谷川式スケールを開発したり、日本で開かれた国際アルツハイマー病協会国際会議の組織委員長を務めた、我が国の認知症の第一人者と言えば長谷川さん(89歳)です。
一昨年長谷川さんは自らも認知症を発症されました。
現在はその事実を公表され、可能な限り認知症への正しい理解を訴えています。
半世紀以上にわたり認知症の専門医として、診察と正しい普及活動を務めてきた長谷川さんに、医師と患者の両面から認知症に対する、正しい理解、患者への適切な接し方を含めて、その人らしく今を生きる大切さを伺いました。

最初に認知症かなと気付いたのが、時期ははっきりしないが、物忘れがひどくなってきた。
鍵を閉めたかどうか、はっきりしなくて戻って確認する事が初めあり、何回も確認するようになりました。
アルツハイマーの場合もまず時間があやふやになる、場所の見当があやふやになる。
その次が人、一緒に住んでいる配偶者に対してあやふやになる。
時間に対して対策として、日めくりカレンダーをめくることにしたり、新聞を取りに行くことにしました。(日付が書いてある。)
場所については行きたいところに行きつけないとか、家に帰ってこれなくなる。
人に関しては、配偶者に「貴方はどなたですか」、ということになったりする。
おかしいと思って診察を受けました。
CT、MRI、臨床心理士のグループがあって複雑なテストをやらされました。
長谷川式スケールは自分で開発したので全て分かっているんで役に立たないです。

診断の結果は嗜銀顆粒性認知症でした。
お年寄りのぼけという感じです。
アルツハイマーと比べて症状が激しくないです。
歳をとって来ると、アミロイドβ蛋白があるが、それが歳を取るにつれて脳の組織の処でどんどん増えて行くのですが、神経細胞の中まで入って行くやつと、神経細胞の外だけで中に入らないのがあるが、神経細胞の中に入るのがアルツハイマーです。
外にとどまるのが、嗜銀顆粒性認知症です。
日よって時間によって症状が違ったりします。
午前中はいいが、午後2時ごろになり疲れて来ると認知症になってしまう。
夜中に睡眠を取るので脳が修復するのか、翌日の朝は普通なんです、その繰り返しです。

認知症といわれると差別されたりするが、人生100年時代と言われるが、知的能力は落ちて来る。
暮らしができるかできないか、が重要なポイントだと思います。
僕はまず新聞を取りに行く、日めくりのカレンダーを新聞の日付に合わせてめくる。
食事はきちっと食べます。
昼はバナナ程度とか、サンドイットだったり、ご飯にふりかけをしてお味噌汁とか、夜は肉を食べたりもします。
30年来の行きつけの喫茶店によく通って好きなコーヒーを飲みます。
40年来の床屋では色々話をします。
本は図書館で借りたり自分で買ったりして読んでいます。
夏目漱石は大好きでかなり読んでいます。
絵も大好きで展覧会などに行きます。
音楽も大好きです、家内が武蔵野音大のピアノ科を出ています、付き添いに来たまりも国立音大のピアノ科を出ています。
音楽は直接自分の魂にスポッと入ってきて心が躍るからいいです。

医師のころは認知症の人にデイサービスを勧めていたが、自分が行くようになりました。
9時~5時まで一日で、入浴サービスがあり気持ちいいです。
日本は世界一長生きしているが、政府の政策も抜きん出ている。
東南アジアは日本よりも高齢化の進行が早いそうで、日本がどういう対応をしているか注目していますし、世界も注目しています。
出かけて行って向こうの国情に合ったやり方を教えてあげる、それが日本の国意である、そういう仕方がこれから必要じゃないかと思います。
認知症は全く普通の人と同じ事を考えていて、ここから認知症だと言う人は一人もいない。
午前、午後で違うし、夕方も違うし、朝になると元に戻るし、これは大きな発見だと思いました。
パーソン・センタード・ケアにしないといけないといけないという人が英国にいます。
(今は亡きトム・キットウッドTom Kitwood教授が1990年代前半に提唱した概念)
心理学の教授、臨床心理士で牧師でもありました。
まず人がいて認知症がある。
みんな一人ひとりが違ってそれぞれ貴重な体験をしている、一人ひとりが貴重な人間なんです。
日々私達は感謝しないといけないし、誰か人の為によりよくなんか役に立つことがあったらやらしていただきましょう、というのが僕の気持ですが。
同じ目線に立つということは、認知症の人に会って話す時には、「今日は何がしたいですか」、と向こうの気持を聞いてあげないといけない、それがパーソン・センタード・ケアだといいます。
相手の言う事を辛抱強く待つことです。

僕は絵本を書いたんです。
おじいさんとお孫さんとの物語で、或る日のこと食事をしている時に、おじいちゃんが「皆さんはどちらさんですか」、と言ったんです。
坊やが「おじいちゃんは僕たちの事を誰も知らないと言うけれど、みんなおじいちゃんの事をよくしっているんだから心配ないよ」、「そうですか、皆さんよく知っていて下さるんですか、それだったら安心した」ということで一件落着です。
普通だったら、「しっかりして」とか、「判らなければ駄目じゃない」という事を言ってしまうが。
これは我が家の実体験です。
優しく接するということは大事なことです。
医療していて患者さんから教えられたことはたくさんありました。
理系大学をでた頭のいい方が、よりによって何故私が認知症になったんでしょうかという質問があり、どうしてそうなったのか僕は判りませんが、僕も本当にそう思いますよといって、彼の手を握っていったら「そうだね」と言って彼は納得して帰って行きました。
ある患者さんから「先生はおいくつですか」と3回言われて、奥さんにどう対応しているのか聞いたら、「歳を取ると会話が無いので、返っていいです、質問に何回も答えます」と言われて、そうかと言い返す言葉が無かった。
認知症の方の本質的な障害は暮らしの障害です。
それを理解してあげればほっとすると思う。
お互いに心のきずなを大切にして生活する。
心に絆は一人ひとりがみんな違うので一人ひとりが尊い存在であることを自覚して、今、今の瞬間を大切にして、いま何を自分が出来るかという事を、努力して明日に、未来につなげることが大切ではないかと思います。
よく生きることは、よく死ぬことだと思います。



































2018年11月27日火曜日

天野 篤(順天堂大学医学部付属・順天堂医院院長)・患者たちの"幸福な暮らし"を目ざして

天野 篤(順天堂大学医学部付属・順天堂医院院長)・患者たちの"幸福な暮らし"を目ざして
1955年埼玉県蓮田市生まれ、埼玉県県立浦和高校卒業後、日本大学医学部に入学。
大学2年生の時の父の心臓手術をきっかけに心臓外科医を目指すようになる。
30年あまりで心臓手術は8000例、成功率は98%という日本有数の心臓外科医になりました。
天野さんを一躍有名にしたのは、2012年の天皇陛下への心臓手術の成功です。
現在は院長として外科医として忙しい毎日を送っています。
天野さんが目指しているのは、患者に重い後遺症を残さず、できるだけ生活に不自由が無いようにする医療をすることだと言います。
今年63歳を迎えた天野さん、最近はアジアの医師や医療レベルの向上にも力を入れています。
30年あまりの心臓外科手術の経験や現場から学んだ事、若手の育成にあたって心がけている事、今後の夢などを語っていただきます。

小学生の頃、腸が弱くてよく下痢をしていました。
父親の叔父が院長をやっていた病院に良く連れて行ってもらいました。
そこでおぼろげに医者とはこういうものだと、見て感じていた時期がそもそもきっかけかも知れません。
小学校、中学、高校と医者になったらとささやかれていましたが、高校2年の時に父親が急性心不全で救急車で入院して、将来手術が必要な心臓の病気であるということが判ったので、医者になってなんとか父親を助ける手伝いをしようと思って、医師になる手続きをしました。
日大の医学奴に入りました。(3年浪人しました。)
父親が発症して6年目に手術を受けました。
父親を健康に戻したいという思いを強くした時代でした。
更に2回手術を受けました。
豚の弁をつける手術でしたが、豚の弁の場合は数年で固くなって再手術が必要でした。
2回目の時には助手として立ち会いました。
縫った弁が外れることも起こって、4年後に3度目の手術がありました。
心臓自身の筋肉の耐久力が無くなって、父は亡くなりました。
父親のような目にあってはいけないと、父親からのメッセージを託されたような思いがありました。

就職先はいくつかの病院を渡り歩きました。
どれだけ腕に経験を積むか、自分の目、耳で聞いて身体の中にしみ込ませるか、ということが大事でそういう病院を選びました。
最初に行った関東逓信病院は症例が少なくて、亀田総合病院へ移り、新東京病院、いずれも心臓外科手術の症例が多いところです。
亀田総合病院では心臓のバイパス手術を年間100例ぐらいやっていました。
新東京病院ではゼロから立ち上げました。
当時国内で一番活躍している先生がそこの病院の指導者として、一緒にやろうと声を掛けてくれたので意気を感じて参加しました。
病院の経営者の方々が日本式のやり方ではなくて、最先端の医療を積極的に取り組むことに前向きでした。
病院の経営よりも患者さんを良くすることに最も積極的だった、という事が幸いしていたと思います。
2mmの血管を縫うのに、心臓を停止して心臓の筋肉を安全な状態にして手術をするというものを、心臓が拍動している状態で手術するので、手品みたいと言われても仕方ないかなと思います。
それを安全に確実にやる方法をイタリアで取り入れて、それを主張してくれた先生がいたので不安なく始める事が出来ました。

オフポンプ冠動脈バイパス手術、ポンプを使わずに心臓の血管をつなぐところだけを固定して、血液を炭酸ガスで吹き飛ばしながら縫いあげる技術です。
自然の循環ではなく、定常流だと弱い臓器(脳、肺、腎臓など)が身体の中にあるので、オフポンプ冠動脈バイパス手術はそういった臓器に対して愛護的だということで、回復が早い。
高齢とか身体に弱い人にやさしい手術です。
80歳代の超高齢者に対しても安全にできる手術ということで広まってきました。
初期の段階で経験を積むのは大事で、少ないチャンスで外科医に向いているかどうかを判定するのは難しいです。
現在8200例近くまで行っています。
うまくいかなかった事があれば、必ずその場でその原因を突き止めて、その次の手術には持ち込まない、そのことだけは絶対避ける様にする。
うまく行っても次には同じ手術をしないで一工夫するように考える。

手術の後は必ず記録を自分で書きます。
糸を結ぶことなども一生懸命練習しました。
左右の手が同じように動くように工夫して普段からやっていた時期がありました。
6年前、天皇陛下の手術。
話が来た時にはそれほど驚かなかったです。
東大と順天堂大学が近かった事、主治医の先生の患者さん、知り合いを沢山手術しさせていただいて、頼みやすい安心できると思われて、自分が担当することになったが、特別な疑問は持ちませんでした。
3カ月後に両陛下が英国を訪問しましたが、帰りに車で皇居に向かわれるのを見て、その時に俺はやったんだと思いました。
主体は患者さんであって成功したかどうか、患者さんが自覚されることであると思う。
佳く永く生きていただく手術、魂も身体もずーっと健康でいていただきたい、そういう思いです。
患者さんたちと一緒にゴルフコンペ等もやっています。
武士道ではなく医師道があると思う。
医師は或る意味非常に人間としていびつだと思います。
そういうところに肉付けをして患者さんと人間として対等に渡りあえる。
医師道で一番大切なことは絶対出し惜しみをしない、全力で立ち向かうということです。
疲れていようと、どう忙しかろうと、全力で注力する。
自分ではできないところはチームで取り組む。

手術は早い、安い、うまい。
スピーディーということは患者さんの負担が少ない。
早い手術のタイミングもあります。
医療費の補助、手術の中での医療費の無駄使いをしない。
インドでは日本の1/5~1/8でやっているところもあるので。
安全の為にはお金の出し惜しみはしないということも大事です。
手術が上手であるということと、後のマネージメントが上手であるという事が入ってきます、手術痕が綺麗だという事も入ってきます。
若い先生方は自分が一番患者さんが判っているというふうに思ってるし、その証拠を打ち出せるかどうか、それがあったらほとんどのことは任せます。
性格、技術とかを見極めながら、できる内容の手術を任せる、そういったことを教育していかなければならない。
能力のある人間、経験値の高い人間がそれに見合った努力をしない事も許さない。
諦めないという事が外科医にとって一番大切なことです。
最終的にはオールラウンダーでないといけない。(欠点が無い)
ロボットアームを使った手術とか新しい技術がどんどん出てきているが、私がやってもいいが、若い人が育たないので、次の人、世代交代が必要です。
30年培った技術をアジアに広めたいと思っています。
2006年からから中国の心臓外科の指導に行っています。
ベトナムにも手術指導に行きした。











































2018年11月25日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)          ・【クラシックの遺伝子】

奥田佳道(音楽評論家)          ・【クラシックの遺伝子】
プッチーニ歌劇 「ジャンニ・スキッキ」(Gianni Schicchi)から「私のいとしいお父さん」 映画「眺めのいい部屋」から
1980年代の映画で一躍広まった。
「ジャンニ・スキッキ」は遺産相続をめぐるコメディーだが、非常に精妙なアンサンブルが繰り広げられる。
1918年にプッチーニの「ジャンニ・スキッキ」が書かれた。
初演はニューヨークのメトロポリタンオペラ。
初演100年で記念する三部作が行われる。
1918年頃の息吹、音楽にも昔を懐かしむ曲と、クラシックにジャズやミュージカルが要素が入ってきた作品に別れる、100年前の息吹、遺伝子として今日はお送りします。

*映画「眺めのいい部屋」から「リターントゥフローレンス」 オーケストラバージョン

*プッチーニ オペラ「つばめ」ウイーンのオペレッタの劇場から委嘱された作品。
 ゴージャスな響きが聞こえてくる。
ベルディーの椿姫を少しイメージしてもらえるといいと思います。
銀行家の愛人マグダは、田舎から出てきた若者ルッジェロと出会い恋に落ちます。
マグダは過去の恋愛に対する後悔や罪悪感に耐え切れず、事実を打ち明け、元の生活に戻っていくお話です。

*プッチーニ オペラ「つばめ」から「誰がドレッタの不思議な夢を」「アリア」

劇場やコンサートホールの中では昔を懐かしむ機運も生まれる。
(貴族文化への憧れ)
カールマン オペレッタの作曲家 『チャールダーシュの女王』、『伯爵令嬢マリツァ』を発表して大人気になる。
* カールマン 『チャールダーシュの女王』から「踊りたい」

100年前には一方東洋への関心があった、ジャポニズム。
フランツ・レハール 『微笑みの国』 中国の王子様とウイーンの王女様の結ばれない物語。 オペレッタ界に初めて悲劇を持ちこんだ。
* フランツ・レハール オペレッタ『微笑みの国』から「君はわが心のすべて」

コルンゴルト オペラ 「死の都」 亡くなった妻の亡霊の踊り子となって現れて不思議な事が起こる。 「ピエロの踊り歌」
*オペラ 「死の都」から「ピエロの踊り歌」 

日本の100年前、浅草オペラ オッフェンバックの「天国と地獄」が一番人気。
オッフェンバックの「天国と地獄」から「地獄のギャロップ」










2018年11月24日土曜日

村井邦彦(作曲家・編曲家・プロデューサー)・東京・ロス 音楽生活50年(2)

村井邦彦(作曲家・編曲家・プロデューサー)・東京・ロス 音楽生活50年(2)
朝起きるととまずピアノの前に行き、描いている曲、気になっているハーモニーなど、目覚めるときに色んなアイディアが出てくるので忘れないうちにやっています。
身体を動かさないといけないので、週に1,2回ジムに行っています。
ゴルフもやったり、クラシックの公演に行くとか、展覧会に行くとかやっています。
常に興味を持ち続けて追求している事はいいことだと思います。
1945年東京生まれ、スポーツが好きでヴァイオリンを習わされたが大嫌いでした。
小学校高学年の時にジャズに興味を持ちました。
高校ではジャズの演奏を始めました。
慶応高校にジャズのオーケストラがあり、そこに引っ張られて、一生に演奏活動していました。
中学に入ってブラスバンドに入り、クラリネットを吹きだしました。
ジャズに興味を持ってアルトサックスをやるようになりました。
ピアノは最初にドンと大きな音を弾いて段々小さくなるが、サックスは最初小さいが段々大きくすることができる。
両方知っていたということは作曲するときに凄く便利です。
編曲は音についての勉強しないといけない。(音の出る範囲など)
父は海軍の技術将校で飛行機の設計をしていました。
その後建築士として仕事をするようになりました。

レコード店をやりたいと言うと、父は貸してくれて割と自由な家庭でした。
磯部 力(いそべ つとむ)君 都立大学の名誉教授で、田園調布双葉の理事長をやっていて、彼の兄さんが慶応義塾大学のライトミュージックソサエティでピアノを弾いていて、その辺の繋がりでこの道に入りました。
週一回練習をして、夏休みに箱根のホテルに泊り込んで、ナイトクラブで演奏するとかやっていました。
慶応大学に進みました。
いい先輩がたくさんいました、大野 雄二さんとかいて直々にピアノを教わりました。
ピアノは作曲家にとっては非常に便利な道具で、図表みたいに88個並んでいるので、その中の音を使って書くので、僕にとって毎日使っている便利な楽器です。
ラジオでディスクジョッキーもやっていたり、色んな仕事をしましたがどれもしっくりこなくて、もうちょっと固い仕事をしようと思ってレコード屋をやりながら、音楽の仕事をしていたら、本条さんに出会って曲を書くようになりました。
大学4年生の時に「待ちくたびれた日曜日」がデビューの曲となりました。
詩を貰って家に帰って直ぐにメロディーが出来ました。

1968年テンプターズの「エメラルドの伝説」が大ヒットする。
同年「廃虚の鳩」(歌:ザ・タイガース)
色々なところから声が掛かる様になりました。
1969年に音楽出版社アルファ・ミュージック設立、作曲の道に進みました。
同年「或る日突然」(歌:トワ・エ・モワ)、「白いサンゴ礁」(歌:ズー・ニー・ヴー)、「夜と朝のあいだに」(歌:ピーター)、「恋人」(歌:森山良子)等ヒット今日がどんどん出ました。
「ざんげの値打ちもない」(歌:北原ミレイ)演歌も書く。
これは阿久悠さんの詩が先にあり、メロディーは自然にそうなりました。
自分で歌ったレコードもあります。(1,2曲)
古いものはよく聞きます。
海外に出て全然良かったと思います。
書物では学べない感覚的なものは物凄くあります。
肌で感じた事が出来たので、それはすごく良かったと思いますし、若い人もどんどん行って刺激を受けて、持って帰って来てもらって、栄えた良い国にして貰いたいと思います。

娘の方が英語を話すのは早かったです。
子供達は3~4年経つと言葉は不自由にはならなくなりました。
娘はコミュニケーションの専門家で、英語を書く場合には娘にチェックして貰っています。
息子はヒロ・ムライ(35歳)、中学校ぐらいから8mmビデオを持って撮ったり、高校では正規の映像の授業で作っていました。
南カルフォルニア大学では映画学部があり、アメリカでは1,2を争う様な学校でそこに入って直ぐに、ミュージックビデオを作っていました。
この間ゴールデンブローブ賞を貰ったのはTVの30分もののドラマ『アトランタ』です。
そろそろ映画館でやる普通の映画もつくるようになるのではないかと思っています。
かなり注目されている様です。
私は現在73歳ですが、先輩に桜井順さんがいて作曲家になった方がいるが、84,5歳の時に突然片方の目が見えなくなって、75歳ぐらいまでにやりたいことをやっておかないと後は判らないよと言われて、そろそろ考えないといけないのかなあと思います。
金沢の90歳の方とお話したが、陶芸の方ですが現役でやっていて、ずーっと死ぬまで作曲し続けるということもあるのかなあと思ったり、無理しないでやった方がいいのかなあと考えているところです。



























2018年11月23日金曜日

村井邦彦(作曲家・編曲家・プロデューサー)・東京・ロス 音楽生活50年(1)

村井邦彦(作曲家・編曲家・プロデューサー)・東京・ロス 音楽生活50年(1)
1945年東京生まれ、73歳、1960年代後半に「エメラルド伝説」、「ある日突然」、「翼をください」「虹と雪のバラード」など多くのヒット曲を生み出しました。
大ヒットメーカーとして活躍中に、音楽出版の仕事の為アメリカに渡り、日本と海外を行ったり来たりの仕事をしていました。
当初は直ぐに日本に戻る予定でしたが そのままロサンゼルスに定住して26年が経ちました。
村井さんは子供のころから音楽に興味を持ち中学高校と楽器にも励みました。
慶応義塾大学のライトミュージックソサエティでジャズにのめり込んで、大学在学中に本格的に作曲を始めました。
本の出版やコンサートの為に久しぶりに日本に帰って来た村井さんに伺いました。

去年で音楽生活50周年。
「翼をください」1971年の作品、学校を卒業したのが1967年ですから30歳前です。(作詞:山上路夫)
合唱曲としてよく歌われている。
「赤い鳥」は初めてと言っていいぐらいの混成合唱グループ。(当時大学生でコンテストに優勝した。)
副賞としてヨーロッパ1カ月旅行があり、僕が提案してロンドンで録音しませんか、と言ったら録音することになりました。
最初彼等はプロにはならないと言っていました。
フォークソングが流行って新しい音楽が始まって、彼らもプロになることになりました。
私は300~400曲ぐらい作っていてこれは少ないです。
デビュー曲は「待ちくたびれた日曜日」(1967年 大学4年)
本条さんと知り合って、やってみないかと言われて詩を貰って作曲したら、レコードになりました。

グループサウンズ、フォークソング、歌謡曲、演歌など注文がくればやるスタイルです。
1969年には音楽出版会社アルファ・ミュージックを作りました。
直ぐに曲ができる場合もあれば、色々やりなおしたりする場合があるので、締め切りがあった方がいいですね、集中力が出て来る。
頼まれる場合はほとんどの場合詩が先です。
山上路夫さんと組む場合は8割がたメロディーが先になります。
若手の有望な作家を育てようということで、最初に計画したのが当時の荒井由美です。
友達の紹介で知り合いました。
当時彼女は高校生でした。
海外を飛び回るようになり、アメリカでは16チャンネルの多重録音をやっていて、日本でもやりたいと思っていて、1972年にそのスタジオが出来ました。
こけらおとしの録音に荒井由美を選びました。
YMO{(Yellow Magic Orchestra) は、日本の音楽グループ。}を作る細野 晴臣に荒井由美のバックをやって欲しいと頼んで、出来上がったのが、ユーミンの「飛行機雲」で、長生きする曲でした。
2013年に宮崎駿さんの「風立ちぬ」の映画の主題歌になりました。

尊敬している作曲家は沢山います。
ミシェル・ルブランヘンリーマンシーニなど、ライバルは考えたことはないです。
勝新太郎さんが初めて監督した映画「顔役」で勝さんから電話が掛かってきて音楽を頼まれた。
伊丹十三さんから実験映画の出演を依頼された事がありました。
「たんぽぽ」で出演させてもらって、音楽も担当することになりました。
映画はもともと好きでした。
ロスアンゼルスには26年になりました。
1970年代はロスアンゼルスは音楽の都でした。
軌道に乗ったら日本に帰ろうとおもっていたが、子供は7歳と9歳でした。
大学受験の歳になり、日本の教育システムに戻るかどうかの決断をしなくてはいけなくて、アメリカの大学に行くことになりました。
音楽的な環境もよかったので、あっという間に26年が経ってしまいました。
娘はアイルランド人と結婚してダブリンに住んでいます。
息子はアメリカの大学に行って映画監督になって去年ゴールデングローブ賞のTVコメディー部門で受賞しました。

本も出版しました、「村井邦彦のLA日記」。
同人誌があって7年以上書き続けていたが、廃刊になってしまうので1冊の本にしようということで出しました。
 関孝弘さんからピアノ曲を書かないかと言われて、10年間書き続けていて、そういったピアノ曲だとか、日本歌曲集を作ろうという事で10曲ぐらい有って、どんな歌手に歌ってもらうか考えています。
クラシックも勉強しているが、ジャズとも繋がってきます。





























2018年11月22日木曜日

古今亭志ん彌(落語家)          ・一門を支えながらの噺家人生

古今亭志ん彌(落語家)          ・一門を支えながらの噺家人生
68歳、東京都内各地の寄席でトリを務め、独演会では会場を満員札止めにするなど、耳の肥えた落語ファンをうならせている、古典落語の名手です。
志ん彌さんは24歳の時2代目古今亭圓菊さんに入門、真打ちとなって圓菊一門を支えて来ました。
しかし6年前に師匠の圓菊さんが亡くなったため、今は一門の若手の活動にも気を配りながら忙しい日々を過ごしています。
高校時代はサッカー選手として全国大会にも出場したという古今亭志ん彌さんに、40数年間一筋に打ち込んできた落語への思いをうかがいます。

月に10日位都内の寄席に出ています。
20日位は地方とか含めてどっかで動いています。
稽古をしないと滑舌(かくぜつ)が悪くなるし、話は忘れるので、稽古はしないといけない。
朝起きる前に頭の中でイメージトレーニングをします、しゃべって映像と一致するかどうかやっているうちに2時間位掛かります。
メディアに出ている方の人の方が少ないです。
真打ちは100人ぐらいいると思います。
人気者は人気者の役目はあるし、私達は私達の役目はあるし、総合的にみんなでやっている感じです。
古今亭志ん生の一門を受け継いで来ました。
2001年に古今亭志ん朝さんが亡くなられて圓菊さんが総帥となって展開してきました。
2012年に圓菊さんが亡くなられて、一門を維持するためにちょっと苦労しました。
私が前座のころから古今亭圓菊一門会を名乗らせてもらっていまだにやっています。
今思うとうまい具合に回っていると思います。

1974年24歳の時に入門。
高校時代は浦和南高校でサッカーをやっていました。
ポジションはフォワードをやっていました。
大学に行ってサッカーをやっていて、2年の時に試合中に蹴られて怪我をしてしまいました。
怪我をしなければサッカー関係の仕事をしていたかもしれないと思います。
高校時代コント55号がはやっていたが、或る一人が落語も良いよと言っていて、古今亭志ん生の話を聞いて志ん生師匠の所に行きましたが、池波志乃さんが出てきて、弟子を取らないと断られて、うちの師匠と出っ食わしました。
大学に行って落語の事は忘れていましたが、池袋演芸場に行くようになって圓菊師匠がやっていて面白いと思いました。
就職をすることになって、色々銀行、商社などがあったが、結局師匠の門を叩きました。
70年代、世の中が熱い時代で圓菊師匠の中にも同様なものを感じたし、私の反骨精神もありました。
弟子入りには必死でした。

前座の時には生活が厳しかったです。
師匠の子供をおんぶして、子守り等していました。
稽古は自分は不器用なので大変でした、師匠からお前みたいな不器用なやつはいないね、辞めちゃった方がいいとしみじみ言われました。
兄弟子と肩を並べようと頑張りました。
師匠の前で6時間位正座をして稽古をしましたが、正座が拷問の様に感じました。
師匠は志ん生師匠はこうやってやっていた、他の師匠はこういうふうにやっていたと言ってくれる事が大事でした。
どんなことがあっても稽古だけはしておけと、立川談志師匠からも言われました。
前座のころは行儀作法から鳴りもの、着物の着方たたみ方、噺、踊りなども教えてくれて本当に良かったです。
目の前の人を喜ばせられない人が、一杯いる寄席のお客さんを喜ばせられないのかなど、前座の頃の気遣い等の経験が、噺の方の気遣いになって来る。
同じ噺でも描き方が全部違う、それが面白いんです。

自分では最高だなと思った時も 3時間ぐらいたつとこんなひどかったのかと思います。
後で思うと笑わせようとしたり、無駄な事をしていたりしているなあとか思います。
そういった意味では目指す山は無くて死ぬまで稽古でしょうね。(いつも緊張しているわけではないが)
歳を経ないと、間の取り方はなかなか判らない。
落語はどうしたら面白くなるのかと聞いた時に、普通にやっていればいいんだよ、面白くしようと思うから駄目なんだよ、と言われました。
聞いている側に想像力が伝わらないといけない。
夢は、自分の噺をもっともっと聞いてもらいたいとの思いはありますね。


























2018年11月21日水曜日

高橋孝雄(日本小児科学会会長)      ・小児科医が伝える『悪魔の証明』

高橋孝雄(日本小児科学会会長)      ・小児科医が伝える『悪魔の証明』
慶応義塾大学医学部教授
東京都出身61歳、4歳の時に父を脳腫瘍で亡くし母子家庭で育ちました。
慶応義塾大学医学部を卒業後、小児科医となり、1988年から1994年までアメリカに滞在、現地の大学や病院に勤務しました。
帰国後は母校に戻り、2002年に教授となり、2016年からは日本小児科学会会長を務めています。

「小児科医のぼくが伝えたい 最高の子育て」を出版しました。
子育て支援サイトに対談記事を書かせてていただく機会を得て、多くの人の目にとまったようで、一般の方にもお役にたてるような話ができるという事に気が付いて、36年小児科医をやっていますが、生まれて初めて本を書かせてもらいました。
平易な言葉で、相手に伝わるように気を付けました。
子育てに関することも情報がすぐ手に入るようになってきて、インターネットを中心にして多くの情報が手に入る。
正しい情報だから役に立つという訳でもないし、正確だからいい情報だとは限らない、ここが難しいところです。
受け取り側の気持ちによっては、とても不安な気持ちになったりする、これが昔と変わってきたことです。
主な原因が情報過多になっている事かも知れない。
病院に来る前に不安を溜めこんで、手にはメモ帳を持って、インターネットで下調べをしてくるので、最初緊張度を解きほぐすことが僕らの仕事だと思います。
基本的には早く安心させるようにします。
先ずはお母さんと楽しそうに話しているところから始めます。
子供を泣かせたら診察にならないので、子供を泣かせない。

生後半年以内は人見知りしない、寝返りをするようなってから1歳位までは、人見知りがひどくて泣かせないようにするのが難しい。
子供はどうせ解っていない、子供は自分で自分の意志を示せないという誤解が強すぎる。
3歳の子であれば、頭が痛いのか歯が痛いのかとか、自分の言葉で説明できるはずです。
小児科医になって最初に学ぶことが、子供の「代弁者たれ」ということで大事なことです。
子供に直に聞く、子供から読み取る力が一番大事です。
子供の病気の多くは子供の力で直せるものなんです。
それをお母さんに対して理解してもらうのには、かなりの説得能力が必要です、それを私は「悪魔の証明」と呼んでいます。
お母さんがこれで笑顔で帰ります、というのが一番いい医療です。
最近のことですが、軽い脳性まひの子を診察した時に、「歩くのは遅いでしょう、でも必ず歩けるように成るし、普通に学校に行けるようになります、但し待つだけで次の外来を2歳の誕生日にやりましょう」という事でやりましたが、誕生日の1週間前に歩けたという事でした。

2歳の誕生日あたりに歩けて安心したでは、半年間そのお母さんは苦しむわけです。
大学病院に来て15分の診察で「お母さん絶対大丈夫です、2歳の誕生日に来て下さい、その時には歩いているはずです。それまでに心配しないでください。」と言われてお母さんが心から納得していただいたら、その日のうちに安心を得て病気が治ったかのようなそういう感覚になります、これは『悪魔の証明』の一番難しいし、一番大きな成果を上げられる場面だと思います。
危機管理の仕事に関与するようになったのが、45歳過ぎ位教授になってからで、感染、医療事故、研究倫理と、12年間やってきました。
小児科医として経験を積んできて、安心させる、安全とは、謝るとはどう言う事かとか、小児科医として経験してきましたが、多くはお母さん、子供達から教わったりとか、ノウハウがあるが、初めて危機管理を担当して役立つんだと思いました。
この仕事は僕に向いているなと思いました。

産婦人科の実習の時に、妊娠28週で分娩しなくてはいけなくなって、その時呼吸はしていなくて、赤ちゃんを助けるために事前に分娩室に3人の小児科の医者が入っていました。
ピクリともしない赤ちゃんに気管支に管を入れて、口にくわえて蘇生したんです。
命を助ける場面に初めて出っ食わして、赤ん坊の身体がピンク色になって命が吹き込まれて、心臓が動いていて、タオルにくるんで走り出して、新生児の集中治療室に行って、人工呼吸器も動き出して、心電図がモニターに出てきて、命を吹き込む場面に出っ食わして、F1のコックピットの光景が目に浮かびました。(それこそ秒単位での仕事リレー)

高校時代の成績が上位で医学部に行く権利があって、医学部に行くことにしましたが、何科の医者になるかは決めていませんでした。
父が4歳で亡くなりましたが、祖父が裕福で学費は与えてくれて、あまり苦労したという感覚は無かったですが、祖父が亡くなってそこから経済的なライフラインがなくなって、特待生に申し込んで学費が免除になりました。
それがなかったら僕は医学部を辞めていました。
母は経済的なことに関しては、一切不安なことを口に出したことはなったです。
40歳過ぎ位に母が手紙をくれました。
「貴方は頭のいい子で物事を先に先に読む人です、その結果として貴方に口答えできない人がいるはずで、貴方を恨んだり反発する人はそういう人達です。
貴方がそんなことで人から恨まれるとしたら、それは私は悲しくてしょうが無い。
どうか自分の考えは変えなくてもいいから、物腰の柔らかいそういう人柄だと思われるようになって欲しい。」という内容でした。
この子の欠点はこれだということで、一筆と思ったんだと思います。
妻は一言で言うと女性らしい女性だと思います。
自分がやられて厭な事、悲しいことは決して人にしないという、そこだと思います。
子供は3人いますが、3人様です。

妻は自分が育てられた様に子供を育てたのかなと思います、一言で言うとなるようにしかならないというのが振り返った時の強い思いです。
本を書いてみて、こういういいところがあったねと、今になって振り返るとこの子はいい子だという事言っているだけです。
人間の能力は物凄く実は狭い範囲に収まっていて、その中で競争しているから優劣が付いているだけです。
遺伝子で決められている幅はみんながイメージしているよりもずーっと狭くて、裏を返せば可能性がないと言っているのではなくて、相当部分担保されているという事だと思います。
大事なことは一番になるという事を最終的な目標にしないということですね。
父性、男性的な考え方はルールを守って、平均値があってそこから外れて優れている、劣っている、という集団を扱う中で位置づけになってくると思うので、上を目指せと言った時に結果を出せというのは、父性の表れだと思います。(女性にも備わっているが)
女性的な考えはその子がどうかという事になるので、この子が好きでやっているのが一番という、母性的な気持ちで子供に習い事、勉強させるのが成功するのではないかと思います。
仕事の仕方を取っても、父性的な仕事の仕方があると思う、多くのデータに基づいて効率的にこれがうまくいくという方法。
母性的なことが成功のカギという仕事もある、これが当たりそうだとか、色々場面で考え方は反映される。

母性と父性は生まれつき人間に備わっていて、一生の間でライフステージに応じた仕事の
力の発揮の仕方があって、人生最大の節目、チャンスというか、触媒作用のようなものが育児だと思います。
子供を生み育てるというのが義務感ではなくて、特権というか与えられたプレゼントだという、そういう感覚が社会全体に根付くことが一番大事だと思います。
女性にとって母性を爆発的に膨らませるいいチャンスですから。
最高の子育ては子供を社会、みんなの宝物だと思う事が最高の子育てだと思います。
女性医師が子供を産むことは一定期間休まざるを得ないことは事実だが、むしろ産んでいただきたい。
その間仕事を埋めるためにカバーしなくてはいけないので、女性医師を男性医師と違う様に考えることは良い意味で大事なことだと思います。
そういったことを配慮して医師の数、医師の配置を考えて行く必要があると思います。
医療全体が女性向きな仕事になってきていることは間違いないです。
20,30年前は理数系の生物学の延長にある学問だったが、今は説得する力とか、人の思いを組む力とか寄り添う共感力とか、そこが医師の大きな力だし、醍醐味でもあると思います。
それ以外は大体AIができる時代になってきている。
医療に携わっている人であれば、本当の意味での優しさ、本当の意味での礼儀正しさを身につけてほしいと思います。
掛かり付けの医者は生まれてから中学までは、いわゆる相性のいい医師を選んでもらいたい。
































2018年11月20日火曜日

水口博也(写真家)            ・シャチを追いかけ、世界の海へ

水口博也(写真家)            ・シャチを追いかけ、世界の海へ
昭和28年大阪生まれ、海の生き物に興味をもったのは小学生の頃、東京大学の理学部で動物学科で学び卒業後は、出版社に就職して自然科学系の本の仕事をしながら、海外の研究者とともにクジラやイルカの調査や写真撮影に関わっています。
世界の海へシャチを追いかけて38年、今食物連鎖の頂点にいるシャチは環境汚染などで危機を迎えているそうです。

アルゼンチンのバルデス半島、今のシーズンは南セミクジラの繁殖と子育てに集まっていて、それを観察してきました。
ちょうど日本の裏側になります。
この10年から15年陸上動物も見て来ました。
クジラの進化を考えると陸上動物も知りたくなりました。
シャチは遡ると陸で歩いていました。
6500万年ぐらい前、陸上では恐竜は死に絶えて、海では魚竜とか大型爬虫類が泳ぎまわっていたが全部死に絶えました。
哺乳類が生き残って、かつて爬虫類が占領した区域に入りこむことになる。
あるものは陸から海を目指して、クジラの祖先になったという流れです。
クジラの仲間は一般的には90種類に分類されます。
最も広い分布域を持っているのがシャチなんです。(ほとんどの海に分布)

いまかなりの生き物が危機に瀕している。
シャチは海の生態系の頂点にいるので、プランクトンが小魚を食べ、大きな魚が小魚を食べ、それをイルカとかアザラシが食べ、それをシャチが食べることで、生物濃縮で、人口密集地に近い海に住んでいるシャチの身体の中は、かつてのPCB、DDTとかの汚染物質が相当蓄積して問題になっています。
今後50年でシャチは繁殖できなくなるのではないか、という衝撃的なニュースも出ました。
免疫が落ちて病気にかかり易くなる、繁殖能力がなくなるという問題があります。
人間では精子が弱くなるとか以前報告があったが、動物でも同様な事が起こっている。
一番大きな問題は雌が子供を持った時で、お母さんが持っていた汚染物質をそのまま胎児に渡してしまう。
汚染物質を受け継いだまま生まれてきて、餌を食べた母親の母乳には汚染物質がたまるので更に赤ちゃんには溜まって行く。
海を100%綺麗にできたとしても、溜まり続けているので厳しい。
雌の方が少し寿命が長い。
背びれの形で個体が判り、研究によりほぼ識別されて、親子の関係も判り、家系図が描けるようになって、1970年代以降のものは凄く正確な年齢が判ります。
(主にカナダ、アラスカ当たりのシャチ)

父親の書棚に動物図鑑があり、クジラも含まれていた。
描かれたクジラの不格好な形に疑問を持って、海で泳いでいる状態をみたいと思ったのがきっかけでした。
シャチの獲物には人間は入っていないということで、ちいさなボートで行っても襲われることは100%無いという事が直ぐ判りました。
好奇心の強い動物で向こうからやってきて我々を観察します。
近くに寄ってくるのは子供のシャチで親は遠くで見ています。
世界中のシャチの生態が物凄く良く判ってきました。
それぞれの海に住んでいるシャチが全然違う暮らしをしている。
文化、伝統を持つ動物だという事が、一般に共通して理解されるようになりました。
餌の取り方、遊び方、その場所での過ごし方とか継承されている。
魚を取るシャチとアザラシなどを取るシャチとでは泳ぎ方も違います。
サケ、マスを取るシャチはチームワークで取るので、声を出しても問題ないのでコミュニケーションを取りながら取るので、非常に賑やかにしゃべり合います。
アザラシなどを取るシャチは群れが小さく3~4頭でひっそりとして獲物を取ります。

アルゼンチンのバルデス半島などはそうですが、陸地で獲物を取るシャチはリスクがあるので、母親が子供に練習をさせます。
子供が陸から戻れないと母親が押し戻すという事をします。
広い海でサメ、マグロなど食っているシャチもいます。
DNAの研究ができるようになったので、二つの群れはおよそ何万年前に別れるようになったのかが判るようになってきました。
大昔に別れた群れは別の種にしようという動きはあります。
ニシンを食べる群れもあるが、小さい魚なので効率が悪いので独特な餌取りを編み出して代々受け継いでいます。
狩りに慣れた大人たちが、ニシンの群れを密度が高くなるように追い集めてだんご状にして、海中で尾びれで叩きつけます。
失神したニシンならば子供でも食べられる。
北海道でもシャチが見られる様になりました。
北の方が獲物が集まりやすいので、多く見られやすい。

どういう経緯で群れが別れて行って、個体性を持って行ったのか、その道筋に興味があります。
クジラ、イルカなどの声の研究は、これはどういう意味なのかという事にはまだ至っていない。
群れごとの特徴的な声を持っていることも事実です。
アラスカでタンカーの原油流出事故が有ったが、多くのラッコ、アザラシ、シャチ等が死んでいます。
大きく二つ問題があり、目に見えないPCDとかの汚染物質、プラスチックで、死んで浜に打ちあがったクジラ、オットセイ、アザラシ、イルカ、シャチ等からプラスチックゴミが物凄く出てきます。
海にかかわる大きな問題だと思います。
子供たちへの本などを書いていますが、現実を子供達にどう言うふうに伝えて行くのか、かなり大きな課題だと思います。
最初大人向けの本が多かったが、最近は子供向けが多くなりました。







































2018年11月19日月曜日

山井綱雄(能楽師シテ方)         ・【にっぽんの音】

山井綱雄(能楽師シテ方)       ・【にっぽんの音】
能楽師狂言方 大藏基誠
1973年横浜市出身 45歳。
金春流の能楽師であった祖父の影響で稽古を始めて、5歳で子方として初舞台を踏み、12歳の時に初シテ、「経政」を務め能楽師の道を始めます。
「乱」「石橋」「道成寺」「翁」など能楽師の登竜門といわれる大曲を演じる。
オペラやジャズピアノなど他のジャンルとのコラボレーションを数多く行っている。
デーモン閣下とのコラボ、日本だけでなく海外での公演やワークショップなども開いて能の魅力を広く伝えている能楽師の一人。

デーモン閣下のたいへんなファンでして、中学2年でバンドを組んで、「世紀末」のコピーバンドを今もやっています。
そこから閣下がやってらっしゃる当時CS放送のキャスターをしていて、ゲストで出さしてもらって直接話をすることができて、それがきっかけで親しくさせてもらっています。
友達のジャズピアニストとはゼロから新作を作って作品にしています。
奇しくも大震災の1年前に「きずな」という作品を作っていました。
シテ方にも5流あって観世流、宝生流、金春流、金剛流、喜多流の流派があります。
今年能楽師になって40年になります。
大藏基誠:実は私も今年芸歴35年になります。
能楽協会の理事になるなど責任のある立場になりました。
祖父が能楽師で、父は大学時代趣味として宝生流をやっていましたが、サラリーマンとなり辞めててしまいました。
父が30位の時に金春流の娘とお見合いの機会があり結婚をして、私自身能に触れる機会が多くありました。
12歳で能楽師になる決意をしました。
祖父の追善公演を国立能楽堂で12歳の時に初シテ、「経政」を務め能楽師の道を始めます。

大藏基誠:祖父は稽古は厳しく本番は優しく褒めてくれました。
能楽は能面を付けて、非人間であるということで、神になる為の仮面を付けて、主人公はあの世の世界からやってきた神様、仏様、魑魅魍魎、鬼、幽霊であったりして、人間の完全なる非日常の普段会うことのない異次元空間の世界を見せる、如何に非日常を見せるか、これが能です。
狂言は現実の世界を見せる。
キャラクターについては例えば、「初雪」というと雪の精霊かと思われるが鶏の名前です。
或る日姫様が飼っていた鶏が死んでしまって、弔っていたら初雪の幽霊が飛んできて、極楽世界に行きますと言って極楽に飛んでゆく、姫様は号泣する。
お能は凄くそがれた芸で、最小限に動きも作られていて、見る側の想像力が要請される。
鶏は白装束で頭に冠の上に鶏のオブジェを付けて演じます。
「たこ」という狂言があるが、そのままたこの頭巾をかぶって足が頭から八本垂れています。
良く考えたなと思います。

初心者は判り易いものがいいと思います、「羽衣」「船弁慶」「黒塚」「土蜘蛛」などが良いと思います。
能は、空を飛ぶ時に助走が必要なように、我慢というか、じっと動かないで謡ってっているだけとか、一見するとつまらない事があって、最期にぼんと盛り上がるからこそ、その落差で見せるので、いいところだけをかいつまんでみせるということは、能の見せ方ではない、しかし現代の世界ではなかなかそれが難しい。
座禅を組んだり、最近はマインドフルネスとも言われるが、能楽もマインドフルネスと言われていて、眠くなるが鼾さえかかなければ、僕は寝てもいいのではないかと思っています。
すべてを血眼になって理解しようとするが、ぼんやりと2割程度でもいいのではないかと思います。
心がいやされる作用があるので、それを感じてもらえればいいのではないかと思います。
「道成寺」で鐘の中に入って行こうと階段を昇っていこうとする所、乱拍子、極限の世界だと思います。
これはぜひ見てもらいたいと思います。
「道成寺」をNHKラジオで放送した時に、放送事故かと思われたとか、無言が続き過ぎて、音が出てこない。

*「高砂」(能楽師の結婚式で謡う。)

能の世界では時間が正確で、せっかちな人がいたりしてたまに時間より早く始めてしまう時などもあります。
23分なら23分で終わるという様に分単位が多い。
若いと心拍数も早いので、音楽などでも早いものを好み、歳を取って心拍数が遅くなってくると、それに合った曲を聞き出すとも言われている。
日本の音、能楽の鼓の音、謡などを聞くと日本を強く感じます。
舞台の上での能を極めて行きたいし、歳をとった時に名人と言われる人達に少しでも近づきたいと思っています。
東京オリンピックを機に日本に、世界に、もっと能の素晴らしさを知ってもらいたいと思います。































2018年11月18日日曜日

上野きより(飢餓ゼロをめざす 国連WFP広報官)・【"美味しい"仕事人】

上野きより(飢餓ゼロをめざす 国連WFP広報官)・【"美味しい"仕事人】
世界の飢餓人口は8億2100万人に上ると言われています。
その原因は途上国の栄養不足、紛争、災害、気候の変動などによるものが大きなものです。
WFP国連世界食糧計画では食糧支援機関として毎年83カ国9000万人に支援を行い飢餓のない世界を目指して活動しています。
国連WFP広報官の上野さんに伺います。
上野さんはWFPのローマ本部を始めエチオピア、ネパール、ナイジェリアで活動して来ました。
ジャーナリスト時代から追い続けたテーマ「貧困、飢餓」をどのように解決するのか、それが世界最大の人道支援組織であるWFPで働きたいと思った理由だということです。

9月に新しい報告書が出ましたが、2017年では世界の飢餓人口は8億2100万人という数値が出ています。
2014年までは飢餓人口は減っていました。
2015年から3年連続で増えてしまっています。
9人に1人が飢餓に苦しんでいることになります。
増えているのは紛争、気候変動によるものと分析されています。
2010年に国連に入ってWFP国連世界食糧計画に勤め始めましたが、支援調整官として働き始めました。
98%が各国政府からの拠出金で成り立っていて、そのお金で貧しい国の人々たちの為に支援している。
各国政府とのやり取りをする部署です。
本部にいた時に現場に行きたいと強く思って、エチオピア(最貧国の一つ)に行くことになりました。(2012年)
子供達は本当に食べるものが無いので、朝食べずに学校に来るが、おかゆみたいな粗末な学校給食を出します。
食べられるから学校に来るというのがほとんどですが、それが勉強をするきっかけにもなる。

エチオピアは識字率が60%程度です。(農村部)
学校に行くのも2,3年程度で、家が貧しいので家畜の世話などをするようになってしまう。
農村部では紙に書かれたような文字が無い為に、せっかく習ったのに忘れてしまう。
人間、書かなくなると書けなくなり、読まなくなると読めなくなってしまうと言うことにショックでした。
ネパールは2015年に大震災があり、その時に緊急支援の為に入りました。
山が物凄く多くて、貧しい生活をしている。
大震災で一気に食糧の流通が途絶え、実際にみると大変ショックでした。
食料を必要としている人ほど山の中にいて、ヘリコプターを使ってゆくが限界がある。
ロバとかラバとかを使って、環境によってどう届けるか対応するが、その時には観光客も減少してポーターの仕事があふれてしまって、お金を払って彼等にも運んでもらうこともやりました。

持続可能な開発目標、その中でも「飢餓をゼロに」というテーマを持っています。
設立が1961年でそれからずーっとやってきています。
毎年83カ国9000万人を支援をしています。
シリアの国内にいる人達に対して、近隣諸国(トルコ、ヨルダン、一部イラクなど)に逃れた人達に対しての支援を行っています。
紛争地帯に対してはどのように届けるかが問題になる。
あまりに危険な場所にはいけないところもあります。
イスラム過激派が凄く力が持っているところは、アクセスができない地域がまだあります。
防弾車で移動するほど危険なところがあります。
ナイジェリアなども自爆テロを起こすような所もあります。
最近女性とか子どもたちが自爆を起こします。
誇りに思うのは、WFPは色んな支援がある中でも、最前線にいる組織の一つだと思います。
危ないところだからこそ飢餓に陥るので、だから入って行かなくてはいけない。
実際には食料を届けて「有難う」と言ってくれる訳ではない、当然と思っている人などもいるわけです、アフリカなんかそうです、ネパールは「有難う」と言ってくれます。
ドラマみたいな感じはないです。

国境を越えて逃げてきた難民の場合は、栄養レベルが下がっているので、特別なペースト状のものとかハイエネルギービスケットなどを与えます。
或る程度安定してくると、食料バスケット(必要栄養素が摂れるようにしたもの)を提供します。(家族ごとに配給 月2回位 基本的支援)
妊娠中の女性、授乳中の女性、5歳以下の子供に対して栄養状況が悪い人に対して、特別な栄養強化の食べ物を提供しています。
トウモロコシの粉、大豆の粉をまぜて栄養を強化したパッケージがあり、それを提供しています。
70%現物配給になっています。
30%が現金とか食料引き替え券を渡したりしますが、その環境が整っていないと駄目です。(自分が買いたいものを買ってもらう、野菜などは提供できない。)
喜ばれる支援ですが、その環境が整っていないと駄目です。

父が医者をしていて夏休みにアフリカ、フィリピン、スリランカに行ったりして、支援活動などをやったりしていました。
貧しい国の人の事を考えないといけないと常に言われていました。
大学卒業後に新聞社に入って、社内にも世の中を良くしたいという人達がかなりいて、一番どういう分野が良いかを考えると、食料は生と死に関わる問題なので、自分にとって一番判りやすいと思って、食糧支援の組織に入ることにしました。
広報の仕事をしていて、飢餓について、なんとか無くそうという活動について、世界の人に知ってもらいたいと思っています。
ある問題を知っている社会は問題を無くそうと行動して行くので、知ってもらいたいと思っています。
飢餓の問題を知ってもらう事は、今の飽食の時代の日本ではなかなか難しいと思います。
飢餓の問題は余裕のある人間が考えていかなければいけないことだと思います。



















































2018年11月17日土曜日

本出ますみ(ウール格付け人、羊の原毛屋経営)・ヒトとヒツジの1万年 私とヒツジの35年

本出ますみ(ウール格付け人、羊の原毛屋経営)・ヒトとヒツジの1万年 私とヒツジの35年
60歳、京都の美術織物の会社に勤めてきた本出さんは、24歳の時に羊毛に出会います。
羊と羊毛に強く惹かれ、羊毛を通信販売する原毛屋を開業、そのかたわら羊と羊毛、羊と人とのかかわりについて調べ年に3回情報誌を発行、33年間で100号に達したのを記念して 一冊に纏めました。
題して「羊の本」、海外にまで足を延ばして取材した羊の百科事典のような本です。
羊と羊毛の何が本出さんをひきつけるのか聞きました。

1頭分の毛刈り仕立ての毛をフリースと言います。
ラノリン、口紅とかお化粧品の原料になる羊の毛に付いている油です。
この原毛は茶色に近い毛の色、シェットランドという種類で、ふくらみのある毛です。
一枚のコートの様に羊の毛刈りは出来ますのでひとつながりの敷物の様になっています。
1年間で延びる毛の長さは10~13cm位です。
一房つまみつだして、ほぐしてから繊維を伸ばしながらよじって行くと、単糸が出来上がってきます。
それを合わせて1本にすると撚りがかかってより強い糸になります。
軸の駒の処に種糸を結びつけて軸を回転させると、繊維に撚りが掛かってくるので、駒を使うとより効率的に糸が作り続けられます。
一つの駒で20~30gずつ糸をつむぐことができます。
羊毛は雨風を防いでくれます。(体を守る繊維になっています。)
フェルトは羊の毛を均一にほぐして、石鹸水で摩擦すると、織らない状態のフェルトになります。(モンゴルとか遊牧民はこのフェルトをテントに使います。)
羊の恩恵としては、羊毛、乳製品、肉として食用にする、糞も乾かして燃料にします。
羊は家畜化して1万年と言われています。

24,5歳の時にオーストラリアで羊を飼っている女性と出会って、毛刈り仕立ての羊毛から糸を紡いでいるのを見て、こうやって糸を作るのかと衝撃を覚えたのが最初です。
帰ってきてから日本には糸を紡いで織っている方々がたくさんいてびっくりしました。
母が着物を着て過ごしていて、親戚が西陣の織りもの屋さんとかやっていて、着物の仕事がしたいとずーっと思っていました。
京都、糸、原毛を仕事にしたいと思いました。
原点である羊に興味を持ちました。
会社を辞めて羊毛を輸入するということから始めました。(1984年)
説明をするのに、年に3回「スピナッツ」(スピンは紡ぐ、ナッツは夢中になるという事で、紡ぎに夢中になるという意味です。)という雑誌を作って、それを定期購読をして貰って読者が増えてきて、材料を扱う通信販売をする店で羊毛を供給する、ワークショップをしながら糸をつむぐ経験をして貰う場をつくる、というのでやりはじめました。
私自身夢中で紡いで編んでいって、1週間で一着セーターを作って非常に満足したことを覚えています。

羊を飼う現場の人と接するうちに、肉がメインの家畜という事を知る様になります。
段々羊への理解が深まりました。
モンゴルのフェルトのテントを作りたいと思って、月に一回20人集まって2年がかりで作りました。
出会った人々から得た情報を「スピナッツ」に掲載してゆきました。
33年間100号になったのを機に「羊の本」に纏めました。(今年5月 336ページ)

羊の家畜化は1万年前に中東メソポタミアあたりから始まったと言われています。
インド、中国、アフリカ、ヨーロッパ各地に羊が広がって行ったと言われます。
品種もスペインで品種改良されて、細い毛を産する羊にされて、今現在羊では一番有名なメリノ種のオリジンになっています。
日本では7,8世紀位からですが、正倉院に花氈(かせん)というフェルトの敷物があります。
戦国武将も陣羽織としてとても好みました。
明治政府になって初めて本格的に飼い始めようということになりました。(殖産興業)
祇園祭の懸装品(けんそうひん)にもたっぷり世界中から集まって毛織物を目にする事が出来ます。

雨風を凌げるので軍服として最適だったので明治政府はとてもほしかったが、当初なかなか飼育がうまくいかなかった。
羊毛をオーストラリアから輸入するということで、毛織物産業が爆発的に成功して行く。
毛織物産業は明治大正期にはほぼ世界一になっていたのではないかと思います。
戦後昭和20年代に100万頭になる。

世界を回って衝撃的だったのはモンゴルの遊牧民の原点に近い暮らし方を見たことでした。
一つのゲルの中に家族が4,5人暮らしています。
ソーラーパネルで電気を供給しているので、液晶TV、携帯電話があり、パラボラアンテナで世界の情報はキャッチしていますので、私達と変わりない居住空間です。
羊、らくだ、牛、山羊などを飼って家畜で暮らしているので夏は乳製品、冬は肉を干し肉にして食べている、自立した生き方をしています。
赤ちゃんのおむつを持ち帰りましたが、、羊毛の白いフェルトで帽子の様な形になっていて、真ん中が開いていて、羊の糞の灰になったものを入れて、その上にラクダの固い毛を上に置いてその上に肌ざわりの良い綿の布を置きます。  これがおむつになります。 
おしっこをすると綿などを通過して灰がおしっこを吸い取って固まって、それを捨てるようにしています。
綿の布はその都度洗って再度使います。
廃棄物が無い、あるいは循環する生活スタイルになっています。

ウール格付け人という資格を持っています。
ニューージーランドの農業大学で学んで、羊毛の品質を管理することを学んできました。
品質に合わせて格付けする、又用途に合わせて細番手、太番手をクラス分けしていくという仕事です。
品質を判断できる技術が無いと駄目だと思って、大学に入って勉強しました。
肩とか横腹とかのいい品質のところと、お腹とかおしりとかゴミがたくさんついたところがあるので汚いところ、ダメージにあるところは分けて、いい品質のものを糸にしてゆく。
羊毛は天然のたんぱく質なので品質の悪いところは肥料にしたりします。

2011年から日本国産羊毛コンテストを開催しています。
日本には1万7000頭しかいませんが、(北海道中心)ほとんど刈ったものを廃棄しています。   分けるのが面倒なのと一つの牧場で数十頭とかで量が少なくて、纏めてゆくルートが難しい。
いい羊毛を牧場に方に知ってもらって、用途に分けて加工してゆく道を模索したいと思って始めました。
趣味としてやっている方とか、個人経営の紡績とかが対象になっています。
糸を紡ぐように暮らしを自分で作ってゆくことができる知恵を持っている人たちではないかなあと思います。
大量生産大量消費してゆく経済に限界が来ているのではないかと薄々感じています。
羊はそういう意味で羊との1万年の衣食住の暮らしは、非常に良い先生だと思っています。











































2018年11月16日金曜日

大森安恵(東京女子医科大学名誉教授)   ・【わが心の人】吉岡弥生

大森安恵(東京女子医科大学名誉教授)   ・【わが心の人】吉岡弥生
女子医学教育の先駆者の先駆者、吉岡弥生
明治4年静岡県に生まれる。
1900年日本初の女子養成機関として東京女医学校(現在の東京女子医科大学)を創設し、女性の医師を育てる教育に力を注ぎました。
昭和34年亡くなられました、88歳。
大森安恵 東京女子医科大学名誉教授 神奈川県海老名総合病院糖尿病センター長

私は今から30年前ごろ、女性が非常に多いので非常勤講師としてきてほしいということだったが、全く保守的で女性の教授、助教授、講師、医局長など全く女性の居ない学校で、そこで10年間行きました。
60年前に男性に下駄を履かせた、それは女子大学にならないようにする為ということだったというような話もあります。
男性、女性、お互いに助け合って仕事をするということはいいことだと思います。
吉岡弥生は漢方医・鷲山養齋の娘として生まれる。
自分も父親の様に医者になりたいと思っていたが、父親が反対した、3年かかって説得して、上京して済生学舎(現:日本医科大学)に入学した。
済生学舎明治9年にはじまって、女性にも開放するようになった。
1900年(明治33年)、済生学舎が女性の入学を拒否したことを知り、同年12月5日、日本初の女医養成機関として東京女医学校を設立した。(29歳)

ドイツに行きたいと思ってドイツ語を教える私塾・東京至誠学院に通学。
同年10月に、同学院院長の吉岡荒太と結婚した。
「至誠」 吉岡荒太がドイツ語の言葉から作った言葉。
8年後明治41年に初めて卒業生が生まれる。
卒業式にお祝いの言葉ではなく女性亡国論などで4時間もの議論になったそうです。
それをまとめたのが大隈重信先生で、女性は優しいので医療に適していると思うので、10年先20年先を見ようではないかといったそうです。
桐朋医科大学、大阪女子医専、帝国女子医専等あったが、直ぐに共学になった。
直ぐ男性が主流を占めるようになり、東京女医学校はそうはしなかった。
吉岡弥生先生の著書には哲学があって、素晴らしいです。

母が読んでいた雑誌に吉岡弥生先生の事がよく出ていました。
こういう先生になりたいと、心の憧れでした。
始めてお目にかかったのが、昭和27年の入学式の時でした。
2回目は大学2年の時に新聞部に入りインタビューをすることになり、色々話していただきました。
人と話をする時には相手の眼をみなさい、講演、授業などでも相手の眼をみなさいと言われました。
3回目は亡くなった時に、校葬の棺番の担当になりずーっと先生の優しい死に顔を拝見できました。
太平洋戦争中、大日本婦人会顧問など要職に就き、多数の青年・婦人の戦争協力を指導したということで、戦後、東京に戻り学校の再建に取り組むが、1947年(昭和22年)〜1951年(昭和26年)教職追放ならびに公職追放となる。
その後復帰する。
ビルマの女性を救うためにビルマにも女性医師を派遣する。
心のこもる手紙を周りの人達に細やかに書いている。
吉岡弥生記念講演を作ろうと発案して、一回目が作家の澤地久枝さんでその後ずーっと続いています。
吉岡弥生先生の名前と精神を継承するという意味では役に立っていると思います。
関東大震災、戦争などで病院が破壊されたり、金銭面での苦労など色々有りましたが、先生は常に前向きでめげないで歩んできました。
自分の出産の時にも、勉強になると思って学生に見せたということです。
吉岡弥生先生の慈愛に満ちたお話で、泣いたことを見たことが無いが父は泣いていました。

私も仕事に熱中すると家庭はどうしても疎かになってしまいます。
支援が無いとなかなか仕事をやり遂げるには難しいですね。
大学は人に教える立場なので一生懸命しましたが、まわりからも色々助けられました。
「笑うは時あり、泣くには時あり」と聖書には書いてあるが、結婚はいつでもいいと思いますが、結婚して二人になれば喜びが倍になり、苦しみは半分になるのでそれをしっかり守れというんですが、ついお子さんが生まれると研究してきたことを駄目にする人もあるので、そこで足切りになることもあるので、考えなければいけないと思います。
フォローするには完璧な保育所を作る必要があると思う。
国際的な交流をやることも大事だと思います。
ヨーロッパ糖尿病学会の Diabetes Pregnancy Study Group (DPSG) で毎年発表の機会を与えられ、ついに会員にさせて頂けました。
英語が上手でない事が益して却って友人や知人が沢山出来、糖尿病と妊娠に関する交流が深まりました。
















2018年11月15日木曜日

外山滋比古(お茶の水女子大学名誉教授 ) ・100歳人生はこう歩く

外山滋比古(お茶の水女子大学名誉教授 ) ・100歳人生はこう歩く
愛知県出身、95歳になりました。
東京文理科大学(現筑波大学)文学部英文学科卒業後、英語雑誌の編集に携わり、その後大学で教鞭をとりました、。
お茶の水女子大学在職中には、お茶の水女子大学附属幼稚園の園長を5年間務めるなど、専門の英文学にとどまらず教育論など広範な分野を研究、幼児や子供に対する言葉による情操教育の重要性を提唱して来ました。
1983年に発表された「思考の生理学」は、自ら考え行動することの大切さを解き、大学生や社会人1年生の必携の書として現在まで
累計220万部を越えるベストセラーです。
最近では高校野球の根尾内野手の愛読書として再び注目が集まっています。
外山さんは毎日2時間かけて、新聞を丹念に読み、月に2回自らが主宰する仲間との集まりに出かけ執筆活動を続けています。

あまり歳の事を考えない、後ろ向きのことは考えない、自分のことは自分でするという事を心がけていて特別なことはしていません。
睡眠は長く取るようにしていますが、歳をとると夜中などには目が覚めたりするので、昼寝を取ります。
又午前中ほんの30分寝ると元気が出ます。
眠らなくても横になるだけで睡眠と同じ効果があります。
夜9時半から10時には寝て朝は6時半位には目が覚めます。
食事をして散歩してその後寝ることもあるが横たわったりします。
昼に食事をして昼寝か、横たわります。
睡眠の質も大事です。
レム睡眠は非常に大事で、起きた時に頭がすっきりしている人はレム睡眠がしっかりしている。
前日の情報のゴミ出しがレム睡眠です。
運動していると忘れるので、レム睡眠の不足している人は運動をすればいい。
運動した後気分がスーッとするのは、頭の中の掃除が済んでいる。
うまく忘れるということは、頭の衛生上に非常にいい事だということは確かなことです。

食事はなるべく量を少なくするという事をやっています、少なめの方がいい。
食べすぎは悪い、ひもじいに近い状態、これが健康的です。
食事を作って美味かったと言われることが良い、喜んでくれる人がいる事が大事です。
人間は動くところは全部動かすことが大事で、これが健康の元です。
頭も口も目も耳、手とか足を動かす、一番大事なのはうまれつきのもの例えば血液の循環、呼吸とかは非常に大事です。
編み物は非常に合理的です。
耳を使うことは日本人はあまりしてこなかったが、耳を大事にするということは頭の働きに対して大事です。
日本人は目で読んで考える、文字になっているのは過去なんです。
目で考えると、知っていることを真似したくなる、自分の考えが出にくくなる。
日本人が独創性に乏しいのは、こういったことからくると思われる。
耳は大事で耳とおなじぐらい大事なのが口なんです。
言葉を使うから口を動かすと運動になるし、声を出すと健康に非常にいい。
お経をあげるということは運動をしている。

目と耳と口をうまく使えば頭も良くなってくる。
「3人依れば文殊の知恵」、2人は駄目、3人依ると話が回転して新しいものが生まれて来る。(3~5,6人程度がいい)
集合体思考をすると偶然の交流があり、非常に大きなものが生まれて来る。
それをセレンディピティ( serendipity)と言います。
若い頃お互いに悩んでいた分野の違う3人が、月に1回悩みを話す勉強会をして、それは実に良かったです。
70歳位になって、又7つ位を作りましたが、今2つ残っています。
旧制高等学校の寮でみんなで話し合ったりしたのは素晴らしいことでした。
英語を選択したが、戦争が始まってどうしたものかと思いました。
40歳位になって英語からすこし離れた方がいいと思いました。
管理職で一番やりたがらないのは何かと学長に相談したら、幼稚園の園長ということでそれをやることにしました。
人間は小さい時の方が能力があると思いました。
人間の能力は生まれた時から30ケ月位が最高の能力を持っているのではないかと考えます。
教育で一番大事なのは幼児教育だと思います。
保育所と幼稚園が一緒になった様なところで、言葉、音楽、絵画、味覚などのいい刺激などを与える。
子守唄のような音楽でいい音感教育を3歳ぐらいまでに終わらせてしまう。
3~5,6歳で理想的な幼稚園を作れば、今天才と言われる人は100万人に1人とか言われているが、おそらく50~100人に1人位天才的な人が出てくる可能性はあると思う。

物事をうまくやるには、相当な努力が必要だが、成功した人はあまり努力をしない。
失敗すると、自信、力を失うが、反発して挽回しようとする。
失敗後の力は元の力よりも上を行くので、これを利用すると失敗するたびに伸びて行きます。
失敗は大事です、失敗が薬になります。
マイナスの条件があって、それを乗り越える力が人間には誰にもあります。
実験的生き方、色んな事をやって見て失敗するが、くじけないで乗り越えることを考えておこなう。
お年寄りが元気で歳をとると言うことはどうすればいいか、みんなで考えて行きたいと思います。






















2018年11月14日水曜日

臼井健二(ゲストハウス主人)       ・自然と心地よく暮らす

臼井健二(ゲストハウス主人)       ・自然と心地よく暮らす
長野県生まれ、69歳、30歳で自然農法で取れるお米、野菜、山で取れる山菜やキノコなどを提供するゲストハウスを3年がかりで手作りで建てました。
臼井さんのガーデンは草生栽培と言って草や虫を敵としない、無肥料、無農薬、たがやさないという農業です。
40年前オーストラリアからもたらされた、持続可能な農的生活と同じ農法ですが、これは日本の里山生活がモデルになっていると臼井さんは言います。
臼井さんは自然とどのように暮らしているのか、うかがいました。

安曇野の保育園児と一緒に種をまき、田植えをして稲刈りおだがけとなりました。
7月はほとんど雨が降らなくて、その後台風が3つきましたが、その後は天気に恵まれて野菜もよく育っています。
ゲストハウスは40年近くなります。
自然農園的なものを提供しながら農法も教えながら営んでいます。
毎年通っている方もいます。
一緒にてつだってもらって食事も一緒に作って、片ずけもして貰って、家族の中に入ってきてもらうような宿です。
持続可能で多様性に富んで調和している、そんな農業を形にしてみたいなあというのが僕の考えです。

大学卒業後商社に入ったが、生産という事が無かった。
種をまいて育って実を結ぶという、農的なそんな中に本来の人間の幸せがあるのではないかと思いました。
小さいころから農的な暮らしがあったような気がします。
1年半で会社を辞めて、山が好きだったので、穂高町でやっている山小屋にお世話になりました。
5年間アルプスで学びました。
写真に撮って年賀状を送っていたりしました。
そのうちに山が飽きてきて、それは生産することが無いからなのではないかと考えました。
これから宿をやるので協力してほしいということで、会員募集をしたら(今でいうクラウドファンディングみたいなもの)2500万円位集まりました。
自己資金と2500万円をベースにしながら考えたが、理想の世界の中では足りなかった。
毎日10人ぐらいは学生が手伝ってくれて、大工さんが刻んだら塗装をするとか、水道工事、電気工事などかなりの事を自分たちで手掛けました。
3年ぐらいかかりました。

当時ペンションブームで、紹介してもらって宿泊人数も増えて順当にやってこられました。
10年位して、地元の利用が無いので、レストランを併設しました。
自給自足的な生活をして行きました。
お客さん達には自分たちで作ったものを提供したり、知り合いから手に入れたりしました。
自然界をよく観察して自然界の良さをその宿の中に生かしたいというのが、自給自足的な暮らしの原点です。
オーストラリアからパーマカルチャーという言葉が入ってきています。
パーマカルチャーは恒久的持続可能な環境を作り出すためのデザイン体系のことです。
1970年代にオーストラリアは大開発が進みました。
工場進出が起きて反対運動あったが、反対運動よりも心地よい暮らしを提言しようとして生まれたのが、パーマカルチャー的な考えです。
持続可能、多様性、調和、倫理的な事が加わって、自然への配慮、人へ配慮、余剰物の公平な分配などです。
私の実践とほとんど同じでした。

1900年代にアメリカでは大規模農業が盛んになり、化学肥料、農薬での農業で土砂流出などもあり農業が立ち行かなくなり、土壌学者のキングという人が持続可能な農業が無いかと世界を周り出会ったのがアジアの農業でした。
それを本に書いて、オーストラリアの人が見てもう少し判り易くしたのがパーマカルチャーなんです。
ルーツはアジアに有るんです、江戸時時代の文化であり里山の文化かもしれません。
資本主義は分断させ競争させ、マーケットを置くというそんな中に経済がなりたつわけですが、分断するより繋がりの中に生活があると、無駄がなくなる。
ここでは傾斜地に野菜などが植えられている。
草や虫も決して敵ではなく、草や虫を生かしてあげると、大地がより豊かにバランスが取れる訳です。
100点ではなくて60点を目指す、そうするとトータルで150点位になるわけです。
草がある事によって大地は豊かになる。

菌が根を分解して、微生物小動物が分解して腐食を作り、腐食はマイナスの電気を帯びて土の栄養素がくっついてあちこちに空気層がうまれて、それが自然界のたがやすということです。
土は柔らかく豊かになります。
本来バランスはとれているが、人間があれこれやってバランスが崩れる。
虫は急激に増えるということは無くて、いろんな種類が集まって全体的にバランスはとれている。
キャベツでは青虫は外から3~4枚食べるが、青虫がいると夜盗虫は卵を産まない。
たがやさなくて自然界は調和する方向に向かうし、草や虫も敵ではないという方向に行く。
草を刈って、土を出して草の種の表面をどかして野菜の種をまくと草は生えない。
刈った草は横にどての様に置いてやると芽が出ても草は育たない。
もみ殻を燃料として使えば暖房、給湯にも使えるが、原始的なので故障も良くします。
釜戸が登り窯の様になっていて、多様なシステムキッチンになっています。
循環型の暮らしを自分で作って行くという事が大事なことだと思います。

年間3~4回講座を続けていると仲間になり、声をかけると集まってくれるようになります。
壁を取ってしまうと人間関係はとてもいいです。
その中に一番喜びがあると思います。
「種の銀行」 今の種の90%はF1で外国製で、日本では10%です、日本に種が入ってこられないと日本の農業は成り立たなくなります。
在来種、固定種の種を保存してみんなで分かち合いたいというのが「種の銀行」の考え方です。
今は200種類位で種の瓶は500位あります。
お米の種は1粒が3000倍になります、借りた種は倍にして返します、無料でこのシステムは成り立っています。
自然界は素晴らしい教えを一杯与えてくれています。




































2018年11月13日火曜日

岡室美奈子(早稲田大学文学学術院教授 ) ・だからテレビドラマはおもしろい

岡室美奈子(早稲田大学文学学術院教授 ) ・だからテレビドラマはおもしろい
1958年生まれ、「ゴドーを待ちながら」で有名なノーベル文学賞を受賞の劇作家サミュエル・ベケットの日本での代表的な研究者の一人です。
岡村さんがいま力を入れているのが、TVドラマの作品研究でTVドラマ分析の授業も行っています。
岡室さんにTVドラマ研究を始めた理由、その意義、面白さ、最近の視聴傾向などについて伺います。

TVドラマの歴史は1953年からです。
映画などに比べると、消耗品といったイメージで捉えられていた様な気がします。
初期は生放送で映像が残っていなかったことも大きいです。
学術的な対象にはならないと思われてきました。
影響力の大きさは他のメディアに類を見ない様な気がします。
人の心を動かすようなものもあるので、ドラマの良さをどうやって人に伝えて行くか、作り手に私達の思いを届けられるかなど考えて、ドラマの研究を始めました。
ゼミでもTVドラマを取り上げます。
学生は40人ぐらいいて、4チームに分けて、それぞれのチームが違う1作品を研究して発表し、ディスカッションすると言うようなやり方をしています。
若者のTV離れが言われますが、興味を持っています。
テーマを決めてそれに即した候補を決めて学生に選んで貰います。
朝ドラも「カーネーション」と「あまちゃん」をやりましたが、学生もクオリティーの高さに驚いていました。
内容、演出、演技3拍子揃っていたと思います。

①良い作り手を育てたいと言う思いがあります。
②良い視聴者を育てたい。
普通は一回しか見ないが、授業では何回も同じ作品を観て、取りこぼしのない様にしています。
TVドラマの考え方も変わってきます。
TVドラマは日常生活に密接に繋がっている。
映画と違ってTVは共通体験となって行く。
ドラマは極力見るようにしていますが、時間が足りないです。
録画したものを1.3倍速で見たりもします。
「透明なゆりかご」毎回凄く深い内容で素晴らしかったです。
人の生き死にを真摯にきめ細やかに描いています。
「フェイクニュース」 野木亜紀子さんの作品。
この二本が最近印象に残っています。
心に深く突き刺さるドラマの事を、大事にしていただきたいと思います。

幼稚園に行くのが嫌で、TVドラマなど母と一緒に良く見ていました。
俳優さんの名前も良く覚えていました。
高校時代は演劇部に所属して、演出をやっていました。
数学の先生の家に行った時に、別役実清水邦夫と言う劇作家が面白いと言われて、別役実さんの「赤い鳥の居る風景」文庫を読んで吃驚しました。
別役実さんの本を色々読み始めると、劇作家サミュエル・ベケットから影響を受けたと言う事が書いてあって、ベケットに興味が移って行きました。
「ゴドーを待ちながら」
ベケットは生き生きした言葉を書いている人ですが、不条理、つじつまの合わない世界が難解なものとして受け取られていますが、私としては難しくはないですという訳になっています。
大学院の時にアイルランドに留学しました。
司馬遼太郎さんの通訳とガイドを担当、「街道をゆく」のアイルランド紀行で登場します。
ベケットはTVドラマも作っています。(映画、ラジオドラマも作っていたが)
根底にはTVってなんだろう、という問いは常にあります、ベケットも常にそういう事を考えながら作っていたと思います。
ベケット研究とTVドラマについて批評していることは、密接につながっていると思います。

ブラウン管のTVを70台ぐらい集めて、古いドラマをブラウン管のTVで見せるという事をやりました。
相当な数のドラマを取り上げました。
主観的なドラマ史として展示し、好評でした。
去年TV文化論講義という授業を担当して、私が素晴らしいと思うドラマを見せながら解説するという事をやりました。
学生も古いドラマを凄く面白いという事を知ってくれてやって良かったと思います。
好きな人は沢山いますが、宮藤官九郎さん、坂元 裕二さん、古沢良太さん、野木亜紀子さん、大ベテランでは山田太一さん、向田邦子さん、大石静さん等が好きですね。
宮藤官九郎さんについては論文も書いています。
「いだてん〜東京オリムピック噺〜」は宮藤官九郎さんが新たにチャレンジする大河ドラマで、新しい大河の歴史が作られていくのかなあと楽しみにしています。

2007年に学部編成があり、同僚とTVドラマの事をやろうとして、この授業は10年ちょっとになります。
ツイッターなどで批評あったりして、緩やかな繋がりが出来てきています。
作る側の励ましにもなっていると思います。
視聴率で直ぐ語られるが、それに踊らされないで良いドラマを良いと言える人を育てて行きたいと思っています。













2018年11月12日月曜日

的場文男(騎手)             ・【"2020"に託すもの】駆けつづける62歳

的場文男(騎手)     ・【"2020"に託すもの】駆けつづける62歳
~競馬最多勝騎手・的場文男さん~
今年の夏、日本の競馬史に残る大記録が誕生しました。
大井騎手会所属の的場文男騎手が、都道府県や地方公共団体などが主催する、地方競馬で通算7152勝という新記録を達成したのでした。
的場騎手は62歳、いまなおトップジョッキーとして駆け続けています。

1956年9月7日生まれ、福岡県出身。
騎手を目指して中学3年の時に東京に転校して、大井競馬場の小暮嘉久の厩舎に入って、中学卒業した10月には栃木県那須塩原市の地方競馬教養センターに入って騎手として研鑽する。
1973年10月16日、17歳で騎手デビュー、11月には初勝利、以来昨年までには通算3万9981回騎乗して7084勝、リーディングジョッキーで地方競馬全国リーディングを2回、大井競馬で21回取っている。
今年の8月大井競馬の第5レースで勝って佐々木 竹見が保持していた地方競馬通算勝利数を更新する7152勝を上げる。
騎手歴45年。
今4万500回位です、負けも沢山あります。
あの時はスタートした時からお客さんの声援がありました。
お客さんには感謝の一言です。
馬はシルヴェーヌでした、馬が可愛くてしょうがないです。

生まれた時から馬が家にいましたので、馬に乗ったのは小学生の時でした。
幼い頃から騎手になろうと言う夢はありました。
大井競馬場に西田さんがいて、父に息子を東京に来るように言ったそうです。
デビュー戦はあわててしまって人を邪魔してしまい、2日間の出場停止になってしまいました。
最初は新人の中でも勝てる方ではなかった。
朝の調教で人よりも頑張れば、乗る機会が増えると思って頑張りました。
4年目に勝てない時には佐賀に帰ろうかなと思いましたが、とことん東京で頑張れと兄に言われて7,8年は家に帰らなかったです。
6年目ぐらいに少しずつ勝てるようにはなってきました。
絶対一人前の騎手になるんだと思っていました。
登りだしたらぐっと昇るもんですね。
朝3時位には人より早く起きて調教などやっていました。
1997年6月の帝王賞のレースで12頭で疾走、一番人気が武豊さん騎乗のバトルライン、二番人気が岡部幸雄さんのシンコウウインディ、三番人気が石崎隆之さんのアブクマポーロ、私はコンサートボーイで4番人気でした。
最初は遅い馬ですが、あの時は先頭でした。
武豊さんマークだと思ってずーっと行きました。
3頭のマッチレースとなり、コンサートボーイが1位、アブクマポーロが2位となり地方競馬が1,2と言う事でお客さんが物凄く喜びました。

或る時前の馬にくっつきすぎてひっくり返って、馬が僕の顎に当たって、ハンマーで殴られたような感じでした。
顎を複雑骨折、歯は14,5本駄目歯ぐきから持って行かれました。
肋骨は10数回折っていますが、馬が暴れて僕の背中を蹴っていって、内臓の脾臓と腎臓をやられました。(蹴られた瞬間、何か違うなあと思って意識がもうろうとしました。)
MRI検査で脾臓と腎臓が真っ二つになっていて、血が出血して2000cc越えたら命の危険があると言われて、すでに2000ccぐらいでした、手術室に入った時には意識が無かったです。
5時間の手術でした。
集中治療室に3日間いて、その後20日間以上飲み物食べ物は取れませんでした。
1カ月以上血の小便でした。
50日目ぐらいに妻とハワイに行き医者には止められたが、ゴルフをしました。
2カ月後には復帰しました。(医者も驚いていました。)
怖くなったらやめた方がいいなと思っていて、怖くはないです。
鞭で叱っても言う事を聞く馬もいれば余計に暴れる馬がいて、色んな馬がいます。
馬の気性を見抜くことが必要ですが、馬に合った朝の調教が大事です。

体が硬くなったので体力変化をカバーするために踊るような感じの「的場ダンス」をやっています。
トレーニング、ストレッチなど出来る限りの努力はしています。
東京ダービーで2位は10回有りますが、優勝は無いですので後1,2回のチャンスで勝てないともうチャンスが無いと思っています。
目的があると人間は力以上ものが出る様な気がします。
7152勝の目標に向かって本当に楽しかった人生でした。
目的は無くなったが、お客様の声援があるから精一杯乗って、ファンを喜ばしたいと思います。














2018年11月11日日曜日

中野浩一(元競輪選手)         ・【特選 スポーツ名場面の裏側で】世界自転車選手権10連覇

中野浩一(元競輪選手)・【特選 スポーツ名場面の裏側で】世界自転車選手権10連覇
63歳、福岡県久留米市出身 福岡県立八女工業高等学校では陸上選手で高校総体400mリレーの優勝メンバーでした。
高校卒業後競輪選手になって二十歳のデビュー戦から 18連勝など一気に競輪界のスターになりました。
世界自転車選手権スプリントでは1977~1986年まで大会10連覇を達成し、日本人が想像する以上の世界のビックスターとなりました。
37歳で引退するまで歴代最多6回の競輪賞金王となって、ミスター競輪と言われ、競輪選手出身者で初の紫綬褒章を受賞しました。
2020年の東京オリンピックの開催が決まった直後に伺った2013年のアンコール放送です。

東京オリンピックの開催発表の晩は起きて見ていました。
日本自転車競技連盟(副会長)としては選手を育てるのが非常に難しいので、オリンピックに向けて自転車競技全種目フルエントリー出来るような形にしたいし、メダルを取ることが一番の命題になります。
日本のレベルも上がってきています。
スプリント種目、2人で戦う競技。
2人で同時にスタートして3周回って先にゴールした方が勝ちとなる。
残り200mまでは何処を走ってもかまわないが、最期の200mは真っ直ぐ走らなくてはいけない。
準々決勝ぐらいから3本の試合となる。
1977年20歳でデビューした翌年、ベネズエラの大会で決勝は菅田順和選手との日本人選手同士の対戦となった。
結果勝つことができる。
それまで日本人は銅メダルが最高だったが、金、銀を取ることが出来た。

1978年、1979年に西ドイツ・ミュンヘン大会、オランダ・アムステルダム大会では決勝ではいずれもディーター・ベルクマン(西ドイツ)と対戦。
共に勝って3連覇を達成する。
この時の国内賞金獲得額は8000万~9000万円余り、長者番付けの常連となる。
1980年フランス・ブザンソン大会 準決勝では、アマチュア時代、メキシコ・ミュンヘンの両五輪大会においてスプリント連覇、世界自転車選手権アマチュア部門のスプリントを7回制し、「スプリントの神様」と称されたダニエル・モレロン(フランス)と対戦することになった。(事実上の決勝と言われた。)
怖さみたいなものは感じなくて、2本とも逃げ切りました。
決勝でも尾崎雅彦を破り、4連覇を達成した。
4年連続賞金獲得王になり、賞金獲得額は競輪史上初めて1億円を越える。
1981年 チェコスロバキア・ブルノ大会。準決勝で、後に名ロードレース・スプリンターとして名を馳せることになる、ギド・ボンテンピ(イタリア)に圧勝。
ゴードン・シングルトン(カナダ)と決勝で対決して勝って5連覇達成する。
その一カ月後の日本国内のレースで最期に僅差で負ける。

1982年 イギリス・レスター大会 ゴードン・シングルトン(カナダ)と2年連続の決勝。
この年、競輪で落車が相次いで骨折をしたりしていた。
1本目、シングルトンと接触して双方転倒、こちらが妨害したと言うことだったがノーカウントの判定となった。
1本目はシングルトンが取り、2本目は私がかわす際にシングルトンは右ひじを出してきたが、私はこれにひっかからず、今度はシングルトンだけが転倒した。
この判定にカナダ側が抗議に出るも却下され、そればかりかシングルトンはこの際に右ひじを骨折。3本目の競走続行不可能となり棄権。薄氷を踏む思いで同種目6連覇を達成した。
1983年 スイスチューリッヒ大会。 決勝はヤーベ・カール(フランス)と対戦、勝って史上初の連覇。46年ぶりに連覇記録を更新した。
1984年 スペイン・バルセロナ大会。 決勝はオッタヴィオ・ダッツァン(イタリア)と対戦、破って8連覇達成。
1985年 イタリア・バッサノ大会。 決勝では、松枝義幸選手をストレートで下して9連覇を達成した。

1986年 5月下旬、久留米競輪場で行っていた、高松宮杯競輪直前の練習中に転倒し、肋骨などを骨折する大怪我をして世界自転車選手権出場自体も危ぶまれた。
驚異的な回復力を見せたが練習の際に又転倒、同じ箇所を痛めてしまい、骨折が完治しないままコロラドスプリングスの世界選手権に出場することになった。
もう開き直るしかないと思った。
アメリカで勝てば競輪の評価も上がると思ったので是非勝ちたいと思いました。
アメリカ・コロラドスプリングス。決勝では、同じ日本の俵信之選手を下した松井英幸選手との対戦となり、ついに10連覇達成。
日本が金、銀、銅を獲得。
中曽根康弘首相より「内閣総理大臣顕彰」が授与されることになった。

小さいころは走るのは早かったです。
スポーツで身を立てたいと昔から思っていたので、ゴルフでもやりたいと言ったら、お金が掛かるので自転車でも乗ってみたらと言われて、乗ってタイムなどを測ったら早いと周りから言われてそのまま自転車に乗ることになりました。
伊豆の修善寺競輪学校に1年間入りました。
19歳でのデビュー戦から18連勝負けないで九州のハヤブサと呼ばれるようになる。
競輪選手は2700~2800人います。(当時は4400人位いました。)
選手のランクがあり、S級S班は9人しかいません。
毎年格付けの入れ替えがあります。
練習は毎日、最低100km走ります。
若い時はそれを3回やっていました。
私は年間を通して変わらないコンディションを保ちたいと思っています。
国際大会は傾斜が45度ぐらいありますが、国内だと33度位です。
ブレーキが無いので返って安全です。(急ブレーキなどが無い)
レース自身が私を中心に動く所があるのでかえって楽なところがあります。
精神的なものは若い時から知りあいになれていた人とかもあり、最終的には練習の裏付けです。
イギリスではコマーシャルに自転車競技の選手が物凄く多く出ています。
日本のジュニアの層をもっと広げたいと思っています。
底辺を広げればもっともっと強い選手が出てくる可能性が大きくなると思っています。

















2018年11月10日土曜日

今成知美(イッキ飲み防止連絡協議会 事務局長)・若者よ!一気飲み・アルハラで命を落とさないで

今成知美(イッキ飲み防止連絡協議会 事務局長)・若者よ!一気飲み・アルハラで命を落とさないで
アルハラ→アルコールハラスメント
イッキ飲み防止連絡協議会は飲酒事故で大学生の子供を亡くした遺族らが 1992年に活動を始めました。
以来1/4世紀に渡ってポスター、チラシなど様々なグッズを配ってキャンペーン行ってi
ます。
これにはビールや焼酎など酒類業界が協賛、全国大学生活協同組合連合会も協力しています。
それでも学園祭や、ゼミ、バイト先の飲み会での飲酒事故、こういった場所で亡くなる若者は減っていないと言います。
学生だけでなく職場の飲み会、社員寮での行事でも事故は起きています。
遺族が裁判を起こし、幹事や参加者が責任を問われると言う例も相次いでいます。
お酒を短時間に大量に飲むことの危険性や、泥酔した人を放置することによって、引き起こされた飲酒事故の事例から、私達はなにを学ぶべきか、伺います。

毎年若者が亡くなっています。
一気飲みをさせる、これは氷山の一角のデータだと思っています。
1983年から2018年までの間に、156名が亡くなっています。
実際はもっと有ると思っています。
こんな事故を二度と起こしたくないと、東大阪の父親と私達と連絡しあってキャンペーンを始めました。
6大学合同のスキーの合宿があり、ウイスキーの一気飲みをさせられて東大阪の父親の息子の大学生は亡くなりました。
1991年に息子さんが亡くなられて、その翌年にイッキ飲み防止連絡協議会をたちあげ、実態を調査するために事例を寄せてもらいました。
大学向けのキャンペーンをスタートしました。

酔うというのは脳がマヒすると言う事で、先ずは「ほろ酔い」、次に「酩酊」で脳の内部まで麻痺が進んで、足がふらつく、ろれつが回らない、階段から落ちたりして事故が起きやすい。
次が「泥酔」でフラフラとして歩けない、脳の命をつかさどる部分にマヒが進み始めている状態、吐いたものを喉に詰まらせてしまったりして、窒息死が多い、寝ていて低体温になり凍死してしまうようなこともある。
先ずは酒類業界、全国大学生活協同組合連合会、ご遺族と私達のような予防活動をしている団体で一緒にやろうと言う形になりました。
でもまだまだ事故が起きていました。
1985年とんねるずの「一気」という歌がはやって、深夜のTV番組などで一気飲みコーナーなどががんがん飲んだりしてひどい状態でした。
ブームが去ったのかなと思ったが、一気飲みは浸透していきました。
アルコールハラスメント、人権侵害であると言う事で2000年からはアルコールハラスメントに関する注意喚起をしました。
2011年に大震災があり、コンパなどが自粛の時代で、1年後 2012年に又救急搬送が沢山あり、何件も事故が起きました。

1990年代、首都圏の旅行サークルの合宿で専修大学の1年生が参加して焼酎の一気飲みをさせられて亡くなっています。
同年早稲田大学の寮でウオッカの一気飲みで亡くなっています。
1996年に千葉大学新入生の勧誘コンパで焼酎の一気飲みをさせられて亡くなっています。
同年大同工業大学、ユースホステルサークルで日本酒と焼酎のブレンドの一気飲みで亡くなっています。
他に熊本大学医学部ボート部で1999年に焼酎の早飲み競争で、2008年に神戸学院大学ユースホステルサークルの幹部交替で焼酎の4リットルの回し飲みで亡くなっている。
アルコール度の強い酒の一気飲みで亡くなっている。
そのほかの大学でも飲み会で多く亡くなっています。
企業の寮でも同様な事例があります。

熊本大学医学部ではOBのドクターがいるような状況で新入生の歓迎コンパが行われた。
居酒屋で先輩が携帯、財布など預かる。(先輩から言うと酔って無くしたりするといけないので親切でやったということだが、新入生にとっては逃げられない状況 )
酔い潰れた子を運ぶ部屋を用意していた。
新入生は焼酎の早飲み競争をやらされ(新入生がたくさん飲まされるような仕組みで)1時間ほどの間に25度焼酎を8合以上飲まされた。
なかには病院へという指示もあったが、潰れ部屋の方に連れて行ってしまう。
潰れ部屋で巡回して見周りはしていたらしい。
病院に連れて行こうと言う頭をよぎった学生もいたが、また躊躇してしまった。
急性アルコール中毒による、喉に吐いたものを詰まらせたということで亡くなってしまった。
生きている側の学生は口をつぐんでしまう。
裁判に訴えるということになる。
嫌疑不十分ということになって不起訴になる。
民事訴訟で1審で負けてしまい控訴して、安全考慮義務違反と言うところをとって責任を問うと言うことになる。
最高裁まで行って勝訴ということで決着はついて行っています。
大きな一歩でした。

親御さんと活動をしてきましたが、胸がつぶれる思いです。
「なんで潰れ部屋に運んだのか、もし置いていってくれたら店の人が救急車を呼んでくれたと思う。」と言っていました。
助けられない場所に入れられてしまったと嘆いています。
体育系もあるが美術系などもあります。
集団の力は怖くて、先輩後輩、集団心理などで、役割をやらされていたと言うんです。
退学処分になったり、部の廃部、自責を背負っていかなくてはならない。
活動を開始した当時は、大学側も積極的に動いてくれない状況だった。
神戸大学では部活動のリーダーの研修がありました。
医師、大学事務当局から飲酒事故への注意がありました。
今は未成年には飲ませないと言う事で、1年生には飲ませないと言う形が出来てきています。
大学だけでは手が届かないないところもあります。
お断りグッツ等の展開もしています。
「かっこ悪くてくてもいいから逃げなさい」と言っています。
お酒だけがメインで沢山飲ませると言う様な設定があるところ、保険証を持って来いと言うようなこともありますので吃驚します。
潰すことが前提になっている様なところは怖いです。

絶対に酔い潰れた人を一人にさせない。(面倒をみる人がいない状態にはさせない。)
衣服を緩めて毛布等をかけて体温低下を防ぐ。
横向きにして自然に口の中の物を出るような体位を取る。
酔ってない人がちゃんと様子を見ていないといけない。
呼吸中枢が危なくなっている時には、一刻も早く救急車を呼ばなくてはいけない。
絶対に起こしてはいけないと言う気持ちで、このキャンペーンをやっています。




















2018年11月9日金曜日

五味太郎(絵本作家)           ・みんな、人生楽しもうぜ!(1)回目

五味太郎(絵本作家)           ・みんな、人生楽しもうぜ!(1)回目
1945年 東京生まれ、73歳、工業デザイナーを経て28歳で絵本作家としてデビューしました。
手掛けた絵本はおよそ400冊を越え、30年間読み継がれるロングセラーも数多くあります。

昔ポルシェに乗っていて、講演会などに飛ばしてきたが、絵本作家らしくないと言われたが、じゃあ絵本作家とはどういうイメージなのかと言いましたが、電車でとぼとぼ来るような感じだと言われましたが。
ラジオは好きです。
TVは出ると色々めんどくさくて嫌いです。
明け方まで仕事をするタイプなので、どうしても起きるのが昼近くになります。
絵を描いている時に、夜中微妙に筆の音とか紙の音とか耳触りになる時があり、色を塗る時などにはジャズなど音が流れるのがいいです。
言葉を考えるときは、音楽は鳴っていない方がいいなあと思います。
こんな感じを書きたいなあと思う時は直ぐ浮かびます。
纏める時にはあれっと思うようなことが必ずあります。
思い付きは大事にしています。(とんでも無い時に出てきます。)

40年というと、時代の価値観とか色んな意味で変わります。
自分の中に何かあるものをずーっと考えているタイプなので、社会的な問題を描いたものは一冊も無いですね。
手掛かりは日常的なもので、組み合せの中でこれいいとか、組み合わせを楽しんでいるんだと思います。
「絵本図録」を出版、厚さが2cm位。
企画があった時にめんどくさいという思いと、纏めるとまずいと思ったりしました。(全貌を見ない方がいいのではないかと)
全貌を見てしまって、描きにくいなあと思いました。
次に進んでいますが、この前よりも素直でないなあと思ったりします。
1973年 28歳のころ、絵本作家としてデビューしました。
工業デザインは実践的な感じがあって、今も興味がありますが、自分には向いていない部分がありました。
インテリアのデザインなどもやっていましたが、印刷は本を大量に作るので、作るそのものは個人の思いの方法のまま定着出来ていいなあと思いました。
本を出版するのが良いなあと思いました。
みんながチェックして編集会議をやって、読者はどういうふうなものをもとめているとか、工業デザイン的にやっている本もあります。
小説を作る時にそんなことを言っていたら、面白くもなんともない。

絵本も売ろうと思うとみんなが何を求めているか考えるが、僕から見ると工業デザインの作り方の悩み方と同じだと思いました。
絵本=子供の本というイメージがあるが、子供達に何を教えたいんですか、子供たちに何を導きたいのかと言われたが「無いんです」と言っていました。
私は絵で本を描きたいと思いました。
絵だからどこでも通用するんだと思います。
文字はどうしても方向が規定されたり、限定されてしまうが、絵は限定できない、観る人の問題となる。
気配、気分、温度とかは読み手の問題だと思う。
絵本を作っていることは楽しいです、好きなんだと思います。
のんびりダラッとしているのが下手なんです、本を描き終わって編集者に渡ると、やることがなくなるのでがっかりしてしまいます。
気が付いたらこんなに書いてきていました。
自分ではよさそうだなと思っても違ったり、本の反応は判らないです。
意見ではなく気分を伝えたい、体調を含んで気分を整えておく事にめちゃくちゃ努力していることはあります。













2018年11月8日木曜日

荒井伸也(元スーパーマーケット社長・作家) ・"社畜"から抜け出せ

荒井伸也(元スーパーマーケット社長・作家) ・"社畜"から抜け出せ
81歳、1960年大学を卒業して大手商社に入社した荒井さんは人事部で仕事をしていましたが、大きな組織の中で手ごたえが感じられませんでした。
燃えるような仕事ができないかという事で荒井さんが見つけたのは、当時赤字が続いていた子会社のスーパーマーケットでした。
自ら進んで手を挙げた荒井さんは出向し、従業員と対話を重ねながら赤字を克服、大手の食品スーパーマーケットに育て上げました。
親会社の商社からは再三戻るように声が掛かりましたが、これを断り、スーパーマーケットの社長を務めました。
荒井さんは小説も執筆し、「小説スーパーマーケット」は映画「スーパーの女」の原作にもなりました。
子会社での生き方にこだわり、赤字から脱却させた経営手腕とは、小説で訴えようとしたことはなにか、伺いました。

昭和35年(1960年)大手商社に入社しました。
大手商社に入ると海外に行けると思いました。(英語、フランス語が出来たので)
総務部、人事部で衝撃を受けて、そのまま10年間人事部にいました。
女子社員の教育は知的生産があるが、もっと仕事がしたいとうつうつとしていました。
何か面白い仕事がしたいと思いました。
「社畜」、サラリーマンが会社に飼われた家畜みたいになっちゃっているんです。
自分自身が社畜の様で、面白くなかったです、何のために生きているのかと思いました。
苦労してもいいから、面白いことをやりたいと思いました。
街中で、すぐそばの店を通り過ぎてわざわざ遠い店に行くお客達がいて、どうしてなのかと問いかけると、生鮮食品の鮮度がいいということでした。
その店を見に行き比較しました。
鮮度の違いが明確に判りました。
自分で試してみたくなりました。
会社に願い出て、子会社に行くことを決意しました。
当時は子会社に行くと言うことは、サラリーマンのなれのはてで、小会社に行ったらもうおしまいという意味でしたので、子会社に行くことをなんとか避けたいと言う時代でした。
親友たちは止めてくれましたが、結局行きました。

商社がスーパーに進出した第一号なんですが、黒字にならなくて 7年間放っておかれました。
管理職が自分の時代に赤字を出したくないので放っておかれていた。
仕事ぶりが全く駄目でした。
意志を伝えることができない、ちゃんと聞いてくれない所でした。
バックが大商社なので潰れないと、15店舗までの拡大がみとめられていたなど、危機感が無かった。
商品の鮮度も全然駄目だった。
どんないいものを出しても2,3日たてばどんどん鮮度が落ちて来る。
色が悪くなったり、日付が古くなるとパックをやりなおして、日付を新しくしていたので、それを全部なくそうと提案しました。
鮮度を保つための技術、冷たい空気の流れを作る事が重要だが、使っていたケース自体に問題があり、ケースを入れ替えることまでやって何とかなりました。
ケースの性能、陳列の仕方、出し方が重要。
商品の流れをつくる難しさがある。
ベテランはなかなか聞いてくれないので、従業員の若い連中と仲良くなるようにということで、毎晩飲んで話をして仲良くなりまして、段々話を聞いてくれるようになりました。

技術的問題と人間的問題の両方を並行して解決しないと良くならないので、かなり気長にやりました。
関西のスーパーマーケットに行って見て、鮮度が良くて、なんとかコンタクトを取って親切に教えてもらいました。
数年間経ってから売り場が良くなってきました。
モニターの方から色々教えてもらって、問題点を克服してゆき良くなってきました。
黒字になったのは4,5年でした。
スーパーマーケットの難しさと面白さを体験しました。
親会社としては良くやったと言う事で戻って欲しいと言うことで、厚遇を示してきました。
現場の方が面白いと思っていたので、抵抗しましたが、ついに戻される方向に行きましたが、親会社を辞めてスーパーマーケットに飛び込んでいきました。

安土敏というペンネームで小説を書きました。
「小説スーパーマーケット」
日々の人間関係の体験が色濃く反映されている。
中学の終わりごろから高等学校ではうんと書きたいと思った。
現場に行くと現場の数だけ書ける。
一番下の人の情報を中間、上に出来るだけいい形、理解できるよう形に持ちあげると言うことがすごく重要だと思っています。
映画「スーパーの女」の原作にもなる。(伊丹十三による脚本・監督作品。)
私はスーパーマーケットに出会えてよかったなあと思います。
お客様が求めているのは、例えばスーパーマーケットに求めるのは今晩のおかずだとか、明日の弁当の事とか、それが何なのかと一生懸命考えればおのずと答えは出て来ると思います。
目の前の問題を一つずつ解決していけばそれでいいんじゃないかと思います。
現場の問題を変えようと思ったら現場から出発するしかない、だから現場が面白いし現場を経験することが大切だと思う。







































2018年11月7日水曜日

根本一徹(僧侶・いのちに向き合う宗教者の会代表)・もう誰も死なせたくない

根本一徹(僧侶・いのちに向き合う宗教者の会代表) ・もう誰も死なせたくない
昭和47年東京生まれ、24歳の時にバイクを運転していて事故に遭い生死の境をさまよう中で、生きる事の意義を考えるようになりました。
退院後は仏門に入ることを決意し、厳しい修行を重ねました。
現在は岐阜県関市の大禅寺の住職を務めながら、自殺防止の活動に取り組み全国から訪れる人々の話に耳を傾け、寄り添い続けています。

14年ほど前から始めています。
いつでも電話をかけて下さいと全国に発信していましたが、活動をやり過ぎて身体を壊してしまい、救いたい人も救えなくなってしまうので、面会の相談を優先するようにしました。
電話、メールとかで人生を左右してしまっていいのかと、良いと思ったら電話相談、メール相談があるのでそっちに行ってもらって、自分の転機としたいと思ったら来てほしいと、そうしたら自分も命がけで取り組むよと言うことにして数は少なくなりました。
全国各地から、10~80代まで男女同じ様な割合でいらっしゃるようになりました。
緊急状態の時には行って話を聞いたりしています。
電話、メールだと相談して解決した後又戻ってしまうとか、定期的に電話しないと不安を感じたりして依存みたいになってしまうような時があります。
多い時は週に5,6人で、通常は2~3人ということでやっています。
生き方とか人生を見つめてみたり、魂をどう磨いていくかとか一緒に悩んでいます。

来られる方の悩みは様々ですが、誰にも苦しい気持ちを伝えるのが何処にもないと言うんですね。
話せる相手仲間がいればいいんですが、放っておいて手がつけられなくなるような状態になって、周りが動き出すと言う様ではもう遅いので、その手前で早めに気が付いて自分で解決できるような、仲間とかときっかけができればいいなあと思って、そういう活動をしたいと思っています。
とことん話を聞くと言うのが気を付けているところです。(本当の理解)
悩んでいることが判って来るとストーリーが判って来る。
自殺を止めるのには何かできないかなと思って、相談の現場でも色々試したり、みんなで命を見つめる時間にしたいと思って、講座等もやっています。
参加する方に紙に大事なもの(家族、夢など)を書いていただいて、それを一つづ捨てて行く。(真剣に悩みます)
最期の一番大事な一枚も捨てて、死というものは一番大事なものをなくすことなんだよと説明する。
対人関係で悩んでいる方が多い。
心に余裕がなくなって、やらなければいけないと思う事が増えて行って、減らすと言う事が出来なくて、本当に大事なものは何なんだろうと、そこを掴まないと流されてしまう。

大事なことを12枚書いてもらって、一枚ずつなくして行き、そうすると大事なものの優先順位が決まってきて、最期に残るものが残って、色んなことに意識が行っていたなということに気付くと、生き方が変わってくる、人生の羅針盤になって行くのではないかと思う。
最期に二人一組になって20分間この世に言い残したものを言ってもらうが、そうすると感謝の気持ちが出て来て、涙して去っていくんですが、また生まれ変わった時には羅針盤があるので、もう一回生きなおそうと、生まれ変わった友達がそこで出来上がって、命を見つめる場が出来て来ると、なんかあった時に何でも話せる仲間ができるのではないかと思って、やってる訳です。
もし自分が死ぬとどうなるかと言う事を実感してもらうのが大事です。
自分が死ぬとやりたいことも出来なくなり、大事にしている人とも会えなくなる、失いたくないものは何だろうとそこで気が付くと、失いたくないものに時間なり思いなり、自分の生き方を変えて行く上でヒントになるのではないかと思い、模擬葬儀で一回死んでもらうと言う事で気付きがあったり、いざという時の行動にブレがなくなるのではないかと思っています。
模擬葬儀で最期に死ぬ前に一言残して、私がお経をあげて葬儀を始める。
「こんな自分だったけれど皆さんありがとう」と感謝の気持ちを言うと、孤独ではないと気付くこともあります。
今まで苦しんでいたことが小さな事に見えて来ると言うか、昔の事に句読点が打てると言うようなことが起こりやすい。

仏教が好きだった訳ではなくて座禅には興味がありました。
明け方、私のバイクの横っ腹に24歳の女性が突っ込んできて、過失割合が私が0.5で相手が99.5で相手が悪いと言うようなことでした。
私は6時間意識が無くて3か月間入院という事故でした。
膝が曲がらなくなってしまって、ここで終わったら自分の人生は一体何だったろうかと感じるようになりました。
価値観が変わって全てがむなしいようになり、自分を見つめ直したいと思うようになりました。
僧侶募集の記事を見付けて、志望動機をレポート用紙に20枚書いて行って面接に行き受かりました。
厳しい修行をしました。
母の弟が離婚直後に自殺しました。(地域でも凄く人望のあるリーダー格の人でした)
長男が自殺したので動転して、父親が階段から落ちて頭を打って、11年間意識が戻りませんでした。
人生のはかなさ、虚しさ、人間の命ははかないと思ったりして、ショックを受けました。
中学校の同級生で優しくて頭のいい友人が、22歳で自殺しました。
高校時代にバンドをやっていた友人が28歳で骨と皮だけのような状態で自殺しました。
3人の自殺が大きくて、色々悩みました。

どんなに悩んでも自殺だけは避けてほしいと思いました。
生きたいと言うエネルギーのベクトルと、死にたいと思うベクトルは表裏一体で同じなんだと、皆さんおしゃっていて、幸せに生きたいと言っている人間に、死なないと誘っても全然訳がわからない訳で、死ぬことが目的でその先には楽があると言う事がしみ込んでしまっていて、死ぬことだけにプランを作ることだけに集中していて、そこに死ぬなといっても何言ってんのいう感じで、生きたいと死にたいは同じベクトルだと言うんですね。
自殺しようと思って目的地に行ったが大雨で2日間待っていて、切って出血多量だったが、旅館の人が連絡して助かった、と言う事例もあります。
何かのきっかけで死をまぬがれることもある。
きっかけ作りを提供していきたいと思っています。
「いのちの深呼吸」(自殺防止活動に取り組む僧侶・根本一徹さんの日常を追ったドキュメンタリー。 根本さんの活動に魅了されたアメリカ人ラナ・ウィルソン監督が、3年半にわたり日本で撮影を行った。)




























































2018年11月6日火曜日

佐相憲一(詩人・編集者)         ・『沖縄詩歌集』 刊行と詩人の歩み

佐相憲一(詩人・編集者)         ・『沖縄詩歌集』 刊行と詩人の歩み
今年の6月『沖縄詩歌集~琉球・奄美の風~』が出版されました。
沖縄を含めた全国の詩人、歌人、俳人200人余りの作品を集めたアンソロジーです。
佐相憲一さんはこの『沖縄詩歌集』の4人の編者の一人として、現役の詩人たちの参加を呼び掛け自らも寄稿しています。
佐相憲一さんは横浜生まれの50歳、17歳のころから詩を書き始め大学を卒業してからは、横浜、東京、京都、大阪で、料理店のウエーター、学習塾の講師、高層ビルの窓ガラスの清掃など様々な職業につき、その経験が自分の詩の創作に生きているとおっしゃいます。
これまでに『共感』、『永遠の渡来人』、など4冊の詩集をだしました。
7月には初めての小説、『痛みの音階、癒しの色あい』を出しています。

『沖縄詩歌集~琉球・奄美の風~』 320ページ 詩人歌人は200人を越えました。
没故詩人も含まれていますが。
琉球古図は入っている。
沖縄はいろいろ注目されているが、沖縄が占めているものは何なのか、それを現地の沖縄の方々の気持ちに寄りそってみんなが理解しているかというと、なかなかそうは言い難い状況にあると思う。
戦争、平和、琉球文化、歴史的重み、基地問題などで注目されている現在、詩歌の道を通じて、沖縄、奄美等の周辺をもっと知ってもらおうと言う事で刊行されました。
詩歌集を製作する過程で沖縄の詩人さんとの交流が強まったんじゃないかと思います。
沖縄の二つの新聞がこの詩歌集を取り上げて下さいまして大きな反響がありました。
初版発行日が2018年6月23日、沖縄慰霊の日でもあります。
公募趣意書で呼びかけました。
私は現代詩の分野で今活躍している、現役の詩人さんたちに呼びかけて参加してもらいました。

1968年(昭和43年)に横浜で生まれて今年50歳なりました。
家庭環境が複雑だったこともあり、一人で野原、森、海などで親しんでいました。
小さい頃珍しい病気にかかり、30分後遅れていたら死んでいたと医師から言われました。
心臓が止まる恐怖というのが感覚としてあって、これが私のその後の人間観、平和への考えに繋がりました。
世界中のどの国の子供も大人も命を尊重されなければならない、これが私が体で感じた原点となりました。
引っ込み思案でいじめっ子にいじめられました。
小学校3,4,5年の時に担任になったおおわともあき?先生との出会いで大きな転換点がありました。
国語の時間に朗読したら凄く褒めてくれて、作文もとてもいいと言って下さって、私の得意なところをほめてくれて、もっと積極的になるように励ましてくれました。
学級新聞を手掛けるようになり、小説もどきを書いたらみんなに受けて連載になり、これが文芸作品的なものを初めて書いた機会でした。

中学校時代でも学校でも家でも辛いことがありましたが、高校では孤独感が深刻になりました。
17歳のころに死んでしまいたいような気分になっていました。
その時に救ってくれたのがまた文学でした。
ヘルマン・ヘッセの詩と小説に出会ってから、世界文学、日本文学に目覚めて夢中になって、死にたいと言う事も遠のいた様な感じになりました。
詩を書いてみたいと思って書き始めたのが17歳でした。
文学の不思議な魅力に取りつかれました。
早稲田大学の政治経済学部に進みました。
国際関係などを学びましたが、お金を稼ぐために働いて様々な現場を体験して、人と交流する機会があって、生の現実に触れて影響を受けたことが大学時代一番大きかったと思います。
社会人になったときも色々な仕事をしました。
料理店のウエーターとか、工事現場のガードマン、建築現場の荷上げ仕事、学習塾の講師、家庭教師、高層ビルの窓ガラスふきなど色々しました。
住み家も東京、京都、大阪など色々な所に住みました。
ヨーロッパも放浪しました。
様々な人たちと出会う事が出来て良かったと思います。
「この地球自体が詩を書いている」、これを実感しました。
この視点を持った時に初めて色々点々とした人生の全てが繋がりました、全て無駄なことは無くて、繋がっていて受けとめられていて、一つ一つの心臓が地球の中で、地球の詩の中で息づいているんだと感じて励まされました。

20代も人には見せずに詩を書いていましたが、20代の後半に転機が訪れました。
世に出さないとだめだと思って、2冊詩集にまとめて出版しました。
その後投稿するようになり、詩を書くことに自信を持ちまして、第3集を出しました。
『愛、ゴマフアザラ詩』という題名で、小熊秀雄賞を頂きました。
今まで9冊出しました。

「波止場」
夜の港に来ています  しぶきが腹の底に響きます
鳩の公園から霧の中の汽笛まで 夢ばかりみてきました
もしかすると〈希望〉って 前を向いている時の後ろ姿なのかもしれません
昼間の喧騒も闇の中でしずめられ高層ビルや百円ショップや携帯メール
もまれて、もがいて、流されて、ぶつかって
そんな中でも今日、どこかで権利を認められたひとがいて今日、
どこかで結ばれたひとたちがいて 海はつながっています
心の波打ち際から 今夜各地のひとたちの後ろ姿へ この詩を贈ります
ラッシュアワーの駅で聞く人身事故を ダイヤの乱れと苛立つ社会で
夢をばかにしないで生きるひとびとの 人生の波音を わたしは大切にしたいのです

読み手側の意義 テーマについての論文を読むのではなくて、詩の形 文学作品の形で色んな人がいろんな角度で深めているので、それが一堂に会したアンソロジーを読むことで
そのテーマに関心のある方が新鮮にその問題をより掴むと言う事で還元されます。
書き手側、交流の無い詩人と自分の作品が同じテーマで、違う書き方で並んでいると創作意欲にプラスになる。
詩、文学がこの世に存在したお陰で命の根底の処から救われた人間が一人(私ですが)いると言う事を強調したい。
文学を大切にしないあり方は心の問題を疎かにすると言う事で、それは不幸なことだと思います。
詩の心で生きると言うことは、こういう悲惨な今だからこそ大切なんじゃないかと思います。
痛み(心の)というものは人から人へ伝わって共感するんです。
心のキャッチボールが瞬時にできる、それが詩や小説などの文学の魅力だと思います。
子供のころからマイナスモード全開の人生ということで、生きるとか、死ぬとか根源的なところに敏感でした。
もうこの世に生きる希望が無いと言う人が、詩を書いたり読んだりすることで、心の底の方を癒されて新しい自分へと再生して行く、そのお手伝い役の処になぜか私がいると言う事が多くなってきています。
8年前に今の妻に出会って3年前に結婚しました。
愛に関する詩も多くなってきました。
初めて小説文庫を刊行しました。 『痛みの音階、癒しの色あい』
詩の心で小説を書く、これが私の道だと感じました。
『もり』 心の森を総合的にテーマにした詩集です。
「光合成」























































2018年11月5日月曜日

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)    ・【近代日本150年 明治の群像】高橋是清

本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・【近代日本150年 明治の群像】高橋是清
講談師 神田蘭
1854年9月19日(嘉永7年閏7月27日)生まれ、1936年2月26日 81歳没。
幕府御用絵師・川村庄右衛門(47歳)ときん(16歳)の子として、江戸芝中門前町(現在の東京都港区芝大門)に生まれ、是清は生後まもなく仙台藩の足軽高橋覚治の養子になる。
講談による高橋是清の紹介。
1854年9月19日(嘉永7年閏7月27日)生まれる。
幕府御用絵師・川村庄右衛門(47歳)ときん(16歳)の子として、江戸芝中門前町(現在の東京都港区芝大門)に生まれ、是清は生後まもなく仙台藩の足軽高橋覚治の養子になる。
藩の命令でアメリカに留学、帰国後日銀総裁、大蔵大臣、商工大臣、総理大臣を歴任。
留学生としてアメリカに渡った時に、ホストファミリーに騙されて奴隷契約書にサインしてしまう、奴隷としての生活を強いられる。
ここで英会話を習得、奴隷から抜けだして、帰国した。
すでに明治新政府が出来ていて、仙台藩は無くなっていた。
しかし芸者遊びに明け暮れ放蕩三昧。
初代文部大臣森有礼によって農商務省に迎えられる。
特許法を完成させ、特許局長に昇進。
友人からペルーで銀鉱事業で金儲けができると紹介されると、鉱山の経営者になる為、特許局長を辞め全財産をつぎ込み、ペルーへと向かう。
すでに鉱山は廃山と化していた。
帰国して日銀に務めることになる。
日露戦争では見事なまでの資金調達をして、経済から日本を勝利に導く。
「己の運を信じ楽観的に物事を見る、そこから開かれる道がある。
そして私は運のいい男だった。」と述べている。

10歳で横浜でヘボン夫妻(医学者であり宣教師 後明治学院大学を創設する)の元で英語を学ぶ。
酒が大好きで渡航の船の中でべろんべろんになったと言う。(13歳)
酷い目に会っても利用していこうと言うところが凄い。
14歳で帰国、森有礼の部下になる。
しかし、酒を飲んだり遊郭に出入りしたり、放蕩する。
16歳で佐賀県の唐津に行って、唐津藩の英語教授もする。(芸者に諭されて目が覚めて唐津に行ったと言う。)
彼の教え子になったのが東京駅などを作った辰野金吾
18歳で東京に戻り、文部省に入ったりするが、日日新聞の新聞社に英字新聞の翻訳を掲載することもする。
現在の開成高校の初代校長となるが、23歳の時だった。
教え子には俳人の正岡子規やバルチック艦隊を撃滅した海軍中将・秋山真之がいる。
人に頼まれると断れないたちだったようだ。
乳牛事業に出資して失敗、銀相場詐欺事件に会い失敗とか懲りない人だった。(24歳)
27歳で農商務省の外局として設置された特許局の初代局長に就任し、日本の特許制度を整えた。

1887年(明治20年)33歳の時には商標条例、特許条例を起案して通過させ、発布して非常に特許についての功績があった。
1889年(明治22年)農商務省を辞職、全財産をつぎ込んでペルーに行く。
掘りつくされた銀山だった。
帰国するが、1万5000円(現在の約1億5000万円)の借金をしていて、その後なんとか返す。
ペルーの話を持ち込んだ人が日銀の川田総裁を紹介、日銀に入ることになる。
現在の日銀の建物を建てる責任者になる。(初仕事)
建物の設計者が彼の教え子だった辰野金吾。
明治26年(1893年)39歳の時に日本銀行支部支店として下関に行く。
翌年日清戦争、下関で条約締結。
横浜正金銀行の支配人になる。(経済の仕組みを徹底的に勉強したと言われる。)
高橋是清は外交も、経済も判る。
横浜正金銀行の仕事をやり終えると、日本銀行の副総裁となる。(45歳)
1902年日英同盟が結ばれる。

明治37,8年 日露戦争。(50歳)
日露開戦に備えるために外債を募集するが、英米はなかなか難しい。
イギリスの銀行家達から500万ポンド獲得に成功する。
ロシア陸軍はナポレオンまで破った国なので周りからは勝てないと思われていた。
是清はコミュニケーション能力が人並み外れていたんでしょうね。
アメリカのクーン・ローブ商会のジェイコブ・シフと知り合い、残りの500万ポンドを引き受けてくれる。
このお金無くしてロシアとは戦えなかった。
明治38年にロシアに勝ってポーツマス条約を締結、戦争が終結する。
領土はとれなかったので、国民の怒りなどもあったが、ルーズベルトの仲介で戦争を終わらせた。(終結の落とし所で、そのまま続けていたらどうなっていたか判らない。)
貴族院議員にも選ばれる。
大蔵大臣に何度もなる。
「1足す1が2、2足す2が4だと思い込んでいる秀才には、生きた財政は判らない」と是清は言っている。
岡田啓介首班の内閣にて6度目の大蔵大臣に就任の時に、軍の膨張主義を戒めて軍からにらまれた。
2・26事件が起きて高橋是清は狙われ暗殺された。
































2018年11月4日日曜日

千葉 繁(声優)             ・【時代を創った声】

千葉 繁(声優)             ・【時代を創った声】
64歳、千葉さんはアニメ「北斗の拳」での悪役やナレーション、アニメ機動警察パトレイバーなど多くの作品に出演されていますが、主役を支える名脇役として知られています。
TV,映画,舞台、ゲームと多くの場で活躍されている千葉さんのスタートはスタントマンでした。

「ハイスクール!奇面組」、一堂零役「機動警察パトレイバー」 などに出演するなど TV、映画、舞台などで活躍しています。
中学ぐらいからアマチュア無線をやっていました。
自分で作ったラジオで色んな放送を聞いていました。
運動が好きで体操部に入って、直ぐに屋上でバク転しろと言われて、なんとか成功して先輩達もほーっと驚きました。
集団就職をしました。(16歳)
寮生活をやっていて、ある友人が歌手になると言いだして、オーディションがあるからついてきてほしいと言われた。
ロビーにいたら、成田三樹夫さんから声を掛けられて、君も受けなさいと言われて、気が付いたら審査員の前で朗読していました。
一週間後に僕が受かっていました。(彼は落ちていました。)
俳優と歌手を養成しているところで、プロの現場を体感していないとだめだと思い、辞めることにして、週刊誌にスタントマンの募集がある記事を見て、電話して事務所に行きました。
バク転が出来ると言う事で、いきなり忍者の恰好をさせられてやることになりました。
忙しくてバイトもできなくなりました。
朝5時半に起きて歩いていたら、ヤギがおいしそうに草を食べていました。
その時には3日食べていませんでした。
ヤギの食べているものを食べてみたが、どうにも食べられなかった。
そんなに食べるものにも苦労した時がありました。
仲間内でお弁当を分けあって食べたりしていましたが、みんな同じような環境だったのであんまりつらいとか思わなかった。

たまに役をいただけて、或る時レンズを見るように言われました。
余り知識も無くて、勉強しなくてはいけないと思いました。
1976年の「ドカベン」で最初の声の仕事をしました。
芝居をもう一度 一から勉強しないといけないと思いました。
研究生として入れていただきました。
徐々に舞台、TV、映画の仕事を貰えるようになりました。
プロダクションを作る話があり、即参加してそれからTV、映画、コマーシャルとかありとあらゆる分野の仕事をやらせていただきました。
TVで洋画をやっていて、声優がやっていることを知りませんでした。
新劇の俳優がやっていることを知りまして、自分でもやってみたいと思いました。
オーディションを受けて、それが「ドカベン」のオーディションでした。
夕方電話がかかってきて、受かったとの事でした。

アニメーションは芝居が決まっていて、間の取り方とか画面に合わせなくてはいけなくて、大変でした。
舞台で体験した感覚をアニメに取り入れたらどうなんだろうと思って、勝手に台詞などを変えて入れていました。
先輩などから怒られたりしましたが、或る方が面白がってくれました。
アドリブを良く言うと言われるが、このキャラクターだったらこんなことを言うんだろうと思って考えながら言っていました。
やっているうちに監督さんとかプロデューサーさんたちから、この線もあるんだよなあと考えてくれるようになりました。
『ニルスのふしぎな旅』 1980年NHKで放送。
それから押井守さんの作品に次々に関わらせてもらいました。
人の財産は人との出会いだと思います。
「北斗の拳」 悪役としての声優
ざこ役にも一人一人の人生があると思うので真剣に思ってやりました。
ナレーションもやる様になりましたが、テンションが上がって倒れたりしました。
あまたいる役者の中からこれやっていただけませんかといわれると、こんな有難いことは無いので、誠心誠意やろうと思っています。
今頂いている仕事を目いっぱいやる、それでいいんじゃないのかなあと思っています。

才能は直ぐ花開くものではなくて、色んな刺激を受けることによって、内在しているものが少しずつしみ出して、或る時パッと開花するもんだと思っていて、好奇心を持って色んなものをなんでだろうと思って、どんどん遊んでもらって、自分の中に表現者としての引き出しにガラクタを持ってきて、そのガラクタは貴方の仕事を助けてくれるのでガラクタを大事にして貰いたい。
一本映画を作ってみたいと真剣に思っています。






























2018年11月3日土曜日

徳永進(医師)              ・"豊かな終わり"を見つめて

徳永進(医師)              ・"豊かな終わり"を見つめて
鳥取市の住宅街でホスピスを備えた診療所を開業しています。
病と戦う人達が最後まで豊かに過ごしてほしいと支えて来ました。
医師になって40年以上、多くの命の終わりに向き合って感じてきたことを伺いました。

家族は深刻な問題に向き合っているので、どうしたら肩の力を柔らかくなるかを考えます。
どうしても過緊張になると、良いものを産まない、痛みが強くなったり、睡眠が妨げられる。
過緊張をどうしたらやわらげられるか、「笑う」と言うことはいいことだと考えます。
末期の女性が這う様にしてトイレに行って、最期に間違ってウオシュレットのボタンを押してしまい、娘が大笑いして、本人もそれを見て笑って、笑える状態ではないにもかからわず、思いがけず笑わずにはいられないことに出っくわすことがある。

地元鳥取市の総合病院で20年以上内科医として勤務していました。
そこで出会ったのが死を目の前にしながら、必死に生きようとする患者の姿でした。
自分が死を迎えようとしている患者の、本当の支えになっていないのではないかという疑問でした。
53歳を迎えた時に、患者一人一人とその家族にじっくり向き合う治療を行いたいと診療所を開きました。
どれが正しいか決めるのが好きで、正しい方向をやろうとするが、一人ひとり会って見るとその人なりという感じで、その人に合ったパターンをいかようにでも持てた方が大事だと思いました。
片方で薬によるマネージメントをどうするか、必要ですが、痛みが和らぐ薬物以外を探すのも大切です。
治療だけで無くどうケアするのか、医療に対する考え方が変わっていきました。
ガイドライン、マニュアルなどあることで作法は救われるが、それだけで済まそうと思うと咀嚼できない。
じーっと聞いていると、患者さんの言葉がぼそっと出てきてそれには繕いが無い、不思議な力になる。
ガイドライン、マニュアルに従ったような言葉、上からの言葉は「1の言葉」と呼んでいるが、1の言葉は特徴として言葉に命が無いと言うことです。
自然な言葉は「2の言葉」に沢山あります。
しかし、ついつい1の言葉で走るんです。
「尊厳死」しか言わなかった患者が何が好きかと問うたら「ゆか」と孫の言葉を言って、孫が来た時、「ゆか お帰り、勉強しちょるか」と言ったんです。
これは2の言葉なんです。
2の言葉がどこかで出会ったりすると臨床が和らぐんです。

「死は豊かだ」→死は豊かでありたい、豊かととらえたいと思うんですが、死はあってはならないものというか、閉じふさぎたいものみたいにネガティブな言葉に置きがちだが、「そうなんだろうか」という問いを含んでいる言い方なんですが。
臨床に行くとそこで初めて死した人をみるわけで、人間の姿は生まれてから死体になるところまでをみんなが持っている。
認知症になった時でも、死も全体の中の一つの姿ですから。
死を前にした時の人の心の動きはとても真剣で、表情、言葉、心の動きは真実感あって見事だと思います。
お風呂に1か月以上入っていない末期の女性に対して看護師が髪、足などを洗ってあげようとして洗ってあげた後、暖かいタオルを顔に置いてあげて10~15秒してから、患者さんが「気持いい!!」と言ったんです、見事でした。
ここからここまでは治療、その後はケアと言うのではなく、ことの始まりからケアも治療も入り混じっている、と言うふうに思います。

自宅での緩和ケアを広める取り組み始めています。
今から半世紀前までは半数以上が自宅で亡くなっていましたが、今は1割程度です。
多くの人は慣れ親しんだ家で生を全うしたいと思っていますが、設備、家族の負担の重さから病院に頼ることになってしまうのが現状です。
人体、人間の命には別の命の仕組みの限界があって、ほどよい人数がこの人口の中では命を閉じてもらって行こうという仕組みが、CT、MRI、PETを越えてあるのではないかと思うんです。
全部を近代医療に期待することはできないのではないかと思います。

次は別の介護の方法があるが、そっちには意外と目が向かない。
庭の花が見える、孫がいる、近所の人の声が聞こえる、海、風の音、家の料理、香りなど
そういったものは表情も良くなって、死を迎えやすい支えになっている。
システムがよくなって訪問看護、訪問介護など介護保険の充実で様々な機器、資源を使えるようになった。
家で亡くなってうまく行ったと思ったが、しかし、娘さんが落ち込んでこられて、「私はなにをしたんでしょう」と言って来たんです。
「しまった」と思いました。
家族に迷惑をかけたくないと言う事があるが、少しぐらいの迷惑を与えたと言う思いが、或る程度あった方がいいのではないかということなんですね。
迷惑なしにしてしまうと、別な後悔が生まれるんですね。
残されたものの後悔を少しでも減らすには、社会資源を使い切ると言う事を目標値にしてはいけない。
人の死に、本人は勿論、家族、そばにいる人がどう死を見つめるか。

或る娘の介護の例、父が嫌いでしたが、1カ月の介護で父との向き合い方があったおかげで、父が好きになったんだと気づかせてもらえました。(死の豊かさ)
出来るだけ後悔しない為には、家族で意見を言い合い、死に参加してゆく、そうしたりすると死が自分の中で溶けて来る。  一緒に海にこぎ出そうという感じですね。
死の瞬間をこうありたいと言うことは絶対できない。  場所さえできないし、こればっかりは思い通りにはできない。
身体は一つの宇宙なので、自分たちの意志ではどうにもできない。
堂々と死を迎える力を見ていると、敬服します、人間もやるなあと思います。
死を前にするとほんとんどの人が誠実にそこの方に向かって行かれます。
命の回路が生まれる時からあって、或る時から死への回路があって、何処からその回路が始まるのか、そこが判らないところが面白い。



















2018年11月2日金曜日

斉藤隆(元メジャーリーガー)       ・【インタビュー明日へのことば】

斉藤隆(元メジャーリーガー)       ・【インタビュー明日へのことば】 
仙台市出身 、野球の名門東北高校に入学、甲子園に出場、東北福祉大学を卒業後、プロ野球横浜大洋ホエールズに入団、その後、アメリカメジャーリーグでドジャースを始め、5つの球団でマウンドにたちました。
東日本大震災をきっかけに、故郷の球団 楽天イーグルスに入団、チーム初の日本一に貢献、その後選手を卒業します。今は野球解説やアメリカを行き来しながら、メジャーリーグの球団でのアドバイザー業務に当たっています。
少年時代について、人生の節目節目でどのように向き合ってきたのか伺います。

仙台市若林区出身、東日本大震災で若林区は津波で大きな被害をうける。
アメリカのTVで若林区の津波の様子を見ました。
実家は幸いに大丈夫でした。
ひどかったのは父親の実家で、建物が根こそぎ無くなりました。
東京、大阪から特待生を取っていた学校だったが、我々の年は東北地区の人しか特待生を取っていなくて東北高校にしては珍しく地元の力で甲子園に行ったと言われていました。
高校時代はただただ8割がた野球の生活でした。
授業中は寝ていることもありました。
母からは2つ弁当を作ってもらっていました。
母は70代後半です。
母:心の優しい子でした。
  毎日手でユニフォームを手洗いしてから洗濯機に入れました。
  ご飯は1升5合釜で炊きました。(男3人兄弟 末っ子)

会社の方が家に来てリビングは職人さんの酒盛りの場でした。
2階は野球部の部室みたいでした。(兄弟が野球をやっていたので)
野球以外の選択肢が無かったような雰囲気でした。
父が少年野球の監督をしていて見て覚えた感じです。
甲子園には兄が行っていました。
東北福祉大学に進むが、ピッチャーに転向する。(監督の勧め)
やって見て駄目だったら辞めようと思いました。
想像の付かない展開がありました。
大学には佐々木のほか、上岡、矢野、金本、浜名、大塚などがいた。
後には監督になるような人もいて、凄い環境で野球をやらせてもらっていたと後で思いました。

卒業後プロ野球選手として大洋ホエールズに入団、先発投手として1998年の日本一に大きく貢献する。
36歳で大きな決断をする、アメリカのメジャーリーグに挑戦、ドジャースと契約してマイナーリーグからの出発だった。
その後5つ球団でマウンドに立つ。
メジャーリーグに飛び込んだ経験が今に大きな影響を与えた。
野球をやることに対する喜び、感謝が若いころ思っていたころとは違う感じがして、自分に残された時間がそんなに長くないと気付いて、メジャーリーグを目指して行こうと思いました。
スポーツカーに乗ったり家も建てたり夢が現実になるが、その恰好に対して全然活躍で来ていないギャップに埋まらなくなってくる。
虚しいと言うか、違うなあと自問自答が始まりました。(33,4歳のころ)
しかし、不安は感じませんでした。

日本でプレーしている時は相手は5チームでバッターのデータは全部揃っていて、やるべきことは決まっていました。
アメリカに行ったら僕のことを全然知らなくて、ぎりぎりボトムの所で楽しんでいました。
野球の楽しさを教わったのは、子供の頃とメジャー以外の中間は無かったような気がします。
出来ないことを楽しめるか、どうかだと思います。
メジャーに行くと出来ない事、人に対する尊敬の念とかも教わりますし、出来ないことがあって、よし次頑張ろうというシンプルで、そんな戦いなんです。
そういった事を知れて良かったと思います。
緊張する嬉しさがあり楽しかったです。
欠点、自分の苦手な部分と向き合う時間がもてない時は、本当に自分のいいところを理解出来ていないのと良く似ている話で、良いところだけで表面的に頑張ろうとすると、アスリートにとって一流にはりきれないところだと思います。
「楽しめ」とバッティングコーチ(メジャーで有名な選手だった人)に言われました。
アメリカと日本のスポーツの根底の概念が違うと凄く感じました。

引退して3年目ですが、色々見えてきてはいます。
「何故」を紐解いて行くと、判ったこともあるが、野球を支えてくれた方がたをこれからどうリスペクトしながら、新しいいいものといままで続いてきたいいものを、どんな形で継続して行くか、理想的な野球界になるのだろうが一番なんですが。
ゲームで13兆円が動き、MLB(Major League Baseball)が1兆円で、日本の野球は半分以下なので、どうしようかと思った時に、それは感動だと思います。
今後日本の野球界はどう進んでいくのか、どうなったとしても必要だと言われる人間になるために一生懸命スキルアップしています。
選手の年金が無いので選手の保証を上げたいと思いますが、僕の力ではどうしようもないので、頑張ろうと思いますが大変なところがあります。
ほんのちょっとでもいいから野球界の力になりたいと言う思いがあります。







































2018年11月1日木曜日

辻 哲夫(東京大学特任教授)       ・高齢者に安心な団地を目指して

辻 哲夫(東京大学特任教授)       ・高齢者に安心な団地を目指して
高齢化する千葉県柏市の豊四季台団地を安心して住みやすくする取り組みの話です。
昭和39年に誕生した豊四季台団地には首都圏で働くサラリーマンが暮らし、高度経済成長を支えました。
半世紀過ぎた今、高齢化率が40%となって次第に活力が失われてきました。
東京大学と柏市などでは医師会と協力して在宅医療を取り入れ高齢者が安心して生活できるようにし、更に高齢化が進む市町村の医療と介護ケアシステムのモデルにしようと、柏プロジェクトを展開しています。
辻さんはそのリーダーです。
これまで厚生労働省で社会保証制度作りに携わり、事務次官を退任してからは東京大学高齢者社会総合研究機構の特任教授して柏プロジェクトに取り組んでいます。

70歳ですが、ずーっといままで人生現役です。
日本は世界第一の高齢国で、65歳以上の人口が総人口に占める割合が世界で一番で、ダントツでトップで、今後も世界のトップを走って行くわけですが、これからどのようなことが課題かというと、75歳以上の人口が物凄く増えて行きます。
75歳ぐらいから身体が弱り始めます。
世界で経験したことのないことで、最終的には75歳以上の人口が総人口の1/4位になる時代が来ます。
団塊の世代は日本の経済発展の過程で都市部に移動し団地などで暮らしました。
団地の未来をどう考えるかが、一つの象徴です。
典型モデルが豊四季台団地という昭和39年に出来た大きな団地です。
そこがどのような町になっていったらいいのか、ということに取り組んでいます。
今後の日本のあり方を探っているのが柏プロジェクトです。

当時団地はサラリーマンの夢の住み家でした。
安心で活力があって良い街にしようという試みをしています。
東京大学の柏キャンパスがあり、緊密な関係になっていますので、柏で取り組み始めました。
柏市の元保健福祉部長の木村誠一さんとは、現職の時に一定の提案をしました。
モデル図を柏市に提案したが、私もいいと思ってURにも提案したが、まだ停滞していると言うことでした。
やっと私が目指した事に全国でただ一人やりたいと思っている部長に会い、感激でした。
木村さんとの出会いがプロジェクトの入り口になった訳です。
「エイジング・イン・プレイス」、自分が住み慣れたところで最後まで住み切ると言う概念。
世界の共通目標になっている。
弱ってくると病院に行って、日本では約8割の人が病院で亡くなっています。
理由は
①家族に迷惑をかけるから。
②医療上の不安がある。
医療は救急車で病院に行くしかないので、そこで寝たきりになり、施設とかでは多くて困ってる。
家に医師が来てくれれば、在宅介護ができる。
訪問診療の医療が及んでいないと言うことが非常に問題になっています。
在宅医療はどうしても必要で、どうするかが問題となる。
医療、介護もしっかりしたものを地域に埋め込んでゆくこと、このモデルを作ろうとしました。
5年計画でやりまして、現在動いています。
75歳以上の人が一杯いる社会では、一番大事なのは歳をとっても出来るだけ元気でいることだと思う。
東大で飯島先生の研究でフレイル(虚弱)をやっている。
歳をとって弱るのはなぜか、しっかり食べることが大事です。
タンパク質と野菜をしっかり食べる、そのためには口の機能(歯、飲みもく力等)を大事にする。
運動、社会参加、社会とかかわる接点を持つ。
最初に弱る兆候が見えるのは、社会とのかかわりが減り始める時なんです。
出かける回数が減る、友達が減るとか。
いかに社会とかかわるかという事を如何に長く持って行くようにするかということが、みんなが元気でいられると言うことがはっきりわかってきました。
一日一回以上でかける人は、1週間に一回出かける人に比べ、足が弱る危険度は1/4になると言う事。
認知症になる危険度は1/3.5と言う事が判ってきました。
閉じこもらない最たるものは、地域で働くこと。
秋山弘子先生は生涯現役を強く唱えています。
3人で一人分とか、6人で一人分とかで組んで、お互いに相談して、分担して働く。
農業、子育て支援(保育所、幼稚園のお手伝い)、施設での家事のお手伝いなど友達関係を持ちながら手伝う。
その普及に柏では取り組んでいます。
柏では地域で生きがいを持って働ける場所を作りだしている。
柏からいかに全国に広げていくか、厚労省が取り上げて動き始めています。

弱っても、安心、在宅医療が絶対の要件になります。
医師個人の力量に頼るのではなく、システムとして成り立たせる、そうなると地域の医師会が在宅医療を取り組む医師を、増やしてゆく方針を取っていかないといけない。
フォローする為には医師をグループ化してゆく必要がある。
医師の研修プログラムを開発して柏では普及していて、研修プログラムを全国にも紹介されています。
医師としては判断することが重要で、医師と他職種(看護師、ケア関係とか)が連携することが重要です。
連携システムは市役所がやる必要がある。
医師会と市役所が組んで初めて在宅医療が実現するんです。
モデルが柏プロジェクトで全国に知られるようになりました。
市町村と医師会が組む、これがこれからの医療のあり方です。
木村さんとは考え方がなにもかも一致しました、これも非常に幸運でした。
地元の医師会も理解があり、すんなり進みました。
システムなので何処でもやれるはずだと思います。

地域医療連携センターという建物があり、医師会、市役所の保健福祉部、他職種も入っています。
医師会館の移転の話があり、医師会と市役所が同じ場所を作ったら判りやすいと思って出来ました。
地域包括ケアそのものでした。
介護予防政策支援、要介護にならないようにする予防が大事。
これからは一人暮らしが多くなるので、段々買い物が出来なくなって、食べるものがおろそかになったり、ゴミ捨てが大変になったりするが、見守り、相談、困りごとの対応とか、こういうことに地域がきちっと対応出来るようにしていかなくてはいけない。
柏プロジェクトパート2、介護予防と、生活支援システムの整備のモデル化に取り組んでいます。
介護予防は閉じこもらない、コミュニティーで色んな役割を持って閉じこもらない生き方をする。
住民が主体になってコミュニティーを作っていくことが重要で、ようやく着手しました。
出会い、ふれ合い、支え合い、「あい」が最後にみんな付くので「3あい祭り」と言っています。
住み心地のいい、みんなが主役になれるような街作りをしようという方向にむかっていてそれがこれからです。

柏でも40万人の大都市なのでこういう仕組みがあることを知らない人達がいます。
「我が家」という在宅医療の一枚の新聞ですが、柏で全国配付していますが、読んでいる人はそう多くはないと思います。
市民に情報が到達すると言うことは、本当に大変なことですが、一番大切なことだと思います。
日常生活圏(30分で歩いて動けるようなコミュニティー 中学校区単位)の地域ごとに色んな事が整っていないと、安心して過ごしていけないので、日常生活圏単位にそういうものがちゃんとできると言う方向に向かわなくてはいけない。
厚労省では生活支援体制整備事業、見守り、相談、困りごとの対応が出来るような圏域ごとにたすけあいの体制を作りましょうと言う事業がある。
2025年に向けて体制を作って行こうと言うことがどういうふうにできて行くのか、今後の大きな課題です。
「老いては子に従え」という言葉があるが、それはこれからは間違いで「老いてもまず自らが自らのことを考える」そういう時代が来たんです。
先ずは自分が弱らないような努力をする、それと合わせて自分の行動範囲が狭くなるので、地域で自分が何ができるかという事を考える。
地域で仲間ができる。
人生は職場の肩書だけで過ごすには長すぎる。
仕上げは地域に戻って、自分が自分として地域の中で生きる、これからはそう言う社会ではないかと思う。

柏プロジェクトで得たことを論理化する、最初の5年に関しては本を出しました。
次の5年のものも書籍に出したいと思っています。
モデル化して転用できる、それを参考にして自分たちがもっと良い物をつくろう、というような中身の仕事をちゃんとやって行くことが大事だと思っています。
未知の超高齢者社会に対して、新しい方向を出してトライしないといけないと思います。